大崎善生

 

パイロットフィッシュ アジアンタムブルー    

パイロットフィッシュ 2004年4月6日(火)
 「人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない。・・・人間の体のどこかに、ありとあらゆる記憶を沈めておく巨大な湖のような場所があって・・・忘れ去っていたはずの記憶が、湖底からゆらゆらと浮かび上がってくる・・・それに手を伸ばす・・・」冒頭のこのイメージが作品を貫いているキーだ。
 ある日突然、学生時代の恋人から電話がある。彼女との出会い、ともに過ごした日々、別れ・・・。そんな記憶と、現在の若い恋人や職場のこと、それらが作品の中で交錯し、どこかでまた結びついたりする。部屋の熱帯魚の水槽や2匹のチワワが効果的にシーンを作り出してもいる。「パイロットフィッシュ」というのは、水槽を設置した時いちばん最初に入れる魚のことで、これで水槽の中に健全なバクテリアの生態系を作るのだそうだ。
 手を伸ばせばいつもそこにいるが、決して再び触ることはできない。ちょっと切なくじわんときて、イメージの印象的な物語だった。吉川英治文学新人賞受賞作。将棋の「聖の青春」でも有名になった人だ。

アジアンタムブルー 2006年10月28日( 土)
 恋人を失った山崎隆二は、会社を休んでデパートの屋上で、しおれ始めているアジアンタムのように憂鬱な時間を過ごし、彼女の不在を確認しては、巻く余地のないゼンマイをきりきりと巻き上げていた。
 水たまりの写真を撮り続けている写真家の葉子は、山崎が編集するエロ雑誌で人気のSM女王ユーカから面白い子がいると紹介された。巣穴に逃げ込んで顔だけ出して相手を観察するような似たものどうしの二人は、すぐ愛し合うようになった。
 以前読んだような気がしてわかったのだが、山崎隆二は「パイロットフィッシュ」の主人公で、この作品では学生時代と四十台を描いた前作の間、三十台となっている。「アジアンタムブルー」という言葉も前作で説明されていた。この作品は、葉子の末期癌が発見され、ニースで死を迎え、一人になった山崎が憂鬱の底から立ち直っていく過程を描いたもので、読んでいてジワッと来るものがある。
 ただ、子供時代の文鳥、中学時代の万引き、高校時代の美術部の先輩といったエピソードや、デパートの屋上で同じように屋上で過ごす女性との出会いは、主人公の心の傷を強調しているのだろうが、どうなるんだろうと思って読んでいるとどうもならず、メインストーリーとはそれほど関連しない。葉子自身も、もう一人の主人公というよりは、山崎の感傷の素材でしかないようにも思えてくる。どうも、男性作家の純愛小説というものには男の自己満足が見えてしまう。なにか底が浅いようにも感じられるのだが。
 「僕は葉子を失ったことで、本当にこの手にしっかりと何かを握り締めなければいけないのだ。しっかりとした何かを得て、生きていかなければならないのだ。アジアンタムが憂鬱の中から甦っていくように。そして甦ったアジアンタムことが強く根を張り巡らすように−。憂鬱の中からしか、掴めないものがある。それを、この手にしっかりと掴むのだ。」