中山可穂

猫背の王子 天使の骨 白い薔薇の淵まで サグラダ・ファミリア[聖家族]

猫背の王子 2004年3月5日(金)
 以前読んだ「天使の骨」の前作。この作品では、劇団「カイロプラクティック」の座長、演出家、作家、女優としての王寺ミチルの姿が描かれている。ほんものの少年より少年らしく見え、女の家を泊まり歩き、何よりも舞台に命をかけている。そんなある日、公演を前に主演女優が抜け、さらにともに劇団を立ち上げた仲間 がこの公演を最後に抜けようとしているという噂を聞く。
 裏切りに対する憎悪を抱えながら、最後の公演に向けて集中していく様子と、舞台の高揚感が素晴らしく描かれている。 「性別も年齢も国籍も持たぬ生き物が舞台で息を吹き返し、この邪悪な世界を滅ぼしにかかる。そこで初めてわたしはわたし自身になることが出来る。わたしは毒を注がれて狂った花だ。わたしは凶熱の孤独にふるえる一匹の蛭だ。」
 この人の作品は、作家自身の憧れを投影したものじゃないかと思っていたが、実際劇団をやっていたことがあって、この作品は「青春への(芝居への )訣別の辞」だそうだ。 青春の輝きと激情に満ち溢れていて、どんどん引き込まれていく。命と同じぐらいの価値を持っている劇団を失った喪失感は、続編の「天使の骨」でより深く描かれている。

天使の骨 2003年10月7日(火)
 主人公ミチルは、少女たちの間にカリスマ的な人気を誇る劇団の座長、主演女優、戯曲作家。しかしその劇団を失い、最低限の生活を送るなか、天使の姿を見るようになる。この天使は、果たして死への願望の投影なのか。現実とのしがらみやこの天使の幻視から逃れて、ミチルはヨーロッパへ旅立つ。
 この小説は、登場人物の設定だけでも充分成り立っているが、ロードムービー的なおもしろさも加わって、青春を痛切によみがえらせてくれる。何もかも捨てて南の島へ行って消えてしまいたいと思っても、結局は2週間北海道をうろついただけだったりした。「劇場は、人生より美しい。そうだよねフランソワ?」「その通りだ。あそこには永遠があるんだ」そして、これは小説と憧れの中だけで存在し続けるものなのかもしれない。
 この作品は、前作の後編のようだが、先に前作を読んでいたら、主人公のギラツキが鼻についてこちらは読んでいなかったかもしれない。若い女性に人気があるようなのでもっと若い作家かと思っていたら、そうでもなかった。

白い薔薇の淵まで 2004年12月24日(金)
 辛口の評論家に褒められた本をたまたま深夜の書店で見つけたものの、持ち合わせがなくて棚に戻したら、「その本、買わないんですか?」と見知らぬ女性に話しかけられた。外に出たら雨が降り出し、その女性に傘を借りて、買った本に連絡先を書いてもらった。後で見たら、その名は作者の山野辺塁だった。こんな出会いから二人は激しく愛し合うようになる。
 山口可穂の作品の魅力は、とびっきり魅力的な主人公。ピュアな少年でかつ淫乱な女、繊細な感性の天才であり狡猾な悪魔でもある。「半熟卵って、何分ゆでればいいんだっけ?」と猫のように擦り寄り、「人は人を踏み越えて前に進むんだよ」と去っていく。
 そして、情念の激しさと深い喪失感。レズビアンの性愛小説には違いないが、青春の愛と憎悪が生々しく伝わってくる。

サグラダ・ファミリア[聖家族] 2007年2月9日(土)
 2年前に去っていった恋人の透子から「男の子が生まれた」と電話があった。パリとスペインに留学した響子は、透子と出会った頃はスペインものを弾くピアニストとして名前が知られ始めていたが、透子と別れた後、ある事件のため左手の小指に後遺症が残って今は披露宴やレストランで演奏するただのピアノ弾きになっていた。透子と再会すると、子供の桐人はパリで日本人のゲイのピアニスト崩れに迫って作った子供だった。再び透子と会い始めて2年、突然陶子は自動車事故で亡くなった。酒浸りになっていた響子だったが、桐人を残して死んだ透子をピアノで癒したいと思うようになる。桐人の父親の恋人だった美容師の照ちゃんによると、桐人は親戚の間をたらい回しにされているということだった。桐人がなついているゲイの照ちゃんと、ビアンで子供嫌いの響子。永遠の恋人が亡くなった後、新しい生が始まっていく。
 中山可穂の作品はおもしろい。恋愛のユートピア小説と言えるのかもしれない。そして、音楽、美術、文学などのセンスへのこだわり。
 「愛のように、祈りのように、赦しのように、癒しのように、透子はつねにわたしたちとともにある。そのひとの澄んだ目のある限り、わたしたちは家族だ。」