松浦寿輝

もののたはむれ 花腐し あやめ 鰈 ひかがみ  

もののたはむれ 2005年9月9日(金)
 14の幻想的な掌編からなる作品集。主人公たちは、見知らぬ町を歩くうちに不思議な空間に入り込んだり、不思議な体験をしたり、あるいは記憶の移ろいに戸惑う。「不思議」という言葉を安易に使ったが、別におもしろいミステリー集というわけではない。夢とも現ともつかない、感覚の揺らぎを味わう感じ。夏目漱石の「夢十夜」 のようなものか。
 口の中でこもるような重い文章体の、久々にペダンティックな文体。作者は東大教授にして、詩人、評論家、小説家。超秀才なのだろうか、それとも天才なのだろうか。ただ、ポエティックかと言われれば、それほどでもない。

花腐し 2005年11月16日(水)
 デザイン事務所の共同経営者の友人に裏切られ、倒産寸前の栩谷は、金融業者に新宿歌舞伎町裏のボロアパートに居座り続ける伊関の追い出しを頼まれる。 膨大な借金を抱えて、廃墟のような一室で、パソコンでマジック・マッシュルームを売っている伊関に誘われるままに飲みながら話し、同時にかつて一緒に暮らしていた祥子の追憶にふけるうち、雨に打たれて腐りぼろぼろ崩れていくような感覚に落ちていく。芥川賞受賞作。
 「ひたひたと」は、「もののたはむれ」の続編のような作品で、中年男榎田が、少年の日に戻ったり、若者に戻ったりしながら、かつての遊郭街洲崎の迷路のような路や運河沿いの堤防をさすらい歩く。
 生きることなどどうでもよくなるような徒労感の中で、記憶と空間が交錯し、生を蝕んでいくような独特の暗い世界が印象的だ。

あやめ 鰈 ひかがみ 2008年11月30日(日)
 「あやめ」:木原は信号の変わりかけた交差点で、車にはねられ路上に叩きつけられた。どうやら死んだらしいがゆらりと立ち上がり、十何年も無沙汰している斐川と待ち合わせた上野の凮月堂へ行くが、斐川は来なかった。木原は、実家の跡地に建っているビルで「あやめ」というスナックをやっている幼馴染みの美代子に会いに行く。
 「鰈」:土岐は、築地で買った鰈の入ったアイスボックスを引きずって地下鉄に乗っている。泥酔状態だ。昔住んでいたアパートで仲の良かった下村老人からみんなで会おうよと電話があったのだが、アパートは閉ざされて誰もいず、電話もつながらない。そして、誰もいない地下鉄はいつまでも止まらず走り続けている。
 「ひかがみ」:施設でなくなった父の友人だった下村老人の葬儀からの帰り、真崎はスナックの珠美に声をかけられたが、家で妹のタマミが待っているので廃業間近の鳥獣店の家へ帰る。寝ていると、いつの間にか珠美が家の中に入っている。
 おそらく三人とも既に死んだ人間、死んだ人間が魄となって過去の幻影と対峙しながら暗黒の夜の街をさまよう。そして、木原はすべてを肯定することの幸福感に子供のように泣きじゃくりそうになり、土岐は後悔することなど何もないという思いで灰色の空虚へ足を踏み出し、真崎は何かが怖いとい感覚を失って闇の深いほうへと歩いて行く。
 これまで3冊読んだ作品の中で、一番おもしろかった。木山捷平文学賞受賞作。