星野智幸

目覚めよと人魚は歌う 最後の吐息 ファンタジスタ 俺俺

目覚めよと人魚は歌う 2005年1月12日(水)
 日系ペルー人のヒヨは暴走族との抗争で相手に重傷を負わせ、恋人あなの親友のネット仲間にかくまってもらうことになる。その伊豆の駅から離れた台地に建つ家には、丸越という中年男性と 、糖子と密生の母子が擬似家族として暮らしていた。糖子は密生を残して蒸発した、恋人密夫の幻とともに屍のように生きている。ヒヨはペルーにいた自分、日本で生きている自分、そして今逃げている自分がつながらないと感じている。こうして5人の暮らしが始まり、ヒヨの生と糖子の生が一瞬触れ合う。
 ちょっと難解な作品。日系人社会や、ネットを介した擬似家族や、わが子にさえ嫉妬するほど男を愛した女が問題なのではない。ヒヨを中心に読むか、糖子に焦点を当てるかで、見方が変わってくるだろう。阿部公房の「砂の女」みたいな感じなのかなとも思うが。三島賞受賞作。

最後の吐息 2006年2月2日(木)
 メキシコに滞在している真楠は、日本から送られてきた新聞である作家が死んだことを知る。それ以来重力感覚の異常に悩まされるようになり、日本にいる恋人不乱子に手紙を書くと、「読まずに彼の損失を嘆くことができるでしょうか 」という返事が届く。真楠は不乱子に宛てて小説を書いて送り始める。それは蜜雄という青年がメキシコで見つけた金の魚細工に見せられて、メキシコへ渡り、恋人と知り合い、ゲリラのクーデターに巻き込まれていくというようなものだった。ハチドリ、ハイビスカス、水、魚といったイメージが何度も出てきて、ストーリーにもあまり意味があるとは思えないので、読んでいて非常に退屈だった。文藝賞受賞作。
 「紅茶時代」もメキシコを舞台にしているが、紅茶をモチーフとして夢のように物語が突然転換して展開していくので、「最後の吐息」以上にストーリーを追うのは無意味で、読んでいて水の中で 息ごらえをしているように苦しくなってきた。2つの作品に共通しているのは、言語イメージと感覚イメージを縒り合わせたような文学空間というものが感じられるということ。 ただそれが同じイメージの反復で、密室に閉じ込められたような気持ち悪さを感じた。

ファンタジスタ 2006年6月2日(金)
 「砂の惑星」:新米の新聞記者喜延は、小学校で起きた求職での集団無差別殺人事件を取材していたが、ホームレスの記事に触発されて森の中の歩くうち、一人芝居をする老人を見つける。それはドミニカ移民の苦難を歌うものだった。
 「ファンタジスタ」:サッカーがフットボールと名を変え、ほとんどの子供がフットボール教室に通わされる社会。わたしもフットサルにうちこみ、考え事はリフティング占いに任せてしまう。そんな社会を作ったフットボールのかつてのスーパースター長田が最初の首相公選選挙に立候補した。同居しているリョウジはフットボールを嫌悪し、選挙も棄権するつもりでいる。
 「ハイウェイ・スター」:渋滞する高速で知り合ったU作に紹介されたアルバイトは、穴を掘っては土を運ぶというものだったが、完成したその穴は汎モンゴロイドの共存共栄を目指す「新天地」だった。
 幻想的というわけでもないし、ハチャメチャというほどでもない、アンチリアルな作風。文明批評的なモチーフは、果たしてこの作家のあるいはこの作品の主要なテーマなのか?野間文芸新人賞受賞作。

俺俺 2013年7月28日( 日)
 マクドナルドで隣の席にいた男が俺のトレーに携帯を置いてしまい、俺はそのまま持って立ち去った。捨てようと思ったら、その大樹という男の母から電話がかかってきた。適当に話をしているうちに、はずみで百万円振り込ませることになった。何日かして仕事からアパートに戻ると知らないおばさんがいて、大樹の母だという。翌日「母」のあとをつけて家を訪ねると、そこのアルバムには俺が映っていた。ついでに久し振りに実家を訪ねると、そこには「俺」均がいて追い出されてしまう。そして俺は会社でも大樹になっていた。俺と同じように実家を訪ねて追い返された学生と三人で会うと、同じ俺だからすべてシンクロしてしまうのだった。学生のアパートを「俺山」と名付けて、三人で集まるようになる。しかし、その後会社の上司も同窓生もみな俺になっていった。そして、町中が俺であふれるようになっていく。
 最初はおもしろSFファンタジーという感じだが、「俺」が増殖することで恐ろしい事態へ進んでいく。俺俺詐欺から始まっているが、自己の存在の意義を問う問題作だ。大江健三郎賞受賞作。