平野啓一郎

日蝕 一月物語 決壊 ドーン
ある男      

日蝕 2003年10月29日(水)
 京都大学在学中の学生による、最年少芥川賞受賞作として話題になった作品。舞台は15世紀のフランス、主人公はカトリックの修道士である。その雰囲気を出すためか、やたらと古い漢字の多い、擬古文調の文体である。その漢字にルビが振ってあるのだが、2回目からはないので、前のページに戻って読み方を探すことになる。とにかく難読な作品である。
 主人公は、キリスト教の腐敗を憂い、異端が民衆に受け入れられる背景を知るため、異教徒の哲学(ギリシャ哲学)を研究しようと、パリからリヨンへ旅し、そしてフィレンツェを目指すのだが、その途中ある錬金術師に会うよう助言され、小さな村を訪れる。クライマックスは、一種の神秘体験というようなものだろうか。荒巻義雄の「神聖代」を思い出した。このクライマックスが作者の書きたいことだったとしたら、難読な文体も宗教論もただの書割でしかない。作者は二元論的対立の統合をセックスに見出すよう志向性を持っているのかもしれない。だとしたら、くだらない。

一月物語 2004年9月28日(火)
 熊野の山中に立ちつくす青年がいる。時は明治、彼は井原真拆、学生にして新進の詩人でもある。神経衰弱に悩まされ、旅に出ようと思い、駅で出会った美しい女性が話していた言葉に誘われて吉野を訪ねる。しかし、列車の中で怪しげな老人に話しかけられているうちに乗り過ごしてしまい、共に熊野を目指すことになる。しかし、宿で寝過ごしてしまい一人歩く中、列車の中で老人が掌の中に捕らえた揚羽蝶と同じ蝶に誘われて道を迷っていたのだ。山道をさまよう中夜になって、赤い目に襲われて傷を負い倒れてしまう。気がつくと山中の小屋にいて、円祐という坊主に救われていたのだった。そこから、夢と現を行き来する時間が始まる。
 芥川賞受賞作の「日蝕」同様、不必要なくらい旧漢字を用い、異様な世界を作り上げていて、今回は泉鏡花の「高野聖」を思わせる幻想的な雰囲気をかもし出している。しかし、前作と同様二元論といった形而上的なテーマを掲げているが、愛と死の同時生成による二元論の克服といえば聞こえはいいが、形而下的で下卑た結末は前作と同様。ただの色情狂の幻想である。ルビをすぐ忘れてしまうのでなかなか読み進まないが、後半に来ると急にページが進むのはそういうわけである。肝心の部分に来ると、文体が破綻しちゃうんだ。編集者でさえ果たして読めるのかと思うような漢字を使って、何を書きたいのだろうか。じゃ、文学はその中味、社会性とか哲学性とかで判断されるのかと問われれば、いやと答えるしかない。しかし、構えと飾りばかりの作品は寒くて空々しい。擬似文学とでも呼べばいいのだろうか 。

決壊 2011年2月21日(火)
 沢野良介は、宇部の化学薬品会社に務めるサラリーマン。妻の佳枝、息子の良太とともに小倉の実家に帰省すると、父の様子がおかしい。遅れてやってきた兄の崇は鬱病だから病院で診てもらうように勧めるが、母や良介は反発する。崇は子供の時から優秀で、今は国会図書館に務め、複数の女性と付き合っている。佳枝は良介に隠れて崇にいろいろ相談していた。良介は、ネット上に仕事、家族、崇への不満を日記に書いていた。互いの大阪出張で崇と会った後、良介が戻らなかった。そして、バラバラ死体で発見された。佳枝は最後に会っていた崇を疑い、崇は警察の取り調べを受ける。悪魔を名乗る犯行声明文から、事件は世間を騒然とさせた。
 ミステリー仕立てだが、謎解きがあるわけでもない。家族の問題、犯罪被害者と加害者の家族の問題、ネットの危険性、形而上的な議論、と盛り沢山で一体何がテーマなのかと思わなくもないが、そういうことは別として読んでいておもしろかった。芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞作。

ドーン 2012年10月2日(火)
 近未来、人類は火星探査を果たし、日本人宇宙飛行士佐野明日人はヒーローになっていた。しかし、この成果には秘密が隠されていた。明日人と妻今日子は東京大震災で息子太陽を失い、医師だった明日人は突然宇宙飛行士を目指すようになっていた。社会は監視カメラがネットにつながって誰でも行動を見ることができる《散影(divisual)》に覆い尽くされ、一個人(individual)が状況と対人関係で複数の《分人(dividual)》を持つと言われていた。世界には領土を持たない国家《プラネット》が成立し、東アフリカでは国家が消滅して内乱状態になり、アメリカが民間企業を使って不毛の参戦を続けていた。そのアメリカでは、大統領選挙が行われ、民主党は巨額の費用を投じた火星探査や東アフリカ参戦を非難し、共和党副大統領候補の娘は宇宙飛行士の一員だった。そして、アメリカ各地で《ニンジャ》と呼ばれる新種のマラリアによる死者が出ていた。
 盛りだくさんで何がテーマかと思うとぼやけるところもあるが、エンターテインメント性のあるSF小説として読めばかなりおもしろかった。Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞作。

ある男 2022年3月31日(木)
 宮崎県のS市で文房具店を営む里枝が再婚した夫・谷口大祐が事故で亡くなり、連絡を受けて訪れた夫の兄・恭一は遺影を見て、別人だと 言った。弁護士の城戸章良は、かつて横浜に住んでいた里枝が離婚する際調停にあたっていて、相談をもちかけられた。DNA鑑定や戸籍整理の手続きを済ませた後、谷口大祐になりすました男”X”の正体を探ろうと、恭一から教えられた大祐のかつての恋人・後藤美涼に会う。
 最終的に戸籍売買に行き着くのだが、加害者家族、在日朝鮮人、夫婦・親子の問題などが絡んで、単純なミステリーではない。読売文学賞受賞作。