2013年6月




いつもながら


月日の流れの速さを


日々感じながら


それでもその早く短く感じる時間の中


ゆっくりと変化している自分を


感じているの


昔はどんなに些細な事であっても


頑張りすぎてしまって


カラ回りしながら


何でこんな事も出来ないのだろう・・・って


落ち込んでしまったり


自分のできない部分を


改めて拾い集める時間が


多かったのだけれど


ふっと気がつくと


なぜ今まで自分の人生に


特に必要性を感じない事に


多くの時間を注ぎ


本当に必要な事に時間を


注いでこなかったんだろって


ちょっと見つめる角度が


変わっていたの


私はあらゆる部分で


人が当たり前に備わっているものがなかったり


人が当たり前にできる事が


できなかったりするのを感じる事が


多かった事もあって


まずは人と並べるくらいになりたいという思いから


100歩くらい後ろから


いつも人に追いつこうと


頑張ってきたのだけれど


その事で自分が本当にしたい事や


できる事を見つめずに


していたように思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


それゆえに


いつも誰といても


自分のだめなところを


ピックアップする機会となっていて


人といる事があまり楽しく


感じない事もあったの


でも最近は


勝手に自分の中で


「私はこの地球での暮らしが初めてなのだから


全てが初めてで


わからなくって当然


できなくって当然」(笑)って


自分だけの中で


自分をできるだけ楽にしてあげているの


ちょっと不思議な方法ではあるのだけれど


意外と私には効果があるようで


人からこんな事も出来ないの?とか


思われるんじゃないかなって


前ならば変なプレッシャーを


感じていた部分が少しずつ消えているようで


心が軽くなっているの


その事で前ならば躊躇していた事にも


チャレンジできるようになって


私の小さな世界に広がりが生まれているの


そして良く最近感じる事なのだけれど


人って意外と


自分が思っているような瞳では見ていなくって


まっすぐにわからないことや


できない事を伝えると


ばかにすることなく


親切に手を差し伸べてくれる人も多く


出会いの奇跡を


改めてありがたく感じる事も多いの


自分だけの経験では


あまりにも小さく知らない事も多いけれど


出会う人が多ければ多いほど


その方たちの経験や繋がりから生まれる


新たな世界もあったり・・・


今まで自分の劣等感やコンプレックスから


その事を悟られないように


無意識にその様な部分が過剰になっていた事で


周りがその時々のタイミングで


私に与えてくれようとしていた大切なヒントや愛情を


私が知らず知らずに


拒絶していた部分もあったのかなって


感じていたり・・・


そんな部分を感じるたびに


私のそういう部分って


両親にそっくりだなって


感じたり・・・


私の両親が若い頃は


今とは違い逆に


自慢できる経歴を持つ方も少なく


劣等感やコンプレックスを悟られないように


誰から見てもわかりやすいものにこだわたり


自慢される方や


人にばかにされないように


自分の実力以上の自分に


演出して過ごされていた方も多くいたから


その世代の方は


知らない事もわかっているふりをしたりしながら


自分で苦労しながら


色々な事を学んできたという


流れがあったけれど


今の時代は多くの方が


普通だと思っているレベルも高く


備わっていないものの方が少なく


情報も溢れていて


多くの方が自分の心惹かれる事には


とっても詳しく


それ以外の事は手放してゆく事を


学び時代だから


ある意味で知らない事・できない事があっても


その事を隠さなくっても


人々との繋がりによって


不足している部分を


互いに満たしあえる時代なのだと思うの


それぞれの方が学び歩んできた道の上で


受け取ってきたあらゆるものを


誰かのために生かし合う事が出来る


素晴らしい時代なのかなって


感じているの


この間


親友が長年勤めていた職場から


別の職場へ行こうかどうかを


私に相談してくれたのだけれど


その話を実家に帰った時話していると父は


「お前のように何の経験もない奴に


相談する○○も


何の相談にもならんだろう


お前らはいいコンビだな(笑)」って


表現していたけれど


確かに私もいつもそう感じているの


私は学歴・職歴なども


人よりも経験がなく


共感できる部分が少ないのに・・・


そんな時母が


「○○はあんたに現実的なアドバイスを


求めてはいないのよ


長年あんたと付き合っていて


○○も自分の事を大事に


考えてくれる人だと知っているから


自分にとって良い方向に導いてくれると思って


最後にあんたの答えで


決断しているんじゃないの」と


伝えてくれたの


その言葉を聞いて


何でもそうかもしれないけれど


時には経験以外にも


相手にとって


心の力になれる事も


あるんだなって感じていたの













私が独身の頃


何気ない会話の中で


旅行の話になって


その頃修学旅行で誰もが言っている場所の事で


話しが弾むはずだったのに


私が行っていない事を知った


周りの方が私に何となく気を使い


そういう話をしなくなった事があって


せっかく楽しい思い出話だったのにって


何だか私も申し訳ない気持ちになった事があったの


私はみんなの話を聞きながら


なんかいいなって思い


その当時の仲良しの友人3人に


「修学旅行ってどうだった?」って尋ねると


楽しそうに聞かせてくれて


行っていない事を知った友人たちは


そのあとに


「同じ思いで作るために


みんなで旅行に行こうよ」って


言ってくれて


次の月には


多くの方が体験した修学旅行コースを


みんなでまわったの


その事は今でもとっても嬉しく


幸せな想い出になっているの


若い頃の友人って


お互いに若く自分個人として


人生を満たしている時だから


自分の思いを大切に


何も恐れず純粋で


大切な友人のために


何ができるかを


お互いに考え過ごしていたように思うの


過去の事を思い起こしている時


いつも感じるのは


若い頃


怖れずに純粋に


自分が出来る事をいつも考え


大切な人の力になれた時


とっても嬉しかったり


まっすぐに行動できていたのは


きっとこの世に送り出される前にいた


天界で人間として大事なことを学び


まるで学校を卒業するように


天界から学びを終了し


地上に舞い降りて間もないから


その記憶がまだ強く


働いているからなんじゃないかなって


感じていたり・・・


でも地上で過ごす時間が長くなると


瞳に映るわかりやすい損得にとらわれ


自分が出来る事もしなくなったり


与える事よりも


受け取る事に意識が向かったり・・・


言葉では上手に表現できないのだけれど


もしも天界での学びという


システムがあるとしたら


今現実として見ている世界で


得だと思える事が少なかったとしても


それが本当に得が少ないかは


また別で


すべては自分のために


何かの器を満たしている機会だとすると


わかりやすい形での損得では計れない


ある意味大きな得なのかなって


感じているの


漠然とした世界以外でも


現実の世界では


誰かに与えてもらった愛情が重なった記憶は


受け取った方の


人生を深く強く支えていたりして


何度も何度も思いだされては


感謝されている事もあると思うの


そして愛情を与えた方も


過去の自分に誇りを持ち


その過去の自分が今の自分を肯定してくれる


助けとなってくれていたりすると思うの


人は成長が進むと


その時は気づけなかった事を


ひとつずつゆっくりと


わかるようになってきて


誰に裁かれなくっても


自分が自分を裁き


責めてしまう事もあると思うの


まだ成長途中では


思いだす事も恥ずかしく忘れてしまいたい事で


溢れているけれど


その多くは知らずに気づかずに無意識に


そうしてしまっている事も多いから


自分も周りも許してあげられると思うの


でも進化のステージを進んできてからは


自分が大人の思考から


時には真実とは違う


選択してしまいやすい場面も多く


それが後になってみると


自分を責めてしまうような答えを


選んでしまわないようにする事って


相手のためと言うよりは


自分のためにも


とても大切なんじゃないかなって


感じているの


私たちはみんな


心というセンサーが備わっているから


何が自分にとって正しいかは


心の感情として


私たちに教えてくれているから


その意味や理由がわからなかったとしても


自分が感じる感覚は


自分にとって大きな意味があるから


人の価値観などを重ねながら


選択しない勇気も必要なのかなって


感じているの


たとえば人が集まるところでは


よくあることなのだけれど


ある方が好きになれない相手の事を


みんなで共感し


自分の価値観や人への判断能力などを


周りにも自分にも説得力を持って


語られる方がいるのだけれど


私は昔から


自分がそう思わない相手だった場合には


「え?あの人凄くいい人だよ」などと


つい表現してしまい


その場の空気感が重くなり


変にその相手がそんな人ではないという事を


説得される時間が流れる事が


よくあったり


時には私の人格否定にも近い


流れが出来たりする事もあったのだけれど


その事で流されずに


自分の思いを大切に


自分の魂が求める人との繋がりを


大事にしてきた結果


今も長く繋がりあう友人や知り合いが


いてくれる事を思うと


人の価値観に振り回される事なく


自分の中の真実に


心を傾け過ごす事の大切さを


改めて感じる事があるの


そうなれたのも


昔とても近くにいる人で


人を見て態度を変える事なく


自分の思いを伝えている人がいて


その人に憧れてからなの


どんな場面でも何となく


多数決的なものがあって


多数意見に歩み寄っていた方が


何となく穏やかに過ごせるように


感じる事もあるけれど


人間って自分の意識的な感覚とはまた別に


誇り高き魂が判断する事ってあって


面白い事に


自分の意見や考え方と違う事がっても


相手が明らかに正義感や大きな勇気から


行動している人に対しては


魂がその人の素晴らしき資質を受け入れて


言葉にはしなくっても尊敬したり


深く信頼できる人間として


縁を持ちたいと感じたりするものだと


思うの


なので必ずしも


同じ価値観や意見ではなかったとしても


勇気を持って行動する事で


人生を照らし合う関係を築いてゆける


ソウルメイトと出会う事ができたりも


すると思うの


私が憧れた人はまさにそうで


その場の空気に流される事なく


自分の思いをどんなときにも


表現できる人で


私とはあらゆる部分が違ってはいたのだけれど


私がこうありたいと思う事を


実現している人だったから


年は下だったのだけれど


尊敬とあこがれから


仲良くなれていたの


ただ私たちは無意識に


自分の価値観や意見の正しさを


過剰なまでにアピールしたり


説得力を持たせるために


たくさんの人も言っているとか


専門的な知識のある人たちが・・・など


話しがどんどんずれてきて


気がつくと


内容よりも自分から溢れる考え方や


価値観を周りの人や


自分に認めさせることに


必死になっている


自分に気づかされる事も


あるけれど


人は誰でも心のどこかで


自信を持てない部分や


人に認められたい思いがあるから


自分の中だけで納得しているだけでは


つい不安になってしまい


その様に行動してしまう事もあると思うの


なのでそうしてしまう自分も周りに対しても


許してあげる思いを


育む事も


人との関わりの中では


大切なことなのかなっとも思うの


私たち人間は


自分と他者の違いにふれながら


様々な事を学び過ごしているけれど


人間すべてに備わっているものには


そう違いはなく


その方それぞれの環境や体験からの学びや


その時々の気分で


働いている領域の違いによって


とてもかけ離れた価値観を持つ人に


映ったり


理解できない人に感じたりもするだけだったり


学びタイミングや進化速度の時期もあって


わかりあえない時があっても


備わっているものには


そう違いはないのだと思うの


そして何が正しいのかは


それぞれの中の真実があるから


私たち自然に自分の中の真実に近いものを


秘めている事を感じた人たちと


同じ時間を共に過ごす事で


深い安心感を感じあっているのだと


思うの


そう感じられるのも


表面的ではあっても


自分とは違う何かを


感じさせてくれる人がいるからこそ


体験できる


至福の時だと思うの








ここ数カ月


私の中で自分の意志とは違う


流れがあって


戸惑う事があるの


たとえば食べ物なのだけれど


大好きで長い間食していたものなのに


急になぜか体が受け付けないのか


じんましんや湿疹が出たり・・・


それでも好きだからと食していると


顔がはれてきたりして・・・


よくアレルギー的なものは


ある一定量になるとその器からあふれるかのように


急にアレルギーになると聞いて


もしかしたら


私の器がいっぱいになってしまったのかなって


とても残念なの


私の友人も最近になって急に


小麦のアレルギーになったようで


お仕事がら小麦を扱う仕事なので


吸引してしまわないように


とても気を使い過ごしていたり


またある友人は


子供のアレルギーを調べるために


病院へ足を運んだ時


興味から自分も調べてもらう事になって


調べて見ると


毎日大好きで食べていた柑橘系の


食べ物のアレルギーがある事を知って


驚きと共に


今まで慢性的に治らなかった皮膚炎や


体の疲労が


それが原因だった事を知って


食べるのをやめてから


綺麗に治ったの


アレルギーって自覚症状がないまま


体質的なものとして流していたり


偶然として特に意識をしていないけれど


思っている以上に


アレルギーを持つ方も多いのかなって


感じていたの


少しお話は違うのだけれど


私の父はとっても狭く少ないデーターで


自分なりの思い込みがあって


家族の中でもなぜ?うちの家族に


生まれたのだろうと思うくらい


優秀で非の打ちどころのない弟が


私たち家族とは違うものを見つけるたびに


父は「だからこうなんだ」って


勝手に思う事があって


弟だけが幼いころからチーズを食べていると


「頭がいい人はチーズが好きなんだ」と


なぜか思いこんだり


ある時には


弟だけが花粉症になった時にも


「神経が細やかで頭がいい人間は


花粉症になる」と


思い込んでいたの


そんな時たまたま近所で花粉症になった方がいて


具合が悪そうにしているのを見た父は


家に帰ってきてから私たちに


「あの人は花粉症になるタイプじゃないから


きっと別の病気だな」と表現し


それを聞いた母が理由を尋ねると


「あの人は神経が細やかではないし


頭もよくないだろう」といい


それを聞いた母が


「ばかじゃないの!


そんなこと関係ないんだよ


恥ずかしいからそんなこと


他で話さないでよ」と表現すると


父は自分が馬鹿にされたと思い


ものすごく怒っていたの(笑)


私はそんな根拠のない自分データーを持つ


父の話は


何だか面白く


つい「ほかは?ほかは?」って


尋ねてしまうくらいなの(笑)


ただ父は様々な知識が私と同じで持っていないので


自分なりの考えがあって


その考えが時々


何の根拠もないのに


とても説得力がある時もあるの


たとえば私が若い頃


色々と悩んでいる時


突然父が


「夜にものを考えるな


考えるなら昼間太陽の下で


歩きながら考えろ」と


伝えられた事があって


その意味は何となく今思うと


わかる気もしたり・・・


父はよく考えすぎると頭が痛くなって


その時これ以上考えるのはやめた方がいいと


思うらしいのだけれど


それを聞いた母はすぐに


「あんたはもっと頭を使った方がいいよ


頭は使うためにあるんだから


使っていないから頭が痛くなるんだよ(笑)」といって


爆笑するのだけれど


父は「人間はあんまり考えすぎると


しにたくなるから

ほどほどにしなきゃだめなんだぞ」といい


母は「あんたはしにたくなるくらい深く


物事考えていたら


もっと人生が違っていたよね(笑)」と


いいあっているの


多くの病は気持ちや


心の関係を持つものも多いけれど


父は病になた事はなく


その姿を見つめていると


やはり毎日の中で人よりもストレスを感じにくい


物の考え方があったりもするんじゃ


ないかなって感じていたの


同じ出来事であっても


感じ方や受け止め方によって


ストレスの大小があったりして


自分へのダメージも違ってくるから・・・


そう思って見つめて見ると


父の根拠のない考えではあるけれど


デリケートで頭がいい人ほど


物事を深刻に受け止め


実際の出来事以上に背景にあるものまで


想像をめぐらせてしまい


ストレスを膨らませてしまう事も


あるのかなって


感じていたの











私たちは


忘れない能力と


忘れる能力という


素晴らしい能力が授けられているけれど


時々使い方を間違って


自分を苦しめてしまったり


不必要に人との繋がりに


影を作ってしまう事があると思うの


私の母はもう出会う事が出来ない


この世にはいない人との過去の思い出の中での


記憶が忘れられないようで


まるで昨日の事のように思い出しては


自分の人生がどれほど辛く悲しく


恵まれていないのかと言う事を


何度も何度もまるで再確認するかのように


語る事があって


そのたびに


人の気持ちを察する事が出来ない私は


「もうどうする事も出来ない事なんだから


忘れた方がいいんじゃないの」と伝えると


その言葉で益々


気持ちに影は広がって行くのを


感じる事があるの


母は意識の中では


最も忘れたいはずの記憶なはずなのに


何度も何度も思いだす事で


益々忘れられないように


深く記憶を強化してしまっていると思うの


心理学の中では


思いだせば出すほど


記憶は強く刻まれるそうだから


私たちは時々


一番忘れたい事や思いだしたくない事の


逆の事をしてしまい


嬉しく楽しい思いでよりも


すぐに鮮明に思いだせるように


してしまっている事もあるのかなって


感じていたの


人の記憶は意外と時間と共に形を変えてゆき


微妙に事実が変わってしまわれているもので


よく私も幼い頃の話を


久しぶりに家族が集まった時に話すと


同じ体験をしていたはずなのに


微妙に思いでは違っていて


今ではどちらが正しいのかの


検証はできないのだけれど


最終的には楽しい記憶の方に


落ち着くの


ただ私の母は辛く悲しい記憶とはいえ


鮮明に思いだし語る事が出来るという事は


ある意味で自分では気づいていないけれど


心で整理できているから


少し遠い記憶として


安全な場所で映画を見ているかのように


語る事が出来ているんじゃないかなって


感じているの


私は中学生の時の記憶が


ほとんど思い出す事が出来ず


以前


母に尋ねた時があったのだけれど


母が教えてくれるのだけれど


そこから紐解かれる事はなく


きっと思いだせないほど


辛い事が多かったのかなって


感じているの


ただ人に助けられた事や


人から手渡された愛状の重なる体験だけは


思いだす事が出来るの


今はそれはそれで十分かなって


感じているの


辛く悲しい記憶を今思いだしたからといって


心地よくなれるものではないから・・・


長く縁がある方たちの多くは


繋がりあう中で


愛情から忘れたふりをしてくれていたり


許し合いながら


繋がりあっていると思うの


でなければ


誰とも長くは繋がりあえるものではないから・・・


私はよく友人にも伝えられるのだけれど


今更ながらに気づき学ぶ事が多く


その嬉しさから友人に話すと


「え?!そんな事小学生で気づいたけど(笑)」って


表現されるくらい


進歩がスローなので


それゆえに外見は大人なのに


中身が伴わず


無意識に失礼なことや


相手を傷つけてしまうような発言を何度も


してきたとは思うの


でもそのたびに無言で私が学び気づくのを


見守り許してくれていたと思うの


私の母は私が初めて会う人に


私の事を誤解しないように


「この子は年齢も外見も大人なんだけど


子供の時のまま大人になっているような子なんで


ちょっとあれ?って思う事もあるかもしれないけど


まったく悪意はないから」って


わざわざ説明をつけてくれているの(笑)


私の友人も私と誰かを合わせる時には


その方に私の事を誤解しないように


色々と説明し


それから私とその方が楽しい時間を


過ごせるようにしてくれているのを


後でその方から聞いて


本当にありがたく


私は人に恵まれた


幸せな人生を授けてもらったと


感謝でいっぱいになるの











若い頃は


誰とでも深く仲良くできたのに


今は深く仲良くなると


つい一歩引いてしまう自分に


気づいてしまう事があるの


理想の中では


人と何でも語りあえて


何でも躊躇なく頼みあえたり


助け合えたりする


付き合いができる人がいたらなって


思ったりもするのだけれど


それ以前に


色々と考えすぎてしまって


つい深まる事を


怖れてしまうの


いつも足を運ぶフィットネスクラブでも


初めのころとは違い


毎日のように顔を合わせるように


なった方たちは


あいさつから


少しずつ「普段何しているの?」


「結婚しているの?」


「おこさんは?」など


ベースとなるものを


尋ねてこられるようになって


わけもなくそれだけで


距離を作りたくなってしまう私がいるの


女性はお話好きな方が多く


誰とでもどんな話題でも


話すという事が楽しく感じる事もあって


共通の話題を探し合い話すのだけれど


フィットネスクラブに通われる方で


今いない方の話題を耳にするたびに


私の事も話題になっているのかなって


思うとつい・・・


この間もフィットネスクラブで唯一


とても仲良くしている友人がいて


その友人と久しぶりにあった時


「働いているの?


働いていないっていったけど


この間おばさんたちが


家で料理を教えている先生を


している言ってたから」と


私の事が話題になっていたようで


やっぱり女性って


悪気なく噂話が好きなんだなって


感じていたの


でもなんで私が料理の先生なのか?


誰と勘違いをしているのかは


わからないのだけれど


変な噂話ではなくって


よかったってホッとしていたの


女性は特に過ごすコミニュティーが


大切で


その小さなスペースが全てのような


錯覚を持つ事もあって


そのスペースで何となく馴染んでいないと


わけもなく過ごしずらい感覚に


なったりしてしまうので


女性は必要以上に


仕事でもないスペースでも


気を配り


疲労してしまう事もあると思うの


女性ガ過ごすコミニュティーは


いくつもあって


お子さんと共に過ごされている方は


お子さんから繋がるコミニュティーもあって


たとえ個人的には繋がりあう事は


ないような方とでも


上手にお付き合いしなければならないような


スペースもあって


たとえそれが限られた期間だと


わかっていても


その間はとても心重くなる事もあったり・・・


男性は職場という


ひとつのスペースだけ


上手に過ごす事ができれば


あとはそんなに重要に思う


スペースを持たないけれど


女性の場合は


人生の中でステージが変わる事に


新たなコミニュティーが生まれ


その時々


そのスペースがとっても重要になり


人生すべてのような錯覚さえ感じたり・・・


数年前


友人が子育て中で


私が考えもしない苦労をしている事を


聞いた事があって


たまたま家から近い公園に子供を連れて


遊びに行っている時に


いつも顔を合わせる何人かの方と仲良くなり


喜んでいたのだけれど


その中の誰かが友人の何かが気に入らなかったようで


ある事無い事を友人がいない時に語り


何となく周りの方たちのよそよそしさに


公園へ行く事に心が重くなって


子供は行きたがっていたのに


家にこもっていた時がったようなの


そんな時


幼稚園のママ友に相談したら


「公園はそこだけじゃないんだから


他に行ったらいいのに


私も上の子の時そういう事あって


近くの人と顔を合わせない所に


買い物に行ったりしてるよ」って


教えてもらって


ハッと気づかされた友人は


その小さなスペースが人生の


すべてのように考えていた


自分に気づかされ


良い意味でばかばかしくなり


なんとか子育てを乗り越えた事を


話してくれた事があって


それは子育て中の方だけではなく


誰でも今過ごすスペースが


なんとなく人生のスペースの全てのような


錯覚から


心重くなられる事も


あると思うの


でもよーく考えてみると


ちょっと見つめる方向を変えて見ると


いくらでも自分の人生を


続けるためのスペースはあって


そこにこだわる事がない事を


その友人に改めて


教えてもらった事があったの


女性同士は共感し合うと


この上ない幸せな気持ちを共有しあえるけれど


ちょっと何か思い描くようにならないと感じると


急に関係が変わってしまう事もあるから


なかなか難しいところもあると思うの


あきらかにあこがれの対象になるような人であっても


その様な方が近くにいると


自分と重ねて落ち込んでしまわないように


まぶしすぎる日差しから瞳を守るかのように


つい否定的な部分を探したり


その逆に


物質的な豊かさを持たず


大変な中で暮らす人を見ては


自分の方が豊かだとホッとしたり・・・


女性の多くは自分が意識してはいなくっても


自分の人生をを肯定するために


あらゆる場面で


あらゆる方法で


いくつもの柱で支えられていると思うの


私が若い頃


意味もなく年齢を重ねた女性から


否定的な瞳で見られていたのも


今になると何となく理解できる気がするの


周りから見つめると


年齢を重ねた女性は


母親的な感性で過ごしていると


勝手に思っているけれど


一個人の女性として過ごしている時間も


いっぱいあって


若いというだけで理屈ではない


輝きがまぶしくって


優しくなれない部分もあったり・・・


女性は男性のように


経済的なもので社会から評価されたり


学生のように点数などで


はっきりとしたものがない事から


評価がはっきりとない分


様々なもので自分の立ち位置を感じたくなったりして


つい誰かと比べてしまったりしてしまうんじゃ


ないかなって


感じるの


でも本当は誰と比べても


上も下も限りなく存在していて


何を持って上とか下と判断するかによっても


判断は難しいと思うの


以前親しくしていた方は


子供のいる友人に


あれこれとしつけに対してアドバイスをし


その方がいない時には


私に「私たちって子供いなくってよかったよね


あんな子供いたら苦労するもんね」と


表現していたのだけれど


その言葉を聞くたびに


その言葉とは真逆のその方をうらやましく思う気持ちを


隠しているのを


私はよく感じていたの


女性は素直な気持ちを表現すると


自分の人生を否定しているような感覚になったりして


自分の人生の統一感を再確認するために


自分の人生にないものを


いいなって言えない方もいると思うの


ただそれは特別な事ではなく


心理学的には


逆に普通の事で


自分の考えや人生の統一を図るために


自分の人生にないものを肯定できる方が


とても高度なテクニックなようなので


否定する方と出会っても


そういう方の方が


ある意味で自然な流れなのかもって思うの


そう思って見つめて見ると


否定されても


そう落ち込む事もないのかなって


思うの


人間は自分の意識では


自分の人生に満足していないと思っていても


心のどこかで


幸せを感じているものだと思うの


もしそうでなければ


どうにか変わろうと


何か行動を起こしているものだから・・・


社会の中に溢れる情報の統計などで


まるで多くの方が


そう思っているかのように


伝えられている事があるけれど


それも年代や地域によっても違うし


実際には偏ったものが多いから


あまり参考にはならないと思うの


そう思うと


やっぱり自分らしい価値観で


人生を満たしてゆく事が


大切なんじゃないかなって


感じているの









心惹かれていた


伊勢神宮に


友人と共に


やっと足を運ぶ事が出来た数日


とても幸せな気持ちに包まれ


過ごしているの


伊勢神宮に行く事を決めた


数週間前から


今までにはなかった喜び事が


次々と運ばれてきて


友人と「行く事を決めただけなのに


その思いが先に


伝わっているのかなって


数週間前から


神秘な力を感じてはいたの


そして足を運んで


その空間に溢れる時代を超えた


木々のささやきが


私の中に入ってきて


知識やデーターなどよりも


ただただ自分が感じたままに


ふれあう事にしたの


たくさんあるお社の前でも


何となく何かを祈願したりするよりも


ここへ導き招き頂いた事と


今までの日々の守護や恵みに


感謝を伝えたい気持ちになって


何も祈願することなく


感謝だけを伝え歩いていたのだけれど


ある一か所だけ


違う物を感じた場所があって


荒祭宮という場所だけは


自分の内になるものを


なぜか伝えたい気持ちになって


そこでだけは


私とふれあい繋がりあう方の幸福と


個人的な思いを伝えさせていただいたの


そんな中


パートナーから何度か


着信履歴があるのに気づいて


かけ直してみるとパートナーが


「今どこにいるの?


あのさ何日も探しても見つからなかった


証明書がさっき


タクシーの運転手さんが届けてくれて


もしかしたら


もう神社にいるのかなって思って」と


伝えてくれたの


そのメッセージを聞いて


「すご~い」って


あまりの即効性に


驚いていたの


天照大御神をお祀りしている場所では


階段を一歩・一歩登るたびに


まるで風圧のようなものを


全身で感じ


初めての感覚に


呼吸を整えようと思い


友人に「何か呼吸がしずらいから


ゆっくり整えながら行くから


先に行っていていいよ」って


いうくらい


奥から瞳には映らない強いパワーを感じ


何だか感動で泣きそうになったの


その思いは言葉では上手に


表現できないのだけれど


長い時代・時間を超えて


ここにいる自分が何だか嬉しく


ありがたく


言葉にできない広く深い感覚だったの


元々母方の私の祖父は神道で


のどかな小さな村の神社との関わりが深く


大きなしめ縄を作っていたり


神社を守り過ごしていたようなので


私の中では


私の肉体を通して


祖父が足を運びたかった場所に行けた事も


嬉しかったの


伊勢神宮から帰ってきた時にも


不思議な事が続き


家路について


シャワーに入っている時


どこからともなく


私の名前を呼ばれ


驚いた私はすぐにシャワーを止めて


もしかしたら


私の聞き違いなだけで


上や横のお宅からの音や声か持って思って


静かに耳を澄ませていたのだけれど


よーく考えると深夜で


多くの方が眠っている時間なので


不思議だなって思いながら


その声の音色を何度も何度も思い出しながら


こわがなりな私は


どうにか納得したい思いでいたの


そうしたらその声から母が連想できて


母の声なのかなって思い


何度も何度も思いだしていたのだけれど


母とは何かが違うって思った瞬間


私の中でもしかしたら


記憶にない母方の祖父だったのかなって


思ったら


怖がりな私が


その想いよりも


ちゃんと任務を果たせたような


喜びが湧きあがってきたの


私はあらゆることに知識がないので


詳しく知らない事も多く


感覚的なものだけで


人生を歩んできたけれど


何となくその事を「それでいいんだよ」って


肯定してもらえたような


深い癒しの中で


素晴らしい時間を頂き


その時間の余韻に包まれながら


今過ごしているの