2013年4月










いつも毎年


年初めに深く瞑想して


今年の特徴的な流れなどを


受け取っていて


今年は「運」というものがお休みして


ある意味で


その方の実力・ありのままの姿となり


その中で色々と学び


次に待つステージへと


進む年と言う事を


伝えていただいていたのだけれど


やはり私も


改めて今まで実力以上に恵まれた


時間を与えられてきたんだなって


感じるくらいに


瞑想で頂いたメッセージ通り


運の支えがないと


本当はこんな感じなんだなって


思う時間がいくつも


届けられているの


それはアンラッキーと思うようなものではなく


本来ならばこうなってきた事が


今年は違うという


異例な事が多くって・・・


「運」って形として


瞳に映す事も


こしたらこうなるという


絶対的な法則もなく


漠然としたものではあるけれど


「運」というのは


努力や実力と同じくらいに


大切なもので


地道に努力を重ね


結果となる仕事以外の


仕事をされている方にとっては


何よりも大切なものだったりすると


思うの


たとえば特に秀でたものを


感じない方であっても


多くの方よりも成功している方もいれば


実力が備わっていても


チャンスやタイミングに恵まれず


その方から溢れる光を


くみ取ってくれる方と出会えなかったり・・・


このような場合


努力や行動力ばかりではなく


別のエネルギーのサポートが


ほんの少しでもあれば


結果は大きく違って来たり・・・


社会の中では多くの場合


自分と同じかもしくは上の方は


星の数ほど存在していて


どうしてもその方でなければと


いうものはよーく考えてみると少なく


時に誰でもよいはずのお仕事であっても


その方の元にお仕事が授けられるのも


その方たちに


「運」の流れというものが


あるからなんじゃ


ないかなって


感じているの


私たちが知る事のないスペースでは


経済的に豊かなこの日本でも


明日の事を思い煩い過ごしている方も多く


その方自身に


何の問題も持っていないのに


ゆとりを感じる事なく


過ごせない方もいると思うの


そんな中やはり


「運」について考えてしまうの


よくこうしたらこうなるという


あらゆるスピリチュアルな知恵が


伝えてくれているけれど


その知恵の多くは


運の貯金を積む方法の一つであって


即効性を持たないものが多いから


時に今・運がよい人が


その事を実行しているかといえば


そうではない事もあって


よく風水的には邪気を払う


お掃除の大切さが説かれているけれど


今・運がよく


それゆえに忙しく


充実の中で過ごされている方の中には


驚くほどお部屋が散らかっていたり・・・


ただそういう方は


今・運がその方の元に


留まっているから


何をしていても


良い状態が続いていると思うの


運は字のごとく運ばれ運ぶものだから


一人で何もせずにいても


運は動く事がないと思うの


そしてどんなに運に味方された方であっても


運の貯金が補給されていないと


運の貯金が尽きた時には


「あんなに運がよかったのに


どうしちゃったんだろう」と


思うくらいに


想像もしていなかった体験ゾーンへと


進んでしまう事もあると思うの


私が時々感じるのは


運の切り替えって


自分でもわからないくらい


些細な事からスタートしている事が多く


誰かに会った時に


運がまるで憑依するかのように


自分の元にやってきていたり


ある場所に足を運んでから


何もかもがスムーズに


運ぶようになったとか・・・


ただいつも感じる事なのだけれど


何を持って運がよいと感じるかも


人それぞれだと思うの


損得という事で形ある得と感じるものを


受け取るいう行為が多いと


運がよいと感じる方もいれば


瞳には映らないけれど


人からの親切を受け取ったり


あきらめていた事が


大丈夫になったり・・・


良い出会いを感じると


自分の運の良さと


心地よさを感じる方もいたり・・・


運は誰にでも平等に


授けられているけれど


その運が長くそばに寄り添ってもらえる人と


そうではない人の違いは


あるようには感じているの


「運」は人の感情のエネルギーと似ているから


人が心地よく感じたりする場所や人に


いつも「運」が寄り添っているように


感じているの


私が昔親しくしていた方で


考え方も生き方も


共感はできなかったのだけれど


本当に運に恵まれた方がいて


不思議に思う事もよくあったの


でもその方と会うと


必ずと言ってよいほど


今までの自分では思いつかなかった事を


教えてくれたり


学ばせてくれたりして


今の自分に何かがプラスされるのを


感じさせてくれる人だったの


それまでの私は


人の人格的な事がとても気になり


フィーリングが合わないなって思うと


それだけで距離を持ったりして


縁を持つ事はなかったのだけれど


その方とは人格的なもので繋がるというよりは


魂が望むものを


互いに与えあえる人だったように思うの


その方は形とした何かではなく


瞳には映らないけれど


相手にとって大切に思う


何かを手渡す事を


誰にでもしてきていて


その報酬として運に愛される


生き方を無意識にされていたのかなって


感じた事があったの


そしてその方は好奇心も旺盛で


良いといわれる事は何でも試す


行動力もあって


私はその頃よく


スピリチュアルな知恵を


たくさん教わった事もあったの


「運」を望むのならば


自分自身が運が入れるよう


人生のドアを開け


いつでも招き入れられる準備も


必要なんじゃないかなって


感じているの


たまたま与えられた「運」であっても


その「運」が心地がよいように


自分を目安に


過ごしている事が


大切なんじゃないかなって


感じているの









私たちがその時々望むものは


可能かどうかではなく


イメージできる事は


自分の人生の歩む一つの道で


自分さえ許せば


その様な人生も歩める事を


教えてくれている事が


多いように思うの


でも年齢と経験を重ねると


自分だけではなく周りの経験も


自分が経験せずに


経験したような知識も重なり


そのように過ごしているうちに


できない理由を語る事が上手になり


できる理由は


思いつかななくなってしまっていたり・・・


私たちは人生の中で


何も始めてもいないのに


できない事として


多くの魂の喜びを


自ら奪っている事も


あるんじゃないかなって


感じているの


よくベースとなっているのが


今までの歴史の中で成し遂げた人がいないとか


そんな夢のような事・・・という言葉で


周りも自分も納得させるけれど


どんな分野であっても


その時々の時代に


今までなかったものやシステムが


発明されたりしていて


今の私たちも過去のその様な方たちの


恩恵を当たり前に受けていると思うの


ちょっと個性的なお仕事や


どこかにお勤めする以外は


まだまだ一般的ではないのか


安定を感じられないという理由で


反対されたり


笑われてしまったり・・・


でもそんな時


周りの言葉に傷ついたり


怒りが湧きあがる時


その様なメッセージを手渡す方に


問題があるのではなく


ただ周りは自分の気持ちを


映しだしてくれているだけだったり・・・


人は自分が心からそう思っていなければ


傷つけられる事も


怒りも感じず


相手に心を支配される事はないと思うの


なので周りの言葉に


心が揺れてしまう時には


タイミングを待つ事も


大切なんじゃないかなって


感じているの


人は出会った場所


出会ったシチュエーションの中で


相手の人格や能力を判断し


「この人は何をやってもだめな人間」と


決めつけたり決めつけられたりするけれど


全ての人には


必ず自分に適したものが存在していて


多くの方はその事に気づいていなかったり


心惹かれる事があっても


あらゆる怖れから


一番安定したものを選んだつもりでいても


その事で


最も自分が輝ける場所を


自ら遠ざけている事も


あるんじゃないかなって


感じているの


私の小さな経験の中では


自分ではとっても頑張っていても


なぜか仕事が身につかず


それゆえに結果も出せず


周りからもプレッシャーとなるものが


日々手渡されている方の中には


「あなたはここにいる人ではない


あなたを待つ場所があるよ」と


伝えられているんじゃないかと思う方もいて


頑張って頑張っても


最終的にはその場所を


離れざる終えなくなって


やめた事によって


人生が開かれていった方もいたの


私の知っている方たちは


まじめでそんな簡単に


やめた事でほっとするよりも


不安の方が大きい方ばかりだったので


すぐに別の仕事を探す方向で考えて


日々考え


人生で初めて自分と向き合う


時間となっていたようで


まず「自分にできる事」とか


「自分が続けられそうな事」などを


考えたそうなの


そんな時


誰かと話す機会が与えられ


その事を話してみると


偶然のように用意されていた


様々な情報や紹介などから


新たな人生の幕が開いていったの


ある知り合いは


特に興味はなかったけれど


時間や待遇などが


自分のライフスタイルに


フィットしたからという理由だけで


今まで一度も経験のない


おそばを打つお仕事についたの


その方は人見知りも激しく


それゆえに休憩時間に


仕事仲間と話す事が仕事よりも何よりも


好きになれなかった自分を


以前の会社では


「そんなんじゃどこ行っても通用しないし


雇ってくれるところはないだろうな


少しは面白い話ないのかよ」と


よく表現されていたから


今の仕事でもその事が


不安だったようなのだけれど


そこでは以前の会社とは真逆の評価で


「若いのに一つにことに集中して


丁寧だし


忍耐がある


無駄口をたたかず


良く働いてくれる」と


褒められるそうなの


それから彼は特に興味を持っていなかった


おそばに興味を持つようになって


夢が何一つないと語っていた彼も


将来お蕎麦屋さんをしたい


夢が出来たの


その話を聞きながら


改めて


その人自身はそのままなのに


魂が望むたくさんの中の


一つの道が重なる事に出会うと


こんなにも評価が違うものなのかなって


驚いていたの


私たちは社会の中で適応しようと


本当はしたくない行動や


言動をしたりする事があるけれど


そうまでしても


あまりよい評価をしてもらえない時には


自分が望まない事へ努力している


意味を静かに考えてみるのも


よいんじゃないかなって


感じているの










「感謝」は


とても大きな力を秘めていて


シンクロニシティを引き寄せる


波動を育んでくれる


とても素晴らしいもので


それを知ってから


「感謝」できる事を見つけ


私にとってはまるで


感謝は祈りの時間のように


多くの願いを叶えてくれるための


ベースとなっているの


それでも精神的に弱い私は


周りから届けられる出来事によって


心が曇っている時には


感謝する事を忘れ


不平不満から始まり


過去への後悔


そして未来への不安や怖れへと


意識が注がれてゆく事があって


そんな時には


驚くほど早い段階で


その時の自分の思いと重なる


望まない出来事がいくつもやってきて


ハッとさせられるの


でも心は「感謝」する気持ちが


整ってはいないので


少し無理やり「感謝」をしてみるの


たとえば意味もなく


天気になってくれてありがとうとか


親が元気でいてくれてありがたいとか


今日食事ができる事に感謝とか・・・


初めは気持ちが整っていなく


心から思っているわけではないのだけれど


半強制的だった感謝の儀式が


少しずつ


自分の気持ちから


湧き上がる感謝へと変わり


当たり前に映っている事にも


感謝している自分に


気づかされるの


そして毎日同じ事ばかり


感謝をしているのでは


まるで呪文のように


感情が重なりずらく感じる私は


できるだけ毎日違う事を探し


感謝するようにしているの


その中で良く感じているのは


私たちが耳にする良くないニュースも


見つめる角度を変えると


私たちが感謝をする気持ちを


持つ助けとなっている事も


あると思うの


ニュースとなるあまりよくない出来事は


特別な方にだけ体験し与えられる事では


決してなく


誰もがちょっとしたタイミングや


運命に組み込まれるような事があれば


出会う出来事だったり・・・って思うと


私たちの多くが


どんなの気をつけていても


避けられない出来事は


人生の中にはたくさんあって


それでも


自分が自分として


穏やかな気持ちでいられるのは


人との出会いに恵まれているからだったり・・・


感謝を忘れている時には


自分がすべて努力し頑張って


今の自分があると思いがちだけれど


自分が頑張る事を続けられたのは


きっと必ず


その時々のタイミングで


まるで聖なるものの使者のように


心にエネルギーチャージしてくれる方たちが


いたからだと思うの


そして自分が望む事を手にできたのも


多くの方がまるで数珠を繋ぐように


ひとコマひとコマ


自分を導いてくれる存在となる


人たちのおかげだったり・・・


それをふっとした時忘れてしまい


力が入りすぎている事も


あると思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


私がいつも感じている事なのだけれど


宿命的運命は変えられないし


どんなに避けても出会うように


人生でプログラミングされているのだけれど


その出来事への対処によって


微妙に次に通らなければならない道で


出会う事の質が


変わってくるように感じているの


そんな風に人生を歩むうちに


この世に送り出された意味と使命を消化し


その方にとっては


大成功な人生となってゆくように


感じているの


人から見てあまり幸せに映らない方であっても


その方自身が


自分の人生を受け入れ過ごしていたならば


とても幸せなことだと思うの


一番せつないのは


自分の人生にはプログラムとしてない事を求め


いつも世の中や周りに


不平不満ばかりを感じて


過ごしてしまう事だと思うの



言葉では上手に表現できないのだけれど


それは夢を持つ事が問題なのではなく


人生のプログラムにない事を


強く望んでいると


自分に思い込ませ


人生がうまくゆかない事を


その事を理由にして


本来受け取れるものを


放棄しながら過ごしてしまう事だと思うの


その様な場合は


自分自身が心から望んでいる事ではなく


人からの賞賛や評価を得たい思いから


生み出した望みの事が多く


自分の魂にフィットしないから


いつまでも叶わない事を


深い部分では知りながら


長い時間を重ねてしまうと思うの


自分の魂とフィットしたものならば


逆にどんなに避けていても


何度も何度も出会うタイミングが用意されて


いるものだと思うの


よく人との出会いの中で


悲しい事があると


「あなたは人を見る目がない」と


表現する事があるけれど


私が感じているのは


私たち人間には簡単に


解明されない深い意味があって


私たち一人一人は


世界中にたくさんの人がいる中で


その方と出会っているようにも思うの


その理由や意味は


私にもわからないけれど・・・


たとえその人との出会いが避けられても


同じ人や同じ出来事は


消化するまで届けられる気がしているの


そう思うと自分自身が元気で


立ち直る余力がある時だった事を思えば


早い段階で宿命的に


消化しなければならないものを


消化できたのは


運が良かったと思うの


苦しい時は


何となく漠然とまるで世界中で


辛いのは自分だけのように思えてくるけれど


本当はそんな事はなく


出来事の大小はあっても


その方にとっての大問題は


誰でも秘めていて


ただそれを表現していないだけだと思うの


私の母がよく表現する言葉で


好きな言葉があるのだけれど


私の父は人に対しての評価が厳しい人で


何かがうまくゆかない人を見た時


「こいつの努力が足りないから


こうなるんだ」といつも表現していて


それを見た母は必ず


「この世で生きている人の中で


努力していない人は


どこにもいないんだよ


みんなそれぞれ頑張って生きてるんだよ


それでもたまたま運がなかったり


色んな運命の流れで


うまくいかない時だってあるんだよ


努力して実った人は


幸運だっただけなの


人間はそんな単純じゃないんだよ」って


母は良く表現していて


私は母のその表現が大好きなの


この世で生きている人すべて


その方なりに精一杯


できる努力をしていて


それでも状況や環境・タイミングなど


様々なものが整わず


自分が思った形にならない事もあると思うの


でも人は最もわかりやすい


法則を用いて答えを出したいために


「努力が足りない」という言葉で


納得させている部分があると思うの


そしてそれを自分にも重ねて


物事がうまくいかないと


全て自分の努力が足りないと


こんなに頑張っている自分にさえ


労う事なく


責めてしまったり・・・


生きているだけで


努力と工夫と運と奇跡的なもの


様々なものを実現して


今日と言う日にたどり着いていると思うの


それだけでも


自分を敬い


ここまで導いてくれている


自分の魂心にも


感謝する事が


大切なんじゃないかなって


感じているの









ここ数年


子供たちの間でのいじめが問題になっていて


そのたびに大人たちは


何年も前から何も変わらない


コピーしたような表現を重ねていて


それを見つめるたびに


私が幼い頃と何も変わっていないのを


感じていたの


大人たちは必ず


TV番組や漫画・ゲームなどの影響などを


問題としているけれど


本当にそれだけなのかなって


感じているの


私たち大人の中でも


いじめと思わずに人に対して


あきらかに受けた方が不快になる


表現を何気なく


繰り返している事も


あるんじゃないかなって


感じているの


この間


ある知り合いの方とその知り合いたちと


話す機会があって


そこに薄毛の男性がいて


それを二人の男性が楽しげに


何かのギャグなのかその方に表現していて


そう表現された薄毛の方は


顔を引きつらせながらも笑顔でいると


二人のうちの一人が


「笑わなきゃだめですよ


ハゲは笑いがとれて


得じゃないですか(笑)」と言い


それを聞いた時


年齢を重ね社会の中では大人だと


言われる人であっても


TVに影響を受けているのを


感じていたの


TVの世界では


受け取る方も表現する方も


お仕事として互いにそれを求めあい


なりたっているけれど


一般社会の中では


容姿などで笑われる事は


ただただ不快で悲しい事だと思うの


そして私は昔から理解できない事なのだけれど


薄毛の人を話題にしそれの何が


そんなに面白いのかよくわからないの


大人の社会の中でもそうなのだから


子供たちならば


いじめと思わずに


表現する方たちが


楽しいかどうかだけで


その様な事をしていたとしても


不思議ではないと思うの


大人たちがそんな子供たちを叱っても


心に響いてはこないんじゃないかなって


感じているの


今回その様な場面にいた時


元々の気の強さが抑えられず


つい相手が何も言えなくなるほど


責めてしまい


そのあと言いすぎちゃった事に


反省しつつも


色々考えさせられてしまったの


人は誰でも人の笑顔を見るのが大好きで


ましてやその笑顔を


自分が花咲かせられた時には


とてもうれしく


それゆえにわかりやすく早く


そして自分を傷つける事なく


人を笑わせようと


誰かをターゲットにしたリしてしまう事が


人によっては


無意識に人を笑顔にする


方法の一つとして


持っていたり


時には変わらない容姿を


相手が気にやまないように


笑う飛ばしているつもりの人も


いるかもしれないけれど


互いに楽しい気持ちにならない場合は


やはりいじめだと思うの


セクハラやストーカーでもそうだけれど


同じ事をしても


不快感を相手が感じなければ問題ないけれど


不快感を感じれば


それは大きな問題になると思うの


でも多くの大人は


人間関係を円滑に運ぶために


露骨に不快な表情はせずに


気持ちを抑えながら過ごしているから


子供のようにいじめ問題として


スポットが当たらないけれど


大人だって子供と同じように


傷つくし悲しくて


その事で悩まれている方も多いと思うの


たとえばふくよかな方は


勝手に周りからユーモアのある


キャラクターを期待されたりして


そうでなければ暗いという評価になるから


ふくよかな方は


自分が望んでいなくっても


ユーモアのある自分を演出し


元々思いやりがある方は


人をターゲットにして笑う事はせず


自分の失敗等をみんなに


披露して笑ってもらうので


いつも心がすり減っていたり・・・


一般的な暮らしをしている人たちまで


TVの世界で生きる人みたいに


キャラクターを演じる事を


何となく無意識に人間関係の中ではあって


心に大きな負担を


感じながら


過ごされている方も


いるんじゃないかなって


感じていたの


たとえば頑張りやで責任感の強い方は


人に甘えたり相談したりしたくっても


周りから与えられたイメージもあって


なかなか本当の自分を表現できず


時に自分が自分らしくいただけでも


周りからは「らしくないよ」と表現され


周りから与えられたイメージを


演じ続け


辛い方もいたり・・・


私も無意識とはいえ


そんな風に誰かを勝手なイメージの型にはめて


相手が自由にありのままの姿でいる事を


許していなかった事も


あったように思うの


これから自分でも


人がありのままの姿でいる事を認め


そして自分自身にも


ありのままの姿でいる事を


許してあげたいなって


思っていたの