2013年3月





私はよく母の事を


書かせていただくのだけれど


私自身


母の事を思い起こし書く事で


自分自身を見つめられるからなの


母はとっても個性的で


ある意味


人間的に批判を受ける部分も


多いのだけれど


今になるとそれはただ


他者からは映し出す事が出来ない


家族という信頼と甘えから


人間が誰でも秘めている


あらゆるものが


母を通して感じられるだけだと


思っているの


たとえば知り合いや友人関係でも


付き合いが浅い頃は


良い部分だけを


互いに手渡し合えるけれど


心開き長く繋がりあうようになると


誰でも本当の自分が溢れてくるもので


それをどう感じ受けとめるかで


今後の繋がりが


変わってくると思うの


初めは違いが気になる事もあるけれど


それ以上に


惹かれる部分があると


ひとつひとつ無意識に


克服してゆけるように


互いに信頼し合うと


受け入れてくれるという信頼から


驚くような表現や行動も


あるものだと思っているの


私は母の姿から


自分が経験せずに


色々な事を学ばせてもらっているの


ただひとつ


私の想像を超えた心の体験は


きっと母親として生きている方にしか


わからない感情だと思うの


母はよく若い頃に


天国へ旅立った母親が幼い頃に


母がしていた事や


話していた事を思い起こしては


母親となった自分を通して


自分の親を肯定しながら


まるでセルフヒーリングのような事を


何気ない時間にしているの


そして長い時間話していると


時々ふっと


母は少女のような気持ちに


なる時があって


そんな時には


女性として色々とやり残した思いを


表現するの


もっとも女性として良いと表現される時期に


自分で選んだとはいえ


家族のために多くの時間を注ぎ


ふっと気がついてみると


鏡の中には


驚くほど年老いた自分が映っていて


ショックだったそうなの


それを聞いた時


え!?毎日鏡見ていたはずなのに・・・と


思ったのだけれど


母は忙しさと疲労で


しっかりとした意識で


見ていなかったそうなの


ただそんな母の思いをすべて肯定し


支えとなってきたのは


子供の存在だったようで


そのたびに母は


「女は欲張りなものなの


仕事がうまくいって


お金も不自由しなかったとしても


結婚したかったと思うだろうし


ありあまるくらい時間があっても


今度は子育てで忙しくしている人を見て


うらやましく思ったりして


自分にないものがよく見えるんだよね


私も長く生きているから


それはわかっちゃいるんだけどね(笑)」と


自ら答えを出しながら


自分を納得させるのが上手なの


確かに年を重ねて


変わってくる事って多くて


現状に満足する事は昔ならば


前向きには映らなかったかも


しれないのだけれど


今は日常の何気ない事の中から


光り輝く宝石のような


出来事を見つけて


心満たせる人って


素敵だなって


とても感じているの











私は物心ついた頃から


気がつくと


自分の思いを表現し伝える事を


とってもとっても意識して


過ごしてきた気がするの


でもいつもつい


相手が望む事を先に感じてしまうと


自分の思いを後回しにしてしまい


そんな自分を


好きになれずにいるの


この間


精神世界に詳しく興味を持っている


知り合いと会った時に


「私はつい人が望むように動いて


相手も笑顔になって


良かったはずなのにいつも


なんとなく家に帰ってから


モヤモヤして・・・


だからといってピシャっと


自分が思っている事を伝えるのは


相手の思い通りに動く事よりも


すんご~く頑張らなければ


できないんだよね


どっちを選ぶのも大変で・・・」と


表現すると


その知り合いは


「あなたの優しさは誰のためにも


なっていないんじゃないのかな


なぜならそれは優しさではないから・・・


人ってさ


何で生まれてきたんだろうって


考えて見ると


それぞれの人が


前世で消化できなかった物を持っていて


それを消化するチャンスとして


今の自分の姿が


与えられていると思うの


それなのにお互いにとって


その消化するという貴重な機会を


奪っているから


心が晴れないんだと思うの


それはあなたの意識を超えたところで


モヤモヤとして


感ひて教えてくれているんだと思うの


もしもあなたが自分の思いを表現して


相手の笑顔が消えたとしても


その事で相手が何かに気づき


新たなものを生み出し成長し


進化するチャンスだったかも


しれないでしょ


それを相手に合わせる事で


もしかしたら


せっかくあなたと会い


素晴らしい機会となるはずだったのを


それができなかったかもって思うと


相手にとっても自分にとっても


本当に必要で良い事は


頭で考えたりするものではないと思うの


人との出会いは


自分が望むかどうかで


判断するのではなくって


必要があるから出会っていると思うの


たとえばさ


嫌な人と出会うと無意識に


次誰かと会った時には


私はその様にはしないようにしようと


学ぶように


精神的な成長を満たしている人ならば


どんな事の中からも


自分を進化させる時間となるでしょ


厳しいいい方かもしれないけど


自分の思いを後回しにしてまで


相手に合わせるのは


相手にとっても自分にとっても


この世に生まれてきた意味を


奪ってしまう


最も愚かなことだと思うよ」と


伝えられたの


その言葉を耳にしながら


その言葉が耳から音霊として


身体の隅々を満たし


頭で考えるのではなく


魂でうんうんって納得したと同時に


涙が溢れてきたの


言葉では上手に表現できないのだけれど


その涙は私の心が感じたものではなく


私の深い場所から


いつも私にいつも道先案内をしてくれていた


別の魂のようなものがまるで


自分が伝えたかった事をやっと


言葉にして伝えてくれる人が現れた喜びと


その事で大きく重かった


大きなドアが開いた事を


伝えてくれるものだったのかなって


感じていたの


確かに


私たちはそれぞれに


それぞれのタイミングで


この世に生まれてきた使命や


消化したいと望み


生まれてきた事があって


それを果たしてくれる人や出来事を


人間が考えるあらゆるものを超えて


果たしているのに


その目の前に与えられた


せっかくの機会を


思いやりと思い込んでいた


間違った思いによって


奪っている事もあるかもって


思ったの


私の場合は


相手への思いやりだけではなく


それに重なるように


自分を今の自分以上に見せるためであったり


必要以上に


良い印象を持ってもらいたいという


自分の笑顔も


多くあったと思うの


私が物ごころついた頃から


自己表現を努力しなければ


できなくなったのは


きっと幼いころから


周りから変わる事を求められ続けて


きからだと思うの


それは人間関係の中では


よくある事で


たとえば何気ない会話でも


なんであんなの持っているんだろう


もしくはあんなの着ているんだろから始まり


もっとこういうものがいいよって


伝える方は親切な思いかもしれないけれど


伝えている方のセンスが


世界基準でもなければ


もしそうだったとしても


そうしなければおかしいと思う


そしてよく


子育て中の方から聞く


お話なのだけれど


子育てはその方それぞれで


子供の個性によっても色々あって


これが正しいというものは


この世に存在しないのに


相手が求めていないのに


あれこれとアドバイスをし


自分と違うものを


間違っている・おかしいと


本人がいない場所で


話題にされる事もあるようなのだけれど


どんな場面でも


人は無意識に


人を変えようと


多くの時間を注ぎ


過ごしている事もあると思うの


本当は誰もが


確実なものがなく不安なのに・・・


だからこそ自分の正しさを証明するのに


同じような人をただ


増やしたいだけだったり・・・


異性との繋がりの中では


もっとストレートに互いに


こうしてほしいという望みばかり溢れ


ありのままの相手の姿を


受け入れる事への


努力よりも


相手がこうしてくれるようになるための


努力ばかりに


意識も時間も注いでいたり・・・


私自身も


ずっと自分はありのままに


受け入れてもらいたいと願いながらも


相手を変える事に


多くの意識と時間を


注いできたように思うの


それに気づかせてくれたのは


今のパートナーとの


出会いによってだったの


パートナーは私が何をしても


何かしたいと伝えても


反対する事がなく


ある時私が


「不安じゃないの?」と尋ねると


「だってしたいんでしょ


自分でできると思うからしたいんでしょ


もしだめだったら


一緒にまた考えよう」と


伝えられた時


私は今まで


人にそんなあたたかな言葉を


手渡した事がったかなって思ったら


私はいつも誰といても


自分を守ることだけを考え


色々な意味でありのままの


相手を受け入れる覚悟もなく


でもその自分の弱さを隠し


様々なもっともらしい言葉で


自分が予測できる範疇に


相手を納める事だけを


いつも考えて


過ごしてきたのかもしれないなって


感じたの


人との間では


仲良くなればなるほど


簡単に自分の不安を解消するために


全てを把握していたいと


思うようになって


友人や恋人・パートナーであっても


何でも知りたくなり


知れば知ったで


相手が望んでいないのに


あれこれとアドバイスをしたりしながら


無意識に自分が予測できる


自分の思い通りになる


人々にしようとしていたり・・・


共感は時に


大きな心の支えとなる事も多いけれど


違うからこそ


自分では見つけられなかった


新たな見る角度が与えられ


人生の広がりになっている事も


あると思うの


もちろんストレスを抱えてまで


違うタイプの人と


寄り添う事はないけれど


自分に合うように誘導する事も


ないとは思うの


私たちはそれぞれに


この人生で果たさなければならない


使命を持っているのだから・・・








時々ふっと


人と人との関わりの中で


生まれる


波動というのか


周波数の未知なる可能性を


感じているの


私たちは姿なき神々が


誰かの姿を借りて


自分に伝えてくれるものを


受け取る事があって


私たちの内には


自ら体験せずに


得られたギフトで


いっぱいだと思うの


私の中にも神々からのたくさんの


知恵がって


その中には


人との繋がりの中で生まれる


未知なる


周波数というものがあるように


感じているの


それは自分たちが感じる


好意を寄せる感覚などとは違って


互いが共にいる事で


ちょうどよい周波数になる


存在がいると思うの


たとえば100がMAXだとすると


ある方といると


二人合わせて50だったり


逆に100を超えてしまい


強すぎて


恩恵も受けるけれど


その分災いも同じ大きさで


与えられたり・・・


私が過去の出会ったある方は


お仕事をされているのか


されていないのか


わからないくらい


近所では姿を見る事がなく


その方の奥さんは日々


近くの居酒屋で働かれていて


その帰りに毎日


私が社会勉強をさせていただいていた


お店への実に来ていたの


その女性はとってもさっぱりした方で


何を話すわけでもなく


毎日同じメニューを頼み


おうちへ帰るのに


ワンクッション置く場所と


なっていたの


周りは結婚されているのに


大丈夫なのかと


心配はしていたのだけれど


大人同士だから


周りがあれこれと


表現する事は控えていたの


そんなある日


その女性が毎日お店で


顔を合わせていた男性と


深く親しくなり


近所では多くの方が知るようになり


その方の旦那さんの耳にも入り


結局そのご夫婦は別れる事になったの


それまでご主人は


アルバイトをしていたようで


おとなしい感じの方だったので


ある方は


「いい年をして


あんな生活をして・・・」と


ささやく方もいたの


その後


ある事で旦那さんが


今とっても活躍されていて


ある分野で革命的な発想から


ある分野が


驚くほど変わり


今多くの方が楽しまれている事を


初めにされた方になっていて


今では多くの方が


その方のアイデアにふれ


日本中でそれが広がっているのを知って


改めて


人が秘めている能力は計りしれない事と


その方が秘めている能力を


さらに広げ叶えられるように


整えてくれた方の出会いによって


その方は


昔では考えられないくらい


素晴らしい事を


成し得たのだと思うの


それは周波数のようなもので


結婚した女性は


とても人間的に素晴らしい人では


あったと思うのだけれど


それとは別に


関わる事で生まれる


周波数のようなものが合わずに


気がつけば


お互いの可能性や良いところを


自分でも気づく事なく


過ごされていたのかなって


感じているの


これは自分が感情として感じる


相性の良さや好意を感じるという


計りではなく


まるで化学反応のように


互いが関わる事で生まれるものって


あるんじゃないかなって


感じているの


逆に好きになれない相手であっても


関わる事で


ふっと気がつくと


自分一人では体験できなかった


人生の記憶に残る


素晴らしい体験をさせてもらえたり・・・と


言う事もあると思うの


私の人生の中でも


自分の感覚的には


何となく交換を持てない方がいたのだけれど


なぜかその方といると


自分が内に秘めていたものが


形となって目の前に


早い段階で現れる事が多かったの


今思うと


考えられないような事が


まるで普通の事のように


いつもあって


それはきっと彼女と私の間で


周波数のようなものがぴったりと


100になる感覚が


生まれていたからなんじゃ


ないかなって


感じているの


それは相手にも感じていたようで


私といると瞬間的に思っていた事が


すぐに現実になって


その不思議さに


精神世界にふれた事がない彼女は


いつも驚いて


私に伝えてくれていたの


感情的に好感を持って


繋がりあう相手であっても


人生を満たし合い


光を与えあえるとは限らず


無意識に互いに相手から


光を奪い合っている事も


あるんじゃないかなって


感じているの


特に人は好感を持つ相手には


相手からも同じ思いを


持ってもらいたい思いから


無意識に相手の言動や思考などで


求めているものを


手渡したいという思いから


自分というありのままの姿ではなく


ふっと気がつくと


相手が求めているものを


演じている事もあると思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


人は繊細で複雑だから


苦労していてつらいと


表現しながらも


人に尽くし


周りからもわかりやすい形で


自分の良さをアピールできる事から


無意識にそういう


相手を望む方もいて


そういう方は


本来何でもできる


素晴らしい方と出会っても


ふっと気がつくと


何もできず


自分に苦労をかけてしまう相手へと


変身させてしまっている事も


あったり・・・


そんな時周りは


苦労している方を労い


相手があまりにもよくないように映るけれど


別れて別の人生を歩み出すと


良くない存在に映っていた方が


驚くほど素晴らしい方になっていて


それを見た方は


その方が変わったと表現するけれど


変わったのではなく


本当はただ元に戻っただけだったり・・・


人との関係は


想像を超えたものを生み出し


それが本当に自分にとって


良いものとなっているのかは


好き嫌いだけでは


計れないものなんじゃ


ないかなって


ふっと感じていたの










よく若い頃


「現実を見なさい」と伝えられる事が


よくあって


何の疑いもなくまっすぐに


現実をみているのにな~って


思っていた頃を


想い出していたの


私がいつも感じているのは


同じものが届けられても


同じものを瞳に映しても


自分の内に納まる形はそれぞれで


結果的に見えている現実は


人それぞれに


なっているんじゃないのかなって


感じているの


そしてその思いが引き寄せる


体験によって


多くの思いが強められ


その事は


その方にとっての事実になって


ゆくと思うの


この間


たまたま友人たちと会った時


楽しいお話をし


それぞれが自分の時間へ戻る時


ある方は車で来ていたので


車で帰り


あと3人は特にそのあと


約束もない事から


甘いものを食べながら


もう少しお話をする事になったの


その中で


ある知り合いが


「あの人車で来ているんだから


みんなを贈ってあげようとは


思わないのかな」と


表現したの


その時ある人は


「この後何か用事があったのかもよ」と言ったり


ある方は


「送ってもらえると思ったの?


ちょっとずうずうしくないかい?


健康のためには歩いた方がいんだってば」と


少しユーモアを加えた音色で表現したり


同じ出来事を共有しても


現実はそれぞれで


送ってくれる事を


予測していた方にとっては


今日みんなで集まった事さえも


楽しく思えない現実に映っていたり


ある方は


自分以外の方のわからない


気持ちを詮索しないようにされていたり


ある方は


どんな事も自分が笑える機会として


職人技のようにちょっぴり


作り変えたり・・・


何が正しいという答えはないのだけれど


私たちは時々


自分が勝手に予測し


思い描いた通りにならないと


その自分の何とも表現しがたい思いを


鎮めるために


無意識にワンクッション


必要な時があって


必要のない詮索や分析によって


自分の考えや思いの正しさを


自分に伝えるために


時にふっと言葉にしてしまう事も


あると思うの


なので表現された方にとっては


悪口を表現している


つもりはないと思うの


私もついそんな時があって


そんな時ふっと


思い通りに流れが出来なかった時


イライラするのって


思い通りになる事が


当たり前だと思っているってことなのかな?


それってかなり傲慢なんじゃないのかなって


思うようになってから


逆に思い通りにならない事が


当たり前として置き換えて見ると


自分が望む流れに出会うと


今度はとっても嬉しく


ラッキーな気持ちになるようになったの


目の前に届けられる現実は


何も変わっていないはずなのに


自分の気持ちが変わると


瞳に映る現実の色が変わるの


私たちは日々


小さな決断と選択によって


幾つも存在している


自分の人生とクロスしながら


未来の自分の


人生とクロスしたり


重なったりしながら


色鮮やかな人生を織物のように


制作しているだけだと思うの


全ての人は


使命の一つとして


自分を幸福にしてあげる事が


刻まれているのだから


現実や事実が


どんなものであっても


自分が笑顔になれるように


自分の中に納める事が


大切なんじゃないかなって


感じていたの









この間


結婚を望み


様々な努力をされている方と


お話する機会があって


改めて


忘れかけていた


自分の感覚的なものを


想い出させてもらう事がったの


その方は


何の問題も見当たらないくらい


なぜ望むライフスタイルを


受け取れないのだろうと


疑問に思うくらいの方で


本当に頑張っているの


その方は会話の中でよく


「努力をしなければだめでしょ」と


話されていて


その言葉の通りに生きているの


その方が私に


「働いていないし


婚活していなかったのに


なぜ?結婚できたの?」と


尋ねられて


ふっと私自身も


本当にそうだな~って


感じていたの


ただその言葉が何かのスイッチとなったのか


私はパートナーとの事を想い出しながら


話していたの


確かに頭で考えると


出会いも少なく


そして私なりの理想が


細かく持っていた私は


その当時友人たちから


「こんなにわがままだったら


よほど年上の人なら


もしかしたらどうにかなるかもしれないけど


たぶん一生結婚できないと思うよ」と


表現されていて


家族もそう思っていたからなのか


私が年を重ねた時


予測できる心配ごとを解消するために


あれこれと教えてくれたり


住むところに困らないよう


色々と考えてくれていたくらいなの


ただその頃


私は精神世界にふれる


初めての段階の中で


過ごしていた事もあって


周りが思うほど


本人は深刻にはなってはいなく


その当時の私の課題となっていた


自分の波動の高まりを保つ事を


大切に過ごしていた事もあって


頭で考えた努力の仕方ではなく


自分自身が望む幸せが持つ


波動と同じものでいれば


必ず同じ周波数のものが


引き寄せられてくると思い


のんきに


理想の男性をイメージしながら


あれこれと


ノートに書きだしていたの


そして私は出会いのための努力ではなく


自分自身が望む幸せのために


気持ちやこころを日々満たす事に


努力をしていたように思うの


私たちは自分の気持ちや思いよりも


周りに流れに意識を向けすぎて


幸せを手にするまでの


ストーリーまで


考えてしまう事があるけれど


私たちに必要なのは


自分の気持ちや思いを


いつも満たし高い波動を保つ事と


望むゴールだけで良いんじゃないかなって


感じているの


なぜならば


私たちが頭で考えられる


範囲はあまりにも狭く


その範囲内で考える事は


あまりにも選択肢が狭まり


最終的に幸せを望みながらも


自分の深い部分では無理だと思いながらも


行動する流れとなり


実を結ばなければ「やっぱり」と


変な納得を持つ流れと


なってしまいやすいと思うの


流れとなるストーリーは


不可能を可能にできる


神々や聖なる者たちのお役目なのだから


お任せする事で


自分が考えられない形で


夢が叶う事はよくあることだと思うの


私たちの人生の中では


忘れているだけで


深く考えて見ると


奇跡としか思えない出会いや


出来事があると思うの


その多くは自分が描く事が出来なかった


ストーリーだったと思うの


私とパートナーも後になってみると


何年も私の実家の近くの会社で働いていて


同じような時間に


同じ場所で過ごしていたり


していたようなの


神様は何度も何度も


パートナーと私が出会うタイミングを


今思うと作って


くれていたのだと思うの


それでもまだ出会いを


迎えていない私たちを


次々と出会えるように


長い月日をかけて


違和感なく出会えるように


時を整えてくれていたのだと思うの


通常出会いの入り口となる


会社勤めもしていないし


夜遊びに行く事もほとんどなく


頭で考えると接点がないのに


ちゃんと巡り合えるのだから


出会いって本当に不思議だと思うの


そして出会いだけではなく


私がパートナーと出会うまでの間


漠然と年下への偏見から


年齢を聞いただけで


恋愛感情を持つ事がなかったから


早くで会いすぎても


人生を共に歩む事はなったと思うの


パートナーと出会うまでの間に


その偏見が消える出来事がって


今度は逆に年下の方がいいなって


思うようになっていた頃だった事を


思うと


すべてはベストなタイミングで


全てが整い動いていたんじゃないかなって


感じていたの


私の今繋がりあう親友もそうで


社会勉強のために短い期間働いた場所で


出会った人で


今思うとこの親友に出会うためだけに


その場所に導かれたのかなって


感じているの


言葉で上手に表現できないのだけれど


自分が求める幸せが持つ


高い波動に自分を引き上げ


保つ事で


あらゆることが


自分が予想しない形で


成し遂げられてゆくように感じているの


私たちはつい


もっとも簡単でスタンダードな形で


目の前のものをどうにかする事が


何よりも意識の中心になりやすいけれど


全ての出来事は


自分のそばを流れている出来事の一つで


もっとも重要で大切なのは


自分をいつもどんな時も


心地の良い状態を保てるようにしてあげる事


なんじゃないかなって


思っているの


波動を高く保つというのは


必ずしも多くの人が感じる


正しいものや常識的なものとは違い


自分自身の内に秘めたものが


感じるもので


周りから見つめて


前向きに表現し行動的な人であっても


人のあらゆる言動・行動が許せなかったり


こだわりが強すぎて


つい自分以外の人のあらゆることが気になり


正そうとされるのも


たとえ人間として正しいように映る


動きであっても


その本人が心地がよくなければ


波動は気づかぬうちに


自分が少し下に見ている人と同じか


もしくはその下まで


さがって行っている事も


あると思うの


電気や波動や周波数のようなものは


瞳に映して見えないから


漠然としすぎてて


理解しにくいものではあるのだけれど


電気は灯として


周波数はラジオやテレビなど


微妙な変化で聞きたいものや見たいものを


映し出してくれたり


波動は最近では


病などを癒す助けとなるものとして


波動測定器があったり


瞳には映らないし


その様な専門家ではないと


仕組みまではわからないけれど


それでも私たちはそのエネルギーと共に


歩んでいると思うの


たとえば


私たちが誰かと出会った時


瞬間的に相手を


自分の小さな経験や直感から


好感を持てなかった時


どんなにその事を表に現さなかったとしても


多くの場合は


相手にも伝わっていたり


もしくは


相手も同じような感情を


持っていたりするのも


脳からの反応で


電気信号のもののようなもので


感情が生まれる時


その電気信号のようなものが


オーラに伝わり


そのオーラの範囲内にいる方には


その周波数に合わせて


まるでラジオやテレビのように


相手に合わせ多チャンネルになるんじゃ


ないのかなって


感じているの


ただ波動を高く保っていたならば


望まない事が


目の前に絶対に


運ばれてこないという事ではなく


望まないと自分は認識していても


長く大きく見つめると


自分の人生には必要な学びが


そこにあったりする場合


今の自分の波動と見合わない


不必要に映る出来事も


自分のために与えられる事があるから


落ち込む事もないし


精神世界に疑いを持ち


自分と向き合うことを


やめてしまう事はないと思うの


私たち人間は


今の自分たちが過去の


何千年前の人間よりも


もっとも進化したと思っているけれど


それでもいまだに解明できていない事も


たくさんあって


それは今まだ理解に達している人の数が


多くはないから


解明されるそのタイミングではないけれど


きっと100年後には


今私たちが確信できない


漠然としているものの多くが


当たり前のこととなっているんじゃないかなって


感じているの


江戸時代では


今の私たちの暮らしを瞳に映しても


疑問に思う事


魔法にしか思えない事に


溢れていると思うの


それは今の私たちも同じで


100年後の未来を


瞳に映す事が出来たならば


SF映画を見ているような


世界が広がっているかもしれないって思うと


私たち一人ひとりが


未来の誰かのために魂のバトンを


手渡す日まで


よりよい状態で


自分自身が過ごす事は


次の魂を宿す誰かへの


愛になってゆくんじゃないかなって


思っているの




私たちには


ありがたい事に


感情と言う形で


今の自分自身の事を


感じとることができると思うの


楽しい時には


嬉しさで心が満たされ


全身がそのオーラに包まれて


どんなものを見つめても


カラフルに楽しい色に見えたり・・・


本来私たちは


自分が幸せでいる事が自然なので


それから少しでも違うものを


生み出してしまうと


心は不安と迷いという


感情によって


不自然な感覚に包まれ


今度は


起こらない未来予測によって


今現在までも


曇らせ


見るものすべてが


まるで自分を苦しめるために


存在しているかのような


錯覚まで感じてしまったり・・・


私たちが魂の旅を


時代を超えて続けるのは


本当の意味で


自分が幸せになる事を許し


その自然な流れという


ステージを体験するためだと思うの


私たちが時々


漠然と不安を感じたり


迷いが生まれるのは


本来の導きとは違う


脇道へ自ら入った事を


感情を通して


教えてくれていると思うの


本来の道は


自分の内なる魂が


いつも自分を高い幸福へと導き


幸せを与えたいといつも思っているから


それとは重ならない時


不安や迷いという


感覚が広がってくると思うの


自分は幸せになる価値があるのに


人生を歩む中で


そう思えないくなるような


出来事や言葉などを手渡されて


ふっと気がつくと無意識に


周りのだれよりも自分を


過小評価するようになってしまい


時に望んでいた以上の幸せが


届けられたとしても


一歩後ろに下がってしまう自分がいたり・・・


トラウマの多くは


自分が生み出したものと言うよりは


その時


たまたま出会った人の感情を


転写されただけで


自分には何も原因がない事も多いんじゃ


ないかなって感じているの


たとえば幼い頃に


母親から

「何であなたは物事を早くできないの!


だからあなたは周りから言われるのよ!」とか


「なんで言う事を聞かないの!


あなたといると本当に疲れるわ」とか


学生時代には友人たちから


何気ない事で仲間はずれを体験したりなど


あらゆる形でまだ自分と言うものが


形作られる前の


幼く柔軟な時に深く強く


外から形造られ


自分がいけないんだとか


自分って・・・って


自分自身で思う気持ちが生まれ


その時の体験が


この世を去るまで


何かあるたびに蘇ってくる事も


多いと思うの


でも冷静に見つめて見ると


これが正しいというものは


時代や国


あらゆるスペースでも変わり


常識を唱える方も


あくまでも今そう思いこんでいる


人の数が多いものを表現しているだけで


もしも数年後に会う事が出来たならば


驚くくらいその方の価値観も


変わっている事があるのだから


誰かの基準によって


傷つけられた心を修復せずに


ずっと守り通す事はないと思うの


そして逆に


自分自身が誰かに手渡した


良いと思えない事から


長い間罪悪感を持ち


自分を責める時間を持って


自分を苦しめてしまうのも


自分の本来の道から


いつもそれてしまうと思うの


私たちが罪悪感や反省から学ぶ事はあって


人生をトータルで見つめると


自分の高い幸福のために


必要だった学びなので


長い間自分を苦しめる材料としては


いけないんじゃないかなって


感じているの


でも私たち日本人の多くは


慈愛が深く


あらゆる角度から


感情と言うものを見つめ


納得できる答えに辿る着くまで


絶対にわかる事がない


相手の感情まで


あれこれと予測してしまったりしてしまうから


なかなか


自分のためだけの事を考える時間を


持てない方もいると思うの


日本ではとても親切で常識的なあまり


自分の気持ちや思いを抑え込み


相手に合わせる習慣的なものを


持っている方も多く


何となく無意識に


モヤモヤとした感情を消化しきれずに


ふっとした時


その抑え込んでいるフラストレーションを


正当に映る形で


解消しようとされる方も


多いように思うの


そんな時は無意識に


あらゆることに許すという


高いレベルでの波動が保てない事もあって


瞳に映るあらゆる許せない事に


関わり感情を注ぐ時間が増えて


自分と関係のない事であっても


その事に意見や思いを表現する事で


正当に映る形で


日頃から抑え込んでいるものを


外へと手放そうとされていると思うの


その様な方が多い社会の中では


誰もがターゲットとされ


傷つけられる事もあると思うの


なのでそのたびに


その様な方の儀式的な流れに


傷つけられる事は


ないと思うの


そして逆に自分の中にそんな部分を


見つける事が出来た方は


今から自分が幸せになる事を


自分に許してあげる事が


とても必要なのだという事を受け取り


どんなに理不尽な自分の感情が見つかっても


複雑に分析し言い訳を


考える必要はないと思うの


その時はなぜそうしてしまったのか


リアルに思いだす事は出来ないのだから・・・


私自身


人に対して良いと思う事も


それ以上に


未だに人に話す事が出来ない


ひどい事をした事も


両方を体験した事があるけれど


今思えば


精神的に今よりも未熟だった頃は


人の痛みに鈍感で


自分の痛みには敏感な


複雑な中で過ごしていた事もあって


今では考えられないくらい


意識的に人を傷つけてきた事もあるの


それはきっと今よりも弱い人間だったから


自分の痛みを自分だけでは抱えきれず


結果的に


周りにも自分と同じ体験を


手渡してしまっていたと思うの


精神レベルが成熟してゆく中で


その過去に自分が手渡してきたものが


どんなに相手を苦しめたのかを


自分の痛みとして感じられるようになると


今度は反省と共に


自分を責めてしまう時間が訪れるけれど


その時


人はそれぞれに過去を癒す答えを


見つけ出すと思うの


私の場合は


もう会う事ができない相手ばかりだったので


あやまる事ができないから


今自分が出会う人には


今の自分ができる事をさせてもらう事で


償いをさせてもらい


自分を納得させているの


そして必ず気がついた時には


その方たちの幸せを


祈る事にしているの


言葉では上手に表現できないのだけれど


人は誰でも自分を基準に


あらゆる世界を見つめているから


そうする事で


もしかしたら


私を傷つけた方たちも


今私に対して同じ気持ちでいるのか持って


思えるようになって


私を傷つけた方を許す事もでき


そして過去に過ちをおかした


自分も少しずつ許せるようになっていったの


それから


人が望む姿でいる事も


自分自身がありのままでいる事も


許す事が


以前よりもできるようになってきたの


そうすると


人と関わる事に怖れていた気持が


ゆっくりと溶かされて


人との関わりという


素晴らしい機会を受け取る事が


できるようになったの


私たちは完璧な神様の創造した存在なのだから


ある意味


完璧なのだと思うの


完璧な神様は


私たちがどんな事を考え


どのような事をするかも


すべて知っていて


その様に創造した事を思うと


私たちがたとえ望まない体験をしたとしても


それは私たち一人一人が


高い幸福を得るための


完璧な計画の一つなんじゃないのかなって


思うの


私たちは自分が思っているよりも


全ての体験から


自分を成長させる何かを見つける


能力を持ち


その時々あらゆる体験を人生の


意味ある出来事のに変えていると思うの


そして


知らず知らずに人間として与えられた


可能性を活かし


若いころでは考えられないくらい


心の深さと言葉や形の裏にある


瞳に映らないものを


受けとれる


最大のパワーを養い


今日という日を


迎えていると思うの








自分を楽しませることと


甘やかす事の違いって


判断がとても難しく


感じる事があるの


自分を楽しませてあげる事は


人生の大きな課題として


多くの方が与えられている事で


とても大切な時間なのだけれど


甘やかす事は


その逆で


自分の人生の大きな影を作る事が


多いと思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


自分を楽しませてあげる事って


波動を上げる事だから


そのすべてが時間と共に


同じ喜びを運んでくれたりして


益々笑顔が増えるけれど


甘やかす事って


瞬間的なもので


時間と共にストレスに変わる事が


多いように感じているの


一見


瞬間的には同じ感情を味わうのだけれど


時間と共に


結果が違うものだと思うの


たとえば


お掃除がめんどうで


したくないなって思いながらも


スタートすると


何だかエンジンがかかって


ふっと気がつくと自分がやろうと


思っていた以上に


きれいにお掃除をし


終えた後は爽快感が広がり


時間がたって


ふっと見るところ見るところがきれいだと


嬉しくなっている所に


人が訪ねてきても


本来ならばおうちに入って


もらう事がなかった方も


きれいにお掃除しているから


気にせずに


受け入れる事で


人との縁によって


もたらされる何かを受け取れる機会を


活かす事が出来たり・・・


この場合


初めのお掃除をスタートさせるという所では


自分を喜ばすこととは結び付けにくく


自分を喜ばせるには


何もしない選択をする時もあると思うの


でも自分が思っている以上に


自分って色々なものを気にしていて


それが妨げになっていたりしている事も


あると思うの


自分がしたくない事をする選択は


自分を楽しませてあげる事とは


結びつかないのだけれど


そのあと自分が笑顔になれる


イメージができる事は


多くの場合


自分を楽しませ幸せな気持ちにしてあげる事と


結びつくんじゃないかなって


感じているの


自分を甘やかす事は


それとは別に瞬間的なもので


その事が終わると


また満たされない思いがすぐに戻り


時にはその前よりも


ストレスが感じられる流れになっている事も


多いんじゃないかなって


感じているの


ただ私たち日本人の場合は


自分に厳しすぎる方も多く


自分を喜ばせるイコール甘やかせる事のように


誤解をされる方も多く


休息する事も意識してしなければ


できない方もいるから


全ての方に当てはまるわけではないけれど


自分のライフスタイルを見つめて見て


意味のない必要のない我慢を


取り除く事で


自分がコントロールしている以上に


良い結果が運ばれてくる事も


多いと思うの


たとえば


経済的な事は多くの方が


日々計画的に考え


行動されていると思うのだけれど


お金ってまるで生命があるかのように


頑張ってストックしようとしても


そうならない面白さがあると思うの


私の知り合いは


漠然とした将来の不安を


和らげるためにとても倹約をし


二駅くらいは当たり前に歩き


おしゃれなどはせず


洋服も5年以上購入する事はなく


特にこれといった趣味を持たない方がいて


それなのに


なぜかいつも豊かさに満たされていないの


その方はローンもなく


報酬も一般的なのに・・・


とても不思議に思っていたのだけれど


ある時


その方の家で話をしている時


その方が


昨日パチンコに行って


何万円も負けた話をされて


やっと理解できたの


その方が話していたのは


日頃から頑張って節約し将来に備えて


食べたい物や着たいものを我慢していると


時々その思いが


抑えられなくなってしまうそうなの


だからといって


何かを購入するだけでは


お金が減ってしまうから


もしかしたら増えるかもしれない事で


ストレスを発散しようとし


数カ月に一度


驚くくらいの金額を失っていたようなの


客観的に見つめると


せっかく日々節約しているのに


その一日で


意味のないものになってしまうのに・・・って


思ってしまうけれど


私たちの多くは


それと似た現象を大小はあるけれど


していることが


あるんじゃないかなって


感じていたの


何気ない小さな事を我慢していると


その我慢がいっぱいになってしまった時


その方それぞれに


発散したいと思い


人によっては後になったら後悔してしまう


せっかく日々我慢して計画的に


生活しているのに


必要のないものを


たくさん買ってしまい


失ったお金の事を思い


もっとストレスを抱えてしまう方や


もっとも簡単にいつでもできる


食と言うものによって発散しようと


日頃我慢している食べたいものを


あれこれと買ってきて


食べるのだけれど


食べ終えると


今度はスタイル維持ができない不安から


嘔吐という


通常とは違う流れから


心地のよくない状態を


さらに作ってしまわれたり・・・


私たちは自分を楽しませる事よりも


あらゆることを頭で考え


計画的に自分が描く流れで


物事を進めようとするあまり


最も大切な人生の価値でもある


自分を楽しませてあげる事を


軽く思っている部分があるけれど


自分を楽しませてあげる事は


人生の使命の一つと言う大きな


意味ある事なのだから


それが満たされない時


私たちの深い部分から


まるでサイレンのように


危機を知らせるために急速に


自分を満たすよう


指令のようなものが働き


衝動的な感情が


働いてしまうんじゃないのかなって


感じているの


自分を楽しませてあげる事は


本当は容易く簡単な事が


ほとんどなのだけれど


大人になるとすぐに頭で考え


無駄か必要かと言う


二つにすぐに分けて判断し


無駄だと思えば


自分の感情を抑え込み


我慢してしまう事が多いのだと思うの


ただ感情と言うのは


その方にとってのセンサーで


無駄だと頭で考えて思う事とは違い


人生では何かしらの意味ある事が多いと


思うの


先ほど書かせていただいた


倹約家の知り合いは


本当にしたい事は


その時々ない事もなく


ある時には


お菓子作りをしたいと思ったりもするけれど


そのたびに


材料費・光熱費を気にして


我慢したり


何年か前にとっても気に入って


今でも忘れられない帽子が


あったらしいのだけれど


そんなに長い間


思い焦がれるくらいならば


おうちに招いてあげたらよかったのにって


今でも時折考えるそうなの


でも実際にはせっかく


様々な我慢をしてきたのに


パチンコで一日に何万も


使ってしまうくらいならば


毎日お菓子作りをしても


帽子を手にしていても


まだまだ経済的に余裕が持てるし


それ以上に


日々心が満たされるのに・・・


きっと頭で考えすぎて


最終的にはその我慢が


抑えられないくらいにいっぱいになった時


思考を止まり


本来ならばもっとも無駄な事に


費やしてしまう事になって


しまったんじゃないのかなって


感じているの


人の事はよく見えるし


わかるけれど


自分の事って


近すぎて冷静に見えないけれど


私たちの中にも無駄を省きながら


もっとも無駄な事を


している部分もあるんじゃないかなって


感じているの


私の知り合いの女性は


一見


意味のない事に見える時間を


大切にしていて


時には仕事をいっぱい抱えているのに


急に映画を見に行ったり


日帰りで温泉に行ったりしていて


周りは大丈夫なのかなって


心配していたのだけれど


その方も話されていたのだけれど


あれこれと考えてもだめな時には


考えれば考えるほど


焦ったり迷ったりして


良くない結果になるから


いったん


その事から


離す事をしているそうなの


自分がしたい事


楽しい事をしているうちに


色々とアイデアが湧いてきて


机の前でずっと考えているよりも


早くに仕事を終えられるそうなの


そのお話を聞いて


改めて


自分を楽しませてあげる事の重要性を


感じていたの


たとえば女性ならば


おしゃれに必要なアクセサリーやバック


お洋服・下着・化粧品など


数千円であっても


我慢する事がよくあるけれど


それを手にした時には


その真新しいエネルギーを感じ


もったいなくって戸惑う気持ちと


装う自分を映しては嬉しい気持ちと


今度はいつ身につけようかと


何段階にも楽しさや嬉しさが


増してくるものだと思うの


そしてその物質に重ねた思いが


色々な場所に


自分を運んでくれるようになって


時に誰かに褒められると


一層嬉しさが広がってきたり・・・


その事で喜びが喜びがもたらす


ホルモン物質が


健康的な美しさも


与えてくれるようになったり・・・


物でさえ自分が思っている以上の


物語を持っている事を思うと


人生の中で無駄を探すと


本当の意味で無駄なものを


探すのは難しいんじゃないのかなって


感じていたの










ふっと自分を包むあらゆるものを


見つめて見ると


不思議な共通点を


見つける事があるの


たとえば


私が深く縁がある方のほとんどが


なぜかブルーが好きだったり


私のアクセサリーを


迎えてくださる方の多くが


なぜだか音楽に関わるお仕事や


趣味とされている方が多かったり・・・


他にもたくさんあるのだけれど


この何気ない偶然の一致は


きっと私自身に意味があって


その様な方たちとご縁が


もたらされているのかなって


感じているの


私自身はピンク系の色が好きだったり


音楽も特に深くかかわってきた


記憶はないのだけれど


以前


前世を見ていただいた時


幾つもの時代生まれ変わる中で


作曲をしていたらしいので


その関係なのかなって思ったり・・・


今の私に生まれ変わってからの事を


想い出してみると


音楽を奏でるというよりは


リズムを体で感じ踊る事が好きで


今もフィットネスクラブなどでは


ダンスする時間が


何となく多かったり・・・


私たちがこの世に送り出されて間もない


幼い頃は多くの場合


今の自分としての人生よりも


前世の資質が強く表れているから


今の自分が見つめると


何であんな事に夢中だったんだろうと


思うような事もあると思うんだけれど


その幼い頃の事を想い出してみると


今の自分の中に宿るものが


見つけられると思うの


私の場合は


幼い頃


深い意味はないのだけれど


お花が大好きで


その中でもバラに特に心惹かれていて


そのバラを眺めるだけではなく


どうにかこの香りをずっと感じていたいと思った


幼い日の私は


空き地で見つけた


お酒が入っていただろうと思われる


コップを見つけ


それを家に帰って洗い


バラが地面に落した花びらを集め


コップの中に水と花びらを入れ


枕元に置いていたの


そうしたら時間と共に


その水に色と香りが移り


まるで香水のような芳しい香りがして


とても幸せだったの


ただそれは何日も楽しむのは難しく


気がつくとこのような事を


何日も繰り返していた事がったの


そしてそのあと


私の関心は石を見つける事へと


流れていったの


昔は今と違い


舗装された道が少なく


まだまだ大地の広がりを感じていた頃で


いたるところに


よーく見ると美しい変わった石などを


見つける事がよくあって


その石を集めていたの


その石を磨いてみると


思っていた以上に綺麗で


その様な事に夢中になって行ったの


この習慣は


今の私にもまだ残っていて


地球が育んだ石と対話したり


その石が私ではない


別の誰かの元へ行きたかっているのを


感じた時には


何となく直感で誰かにお譲りしたり・・・


石って生命が宿っているんじゃないかと思うくらい


私の所にいた時とは


あきらかに違う輝いた姿へと変わり


そのたびに石が望む


ご縁を結ぶ助けが出来て


よかったなって


感じているの


今地球上ではだんだんと


地球が育んできた石の数も


掘り起こしてきたので


少なくなってきていて


名もなき石を似たように加工したりして


名を持つ石として分類していて


それをあまり知らなかった私は


新たな石を受け取るたびに瞑想すると


今まで感じたエネルギーとの違いに


戸惑った事もあったの


名もなき石の場合


装飾や人を守護するためと言うよりかは


地球全体にエネルギーを与え守護するために


存在している事が多いから


私たち人間が身につけるには


パワーが強すぎて


心身のバランスが保てなくなったり・・・


なのでやっぱり


そのままひっそりと大地に


そっとしておいてあげた方が


いいんじゃないかなって


思ったり・・・


今昔からあった鉱山も


石の産出ができなくなって


閉鎖してしまった所も多く


本物と出会う機会も少なくなってきていて


自分で見つけるのは難しいと感じた私は


今は信頼できる方にお願いして


探してもらっているの


石って飽きっぽい私でも


飽きる事がないくらい


知れば知るほど深くって


一生大切にしたいもののひとつなの


私が昔親しくしていた方の


お母様がパートで


精密機器の会社で働かれていた時


もらった水晶を


その方が持っていて


精神世界に関心のあったその方は


よく私に


今私たちが何気なく使い


最も必要としているものの多くの中には


安定した波動を持つ水晶や鉱物が使われている事を


教えてくれて


改めて石の不思議なエネルギーを


感じた事があって


その具体的な仕組みを


専門分野の方でも知らないけれど


ずっと長い間


精密機械には使われていて


鉱山が閉鎖している今では


新たに鉱山を作るよりも


リサイクルするほうが


効率がよいとの事らしいの


そう思って見つめて見ると


私たちは仕組みなどは具体的には知らないけれど


自然が育んだ


あらゆるものに助けられ


支えられているんじゃないかなって


感じていたの










私がよく感じている事なのだけれど


人生は帳尻があっていて


バランスが保たれているように


感じているの


ただ私たちは良い事とその逆の事が


時間差で届けられるから


全てが偶然に感じているけれど


もしも長く見つめて見ると


得も損もないように


感じているの


よく成功されたたちが


奉仕的な活動をされるのも


トータル的に見つめて見ると


良い流れを保つためには必要な活動で


たとえそうされている方たちにとっては


アピールや税金の関係でされていて


偽善に映ったとしても


結果誰かを救っていたりする事で


その方の人生のバランスが


整っているんじゃないかなって


感じているの


多くの方たちは


受け取る事・得る事だけに意識を注がれ


それが叶った時


運が良かったと感じる事が多いけれど


私が感じているのは


何かを受け取るという事は


それと同じくらいかもしくは


それに重なる逆の出来事があると思うの


そしてその逆のものを


受け取る事なく穏やかに過ごすためには


何かを人に与える事も


受け取ることと同じくらいに


大切だと思うの


人によっては無意識に


物質的な豊かさを受け取った時には


おすそわけと言う


素敵な習慣を持っていて


運のバランスを保たれていて


与えるという事で


益々豊かになっていたり・・・


人生って不思議な事で溢れているけれど


与えれば与えるほど


本来ならば手元から少なくなるはずなのに


そうならないものなのだと思うの


私たちが瞳に映るものの多くは


自分や周りの幸せのために


神様が用意してくれたもので


大切だからと


しまっておき


光にふれる事なく


ほこりがかぶってしまっては


ならないと思うの


少しお話は違うのだけれど


独身の頃


今考えても不思議なほど


運の流れが強力に良かった事があって


ある時にはたまたま入ったお店で


キャンペーンがやっていて


食事が無料になったり


またある時には


落し物を拾い交番に届けていたのを忘れていたものを


交番に受け取りに来た方が


私にお礼を伝えたいとの事で


足を運ぶと謝礼をとご厚意で


くださろうとしたのだけれど


金額が大きく何となく


遠慮させてもらったら


その方がたまたま温泉を経営されている方で


名刺を出したら


無料になるようにさせてもらうのでって


名刺を頂き


大好きな温泉に何度も行けたり・・・


そんな私を見ていた周りの友人や知り合いが


運があるからとお願いされて


あまり足を運ぶ事がなかった


パチンコや競馬などに連れて行かれたの


その時知り合いや友人が


「どこが出ると思う?」


「何が当たると思うの?」」と尋ねられて


本来ならわかるはずがないのに


パチンコの場合は


並んでいる台を見ていると


その列に数台他とは光が違い


輝いているように見えて


友人や知り合いに教えると


本当に大当たりするの


ただ私は他に用があるので


すぐに帰る事が多かったのだけれど


夕方になると知り合いや友人から


電話をもらいお礼と共に


次に会った時には


その時受け取ったお金の何割かを


私にくれたの


その様な事が2ヶ月くらいの間続いて


ふっと「何で何もしていないのに


こんなにお金が集まってくるんだろう」って


考えていたの


そうしたら運の変わり目の時


何かあったかなって


考えて見ると


その時は私の大好きだった伯父が


天国へ旅立ったあとすぐから


このような事が続きだした気がして


この運がよく映る事には


意味があるんじゃないかなって感じ


それが何なのかわかるように


私に教えてほしい事を願ったの


そうしたら


大切な伯父の奥さんが


私の実家へ毎日のように


寂しさから電話をしている事を知ったの


その電話を受ける


私の父も母も


人と深く交流する事から離れた


大人になっていたので


相手のさびしい気持ちはわかっても


煩わしさの方が強く感じていたようで


「あんた暇なんだから


遊びに行ってあげなさい」といって


私に列車代などを手渡してくれたの


その時


「あ!このためだったのかな」って思い


その日に叔母の家に向かったの


そして1ヶ月くらい叔母の家にいて


自分ができる事を色々させてもらったの


まぁほとんどが話を聞いてあげるだけしか


できなかったのだけれど・・・


それでもみんなから受け取ったお金は


まだまだあったので


両親を沖縄へ連れて行ったり


いつもお世話になっている友人と


人生に一度行けつか行けないかと


思うくらいの贅沢な料理を


ごちそうさせてもらったり・・・


様々な事をさせてもらったの


伯父は生前の感謝と


家族をよろしくと言う思いで


もっとも霊的な瞳に映らない


言葉にできない感覚を持つ私に


そういう流れで


私に色々と与えてくれていたんだと思うの


運の流れって


必ず変わり目があって


その変わり目は多くの場合


かならずきっかけとなる


出来事があったりすると思うの


たとえば日頃会わない人に会って話したとか


普段足を運ばない場所に行ったなど


自分が知らない間に


まるで体質が変わるみたいに


急に流れが変わる事があると思うの


ただ思うのは


運が滞在してくれる時間は


その方の波動や資質によって違っていて


たとえば運をよくしたいと


ラッキーだと伝えられるアイテムや場所に


足を運んでも


その運の心地よいものが


その方になければ


一瞬の出来事として通り過ぎていったり


逆に実力や努力を重ねていたのに


運だけが・・・と言う方にとっては


運の変わり目によって


人生が大きく変わる事も


あるんじゃないかなって


感じているの


運は小さなひな鳥のように


手のひらにそっと乗せて置くと


安心してそこで眠ってしまう事もあるけれど


捕まえようとすると途端に


逃げてしまうように


運もつかもうとすればするほど


逃げて行く事もあるんじゃないかなって


感じているの


言葉では上手に表現できないのだけれど


よくよくない行いをしたと思う事があった時


(恋愛の場合)は


女性にその酬いが届けられる事が多く


男性は比較的その様な事が


少ない事があると思うの


それは私が感じているのは


社会の中では無条件で


男性が女性に経済的な支えとなる事が


当たり前のように


表現されてはいるけれど


それは人間社会の中で作られた事で


一人一人の人間として見つめて見ると


男性が女性の経済的な支えとなる


義務を持っていないのに


そうしている事で


与えるという事で


人生の帳尻や運の流れを


自ら調整されている方が


無意識に多く


その事で


よくない行いをしたと思う事があった時


(恋愛の場合)でも


男性は無意識にその酬いから


避けられている事が


多いんじゃないかなって


感じているの


ただ女性が自立していて


互いに対等に過ごされている方の場合は


男性にその酬いが届けられる事も


多いように思うの


私の父が昔


何か運の流れがよくなくなると


なぜかその流れが私に移され


今でもよく家族で語るくらい


理不尽な出来事ばかりが


私に届けられ


何をしても裏目に出て


本当につらい時期があったの


その時父が能天気に


「俺は日頃からいい事をしているから


悪い事から守られているから


俺に来る事が


俺にとって大事なお前に行くんだ」と


表現していて


「はぁ?それって何?」と


少し怒り気味に父に尋ねると


父は


「俺の運が悪い時


俺に直接くる分には


そんなに辛いとは思わないけど


自分でどうする事も出来ない


家族が辛い目にあうのは


最も辛い事だろう


そして俺はこういう事があるたびに


若い時イキがって


人にひどい事をした事を反省したり


色々考えるわけさ


必ず人生は自分がやった事が


戻ってくるんだよな」と


語っていたの


父は学もなく本も読まない人なので


動物的な直感や感覚で感じた事を


時々語るのだけれど


とても納得していたの


そう思うといつも


自分が受け取りたい物や事柄と同じくらいに


受け取りたい事を


人に与えられる事を


自分のためのチャンスとして受けとめ


出し惜しむ事なく


人に手渡しているかなって


思い起こしていたの