2013年2月





世の中ではよく


あらゆるものを計る価値基準のようなものが


表現されているけれど


それはあくまでも


わかりやすく一つの能力であって


多くの方が持っている


共通の価値基準の一つだと思うの


ミクロで見る目て見ると


価値基準は


人の数ほど多くなってしまい


平均がわからなくなってしまうから


わかりやすく


提示しているだけなんじゃないかなって


感じているの


それなのに私は時に


その基準値を自分に重ね


満たせているかどうかで


自分の価値さえ計り


心曇らせてしまう事も


あるんじゃないかなって思うの


たとえばよく表現されるのは


男性は経済力が


あるかどうかで多くの事を計られ


女性は女性で


若さと容姿で計られる事が


あるけれど


それは大きな社会の中で


語られる魅力や能力の一つであって


もっともわかりやすいから


語られるだけであって


一対一で繋がりあう時には


その様な事がその人を計る事ではなく


その方の頑張ってきた姿や考え方など


経済や美意識とは違った


能力や価値観で


その方個人の素晴らしさを


周りが感じ


繋がりあうものだと思うの


その方の中にある光輝く


本当の価値を心の瞳に映しながら


繋がりあっていると思うの


そして本当は価値観は


誰もが同じように感じてはいなく


たとえばお金も物質も


誰から見ても同じ価値を


持っているはずなのに


人によってはそのお金や物質に


あらゆる思いを重ね


数字に換算できないほどの


価値を感じる事も


あるんじゃないかなって


感じているの


たとえば誰から見ても


数百円のものであっても


手渡してくれた人が


自分の大切な人が


それをどのような思いで購入したかを


思うだけで


その数百円の価値が


その方にとっては誰にも譲れないくらいの


価値を生み出す時もあると思うの


私事なのだけれど


結婚して間もない頃


パートナーも若く


経済的に大変だった時があって


ある時


お掃除をしていた私は


たまたま五千円を見つけた事がって


何となくその事を深く考える事なく喜び


せっかくだからと日々食べたかった


ごちそうを作ろうと思い


食材をたくさん買って


料理を作ったの


そしてパートナーが帰ってきた時


いつもとは違う食卓を見て


「どうしたの?」と尋ねてきたので


私は


「お掃除していたら


五千円見つけたから


おいしいものを食べようかなって思って」と


伝えると


パートナーは


「え!そのお金ってもしかして


あの辺で見つけたの?」と


何だか不安そうな表情になっていたの


その表情を見つめて


もしかしたら彼が貯めていたお金を


使ってしまったのかなって思い


戸惑っていると


パートナーは


「あのお金は初めてさーちゃんが


俺におごってくれた時の


お金だったんだよ


おごってくれた時


記念にとっておきたいから


その時は俺が払ったんだ・・・」と


伝えてくれた時


ハッとしたの


五千円は五千円だから


価値は変わらないけれど


彼にとっては新たに受け取る



五千円とはまた違う価値を


持っているのを感じ


大切な事を教えてもらった


気がしたの


そう思って自分に重ねて見ると


私も未だに10歳くらいの時


母が結婚してから


初めて働いたお金で買ってもらった


ミッキーマウスの腕時計を


大切に持っていて


使おうと思えば使えるのだけれど


そのためにはバンドを大人サイズに


取り変えなければならなくて


そうなると


何だか私にとっては


想い出まで消えてしまうような


せつない気持ちを感じ


未だに子供の頃のサイズのまま


時計を大切に持っているの


きっと数字で換算すると今では


数百円にしかならないくらいのものだとは


思うのだけれど


私にとっては手放せないくらい


価値を持っているの


私たち人間は


数字では測れない


その人それぞれの価値を計る


計りが心にセットされていると思うの


でも人生を歩んでゆく中で


心や感情がすり減るような


体験を受け取り過ごされた方は


たとえ経済的に豊かになっても


心の計りが壊れてしまい


世の中で表現される


価値基準でしか


物事を計れなくなってしまうんじゃ


ないかなって感じているの





知り合いの経営するナイトクラブに


一時的に社会勉強をさせてもらっていた頃


周りの女性たちは


若さと美しさによって


人によっては何の努力もせずに


大きな経済を日々受け取り


過ごしていたのだけれど


初めは喜びや感謝も大きく


自分を指名してくれるお客さんや


関わる人たちへの感謝を持っていたのが


時間を重ねるうちに


その感謝もなくなり


時に自分に持ってきてくれる


プレゼントさえも


数字で換算し


高価なもの以外は


意味を持たないもののように


捨てていたの


その時


簡単に大きな経済を手にしていて


うらやましく


与えられ受け取るばかりのように


映っていた方たちだったけれど


その方たちはそれとは引き換えに


最も大切な


心や精神性を


すり減らし過ごしているのかなって


感じていたの


もちろん本人は感じていないのだけれど・・・


一度減ってしまうとそう簡単には


心も精神性も満たす事は難しいのか


その後


その方たちの事を知り合いなどに


聞く機会があって耳にするのだけれど


幸せに暮らしている方が少なく


それを聞きながら


改めて


瞳には映らない言葉にできないものの


大切さを感じた事を


想い出していたの


人はわかりやすい


お金や物質が減る事には


とても敏感に反応するけれど


時間や心が


まるで砂時計のように


減ってゆく事には


無関心な部分が


あると思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


私たち人間は高度に進化した部分が


備わっていて


本当は感じ見えているものを


意識では見えない事のようにする事で日々


前に進み過ごしているのだけれど


その時見えないようにしていても


心身はちゃんと把握していて


大きなストレスを感じている事も


あるから


時には自分の心が満たされているのかを


尋ねてあげる事は


とても大切な事だと思うの


私たちは瞳に映したもの


その時感じた感情など


あらゆるものすべてを


ストックして


全てを意識に登らせてしまうと


混乱してしまうから


自分が意識したもの以外は


まるでないもののように


なっているけれど


自分が瞳に映したもの


その時感じた感情は


ふっとした時


自分が迷い何かの答えを求める時などに


よいかどうかは別に


選択肢の一つになっていると思うの


そう思って考えてみると


できるだけ


自分が望むものを瞳に映し


その場所で


喜びや幸せの感情を感じる事が


自分の内側にストックされ


自分が迷った時や答えを望む時に


素晴らしいヒントや


導きを与えてくれるんじゃないかなって


感じているの


そして価値は


周りから与えられるものではなく


自分の深い部分から感じるものなのだから


元々特別な自分自身を


あらゆる価値基準に重ねる事なく


過ごす事が大切なんじゃ


ないかなって感じているの










人の周りには


見えないエネルギーがいつも


オーラのように漂っているのを


改めて感じる出来事が


この間あったの


何気なく友人とカフェに入って


注文をしている時


気を使ってくれた店員さんが


席を先に用意してくれる時


どこでもよかった私は


「あの席でお願いします」と伝えた時


ふっと友人の表情が心曇ったのが


瞬間的に感じたのだけれど


まぁいいかなって


そのまま店員さんにお願いしたの


そうして私も友人も


カウンターで注文し


注文したものを受け取ろうとした時


なぜだか同じものを注文したはずなのに


友人の注文だけが違うもので


間違っている事を


友人が伝えると


店員さんが謝罪と共に


改めて用意をしようとしたのだけれど


先ほど注文を受けてくれた方ではなく


不慣れな店員さんに代わっていて


驚くほど時間がかかっていて


友人のイライラが伝わってきたの


その時ふっと


なぜ?このような流れが


できたのだろうって思った時


ハッとしたの


最初のちょっとした嫌な思いを


友人が感じた瞬間に


それと同じ波動と同じものを


引き寄せてしまったんじゃないかなって


感じていたの


もちろん友人は特に何も感じる事は


なかったのだけれど


色々な事に意味を見つける癖がある私は


偶然のように映る出来事も


私の瞳に映っている事に


深い意味を感じていたの


その逆に


わけもなく楽しくワクワクしている時には


自分が足を運ぶ所々で


嬉しい出来事があって


本来ならば頂く事のないお菓子を頂いたり


朝ポストを見ると


何気なく書いた事も忘れていた


アンケートが採用された事のお知らせと


そのお礼にと商品券が


届けられたり・・・


一見偶然のように映る


何気ない事ではあるけれど


偶然もタイミングが調整されていて


時間を早巻きできたり


なかなかタイミングが整わず


別の誰かの元に流れていったりしながら


全ての出来事は


その時々の自分にフィットしたものが


用意されているのかなって


感じていたの


もちろん自分の波動がとても良い時であっても


あれ?って思うような


心地のよくないものが


届けられる事もあるけれど


それはアンラッキーなものではなく


波動がよい時に届けられると


よい答えや選択をしやすいから


人生でいずれは解決しなければならない


出来事であったならば


よい時に受け取った方が


深刻になり過ぎる事もなく


よい結果を生み出しやすいから


それもある意味で


ラッキーな事だったりもすると思うの


最近私の友人が


パートナーの会社から届いた


配偶者が受けられる検診のお知らせを見て


何気なく検診した結果


脳に小さな動脈瘤がある事が


見つかったのだけれど


もちろん何もなかった方がよいのだけれど


見る角度を変えると


取っても早い段階で見つけられる


このタイミングが与えられ


それを偶然のように感じながらも


その直感のまま動く事で


本来ならば予約も難しい先生に


検査や手術を受けられる運びになって


本人もこの出来事が


逆にラッキーな出来事だと


人生を長いベースで見つめながら


感じているようなの


見つかった当初


友人と話していた時


友人が何気なく


「子供が小さいし


私がいなくなるわけにはいかないから」と


会話の中で聞いた時


誰かのためにって思う事が


あらゆる恐怖や不安を超えて


色々な事を


決断させてくれるものなんだなって


とても感じていたの


昔誰かの前で


何かの出来事が届けられた時


心曇り「なんて私はついていないんだろう」と


溜息と重ねて


表現していた時に


見方を変えれば


色々な事が変わってくるよって


教えられた事があって


ひねくれ者の私は


「それって変わるんじゃなくって


自分がそうじゃないって思い込みだけでしょ


現実は何も変わらないんじゃない」と


思っていたし伝えたの


今思えば


その方はまだ私には説明をしても


理解が難しいと思ったのか


「そうだね


でもそう思う方が楽でしょ」って


短い言葉をくれたの


でも数年後


その方が伝えてくれようとした


言葉になっていない重なる思いが


今はわかる気がしているの









年齢を重ねなければ


見えないものや感じないものが


たくさんあって


日々過去のあらゆることが


愛しく感謝が溢れているの


そして自分は過去と何にも


進化できていないように感じていたけれど


本当はちょっぴりずつではあるけれど


強くなっているんだなって


感じたり・・・


昔は頬にニキビを見つけただけで


その事が気になって


人に会いたくない


気持ちになったりしていたのに


今ではもっと気にした方が


いいんじゃないかと思うくらい


気に留めていなかったり(笑)


幼い頃は


毎日が初めての体験に溢れていて


慣れるという時期ではないから


届けられる出来事に


心がついてゆけなかったと思うの


それゆえに


今では感じる事が少ない


刺激と戸惑いの中


自分というものを


見つけながら過ごしていたように思うの


ただいくつになっても


初めてふれる出来事は


今でもいっぱいあって


戸惑うのは


幼い頃と変わらないのだけれど・・・


年齢を重ねて強くなったなって


もっとも感じるのは


思い煩う時間が


短くなった事のように


感じているの


昔ならばあらゆる方向から考えて


糸口がわからなくなるくらい


グルグルになって


自分でぐちゃぐちゃにしてしまった糸を


紐解いてゆくような流れだったのが


今は問題に対して


溢れる感情を感じながらも


もう一人の自分は答えを


探すというよりは


これでいいかなって


決めている感じなの


それもきっと短い人生経験の中で


考えても自分が導きだす答えが


わかっているからだと思うの


昔は時間というものを無限のように


感じていたけれど


無意識に


年齢を重ねてからは


時間の大切さを自分の内蔵されている


タイマーが感じているのか


あっちこっちに悩みや考えを広げる事が


少なくなってきているのかなって


感じているの


私の周りもやはりそうで


答えを導き出すことに時間が必要だった


若い頃とは違い


答えはすぐに決まるのだけれど


考える事と言えば


その答えを成就するための方法という


流れになっているの


なので私の周りはアドバイスを必要としない


報告スタイルのものが多いの


女性の人生は


スタンダードに結婚し母になり


そして未来へと繋がる命を


育み過ごす方や


その逆に人生の限られた時間を


自分の可能性に注ぎ過ごす方など


私の周りには


様々な方がいるのだけれど


互いに一個人になると


やはり心重なる部分もあって


ファッションや美容の話しなどしながら


なんだかいいなって


あたたかいものに包まれていたの


女性同士って共感しあえる時には


異性では感じられない


大きな至福を感じるけれど


心のコンディションが整っていない時だと


何となく違う生き方の人に


わざわざ刺激するように


幸せ芝居するような見栄をはったり・・・


私もよく病の頃は


どうにか自分の心が折れてしまわないように


別の方向の幸せを見つけようとしていて


今まで以上に自由に


したい事をしていた頃


スタンダードに歩んでいる知り合いに


「幸せなのはわかるけど


女性としてのお仕事がまだ残ってるんだから


早くした方がいいよ


子供を産まなかったら


将来寂しいよ」と


伝えられた事がって


病だとわかっていて


そんな事を言うなんて・・・と


私は私で元々心が揺れ動いている時だったから


流す事が出来ず


伝えた知り合いは知り合いで


後になって知ったことだけれど


その頃離婚や子供の事で


抱えきれないほどの問題を抱えていたようで


つい自由に楽しげにしていた私が


うらやましかったそうなの


本来いじわるな方でなくっても


心がいっぱい・いっぱいになってしまうと


最も好きになれない


自分になってしまう事って


あると思うの


女性の人生って


本当はあらゆる可能性を秘めているだけに


あらゆる部分で重ねてしまう事も


多いと思うの


ないものねだりと言えば


そうなのだけれど


自分が選ばなかった人生が輝いて見える時は


今ほんのちょっと


休息が必要だと心が感じているだけで


しっかりと考えて考えて


その時々もっとも


よいと思うものを選び取ったのだから


選び取らなかった人生が


今の人生よりも


よいはずがないと思うの


心が疲れてしまうと


何もかもが間違っていたのかなって思うものを


過去から探し出しては


益々その様な気持ちを


広げてしまうのだと思うの


よく年齢を重ねると


した事で後悔するよりも


しなかった事での後悔の方が大きく多いと


表現されるけれど


それを思うと


色々な思いを過去で感じるのは


本当はたくさんの経験を出来たからこそ感じる


人生の豊かさなのかなって


感じているの








今は新たな時代を迎えるために


様々な事がピックアップされていて


今までは当たり前のように


思い過ごしていた方と


新たな時代を


迎え入れようとする人々との間で


色々な分野で議論がされる機会も


多くなっていると思うの


たとえば運動に関わる方たちの中では


厳しさや教えに寄り添うように


言葉だけではない行動が


あったのだけれど


今まではその事に


特別疑問を持つ事もなく


受け入れながら


見つめ過ごされていた方も


多かったのだけれど


新たな時代を迎えようとする今は


とても問題になっていて


大きな時代の変化を感じているの


ただ私が感じているのは


このようなことに疑問を


持つようになったのは


昔とは違い


指導者への尊敬と信頼を持つ事が


育まれる事よりも先に


厳しさや教えに寄り添うように


言葉だけではない行動がある事で


なぜ?このような事を


されなければならないのだろうとか


なぜ?このような事を


しなければならないのだろうなど


不快な疑問が広がっていたり・・・


指導者ももっとも簡単な方法を選択し


言葉で心を導くという


長く根気のいる方法ではなく


もっとも簡単でスピーディな


恐怖と言うもので支配をして


思い通りに動かそうとしている方も


いるんじゃないかなって


感じているの


私が若い頃は今よりも


言葉を上手に話し伝えられない


大人も多く


何かを学ぶ時


厳しさや教えに寄り添うように


言葉だけではない行動が


よくあったの


でも時代は多数派がカラーを作る事もあって


いくら理不尽だなって


感じて表現しても


受け入れられる事は少なく


なんだろうなって思う事も多かったけれど


今の私にとっては


そのよいとは思えない出来事のおかげで


私が大人になった時には


幼い年代の人の話も


ちゃんと聞いてあげたいなって思ったり・・・


何でもそうだけれど


新たな時代から過去を見つめると


え!?って思う事も多いけれど


進化した時代に立つ人々から見つめると


過去を見つめ疑問に思う事は


あらゆる事で多いとは思うのだけれど


過去はあくまでも


その時の時代の常識の違いであったり


知識の違いなどであって


その当時の人々にとっては


その前の時代よりも少しずつ進化して


それがその時には


ベストだと思う方が多かったから


時代のカラーになっていただけだから


仕方がない部分もあると思うの


今の子供たちが大人になって


今と言う時が過去になった時


私たちが常識だと思っている事の中にも


もしかしたら


非常識になっている事もあるのだから・・・


ただ時代の節目を迎えている今は


新たな常識などが


幾つも生まれてくる時だから


新たなものを


受け入れられる


自分自身を作ってゆく事も


大切なのかなって


感じているの








私たちは時々


「こうしなければ」とか


「こうでなければ」という


厳しい判断を


自分に重ねては


そうできない自分を


批判してしまったりしてしまう事が


あると思うの


私自身


誰もが当たり前すぎて


意識せずにできている事さえ


意識して努力をしなければ


できない事も多く


そんな自分を感じるたびに


「私って・・・」と


自分を好きになれなくなる事も


あるの


たとえば寝起きも


私は自分でも理解できないのだけれど


気になる事があると


それを自分の中で満足するまで


意識がそこに注がれ


その日は眠る準備が整わず


ついまた眠る時間のバランスが


整わなくなったりして・・・


あ~また・・・私って


何をしているんだろうの


繰り返しだったの


このような小さく映る事も


私にとっては大きな事なの


周りから見つめると


小さな事であっても


本人にとっては大きな出来事と


なっている事って誰にでもあって


深く仲良くなってみると


誰もがそれを個性として


持っているのを知るの


そのたびに


ちょっぴりホッとするの


私が最近仲良くなった友人は


ずっとうなじのうぶ毛を


気にしていたようで


とても暑い日でも


ストールなどを巻き過ごしていたので


「暑くないの?」と尋ねると


「暑いよ~でも


うなじが見えるの嫌なの」といったので


見せて見せてとちょっぴり強引に


見せてもらったの


そうしたら私には


どこが気になるポイントなのかが


わからないくらいだったのだけれど


本人にとっては


その事が長年


気になる事だったようなの


もちろん


「そんなの気にする事はないよ」って


表現するのは簡単だし


時には軽い出来事ならば


そう伝えられるだけで


軽くなれる事もあるけれど


きっとその様な事は


今まで何度も伝えられてきた


はずだと思った私は


自分が足を運んでいるサロンを


教えたの


そうしたら彼女は


その後


自分が気にしていた事が


解消されたからなのか


自信溢れ


ポニーテールで過ごしているの


よく女性は男性よりも


微妙な変化に敏感だと


伝えられているけれど


本来ならば子育てに必要な能力として


与えられ備わっている部分が


自分に向けられていて


その微妙な変化に


一喜一憂してしまう事も


あるんじゃないかなって


感じていたの


周りからはわからないくらいの微妙で


小さな事であっても


自分が望む形と自分が近づき


重なる部分を見つけると


それだけで一日


幸せな気持ちに包まれたり・・・


私たちの多くは周りから


手渡されるあらゆる言葉や評価よりも


自分の内側で感じる自分を


評価する事の方が


何よりも厳しく


自分が描く理想の自分の型に


自分をはめようと


日々心と行動が


葛藤している部分が


あるんじゃないかなって


感じているの


でもその理想の型も


本当に自分が望んでいるものなのかは


疑問で


多くの人がそう思っているから・・・という


漠然としたものを


自分が理想とする型に


しているだけだったり・・・


今では少しずつ


そのような洗脳や呪縛のようなものから


解き放たれて


批判や否定を怖れずに


本当に自分にフィットした幸せを


そのまま受け入れ笑顔で過ごされている方も


多くなっていると思うの


私自身も寝起きが


なかなか整わなくっても


そんなに悩む事は本当はなく


今の時代はありがたい事に


昼夜問わずに満たす事が


出来るのだから・・・


自分を無理に型にはめようとして


わざわざ心を揺らす事は


ないんじゃないかなって感じ


最近はそんなリズムの自分を


少しずつ受け入れながら


自分に会った予定を立てているの


私の周りには自分にないものを


兼ね備え


目標としたいくらい


あこがれる人たちがいて


会うたびにその時は


たくさんエネルギーをもらうのだけれど


一人になってしばらくすると


「なぜ私はみんなのように


頑張れないのだろう」とか


自分を肯定できない気持ちが


広がる事が


よくあったのだけれど


そんな時母に


「いろんな人がいていんだよ


みんながみんな立派だったら


世の中面白くなくなっちゃうんだから・・・


立派な人だって


もしかしたらあんたができて


その人たちには


できない事はあるんだよ


あんたの周りは何でもできる人が多いのは


その人たちの望むものを


あんたが満たしているからかもよ


世の中の多くの人は


自分の話を聞いてほしい人とか


自分の親切を快く


ありがたく感じてくれる人を


求めているけど


実際には人のそう楽しくない話を


聞いてくれる人もいないし


人に何かしてもらうのも


何か恩着せがましくされたり


するかもしれないし


考えると面倒でしょ


だから多くの人は


好きじゃないと思うの


その目には見えないもっと望むものを


あんたが満たしているんじゃないの


人って結局


評価に値しないようなものが


大事で生きられたりさ」と


伝えられ


人は色々な形で役立ち


必要とされているのかなって


嬉しくなったの


それから私は私のできる事


そしてしたいと望む事を


していったらいいんじゃないかなって


自分に暗示のようにささやき


自分を少しでも肯定できるように


働きかけているの









人生でいつも何かしらの問題を抱え


荷を下ろし


ホッとし過ごす時間を


持つ事なく


過ごされている方や


人よりもストレスを感じやすい方も


いると思うのだけれど


その方たちにとっては


多くの問題は外から運ばれてきたような


感覚を持っているとは


思うのだけれど


本当は全て


自分の内側の問題だったりするんじゃ


ないかなって思うの


問題と思う出来事は


誰の元にも


人生を生きていたならば


あるけれど


問題を多く抱えすぎてしまう方も


ストレスを少し過剰に感じてしまう方も


自分ではなかなか気づけない


クセのようなものによって


自分を解放できずにいる


だけだと思うの


私の知り合いには


いつも何かしらの問題に悩み


心晴れた彼女を見た事がなかったの


ある時にはしたい仕事を望み


それに備えて努力を重ね過ごし


念願かなって


望む仕事を得られたのだけれど


私たち友人たちが


良かったねって喜びを伝える間もなく


今度は「私にはこの仕事は向いていない


だからやめたいの


でもやめて仕事探すのも大変だし」と


仕事に悩む時期を過ごし


その頃の彼女は


会社で大変な中過ごし悩む思いを


いつも表現していたの


そして今度はずっと望んでいた結婚をし


会社を退職し


私たちは彼女が思い煩っていた事から


解放されてよかったって


思っていたのだけれど


しばらくして結婚のお祝いに


友人たち数人と食事をする事になって


会ってみると


「会社辞めなければ良かった


私は結婚には向いていないかも


でも子供が欲しいから別れるのは・・・」と


話していたの


そして2年後


彼女が望んでいた母親になる機会を


与えられたのだけれど


今度は「仕事に復帰したいと思っていた時に


あまりにもタイミングが


悪すぎるんだよねどうしよう」と


語っていたの


その時ふっと


彼女は自ら幸せにならない努力を


無意識にしているんじゃないのかなって


感じていたの


その原因はきっと


彼女自身も


あまりにも深い部分にしまいこみ


引き出す事が難しくなっていて


なかなか気づく事は


難しいかもしれないのだけれど


その原因は本人にしか


見つける事も解消してあげるのも


できないことだと思うの


多くの方は


自分を幸せにしてあげるために


努力をし過ごしていると


思いこんでいるけれど


時に自らが幸せになろうとする事を


自らで阻止し


わざわざ迷路の中から出られないように


不思議な工夫をしている事も


あると思うの


人によってはストレートに


周りから心配してもらう事や


気にかけてもらう事で


自分の価値を認識する癖を持っていて


つい無意識に


周りが心配してしまうような


悩みや問題を表現したりする事は


幼い頃に母親の愛情を


自分に注ぐために生み出す事が


多いのだけれど


大人の階段を上る中で


エゴが小さくなって愛へ移行し


心配かけたりする事が


相手にとって良い贈り物にならない事を


感じられるようになって


今度は頑張りすぎて弱い自分を


出せない事に悩んだり・・・


そんな風に過ごすうちに


自分も周りも同じくらい


幸せな笑顔にしてあげたい


思いになると思うの


でも何か大きく深い


何か原因を秘めていると


意識では幸せになりたいと思っているけれど


実際に幸せの入り口に立つと


まるでそれを拒絶するかのような


行動をしてしまうのだと思うの


私の母が少しそんな部分があって


私が幼いころから


問題をたくさん抱えている人で


その周りで過ごす人たちも


問題が多いような人ばかりだったの


その中には私もいて


言葉では上手に表現できないのだけれど


母が望む母の姿でいるために


近くにいる周りの人々は


無意識に望まれている姿を


演じている部分が少なからず


あったような気もしていて


問題が多い


状態になってしまうの


表現が難しいのだけれど


母は自分が「こんなにもしているのに


報われずかわいそうな自分」から


抜け出せずにいて


母にとってはそれがよいことだと


本当に思いこんでいたのか


そうする姿を周りから評価される事が


心地よかったのかは


母にしか分からない事なのだけれど


わざわざ問題を背負い込むけれど


抱えきれない辛さから


家族の前では不平不満を


よく表現していたの


20代になっていた私は母に


「そんない嫌ならなぜそんな事をするの?」と


尋ねると


「だってかわいそうでしょ」から始まり


自分の慈悲深さを語っていたのだけれど


今よりもストレートで


人の気持ちをくみ取ることができない


20代の私は


「かわいそうかわいそうって


私から見ると母さんが


一番かわいそうなんじゃない


自分が抱えきれないほど


問題抱えるのって


単に人に評価されたいからでしょ


それは人のためではなく


自分のためだと思うけど」と


表現すると


母の深い部分を刺激したからなのか


急に怒り出し


「私がしなければみんな困るでしょ


それならいい


もう何もしないから」といい


周りからの頼みごとも断り


家の中では食事を作るのもやめた時があって


初めのうちは父も食事の用意を


母にしてくれるように


伝えていたけれど


父も元々は何でもできる人だから


自分で作るようになって


私の分まで作ってくれるようになったの


私も父も


変わった環境に合わせて


自分でできる事は


何となくではあるけれどするようになって


母は多くの自由な時間を


与えられたはずだったのだけれど


今度は母自身が問題を作り


その問題を解決するために


父や私は長い時間を注ぐ事となったの


その問題は数年前まで続き


結婚した私たちにも


思い煩う事の一つにも


なっていたくらいなの


そんな時ある方から


兄弟・姉妹であっても


生まれる順番によって


持って生まれた特徴がある事を


どこかで聞いた友人が


何気ない会話の中で話していて


まん中生まれの母の特徴が重なり


母に伝えたの


その中には親の注目を自然な形では


得られないから


幼いころから注目を得ることに


努力をしてきた事や


親からの期待も注目もない分


自立心が強くある事など


母は共感しながら


自分の幼い頃の思い出を語り


時には涙が溢れていたの


そんな機会を何度も重ねているうちに


母はありのままの自分を


ゆっくりと肯定できるように


なっていったからなのか


問題を作る事も


自ら問題を抱えすぎてしまう事もなくなり


今更ながらここ数年


母の素晴らしい資質や個性を


感じる事が多いの


昔から母はストレスを感じやすい人で


その原因も


まじめな母だからこそ


感じていたものだたったと思うの


自分には自分の型枠のようなものが


いろんな場面で持っていて


自分はきちんとしているからこそ


人にもそれをつい求めてしまい


どこかへ足を運んだり


人と会ったり


ちょっとした場面ですぐに


ストレスを抱えてしまっていたの


そんな部分も


自分を肯定できるようになった今では


本来ならストレスを感じる


出来事と出会っても


「いや~この年まで


あんな考えの人がいる事を


知らなかったよ


死ぬまで知らないことだらけ


なんだろうね


あはははは」と


自分の考えの正しさを証明するため


相手を否定する事もなく


笑える母を


いつも尊敬してしまうくらいなの


そんな母とふれあうたびに


あらためて


自分を肯定し受け入れ愛してあげる事の


素晴らしさと


大切さを感じているの