2013年1月





新たな年を迎え


いつものように


今年の流れや特徴などを


瞑想によって受け取っていたの


今年はここ何十年とは


少し違う流れが現れるようなの


本来誰にでも宿っている


「運」というものがお休みをし


その事でその方それぞれの


本当の資質にフィットしたものが


人生に届けられるようなの


なので今までは


運にカバーされ


特に努力もせずにいても


あらゆる力によって


整っていた方にとっては


初めてあらゆる運の恵みが


休息する事で


自分自身が歩んできた道で播いた種が


知らず知らずに


実をつけたままになっていたものを


受け取る年となりそうなの


その事によって


自分を見つめ


反省と共に


改めて自分の内に宿る


本当の自分を見つけながら


新たに生まれ変わるための


きっかけを受け取る


年になると思うの


そして逆に


今まで真摯に物事と向き合い


どんな時にも


精神性を高める事を大切に


過ごされ


どんなに努力を重ねても


思うような実りを感じられず


心の真実に従い過ごしながらも


人生に不安や不信感


そして正しいはずの行動を


しているはずなのに


いつも確信が持てないまま


運やタイミングが合わなかっただけで


どんどん自信が


削ぎ落とされていた方は


今まで体験した事のない


幸運を感じられる


年となりそうなの


今年は「運」がお休みする年となる事で


運とは別の


その方の価値観や精神性に


合わせたものが


その方それぞれに届けられるので


今まで誠実に過ごされていたけれど


運の恵みを感じられなかった方にとっては


もしかすると


人生で初めて感じる至福が


味わえる年となるのかもしれません


運がないと感じている方が


大きな喜びの中で


次に進む力を養える


素晴らしい年となると思うの


逆に


今まで運がよいと感じていた方たちは


今年は「運」というものの流れが


お休みするので


今までのように様々な言動や行動を


カバーしてくれるものがないので


今まで以上に


人への心使いや優しさを


意識的に表現する体験の中で


その価値観に見合うものを


受け取れるので


自分の思いを押し通すのは


今年は少し控えられるとよいのかなって


感じているの


毎年この時期には


瞑想しながら


大まかに今年の特徴などを


瞳には映らない存在に


アドバイスを求めているのだけれど


今年は今までとはとっても違う流れで


清算・新たなスタートという


言葉がとっても


フィットしている年のように


感じていたの


もっとも聖なる力を


感じられる年なので


多くの方の精神性が高まり


言葉では上手に表現できないのだけれど


100年くらいの時代のパーツが


昨年で終え


また新たに始まる時代の100年パーツのために


ワンクッション与えられたのが


今年の流れなのかなって


感じているの


今年の過ごし方で


瞳には映らないのだけれど


人々がパーツ分けされて


今までのようなランダムな


出会いや学びの中で


必要なものと同じくらいに傷つき


悲しむ体験も減り


新たに自分に必要な出会いや


学びを重ねて行けるよう


整えられてゆくので


早いスピードで


自分に必要なものに


出会える年となりそうなの


今年は人生で体験した事のない


感情や魂の輝きなど


知識を超えた体験を受け取られる方も


多くなるとは思うのだけれど


その時たとえ心曇らせる出来事が


届けられても


何も心配する事はなく


自分を見つめ心から反省できたならば


あらゆる過去の行為は愛によって浄化され


新たに生まれ変わることができると思うの


反省とは自分を責める事ではなく


勇気を持って自分を見つめる事で


生まれる思いだから


過剰に「こうすればよかった」とか


「何て自分はだめだったんだろう」とは


思わずに


ありのままに過去に向き合いながら


勝敗のない解放された思いで


ただその思いを感じるだけで良いと思うの


私たち人間は


何気ない人とのふれあいの中でも


無意識に自分が不利にならないように


配慮し過ごしてしまう事になれてしまい


時にまるで勝敗が計られているような


錯覚の中で


自分を守るために


人を傷つけてしまっていたり


逆に相手の思いを優先するあまり


自分を大切にできずにいたりと言う事を


繰り返し過ごしていたと思うの


でもその事を少しでも


自分の人生で感じる事が出来た賢者は


自分の意志とは別に


次の扉が開かれると思うの


心の旅は


人に表現したり自慢するものではないから


どんなに自分が認めたくない思いや


受け入れたくない考えであっても


閉ざしてして


見ないようにする必要もないし


否定するものでもなく


その事を自分自身が感じ


共に魂と共に歩んでゆくために


必要な大切な感情だと思うの


自分の中に宿っているものは


この世に送り出される時に


与えられたものもあれば


現世で様々な出会いによって


生み出されたものなど


様々だけれど


その多くは自分に必要なものも多く


幸せの種となる事もあると思うの


私自身も


長い間痛みを伴う病で


しかも女性としての人生が決まってしまう


大切な臓器だった事もあって


痛みは身体だけではなく心も同じくらい辛く


見るものすべてがうらめしく


そんな風に思う自分も受け入れ難く


日々この世界をリタイヤする事が


何度もよぎる日々だった事があったの


でもそんな時最も遠くて近い


ここに訪れてきてくれる人の存在が


私の人生の支えとなってくれて


私は今日まで生きてこられたと思っているの


今までならば親友や親などが


心の支えとなっていたのだけれど


その頃の私は心身がデリケートになっていて


小さな事にも


傷つきやすくなっていた事もあって


人と長く深く会話する事ができなく


避けていたの


そんな時私の寂しい複雑な思いを


遠くて近い存在の


ここを訪れてくださる方たちの


あたたかい言葉によって


生きてこられたの


そしてその辛い体験も


意味がなく与えられたわけではなかった事を


時間が経過するたびに感じられるほど


心で感じる体験が届けられていたの


自分自身にも周りの方たちにも


必要な言葉を


循環できるようになっていて


今もここ数年親しくなった友人が


軽い気持ちで受けた検診で


急に脳に腫瘍がある事がわかって


今まで何一つ病になった事もなく


何の自覚症状もなかっただけに


きっと不安と同じくらいに


この問題を早く解決したい思いの中で


揺れているのを感じた私は


自分も同じように病になった時の事を


話す事が出来たの


その時


私は病になった事を感謝できたの


私たちの人生は


無駄だと思う事や望んでいなかった事の方が


人生の中では印象的に残っていて


長く見つめると


自分のためにもそして誰かのためにも


役立てる素晴らしいものと


なっている事も


多いんじゃないかなって


感じているの


与えられた人生の中では


その人が解決できない問題は


与えられないと伝えられているので


自分にとって抱えきれないと思う出来事も


神様からの信頼があるからこそ


与えられている事も


あるんじゃないのかなって


感じているの


一見なにも問題もなく


過ごせている方は幸せだと


感じるかもしれないけれど


人間と言ううものは


とっても複雑で神秘的な存在だから


何もない事が幸せにはつながらない事も多く


大きな問題がクリアされた後は


穏やかな日々は幸せだと感じるけれど


日頃から何もない方が


幸せを感じているかは


また別だと思うの


人が頭で考えて損に映る事が


別次元から見つめると


必ずしも損得では測れない事もあって


様々なものがリンクして


私たちの人生を豊かに


してくれていると思うから・・・










年齢を重ねると


自分だけではなく


自分と繋がる人たちの問題にも


関わる機会や


手を差し伸べる体験も


多くなってくると思うの


たとえば


自分と深く繋がる両親も


同じように年を重ね


去年まではできた事も


できなくなっていったり・・・


人生の成長期には


誰もが昨日までできなかった事でも


急にできるようになって


自分の可能性も広がり


その事が当たり前のように


過ごせているけれど


年を重ねるとその逆に


少しの後回しが


できる機会を失う事もあったり・・・


人間の歩みを両親や周りの方から


感じとる事で


自分自身も後回しにできるくらい


余裕のある時に


多くのしたい事を


少しでもしておくことも


大切なんじゃないかなって


感じているの


心の中でしたいと思いながら


気になっている事って


多くの場合


本当はすぐにでもできるからこそ


後回しにしたままになっている事もあるから


一度心の整理整頓をしてみると


自分が思っていた以上に


スペースが出来て


未来に必要なものを


納められるんじゃないかなって


感じているの


たとえば大人になった今でも


何かあるたびに


幼い頃の事が心によぎる方は


幼い頃過ごした街を運んでみるのも


よいと思うの


自分の記憶の中で


引っかかっていた何かが


溶かされてゆく事もあると思うの


私の母は若い頃に


生まれ育った場所を離れ


それからも何度か足を運びながらも


どうしても足を運べない場所がったの


それは両親や家族と暮らしていた


もう誰も暮らしていない実家だったの


足を運べなかったのは


母の父(私にとっては祖父)が


そこで自ら天国へ旅立った


場所だったからなの


私がどんなに母の思いを想像し


理解しようと思っても


その体験をした方でなければ


わからない何かが母にはあるようだったの


よく母からは幼い頃の想い出を聞いていたので


私がどうしても見たいと


何度も何度も機会があるたび


伝えていて


ある時母が「うちの近くに学校があって


死ぬ前にもう一度


そこの桜を見たい」と表現したので


ある時のお盆に家族で足を運んだの


初めはお墓参りと


母が望んでいた学校の桜を見に行ったの


その場所に立っていると


様々な楽しかった事が


蘇ってきたのか


どんどんと行きたい場所が増えてゆき


父もある場面では


母との恋愛中に来た場所だったようで


二人で楽しそうだったの


そして私が「おじいちゃんとおばあちゃんも


きっと待っているから


家に行こう」って伝えると


自然に母も受け入れて


家に向かったの


そして母は家の前で言葉を失い


涙ぐんでいたの


母にとっては辛い事では


あったとは思うのだけれど


その旅から帰ってきてから


母の中で何かが変わっていったようで


今までみたいに


「自分さえここにいたら


父はあんな風に・・・」などの


自分を責める言葉は表現しなくなったの


私が感じたのは


記憶って自分で色々と


時間と共に感情も重ねてしまう事で


事実が見えなくなっていたり


遠い記憶であればある程


まるで物語のようになっていて


そこで止まっている事もあると思うの


でも月日が流れても


遠い記憶のままになっていた


現実に存在している場所に立つ事で


ある意味


感情的になりすぎて


見えなかった


色々な事を思い出す事が


出来たんじゃないのかなって


感じているの


そうする事でその当時の事が


リアルに思いだされて


よい意味で


今の自分と重ね


あの時出した選択は


きっと今の自分でも


そうしていたと思うって


自分が決断した事に納得できた事で


自分を責める事が消えたように思うの


それからの母は泣くよりも


大きな声で笑ったり怒ったり


本来の母らしくなっていったの


その姿を見つめながら


過去に閉じ込めたまま


気になっている事があるならば


そこに行ってみる事も


大切なのかなって感じ


私自身も幼い頃


暮らしていた場所や


遠くから通っていた学校を


見にいった事もあったの


自分ではそんなに


気にしているつもりはなかったのだけれど


その場に立つと記憶の中と


今の自分の感情が重なって


まるで昨日の出来事のように


心が痛くなり


泣きそうになった事もあったの


でもその小さな時間を終えた後


何がきっかけで原因かは分からないけれど


今の自分の幸せを


より強く感じられて


あれほどよぎっていた


幼い日の辛い出来事が


心に流れる事がなくなったの


人はもっとも辛い事は


人にも話せないし


もっと深いものならば


自分でも想い出せないくらい


心の深い場所にしまったままにしていたり・・・


でも体験した出来事は


自分の意識では思いだせなくっても


何かの問題と出会うたび


その体験が大きな影となって


影響を与え続けている事も


あると思うの


どんな些細だと思っている事でも


心の中ではその出来事は


ちゃんと刻まれているから・・・


私たちは大人の階段を上る中で


大人らしく


そして社会の中では


必要以上にいい人でいるために


いつも心が疲労していて


そんな時ふっと一人になった時


幼き日の自分に


戻る事があると思うの


その時楽しい思い出や記憶ばかりならば


癒される


人生の薬となってくれるけれど


そうではない場合


「やっぱり私は・・・」とか


「なんでいつも・・・」など


何度も何度も


過去と現在を心が行き来し


前に進めなくしてしまうと思うの


過去の辛い出来事に向き合う勇気は


なかなか生まれないけれど


実際に向き合ってみると


自分が何度も記憶していたものよりも


優しく穏やかだったりもすると思うの


何か小さな事から


向き合ってみると


次々と過去を紐解く勇気が湧きあがり


気がつくと


成長した今の自分が


過去に答えを手渡し


今現在を生きられるように


なるんじゃないかなって


感じているの








人生の中には


後になるとあまりにも小さな事に


思い煩っていたのを感じ


笑ってしまうような出来事が


日々届けられたりするけれど


その時はその小さな事が


何よりも強く心に広がって


日々が楽しめない事もあると思うの


人間の人生は


時の積み重ねと同じように


小さな出来事の積み重ねだから


出来事の大小にかかわらず


気になってしまうものだと思うの


特に女性にとっては


日々の何気ない出来事が


大切なスペースのすべてだから


何気ない出来事が


自分の人生に関わるだけで


なかなか気にせずには


いられなかったり・・・


私は日々フィットネスクラブに


足を運んでいるのだけれど


本来ならば知りあう事のない人たちと


出会う事もあって


学ぶ事が多いの


本当に小さな些細なことなのだけれど


それぞれの方がこだわる流れを持っていて


時には早くからいる方がいても


「いつもここで私運動しているの


だからもう少し移動してくれる?」って


絶対に譲らない方や


運動に夢中になりすぎて


周りが見えなくなって


初めにいた場所からどんどん


違う方場所に移動し


周りの方を困らせてしまう方もいたり・・・


朝のフィットネスクラブの中では


私と友人が若いせいか


周りの方たちのこだわりに合わせ


過ごしているのだけれど


その何気ない事でさえ


日々訪れる事が


予測できるようになると


心が重くなったりして


つい友人と心の重い荷を下ろすためなのか


無意識に心弾まない会話の流れになって


しまう事もあるの


それでも本来の目的となっている


健康にも楽しい気持ちになるためにも


よくないと思い


気にしないための方法を


試しているの


私たちが人生で出会う人たちは


自分とクロスするまでの間


どんな事があって


何を心に置いているのかは分からないから


理解しようとしても


わからない事はたくさんあると思うの


そしてそれは相手も同じだと思うの


どうしても好きになれない方と


出会った場合


ある言動や行動が問題だと思っていたり


時にはあの表情が・・・って


あらゆる正当らしい理由を


表現するけれど


もしも深く瞑想したならば


そのほとんどが心の深くにある扉を開く


鍵となる人だから


初めに拒否反応をしている事も


あるんじゃないかなって


感じているの



好きになれない相手から


無意識に


自分を傷つけた過去と重なるものを


相手から見つけた場合


これ以上自分を傷つけないために


身を守ろうとするあまり


拒絶してしまう事もあると思うの


私自身


深く人を好きではなくなる事は


少ないのだけれど


ある年代の女性で


言葉の強い断言した表現の方と出会うと


無条件で拒絶反応をしてしまう事があるの


初めはあの方の言動が・・・など


その方から溢れるものが原因だと


思っていたのだけれど


ある時深く瞑想した時


その方との出会いの意味を


探していた時


ふっと自分でも


予想していない方向へと導かれたの


それは私が幼い頃の


とっても悲しく辛かった体験だったの


その頃


周りの大人(両親以外)から


優秀な弟と比べられていて


自分が行く場所行く場所で


年配の女性から意味もなく


きつい表現をされていたの


そして何もしてないないのに


人に愛されない自分が辛く


そのあと人に愛されようと


過剰に人の心や雰囲気を感じとり


合わせるようになっていったり・・・


それでも愛されないと


自分自身の全てが否定されているような


辛さを感じるようになって


あえて人に愛されないだろうっていう


行動や言動をしてゆく


流れを作っていったり・・・


言葉では上手に表現できないのだけれど


そうする事で


自分の全部を否定されているのではなく


こうするから人に好かれないのだと


自分でも納得したかったように思うの


そのような深くしまいこんでいた過去に


ある方との出会いの意味を


探していた時に溢れてきた時


私の中で今現在出会う苦手な方は


その方自身が苦手と言うよりも


私の過去の扉が開き


自分自身が辛くなる


きっかけとなる予測ができるから


避けたいのかなって


感じていたの


そう思って見つめて見ると


私にとっては必ず出会うタイプの人で


避けて過ごす事は出来ないから


自分自身が心曇りそうになったら


「過去の私が反応している」って


自分で気づいてあげる事なのかなって


思っているの


そしてそれぞれの方が


年齢を重ねるように


抱えきれないほどの


様々な問題を抱えながらも


その空間・空間で


自分を励ましながら生きているって思うと


多くの事が許せたり・・・


女性は特に


スタンダードな歩みだから


何もかもが満たされ幸せかというと


そうではなく


社会人としてのポジションが


与えられていたとしても


妻であっても


母であっても


自分個人としての喜びを感じる


時間が人生の中では必要で


みんなそれぞれがそんな時間を探していたり・・・



小さな似通ったコミニティであっても


価値観や育った環境なども


ミクロで見つめると違っていて


その違いにお互いに違和感や


新たな発見を感じながらも


その小さなハプニングのおかげで


退屈する事無く過ごせている部分も


あるんじゃないかなって


感じているの



自分一人ではせっかく備わっている


喜怒哀楽を体験する事は出来ないのだから・・・










年を重ねてくると


あの時なぜこうしなかったのだろう・・・とか


過去を振り返る余裕から感じる事があると思うの


でも私が感じているのは


後悔と反省を感じた瞬間


過去の自分よりもはるかにあらゆる部分が


進化と成長したからこそ感じられる


素晴らしい体験なんじゃないかなって


感じているの


なぜならばその時を迎えるまで


その事に気づかずに歩んでいたのに


ある瞬間


今までの自分の歩みに進化し成長した自分が


新たなものをプラスしようとひらめき


できると感じているから


今までの歩みを反省したり


後悔できるんじゃないかなって


感じているの


一見


過去を振り返り


反省や後悔を感じるのは


前向きではないような印象を


持たれるかもしれないけれど


私たちが誤解している


前向きに映る人とは


一見こだわらない明るい方向へ考え


行動される方だけれど


その多くはただ


嫌な事から目をそらし面倒な事を嫌い


自分の人生を見つめずにいるだけの方も


多いと思うの


でも本当の意味での前向きな方は


自分をちゃんと見つめ


涙溢れてもつまずいても


また歩きだせる人だと思うの


私たちが与えられた人生という


限られた時間の中には


何度も学び何度もやりなおす機会が


用意されていて


自分の思いによって


どのような方向にも


進んで行けると思うの


そして今までならば例がないから


これは無理だと思っていた事であっても


次々とそれを突き抜ける


様々な例が生まれていたり・・・


私たちが思い描くものが形になるスピードも


数十年前では考えられないくらいに


早くなってきていると思うの


ただそれゆえに


人が求める幸せのイメージのハードルも


高くなっていて


周りに合わせ過ごしてきた方にとっては


ちょっぴり大変な時代だと思うの


ただその様な流れが訪れているのは


多くの方が


自分の人生を後回しにできない時期を


与えられているからなんじゃないかなって


思うの


本来自分を幸せにしてあげる事は


自分に対しても誰に対しても


罪悪感を持つ必要がないし


自分の人生を誰かに


代わってもらえるわけではないのだから・・・


私たち日本人は


あまりにも優しさや思いやりが深く


そして協調性が重んじられてきた事もあって


自分が幸せなだけでよいとは


なかなか思えないし


自分の人生であっても


周りに歩幅を合わせすぎて


ふっと気づくと周りのリズムが


自分のリズムなのかなって思ってしまうくらいに


自分という軸で


生きていなかった方もいると思うの


でも今の時代は昔よりも


一人ひとりが持つ個性や可能性を


表現する事を求められていて


その個性や可能性が


必要な方へと大きな力となったりする


流れになっているから


多くの方は存在しているだけで


誰かのためになっていると思うの


少しお話が変わるのだけれど


この間知り合いが


テレビを見ていた時


仕事で成功した方の


何か番組を見たらしく


その感想と共に色々な思いを


私に伝えてくれて


その中で


「あ~ゆ~の見てると


なんか自分がやっている事って


何だかむなしくなっちゃう」と話していて


聞いた私も


何となくその友人が伝えたい思いは


わかる気がしていたの


同じ時代に生き


年代もそう違わずそれなのに・・・っていう


思いなのだとは思うのだけれど


私たちの多くは今現在幸せに過ごしていても


少なからずそういう方を瞳に映すと


自分と比べて


心曇るような思いを


生み出してしまう事があると思うの


でも冷静に見つめると


本当にそういう生き方・人生が


うらやましかったならば


その様な方向で多くの方が


努力をしていると思うのだけれど


私たちの多くは深い部分で


その様な幸せを求めていないから


みんなが同じ方向へと


進んで行かないのだと思うの


その理由は様々だとは思うのだけれど


ただ私たちは


無意識に意味のない比較し合う事になれていて


たとえ自分が求めていない


幸せを実現した方にさえも


自分と重ねては


心曇ったり自分の生き方を否定したりして


しまうことがあるんじゃないかなって


感じているの


でももし自分の人生とその方の人生を


交換できるとしたならば


不思議と多くの方は


否定していたはずの今の自分の人生を


そのまま続けたいと望むと思うの


それは自分の深い部分で


ちゃんとわかっているからだと思うの


成功と聞くと


わかりやすい形あるものが


思い浮かぶけれど


成功は人の数ほど形も時期もあって


その方が感じる事ができる


感情の表現だと思うの


私の母は色々と感情的に


苦労してきたからなのか


自分の人生を否定しているのだけれど


それでも時々ふっと


「私のような人間がこうして家族に囲まれて


ゴロゴロしながら週刊誌を読んだり


テレビを見てられるんだから


自分の人生としては


上出来だと思ってる(笑)」って


表現する事があって


それも母にとっては大きな


大成功なのだと思うの


母は後ろ向きな表現が多いけれど


ある意味で自分を


過小評価してきたからなのか


何があってもいい意味で


「私の人生はこんなもん」という思いがあって


違う方向から幸せを


生み出しているのだと思うの


そう思えるようになったのはきっと


様々な自分の体験と


あらゆる人との出会いの中で


見聞きしてきた事などもあって


そういう思いに辿りついたのだと


思うの


母も若い頃は色々な可能性を持っていて


時にはそのために


多くの犠牲を払い


様々な努力を重ね過ごしていた事もあったのだけれど


どんなに頑張っても


人からうらやましがられるようなものを


築く事は出来ず


(自分ではそう思いこんでいる)


不平不満ばかりになっていた頃


母がお世話を頼まれ出会った


裕福に暮らす女性がいて


その女性は母がうらやましく思うすべてを


持っていて見るものすべてが


輝いていたそうなの


それなのにその女性にいつも


「私もあなたのようになりたい


人生変われるならいいのにね」って


会うたびに言われていたようで


そのたび母は


「変われるなら私も変わりたいよ


こんな素敵な所に住んで


素敵な旦那さんもいて


子供たちも立派で


何の心配もないなんてうらやましい~」と


答えていたようなの


その女性にとっては身体が


自分の思い様に動かせない事が


何よりも辛く


不平不満いっぱいであっても


母のように元気に動き回り


食べたいものを食べている


それだけでうらやましかったようなの


母はその方との出会いによって


改めて自分の幸せに


気づかされたのとと同時に


自分が求めていた幸せが


自分にある事に気づかされ


良い意味で人と比べ落ち込んだり


焦りなどを持たなくなったようなの


私たちが当たり前と思う事でも


当たり前ではない方も多くいて


もしもその事を感じたならば


母のようにささやかな事に


幸せを感じ過ごせるんじゃないかなって


感じているの









よく昔から類は友を呼ぶという


言葉が語られているけれど


今現在自分が繋がりあっている人と


大きく見つめると


違うように映る相手なのに・・・って


思われている方もいると思うの


私の友人の中にも


愛情あふれ優しく


損得勘定を持たずに


人とふれあっている方が


いるのだけれど


その友人の友人は


その友人とはまるで違うタイプで


付き合いをしている友人も


不思議に思っているようで


「類は友っていうけど


本当は私ってそういう所あるのかな?」って


私に尋ねてきた事がったの


私はその友人の友人のお話を


時折聞いていたので


何となく会った事はないのだけれど


どんな方かは理解できていたの


確かに大きく見つめると


あらゆる部分で友人とは違うのだけれど


友人がその方と強く繋がれる部分は


プロフェッショナルな部分があって


分析追求する忍耐力と感性が


フィットするから


惹かれるんじゃないのかなって


感じていたの


そして友人の場合は


思いやりと優しさと同じくらいに


どんな人との間でも


人と繋がっている事に


安心感を感じるタイプなので


時に煩わしさや心曇ったとしても


それ以上に


人との縁が消える事の方が


辛いから


自ら自分が付き合いたい相手を


選択できない部分も


あるんじゃないかなって


感じているの


それは友人がこの世に誕生し


数カ月で母親が


自らこの世を去った事が


深く関わっているんじゃないかなって


感じているの


親戚のおうちで育った友人は


その親戚に大切に愛情深く


育てられてはきたけれど


私が両親との間で


思いのままに表現し合い


互いに理不尽な表現もしあったり


してきた事もあったけれど


その多くは今思えば


相手を信頼しているから


表現し合えた事で


私がどんな風になったとしても


絶対に繋がっていてくれるという


信頼と安心感から


思いを表現できていたと思うの


そしてその事がやがて大人になっても


誰かを深く信頼できたり


自分自身をどこかで肯定できる力に


なっていると思うの


だから時にある一定水準を超えた時


自分を大切にする方へ選択できるように


なっていると思うの


でも友人は大事に親戚の方たちに


愛情を注がれながらも


私とは少し違って


周りに気を使い過ごす事も


多くあっただろうし


時には「自分さえ我慢すればいい」って


思う事が当たり前になっていて


ある意味で


周りの空気を読み過ぎてしまうのだと思うの


なので友人は20代は


精神的な病にもなったり・・・


その頃とっても時間があった私は


毎日友人から実家に電話があるたび


長電話の後


まだ話し足りなくって


会っていたの


あまりに優しい性格の友人は


自分の思いも考え考え表現するので


思うように表現できていなかったのだけれど


毎日のように私と会ううちに


安心感を持ってくれるようになったのか


驚くくらい意味のないきつい表現を


ある意味できるようになったの


友人が表現するきつい表現は


まるで子供が親に当たり散らす時に


表現するような


後になれば必ず


自分で反省できるものだったから


私は特に気にせずにいたの


たとえば


「さ~ちゃんみたいに学歴も職歴もないのに


ほんとのんきに生きてるよね


さ~ちゃんみたい人がいると税金が・・・」など


特に深い意味はない表現なのだけれど


私はその様な言葉を受け取るたびに


彼女は学歴も職歴もちゃんと揃っているのに


今とても大変なのだろうなって思ったり・・・


もし私が同じ立場ならば


きっと親には何の気遣いもなく


積もり積もっているストレスを


親に聞いてもらっていたと思うの


なぜならば


友人や周りの方には


やはりいい人に映っていたいし・・・


でも友人は誰に対しても


いい人として過ごしてきたから


自分の思いを整理整頓する時がなく


長い間歩んできたから


その時ちょうどたくさん


溢れてきたのだと思うの


人間はこの世に誕生した時から


必ず経験し通過しなければならない


心の体験ってきっとあって


多くの方がそれを経て


大人になって色々な方を許したり


冷静に考えたらなかなかできない


見ず知らずの方を信頼し人は


過ごしているのだと思うの


極端な表現だけれど


たとえば車に乗っている時


反対車線の車がこちらに来ないという


無意識の信頼があるから


多くの方が安心して運転できていたり・・・


あらゆる部分で


人は人を大小はあるけれど信頼していて


その思いは急に授かったものではなく


必ず過去に信頼を育んでくれた


人がいてくれたおかげで


問い直す事のない安心感を抱いて


生きていられるんじゃないかなって


感じているの


そしてその安心感が大きく育まれた方は


他者にも愛情を感じたり


手渡したりしたい気持ちが


生まれてきて


この世界では新たな命が生まれたり


あらゆることが


守られていいるのだと思うの


ただ私自身


友人に気づかされることも多いの


私はどちらかというと決めつけなどは


少ない方だと思っていたけれど


友人と話していると


私は色々な事に思い込みや決めつけを


持っているのを感じる事もあるの


たとえば無意識に私の深い部分で


女性はスタンダードな人生を


選んだほうが一番幸せって


どこかで思い込んでいたから


そうできないと知った時


とても自分の人生が辛く感じたけれど


友人はもっとも一番近くで


キャリアを手放し女性として


スタンダードな人生を選び


幸せを感じられず


自らこの世を去った


母親がいる事もあって


その様なこだわりは一つもなく


自分の足で人生を歩いてゆく事の覚悟と


そこで得られる幸せを


一つ一つ叶え過ごしているの


時々友人と昔話になって


笑ってしまうくらい


今では私を引っ張ってくれるくらい


しっかりと


自己表現もできるようになっているの


ただそれもまだ


私の前だけなのだけれど・・・


私にとっては大切な大切な人だから


共に年を重ねて行きたいから


私は私のために


受け入れているの