2012年12月





昔ならば瞳に映る事ばかりに


意識が向けられ


あらゆるものが


大切な言葉では説明のできない


感覚を後回しにされてきたけれど


今では瞳には映らない


あらゆるものが大切に考えられていて


それをわかる方たちにとっては


心地の良いものが


増えてきているんじゃ


ないかなって感じているの


たとえばお野菜や果物の


栽培の過程で音楽を


聞かせたりする事で


丈夫に育ち甘みが増したり


パンを作られている方は


生きている酵母に音楽を聞かせる事で


おいしいパンを作られていたり


楽器を製造されている方の中には


弦を張る前ぼギターに毎日毎日


音楽が広がるお部屋で


ギターを寝かせる事で


微妙な振動が楽器に伝わり


明らかに音色に違いを感じ


その事を大切に制作されていたり・・・


その様な過程は


本来ならば非効率で


瞳には映らないことだけれど


そうする事で


あらゆるものが


あきらかに微妙な変化をしていて


製造されている方にとっても


受け取られる感性豊かな方にとっても


なくてはならない


時間になっていると思うの


その逆に効率だけを追い求め


製造されているものは


リーズナブルに手にする事ができる


メリットと共に


別の瞳には映らない


何かを受け取ってもいると思うの


私たちは誰もが


自分の価値観で様々なものを選んでいて


2000年を境にして


様々なスペースで


二極化が進んできていて


今まで以上に感性を大切に


過ごされている方も多く


別の極面にいる方にとっては


その方たちが大事に思う事が


理解できなかったりもする事も


多くなってきていると思うの


今の時代はあらゆる分野が


二極化してきていて昔では考えられない


流れが出来ていて


たとえば


お安いから手にするとか


妥協して手にする方も


少なくなってきていて


時には無料で頂けるものであっても


受け取らない方もいると思うの


本来ならば昔よりも


経済的に豊かではないはずに今の方が


心の飢えは少なく


限られたスペースの中で


自分の世界を大切にしている方も


ふえてきている気がするの


昔の時代背景は


みんなが小さな事にこだわらない事が


明るく前向きでって思っていたけれど


その頃は時代背景が


全てを支えているから


それでよかったのだと思うの


その頃は多くの方が


必要なものではないものに


大切な経済を注ぎ


考える時間を持たないように


まるで避けるように


過ごしていたように映っていたの


今の時代はその方それぞれの価値観が


認められてきていて


必ずしも多くの方が支持する価値基準にばかり


意識が注がれてはいなく


価値があるかどうかは


周りが判断するものではなく


その方それぞれに委ねられていると思うの


たとえば小さなお話だけれど


お花って特になくっても


生活に必要かどうかと言えば


必要ではないかもしれないけれど


お花は瞳から豊かさを受け取る


アイテムの一つで


あればあったでやはり


心潤してくれるものだと思うの


でも日本では特別な日以外は


購入する機会を持たない方も


いるとは思うのだけれど


私が感じているのは


日本人は長い間


生活を満たす事に


長い時間費やしてきていて


時が流れても


形として残るもの以外のものは


その時心満たす事であっても


贅沢で


もったいないという思いが生まれてしまい


なかなか経済を注ぐ事に


躊躇してしまう方も


いるんじゃないかなって


感じているの


私にもそんな部分があって


時々癒されたいと思い


素敵なキャンドルを購入したのに


火を灯してしまうと溶けて


形がなくなってしまうと思うと


なかなか勇気がなくって(笑)


でも私が知り合った


外国人の方のおうちへ知った時


特別な日ではなくっても


キャンドルに火を灯していて


ただそれだけの事なのに


やはり豊かさを味わう事に


慣れ親しんできた外国の方たちとの


違いを感じていたの


ただ価格にあらわすと


お花にしてもキャンドルにしても


ほんのささやかなで


負担になる価格ではないはずなのに・・・


そう思って考えて見ると


やはり私たち日本人は


豊かさを素直に楽しむ事が


ちょっぴり上手にできない部分が


豊かになったと伝えられてはいても


まだ残っているのかなって


感じているの


私の母世代を見つめて見ると


日用品を必要以上にストックしていて


人によっては幼い頃の貧しさから生まれる


不安からそうされる方も


いるかもしれないけれど


私が感じているのは


それだけではなく


自分のためだけのものを購入する事に


持つ必要のない罪悪感が生まれたり


周りへの必要のない言い訳ができる


お買い物となるのが


日用品なんじゃないかなって


感じているの


だから永遠に自分が欲しいものを


手にできない


フラストレーションも重なり


置く場所がなくなるくらい


あらゆるもののストックに


溢れていると思うの


そしていつも経済的にも不足感を感じ


豊かさを持てなかったり・・・


でも本当は有り余るくらいに


物質的には満たされているのに・・・


満たされていないのは物質ではなく


自分の心なのだと思うの



少し離れて見つめている方にとっては


その悪循環をすぐに感じられるけれど


その様な流れの中で


長く過ごされている方にとっては


必ず使うものを購入し


無駄なものを購入はしていないという


自分なりの自分や周りを納得させられる


理由を持っているから


益々本当の自分の心をのささやきを


聞く事が難しくなってしまっていると思うの


一見簡素な生活をされているように映る方であっても


そういう方たちが


美しいものに興味がない事はなく


誰よりも美しいもの楽しい事には


敏感だったりして


それなのにそうできない自分に


余計にストレスを


重ねられている方も


いたりもすると思うの


今の日本では一般的な生き方をしていたならば


そんなに大きな違いはないはずだけれど


価値観や思考の違いだけで


ライフスタイルすべてが


違って見えるだけだと思うの


私自身


昔からなぜだかお花がないと


本当に心がさびしい気持ちに


なってしまう事もあって


物ごころついたころから


私のそばにはいつもお花があったの


結婚してすぐのころには


とっても経済的に生活を満たすだけでも


本当に大変だった時でも


どうしてもお花を飾りたかった私は


いつも通る空き地にマーガレットが


咲いている事を思い出し


大地からおすそ分けしていただいたり・・・


今ではお花屋さんで購入できるようになって


1ヶ月に2回切り花を購入して


飾っているのだけれど


知り合いやお友達が遊びに来るたびに


「お花があるっていいね」とか


「お花を切らさず


飾っているってあこがれるよね」など


必ず言葉を表現するのと同時にお


生活の余裕があるんだねって


経済的に豊かだと思われるようなのだけれど


それはそんな事はなく


ただ私の価値観の中に


お花というものと


寄り添う事の大切さがあって


その大切な価値ある事をしたいために


たとえば私ならばケーキを食べない方を


選ぶだけで


ケーキの方に価値観を


感じる方にとっては


私と違う選択をしているだけなだけだと思うの


人生は花火のように瞬間・瞬間のきらめきが


ずっと心を支える思い出や


記憶になっていたりするくらい


本当は大切で


たとえ形がなくなっても


自分の内には


はっきりと残るものに


なっていると思うの


でも私たちはあまりにも


自分を後回しにし


自分を本当の意味で大切にしていなく


自分の周りに映るものばかりを


大切にしてきたと思うの


特に女性は


個人としてのスペースを持っているから


あらゆるものと調和を持ちながらも


いつも自分個人として


冷静に自分を見つめている部分があって


それはどんなに年齢を重ねても


消える事はなく


たとえあらゆることが


幸せの基準を満たしていても


自分個人で感じる


自己評価が厳しく


その厳しい基準が


小さな不満を生み出してしまう事も


あると思うの


人によっては周りが語る


幸せの基準を満たしていて


特に今緊急に何か求められている


わけではないのにふっとした時


自分一人だったら何ができるだろう・・・


何もできない・・・とか


ある時には何気なく鏡を見つめた時


自分の姿を映して


月日の流れを感じ


わけもなく落ち込んでみたり・・・かと思うと


ほんの些細な事であっても


容姿のどこかを褒められたりすると


何よりも嬉しく感じたり・・・


様々な役割の中で過ごす女性は


自分個人としての価値観を軸に


いつも生きていると思うの


その軸が自分個人ではなく


軸が別の役割に比重が置かれている時には


人にはわからない


自分の内ではバランスを保てなくなって


感性に蓋をして


あらゆることがどうでもよくなって


しまうんじゃないかなって感じていたの


以前何かの本で読んだことなのだけれど


老化というのは一般的には


年齢で測られるけれど


実際には個人差も大きくって


年齢的に若い方であっても


老化が進んでいる方もいたりするようなの


脳細胞の老化の中には


身なりに気遣いがなくなる事が


書かれていて


それは過剰におしゃれをするという事ではなく


清潔に保つ事も含まれているのだけれど


脳細胞の老化が始まってくると


自分をプロデュースすること自体が


めんどうになってくるから


最終的にはすべてがどうでも


良くなる流れになるようなの


脳が疲労している時って


大好きなはずの本でさえも


1ページ読むのがやっとで


読むという忍耐力や


集中力が保てなかったりする方も


いると思うのだけれど


そんな時には


言葉で理解するという


考える脳をお休みさせて


今度は逆に


考えて理解する事から離れて


言葉を超えた視覚的に美しいものを


瞳に映したり


わけもなく楽しいと思う事に


包まれる時間を作ってあげる事が


大切だと思うの


私たちが頭で考える無駄だと思う事の多くは


実は人生にとっても


自分自身にとっても


何よりも大切な価値あるものだったりする事も


あるんじゃないかなって


感じているの







私はニャーと鳴く猫の姿をした娘と


過ごしているのだけれど


瞳には映らない感覚的な事に


敏感な猫から気づきや学ぶ事が多いの


猫は聴力が人間の何倍もよい事もあって


人間には聞こえない音を


早い段階で気づくので


猫の動きによって


そのあとに届けられる音への準備ができたり・・・


よく風水などでは


新たしいものにはパワーがあると


伝えられているけれど


新たなものをおうちに迎え入れると


1ヶ月くらいの間は


その新しいもののそばから


離れずにいたりしているのを見るたびに


新たに迎え入れたものが持つパワーが


自分の空間となじむまで


きっと1ヶ月くらい必要なのかなって


感じているの


そして上手に言葉では


表現できないのだけれど


大切な存在がいればいるほど


失う日を思うとこわくなるの


でもそれは素敵な時間を持った証だから


恐れよりも感謝する事なんだって


いつも思いながら


ネコかわいがりしているの(笑)


10代のころから


様々な猫と共に過ごしてきたけれど


猫の個性も様々で


遠くからいつも見守っているかのような


タイプの猫もいれば


ずっとだっこしてほしい猫もいたり・・・


私の周りでは犬と共に過ごしている方が多く


経験から色々と教えてもらう事も多く


その中である友人が一匹だけだと


自分が仕事へ行っている間


寂しいだろうと思い


もう一匹犬を迎え入れた事がったのだけれど


それからが大変で


友人の愛情や注目を奪い合い


犬同士が傷つけあう事が多くなり


病院へよく足を運ぶ経験をしていて


その頃ちょうど私も


一匹だけでは寂しいかなって考えていたら


友人から


「人間が寂しいだろうって考えても


ペット自身は


飼い主の愛情を独り占めできる事で


幸せなんだよね


それに人間の子供とは違って


将来の事を考えて


甘やかさず色々教える事も


必要以上にする必要もないんだよね


生きている短い時間の中で


ただただ可愛がって


あげたらいいんだと思うよ」と


私に伝えてくれたの


その時ふっと急に


ずっと思い出す事のなかった


幼い頃数年間


いつも一緒にいた女の子の事を


思い出したの


その女の子は重い病で


限られた短い期間しか


命の灯を保つ事が出来なかったのだけれど


幼い私はその事を理解してはいなく


その方のご両親は


私が今まで見た事がないほど


お子さんが望む事をなんでも叶え


優しく


その姿を見つめては


真逆の環境の中で育つ私は


とってもうらやましかったの


でも今ふっと思うと


明らかに自分たちよりも


先に天国へ送り出さなければならない事を


わかっていたならば


子供の将来を案じ


かわいい子供に厳しく


あれこれと学ばせたり


伝える必要はないから


あとはただただ


できうる限りの愛情を


注ぐ事だけでよい状態の中にいたのかなって


感じていたの


私は親になる経験が


人生のプログラムの中に


持つ事は出来なかったのだけれど


大切で愛する存在に


その思いをストレートに


表現する以外の形で


子供の将来を案じ


親は伝えられる事を


できるだけ伝え


大切な存在が将来幸せに暮らせる事を願い


あえて損な役回りをしたり


深すぎて子供には理解できない


愛情表現もあったり・・・


でも不思議なもので時を重ねて行くと


そのほとんどがちゃんと紐解かれて


理解が出来たり・・・


自分が年齢を重ねて行くと


自分が親に対して


あまりよい思い出がない頃を


思い起こしてみると


その頃の親は今の私よりも


何十歳も若い事をもうと


許せたり


親が育ってきた環境を思うと


よく頑張ってきたなって感じたり


親が遠い上にいる人ではなくなった時


あらゆることを流せるようになったの


私の親も同じような


感覚を持っているようで


子育てや夫婦間で


悩みや迷いが生まれた時


「こういう時親もこういう思いだったのかな」って


思ったり


「親が生きていたらこういう時


どうしていただろう」って


考えたそうなの


そういう話を聞くたびに


こういう思いは年齢を重ねなければ


感じられない感覚だから


深い愛情を生み出せる事を思うと


年齢を重ねるのも


よいものなのかなって


感じているの








私たちはそれぞれ


個性と言う種を秘めて


それぞれのタイミング


次々と少し先のステージへと


歩みを進めていると思うの


そんな時


周りと比べて


自分だけが困難が届けられているような


錯覚に包まれ


不平等感を感じ


あらゆることが不公平に感じ


自分を導く様々なものへの信頼を失い


すべて自分でコントロール


しなければならない気持ちの方が


強くなる事も


あるんじゃないかなって


感じているの


でも自分以外の誰かのライフスタイルを


ほんの少し瞳に映しただけでは


その方の事はわからないし


どんな事でもそうだけれど


人にはそれぞれ向き不向きがあるように


大変だと思う事も楽だと感じる事も


違うから


人生のあらゆる経験は


大きさや重さではなく


その出来事が運ばれてきた方が


ほんの少し心の負荷が感じるサイズで


心を強くするために


与えられている事で


その方それぞれが一つ上にあるステージへ


歩みを進められるように


神様が与えている事だから


人と比較して


届けられる問題の大小は


本当の意味で比較は


できないものなんじゃないかなって


感じているの


たとえば私のような人間的に小さく


何一つまともに向き合い


生きる事が出来ない場合


周りから見つめると


私が悩む事や心曇る事は


小さすぎて笑ってしまう事も多いようで


母などからは


「あんたは幸せね


子供の頃から変わらずにいられる事は


周りのおかげなんだから


感謝しなさい」って


伝えられる事も多く


そのたびに自分は何一つ


進歩していないのかなって


思う事もあるのだけれど


ある時


その時知り合った方たちと


何気なく話していた時


ある方が


捨てても捨てても


ゴミがたまって


毎週毎週ゴミ捨てをする日が気になって


少し心の負担になっている話をされて


その事から解放される方法を


真剣に


探しているようだったの


でもその場にいる方たちは


それぞれの方たちが感じる


心の負荷から計って


あまりにも軽い問題に感じて


笑っていたのだけれど


私はその時


初めて私が何かの問題を話した時


きっとこのような反応なのかなって


感じたの


私たちが忘れている幼い頃の事を


考えて見ると


その当時は大きな悩みだと思っていた事も


今の自分から見つめると


何であんな事で悩んでいたんだろうって


思えてしまうくらい


今の自分が遠い昔の自分よりも


次々とレベルアップし


ステージへ歩みを進め


過去のステージの問題ならば


簡単に答えを出せるくらいになている事に


気づくと思うの


ただ自分にとってあまりにも


小さな事を悩んでいる方を見つめて


優越感を感じるのも違っていて


それぞれの人に与えられている


課題や使命が違うから


同じ時代や空間で過ごす人であっても


全てを共感しあう事は


難しいと思うの


私たちは周りの人たちから


自分自身がどのような方向へ歩んでいるのか


自分自身はどこに立っているのかを


目安にしているだけなはずなのに


時に誤作動で


比較対象にしてしまう事があって


わざわざ問題を増やしてしまう事も


あると思うの


女性は特に


多くの与えられた役割の中で


調和を保ち満たされながらも


一個人としての意識を秘めていて


その部分がなかなか満たされないと


あらゆることで満たされないような


感覚を生み出してしまうんじゃないかなって


感じているの


社会人としてや妻としてや母親としての


自分は満たされているはずなのに


それだけではないものが


誰よりも厳しい評価をする自分が


感じてしまうのだと思うの


ドの役割の中でもそれなりに


評価をされている方であっても


一個人の女性として


冷静に自分を見つめて見ると


このままでいいのかなって


ふっと幸せの間で感じたり・・・


でも女性はこの一個人で自分を見つめる


冷静さを持っているから


人生を退屈することなく


前へ前へ進み


様々な時代を支え


創造してきたと思うの


そして女性は誰かに


特別な存在として扱われる事を


至福の喜びとして


受け取り


人生の栄養として行く所があるから


その満たされた思いを


つい求めてしまう事が


あると思うの


ただ多くの場合


恥ずかしがり屋の日本人は


愛情表現をあまりしないだけで


存在するすべての人は


誰かにとっては特別な存在で


誰かが自分の幸せを


願ってくれていると思うの


私の母がよく伝えてくれるのだけれど


「子供の事を考えない日はない


今なにしてるかなって思ったり・・・」と


表現するのだけれど


たとえ両親との関係に


恵まれなかった方であっても


様々な方との出会いの中で


あなたの笑顔を輝かせてたいと


共にいてくれた人


自分でも好きになれない自分の姿を


否定することなく


ただただ話を聞いてくれた人など


その時々


未来へ続く道を照らしてくれた人がいたから


今の自分になれたと思うの


今の時代は


ライフスタイルも様々な形があるのだから


あるひとつの型に自ら


はめようとする事は


ないんじゃないかなって


感じているの


こういうのが幸せ


こういうのが平均的などという


基準の考え方も


付き合う人たちの数だけでの


判断に過ぎず


そのようなものは


自分が過ごす空間が変わるたびに


変わるものだから


その様な時間を長く過ごしていると


いつも


気がつくと


誰に強制されたわけでもないのに


振り回されてきたような錯覚から


被害者意識が芽生えるように


なってしまうと思うの


幸せはそれぞれの方が


心の琴線で感じもので


自分にしか分からないものなのだから


自分の思いや感性を大切に


歩んでゆく事が


大切なんじゃないかなって


感じているの







今私たちはとても面白いくらい


瞳に映らない世界のエネルギーを


もっとも体感しやすい時の中で


過ごしているんじゃないかなって


感じているの


今までならばただの偶然として


見つめ流していた事も


精神世界の知恵を学ばれている方ならば


そのすべてが偶然ではない事を


感じていると思うの


楽しい気持ちで過ごしていると


なぜか次々と


今の自分の気持ちにフィットするものが


届けられたり・・・


ただ私たちは時に混乱してしまう事が


あると思うの


精神世界では今の自分の気持ちが多くの事を


引き寄せの法則によって


招き寄せているという思いで


あらゆる場面・場面を


とたえられるようになると


時に今の自分とはまるで違う


不快な出来事が届けられた時


あれ?なんで?と疑問が湧いて


そんな思いが何度か訪れると


まるで今までの知恵が


意味のないようなものに感じ


丁寧に過ごしていた時間が


意味のないように思う事も


あるんじゃないかなって思うの


でも私が感じているのは


自分が過去に置き忘れたままの


解消し消化しなければならない


貸し借りのようなものを


良い状態だからこそ


ベストなタイミングで届けられている事も


あるんじゃないかなって


思うの


私たちは人生の歩みがあまりに


たくさんの出来事に溢れ忙しく


ポイント・ポイントしか


覚えてはいないけれど


私たちが歩みの中で


感じた感情・行動・思考すべては


人生のデーターベースに刻印されていて


そこに刻印されたものをベースに


来世へとバトンタッチしてゆくように


感じていて


今の生き方は次の自分の人生を


選択してゆく


ひとつの流れになっているように


感じているの


より豊かで幸せな次の自分のために


今の自分が解消し消化できるものは


心の体力がある時に


届けられていると思うと


今の自分とは違う出来事が届けられるのも


本当は良い流れの延長線上なんじゃ


ないかなって感じているの


たとえば私たち人間は


自分が手渡した思いと同じサイズの思いを


受け取りたいと願い


時に自分が思い描くサイズではないものが


手渡された時に


こんなに私がしてやったのに・・・とか


私ばかりが・・・などという


本来生み出す必要のない感情に


包まれてしまう事があると思うの


手渡すという事は


一見


相手のためにしているように映るけれど


本当は自分自身の豊かさを


自分自身が認識し


次々と豊かさを生み出すための


学習なのに


つい私たちはその事を忘れ


直接手渡した相手から


自分が手渡したサイズのものを


求めてしまう事があるんじゃないかなって


感じているの


言葉では上手に表現できないのだけれど


今の時代は相手が思い描くサイズのものを


手渡し合う事に戸惑いや


心の負担を感じる方も増えていて


受け取ったから嬉しいという思いだけで


思いを交換しあえる方も少なくなり


溢れる愛情を受け取ってくれる


相手がいなかったりもする事もあると思うの


私たちは溢れる愛情を


瞳に映る形で


誰かに手渡す時


それが本当に自分の豊かさから溢れたもので


あったならば


「ありがとう」という最大のパワーを持つ


言葉がお返しとして受け取るだけで


益々自分の内側に


豊かさの泉が湧きだしてくるのを


感じられると思うの


ただ気をつけなければならないのは


自分の豊かさを認識するために行っている


他者への愛情の手渡しも


自分の人生を後回しにしてまでは


してはいけないと思うの


私たちは本来


自分の瞳に映る方の笑顔が好きで


自分が手渡した言葉や行動によって


笑顔の花が咲くと


心から嬉しくなって


ついその喜びが中毒のように


なってしまう事もあるから・・・


愛情ってとっても不思議で


そして難しく


お料理と同じで


分量が少し違うだけで


おいしかったり


長い間になると


健康を害してしまったりと


とっても難しい事もあると思うの


受け取るばかりでの


与えてばかりでも


お互いに良い流れができなかったり・・・


私が感じるのは


与えられる方は本来


自分以外の方の事まで思いやれる


愛情を生み出している状態だから


自分自身が豊かである事を認識し許し


次々と広がる豊かさを


あらゆる機会の中で体感し満たす事が


大切なんじゃないかなって


感じているの


私たちの多くは


自分の事を考え過ごす事に


持つ必要のない罪悪感を持つ事があって


無意識に自分が幸せでいいはずなのに


幸せを感じると共に


説明のできない罪悪感や不安感を


生み出される方もいると思うの


私たち人間の中には


他者と繋がり思いを交換し合うスペースがあって


その部分が自分が幸せな時に限って


誤作動を起こしやすく


時に強迫観念のように


思いはついてこないまま


形だけで人を思いやるスタイルを


作る事があって


そんな時には


互いのセンサーが無理に形を整え


そこには思いがないから


お互いに喜びとは別のものを


さらに生み出してしまう事も


多いんじゃないかなって


感じているの


私たち人間に感情があるのは


良い意味で色々なものを計るためで


その感情にフィットしない事を


無理にしても


良い結果が花咲かないように思うの


私は独身時代


両親と実家で暮らしていた時


毎日毎日


あらゆるフラストレーションがたまった母を


少しでも癒す事が出来たらいいなっていう


思いから


毎日毎日何時間もエンドレスで続く


同じような話に耳を傾けていたのだけれど


一向に母の思いが改善することなく


そのうちいつの日からか私も


母と同じようにフラストレーションがたまり


母を否定する思いが芽生えたり


いつになったら


こういう時間から


解放されるのだろう・・・っていう


思いが生まれていったの


今思うと私は良い事をしているつもりだったけれど


本当は母の助けにはなっていなく


そして私自身のためにも


なってはいなかったと思うの


これが軽い心の曇りだったならば


母も話す事で


気持ちが軽やかになって


明日への力となっていたとは思うのだけれど


母が話す事柄の多くは


自分自身でしか整理のできない感情だったから・・・


いくら周りでお手伝いしても


かたくなに思い込みや決めつけと言うカギで


閉ざされたドアは


母自身が開かなければ


ドアの前で共に中にあるものを予測して


話し合っても意味はなく


ドアが開かれ初めて


中にあるものを


一緒に片付ける事ができると思うの


そう思った私はある時から


あえて心を強くして


自分の時間を持つようになったの


そうする事で甘える事に慣れてしまった母は


「あんたは自分勝手だよね」から始まり


まるで子供のように小さな


いじわるをするようになったの


そうする事で本来心が弱い私が


その罪悪感に辛くなり


自分の目の前に戻ってきてくれると


無意識に感じたのだと思うの


でも私は何度も行ったり来たりする思いの中で


自分の思いを後押ししてくれるであろう


言葉が書かれたものを


できるだけ心に注ぐ事で


ちょっぴり心が強くなて


惑わされる事なく


自分が感じる本当の愛情に忠実に


歩めるようになったの


愛情って自分の気持ちのセンサーで計るもので


逆にどんなに相手が笑顔になっても


自分の気持ちのセンサーで


喜びを感じなければ


もう少し時間が流れた時に


必ず自分の望まない感情が


届けられると思うの


それならば


何もしないのも時には


自分にとっても他者にとっても


愛情になる事も


あるんじゃないかなって思うの


私たち人間(特に日本人)は


悟る力が当たり前のように備わっていて


言葉と違うものや瞳には映らない


あらゆるものを悟り


過ごされている方も多いのだから


本当にしたい・できると思った時に


相手のために何かしてあげるだけで


いいのだと思うの


そうでなければ手渡した自分の心の負担まで


相手に手渡してしまい


素直に喜びだけで


心を満たす事が出来なくなってしまうと思うの








私は昔から睡眠サイクルが


ちょっとずれていて


困る事もあるの


自分が眠りたいと思う時間に


眠る事が出来ない私は


周りの方から色々アドバイスを受けて


試してはいるのだけれど


なかなかそのようにはならないの


たとえば疲れると眠れるよと


アドバイスをもらう事もあるのだけれど


日々運動をし疲れを感じている私は


その部分も当てはまらず


今度は体力がありすぎて


眠れないんじゃないの?といわれ


さらに疲労するように行動しても


今度は意識が目覚めすぎてしまい


益々眠れなくなったり・・・


よく伝えられているのは


体内時計を整えるのに


日光に照らされる事がよいと聞き


意識的に太陽と仲良くしても


変わらず


ある時には何日も眠らずにいたら


必ず夜になると眠くなると言われ


実行してみても


2日目には眠れても


また次の日からはいつも通りになってしまい


なかなか睡眠サイクルが整わないの


それは何十年もそうで


予定がある時には


前の日から眠らずゆく事も多く


そうするとその日は


眠りたいタイミングで眠れるの


それで気がつくと


一日おきに眠るようになってしまったの


そんな時ふっと


私って日本時間に合っていないのかもって


思ったの(笑)


そう思う事で強迫観念のように


こうしなくっちゃって思っていた


思いから解放されて


今では世界のどの国の時間に合わせて


過ごしているのだろうって


探したくなってしまうくらいなの


私たちは自分の中に


どんなに変えようと努力しても


変わらない・変えられないものが


一つは持っていて


それは自分と言うものを作っている大きな


個性なんじゃないかなって


感じているの


その個性は私のように


特に意味も持たず


逆に健康にあまりよくない事であっても・・・


以前・何度か前世を見ていただいた時


海洋学者や医学博士など


研究する事で人生を終えた話を聞いて


その影響もあって


私の場合は睡眠にも影響をしているのかなって


考えたりもしているの


今は過去の生き方とは


まるで違う生き方をしようと


私がしていると告げられたのだけれど


名残が睡眠の部分に


残っているのかなって思ったり・・・



ライフスタイルは前世で


伝えられたものとはまるで違い


学校に通い学ぶ事はなにひとつしてこなく


まるで避けるように歩んできて


前世ではもっとも関心がなく


意味のないものとしてきた


心の動きに


今の私は最も関心を寄せていたり・・・


前世がそうだったかどうかは


はっきりと答えが出るものではないけれど


言われてみると


あちらこちらに名残を感じたり・・・


何度も生まれ変わる中の一つの人生で


シスターが書き写した聖書を


街へ運ぶ事をしていた時代があったようで


その部分は何となく


今の私の人生にうっすらと


重なりあっているようには感じているの


自分が選択したわけでもないのに


幼稚園はカトリック系の所に通い


(たまたま家の近くだっただけ)


幼い頃仲良くなった方のおうちが


キリスト教の方だった事がよくあったりして


自分は無宗教なのだけれど


今思うとボランティア活動のようなものに


時々付き合っていたり


大人になって病になって通いだした病院も


シスターがいる病院で


ロビーでシスターと会話を交わす中で


聖書を頂く事がったり・・・


そして今の私は気がつくと


ロザリオなどのアクセサリーを作る事が


私のライフワークの一つになっていたり・・・


そんな風に人生を繋げて見つめて見ると


数珠のようにひとつひとつ繋がっていて


一見その時々


自分で選択してきたように思っていたけれど


ほとんどが何かに導かれるように


収まる所に収まり


その空間で多くの事を学び吸収し


次へと歩みを進めてきたのを


感じているの


私がいつも感じている事なのだけれど


この世に送り出される時に


大まかな形は決まっていて


それを宿命だと思っていて


その多くは変えられないもので


どんなに方向転換しても


意味があって軸となっている道で


自分の思考や行動によって


どんな風にも変えられるのが


運命だと感じているの


運命は運の命だから


本当にちょっとした事で変える事もできるし


もっとも自分自身の存在を


感じるの事ができる


スペースだと思うの


その運命の部分で


私たちは「あの時こうしておけば・・・」とか


「あの時なんで・・・」と悔やみ


後悔を感じるのが運命だと思うの


でも運命と交差するように


変えられない宿命があるから


時に何をしても運命が動かないと


感じる時があると思うの


そんな時は


運命よりも宿命の働きが強いから


抵抗するよりも


流れに任せて流れを受け入れる事を


求められている事が


多いんじゃないかなって


感じているの


私自身


幼いころから


なぜか同じ年代の子供とは違う


ふれあい方をされる事が多く


意味なく辛く当られたり


時には良い事をしたはずなのに


全てが裏目に出てしまうような流れがあって


それは10年以上もの月日続いていたの


そのあまりにも辛い現状に


いつも包まれる私を見て


その当時の音楽の先生が


「必ず幸せになれるから


今は辛抱の時だ」と


なぜか伝えてくださったくらいなの


私は特に音楽の成績が良かったわけでもなく


強く何か思いがあった授業では


なかったのだけれど


学校の中では一番心地の良い時間だった事が


先生には伝わっていたのかなって


今は感じているの


それくらい何をしても


良い方向に流れがなかった時


宗教的な話をされている方のお話を


たまたま耳にする機会があって


その中で


「人に施しをするのは


損得ではなく


自分の徳として積みあげられる


今度その運が必要になった時


必ず自分を助けてくれるものとなる」と


話されていて


幼かった私は


その教えにプラスした自分の思いを重ね


私は何も人にしてあげられないし


できないけど


人にひどい事をされても


恨んだり悪く思わない事だけで


十分良い事をしているのかも・・・


だったら私は今自分のために


得を急スピードでいっぱい積める


時なのかもしれないって


単純で素直な幼かった私は


そう思ったの


そして不思議なのは


そう思う事でとっても辛かった事が


辛いだけではなく


将来の運の貯蓄のようになていると思うと


何となく幸せに一歩・一歩


近づいているような思いも生まれていたの


辛いという字と幸せって似ているのに


出来事はまるで違うけれど


日本語の由来の多く


たとえば私が幼い頃


漢字の授業の時に教わった


国語の時間で覚えているのは


空から雨が降ってきて


雨かなって思ったけど


下駄の跡がつくのが「雪」など


子供でもわかりやすく教えてくれたように


日本語は


意味がわかる事が多いから


その字をずっと見つめていたの


そうすると


辛いという字に横線を上にひとつプラスすると


幸せになるの


私が勝手に考えて見た事なのだけれど


辛いという字は何となくシルエットで


人が立つ姿に似ていて


そう思うと上の部分は頭だから


その部分に横線が入るという事は


頭を切る変え自分を貫き通す事で


幸せになるのかなって


勝手に解釈して感じていたの


人は愛情を生み出せるようになってからも


辛いと思う感情に出会う事もあるけれど


そんな時はきっと


頭を切り替えて


自分が信じる良き流れを


貫き通す強さが求められていて


そうする事で


いつでも辛いを幸せに変えられるんじゃ


ないかなって感じているの


それが宿命と運命の交差している部分


なんじゃないかなって


思うの







私たちはあまりにも


かけ離れたものには


心揺さぶられる事はないけれど


ベースが似ていたり近いものには


ちょっぴり過剰なくらい敏感になり


比較してしまったりする事が


あると思うの


元々人と比べたりする人ではなくっても・・・


それは本来人が秘めている


自分が今どこにいて


どうしてゆけば良いのかを計るための


目安として働いている機能なのだけれど


それが時に過剰に働いてしまって


わざわざ自分の自信を


消し去ってしまうような部分を


相手から探し出しては


「なぜ私は・・・」と


落ち込んでしまうのだと思うの


でもその思いは今自分から


見つめた方向であって


自分では気づいてはいないけれど


自分の周りでは


あなたをうらやましく思い


シュンって感じている方も


またいたりもすると


思うの


私たち人間は


自分とは違う部分には


違和感を感じながらも


あこがれを感じたり


違うものから


自分の本質を知ったり・・・


時には


人間の中には認めたくない感情の一つに


意味なく優越感を感じる事で


心が立て直せる部分があったりする分


その逆に


意味なく敗北感を感じたり・・・


でも


その部分が今の自分よりも


進化し成長させてくれる時も


あると思うの


自分が認めたくない感情も


良き事のために流れているのを


感じられるのは


何よりも自分自身の心が


穏やかに平和で幸せを


感じている時だと思うの


そうではない時には


たとえ良い流れの中にあっても


他者が気になってしまったり


他者の反応が


自分の気持ちよりも何よりも


気になり大事なものになってしまうと


思うの


私の友人や知り合いは


面白いくらいに


同じベースの方が一人もいなく


独身で生き生き過ごしている人


結婚しお子さんと共に過ごす


お母さんになった人など


ベースが違うから


深い部分で辛くなる事はないの


なぜならば


自分にとって一番ある意味で


気にかけている事が違うからだと


思うの


独身の友人は仕事の事や


未来のパートナーについて


同じベースの方と話す時


私と話すよりも大きな共感もあるけれど


その分比較対象になりやすいから


色々な発言が自分に向けて


伝えられているような気持ちになったり


ちょっとした言動が


深く流れ込んでくる分


人は違った意見を持っていてよいのを


わかっていても


価値観の違いが


強く不快に感じてしまう事も


あると思うの


母親として過ごす友人も


大切な子供の事を共感しあえる


ママ友の存在はありがたいものの


ちょっとした事が


比較対象になって


何気ない子供の成長の話であっても


自分の子供がそうでない場合などは


悩みや不安が倍増したり


将来のプランも


周りが早くから形にしていると


焦ったり・・・


時に人間関係においては


違うからやすらぐことも


あるんじゃないかなって感じているの


数年前


親しくしていた方の中に


私と同じようなベースで


過ごしていた方がいたのだけれど


今思うと


彼女の言動や行動に


過敏に反応していた気がするの


彼女はパートナーと二人暮らしだから


私と共感し合う事も多くあったのだけれど


彼女が「子供は産まない方がいいよ」と


表現しそれについて


もっともらしい理由を語った時も


伝えようとしている事は


わかるのだけれど


まだ選択肢が色々とあった私には


違和感で


だからといって薦められるのも


心地がよい状態ではない


不安定な時期だったから


余計にそう感じたのかもしれないのだけれど・・・


私と同じベースの友人は


未来に向けた不安を解消するために


次々とプランを話す時にも


本当は私もその様な方向に向けて


考えなければならなかったのだけれど


すべてに実感を持てなかった私は


ゆっくりと過ごしていたの


それでも


私と同じベースの友人が


次々と形にしてすく姿を見つめては


意味なく焦ったりして


彼女と会った日には


パートナーに「○○ちゃんはこうしてるんだよ


もっと頑張ってくれないと困る!」と


月日と共に


人と比較する事がなかった私も


どんどん私らしくない自分に


苦しくなっていった事がったの


そんな時


まるで違う人生の選択の中過ごしている


友人たちに会うと


心が軽くなるのを感じた事が


あったの


それは友人たちも同じようだったみたいで


その時違うからいい事も


あるんだなって


初めて感じたの


人生には選択できないスペースもあるけれど


選択できるスペースでは


どんなにそれが正しい事であっても


自分の自信をそぎ落とす人や


不安に包む方とのご縁は


持たないくってもいいんじゃないかなって


感じているの


この世の中には様々な価値観を


持たれた方がいるのだから・・・


たとえば理解できないような


ガラクタに映るものであっても


そのものに価値を感じる方もいるように


色々な人がいるのだから・・・


人と比較してしまうという流れは


人間の中に秘めた


自分の立ち位置や


これからの自分がどう進んでいったらよいのかの


目安として秘められたものだから


消える事はないけれど


誤作動を起こし


自分の心を曇らせてしまわない事が


大切だと思うの


私たちがどんな選択をしても


今の自分たちの人生を消化し


満たしているだけなのだから・・・









今年ももうすぐ終わり


新たな年を迎えるけれど


この時期は毎年


来年の抱負を


話す方たちとテーマの一つと


なっているのだけれど


昔よりも多くの方が


「感謝」という大きなものをベースに


歩まれているからなのか


「今年と同じように


おだやかに過ごせたらいいな」って


話される方が多いの


昔ならば


わけもなく前進する事に


生きている大きな意味だと


感じられていた方も


多かったからなのか


前の年よりもあきらかにわかる形の


前進を望んでいたように思うの


でも本来人生は


立ち止まっているように映っていても


前の年よりも


何かを受け取り


心の糧としていたり


今まで気づかなかった


あらゆることに気づける


感性を養っていたり


精神性では前進しているものだと


思うの


特に多くの困難に出会い


その中で過ごされた方にとっては


人には見えない


深い・深い人生の教えなどを受け取り


人間としての感情と


聖なる者のような思いを


何度も行き来するうちに


本当の意味で


自分の内から湧き上がる


真実を築かれていたり・・・


私たち人間は


いつの時代も生きる意味を問いながら


歩んできたけれど


誰もが共通する


はっきりとした答えはなく


その答えは


その方自身が実感として


自分の内から


感じるものなんじゃないかなって


感じているの


私が感じているのは


ずっと苦労だけで


人生を終える方もいなければ


ずっと幸せだけで人生を


おえる方もいなく


その方の感じ方で


どちらの記憶に光を


与えているかだと思うの


苦労が多くあった方であっても


その間間にある


小さな幸せを大切に拾い集めて


その幸せに光を与えている方は


喜び多くあったかのように語られるし


その逆もあると思うの


同じ人間と言っても


全ての方にはそれぞれ


特有のデリケートな部分があって


その部分にダメージを受けると


頭ではわかっていても


どうしても修復する事に


人生の多くの時間が必要だったりする事も


あると思うの


どんなに年を重ねても


幼いころに受けた


良いこととその逆の事は


まるで昨日の事のように覚えていて


その事を思い出すと


その頃の感情までも


よみがえってくる事があると思うの


それほどまでに


今の自分の心にも歩みにも


遠い記憶が


影響をしている事もあると思うの


そしてその記憶の中には


どうしてもそうできなかった


理由を伝えたい相手がいたり


お礼を言いたい相手がいたりと


会えない相手への思いも


同時に想い出され


せつなくなったり・・・


私たちは人生の歩みの中で


やり残したことをできれば


解消したい思いが


いつもどこかにあって


それが時に長い間の後悔の思いに変わり


胸が痛くなる事もあると思うの


でも私たちは


自分の知らないうちに


やり残したと思っている


思いと同じくらいの事を


誰かに手渡しお返しをしているものだと


思うの


それを感じていない方は


ある意味で自分が受け取った以上のものを


あらゆる方にお返しをされていると思うの


本当の親切や愛情は


無意識でなされるものだから・・・


人が最も望んでいる事は


人それぞれで


中にはただ何気ない会話をしただけだと


思っている方も


相手にとっては日々話を聞いてくれる方がいない


大きな寂しさを癒してくれた事に


何よりもありがたく思われていたり・・・


人間の本質は心で感じる贈り物が


何よりも望み


ありがたいと感じるものなんじゃないかなって


感じているの


私たちが何か形のあるものを贈るのも同じで


送る方も誰かを思い選び


受け取った方の笑顔を想像して


心が満たされたり


受け取った方も


送ってくれた人が


自分の大事な時間の中で


自分の事を考え思ってくれた事が


何よりもうれしく感じたり・・・


その様な体験の中に


私たちは無意識に


遠い記憶の中にいる


もう会う事の叶わない相手への


お返しを重ねている事も


あると思うの


人は愛情がいくら湧き上がってきても


注ぐ相手が存在していなければ


成就し満たされない事を思うと


いつも自分の愛情を


受け取ってくれる人がいるのも


本当に恵まれていることだと思うの


一見


受け取る事が豊かさに映るけれど


与えられる方が本当の意味で


枯れる事のない


魂の豊かさを持たれている方だと思うの