2012年11月





今年の後半から


自分の意識とは別に


様々なものが新たなステージに向かい


まるで準備されているかのように


チェンジが次々と


訪れているの


このような現象は


自分では知らず知らずに


受け取りゆっくりと


次のステージへと移行してきて


今の自分と言う存在になってきたので


今回の流れも


今までの体験したことに似ているから


何となくその時を感じているの


人は誰でも


無意識に同じ場所にとどまる事は出来ず


人生のある時期を迎えると


次のステージへと移行して


行くものだと思うの


たとえば私たちが学生時代


何よりも大切にしていたものを


ずっとその思いで


そのものを持っている事が少ないように


いつも次のステージの自分に見合うものを


無意識に選び取っているのだと思うの


それば物質だけではなく


人間関係や過ごす場所etc


たとえば物質の場合は


私たち日本人はものに宿る命を大切に


思い見つめる優しさ溢れる


魂を秘めているから


たとえもう使わないだろうなって思っても


なかなか手放す事は難しく


そういう私たち日本人でも


次のステージに必要のないものは


ちゃんと節目節目で手放していて


それはどんな風に成し遂げているかと言うと


多くの場合は


物質が形をなくす形で


気持ちが無理せずに離れて


新たなものにチェンジしてきたと思うの


なのでとってもわかりやすいのは


自分がレベルアップし次のステージに


移行する時には


多くの場合


家電など電気系のものが


次々と形をなくし


なぜ?って思うほどその様な事が


重なると思うの


私が感じているのは


電気というものは瞳には映らないけれど


人間が帯びている電機系(思い)などにも


とても反応するものだと思うから・・・


ただ電機系ではなっても


物質には色や金属


置かれていた空間の波動など


様々なものをものに重ねてあるから


その時々の自分の波動に


フィットしないものは驚くほど


消耗が速かったり


わからないうちに姿を消していったりという


現象も起こると思うの


少しお話は小さいのだけれど


私のパートナーは線維のもの


(衣類・タオル類など)は


なぜか10回くらいで


その繊維の持つ風合いも消え


速いものでは形をなくし


着られる状態では


なくなってしまう事が多いの


初めはリーズナブルすぎる


ものだからなのかなって思い


少し高価なものに変え変えても


同じ状態が続き


あきらめていたのだけれど


ある時パートナーが購入してきた


線維のものは大丈夫で


とっても不思議だった事があって


何が違うんだろうって


色々考えてみたのだけれど


特に違いはなかったのだけれど


大きな違いは


私が購入したか


パートナーが購入したかの違いだったの


初めは私はモノを見極める目がないのかなって


思っていたのだけれど


パートナーの聞いてみると


自分が買ったものは


単純に今の自分が心惹かれたものを


手にしているから


購入する時も嬉しいし


使用している時も


何となく幸せな気持ちになるそうで


その話を聞いた時に


そのような思いが物にも伝わって


互いの相乗効果で


どちらも活きる形になるのかなって


感じていたの


私たちは小さな選択であっても


本当に今の自分が心惹かれているものを


いつも手にしているかと言うと


そうではない時もあって


たった数十円・数百円


リーズナブルだというだけで


自分が本当に気に入っているのとは違うものを


選び取るという


妥協を重ね


気がつくと


自分が買ったと思えないものや


これっていつ買ったのだろう?て


思いだせないものなど


自分が暮らす空間なのに


自分の波動テイストとは違うものに


囲まれている事もあると思うの


その様な流れを聖なる者たちは


節目節目で


新たにスタートするチャンスを与え


それが手放すという行動へと


繋がっているんじゃないかなって


感じているの


小さな妥協をするクセは


積もり積もってしまうと


瞳に映る簡単にわかる形だけではなく


気がつくと自分の人生の中に


多くの妥協から


自分の生き方を大切にできなくなる


流れも作ってしまいやすく


なってしまうと思うの


妥協は時に周りとの協調性を作り


生きやすくなるための


エッセンスではあるけれど


そのエッセンスがあまりにも多くなってしまうと


自分が何を求め


何を考えているのかも


わからなくなってしまい


いつも周りが全てになってしまうと思うの


そうなると


いつも無意識に自分らしく過ごせる日を


漠然と待ち望み


そんな日を与えてくれない


周りをこころよく思えなくなり


被害者意識が広がり


いつも何かをする時にも


何よりも周りを優先し


自分の人生なのに


自分で選び取る事が出来なくなってしまう事も


あると思うの


私たち人間は自分を幸せにするために


様々な事を日々考え選び取っているけれど


不思議なのは


精神安定剤の役割をしてくれる


経済的なストックをしておくために


小さな選択をしているはずなのに


自分の起算通りに


なっていない事もあると思うの


それは人生でふいに与えられる出来事や


自分が気づいていないけれど


小さな妥協を重ねている自分に


時々「本当の自分」を


再確認させるかのように


今までの妥協的な選択の意味がないほど


思いきった至福を


選び取るからだと思うの


私たちは平等に限られた


人生の時間の中で過ごしていて


この人生の中で


どれだけの事を楽しみ


過ごせるかが大切で


ただ息をし生きる事ではないと思うの


そして不思議なのは


楽しい気持ちになるために


自分に投資した事は


またさらに楽しい気持ちになるために


経済や出来事が届けられて


その思いと見合った


ライフスタイルが整ってくると思うの


ただ自分を楽しませるためにと


自分に投資しているのに


いつも幸せな気持ちにならない方は


真実の自分が求める幸せではなく


見栄や虚勢など


周りに向けた自分を満たす事への投資は


心から幸せにするための行為ではないから


本当の意味での自分への投資には


なっていないと思うの


その逆に人から見て


意味のないように映る事であっても


本人が心からワクワクしてしまう事ならば


それは正しい自分への投資で


必ず時間差で


その投資は自分への配当として


届けられると思うの


私たち一人一人の中に宿るセンサーが


もっとも自分に正直に


反応し教えてくれていると思うの


あんな事をしてみたいな~とか


あんなものを食べてみたいな~って


ふっと思うものも


冷静に考えれば多くは無理ではなく


ただ自分の中で低く設定している


価格では無理と思っているだけで


実際には意味のないストレス発散のために


手にしているものや行動を


少し控えるだけで


いつでも可能だったり・・・


私たちは自分の人生の中で


軸となっている自分が


何よりも大切だという事を


頭ではわかっていても


日々の中ではそうとは思えない


流れを持って過ごしている事も


あると思うの


たとえば使わないままの美しい食器や


使い古されたタオルを使い


なかなかもったいなくって使えないまま


ストックされているタオルなど


もったいないと思い


使わない自分は無意識に


その美しい新たしいものを


使うに値しない自分という意識で


何気なく自分を過小評価している事も


あるんじゃないかなって


感じているの


そのような思いがある場合


逆に思いきって新しい食器やタオルなどを


卸して自分のために使ってみると


やっと役割を与えられて物質も喜ぶし


使う自分も無意識に


自分にとってもったいないと思う


この素敵なものよりも何よりも


自分は尊く


こんな小さな事であっても


自分は自分の意志で様々な事を


決められる喜びと学びを


感じとれると思うの


私の母は世代的にも苦労してきた世代だから


どんなに新しいたくさんものがあっても


使う事はなく


「いざという時のために」と


全てしまいこみ


壊れかけたものをずっと使っていたの


そんな母は物質的には


豊かなくらい新たなものを持っているはずなのに


いつも瞳に映すものに影響されているのか


いつも自分は幸せではなく


どんな小さな事であっても


自分だけが幸せを感じる事にさえ


持つ必要のない罪悪感を感じるため


必要以上の我慢をして過ごしていたの


でも不思議とそれだけ我慢し節約しているのに


余裕はなく


不思議に思った私は話を聞いていると


日々のストレスのために


形にならないものへ


少しずつ経済が流れていて


本人は使った感がないまま


手元になくなっていたようだったの


そんな時


いつもは母に何かを贈る時に


プレゼントらしく包装されたまま


手渡していたのだけれど


母の目の前で包装を外し


中身を出して


その場ですぐに使う事を求めるようにしたの


初めは包装を外した時点で


母は「あ~やめてしまっておくから」と


いっていたのだけれど


少し使用してもらうと


よい意味であきらめがつくのか


そのまま使用するようになって


それを少しずつ増やしてゆくうちに


時々実家に足を運ぶと


「あれ?これどうしたの?」って思うくらい


新たなものが溢れていて


聞いてみると


「もう人生長くないんだから


今使わなきゃ使う時がないからさ(笑)」と


笑顔でしまいこんでいた


新しいものを奥から出して


使用しているようだったの


そうする事で母自身にも変化があって


今まで自分から何か行動を


起こす事のなかった母が


私のおうちに電話を


かけてくるようになったり


自分発信で行動できるようになっているの


その母を見つめながら


私たちを包むすべての物質や人・空間


あらゆるものは


私たちに学びや喜びのために


瞳に映る存在として


神々が用意してくれているだけで


自分たちを超えてまで


尊ぶものはないように感じていたの


そして今世の中でもっとも高価で


もっとも美しく素晴らしいものがあっても


自分たちを超える事はないと思うの


社会の中ではわかりやすく


あらゆるものが価格表示しているだけで


すべてが価格と見合うとも限らず


たとえば銀行などでローンを組もうとすると


その方の年収や職歴などから


借りられる価格が設定され


それを自分の値打ちとして感じる方も


いるかもしれないけれど


それは値打ちではなく


相手側にとって利益を得られるかどうかを


査定しているかであって


その方の資質や価値を


計っているものではないと思うの


なので思ったほど評価を


得られなかったからといって


自分は評価に値しない人間と


言うわけでもなく


社会基準の評価(相手側にとっての利益)に


合わないだけなので


落胆する事はないと思うの


私たち人間は誰もが無意識に


認めてもらいたい


評価されたい思いを秘めていて


それが時に社会的に決められた


枠に収まっていないと


不安になったり落胆したりしてしまう事が


あるかもしれないけれど


本来認めてもらいたい


評価されたい思いを秘めているのは


その思いがあるから


よい意味で人との繋がりを保ち


人生を豊かにしてゆくために


与えられた感情で


その感情を強く働かせすぎて


疎外感や自分を過小評価させるための


感情ではないように


感じているの


私たちは時々優しさと責任を


間違って刻み込んでいて


人との関わりの中で


自分と向かい合う方が笑顔になると


優しさが正しく伝わり


嬉しいのと同時に


その思いからその逆の表情になると


何だかわけもなく


相手の反応すべてが


自分の責任のように感じるため


日々何気なくふれあうすべての人に


感情に歩幅を合わせてしまう事が


あると思うの


でも冷静に考えて見ると


私たちの目の前にいる方が


ここに来る前に何があったか


どんな気持ちでいたかで


その思いを引きずりいたとして


相手が自分の感情を変えてくれる事を望み


その望みを叶える事は


義務でもなければ責任でもないのに


私たちは場所が違っていても


刷り込まれている


連帯責任意識のせいなのか


縁あるすべての方の反応が


すべて自分にあるかのような


勘違いする部分を持っていて


どこにいても変な責任感が


人間関係を息苦しくしている事も


あると思うの


本来自分の事でさえも


全て責任を持つ事も大変なのに


その範囲が広がると


本当に大変だと思うの


たとえ何かの言葉で相手が思うような


笑顔にならなかったとしても


それは相手の気持ちの領域であって


そこまではふれあう方は


踏み込むことではないように


感じているの


私の友人の中には


とてもしっかりしていて


それゆえに思い描く通りの速度で


物事が運ばないとすぐに怒りが溢れ


それをそばで聞いている私は


その言葉に反応して焦り


どうしようって


心がパニックになる事がよくあって


その友人がそういう感情にならないために


いつでも友人が心地よくいられるために


自分の感情を抑え


ふれあっていたのだけれど


ある時


「なんか最近元気ないよね


どうしたの?」と伝えられたので


その次に会った時には


いつもの自分らしく話していると


今度は


「なんかさーちゃんといると


疲れるんだよね」と


伝えられ


じゃー私はどうしたらいいの?って


落ち込んでしまったの


でも本来仲良しの友人だから


大体ライフスタイルや


思考の流れを知っているから


ただ単に私が原因なのではなく


わたしと会う前の感情が


全ての原因になっていて


その引きずっている感情によって


反応が違うだけだったように思うの


でも私は何もかもが


自分の責任のように感じやすい癖を


幼いころからの育つ環境で持っているから


強く反応していたと思うの


本当に好ましく思っていないならば


互いに利害関係がないのだから


付き合いはなくなる事を思うと


仲が深まり互いを知ってくると


甘えから


自分の心の重荷を軽くする機会に


してしまう事も多いと思うの


社会の中で誰にでもいい人でいるためには


どうしてもどこかで息抜きしなければ


続けられないから・・・


でも私たちは重荷を下ろす機会を


与えてくれている人への感謝を忘れ


自分の頑張りだけで


人生を乗り越えてきたような錯覚を


持っているけれど


必ず人生の節目節目で


本当の意味で深い愛で


負担にならない気づかない形で


重荷を一緒に支えてくれている人がいる事に


感謝しなければならないと思うの







この間


何気なく雑誌を見ていた時


そのコラムの中で「顔面同一障害」という


面白い表現が載っていて


それは元々の性と心が一致しない方を


性同一障害と表現されている事に重ねて


顔や容姿と性格的なものが一致しない方を


顔面同一性障害と


面白くわかりやすくたとえていたのだけれど


もしかしたら


私はそうかもしれないなって


感じていたの


私は昔から自分が思う自分と


周りに映っている自分が


いつも違っていて


その違和感から


戸惑う事がよくあったの


私自身は弱虫で行動もスローで


ちょっとした事でダメージを


受けやすいのだけれど


仲良くなった友人にさえ


いつも自身に満ち溢れていて


よくいえば存在感があり


その逆の表現では


威圧感があると伝えられる事があるの


確かに初めて会った方でも


過剰なくらいに親切な言葉を用いて


私が起こらないように


気を配り話される方がいたり・・・


それはたぶん


私から感じる威圧感的なものによって


そうされているのかなって


感じる事がったり・・・


私の母は霊感的なものに長けていて


人を見る目がとてもすごいので


私の事を尋ねてみると


「私は親子だから


あんたの事は知っているから


感違いはしないけど


知らない人が見たらあんたは


自信に溢れていて


エネルギー漲っているよ


本当はメソメソしているのにね(笑)


きっとあんたを守っている人が


あんたが傷つけられないように


虚勢を張ってくれているんじゃないの」と


伝えられて


もしかしたら人は何層にもなっていると


伝えられているから


私の場合もある層が人の瞳に映り


私の印象を感じとっているのかなって


感じていたの


深い部分は誰もが自分本人にしか


わからないくらい


厚い層で覆われているから


その上の層を印象として


受け取っているのかなって


感じていたの


ただよいかどうかはわからないのだけれど


その層から受け取る印象が


威圧感あるものだからなのか


何気なく表現した事であっても


人の心に残ってしまうからなのか


友人や知り合いが


誰かの噂話をしている時


空気を読んで私も皆と同じ空気で話すと


みんなのように言葉が流れるような


リズムにならずに


「え!そうなの!」と


不安を与えてしまったりしてしまうので


私は空気を壊しても


自分にとっての心地の良い


真実を話さなければならない


変な強迫観念に似た思いがあるの


その逆に自分にとって心地の良い


真実は何気なく表現しただけでも


何か心を照らす


キーワードになってくれたり・・・


母にも幼いころから


「あんたは絶対に人を恨んだり


人の事を悪く思ったらだめだよ」と


伝えられていて


偶然だと思うのだけれど


理不尽な形で自分を苦しめてきた方たちが


この世に存在しなくなり


元々驚くほど霊感が強い母は


何かを感じたらしく


そう伝えられてきたの


ただ私が感じているのは


強く守られているからいいねって事ではなく


それだけ強い力があるものに


守られているという事は


私自身がよくない思いや行動をすると


何倍にもなって返ってくるようにも


感じているの


その事には根拠はないのだけれど


私を好んで守ってくれている存在が


力が強ければ強いほど


その高いレベルに見合わない行動や言動を


私自身がした場合


その気づかせ方もちょっと


強い気がしているの


人にはそれぞれ指導してくれる霊や


守護してくれる霊など


様々な形で自分の」層に重なり


存在してくれていると思うのだけれど


自分一人でその例のささやきを


感じとれない場合には


その霊たちの思いに近い


気づきや導きを


果たしてくれそうな相手と出会わせたり


時には困難の中から


大きなステップアップできる


力量を見極め


あえて人生で受け取る苦難を


ある時期に集中させたり・・・


私たちがレベルアップしてゆくために


人生をよい意味で


コントロールしてくれていると思うの


私たち人間の考えられる範囲では


成し得ない出来事も


私たち一人一人


忘れているだけで


超えてきていると思うの


その多くは私たちに重なるように


存在してくれている霊たちの


おかげだと思うの


よく霊の世界は科学と対立するけれど


私は科学的な事は大好きで


瞳に映る形で人類の可能性を


わかりやすく答えを形にしてくれるから・・・


その分野でももちろん


解明できない分野があって


その小さな分野が瞳には映らない


霊的な世界だと思うの


私は幼いころから


神秘的な事が大好きなのに


それといつも寄り添うように


疑り深い部分がいつもあって


その部分がいつも進化の速度を


遅くしているとは思うのだけれど


どうしても自分の中で


納得できないと前に進めない


流れを持っているから


仕方がないかなって


感じているの


ただ霊的な世界を信じるようになったのは


やはり経験からで


自分が経験していない事は


信じられない部分があって


神秘的な事が大好きな私には


理解できると思って


様々なお話を聞かせてくれる方も


いるのだけれど


コメントが出来ない事もあるの


ただ私の中では様々な占い師の方や


能力があると伝えられている方との


出会いはあったけれど


その能力が本当に存在するものなのか


ただ人よりも洞察力や


話術が長けているだけなのかは


わからないけれど


私の母は的確で強烈なので


考えて表現できるレベルではないので


母と話すたびに


確実にそういう能力を秘めている人が


この世に存在している事を


信じているの


私の母はいくつもあって


20年くらい前


父方の祖父に会いに家に行った時


楽しく話しいつになくやさしい祖父に感動し


ずっと長い間事情があって


会えなかった時間を


埋められた喜びで


父と私は楽しい気持ちでいた時


帰り際の車の中で


母が急に「じいちゃん一週間くらいの間に


なくなるから


あんた準備しといたほうがいいよ」と


父に向い母が伝えたの


その瞬間


父が「お前気持ち悪いな


お前いつもそういう事言うのやめれや


なんなのよ


あん何元気だろう」と


いつになく父は怒りを表現し


車の中は無言になっていたの


でも母の言葉が気になった私は


祖父が映っている写真を何となく見たくなって


見ていると


私の家で写した祖父の写真の頭が


赤い光に包まれていて


それを急いで母に見せると


「あ!やっぱり!


脳が原因でなくなるの」と母がいい


本当にその数日後祖父がなくなったり


昨年は伯父のお葬式を終えて


火葬場へ向かうため


みんなでマイクロバスに乗っている時


母はウトウト急に眠くなったそうで


その瞬間


何度も何度も女性の声で


女性の名前をささやく声が聞こえて


何なんだろうと母も不思議になりながらも


隣に座っていた


私のいとこに


「○○ってさっきから聞こえるんだけど


知っている人(伯父の)なのかな」って


伝えるとそのいとこが驚いた表情で


「俺の女房だ」って答えたそうで


母はそういえば


今日来ていないなって思っていたら


後になって一年前に


自らこの世を去っていたそうで


その事を何となく誰にも言わずに


伏せていたので


誰も知らずにいたの


母は自分なりの解釈で


そのいとこに本来ならば長男の嫁と言う立場で


ここにいなければならないのに・・・て


思いから


姿は見えないけどここにいるよって


教えているんじゃないかと


伝えたそうなの


その出来事の中で感じたのは


母はイタコ的な能力や


死期が近い方がわかるという形の


能力を持っているのかなって


感じていたの


ある時には友人の話を私がしていると


数回見ただけの友人なのだけれど


「あの子の家は冷たい


地下があるのかな


あ~ここにいたら病気になるわ


引っ越した方がいい」と伝えられ


友人に伝えたのだけれど


すぐには動く事が出来なかったの


その間に病になり


仕事もやめて


本当に大変になって


すぐに引っ越して


今ではその頃の事を笑えるほど


幸せに過ごしていたり


母の霊感はとっても怖いの


私の場合は母とは違い


予言的なもの死者との会話もできなく


ただそこにただずむ


この世にいない人を普通の人として


見えたりするだけだったり・・・


ただ過剰に溢れる念のようなもの


ちょっぴり強いから


それが人に影響を


与えてしまうというものがあったり・・・


でもそれは能力と言うよりは


自分を正すための


孫悟空の頭の輪のような


役割になっているだけで


母のような解明できない能力ではないの


このような能力は


とっても不思議で神秘的なもので


精神世界的には


わかりやすく高い能力だけれど


それに近い能力を多くの方が秘めていて


無意識に使いこなし過ぎていて


能力とは思わず


活かしている事も多いと思うの


匂いで何でも判断できる能力や


説明のできない空気感から


感情が動く方


よくあるのは瞳に映すすべてのものと


自分の相性を感じとる能力など


その方それぞれに人よりも秀でた


能力が宿っていると思うの


その能力があるからこそ


よい意味で退屈そうに思えるほど


平和で安定した日々を送る事が


できているのだと思うの


相性は言葉では埋められない


数えきれないほどのデータ―が


1秒にも満たない速度で送られ


瞬間的に判断する能力で


時にはその能力を自分の思考によって


ゆがんだ物にしてしまう方もいるけれど


多くの方は瞬間的な


説明のできない危機回避能力によって


人を判断できる能力を


秘めていると思うの


逆に何が合わないのかを


説明できる時は


それは能力ではなく


自分の過去の経験で


好ましくない人と似ている部分を見つけ


遣欧感から相性が合わないと


判断しているだけで


正しいの能力を使っての判断とは


違うと思うの


その逆に説明のできない判断は


自分でもわからないと感じているのに


何か別の能力からの信号が多いので


それは持つ能力から


感じとっている事が多いと思うの


何でもそうだけれど


説明がきちんとできる時には


自分の頭で考えて出す答えなので


能力とはまた別の


優れた知的能力だと思うの


これだけ人類がいるのに


自分が会う必要のある人を


ちゃんと見つけ出会い


互いに影響を与えあい


それがたとえ瞬間的なものであったとしても


とてもすごい確率で


同じ時間・同じ思い出を


共有する存在として


この地球上にいる事を思うと


それだけで人生が神秘的なエネルギーに


包まれているのを


日々感じているの







この間


改めて人の受け取り方って


色々あるものだなって


感じる事があったの


私の知り合いの中に


とても気遣いができる友人がいて


その友人は誰かのおうちに行く時


必ずルームシューズを


持参してゆくのだけれど


その知り合いを迎え入れた方と


この間二人で会った時


「あの人ってちょっと神経質よね


私の内が汚いと思っているのが


わざわざ自分でルームシューズを


持ってきたんだよ


なんかすごく嫌だったよ」と


私に表現していたの


それを聞いた私は


以前私のおうちに知り合いが


遊びに来た時に


私も少し不思議に感じて


「大丈夫だよ


私意外とお掃除毎日しているから」と


伝えると


その知り合いが


「あ!嫌な思いさせちゃった?


夏場はサンダル履きが多くって


はだしだから


遊びに行った家の人が


嫌かなって思って


あえて持ってきているだけなの」と


気遣いからそうしている事を


聞いていたので


その事を伝えると


その気遣いに驚きながらも


その時自分が見せていた表情に


反省していたの


私たちは時々


相手が好意から手渡してくれたものであっても


勝手な思い込みから


その好意を悪意に感じとってしまう事も


あるんじゃないかなって


感じていたの


時には


事実が正しいかどうかが大切なのではなく


自分にとって


安らぎとなり喜びとなるよう


受け取り表現する事が大切で


たとえその事実が正しくなかったとしても


すべては一人ひとりの思考から


生み出される思いを表現する場として


人生があるから


できるだけ自分にとって心地よく感じる


よい方向に受け止めた方が


自分も周りも


幸せに導かれてゆくんじゃないかなって


感じているの


気遣いって人によって様々で


誰にでもオールマイティにわかりやすい


親切を表現される方もいれば


わからないくらい自然に


その場の空気を変えながら


気がつくとみんなが笑顔になれるような


気遣いをされる方もいたりして


愛の表現は


本当に人それぞれだと思うの


よくあるのは


贈り物も難しい部分がって


受け取る事でお返しをすぐにしなければって


考えてしまう常識的な方にとっては


受け取る喜びよりも


お返しを考えての


心の負担が過ぎに生まれててしまったり


贈る方もそれぞれで


頂き物が多くあったから


おすそわけしたいという


ただそれだけの思いであっても


受け取った方に負担に


なってしまうかもって思いから


あえておすそわけせずにいるかたがいたり・・・


本当に様々だと思うの


私の周りではあえて贈り物を


しあわないようにしたのは


間接的ではあるけれど


ある知り合いが誰かに何かを贈った時


相手が思うような反応を


してくれなかった不満や


相手の資質にまで否定しているのを聞いて


少し怖くなったからの


その時私の先入観かもしれないのだけれど


常識的にきちんとしている人であればあるほど


相手にもそれを求めている事を感じ


形だけの贈り物をしない事を


周りに伝え


あえて非常識な人間だという事を


アピールした事もあったの


ただ気心がわかり


自然に与えある流れが出来ている友人や


知り合いとの間では


日常的に心のままに


おすそわけしあう


喜びを経験させてもらっているの


私が感じているのは


人の心や思考は


いくら親しくしていても


すべてわかるわけではないのだから


そんな時は


できるだけよい方向に受け止め


過ごせるようにした方が


自分自身にも


ふれあう方たちにとっても


これから進む未来にとっても


よいものを招き寄せてくれるように


思うの






今私の周りでは


身体の不調や違和感について


話す事が多くって


改めて時の流れを感じる事が多いの


そんな時


ありがたいのは自分たちよりも上の世代の


何気ないアドバイスで


その何気ない言葉にホッとする事もあるの


私が日々足を運んでいる


フィットネスクラブでは


私の母世代の方も多く


見ただけではそうは思えないくらい


イキイキとされているのだけれど


ある時


フィットネスくクラブで仲良くなった友人が


肩が痛くて薬を飲んでいる話を


私に伝えてくれている時


そばで聞いていた


母世代の方が


「私のそういう時あって大変だったの


でもそんなにひどくなさそうだし


すぐに治るから大丈夫よ


私も次の教室出たくってバタバタしてるけど


今度はひざが痛いから


我慢しているんだよ


だから無理しないで


休む時は休んだ方がいいよ」と


友人に伝えていたの


それを聞いた友人は


何かとてもホッとした表情になったの


私たち世代にとっては


体調の変化は初めて訪れる事が多く


なぜ?これって治るの?って


未知なる不安を感じる事も多いから


その道を通り乗り越えられた世代の方から


伝えられるアドバイスは


とっても心強かったと思うの


私の友人は驚くほどまじめで


自分が計画した事ができないと


きっと必要以上に自分を責めてしまうのか


楽しみ事であっても


きちんとできないと


とても落ち込んだりしてしまう事がったので


心を軽くしてくれる言葉が


きっと嬉しかったのだと思うの


この間も取ってもハードなトレーニングの後


あまりにハードすぎて


なぜだか笑いが止まらなかった私は


「私たちってこんなにできないのに


めげずによく頑張っているよね(笑)」と


ふっと言葉が溢れた時に


友人は「ほんとだよね~」と強い音霊で


表現したかと思うと


急に瞳がウルウルしだして


それを瞳に映した私は


え!?って驚いてしまったのだけれど


きっと本来がんばりやの友人は


必要以上に頑張れない自分を


日々受け入れられず


過ごしていたのかなって


感じていたの


でも私はか見つめると


二人の子育てをしながらも


頑張って時間を作り


フィットネスクラブに足を運び


十分すごいなって思うのだけれど


本来ならばもっとできるはずなのに・・・って


思いがあるのに


人生で初めて心が優先だった流れから


体調と相談しながら過ごす


その流れに違和感や不安を感じ


言葉では表現できない


思いに包まれているんじゃ


ないかなって感じていたの


私自身


30代はずっと病と寄り添い過ごしていたので


その気持ちはとってもわかる気がするの


周りははつらつと楽しそうに


日々過ごしていて


時には退屈そうにしている時さえ


うらやましかった事もあるの


私の場合は何もしていない本来ならば


退屈を感じる時でさえ


痛みがいつもあって


ゆっくりと退屈を味わう事も出来ず


ましてや行動的に過ごす事などできず


周りはよかれと


家にばかりいちゃだめだよって


色々と楽しそうな提案をしてくれるけれど


病と寄り添う前のように


心優先ではなくなっていた私は


いつも何よりも


体調のご機嫌を伺わなければ


何もできない状態だったから


前向きにあれこれと


アドバイスされること自体が


辛い事の一つになていたように思うの


今友人は年齢的な節目を迎え


初めて自分とは違う違和感を感じる


体調の中で


心までも体調と同じような


波動になりかけているけれど


ほんの少しでも


私の経験が友人の


心の薬にできたらいいなって


日々感じているの


私自身も肩などの痛みは


昨年で終わり


年齢を重ねると同時に


与えられる体調の変化は


ちょっぴり怖いけれど


多くの女性がそれを乗り越えているのだから


大丈夫って


自分を励ましながら


日々過ごしているの








昔カナダから来たきていた外国人の方と


仲良くしていた頃


私が気づかない


日本人の特徴的な事を表現していて


それを聞くたびに


私にとって普通だった事が


外国の方ったいには


不思議に映っているのを知ったの


たとえば


その方が日本人と小旅行に行った時


そこはとっても景色がよく


それを目的に行ったのに


日本人の方は10分くらい眺めていたら


もう飽きたのか


次のプランへと行きたがり


次のプランをこなすと今度も


忙しそうに次々と場所移し


その姿が外国の方にとっては


レジャーなのに


まるで仕事をしているかのように


分刻みで動く日本人の姿に


少し驚きと疲労を感じたそうなの


外国人の彼は


美しい景色を長い時間眺めているだけで


十分幸せでレジャーに来て


よかったと思うそうなの


それを聞いた私は


私も彼が話す日本人特有の部分があるかもって


感じていたの


たとえばのどかな景色にふれたくって


そういう場所へ行くけれど


10分くらいその場で過ごしていたら


もう満足してしまい


瞳を満たしたから


今度はおなかを満たしたいとか


温泉に入って身体を満たしたいとか


その土地にあるすべてを


限られた短い時間で満たそうとしてしまい


気がつくと外国人の方から見つめると


ビジネスマンのようにハードに


行動している事もあると思うの


外国人の方との違いは


はっきりとは分からないけれど


私が感じているのは


きっと日本人は何もしないリラックスが


上手にできず


何もしない事は意味のない事のように


感じてしまい


くたくたになるほど行動して初めて


やり遂げた感で


心身が満たされる事に慣れているから


それが遊びであっても


そういう部分があるんじゃないかなって


感じているの


だから私たち日本人には


不思議な形の自慢がいくつもあって


忙しい事を自慢したり・・・


中には本質的にはなくても


困らない予定であっても


スケジュール表が埋まっていないと


落ち着かず


無理に予定を埋めて


過ごす方もいたり・・・


その様な流れが


長い間できている方にとっては


無意識に強迫観念のようになっていて


何もしない自分は


すべてのものと切り離されたような


不安や寂しさを生み出し


それと向き合う事を怖れ


あえてハードスケジュールに


されている方もいると思うの


日本人にとっての充実感は


心を満たす事と言うよりは


外国人の方が感じたように


時間を満たす事に


なっているんじゃないかなって


感じていたの


私たち日本人は


自分たちでは感じてはいないけれど


元来まじめな気質を秘めているから


やりたい事・やらなければいけない事の


バランスを上手にとろうとすると


どうしても時間が


足りなくなってしまうから


私たちなりに上手に


時間を配分していたら


そうなっている事もあると思うの


ただ休息が上手にできない


日本人の私たちは


限界まで


無理を重ねてしまいやすいから


時には退屈だな~って思うような


何も考えず何も行動しない時間も


ある意味


意識して作る事も


大切なんじゃないかなって


感じているの








時々相性を超えるものって


あるんじゃないかなって


感じる事があるの


私のパートナーのお母さんは


とても真面目な方で


何に対しても正しい否定をする事が多く


私にとってはそれがどうしても


心地よくなく


心通わない事も多いのだけれど


今の私の幸せがあるのは


間違いなく


パートナーを産み育ててくれた


人という思いから


感謝が深い部分にある私は


ぶつかり合いながらも


関わる事を続けてきたの


そんな年月の流れを過ごしてくると


不思議なもので


お互いに相手のパターンがわかると


たとえ相性が


あまりよいものではなくっても


流れがわかる安心感と


関わりが多いほど


情と言うものも湧く事も


あるんじゃないかなって


感じているの


嫁いだ時は


私は私で新たに家族の仲間入りするのだから


皆と仲良くしたいという思いでいたし


お母さんはお母さんで


男の子ばかりを育ててきたから


娘を望んでいたお母さんは


嫁いできたお嫁さんたちとは


娘のように仲良くしたいとの


思いでいたと思うの


でも何かの小さな想いの行き違いが


何度かあったりしてゆく中で


疎遠にになってゆくお嫁さんがいたり・・・


元々の立場から見えるものが


違っていたりするのに


お互いに同じものを求めていたり・・・


私は自分の母とよく話す機会があって


私の母は私の弟のお嫁さんとの関係や


想いを話す中で


色々学ぶ事が多く


その中で母がよく表現するのは


「親は無償の愛なんだよね


どんなに尽くしても見返りを


期待してはいけないし・・・


ただただ


息子の幸せを考えて我慢もするしね」って


聞いた時


私もその言葉をパートナーのお母さんに


重ねていたの


そして私の母も


私がお母さんとの間で


感じた事などを話すたび


母は母でその事を意識しながら


弟のお嫁さんと接していたり・・・


互いに愛する人を大切に思う思いは


同じなのに・・・


ただ私の母はお嫁さんとの関係は良好で


今では私よりも会っていて


弟が一緒でなくっても


遊びに来ているそうなの


私の母はちょっぴり個性的なので


初めは??って思う事も多いけれど


長く付き合っていると


話題も豊富で世代を超えて笑顔になれるし


何によりもこうではなくっちゃて


いうものがないので


とても楽だと思うの


パートナーのお母さんは全てが逆で


とってもまじめでその枠から外れるものを


笑顔で流す事ができなかったり


きちんとした方なので


私の言動や行動が理解できず


不快だったと思うの


でも今ではお嫁さんの中で


一番関わってきた相手だから


情が湧いてきたのか


何かと気にかけてもらっているの


私の中で今でも嬉しかったのは


結婚して間もない頃


母の日があって毎年みんなが


お花を贈っていたのを知って


私も渡さなければって


思ってはみたのだけれど


その当時は若かったパートナーは


驚くほど少ない報酬しか


受け取っていなかった事もあって


数千円さえなかった事もあって


どうしようって考えて


出した答えは


そのころ大好きだったお裁縫で


クッションを作ることにしたの


布などはいくつか持っていたので


刺繍などをしたりしながら


手渡したの


そうしたら喜んで受け取ってくれたのだけれど


遊びに行くたびに


私の作ったクッションはどこにもなく


どうしちゃったんだろうって


思っているとお母さんが突然


押し入れから私が作ったクッションを持ってきて


「ソファーの置いておくと


みんなに使われてよごれちゃうから


夜ゆっくりする時に


私専用で使っているの」って


表現したの


その時本当に嬉しかったの


私は元々形にこだわらず


手渡したいと思った時に


手渡すタイプなので


母の日に手渡したのはその時だけで


みんなのようにきちんとした


決まりごとの流れを守っていないの


でも私がランダムに手渡したものすべてを


今でも大切に持っているその姿から


お母さんの優しを感じとりながら


相性を超えた


言葉では表現できない深い思いで


繋がりあえているの







私たちはあらゆる事を


偶然のように受け止めているけれど


時々ふっと


言葉では上手に表現できないのだけれど


この日を迎えるために


世界中の人々が知らず知らずに


そして間接的に動き


すべての人にタイミングよく


あらゆることが起こるように


働きかけてきたから


その瞬間を受け取っているんじゃないかなって


感じているの


ある一つの出来事を見つめても


私たちは全てを見る事は出来ないから


偶然としてしか判断できないのだけれど


もしも全ての動きをみる事が出来たならば


それはきっと


ある答えになるように


動いているとしか思えないと思うの


たまたまある方のお話を聞いて


そう思ったのだけれど


私の知り合いの方が


結婚する事になったのだけれど


その方は婚約していたのに


突然婚約解消となって


絶望的になっていた時


それを心配した友人が


飲みに誘いたまたま足を運んだお店に


同じようにお客さんとして


きていた女性と仲良くなり


その仲良くなった女性に


婚約解消した話をすると


「じゃーうちの会社の男の人たち何人かと


合コンでもしてみる?」って


話になって数日後合コンをしようとした日


巡り会ったのが


今回結婚する相手なの


相手の男性は合コンなどには興味もなく


そういう集まりに


加わる人ではなかったのだけれど


その日本来来る人が


突然大切な仕事が入っていけなくなり


代わりに行ってくれるように


頼まれたのだけれど


断り帰ろうとしたら


急に車が故障しているのか


エンジンがかからず困っていると


今回合コンをセッティングした女性が


通りかかり


その女性の車で送ってもらう事に


なったそうなの


車で送ってもえらっている時に


今回結婚する知り合いが


合コン場所へ向かうのに


歩いているのを


合コンセッティングした女性が気づき


そのまま車に乗せ


彼を家に送り届け


二人の女性は合コンをする


場所へ向かったそうなの


本来ならばそれで終わるはずなのに


絶対に結婚する予定になっている


二人はそれでは終わらず


合コンが終わって


女性二人は


カフェで少し話をしようと入った時


先ほど送った彼が書類を広げ


誰かと話していて


お互いに気づいたので笑顔を交換しながら


しばらくすると


彼が話していた人が帰り


3人で話す事になって


帰り際に同じ会社の女性が


電話番号を交換するようにいい


電話番号を交換し


その後は驚くほどのスピードで


結婚することとなったの


そのお話を聞いて


私たちも形は違っていても


このような流れを体験していると思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


私たちの人生の中で


どうしても通過しなければならない事


出会わなければならない人やものは


その目的に向けて


自分の意識を超えて


あらゆるものが動いていて


そこにたどり着いているんじゃないかなって


感じていたの


誰かが遅刻したり


見知らぬ誰かの靴ひもの


結び目がはずれた事で


その人が立ち止まる事も


長い時間の先に意味がったり・・・


私たち人間は


全ての生き物と繋がりあうパイプを


備えられているから


全ての生き物が発する音霊・行動が


見知らぬ誰かの


幸せに繋がって事もあると思うの


そう思うと


時に自分が建てた予定通りに


物事を運べない時があっても


自分を責める事も


周りを責める事もないんじゃないかなって


感じているの