2012年10月





最近なぜだか


自然界に暮らす動物たちについて心惹かれていて


毎日様々な分野の方が書かれた


本を読んだりしているの


動物たちは進化していった人間には


理解できない厳しい本能をベースに


それぞれのスペースで生きているのだけれど


ある部分には人間が意識できていない


無意識の行動の意味も


教えてくれるの


その中でも興味深かったのは


動物たちは


対象となる動物との関係の中で


心満たされていると


他の生き物たちとの


距離を持つようになるようなの


それって人間の行動の中にも


少し感じる事があるんじゃないかなって


感じているの


たとえば独身の頃


恋人がいない同士だと


時間の余裕もあるけれど


無意識にさびしい気持ちを解放してくれる


そんな時間がとても楽しく感じ


過ごしているけれど


どちらかに恋人ができると


何となくちょっぴり距離が出来て


恋人がいない方にとっては


なんだか複雑な思いに


なったりもするけれど


動物の世界に重ねて見ると


何となくわかる気がするの


動物たちは


あれこれと複雑に考えず


ストレートに行動する動物たちは


寂しさや埋まらない心の隙間があると


社交的で


過剰なほど


他者と関わろうとするようなの


人間の世界でも


そんな風に思い見つめて見ると


なるほどって感じる事もあるの


一見


一人でいつも過ごしている方を


寂しいと決めつけて


見つめる事があるけれど


そういう方でも


心満たしてくれる何かがいつもあって


他者にぬくもりを


求めずに過ごせていたり


逆にいつも楽しげに


たくさんの方とコンタクトを繋ぎあって


過ごされている方であっても


本能的には満たされない


寂しさを持っていたり・・・


動物の場合


心満たされない状態になると


過剰なほど


他の動物たちのそばに行って


肌のぬくもりを感じる所で


過ごしながら


肌を通して安心感からなのか


心をあたためるそうなの


確か数年前


どこかの研究で人間も


手のひらを温めると心がホッとしたり


穏やかな気持ちになる事を


伝えていて


あたたかい飲み物を


マグカップなどに注ぎ


そのマグカップを両手で


包みこんであげると


手の温度から心まで


解きほぐされる事が発表されていた事を


思いだしていたの


私が暮らす北海道は


元々熊の生息地だった事もあって


時期を問わず


熊に関わるニュースが伝えられていて


そのたび


周りの人とも熊についての話が


何気なく表現される事も


多いのだけれど


熊に森で偶然に出会ってしまった時の対策も


年々変わってきているの


たとえば昔ならば


死んだふりをするのが


有効と伝えられていたけれど


それで助かるのは


まれな状態であって


今では対策の一つにはなっていなく


少し前までは


臆病な熊も人間との遭遇を避けているので


ラジオや鈴などの音を鳴らし


人間がいる事を伝えていると


向こうから避けて行ってくれるというのが


あったのだけれど


それも最近では少し難しくなっているようなの


その理由は


一度森にはない食品を食べてしまうと


またその食品を食べたい執着から


人間イコールその食品という


思いが芽生えていて


人間がいると知ると


自ら近寄ってくる熊も


現れてきているそうなの


色々な分野の書かれた方の本の中で


共通して書かれていたことなのだけれど


絶対に人間社会と


動物の間には超えられない壁が


必要なようで


それはどんなに動物と人間の心が


通じ合ったとしても


腕力や表現の違いがあるから


その部分を人間の方が


忘れずに付き合いをしなければ


人間にとっては


事故となる形になるそうなの


食物がなくやせてきている


動物などを見かけると


つい豊かさに溢れる


私たち人間は


施しをしてあげたい


思いに包まれるのだけれど


その時満たされても


永遠にその施しができないと


その施しを誰かに求めるようになり


よい事をしたつもりが


未来の誰かの危険を


作り出している事に


なるのかもしれないなって


感じていたの


動物たちの行動の変化は


多くは人間の何気ない事から始まっていて


時には心理的な事でさえも


人間会と同じ動きをしていたり・・・


そんな時よく感じるのは


テレパシーのように


地球に暮らすすべての生き物が


繋がっている感覚なの


私たち人間はメディアや人との会話の中で


今社会の動きが


どのようになっているのかを知り


多くの方の思想に合わせ


歩む事で


相手にも自分自身にも


安全な歩みが出来るけれど


動物たちは遠く離れた場所で生きる


仲間たちと連絡をしあってもいないのに


同じようなタイミングで


同じような進化をしていたりするのを


耳にするたびに


生き物すべてが持つ


不思議な能力を感じているの


人間は動物と違って


思いをストレートには表現しない


技を時の流れの中の経験から


身につけた事もあって


本質が見えない事も多いけれど


それでも私たち人間は


言葉や表現とは別のものを


かずかに感じる能力は残っていて


自分でも理由はないけれど


どうしても行きたくないとか


理由はないけど


どうしても好きになれないなど


そのような自分でもわからない感覚を


感じる事があると思うの


ただ人間の場合は


あまりにも複雑になってしまい


それが直感なのか


ただの思い込みや決めつけなのかの判断が


難しいのだけれど・・・


人との関係の中で


理由はないけれど


どうしても好きになれない人がいた場合


直感的に自分にとって


よくないものをもたらす相手として


判断している場合って


意外と少なくって


多くは話し方や容姿などが


好きになれないという事が多く


それはそういう方を


好きになれなくなった原因が


過去にある場合が多いと思うの


過去ので会った誰かを思いだす


何かをその相手から感じると


記憶の中で


また同じ思いを回避するため


自分を守るために


初めから拒絶する形であったり・・・


私自身も


そういう部分があって


理由はすぐには出てこないのだけれど


どうしても好感を持てない方がいた時


なぜだろう?って


ちょっぴり立ち止まって見ると


初めはあのような会話が好きじゃないとか


あの方の表情が好きになれないとか


もっともらしい理由を


無意識に考え


自分に伝えているのだけれど


その表面的なものが一つ一つ


取り除かれてゆく頃には


心も静まり静寂の中で


本当の理由が見えてくる事もあるの


その時現れる本当の理由の多くは


過去の誰かを思い出す事が多いの


そして同時に


その頃の嫌か感情までもが


リアルに思いだされて


そのたびに


この感情を避けるために


表面にいっぱい


理由となるカバーとなるものを


幾つも重ねている事に


気づく事があるの


でも一度それに気づくと


まるで氷が光にあたり


溶かされてゆくように


その方との間で


嫌な感情は一つも感じないの


私たち人間はとても利口で


自分を有利に運ぶために


あらゆる理由を表現したりしながら


関わる人を好きになれない自分を


否定されないように


もっともらしい理由を表現しながら


「ね!好きになれないのは


私だけではないでしょ」と


声にならない言葉で


共感を求める事もあると思うの


でも私たち人間は


どの生き物よりも


自由度が高く


進化のスピードも速いのだから


どんなふうにでも自らの力で


自分が歩む人生を変える事が出来る


唯一の生き物だと思うの


そう思って見つめて見ると


周りの変化を望み待つ事よりも


自分自身の心を見つめ


そして開き


自分自身を知ることが


全ての変化にも大きな力を


与えてくれると思うの


私自身


幼いころから


個性的で安定しない感情の母との間で


どうにか平和に暮らすために


無意識に身についた事なのだけれど


過剰に人が望む事を


感じとってしまうせいなのか


大人になった今でも


人との関わりの中で


自分の思いを表現するよりも


相手に合わせて我慢するほうが


慣れているせいか


そちらを選ぶ事が多く


その時にも我慢している自分に


一生懸命に理由を伝えているの


その中でよく浮かぶのは


その人仲良くしていないと・・・って


事なのだけれど


別に特に


利害関係があるわけでもないのに・・・


そんな時


本当にその人がいなければ


自分の人生がうまくゆかないのか?って


自分に問うと


もちろんそんな事はないのだけれど


寂しさから人との繋がりを


持っていたい思いからだったり


自分一人では楽しめない時間を


与えてくれるからという


思いからだったりなのだけれど


「そんなにが我慢して何が楽しいの?」と


自分に問いかけて見ると


無言になってしまうの


私も若い頃は


今とは真逆で


驚くほど自分のペースを守り


それに合ない人とは


縁が深まらないという


とってもシンプルな人間関係で


ただ人からは私に対して


よくない感情を持っている方が大半で


ごく少数の仲良くしている方を


大切に過ごしていたの


今は真逆で


人からの評価は無難に


受け入れられているのだけれど


評価をしてもらっても


いつも誰かに合わせて


本当の自分を表現できていない


私にとっては


無難にその方との時間を


過ごすだけで


心から楽しめなかったり・・・


いつもそんな時


つい相手のせいにしてしまう事が


あるのだけれど


嫌な空気を避ける事ばかりに


意識を張り巡らせて


自分を表現できない自分が


どんな時も問題だと思うの


いくら過敏に相手の望む事を


受け取っているとはいえ


相手だって目の前にいる私のリズムに


合わせながら


今目の前にいる私に見合う


付き合い方をしてくれているのだと思うの


そう思うと時には


互いに自分ではない自分で


そこにいる場合もあると思うの


私は本当の自分を表現する事で


嫌われてしまうんじゃないかという


怖れを抱いているけれど


自分ではない自分を愛されるよりも


嫌われても


自分が自分に納得できる


選択を出来たならば


それはそれで


幸せなんじゃないかなって


その様な思いを今育みながら


少しずつではあるけれど


自分の思いや個性を


表現できるように


頑張っているの









私たち日本人の多くは


無意識に相手に深い悟りを求め


そして高尚な知識と行動を


するものだという


信頼と期待を持って過ごしている部分が


あるんじゃないかなって


感じる事があるの


そして関わる人々も


相手が何を期待し希望しているのかを


敏感に感じとり


時には自分の思いを抑え込んでも


相手の笑顔を優先してしまったり・・・


どんな方と出会っても


その事がベースに多くの方が


秘めている事もあって


予測とは違う言動や行動に出会うと


それだけで


拒否反応を感じたり


その方の事を何も知らなくっても


わかっているかのように


否定してしまう事もあるんじゃないかなって


感じているの


頭の中では


育ちや環境も違うのだから


違っていて当たり前って


わかっていても


日本人の方の多くは


長い月日をかけて


言葉を超えた悟りに近い能力を育み


歩んできた事もあって


無言の会話の中で


通じ合う喜びを知っているから


ついその枠の中から外れたものに出会うと


それだけで


ちょっと驚いてしまう事があると思うの


そして


その驚きをどのように


表現して良いのかわからず


気がつくと


否定的な表現を用いて


考える事を避けてしまうんだと思うの


私たちは月日をかけたからこそ


守りたい大切な何かを


受け取っていて


それと寄り添うように


その大切なものを失う恐れもあって


それを揺るがす事が


何かはわからなくっても


小さな変化にも


不安を感じる事もあると思うの


そんな時出会う人々が


ちょっぴり個性的なだけでも


好奇心よりも


守りたい思いの方が強くなって


つい人と距離を持ってしまう方も


いると思うの


人の多くは


愛し愛され


自分一人では体験する事の出来ない


喜び溢れた時間を望んではいるけれど


それ以上に


問題は増えてしまう事への


懸念の方が先にあって


多くの経験を受け取る事よりも


今ある幸せを大切に思い


変わらないように


努力されている方もいると思うの


人の本質は


変わる事を怖れながらも


思っている以上に


変化を好み変化に対応できる生き物で


変化のない「いつもの」ものを


続け守ってゆく事の方が


大きな努力が必要なのだと思うの


でもそんな方でも


自分では気づかない速度で


変化はしていて


その時代・年齢etc


様々な「今」に合うように


変化をしているのだと思うの


10年単位で


人生を振り返ってみると


その当時に譲れないと思っていた


真実によって


多くの人と対立してきた事さえ


今の自分が見つめると


何であんな事で・・・って笑ってしまったり


けなげな自分を


抱きしめてあげたい思いになったり・・・


その時にはまだ見えなかったものが


今の自分には見えたり・・・


必ず大きく変化を遂げていると


思うの


自分で意識的に変化や進化を


遂げようと焦らなくっても


その時々のタイミングをキャッチして


ちゃんと進歩していると思うの


だから


変化を過剰に恐れる事も


逆に


自分の成長を焦る事も


ないんじゃないかなって


感じているの


以前も書かせていただいた事なのだけれど


私はありがたい事に


読書好きな友人や知り合いが多く


とても素敵な知恵が書かれた本を


いくつも教えてもらったり


貸してもらう事があるのだけれど


誰よりも時間がたくさんあって


自由度の高い私でも


なぜだか


読み進まない本があって


でも「読んだ?どうだった?」って


本を返す時に尋ねられ事を予測して


目次だけを見ておいて


「すごく面白かった」って


相手の好意を好意としてお返ししたい私は


つかなくってもよいウソを


つく事があるの


でも不思議なもので


それから月日が流れて


その本の事も忘れている頃


本屋さんで心惹かれて


手にした本をよーく見ると


あれ?数年前に借りた本だって


気づく事がよくあって


そんな体験の中で


人には受け取り学ぶベストな


タイミングがあって


知ったのが


速いから優れているわけでもなく


遅いからだめというわけでもなく


人生のベストなタイミングが


様々なものを引き寄せて


くれると思うの


逆に昔何にも感動しなかった本でも


今の自分が読むと心に響いたりする事がって


それはきっと


自分では意識はしていないけれど


様々な体験を乗り越えて


経験値が高まってくると


若い頃には感じる事が出来なかった


わずかな人の素晴らしさや慈愛などを


感じとれるようになっているから


そこから導き出す答えも


以前とは違うものに


なっているんじゃないかなって


感じているの


私たちは人生の多くの出来事を


自分で選択し選び取り


今の自分の姿は


すべて自分の責任で


だからこそ


自分が思い描く姿と少しでも違う


自分を感じると


自分を責めたり迷いが生まれたりする事が


あるけれど


言葉では上手に表現できないのだけれど


私が感じているのは


選び取らなかった人生は


確認できないからわからないだけで


どちらを選んでいても


学ばなければならない事


心の体験はそう違いはなく


ただタイミングがわずかに違うだけで


宿命として与えられている部分では


どんな選択をしても


受け入れる事を学ぶ時期だから


自分の力が及ばない


範囲もあるんじゃないかなって


感じているの


もちろん


自分が選び取る時期もあって


その選択によって


人生の舵を取る時もあるけれど


瞳には映らない力の方がずっと


大きく働いているように


感じているの


私たちが個性として与えられた


自分の認めたくない部分も


自分の人生の軌道修復には


とても大切なもので


だからこそ


人とは違う一部を


誰もが与えられていると思うの


人は怖れから


色々なもの避けるために


適切ではない表現や行動をする事があるけれど


そのすべてはただ怖れからであって


本当に否定しているのは


相手ではなく自分自身に向けたものだと


思うの


たとえば女性同士で話している時に


自分とは違うタイプの人を否定的に


話す事があるけれど


その多くは相手を否定しているように映るけれど


本当は自分の生き方を


肯定し言い聞かせる機会としている事も


多いんじゃないかなって


感じているの


私たち人間は


時に自分の歩みを確認しながら


自分はこういう考えの人間なのだと


日々の行動と思いを


一致させる機会が必要で


その機会を


誰かを用いて表現しているだけだと


思うの


そして大人になるとさらに複雑に


自分の心を上手に隠す事ができる事もあって


幼い頃のように


ストレートにうらやましいとは


表現できなくなっているから


言葉や表情とはまるで違う事を


表現する事もあると思うの


ただどんな場合でも


形や表現が違っても


自分の人生を肯定し


思いと一致させたいだけなのだと思うの


少し表現が違うかもしれないけれど


怖れが強く抱いている人ほど


怒りや威嚇・威圧感を


表現するように


思いを言葉に重ねてストレートに


表現しない複雑さを


大人は秘めているから


その言葉に惑わされて


自分を傷つける事がないように


いつでも心をクリアにしておくことが


大切なんじゃないかなって


感じているの


特に女性は小さなスペースを大切にしていて


合わせていながらも


個人としての自分を


見失わずにいるからこそ


異和感をまっすぐに


日々感じていると思うの


それでも直感的に無意識に


自分のとってベストなタイミングを


感じとり


与えられた環境の中で


喜びを見つけ守る能力に


長けていると思うの


その知恵の一つが


自分とは違う環境・価値観の方を用いて


自分の人生を肯定したりしながら


これでいいのよねって


自分の確認する方法だと思うの


もちろんそれが素晴らしいものとは


思わないけれど


人それぞれのタイプによって


心にエネルギーが注がれるものも


違うのだから・・・


よくあるのは


自分が辛い時に


自分よりも辛い方を見て


励まされる方もいれば


その逆に


自分とは少しかけ離れた


幸せの中で過ごす方を見て


勇気が湧く方もいるように


どんな形であっても


自分自身の心にエネルギーを満たせるのならば


それはその方にとっては


その流れが必要なのだと思うの


正しいかどうかよりも


一人ひとりが


心満たされてゆくと


やがては誰かの人生を用いて


自分の人生を肯定する機会にしたり


自分の幸せを確認しなくっても


自身で自分を認め


自然にふれあう人々にも


ベストタイミングで言霊を手渡したり


自分が存在しているだけで


嬉しくなるほど


自分のすべてが誰かの人生に


光も影も


手渡している


大きな影響を持っている事を


感じるようになると思うの








恋するときめきから遠ざかっても


別の方向から


深い愛を育み過ごしているのだけれど


最近遠い記憶の恋が蘇ってきた


友人の話を聞いてから


ふっと私も今のパートナーとの


恋愛時代の事を思い出していたの


その頃はとにかく


ずっと一緒にいたい思いから


あまりに早く明ける夜明けを迎え


時が止まればいいのにって


ロマンティックな事を思ったり・・・


それから気持ちが続き


結婚という形に変わり


改めて恋愛とは違う


結婚の不思議を感じる事があるの


パートナーは


あまり私の事はタイプではなく


女性としてあまり意識をしていなかったの


私の方は長い間


自分が傷つくのを怖れ避けていたので


自分が望む相手とは違うタイプの人でも


自分を愛してくれる人を


ただ受け入れ付き合っていたのだけれど


パートナーの場合はなぜか


自分の意識とは別に


とても積極的だったの


パートナーも結婚してからよく表現するのだけれど


結婚は別の力が働いている気がすると


感じているようなの


私たち二人の間では


何となく根拠はないのだけれど


先祖同士や自分たちを日々守護してくれている


存在たちが決めたように感じているの


二人でいるとできる事


超えられる事がいくつもあって


男女という意識よりも


人間同士のきずなを


深く感じているの


言葉少ないパートナーが


以前表現していたことなのだけれど


自分では気づいていないけど


きっとずっと私と出会うのを


待っていたような気がするって


話していて


それを聞いた時


きっと結婚という深い結びつきを


体験した方の中には


同じような感覚を


体験した方もいるんじゃないかなって


感じていたの


よく友達がいないと表現される方がいるけれど


結婚という形でパートナーになった方が


恋人でもあり親友でもあり家族でもあり


幾つものポジションで


支えてくれているんじゃないかなって


感じているの


家族になると毎日の事だから


よい人だけではいられなく


時には宿命の元々の家族にも見せない


あらゆる姿を見せていたり・・・


それでも数時間・数日月日が流れると


何もなかったように


またいつもの新たな日を迎え


共に過ごせる人って


やはりそういないと思うの


結婚制度は人間が作ったもので


ある部分契約的なものだけれど


それでも世界中の家族それぞれにドラマがあって


長い月日をかけて


大きな幸せと安定に包まれると思うの


人生の幸せは


魔法のように瞬間的に


形になるものは少なく


ゆっくりと互いに成長し育み


時に喧嘩になったりという形で


また新たに相手の事がわかるという形で


愛が更新されていったり・・・


そして夫婦にしか分からない


惹かれる部分がったり・・・


私の母の知り合いのご夫婦は


パートナーで苦労されているのだけれど


それでも周りの理解を超えて仲が良いの


女性の方は周りからの評価も高く


御主人は真逆のタイプなのだけれど


私の母はそのご夫婦を見つめながら私に


「人にはわからないかもしれないけど


本当は奥さんの方が


性格的に難しい人だと思うよ


誰といてもよく見られたい人だから


それを御主人がいる事で


何も言わなくっても


周りからは奥さんの評価が上がるし


夫婦はうまくできてるよね」って


表現したの


それを聞いた私はなるほどって


感じていたの


男女の間では


同性同士の評価とは違う


別の部分に魅力や好意を感じたり


本当に不思議だなって


感じていたの


以前何かのデーターで


年齢を重ねた方たちが


フォークダンスをした後に


血液検査をすると


ホルモンバランスに変化があったそうなの


それを知って


地球上に必要があって


男女がいるのかなって


感じていたの


今では同性でも愛し愛され


男女の恋愛のような形も


多くの方の意識の中で


受け入れられてきてはいるけれど


きっと心躍るようなときめきは


男女だけの限ったことではなく


その方の感覚的なものだから


人だけではなく


音楽や美しい物語・綺麗なものなど


心動かすときめきは


きっと心身に


素晴らしい作用をもたらしてくれるんだろうなって


感じているの


心ときめく感覚は


ほんの少しいつもと違う角度で


見つめて見るだけで


すぐに見つけられる


素晴らしい細胞を蘇らせてくれる


秘薬となってくれると思うの


最近では妄想や想像であっても


そのイメージに身体が反応する事が


わかってきていて


イメージトレーニングの


大切さが伝えられている事を思うと


人間は自ら


自分を輝かせる力を


持っていると思うの









誰にも今の自分を深い部分で


支えてくれている


大切な記憶があって


その支えてくれている


記憶は月日を重ね


人生を振り返る事が出来るくらい


ある意味で


心に余裕が生まれた時


はっきりと気づける湯になると思うの


その大切な人生を支えてくれている


記憶の多くは


意外と小さな小さな出来事から刻まれた


記憶が多く


人に語るほど長く大きなストーリーではなく


だからこそ


その方が大切に秘めている事が


多いんじゃないかなって


感じているの


私自身も


人生の中でいつも思い出すのは


数カ月感だけの高校生活で


色々あったから


やめたはずなのに


なぜか今では人生の輝く


大切な記憶になっているの


「卒業写真」という曲を聞くたびに


その当時の事を思い出すの


その頃のクラスメイトたちは


数年後


学校を卒業し


進学や就職をしてゆくのだけれど


その後も仲が良かった人たちから


クラス会がある事を知って


卒業していない私は


そのあと仲が良い人たちから


その当時のクラスメイトの近況を


教えてもらいながら


寂しい気持ちに包まれていた事を


思いだすの


ただ私にとってはどうしても会いたかった


恋した人とは


その後個人的には会えたの


私が恋した時とは印象が違うほど


姿が少し違ってはいたけれど


魂に秘めたものは変わっていなくって


別れ際に


「お前はすぐ自分の思った事を


我慢して言わないで


自分で勝手に答えを出すところがあるから


少しは人を信用して


自分を出した方がいいぞ」って


伝えられた言葉が


どんなに月日を重ねた今でも


時折


私の中で後押ししてくれているの


私が病と寄り添い過ごしていた頃


何もかもがどうでもよくなり


この人生からリタイヤする方向にしか


考えられなくなっていた頃


パートナーから


「さーちゃんの人生をどうしようといいけど


誰かの記憶の中で


さーちゃんを肯定してきた人とか


さーちゃんのために犠牲になった人の事を


考えてみなよ


さーちゃんが幸せになってくれないと


その人たちの大切な時間すべてが


無駄になっちゃうんだよ


もしかしたらさ~


さーちゃんが初恋の相手っていう人もいたりして


その人が色んな人に


さーちゃんの素敵な所を話しているのに


街で偶然に


今のさーちゃんを見かけたら


きっとがっかりするよ


さーちゃんが自分のために生きれないなら


誰かのために生きてみたら」って


伝えられた事があったの


この言葉は


なぜか私の中にスムーズに流れ込んできて


私の人生の中で大切な思い出と共に


寄り添う数人の顔が浮かび


身体の痛みで涙を流すたびに


私が幸せになるために


支えてくれた人がいる事を思い出し


リタイヤせずに


今日という日まで辿りつけるよう


支えてくれていたの


そして数えきれないほどある


HPの中から


私のHPに来てくれる


出会った事もない方の存在が


私の明日を支えてくれていたの


執着心が少ない私の中で


唯一手放したくない大切なものに


HPを見てくださっている方の存在があって


そのおかげで


生きてこられたように思っているの


人生はドラマや小説以上に


様々な展開が用意されていて


その時々キーパーソンとなる人との出会いによって


もたらされた何気ない言葉が


その時々


大きな力になって


道を照らしてくれる事もあると思うの


その多くは必ずしも


正しい常識的な表現ばかりではなく


その方それぞれに


心の琴線に響く形は違うと思うの


でも人生の不思議は


ちゃんと自分のサイズに合った


メッセージを運んできてくれる使者を


聖なる存在たちが


自分たちの目の前に


用意ししてくれることだと思うの


たとえば日頃はこんな表現しない人なのにって


思う人が急に


表現した言葉が


自分の心を包んでくれたり・・・


そういう時って


姿形を持たない聖なる者たちが


一時的に


私たちにはっきりとした形で


メッセージを伝えるために


誰かの肉体を借りる事があるんじゃないかなって


感じているの


私たち人間は


頭の中では人間の力が及ばない事も


ある事は何となく理解してはいるけれど


自分自身の聖なる魂の力が弱っている時には


つい瞳に映るものやはっきりとした言葉に


大きな信頼と説得力を感じてしまう事から


少し聖なるものを信じられなくなる事があって


益々


目の前の現実だけに反応し


答えを急いでしまったり


自分のとって正しくない選択を


しやすくなっていると思うの


だからそういう時には


瞳に映る人から言霊というものを用いて


私たちに強く


エネルギーを注いでくれているんじゃないかなって


感じているの


時には意識的に


人との間でメッセンジャーとして


自分が選ばれた事を感じる方もいると思うの


私の親友は


生まれて数カ月後


母親が自らのこの世去ったという


体験を持っている事もあって


心が弱くなってくると


必ずと言ってよいほど


答えの出せない母親の思いについて


考えてしまうようで


そんな友人の心を少しでも


あたためたいという思いから


想像できる範囲で


様々な言葉を手渡してはきたけれど


何年たっても同じ疑問に包まれる


友人を見つめては


私は力になれないのかなって


感じていたのだけれど


そんな時


私の母がやはり同じような体験から


もう話す事も出来ない父親の事思い


悩んでいたの


その時


今まではいくら母を癒そうと


言葉を手渡してきても


一向に癒されない母の姿が友人に重なったの


それで母に友人の事を話すと


母は同じ体験をしたからこそ


化変える思いや


自分なりに納得させている言葉などを


初めて私に伝えてくれたの


その事もあって


今まで母は友人と同じように



迷路の中で迷っていたはずなのに


冷静に自分を見つめ


「友達に言っといて」って


アドバイスをしてくれるようになったの


そして私は友人に母が伝えてくれた言葉を


手渡してみると


「ほんとその通りなんだよね」って


癒されてゆくのを感じたの


私は母と友人の辛い体験から生み出される


あらゆる感情が


同じ体験をした人たちの橋渡しをした事で


二人の大きな変化を見つめながら


私はこの瞬間のために


存在出来て嬉しかったの










人生の成功って


何だろうって


ふっと考えていたの


誰の中にも可能性や才能が宿っているのだけれど


じゃーなぜ成功しないの?って


思われる方もいるとは思うのだけれど


私が感じているのは


その方自身が自分が秘めている可能性や


才能に心惹かれ興味を持てるかなんじゃ


ないかなって


感じているの


たとえばとっても歌がうまく


周りからもアーチストになる事を


薦められるくらい才能を秘めていても


本人がその事に興味を持っていなければ


その方にとっては


その事は才能でも可能性でもないと思うの


よく自己啓発本などに書かれている事を


頑張って実践しても


成果を感じられない方が多いのも


きっと自分が秘めている才能や可能性を無視して


心惹かれないけれど


これを得たいからと


無理して興味を持とうとしているだけならば


やはり無意識の力には勝る事は


できないんじゃないかなって


感じているの


私たちは意識している事よりも


無意識の部分の方が


数も大きさもとっても多くあって


その無意識の部分で心惹かれる事が


誰に強制されなくっても


自然に意識を注いでいることだから・・・


私の友人の中には


周りからの影響で運動を始めたのだけれど


薦めてくれた方が何年かかっても


成し遂げられなかった事を


いつも初めての出場で達成し


その事を聞くたびに


周りも驚いているほどなの


友人は今まで自分が運動能力という才能を


秘めている事に気づかず


ずっと過ごしてきたのだけれど


その才能に気づき心惹かれ


好きだからこそ自然に努力を


努力と感じず


楽しめる域まで薦めるからこそ


才能や可能性が花開き


一歩・一歩


人生が成功に向かっていると思うの


その事で通常では出会えない


アスリートの方たちと縁も深まり


きっとそのうち


多くの方の瞳に映る人に


なってゆくのだろうなって


感じるくらいなの


私は友人を見つめながら


改めて誰の中にも


才能や可能性が宿っていて


その事に気づき


その自分が秘めている才能や可能性と


自分が心惹かれる事が


一致した時


自分にとって人生の成功と表現できるのかなって


感じているの


逆に周りからはうらやましいと思われるくらい


何かに成功し様々なものを手にしていても


本人の心が満たされていないのならば


それは成功とは言えず


その逆に


周りからはあんな風にはなりたくないと


たとえ表現されるような方であっても


本人の心が満たされていたならば


その方にとってはそれが人生の成功だと思うの


人生の成功って


自分を幸せにしてあげられた方の事で


部室的なものだけではわからない事も


多いと思うの


自己啓発本などに書かれている


あらゆる知恵をどんなに実践したとしても


その行動や思いに


自分が無意識に喜びを感じる事が出来なければ


きっと叶わない夢を


追うだけになってしまうんじゃないかなって


感じているの


今の時代はあらゆる成功本があって


多くの方が読んでいるけれど


読んだ方の多くが


同じようにならないのは


人それぞれに秘めている才能や


心惹かれる事が違うからだと思うの


それなのに


誰かと同じようになろうと


努力を重ねても


難しいんじゃないかなって


感じているの


私自身


私以外の周りの人が


あらゆることで


私よりも優れていて


すぐに比較をしては


「なぜ○○ちゃんはこんな風になったのに


私はだめなんだろうって」


わざわざ自分の心を曇らせては


落ち込む事があったのだけれど


よーく考えて見ると


比較する相手とあらゆることが違っていて


初めから比較対象になっていないのに


部分部分で比較していただけなの


年齢も体力も心惹かれる事も


何もかも違うのに


そういうピンポイントだけを


自分に重ねては


自分を責めていたり・・・


でもある時


たったひとつだけ


その時だけかもしれないのだけれど


みんなよりもできる事があった時


私の中にもほんのちょっぴり


才能とまでは言えなくっても


可能性を神様から授かっている事を感じ


希望が持てた事があったの


その時言葉では上手に表現できないのだけれど


人はみな


秘めた才能や可能性が違うのに


多くの方から評価されるものを


目標にし


本当に自分が求めているものとは違うものを


追い求めているから


自分に秘められている


才能や可能性に気づかず


自分は一般的な人間で


特別な人たちとは違うんだって


自分を決めつけてしまうんじゃないかなって


感じているの


本当は全ての人が特別な存在で


ただ自分の秘めている才能と


自分が望むものが違うだけなのだと思うの


その不一致が


人生に違いをもたらしている


だけなんじゃないかなって


感じているの


自分の秘められている才能や可能性と


自分が求めている事が


一致している方は


とても速いスピードで形となると思うの


与えられた才能や可能性は


何よりも強い働きをしてくれる事もあって


時には自分の気持ちでは


気が進まない事であっても


その事が自分の才能と一致する場合には


多少フラストレーションがあったとしても


乗り越え続ける力となっていたりするから


多くの方は社会の中で


疑問を感じながらも


職業を


持っていたりすると思うの


才能や可能性というと


何だかとってもすごい事のように


思ってしまいがちだけれど


私自身


社会経験がほとんどない私からすると


働くという事は


才能だと思うの


仕事だけではなく


決められた時間に起床する事から始まり



あらゆるタイプの人と関わり


時間内に物事を進めたり・・・


私も何度も努力はしてみた事があるけれど


どうしてもその決められた事が


できず


時には私は何かの精神的な病なのかなって


疑問を感じた事があるくらいなの


そう思って見つめて見ると


自分では平凡だと感じ


日々過ごされている方であっても


間違いなく才能があると思うの


よく私は父に意志が弱いからだと


おこられていたのだけれど


がんばってもがんばっても


職場でわけもなく涙が溢れてきて


どうしても続ける事が出来なかったの


職場はいい方ばかりで


私を心配し


朝迎えに来てくれるパートの方がいたり


そのお店の店長は


毎日私が来なければいけない理由を作るために


料理を手渡してくれて


器を毎日返すために


私が通う癖がつくようにしてくれたり・・・


人に恵まれ


仕事もそう難しい事ではなかったのに・・・


こんなだめな私の事を


表現するのはとっても恥ずかしいのだけれど


数年たってなぜ?なのだろうって


考えて見たの


そうして生まれた答えは


私自身


自分が働いている姿を


何度想像しようとしても


浮かんでこなかった事が


全ての答えなんじゃないかなって


感じたの


たとえば経済的に困った時


人にはそれぞれ思い浮かぶ選択肢というものが


あると思うの


ある人はどこかに勤める事を考え


ある人は犯罪的な事しか浮かばなかったり・・・


私の場合は若い頃から


自分に何かできる事はないかなって


考える流れを持っていたの


なのでどこかで働くという才能が


元々宿っていない事を


無意識に感じとっていたからなのか


自分の周りにいる方に


「何か私にできる事がった言って」って


伝えておくと


ありがたい事にその時々


仕事となる事が与えられてきたの


たとえばナイトクラブなどに勤めている友人から


お客さんあての案内状を頼まれ


便せん選びや文面を考え


家にあるワープロで何百枚も印刷したり・・・


多くの方が当たり前のように


できる事には


当たり前すぎて


できない自分が想像できないから


それを才能とは感じず


過ごしているけれど


たとえどんな事であっても


続けられるのは


間違いなく才能だと思うの


よく努力だという表現があるけれど


人は無意識に


無意味だと感じる事には


どんなに頑張ろうと思っても


努力さえできないものだと思うの


だから多くの方は


自分の仕事や人生に疑問を感じながらも


続けられているのは


深い部分で


それが自分の才能や可能性と


一致している事を知っているから


あらゆることを乗り越えて


同じように感じる


日々を続ける事が出来ているんじゃ


ないかなって感じているの


人生が平凡で何もない人は


本当はいなくって


何もないように映るように


整え整え歩んでいるだけだと思うの


自分にとって当たり前の事であっても


そうではない人もいる事思うと


できるという事は


人生を歩む上での大切な才能だと思うの


スポットライトが当たる事を


人生の成功と思いがちだけれど


社会や周りからスポットライトが


当てられていなかったとしても


必ずいつも自分だけに


スポットライトを当てている人はいると思うの


その人に気づく事も


人生を豊かにしてくれる


才能だと思うの









40代になってから


周りも私自身も


今までにはない体調や心の変化を


話す事がよくあって


先に経験した方がいると


経験談を聞いたり


対処法を聞いたりしている中で


たまたま耳にした


[ミッドライフクライシス(人生半ばの危機)]という


言葉があって


調べて見ると


欧米では深刻な社会問題として


広く認知されている言葉で


人生半分を過ぎた40歳前後から


気力・体力の衰えを感じ


自分の人生が無意味に思え


深く落ち込んだり


「若さ」を失う焦燥感から


無謀なことをしたりという


症状が現れるとされていて


誰でもかかる可能性はあり


その時期も程度も症状も


人それぞれのようなの


そう思って見つめて見ると


この年代の方の中には


若さを失く焦燥感からなのか


とっても若い方を恋愛対象として


考える方も多くなっていたり


人生に意味を持たせたいと


今までのライフスタイルとは違う


何かを見つけようと


焦ったり・・・


40代を迎えた頃から


体調の変化を私自身も感じた事があったの


突然片方の肩がスムーズに動かせず


ある部分に差し掛かる痛みがあったり・・・


そんな時


実家でその話しをすると父に


「それは誰にでもあるし


すぐに治るから心配ないぞ


見た目がいくら若くっても


お前ももう年なんだ(笑)」と


伝えられ


安心と納得しながらもショックな


複雑な思いに包まれた事がったの


30代では感じなかった事も多くあって


何をしたわけでもないのに


何となく疲労感が消えず


スッキリしない日が続いたり・・・


私の場合は


30代は痛みを伴う病と


寄り添い過ごしてきた事もあって


慣れなのか


少しの体調の変化には


不安を感じる事はなかったのだけれど


周りの知り合いや友人は


今まで健康だったからこそ


ちょっとした体調の変化に


不安も重なり


ちょっぴり神経質になっている方や


心が沈む時間が長い方もいるの


特に大きな問題がない知り合いも


急に「こんなことして何か意味があるのかな」って


ささやき


その言葉を耳にした私は


明るくバイタリティーがあった彼女の変化に


少し驚きながらも


これが更年期というものなのかなって


見つめ


必要以上に前向きな言葉を


おしつけてしまわないように


意識しているの


そんな中で感じたのは


以前ならば


母はいつも一日中


何をするでもなく


口を開けば愚痴や疲れたという言葉を


表現していて


そのたびに若かった私は


「何もしていないのに何で疲れるの?」って


表現していたのだけれど


年齢を重ねて感じたのは


今の私がこれくらい


疲労感があるってことは


母はきっと倍くらいの疲労感を


毎日感じながら過ごしているのかなって事なの


そう思うと


今まで過去には理解できず


母を責める思いしか持てなかった


自分も母も許せる気持ちが


最近生まれてきたの


よく子供を産み育てている方が


子育てという体験を通して


親の大変さや親の深い愛情を知る事があるように


形は違うけれど


体験や年齢を迎えないと


知る事のない事も


たくさんあるんだなって


感じているの


私自身


40代になってから


なぜか食の好みに大きな変化があって


今までパンをあまり食した事もなく


パンはお菓子のような感覚があって


食事として考えた事がなかったのだけれど


友人のおうちで過ごした時


ホームベーカリーで焼いてくれたパンを


食べてから


急にパンが好きになり


今では毎日パンを焼いて食べているの


そして面白いのは


音楽の好みや洋服の好みなど


様々なものにも変化を迎えているの


これもホルモンバランスからの


変化なのかは分からないのだけれど


40代を迎えたころから


様々なものに変化を感じているの


女性は特に更年期を迎える頃から


精神的にも影響を受けて


大変な人生の山を越えなければならない方も多く


そう思うようになてからは


無条件で年齢を重ね過ごされている


女性に尊敬のまなざしを


注いでいる自分がいるの


女性は母親の影響を受けている方が多く


婦人科系は母親と同じような症状になる事が


ある事を思うと


私もちょっぴり不安になるの


母はとっても重く長い更年期で


近くで過ごしてきた


家族は大変だったの


体調不良から心身も過ぎれず


自分の痛みと同じ波動の言葉を


周りにいる人にぶつけ


心は日々揺れ動き


辛そうだったの


特に友人もいなく


趣味もない母は


ふさぎこんでいたの


そしてあんなに丈夫で美しかった歯も


弱り髪も薄くなり


母の場合は


まるで浦島太郎が玉手箱を開けたかのように


急にその頃


年を取ったの


その事で漠然と不安を感じていた私は


「どうしよう


かあさんのように更年期大変だったら」と


表現すると


母は


「あんたと私は違うからきっと大丈夫よ


あんたはもう子宮ないんだし


あんたはどちらかというと


父親と体質が似ているから」と


伝えられたのだけれど


ホルモンを生み出しているのは


子宮ではなく卵巣だから


子宮があるかどうかではないんだけどなって


思いながらも


母は母はで


私の不安を取り去ろうとして


くれているんだろうなって


ありがたい気持ちになっていたの


ある本を読んだ時


そこに書かれていたのは


40代から体調の変化を感じ


何かを始められた方と


そうではない方では


60代になってから違いが現れるそうなの


そう思って見つめて見ると


40代は次のステージを迎えた時の


ベースとなる大切な時期なのかなって


感じていたの


私が通うフィットネスクラブで


話している方の会話が


聞こえてきた事がったのだけれど


60代くらいの方3人が


フィットネスクラブへの入会時期と


きっかけを話していて


その3人の方たちは30代後半から


急に太りやすくなって


このままではいけないって思ったようで


独自でできる運動を


家事の合間などにしていて


本格的にフィットネスクラブなどに通いだしたのは


40代後半や50代を迎えてからのようだったの


その3人の方は


後ろから見ると20代の方のようなスタイルで


体力も驚くほどあって


いくつものプログラムをこなし


毎日通っているようなの


私の年齢でもなかなか難しいのに


すごいなっていつも感じているの


その方たちは気持ちもお若いのか


いつも40代の仲良しの方たちと


楽しそうに話をしていて


一緒にどこかへ出かけた話を


よくしているの


そのパワーの源を知りたくって


何気なく話しかけた時


私が「若い頃から健康だったんでしょうね」と


尋ねてみると


3人とも何かしらの病を経験済みで


一人の方はパニック症候群という病を


長い間経験し


その事で不安が広がり


若い頃からどこにも行けなかったそうなの


その方が若い頃は


そういう病の認知度がまだ


一般的ではなかった事もあって


家族からは気分家で困ると


日々言われ


更年期を迎えた頃には


元々の病とも重なり


辛さを自分一人で抱え


離婚したのだけれど


それでも互いに気になっていたのか


御主人だった方と近くに暮らしている間


月日は流れて


精神的な病が一般の方たちにも


認知されるようになった頃


御主人だった方から


「理解してやれなくて悪かった」って伝えられ


また共に暮らすようになったという


お話を聞いて


改めて人には人の数だけ


ドラマがあるんだなって


感じていたの


40代って微妙な年齢なのかなって


感じる事があるの


とっても年齢を重ねたわけでもないから


まだ色々と自分の意志で選択できるし


だからといって


一人の女性として見つめて見ると


若い女性のような美しさが少なくなり


本能的に秘めている


女性としての価値が消えて行く様な


錯覚が生まれたり・・・


でも実際には


女性の魅力は40代からと


表現される方も多く


若い頃にはない


母性本能が溢れ人間としての魅力が


容姿をカバーできるだけ備わり


本当は評価も高いのに


容姿の比較だけで


まるで価値がなくなってゆくような


思い込みに包まれている方も


いるんじゃないかなって


思うの


女性はこの世を去るその日まで


若く美しくいたいと願うものではあるけれど


若い方の綺麗さとまた違う


年齢を重ねなければ現れない


美しさもあると思うの









物事って


その立場になって


わかる事もたくさんあって


たとえ同じ立場になっても


人の数ほど答えも


生み出されると思うの


私自身


人との共感できる感覚が少しずれていたり


人よりも様々な経験値が低い事もあって


この年齢になって初めて


気づかされることも多いの


この間はいつも足を運んでいる


フィットネスクラブで


いつも仲良くしている友人が


その日は偶然にママ友と会った事もあって


いつものようには話す機会がなく


そんな時私が元々秘めている


クセが現れ


被害者意識と言うのか


疎外感を持ちやすい事もあって


その人よりも


自分が大切の思われていないという


思いに包まれていたの


そんな時


数日後今度は私の古くからの友人が


私の通っているフィットネスクラブに


たまたま来たの


その時私は


元々フィットネスクラブで仲が良い


友人の事が気になり


間・間に笑顔を交わしたり


ちょっとした間には


言葉を交わしたりしながら


初めて立場が変わった事によって


気づかされた事も多かったの


フィットネスクラブで仲良くしている友人も


私も共に友人を紹介したりしては


いたのだけれど


みんながみんな相手に気を使うあまり


間接的に知り会った方と


話しをしすぎるのは・・・という


思いからなのか


あまり言葉を交わさないから


その間二人を繋ぐ方が


とっても大きな気づかいをし


その場にいたと思うの


私自身は人との出会いは


何となく嬉しい出来事なのだけれど


幼いころから何度も


紹介してくださった方と仲良くなって


お互いに連絡をしあうようになった場合


紹介してくれた方に疎外感を


持たせてしまったからなのか


その後その友人の中に宿る嫌な部分を


私が引き出してしまい


トラブルになった事もあったから


それ以来


自分発信で出会った相手以外


あまり親しく


できなくなってしまったの


その事で変によそよそしく


なる事もあるの


人間には元々大なり小なり束縛を


互いに許しあっているという事で


安心・信頼などを


感じる部分があるから


自分と距離が出来ると


寂しさから嫉妬に近い感覚が


生まれてしまったり・・・


特に女性同士の友人関係は


男性とは少し違って


人生で幾つもステージが変わり


そのたびに環境や人間関係にも変化があって


なかなか深く繋がりあう


人間関係を続けるのは


難しい事もあるんじゃないかなって


感じているの


でもある意味


女性はもっともスピリチュアルな生き方が


自然にできていて


その時その時


必要な人に出会い


自分の魂の栄養とし


そして執着を手放し


歩める女神のような


存在なのだと思うの


なのでドラマのような友情物語は


少ないけれど


短い期間に出会い深めた日々から


交わした言葉や行った場所など


あらゆるものを人生の柱とし


生きているんじゃないかなって思うの


そして何気なくショッピング中に


言葉を持たぬ


美しいものから日々何気なく


エネルギーを受け取り


心を充電していたり・・・


どんなものからもエネルギーを受け取れる


素晴らしい能力があるから


女性は単調そうな日々の中でも


生き生きと過ごせているのだと思うの


時には会った友人がおしゃれをして


素敵だったりするだけでも


何だか楽しい気持ちになったりするのも


美が持つ力を


受け取っているからだと思うの


そしてその美と真逆のものは


自分からエネルギーを


奪ってゆく感覚を感じるから


避けよう避けようとし


否定したり拒絶と言う形で


近づかないようにするのだけれど


否定や拒絶という


エネルギーを生み出している時点で


自分のエネルギーが


無意識に奪われていると思うの


精神世界の知恵を学び始めた頃


このような感覚がよくあって


できるだけよいものにあまりにも


意識して過ごしてしまうために


その知恵の枠に当てはまらないものに出会うと


拒否や拒絶するという形で


それがそういうものを


遠ざけると思い込んでいたのだけれど


よーく考えて見ると


拒絶や拒否は


怒りや恐れとエネルギー波動が似ているから


形は違っていても


よいエネルギーではなかったと思うの


特にまじめな方は


色々と良い事を学べば学ぶほど


自分も周りも狭く息苦しくしてしまう事が


あるんじゃないかなって


感じているの


こうでなければって思いが


自分の翼を閉ざしてしまうと思うの


時にこだわりは


その人の個性や人生を


整えるものになっているけれど


過剰に働かせてしまうと


自分が歩む道に


わざわざ大きな岩をあちらこちらに


置いて


歩みを困難にしてしまう事も


あると思うの


何事もほどほどが


自分にとっても周りにとっても


心地がよいと思うの


世界中で誰よりも自分に厳しく


あらゆることを押し付けてくるのは


誰でもなく自分自身だと思うの


だから周りの誰かに何かを言われるよりも


自分で自分を責めてしまうのが


何よりも辛く苦しいことだと思うの


だからこそ


少々の事は自分が自分を許してあげる事も


人生の中では


とっても大切だと思うの


たとえばお天気がよくなくって


何もしたくない気持ちだったならば


「今日はおうちの事をしようっと」って


外に出る用事は


次の日にしてもよいのだと思うの


そんな何気ない事にでも


自分が立てた予定をこなせない自分が


許せずに


あれこれと理由を並べたり


時には自分を責める痛みを緩和するために


無意識に周りの誰かに


やつあたりをしてしまったりしないためにも


自分が自分の自由を許すだけで


本当に心が軽くなると思うの






私たちは無意識に


見聞きしたすべての残像を


自分の中に残していて


次の出来事にその残像を


重ねてしまう事があると思うの


たとえは辛い環境の中で過ごしている方を


何気なく見ていたつもりでも


次の行動に無意識に


その残像が影響をしていて


自分がまるでその様な要素がないのに


過剰に不安から


いつもの自分らしくない選択をしていたり・・・


その逆もあって


とても困難だった中から


ありえない幸せを受け取った方を見た時にも


その残像がやはり


次の行動や思考に影響を与えていて


急にわけもなく希望が湧いて


何かを始めたくなったり・・・


私たちはすべての生き物と


繋がるコードを持っていて


その時々見聞きしたものと


無意識に循環が行われて


自分の辞書に書き込まれてゆくんじゃ


ないかなって感じているの


時々らしくない表現をする時って


多くの場合


誰かの残像を「自分」だと思って


表現している事もあると思うの


そして何気ない会話の中で


自分たちと接点のない誰かの話題で


「あれっておかしいよね」など


特に理由もなく


話す事があるけれど


そこで表現した自分の言葉は


もっと未来へ進んだ時


誰でもなく自分自身に向ける言葉になって


自分を裁いてしまうしまう事に


なってしまうと思うの


私たちは全ての出来事の残像を


自分の中に納めていて


誰が見ていなくっても


自分がした行動や表現を


自分の中にある言葉や思いに重ねて


評価してゆくものだから


自分が他者に表現した言葉は


そのまま自分にも重ねるようになると思うの


なので自分の行動や表現を


周りの人がこう思っているんじゃないかなって


不安や疑いなど


生み出したり・・・


私自身


人生で最も波動が高かった時


何一つ悩みも怖れも感じなかったの


それは何も問題がなかったわけではなく


問題がその時々


届けられるものではあるけれど


悩みの多くは人が関わる事が多く


その時悩む時って


相手の気持ちを考えすぎたり


相手の求めるものがわかっていても


自分が望むものと違うから


どちらも傷つかず


笑顔になれる方法を考える時だと思うの


でもその頃は


精神世界によく書かれている知恵を


大切にしていて


「相手が自分だったら」って


いつも考えていたの


その頃の私はどんな状態であっても


よい方向に考え言葉や行動をするのが


自然になっていた事もあって


相手が自分だったら


悪口も言わないし


その事で付き合いをやめることはしないという


判断がすぐにできたので


人間関係で悩む事もなかったの


それはやはり自分が日々


何を思い何を表現してきたかだと


感じたの


もちろん多くの方が


自分と同じ考えや思いではないから


思い通りにならない事で


あれこれと伝えてくる方もいたけれど


もしもそれで縁がなくなっても


逆にその事で


人生に用意されていたトラブルが


自分で考えて行動しなくっても


相手から遠ざかってくれたから


よかったって


思えたの


その頃今以上に多くの方との出会いと


交流があったのだけれど


一緒にストレス発散のために


誰かの話題を話さない私を


あまり楽しくないと感じた方は


必要最低限度の付き合いになっていたけれど


不思議なもので


何か悩みがあったり迷いがある時には


私を選んでくれて


アドバイスを求めてくれたり・・・


その時


空気を読み楽しく共に過ごすだけが


大切な人たちとの縁を深めることではなく


どんな場所にいても


自分にとって正しいと思う真実に従い


過ごす事が


自分が求めるあらゆるものを


自分が選ばなくっても


シャッフルされて届けられるのかなって


感じていたの


今の自分はその真逆で


自信のなさからなのか


その時目の前にいる人に合わせ


ちょっと違うか持って思っても


すべて抑え込み


その場の空気をこわさないことが


何よりも重要にしていて


その事によって


誰かが言いたい愚痴や考えを


表現したり・・・


そしてその時抑えたフラストレーションを


家に帰って取り除きた私は


パートナーに仲がよいはずの知り合いや友人の


心良くない話をしていて


そんな時ふっと


私の母が昔どこから返ってくるたびに


今の私のように会っていた人の


心良くない話をしだして


そのたびに


こんな風にはなりたくないなって


思った頃の自分を思い出していたの


年齢を重ねると


特定の何かと言う事ではないけれど


自信を保つあらゆるものが


少なくなってきて


そんな時自分を主張


できなくなってきたのかなって


思う事もあるの


その自信は根拠なく


若い頃はそれだけで持てたけれど


年齢を重ねると


若い時にはなかった


知識や知性・経験などが


自信の支えになると思うの


そう思うと


若い頃のように漠然と自信が持てるという


流れではない分


自信は自分の内から生み出さなければ


ならないのかなって


感じているの


そう思って見つめて見ると


日々の何気ない表現や行動が


すべて自分に向けたエールとなったり


その逆になったりもすると思うの


とても小さなお話なのだけれど


私は日々足を運んでいる


フィットネスクラブでは朝


私の親世代の方たちが多く


そのような世代の方たちは


とても速くにスタジオに入っていて


始まる何十分も前から


マットを敷かれていて


それを知った私は


その流れに合わせて


早くから頑張って起きて足を運んでいたの


そんな時


ギリギリに来られる方もいて


その方が私の横にマットを敷こうとされ


その事で私が快適ではない場所へ


移動しなければならなくなった事があって


ちょっぴり嫌な気分になったのだけれど


相手の方を思いやり


まるで気にしていないように


振舞っていたの


でもその様な事が数日続き


だんだん私の中で


フラストレーションが溜まってきて


私はここに何しに来ているんだろうって


思ったり


時にはこんなに小さな事にこだわる私って・・・って


自分が好きになれなくなったり・・・


でもよーく考えて見ると


私は相手のためにって思いやっているという


思いが


違っていたんじゃないかなって


感じたの


同じ出来事でも


ストレスを感じない魔法を


自分にかける方法はないかなって


考えてみたの


そうしたら


私の場合は


相手が自分だったらというキーワードが


思いだされて


相手が自分だったら


たとえ怒りを表さずにいても


心でストレスを感じていたら


とても喜べないし


相手が私だったらって


常に思う事で


言葉では上手に表現できないのだけれど


未来の自分へ送る


表現や言葉になるような気がして


そう思うと自然とストレスを感じることなく


本来の自分らしい


表現や言葉になってくるのを


感じているの


人のためとか思うとどうしても


無意識ではあるけれど


自分が思い描く見返り


(感謝・笑顔・行動)を求め


そうならないとストレスを感じ


どんな場所にいても


ストレスを感じやすくなってしまうと思うの


でも全ての出来事には


偶然がないと表現されている事を思うと


全ての出来事は


自分を高め様々なものを乗り越え


次々と待っているステージへと


移行してゆくために


用意された宿題なのだから


多くの方と必ずしも同じ答えではなくても


その方それぞれに


自分を克服し


自分を幸せにしてあげられたなら


その答えは


正解だという事だと思うの


私の場合はそんなに大きな人間ではないので


誰かのためにという考えを持つと


無意識に相手に言葉や行動などを期待し


勝手にストーリーを思い描き


よい行いをしたはずなのに


スッキリした気持になれない事もあるから


自分自身に意識を向けて


自分が感じるものを大切に


歩む方がしっくりしているの