2012年9月





人は日々


何気ない事で


心が揺れるものだけれど


その揺れ動きは


ある意味で自分一人では


感じる事の出来ない


本当の自分に気づく機会になっていたり・・・


この間


何気なく母と話していた時


母が


「なかなか長くお互いに付き合いたいと


思える人とは巡り合えないものなんだよね


特に女の人は


自分よりも上過ぎても下過ぎても


長く付き合えないし・・・


お互いに言葉には出さないけど


相手が自分よりも何か


不足していると


感じるくらいの相手の方が


お互いに心の負担もなく


時には自分の幸せを


確認できていいんだと思うよ」と表現していて


その言葉を自分に重ねて


考えて見たの


言葉にすると何となく


よくない表現のようなのだけれど


そう言われてみると


そういう部分もあるのかなって


感じていたの


たとえば私にはずっと長く繋がりあっている


親友がいるのだけれど


その親友とはあらゆる部分で違っているの


たとえば


私は結婚しているけれど


彼女は独身だったり


私が学歴がないけれど


彼女は高学暦だったり・・・


ただ違う部分も多いのだけれど


人生の中で一番大事に思っている


価値観だけが重なっていて


その軸があるから


話しているとホッとしたり・・・


たぶん母が表現していた事はきっと


女性は特に


人とのつながりを大切に人生を歩んでいる分


何かと相手と自分を無意識に


比較対象としてしまって


相手が自分よりも優れたものが多かったり


恵まれているように映る事が多いと


うらやましい想いよりも


自分が平均以下のような気持ちになって


焦りや落ち込みなど


心が大きく揺れ動く事が多いと


その揺れを納めようと


背伸びをしたり無理が重なって


最終的には距離を置くようになってしまうという事を


表現していたのかなって


思うの


私が今親しくしている方は


私と同じ夫婦二人で過ごしている方はいなく


結婚し子育て中の方だったり


独身で仕事を頑張っている方が多い事を思うと


相手にとっては自分と同じ過ぎない


劣等感を感じずに


付き合える相手に私がなっているのかなって


感じているの


それは決して悪い意味ではなく


無意識に張りあったり


比較したりという場面が少ないのは


やはり心地が良い時間だから・・・


以前


子育て中の親しくしている方に


「私と話しても身になる情報がないんじゃない?」と


会話の中で伝えた事があったのだけれど


その方は


「ママ友とは子供に関する話で繋がっているだけで


仲良くなりすぎると


そういうのはよくないとか


自分の子育て論を押し付けてくる事もあったり


節約のために大型スーパーで量の多いものを買って


みんなで分け合ったりする事があるんだけど


自分はいらないものもあるけど


いらないといえない空気の中


お金を払ったり


長く過ごしているけど


心通い合わないの


こんな事を言うと変だけど


さーちゃんは子育てしているわけではないから


子育て論を押し付けてくるわけでもないし


ある意味興味半分で


聞き流してくれるから


楽なんだよね」って伝えられた事があって


なるほどなって感じていたの


私自身も親友との関係を見つめて見ると


親友は独身で仕事のポジションも


年々上がり


趣味の世界でもはっきりとわかりやすい


順位が表示される大会などで出場し


尊敬しているのだけれど


母が伝えてくれたように


相手が自分よりも上過ぎると


関係が続かないはずなのに


親友との関係が続いているのは


たったひとつ私には


パートナーがいるという事だけなのかなって


感じていたの


その事で優越感を感じるほど


彼女が持っている全てを包むものではないけれど


一定期間の間であっても


心から休息できるのは


パートナーのおかげだから・・・


ただ私の場合は


自分が優越感を感じるくらいの


相手はほとんどいないの


今の時代は高校を卒業しているのは


義務教育のように当たり前になっているのに


私は違うし


多くの人は職歴など


会話の中に仕事のお話があるけれど


私はないし


年齢的にも子供も大きくなっていてもよいはずなのに


母親という役割は


私の人生には与えられなかったし


これといって人よりというのか


人並みのベースが初めからない私にとっては


誰もが私よりも優れていて


尊敬対象になっている事もあって


人と比較して


落ち込みという事はほとんどないの


落ち込めるという事は


ある意味で


もう少し頑張れば手が届く方が感じるものであって


まるでそうではない立ち位置にいると


落ち込む事はないの


ただそんな私でも


ガックンって心が感じる事はあって


それは一つも分野で思うのではなく


自分が何かをした時


何で私はみんなと同じようにできないんだろうって


感じる事がある時なの


反応は早いのだけれど行動がスローなの


なので周りの方が短時間に幾つもの事が出来るのに


私はその半分以下しか


できなかったり・・・


そんな時には自分を好きになれない事はあるのだけれど


ある方に


「何でも丁寧に過ごしているんだと思うよ


それはいい事なんだから


無理に変える必要はないと思うよ」って


言葉を手渡してもらい


少し心が楽になってからは


その事をあまり気にしないように過ごせるようになったの


私はまだ人生の折り返し地点なのだけれど


その間に


女性の人生の節目節目を


周りの方の姿から感じ


そのたびに


あの人は結婚した


その人は母親になった


あの人は家を購入したetc


スタンダードな幸せの形を瞳に映すたびに


その様な流れに自分がいないと


焦りや不安を感じた事もあったけれど


その部分から少し距離を置いて


自分の今の心の状態を見つめて見ると


何もないけれど


幸せを感じている事を感じられたの


人が幸せから遠ざかる瞬間って


意味もなく人と自分を比較している時だと思うの


頭の中では


まるで違う人間だと知っていても


まるで多数決のように


多くの方が選び取っている人生の方が


絶対に幸せになれるような感覚で


その多数決と違うものを選びとったり


そうせざるおえなくなると


何となく漠然と不安になって


現実には今幸せなのに


まだ見えない未来に不安を


重ねてしまうものなんじゃないかなって感じているの


何でもそうだけれど


上には上があって下には下があって


たとえ自分が考える恵まれた方であっても


不足感を感じる場面があったり


劣等感を感じる事はあるもので


人との比較は


エンドレスに


心を不安定にし


今ある幸せをも


見えなくしてしまう事があると思うの


人にはまだ理解できない


与えられた使命にも似た役割や


地球の一員として何かを持って


この時代に生きているように感じているの


言葉では上手に表現できないのだけれど


たとえ何となく瞳に映した方の好ましくない行動も


その姿を見る事で


心に強く何かを感じ刻まれる事があるのならば


何か意味があって


そういう方が存在していたり・・・


批判したくなるような方の存在は


ある意味で


自分との違いを強く感じ


自分の正しさを再確認する機会となっていたり


何がを議論する事で


自分が日々何を大切の思い


どういう存在なのかを


改めて知る機会となったり・・・


そのすべては一人では感じる事が出来ないから


一人ひとりのために


誰かが存在しているんじゃないかなって


感じているの










人の人生というものは面白いもので


自分が望まない形の流れの中でしか


ステップアップできない方もいたり・・・


私たちはだれもが


自分が思い描く


幸せというゆるぎないものを


求め


日々過ごしているけれど


その幸せは長い月日のトータルでしか


心が判断できないものだとは思うのだけれど


私たちは時に結果を焦りすぎて


今の状態だけで


幸不幸を決めつけてしまう事があると思うの


人には種をまく時期


芽吹いたものを大切に


育む時期があって


それも人それぞれに時期が決められているのに


なんとなくそばで開花している方が


瞳に映ると


「なぜ自分だけが・・・」と


まるで自分が人生のあらゆる選択を


間違ってきたかのように


自分を責めたり


時には自分が歩んできた環境が


よくなかったかのような


判断をしてしまう事もあると思うの


でも私が感じているのは


人の人生はある意味平等で


形や大きさ・時期が


違って映るだけで


体験する心の経験は


そう変わらないものだと思うの


人はそれぞれに


自分が望む幸せの方違って


たとえ人から幸せに映るくらい


多くの恵みに包まれている方であっても


その方自身が最も望む


幸せを手にしていなく


幸せを感じていない事もあると思うの


そして私たちは


時に自分が頭で考えて


正しい選択をしたつもりが


自分が思い描く様な結果と


結びつかない事があるけれど


その瞬間


成功ではないと決めつけてしまいがちだけれど


人生は自分の予想をはるかに超えた


出来事で溢れていて


そんな中で


自分が望んでいた以上の


喜びと出会う事もあったり


もしも時間を先送りできたならば


多くの場合未来の自分は


「今思うとあれがきっかけで・・・」と


未来の自分が幸せになれた


ターニングポイントとして


受け止められる事が多いと思うの


それは様々な形で用意されていて


誰かと約束をしていたのに


急にキャンセルになる事で


そこから自分が考えてもいなかった


流れが出来たり


車の渋滞によって


到着時刻がずれた事によって


本来ならば知る事のなかった


情報をラジオやテレビで


見聞きする事によって


忘れたころ


その情報が役立っていったり・・・


私たちが日々何気なく


過ごしている


あらゆる場面で


私たちが最も幸せを感じられる場所が待つ


未来へと


聖なる者たちが軌道修正を


幾つも重ねてくれているんじゃないかなって


感じているの


なので


私たちが瞬間的に


自分が思い描く幸せから


遠ざかる選択をしたとしても


その時々心に描く幸せにつながる


道へと導いてもらっているから


心配はないんじゃないかなって


感じているの


もしも自分が考える幸せを


手にできないと感じる事があったならば


その多くは


自分のイメージと真実の幸せがフィットしていなくって


自分がイメージする幸せを


手にする事がなかったからこそ


今の状態で済んでいる事もたったり・・・


人は受け取る事がなかった人生を


心が曇っている時には


美化しやすく


今の自分が立っている場所が


もっともよくないかのように


映ってしまう事もあると思うの


聖なる言葉の中にも


「過去と未来はいつでもよく見えて


現在が一番つらく映る」という


ニュアンスの言葉があるように


私たち人間に備わっている


最も素晴らしい能力の一つの


忘却力によって


その能力がそうしてくれているのだけれど


もしも忘却能力がなければ


過去は過去で


様々な体験の中


頑張っていた自分をすべて思いだす事ができたならば


多くの場合


過去の方が今よりも大変で


今の方が幸せなはずだと思うの


それもパーツだけで判断するのではなく


全体的に見つめたならば・・・


自分の人生を支えている柱は幾つもあって


その中のたった一つの柱の状態だけでは


人生は判断できないと思うの


人間は自分で意識をしていなくっても


時間の流れと共に


あらゆることに進化をしているものだから


過去よりも必ず


一歩・一歩


自分を幸せにしてあげていると思うの


人によって歩みの歩幅が違うのだから


一人・一人


自分の歩幅を大切に


人生を満たしてゆけたら


いいんじゃないかなって


感じているの









私は昔から


誰かと競い負けても


悔しいと感じた事は一度もなく


よく父親に


「お前は悔しくないのか!


お前は根性がない!」と


伝えられていたのだけれど


そのたびに


本当悔しいってどんな感じなんだろうって


思っていたの


でも最近


様々なスポーツ観戦や


友人や知り合いが思うような


結果にならなかった時


悔しさを表現しているのを


瞳に映した時


ふっとその方たちと私に違いを


感じたの


その方たちは


私とは違い望む結果を手にするために


とても努力を重ねてきていて


その方それぞれに


何かを犠牲にして過ごし


だからこそ


言葉では表現できない気持ちが


溢れてくるのかなって


感じたの


私はどんなことにも


努力を重ねた事がなく


初めから結果を期待できるような


ラインに立っていない事を


私自身がわかっていたから


どんな結果であっても


悔しさという


感情が生まれてこなかったんじゃないのかなって


感じていたの


悩みや迷いが多いのも


必ずしも幸運から


見放されたという事ではなく


見つめる角度を変えて見ると


選べるだけ選択肢が多いという


恵まれた状態だからこそ


味わえる心の体験のように


悔しくて涙が溢れる体験をされている方は


頑張れるだけの精神性と体力など


あらゆる自分に宿る能力を活かし


それだけ頑張ってきたからこそ


感じられる感情なんじゃないかなって


感じていたの


私たちは前向きで明るい感情は


幸せで良いものだと思うのと同時に


その逆の感情は


あまりよくないもののように


受け止めてしまいがちだけれど


どんな感情もきっと


見つめる角度を変えて見ると


ベースに恵まれたものがあるから


感じられる事も多いと思うの


今現在


お仕事で悩みを抱え過ごされている方も


今よりも良い選択があるかもしれないと


思えるからこそ


頭をフル回転させているだけで


本当はそれは悩みというものではなく


自分の可能性を


自分の中で探している状態だと思うの


恋人との関係で悩んでいる方も


多くの場合は


本能・魂が求めるものと


頭の中で考え予測できるものと重ね


その二つがフィットしない部分が


心地がよくなくって


その心地のよくない状態から


早くに解放されたい思いから


結果を焦っているだけで


見つめる角度を変えて


見つめて見ると


どんな選択をしても


新たに開かれた人生を感じられるからこそ


結果を焦り


次に進もうとしている


恵まれた状態の中で過ごしていると


思うの


私自身もそうなのだけれど


病の中で過ごしていた時には


今よりも悩みや不安が


いつもどんなときにも寄り添っていて


まるで自分だけが世界中で


辛く悲しい人生の中で


過ごしているような感覚で


日々迷いの中にいたの


痛みから解放されたい私は


手術を望みながらも


親やパートナーの夢見ている未来が


私の決断で消えてしまう事を


考える思いとの間で


揺れ動いていて


実際に痛みからの解放を


10年の流れの中で


強く思うようになった時には


今度はどこの病院で行えばよいのか


不安と迷いでいっぱいだったの


今思うと30代は


このような思いと痛みが


いつも寄り添っていた私にとっては


ただ何気なく退屈そうに


公園のベンチに座っている方さえ


うらやましく思った事もあったくらいなの


痛みが柔らかい時には


母親になる事を望む思いとの間で


揺れ動いていたり・・・


でもそのすべてを手放した時


ふっと悩みや迷いが持てるという事は


それだけ可能性があるからなんだなって


感じる事が多くなったの


当たり前だけれど


私の身体の中には


子供を宿す場所がなくなった事で


痛みからも悩みからも解放されたけれど


それは大きな選択肢も


消えたからだと思うの


若い頃には多くの方も


振り返ってみると


何であんな事で悩んでいたのだろうっていうほど


色々と悩み迷う事がったと思うの


それは無意識に


自分の中にたくさんの可能性が宿っている事を


感じているからできた


心の体験だったと思うの


本当にどうする事も出来ないと


本能的に感じているならば


人は悩みや迷いは消えてしまうものだと思うの


悩みや迷いは


今自分の考えでは


すぐに見つけられないけれど


ちゃんと自分の中に


フィットした答えがある事を


知っているから感じられる事だと思うの


悩みや不安・迷いは


決して後ろ向きでもなければ


自分が不幸なのでもなく


それだけまだまだ


可能性という選択肢が宿っているから


体験できる


素晴らしい体験なんじゃないかなって


感じているの






幼い頃


両親がよく若さもあって


喧嘩をよくしていたのだけれど


そのたびに


母は「別れたいけど子供がいるし」と


表現していて


自分が何かをしたい事が


できない理由として


それがすべて子供が原因だと


表現していたの


それを日々耳にしていた私は


その言葉を真に受けて


いつも自分の存在がいなければ・・・って


思うようになっていたの


でも私も大人になってゆくうちに


母がしたい事が出来ないのは


子供が原因ではなく


本当は自分がしない理由が


ほしかっただけだったのかなって


感じられるようになったの


私自身もただ静かに過ごしたいだけの時に


そのまま表現したら良いだけなのに


何となく何もしない事への


持つ必要のない罪悪感からなのか


わざわざあれこれと理由を


表現してしまう事があるの


そしてその言い訳が


時に周りにいる誰かのせいにしてしまったり・・・


年を重ねる事で


気づかなかった事に気づく機会が


よく見つけられるようになってから


よい事ばかりではなかった


両親との関係の中で


深い学びを感じる事があって


その中にはよく母が日々のストレスから


父と口論になった時


母が表現する事が


ちょっと違うんじゃないかなって思う事や


時には


あれほど言っていたのに


よくまた普通にしている姿を見つめながら


母って自分がないんじゃないのかなって


母のような女性にはなりたくないと


よく思っていたのに


私も年を重ねてとっても感じるのは


正しいかどうかにこだわり


いつまでもその記憶に


こだわっていたならば


人と共に暮らす事は難しく


日々許しの重なりが


長く寄り添うための相手への愛情なのかなって


感じるようになったの


この間知り合い数人で会った時


近況報告をしあっていた時


とってもまじめでどんな場面でも


正しいかどうかを何よりも


大切にしている知り合いがいて


その方との会話の中で


必ずしも正しいかどうかにこだわる事が


必要ではない事も


あるのかなって感じていたの


そして人の忘れるという機能への思いが


今まではあまりよくないもののように


感じていたけれど


忘却能力(忘れたふり)は


深い愛情表現だったり


人との関係の中で


最も素晴らしい


許しという行為なんじゃないかなって


感じているの


友人関係であってもそうで


自分では意識していなくっても


ついはずみから


相手の心を曇らせる事を表現してしまっていたり


時にはよかれと思い


表現する言葉によって


傷つけあう事もなくもないとは思うのだけれど


そんな時でも


すぐに忘れたふりをして


その時々何もなかったように


一緒にいられるのは


忘れたふりという


互いを思いやる気持ちがあるから


繋がりあう事が出来ているんだろうなって


感じているの


ただその事を友人に伝えると


友人は


「あははは


私って毎日色々あって


憶えてられないんだよね


本当に私は忘れているだけだよ(笑)


さーちゃんは気にしすぎなんだよ


何があってもきっと一生付き合いが


なくなる事はないんだから


気にしなくていいよ


私だって言葉が足りなくって


嫌な思いをさせる事もあるだろうし」って


笑顔で言ってくれたの


今まで自分が気づかなかっただけで


本当は深い愛情や思いやりの


表現の形がある事を


見つけられるようになると


今まで好ましく思えなかった


人の持つクセや能力が


本当はもっとも


人を繋ぐ大切なものになっていて


素敵な能力が


誰もが秘めているのに


気づく事が


できるんじゃないかなって


感じているの







この間久しぶりに


大切な友人と会った時


今まで感じた事のないくらい


実り溢れる会話に溢れていたの


友人はとても賢く


感情に流されることなく


今まで人生を歩んできた人で


自分にはない冷静な部分に


尊敬と共に


何となく深く心重ならない部分を


感じていたの


たとえば恋愛についても


若い頃情熱的な恋愛をした


お話は知ってはいたけれど


その恋も自分の方から遠ざける形で終わっていて


その後も多くの人とは出会っても


何かあるたびに


学暦が・・・とか仕事が・・・両親がいないのは・・・etc


様々な条件の方が先にあって


どの方とも


深まる恋愛には発展せず


そのたびにもしかしたら


男性が好きではないのかなって


思う事さえあったの


それがこの間


職場に彼女がいない時に


人生で一度だけ深く愛した人から


電話があった伝言を聞いて


その日から彼女は


あれこれと考え想像が広がっていたようで


もしかしたら彼が離婚したのかも・・・とか


もしかしたらお金に困っているのかな・・・など


様々に想像が広がる中で


彼女は今まで感じた事のない


心の動きを感じていたそうなの


そんな時彼女が私に


「世の中でよく男にだまされたり


相手にいいようにされる人がいるけど


そのたびに


何で?普通わかるでしょ


バカjじゃないのって思っていたけど


私は今まで


そこまでしたいと思う相手に


巡り合っていなかっただけで


今回もし彼と縁が蘇る事がったら


たとえだまされてもいいかなって・・・


どんなに条件がよくなくっても


一緒にいられたら


幸せかな」って表現していて


その彼女の姿にふtれて


言葉では上手に表現できないのだけれど


私にとって大切な友人が


人間のどうしようもない感情を感じ


見つめるすべての人に対して


慈悲溢れた思いに包まれているのを感じ


何だかとてもうれしかったの


それと同時に


私も長年彼女と付き合っていたのに


知ったようなつもりでいた


自分を反省していたの


恋する人を見つめているだけで


こちらまでワクワクしてしまい


胸が高鳴っていたの


突然恋が蘇るというよりも


きっと彼女の中では


もう会えないかもしれない彼の思い出を抱いて


人生を過ごしてゆこうと思っていて


彼女の中ではこの恋は終わってはいなかったのだと


思うの


彼女は今回


彼との事を思いながら


初めて頭で考える事よりも


心や魂が本能的に求めているものを感じ


それによって今まで体感した事のない


大きな意味での許しと愛の深さが


自分の中にあるのを知ったと思うの


以前


不倫している知り合いがいて


その方との会話の中で


相手のためという思いから


やめる事をすすめ


その理由も当たり前のような


正当な理由を表現していたのだけれど


その方にとっては


周りから伝えられる以上に


そんな事は自分で感じていて


それでもどうする事も出来ないから


苦しいのに


気づかなかった事があったの


そんな時私はパートナーと出会い


恋愛している時ふっと


もしもパートナーが独身ではなかったならば


頭で考えた通り行動できたかなって


考えた事があって


私はたまたま今まで正論通り


歩んでこられたのは


ただ単に自分が傷ついてまでそこまで深く


愛する人との巡り合わせがなかっただけで


相手がパートナーだったならば


きっと私は周りから


どんなに人間的に否定されても


自分の心のままに過ごしていたのかもしれないなって


感じた時


自分と違う選択の中


生きている人も


今の自分が理解できないだけで


同じ状態になっていたならば


わからないかもって感じるようになれたの


今回恋が蘇った友人も


何人も周りから紹介されるたびに


様々な理由と条件を表現しながら


周りからは妥協する事を伝えられていたけれど


きっと自分が大好きな彼以外だったならば


それくらいの無理難題をクリアした相手でなければと


わざと自分の人生に


他の方が入れないように


無意識にしていただけだったのかなって


感じているの


なぜならば


今回恋が蘇った相手は


彼女が日頃


理由や条件に何一つ当てはまらない方だから・・・


今回こんなにも


私が嬉しい理由は


私にもはっきりとはわからないのだけれど


彼女の最も望んでいた事が


叶った事が嬉しかったのか


彼女の人生を寄り添い歩んでくれる人が


できた事に


嬉しいのかはわからないのだけれど


長年つきあいのあった私が


彼女の乙女のような笑顔に


初めて出会って


人が本当に望んでいる事を受け取った時って


こんなにも


周りにも幸せを感じさせてくれるものなのかなと


初めて知ったの