2012年8月





毎年この季節は


北国で暮らす私にとって


冬にはなかなか躊躇してできなかった事をしたり


スポーツ観戦にと


嬉しいぐらいに


ハードスケジュールに過ごしているの


今年はオリンピックも重なり


こんな時には


日頃からあまり眠れない自分にも


肯定的な気持ちになれるの(笑)


スポーツって自分が行うのも


見るのも


頭で考える知識レベルを超えて


本能的な領域にアクセスされて


言葉を超え得るものが


その時々あって


いつも無意識に頭で考えて


過ごしている自分が解き放たれて


言葉では表現できない


心地よさに包まれるの


スポーツに出場されている選手たちは


人間が元々秘めている


能力の頂点を


その時代・その瞬間


私たちに教えてくれていると思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


見ている人の多くは


凄い能力を持つ人々と自分は


違う人間のように頭の中では


考えてはいるけれど


無意識の部分では


自分の中にも秘められている


同じ能力があって


その可能性が共鳴し合い感動という形で


響き渡るんじゃないかなって


感じているの


繋がる感覚を感じているから


見る人がまるで


その場にいるかのような


心の共有ができるんじゃないかなって


感じているの


多くの選手の方たちに共通して感じる事は


私にはない


自分の意志をどんな環境であっても


貫き通す姿勢だと思うの


スポーツに限らないことだとは思うのだけれど


トップレベルの方たちの多くは


周りに流されず


ある意味


周りからどう思われるかなどで


自分の意識決定することなく


自分は何に向かい


どうしたいのかを優先する


強さを持っていると思うの


なので協調性を重んじ過ごす事を


たいお説にしている


多くの方たちとは別の


努力を重ね過ごされているんだろうなって


感じているの


私などは弱い人間だから


こうしたらこう思われてしまう・・・とか


たとえ正当な主張であったとしても


なかなかその思いを上手に


伝えられない事もあって


すぐに自分の思いを抑え込み


自分さえ我慢したら・・・って


その問題が通り過ぎるのを


待ってしまう所があるから


自分の意識を上手に伝え


自分の気持ちのまま


歩める強さがほしいなっていつも


思っているの


ただ自分の思いを伝える事は


時にただのわがままやで


相手に負担を与えてしまう事もあるから


そうならない


良い意味での自己主張が


ゆっくりと叶えられてゆくといいなって


思っているの


最近ちょっぴりがんばって


自分の思いを伝えようと


一日何度かチャレンジしているの


本当に小さな小さな事ではあるのだけれど


日々足を運ぶ


フィットネスクラブのスタジオの中で


それぞれの方がたぶん決めている場所があって


たとえ初めに私が先にいたとしても


後から来た方が


「いつも私ここで運動しているから


申し訳ないけどもう少しずれてもらえる」って


伝えられる事があるのだけれど


そんな時には


私は運動するためにセッティングした


道具を全て運びまた新たな場所に


移動していたのだけれど


そのような流れに


私の中では心地よい納得はしていないけれど


楽しむためにここにいるのに


わざわざもめごとを起こしたくないという思いから


いつも私が人の意見を


受け入れる形にしていたのだけれど


ある時


私と仲が良い友人と共に居る時


運動のためにセッティングした場所に


後から来た方が


自分はいつもここで運動しているから


少しずれてほしいと伝えてきた時


私と仲が良い友人は


「狭くって移動できないですよ


あ!あそこちょうど一人分空いていますよ


あそこはどうですか?」と伝えると


不満そうではあったのだけれど


後から来た方が空いた場所へと歩き出したの


その瞬間


私と仲が良い友人は


とても速いスピードで運動のためのセッティングを


その方のために整えていたの


そうするとその方は


不満そうな表情から嬉しそうな表情に変わり


「わざわざありがとう」と伝えていたの


その流れを見つめながら


学ぶ事がいっぱいあったの


私は自分の思いを伝える事は


摩擦が起こる事という思いがいつも前提に合って


自分の思いを抑え込む方が


全ての回避だと思い込んでいたけれど


友人のように自分の思いを大切にし伝えても


ただ思いを通すだけではなく


自分の思いを叶えるために


相手にできる事も考え


実行できるその姿に


私が理想とする


自己実現を感じていたの


私が今まで知っている自己実現の多くは


自分の思いをただ貫く事だけで


相手への配慮を持たない形のものが多かったから


今回瞳に映した形の自己実現は


思いを通す自分が罪悪感を抱く事もなく


自分の思いを保ち


相手にも良い状態を提供できる形がある形がある事を


学ばせてもらったの


その方はそれ以来


新たな場所が自分の場所になっているようで


時々顔を合わすたびに


私と友人にあいさつをしてくださるの


その友人は自己主張感を感じさせずに


自分が望む流れを作る事が上手で


それは無意識なものなの


その友人と過ごす中で


色々学ぶ事が多く


私の中で人生の課題となっているものが


これからゆっくりとクリアにして


行けたらいいなって思いながら


過ごしているの








私たち一人一人に


人生に届けられる事は


大小や形は違って見えても


そう違いはなく


ただ大きな違いは


届けられた事をどのように受け止め感じるかで


この先に続く


立ち位置が決まり


全ての見え方が違ってくるんじゃないかなって


感じているの


この間私が仲よくしてもらっている方から


自分は使わないのだけれど


もし使ってもらえたらって


心使いから


とても素敵な香りのクリームなどを頂いた時


あたしは純粋に嬉しく


その嬉しさはきっと物質的なものの


嬉しさだけではなく


私との縁を大切に感じてくれているのを


とても感じたからだと思うの


その事をある友人と会った時に話したら


その友人は


「自分が使わないものをあげるって


どうなんだろう


自分がいらないものは人もいらないんじゃない」と


表現した時


そういう考え方があるのを


改めて知ったくらいに


私はただただ喜んでいたので


なるほどなって感じていたの


その時同じ出来事であっても


感じ方・受け止め方も様々だから


その部分が


良いかどうかとは別に


人生の違いをもたらすのかなって


感じていたの


友人はきっと言葉とは別に


私よりも気遣いをされ


人との繋がりを大切に


紡いでいるから


そう感じ受け止めたのだと思うの


私の場合も友人とは違うけれど


ある部分友人と同じく


自分だったらと思い


その出来事を重ねた時


私の場合jは


人にものを手渡す事で


お互いにあれこれと気を使ってしまう部分があるけれど


そう考えた時に


気を使いあう事なく


手渡す自分も相手も笑顔になれそうな相手を


無意識に選んでいる事を思うと


その時


私を思い浮かべてくれたのかなっていう思いがあって


きっと私は嬉しかったように思うの


人は誰でも


無意識に働く自分を軸に


全ての物事を図り


選択するものだと思うから


たとえその思いが相手と違っていても


自分を軸としてしか


自分の周りの世界を見る視野を持っていないから


多くの事は


良い方に受け止める方が


自分も心地が良いし


相手にも感謝や喜びを持つ事もあって


その思いが相手にも伝わるし


良いんじゃないかなって


感じているの


受け止め方は人の数だけあるけれど


できるだけ


良い方向に受け止める方が


幸せが育まれて


本当は良くない出来事であっても


その見え方まで変える力が


無意識に備わって


気がつくと


自分が素晴らしく恵まれた環境・人生に


身を置いているような


大きな幸福感が生まれてくると思うの


無意識に自分の幸せが


周りの左右されていると感じる時の多くは


無意識にな依存意識が働いている時が多いと思うの


癒しの言葉にもあるように


一人で持ち上げる気持ちがなければ


二人でも持ちあげられないとあるように


人が何かをしてくれるもの


人が何とかしてくれるという思いがあるうちは


人に怒りを感じやすく


自分が笑顔いた通りに運んでくれないと


すぐに自分の気持ちや人生が


不安定になってしまうものだと思うの


でも自分でするものだと思い


過剰に人に依存した思いがなければ


手を差し伸べてくれただけで嬉しいし


ありがたい思いしかないと思うの


私自身


パートナーに何でも依存して過ごしている事もあって


とても優しいパートナーに


どんどん期待し描いている


流れが出来ていた事もあって


そうならなければ


すぐに怒りの感情が生まれた事がったの


そんな時


長期出張でパートナーと離れて暮らす月日が長くなり


色々な事を自分で行わなければならなくなったの


初めは多くの方が当たり前にしている


ゴミ捨てやお掃除も


まるで来る日も来る日もやているかのように


追われる感覚があって


元々処理能力のキャパが小さい私にとっては


大変だったのだけれど


月日が流れてゆくうちに


だんだんと慣れた頃


パートナーが休暇で帰ってくると


パートナーは当たり前のように


色々としてくれる時


今までしてもらっていた時には


感じた事のない


ありがたさでいっぱいになったの


その時ふっと


私はこの数カ月で


人に依存していた思いが


色々なものを曇らせていたのかなって


感じたの


もし一人で過ごしていたならば


本来自分一人でしなければならない事は


今よりもたくさんあるのに


いつも手を差し伸べてくれる人たちがいるからこそ


自分の時間を持てたり


生活にハリが生まれたりしている事を感じ


自分の関わる多くの方に


感謝が生まれていたの


時々感じる事なのだけれど


生活のハリって


多くの場合


頭で考えるとそれがなければ・・・っていう事が


多いのだけれど


逆にそれがなくなってしまうと


生きるハリあいがなくなってしまうものだと思うの


たとえば子育て中の方ならば


心の底から思う事はないけれど


時々


独身で一人で自由に過ごしている友人を見つめては


子供さえいなければ


こんなこともできるし・あんなこともしてみたいって


思う事がフッとあるかもしれないけれど


実際にはその事が人生のハリになっていて


なくしたくない大切な人生の宝物のような時間だったり


仕事で忙しい中で過ごしている方にとっては


もっと多く休みがあればって思っても


実際に時間が多く与えられるような事があったならば


今まで考えずに済んでいた事まで


あれこれと考える時間が出来てしまい


自分の人生を必要以上に


不安に感じてしまう事もあるから


忙しいリズムに慣れて過ごせている方の場合は


それが人生のハリに繋がっている事もあると思うの


昔私と仲が良かった友人が言っていた事なのだけれど


何かを頼む時には


時間がたくさんある人よりも


いつも忙しくしている人に頼んだ方が良いそうなの


その理由は


時間がたくさんある人は


いつでもできると思っているから


すぐに行動をしない人が多く


忙しく過ごしている人は


忙しく時間がない中で


無意識に計画を立てて行動しているから


すぐに行動してくれるからなのだそうなの


その事を思うといつでも時間が貴重に感じる


過ごし方の方が


一日を大切に過ごせるんじゃないのかなって


感じているの


人生の大半が幸せに包まれていても


人は見方や考え方で


今ある幸せが見えなくなり


手にできない幸せに意識を注ぎ


わざわざ自分を幸せではない方向に


導いてしまう事もあると思うの


そして無意識に


幸せは外からもたらされると


考え過ごされている方は


つい人との比較や評価に


日々自らを傷つけ


自分の味方になってあげられていない方も


いると思うの


本当は自分の歩みがどんなものであっても


自分を励まし見方になって


あげなければならないのに・・・


自分がどんなにがんばっているのか


自分が人を思いやり


たくさんのものを譲っているのか


それは自分しかわからないのだから・・・


自分の良くない部分を


ピックアップし厳しく批判する事よりも


自分の良い所に誰よりも多くの光を


注いであげる義務に近いものを


私たち一人一人は持っていると思うの


私たちの魂は私たちのものではあるけれど


肉体や感情は


この世に誕生する時に


与えられたレンタルなのだから


自分のものであって自分のものではない


一番近くにあるものを


大切にする事は


甘やかしではないと思うの


自分を大切にする事は


人を大切にする事に繋がり


見えてくる世界の視野を幾つも持つく事が


できるように


整えてくれる大切なことだと思うの









年齢を重ねてゆくたびに


手放さなければならないものも多くあって


そのたびに感じるのは


この世に誕生した時には


その人それぞれに必要な


大きな財産となるものを


すべて揃えてこの世に


送り出されていた事を感じ


感謝と共に


あまりにも感謝が足りずに


大切にしてこなかった事に


反省する事が多いの


たとえば歯医者さんとのご縁を


なかなか卒業できない私は


ダイレクトに価格を知ることが


よくあるのだけれど


保険でできる範囲のダメージだったならば


そんなに感じる事はないけれど


ダメージ段階が進んでくると


選択肢もなくなって


違和感なく今までのような形を維持するには


保険外の治療が必要になり


たとえば


インプラントという治療ならば


1本幅はあるものの30万円くらいはするの


今の状態が維持できなくなった時には


その様な選択肢しかない事を聞くたびに


誰でもお口の中だけでも


とても高価な価値がいっぱいあったり


ある時には登山家で有名な三浦雄一郎さんが


エベレストに登る時に


6万円の酸素ボンベを


持参されるそうなのだけれど


その酸素ボンベも


6時間しか持たないお話を読んで


当たり前に酸素を吸う事が出来る


環境や肺が整っている事を考えると


当たり前に備わっている事には


感謝を忘れてしまう事が多いけれど


価格に換算すると


当たり前に備わっているものに


大きな恵みと感謝を感じているの


これだけ医学が進んでいても


脳を作り出す事が出来ない事を考えると


本当に驚くほど人間には


存在しているだけで


大きな価値を持って生まれてきているのを感じたり・・・


若い頃はよく年を重ねた方に


「若いっていいわね」と伝えられる事が多く


その意味がよくわからず


その当時の自分よりも豊かに過ごしている


その方がうらやましく思う事もあったのだけれど


年を重ねた今


その方が伝えてくれた何気ない言葉に重なる


深い意味がわかるような


気がしているの


よく友人たちと何気ない会話の中で


もしも願いが叶うならば


もう一度10代に戻りたいと


夢のような言葉を表現しあう事があるのだけれど


ただ皆共通しているのは


今まで培ってきたものすべてが


リセットされてしまうのではなく


望んでいるのは肉体的な部分だけなの


そう思って見つめてみると


日頃


不満などを表現している方であっても


人生を考えた時には


今ある人間関係や知識などを


手放してまでやり直したいと思っていないってことを


感じるたびに


無意識に自分の人生を認め


納得して


ここまで来たんだろうなって


感じる事があるの


私の母もよく私と会うたびに


「同じ人生を誰もがやり直しできるなら


今度は絶対にうまくやれる自信はあるけど


でもそうならないから


後悔も多いしね


でもわかりきった人生は


退屈で耐えられないのかもしれなね」と


表現しているの


母は今人生で最も安定した気持で過ごしているせいか


よい意味で後悔が多いの


人は心に余裕が持てない時には


反省や後悔などを感じるような


出来事を見つめられないけれど


反省や後悔を表現できるのは


ある意味で


心にスペースがあるからなんじゃないかなって


感じているの


よく本当につらい時には涙も出なかたり


つらいと表現できないものだから・・・


母は今人生の安定した喜びの中で


やっと過去を振り返り


よい意味で後悔や反省が出来ているのかなって


感じているの


母を見つめながら


年を重ねるのもよいものなのかもしれないなって


感じる事もあるの


肉体的には同じようにはなりたいとは思わないけれど(笑)


気持ちの部分で


私が今まで知らなかった


本当は元々秘めていた


母のよい部分に出会うたびに


若い頃には周りを意識し


虚飾を纏っていた母の姿も消え


周りからどう評価されても


これ以上でもこれ以下でもない自分を受け入れ


その自分に見合った人間関係の中で


幸せを育んでいる母を見つめるたびに


年を重ねると見えてくる


幸せもあるんじゃないかなって


感じる事もあるの








人は


この世に送り出されて数十年の間は


未知なるものが多すぎて


よい意味でもそうではない意味でも


周りを基準に


この地球の習慣やルールを学ぶ中で


知らず知らずのうちに


周りからの評価が良ければ


正しくそうでなければ違うという


判断に慣れ過ぎて


気がつくと


自分が求めている幸せも


周りの誰かが求めているものだったり・・・


とっても恵まれたライフスタイルなはずなのに


心が満たされないと感じる事が多い方は


そういう事から


周りに与えられた価値観が


自分の価値観になっている事もあると思うの


幸せって周りが計るものではなく


本人が感じるものだから


どんなに人にうらやましく思ってもらえるものを


揃えたとしても


優越感を感じるのは瞬間的なもので


一人になってみると


それが本当に自分が望んでいる幸せの形なのかを


知ることとなると思うの


頭の中では


人の数だけ


心満たされる幸せの形がある事を


知ってはいても


つい


自分の願望に近い望む幸せを基準に


人の幸せを重ね


周りは表現するだけで


特に深い意味を持たない事も多いと思うの


それでも人との繋がりを保つために


相手に合わせ過ぎて


自分自身が見えなくなってしまう方も


いると思うの


周り基準で形としてきた幸せは


あくまでもその方が求める幸せの形で


全ての人に当てはまるものとは


限らない事を


表現されている方も


頭ではわかっているとは思うの


ただ人は無意識にコミニケーションを楽しみ


人との縁を繋ぐためにという思いから


会話を繋げる一つとして


一つの話題を広げる時もあると思うの


私は社会経験がほとんどないのだけれど


友人やパートナーから


職場の環境などの話を聞くたびに


誰かの噂話が


コミニケーションとなる事があって


そういう話題が盛り上がる事が多いらしく


そういう話題を好まないパートナーや友人は


周りと距離が出来ているそうなの


でも時間の流れと共に


距離が出来たおかげで


自分の思いも伝えやすくなって


今では自分が望んでいる職場環境になったそうなの


そして不思議なもので


パートナーや友人以外の方たちは


いつも誰かの噂話で


楽しそうに仲良くしていたはずなのに


いつも同じ人の話題では


盛り上がらなくなったのか


今まで仲が良かった人がいない時には


その人のよくない話題で盛り上がるようになって


それを見たパートナーや友人は


結局無理をして合わせていても


人生を楽しんで生きていない人は


悪気はないけれど


皆と笑顔になるために


会話の質ではなく


身近で話題を探し


ついそういう習慣が出来てしまうのかなって


話していたの


その事と同じで


人に意見や考え方を


ちょっぴり押しつけてしまっている方も


深い部分では人と深く繋がりあいたい


思いからなのだけれど


話す話題が見つけられずに


ついその様な話題になってしまっている方もいると思うの


沈黙はよほど心を理解し合い


深く信頼し合っている方たちの間でしか


なかなか表現できないことだと思うから・・・


私自身も自分では気づきにくいけれど


とっても正しい判断のようにして


否定的な見方をしている時


言葉では上手に表現できないのだけれど


多くの場合


その事の前に自分では忘れているように思っている


何かこだわりがあって


その部分が消化されていない事が


あると思っているの


それを解放し消化する機会を


無意識に求めていて


正当な理由の元で


自分一人では消化できなかった思いを


周りの何かに重ねて


解放していると感じる事があるの


そんな風に人は誰でも


その時々の心のお天気によって


感じ方も変わってくる事もあるのだから


ある意味で人との調和にのために


過剰に人と心重ねすぎてしまうのは


心が安定せず


自分が何を求め


何を幸せに感じるのかさえ


わからなくなってしまう事もあると思うの


どんな場面でもどんな選択をしてしまっても


自分を責めるのではなく


その複雑なトリックに気づいた自分を


褒めてあげながら


本来の自分に戻れるように


ちょっぴり意識してあげるだけで


自分が望まない姿で


何かをターゲットに


わだかまりや思い煩う気持ちを


消化する流れを


断ち切ることができるんじゃないかなって


思っているの


全てにおいて一番大切なのは


自分が思ったようにできなかった時


反省しても自分を責めるような


流れを持たない事だと思うの


よいものはよい心の状態でしか


生まれないのだから・・・


私たちはあらゆることに向き合う時


あまりにもまじめな姿勢を気にしすぎて


本来求めている流れを


後回しにしてしまう事もあると思うの


よく精神世界の中で語られていり知恵の中で


類友の法則や引き寄せの法則で


語られているように


その時の心と同じ波動を持つものと人生では出会うと


語られている事を思うと


自分を責めてしまう事は


何よりも辛く


自分のすべてを否定してしまう事になって


そこから生まれるものは


きっとあまりよくないエネルギーだと思うの


そうなってしまうと


自分が望まないものを


招いてしまいやすくなってしまうから・・・


どんな心の動きの中でも


否定しない何か別の言葉を用意したり


すぐに見つけられない時には


「今は休憩」って自分に伝え


できるだけその事を考えない時間を


がんばって作ってみたり・・・


私たちの多くは自分とあまりにも一体感があるために


自分を強く罰する事には慣れているけれど


褒めてあげる事・優しくしてあげる事には


慣れていない事もあって


ちょっぴりそうすることには努力が


必要だと思うの


もちろんそれは周りに表現することではなく


自分の心の中だけなのだから・・・


自分で自分を


満たしてあげる習慣を持つ事は


よい意味で自分の人生に責任を持ち


自分の思いが人生を創造してゆける奇跡を


感じ歩んで行けるという事だと思うの


よく私たちは他者から手渡された言葉によって


心が痛くなる事があるけれど


本当にその方が手渡したい言葉だったわけではなく


その方自身の心のお天気のまま


心を解放する機会を求めて表現されていたり


時には深く繋がりあいたい思いから


表現しているだけだったり・・・


私たちが心が痛いと感じる時って


深い部分で見つめてみると


表現された言葉だけではなく


共感という心重る事がなかった


出会いに対して


そう感じる事が多いんじゃないかなって


感じているの


人それぞれだと頭ではわかっていても


私たちは無意識に


前世から持ち越した


消化しなければならないご縁や出来事を


求めていて


そこで手渡される次に進むカギを求めているのに


スムーズにそのような形にはならず


そんな時私たちが持っている心の辞書では


傷ついたという表現を


用いているだけなんじゃないかなって


感じているの










人間には

幾つものステージが用意されていて


そのステージは年齢を重ねる事で


次のステージへを迎えたり


年齢とは別に


その方の精神性のレベルによって


次のステージへと移行していったり・・・


それは望んでいるかどうかではなく


自然に移行してゆくもので


今までの経験をテストされるような時期となっていたり


人によっては今まで体験していなかった


出来事がいくつも運ばれ


集中的に経験値を高め


この世に誕生する時に持ち込んでいる


使命や意味に気づく時期だったり・・・


年齢的に次のステージを迎えた方の場合は


人生を大きなパーツに分けられた部分に


自分が入ってゆく事もあって


多くの方が体験する共感も多く


人との繋がりをとても感じる


時期だったりもすると思うの


たとえば多くの女性は


少女のような美しく楽しげに


目の前の環境の中で


社会やスペースのルールなどを学び


次には友人関係などでは感じる事の出来ない


恋する思いの中で


新たな未来を共に望む幸せの中


新たな大きなステージへと進み


今まで過ごしていた家族とは別に


新たな家族に囲まれ


その中で今まで自分が周りから受け取ってきた


あらゆるものの見方が変わってきたり


感謝を感じながら


ある意味で精神性の高まりから


恩返しの時期が


人生に寄り添うようになってきていて


若い時には何かをしてもらっても


ラッキー!ってただ喜んでいた時とは違い


受け取った出来事に


感謝を重ね何しかしてあげたいという


思いが生まれる


深い部分の回路が開かれてゆくと思うの


そして


新たに与えられた家族との関係にも


変化が表れてゆき


またそこで新たなステージが開かれていて・・・というように


人生の大きな流れの中で


精神世界に特に関わり


心惹かれていない方であっても


人生の尊さや大切なものを


受け取ってゆくんじゃないかなって


感じているの


私の父は最近やっとお仕事から引退し


父自身は毎日自由な事が


嬉しいようなのだけれど


その父に寄り添い過ごす母にとっては


自分に戻れる時間が


今まで以上に少なくなっている事もあって


久しぶりに会うと


心がいっぱいいっぱいなのを


感じる事があるの


その時母も父も


時には一人になりたいと思いながらも


若い頃から特に趣味があるわけでもなく


ただただ家族を守り過ごす事だけで


長い間過ごしてゆくうちに


特にしたい事もなくなり


日々時間が長く


その長い時間の中で


お互いの共通の話題はやっぱり


子供や孫のお話で


その中でもお互いがリアルに心が動く会話は


子育てをしていた時期で


自分たちも若く人生の糧となる事が


多くあった時期のお話のようなの


その会話をしているだけで


その当時の自分たちに気持ちが戻り


振り返る事で


これまでの人生を輝かし


逆に今自分が過ごしている場所が


過去から繋がる幸せの途中のように


感じているように映ったの


人にはそれぞれずっと大切にしている記憶があって


その記憶を思い出すだけで


心があたたかくなったり


あらゆる不安が溶かされてゆくくらいの


大きな力を持っていると思うの


私は子育て経験はないのだけれど


弟の元に授かった天使たちを見ていると


瞳に映す事が出来る


未来があるって


見ている周りも大きなパワーをもらい


子供の姿から学ぶ事も多いの


私のようにまたにしか会わない人とは違い


24時間子供たちに寄り添い過ごしている方は


もちろんいつも愛でる思いだけでは


いられない事も多いとは思うのだけれど


もう少し人生が未来へと進んでゆくと


きっと人生の大きな光の柱となってゆく時期が


用意されていると思うの


なんだかうらやましいな


ただスタンダードな歩みが用意されていない


人生を歩んでいる方も


きっと何か別な方向からの学びや


人生の光の柱となるものを


受け取れるとは思うの


この間母に伝えられたのだけれど


「子供の苦労や楽しみがなくっても


別な事で苦労も楽しみも


与えられると思うよ


人生ってうまくできていて


ずっと苦労ばかりの人もいないし


ずっと楽が出来る人もいないから・・・


だから別の事で学んでいるんだから


皆と同じ経験をしていないからって


別に人よりも劣っているわけでもないんだから


あんたはあんたで


いればいんだよ」と伝えられ


ちょっぴり心が和んでいたの









今北海道は大地からの恵みに溢れている時期で


それぞれの方のお庭で


収穫できたものを頂く機会があって


家庭菜園をしていない私は


そのお返しが何かしたいなって思った時


ふっと何を手渡したらよいかなって


考える事があるのだけれど


毎回毎回お返しをするのは


逆に相手の方もただ喜んでもらえたらって思いから


私に下さっていたのに


気を使わせているかもって


思いに包まれしまい


気軽に手渡しずらくなったり・・・


人へのお返しは


とっても親しい相手でない場合には


とっても難しくって


あまりにもきっちりしすぎているのも


よそよそしい感じだったり・・・


その方にとって高価だと感じるものも


ちょっぴり負担になってしまったり・・・


それで考えたのは


その方の好きな事を知っていたので


割り引き券や招待券などを


偶然に見つけたように装ったり


人から頂いたのだけれど


ていかないのでって


購入して手渡したり・・・


私自身もそうなのだけれど


見返りを期待した贈り物を贈らない人にとっては


お返しを受け取る時


相手に気を使わせちゃったかなって


考えてしまうので


今回はそうさせてもらったの


たくさんの実りを与えてくださった方の多くは


「採れすぎちゃって捨てるのも


もったいないからもらってくれると


ありがたいの」って


言葉を添えてくださる方は


相手に気遣いをさせないよう


そういう言葉を添えてくれている事が多いので


お返しもその方に負担にならないものを


選ぶようにしているの


いつもこの時期


多くの方の家庭菜園では


お野菜がたくさん実っていて


それだけで豊かな気持ちになるのは


人間に秘めた本能を


満たしてくれているからなのかなって


感じる事もあるの


どんなに人間は様々なものに満たされていても


生命を維持するために


本能の深い部分に宿っているものが


溢れるほど用意されていると


それだけで無意識な不安や不足感が消えて


ゆくのかなって


感じていたの


北海道には今の季節


農家さんが直接販売している所も多く


お店によっては何十円単位で


お野菜を購入できて


まるで駄菓子屋さんのような


感覚なの


今の時代はお野菜も品種改良されて


始めてみるネーミングのお野菜も多く


お野菜好きの私には


この季節は


嬉しい季節なの













暑い日が続いているけれど


暑さに慣れ過ごされている方にとっては


対処法があるからなのか


ニュースになるような事は


少ないようなのだけれど


北海道に暮らす多くの方は


暑さに慣れていない事もあって


暑い日が続いてしまうと


命にかかわる事も多いの


慣れや習慣って


日頃は感じる事がないけれど


変化があった時に


慣れや習慣が


自分を助けてくれている事を


感じると思うの


少しお話は違うのだけれど


私はよく幼い頃


マナー的な事で両親に注意される事が


よくあったのだけれど


そのたびに幼い私は


「人の前ではちゃんとするから大丈夫」って答えていたの


でもマナーってふっとした時に


出てしまっていて


意識してしている時には大丈夫でも


意識から離れた時には


やっぱり日頃の習慣や慣れがでていて


両親に注意されていた事が


ちゃんとできていない事が多かったの


大人になってからも


何気ないふっとした時


日常か見えてしまうような振舞いを


してしまっていた自分に気づくたびに


やっぱり日々気をつけていなければ


なかなか身につかないものも


あるのかもしれないなって


感じているの


よく習慣は変えられないという表現があるけれど


よーく考えてみると


今ある習慣も初めは習慣ではなかったはずだと思うの


でもそれを自分で習慣として


ライフスタイルの中に加えていった事を


考えると


習慣は自らが作ってゆくものだから


どんな事も習慣として行けるのかも


しれないなって感じているの


私は日々フィットネスクラブに通っているのだけれど


初めはその様な習慣を持っていなかった私は


疲労もあったりする中


天気が良くないから今日は休もう


何となく足が心配だから休もうって


あらゆる理由をつけては


休む日が多くなった事がったの


今思うとたぶん


ィアッまでの習慣と重ならない新たな習慣を


人生の中に加えるとなると


今までの古い習慣と入れ替えなければならなくなるから


今までの古い習慣が抵抗していたのかなって


感じているの


そんな時親しくなった方が出来て


「明日○○ってプログラムがあるから


一緒に出ようね


明日会えるのを楽しみにしているね」と


その方からいつもメールがくるたびに


よい意味でもそうではない意味でも


きちんと自分を持っていない私は


じゃー行こうかなって軽い思いから


気がつくと少しずつ足を運ぶ回数が増えて


気づくといかない日が続くと


体調の変化を感じ


その親しい方がいない日にも


足を運ぶようになっていったの


きっと習慣って


回数を重ねる事で


人生の中に刻まれてゆくから


初めはあまり気が進まないなって思っていても


回数を重ねてゆくうちに


全ては習慣となってゆく事を思うと


今の自分ではとても無理って思っていても


こんな自分になれたらいいなって思う


自分を思い描き


それに必要な事を書き出してゆき


全てをいっぺんに行うのは大変だから


まずは一つ


続けて見るといいんじゃないかなって


思うの


月日と共に一つの事が意識しなくっても


習慣となっていたならば


それをしなければ


落ち着かない自分に気づいたり・・・


そうなっていたならば


次へとまた習慣を作ってゆけばいんじゃないかなって


感じているの


そうしてゆくうちに


努力を重ねる時期を過ぎた後は


意識しなくっても


自分がプロデュ―スした自分が


本当の自分になっていると思うの