2012年7月





私はよく精神世界系の本を


好んで読むのだけれど


その中に必ず出会う


幸せになる魔法の言葉として


「前向きな表現」「意識を変える」という表現を


良く見るのだけれど


そのたびに


少し立ち止まってしまう事があるの


その言葉はもっともで


正しい知恵なのだけれど


たとえ正しい知恵であっても


人によっては


その知恵を自分の内に頑張って受け入れる事で


その事が心の負荷となって


逆に


元々の自分の本質が


強く表に現れてくる方もいるんじゃないのかなって


感じていたの


たとえばその知恵を意識的に頑張って


表現するたびに


自分の深い部分ではフィットしていなく


納得していなければ


心のどこかで嘘をついているような


感覚にとらわれて


せっかく意識的に知恵を使い過ごしているのに


その知恵から思うように


幸せを育んでいるのを


感じられなければ


「やっぱり・・・」って


益々心の負担となってしまうんじゃ


ないかなって思うの


この正しい知恵は


誰にでもわかりやすいように


私たちに簡単に伝えてくれているのだとは


思うのだけれど


どんな事でもそうなのだけれど


脳が錯覚するくらいに


その知恵を信頼し納得していなければ


形だけを頑張って整えても


その真逆の出来事が届けられた瞬間に


いつもの本質的な自分が現れて


しまうものだと思うの


そして人はとってもデリケートで繊細だから


頭では理解していても


今現在


思い煩う事を抱えていたり


心揺れている時ならば


そうできない時もあると思うの


でもまじめな方であればあるほど


自分が描く理想的な自分から


遠ざかると


周りのだれからも何も言われていなくっても


24時間共に自分を見つめている自分が


誰よりも厳しく


自分を否定的な評価してしまうと思うの


私がいつも感じているのは


どんな事もそうなのだけれど


形が大切なのではなく


今の自分のコンディションが何よりも大切で


もしも自分の心のコンディションが整っていたならば


きっと様々な知恵を知らなかったとしても


気づいた時には


良い流れへと向かうような


行動や表現を


自然にできているものだと思うの


だから知っている知恵を


生かせていないと気づいた時には


自分を責めてしまうのではなく


まずは気づいた自分を褒めてあげる事が


大切だと思うの


そしてその褒めるという波動によって


負を引き寄せようとした波動をシャットアウトでき


その時少しでも


心に余裕があった時には


自分が今までしてきた


過去の失敗や後悔


時には報われなかった出来事を


一つ一つゆっくりと思いだしながら


その中に必ずある褒めてあげたい


自分の姿勢や行動を見つけては


また褒めてあげると


どんどん記憶は書き換えられてゆくと思うの


この方法は一見


今だけのおまじないのようにさえ


感じてしまうかもしれないけれど


今後私たちが何気なく


自分というものを見つめるたびに


引き出される


素晴らしい光となると思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


私たちは根拠もなく


時にはたった一度の体験で


誰よりも厳しく


自分というものを判断し


否定的な感情を刻んでは


まったく違う体験が訪れた時でも


過去のデーターから


自分を否定する材料があると


それにあてはめてしまう事があると思うの


私自身


人と親しくなるたびに


複数になればなるほど


勝手に疎外感を感じてしまう所があって


初めは


私って独占欲が強いのかな?って思ってみたり・・・


でも時々深く瞑想し


自分が疑問に感じている感情が


どこから生まれているのかを探してみると


もう何十年も前の幼かった頃に辿りつき


その頃


友達ができても


自分が言葉を表現するたびに


なぜだか不快にさせてしまったり


ストレス発散のターゲットとなっていたのか


よく人格否定をされる事が多く


人との繋がりは


表面的なものが必要だと感じたのだけれど


なかなか上手にそうできなかった私は


人が多ければ多いほど


その事が苦痛になって


人と距離を持つようになり


それでも人とは仲良くしたい思いの間で


揺れていて


その時寂しいのは避けたかった私は


自分の意見を抑え込み


人に合わせる形で


益々心の孤独感が強まっていったの


こんなに大人になった今でも


その頃の記憶から


今の自分を否定的な評価をしてしまうの


「私って何で人に愛されないんだろう」とか・・・


誰も今私の事をそんな風に表現していないのに・・・


そんな時感じたのは


過去の出来事を無理に封印して忘れたふりをして


その上に様々なものを重ねるよりも


自分の過去に今の自分が


優しく納得できる言葉を手渡し


消化する事が大事なんじゃないかなって


感じたの


そうしたら私の場合は


即効性があったようで


心に無意識にかけていた負荷が軽くなって


シンプルに答えを導き出せるようになったの


私の場合は無意識に感じてしまう


疎外感や自己否定だったのだけれど


その部分にある


過去から続いている望まない暗示に


一つ一つ


新たな言葉を手渡していったの


誰もいない一人の時に


声に出して


「私の事を○○と表現した人がいたけれど


その人は私の事をちゃんと


見て知っていていったのではなく


自分の心で消化できないものを


私に手渡しただけなんだよ


だから許してあげなくっちゃね


本当の私はそんな事はないんだから」という風に


自分の心が軽くなるまで


自分の心から溢れる思いを言葉にして


耳を伝い脳に届けるの


そうする事で記憶にとどまって


過去の事実は変わらないはずなのに


過去から繋がる自分の意識が変わって


これからまだまだ続く未来に


とっても良い影響をもたらしてくれるように


感じているの


その時に気をつけなければならないのは


自分を否定した方などを否定するような表現は


もちいらないようにしながら


行う事が大切だと思うの


そうでなければ


言葉を変えただけで否定的な感情のまま


その記憶は残ってしまうから・・・


このアファメーションは


何にでも簡単に応用が出来て


自分が思っている以上に


効果があると思うの


精神世界を学びながらも


正しく良い知恵がいつも


心の負荷になっている事を感じられる方には


簡単に自分の内から


変える事を助けてくれると思うの








最近よく


自分を見つめる機会を多く


そんな時


親しくしている知人と会って話す事があって


その時に彼女が


話しの合間合間に


友達が多い事


その事によって予定がいっぱいで・・・という話を


いつものようにしていて


そのたびに私は


無意識に自分はだめなんじゃないかって


いつも感じていた事に


気がついたの


それは深い部分にいつの頃からか


刻まれた


社会的な思い込みの一つなんじゃないのかなって


感じていたの


友達が多いというアピールは


多くの人に支持されていて


評価されている証のような思い込みがあったり・・・


自己誇示のひとつなだけなのに・・・


でもその事を感じる事が出来なかった私は


ずっと長い間


この知人のように多くの方に愛され


支持されない存在なのかなって思って


何となく落ち込んだりもしたのだけれど


たまたま小さな出会いによって


カウンセラーをされている方と話す機会があった時


何気なく自分は心から繋がりあう友達が少なく


多くの人から好感を持ってもらえない話をすると


その方が患者さんによく尋ねる質問を


幾つか教えてくれる中で


その中に


あなたは何人友達がいますか?


あいさつを交わすくらいの知り合いは何人いますか?など


書かれていて


その先に


今あなたが来てほしいと伝えて


すぐに来てくれる人は何人いますか?とあって


その言葉を見た時に


多くの方は本当に友達と呼べる人は


そう変わりがない話をしてくれて


たとえ友達が多いとアピールされる方であっても


今すぐに自分のために


飛んできてくれる人を見つめてみると


そう変わりはないそうなの


そのお話を聞いて


何だかほっとしたの


確かに相手だけではなく


自分自身もすべての付き合いのある方に


同じような付き合いができないのと同じように


その人によって


違うものなのなのだから・・・


私が良く感じているのは


出会う人すべては


その時々


自分の内に宿ったものに気づくきっかけを与えてくれたり


自分一人では受け取る事がないものを


様々なスペースで活動されている方から


与えていただける機会だったり


それ以上でも以下でもないように感じているの


それは出会うすべての方に言える事で


それ以上を求めたりしてしまう事で


学びの妨げとなる


様々な感情が溢れてきてしまうんじゃないかなって


感じているの


親しくなればなるほど


甘えからなのか


良い意味での気遣いが少なくなって


自分が思い描く流れとフィットしないと


怒りを表現したり


時には被害者意識が生まれたり・・・


でも人間関係って


あくまでも一人ひとりが


自分の人生のドラマを生きる上での


大切なキャストであって


自分の人生の責任を背負ってくれる相手でもなければ


喜びを運んでくれる


義務があるわけではないのだから・・・


よく人生の節目節目に


自分が望んでいないのだけれど


自分の生活を円滑にするためには


必要だと感じ出会う


会社の人間関係


子供から繋がるママ友


趣味で繋がる知り合いetc


そのすべてを冷静に見つめ


ただの利害関係と


受け止めてしまう方もいるかもしれないのだけれど


その時には自分に必要な


何かを持っているから繋がりあっていると思うの


その事で心の同じ共感から


孤独感を感じずに済んだり


自分一人では得られなかった


ちょっとした情報を知る事が出来たり・・・


少しお話は変わるのだけれど


私たちは自分の事を知っているようで知らない部分も


まだまだ多くあって


私自身もそうで


時々友人や知人のように


友達がいっぱいほしいなって


意識では思っているのだけれど


冷静に見つめてみると


すべてにおいてスローな私は


何をするにも人の倍の時間が必要で


今自分が大切にしている時間を考えると


そんなに友達がいても


現実的に無理で


私が気付いていない部分では


私は今の現状に十分満足していて


その深い部分が望んだ通りに


毎日を過ごしているんじゃないかなって


ふっと感じていたの


言葉では上手に表現できないのだけれど


よく様々な出来事に


自分が望んでいるのに


そうならないと表現される方もいるけれど


静寂の中で


自分を見つめる事が出来たならば


多くの事は


自分が意識できない部分では


望み通りのものを


受け取っている事も


あるんじゃないかなって


感じているの


その逆に人間関係の煩わしさから


人との付き合いを好まないと


本人は思い込み表現されているのに


いつも自分が望まない


人間関係が多く運ばれてくる方も


意識では自分はそう思っているけれど


深い部分では


一人になる事を怖れていて


その思いが現実として現れていたり・・・


若い頃は友達が多いイコール


多くの方から受け入れられて


その人が社会的な評価が高い一つの目安のように


思っていた事もあったけれど


必ずしもそうではなく


大人になって出会った方の多くは


とっても素敵な人たちなのに


友達がいないと表現される方もいて


その出会いによって


私の中でも少しずつ価値観が変化していったの


何でもそうだけれど


量を求める方と質を求める方がいて


「心通わない人との繋がりは


人生の限られた時間が無駄になるから・・・」と


社交辞令的なつきあいをされてこなかったりと


様々な思いから


友人がいなかったようなの


もちろん社会生活の上で


必要なつきあいはあるものの


必要以上に心通わせていないという目安から


友人とは呼んでいないだけで


人から愛される資質に溢れた方ばかりなの


大人になると


若い頃とは違い


自分個人で出会い繋がる


友人ってなかなか難しい部分もあるとは思うの


若い頃は


何となくみんな同じ話題や興味


そして生活水準など


多くの事が同じ部分が多く


何を話してもセロトニンも豊富なせいなのか


何でも前向きにとらえ


楽しく感じ笑いあえたりして


物事を深刻に受け止めずにいられるからなのか


すぐに仲良くなれたりするけれど


大人になるとたとえ年齢が同じ世代という


共通点があっても


抱えているもの・歩んできた道


ライフスタイルなども様々で


自分にとって笑える事が


相手にとっては傷つく事だったり


自分にとっては普通の事が


相手にとっては自慢に聞こえて不快に感じたりと


あまりにも様々にありすぎる事もあって


心触れ合える出会いを望みながらも


相手を思いやり話そうとすると


つい無難な当たり障りのない会話になってしまい


なかなか縁が深まらない事もあると思うの


でも友達って


がんばって作るものではなく


恋愛などと同じように


自然に互いに惹かれあって


深まるものだと思うの


そして友達が多いから


大多数の人から評価された人物というわけでもないし


少ないからといって


誰からも愛されない人という事でもないと思うの


その時々出会う人との縁の深さに関係なく


自分の人生に登場してくれる人たちは


形はどうあれ


自分に何かを気づかせてくれたり


思いださせてくれたり


情報を手渡してくれたりと


すべての人がキーマンなんじゃないのかなって


感じているの







最近私の周りでは


地球の無言の変化を


受け取る機会が多いの


この間久しぶりに実家へ足を運ぶと


両親が最近あった近況を


伝えてくれたのだけれど


その中には


通常では考えられない種類の鳥が


実家の庭に何度も訪れた話や


家の近くの川に


カモメが多く飛来している事を


教えてくれたの


その話を聞きながら


漠然とではあるのだけれど


地球の無言の変化が


ゆっくりと私たちの日常にまで


わかる形で広がっているのかなって


感じていたの


北海道では野生動物も多く暮らしているのだけれど


いつも過ごしている場所が


様々な変化からなのか


移動していて


昔から野生動物の姿を見る事がなかった場所でも


見る機会が多くなっていたり・・・


何となく実家で


今までにはなかった変化を聞いてから


気になっていたのだけれど


いつも自分にとって大好きな温泉に


足を運んだ時には


湯船につかりながら


隣で話されている方の話が聞こえたのだけれど


内容が


私が実家で聞いたようなお話だったの


やはり地球への優しい思いからなのか


地球の変化に心配する言葉が


溢れていたの


ここ数年地球上では


どんな生きものよりも絶大な力を持ち


時に感謝を忘れていた


私たちに


当たり前に自分たちのベースとなって


支えてくれている


あらゆるものに


気づかされ


感謝をする事が多くなった方も


多いんじゃないかなって


感じているの


2000年を迎えたころから


様々な分野で変化の中で


多くの方が


大切なものを忘れ


現世利益を求めるあまり


今目の前にある出来事を


損得だけで計り


時には


自分でも正しいと思えない選択をし


人の心も自分の心も


大切に思わない生き方を


社会の流れから選び取り


過ごされる方も


何十年も前よりは多くなってはいたけれど


ここ数年の地球の動きによって


私たち一人一人が


元々秘めている


神々と通じるような慈愛や感謝などが


ゆっくりと目覚めてきていて


また新たに迎える地球と共に


進化してゆく人々が


準備を整え始めているのを


感じているの


なのでここ1~2年は


多くの方の人生に


変化をもたらす


出来事によって


自分でも気づかないうちに


飛躍されている方も増えると思うの


飛躍と言っても


多くの方から称賛される目に見えた形ではなくy


一番大事で嬉しい


自分が自分に対して


感じられる変化だと思うの


今年選択した事・計画した事・行動した事が


今後5年くらいの未来を


形作ってゆくように感じているので


今年は自分の心が導くままに


小さな冒険をされるのも


いいんじゃないかなって


感じているの










この間


何気なく見た本に「ジャネ―の法則」について


書かれていて


それがとても興味深かったの


19世紀フランスの心理学者で


ポール・ジャネ―が表現していた法則で


そこには


生涯のある時期における


時間の心理的長さは


年齢の逆算に比例すると書かれていて


たとえば50歳の人にとって


1年の長さは


人生の50分の1ほどだけれど


5歳の子供はにとっては


5分の1に相当するそうなの


そう思って見つめてみると


50歳の人にとっての10年は


5歳の子供子供にとっての1年になって


1歳の子供と比べると


1日は50歳の人の50日になるそうなの


時間に対する考え方はほかにもあって


オランダの心理学史の


ダウエ・ドラーイスマ教授は


「なぜ年をとると時間が経つのが速くなるのか


記憶と時間の心理学」の中で


心理実験をもとに三つの理由を表現しているの


ひとつめは


望遠鏡効果で


はっきり覚えているものは


近くの出来事のように感じ


二つ目は


レミニセンス効果で


時間標識が多いほど


ゆっくり時間が過ぎるように感じ


三つ目は


体内時計のリズムで


体内のメトロノームが


加齢に伴い減速してゆくからだそうなの


そう思って自分の事を重ねてみると


若い頃は毎日が


新たな体験と経験に溢れていて


その事で時間を意識してたくさんの経験体験を


詰め込んでいて


その事で今思えば


今よりも時間を意識していたからなのか


長く感じていたように思うの


それが年を重ねてくる事で


予測のつく


ありがたいくらい穏やかな時間の中にいると


時間が驚くほどのスピードで


過ぎて行くのを感じているの


今回時間の心理的なものが書かれた本を読みながら


感じたのは


現実には誰もが平等に24時間という時間を


与えられてはいるけれど


時間の感じ方によっては


数時間の感覚の方もいれば


もっと長く感じられる方もいるんじゃないかなって


感じていたの


そしてこの法則が当てはまるとしたらまらば


一年・一年


時間の速度が速く過ぎて行き


何もしない間に


あっという間に


年だけを重ねてしまう事もあるかもって思い


一日一日を


もっと大切に過ごさなくっちゃって


感じていたの


私自身


人が10できる事を


倍の時間かかって半分しかできないくらい


処理能力のキャパが小さい方は


無理はされないで


自分のペースの中で


時間を感じる事が大切だと思うの


ずっと人よりも何をしてもスローで


何で私っていつもこうなんだろうって


人といるといつも感じていて


食事一つ見つめても


みんながデザートを食べ始めているのに


私はまだメインディシュまで辿りついていなかったりして


そのたびに


ユーモアをこめて相手が


「私はよく食事が遅いって怒られていたけど


私よりも遅い人に初めて出会ったよ(笑)」と


伝えられたり・・・


ただありがたいのは


時間に余裕を持ってあっている方ばかりなので


みんな優しさから


「気にしないでゆっくり食べていいからね


私ももっとさーちゃんのように


ゆっくりたべるようにしないとね


健康のために」と


私が焦らずに済むように


配慮してくれるのだけれど


それでもいつも


なんで私ってこうなんだろう・・・って


自分が好きになれなくなる事がったの


そんな時


何気なく足を運んだ本屋さんで


パラパラって開いたページに


人にはそれぞれのペースが備わっていて


社会的には処理能力のキャパが大きく早い人が


優秀だと評価されるけれど


その分見落としているものも多く


必ずしも処理能力のキャパが大きく早い人が


優れているわけではなく


処理能力のキャパが小さい方は


味わうように時間を過ごしているから


人が気づかない


感動や喜びを見つける事が出来るって


書かれていて


悩む必要も自分を責めつ事もなく


自分は処理能力のキャパが小さいだけで


人よりも劣るわけではないとあって


本屋さんなのに


ちょっぴりウルウルしてしまったの


その中には


キャパが小さいから


抱えられる問題の数が


初めから自分が少ない事を知る事で


人に合わせて


がんばりすぎてしまう事から


解放される事が書かれていたの


それを見て以来


今まで自分が自分を責めいていた思いが和らぎ


日々無理をせずに


過ごせるようになってきたの


時間の感覚って


本当に人それぞれで


この間もある出来事があって


次の月に行われるイベントに関わる連絡を


「友人が少し早めに連絡してね」と伝えられた私は


次の月のイベントの10日くらい前に


連絡をしたらいいかなって思い


過ごしていると


そう伝えられた1週間後に


「早く連絡してって私言ったよね!」と


少し怒っていたの


私の感覚ではまだ1カ月もあるのだからという


思いでいたけれど


友人にとってはそうではなかったり・・・


この感覚の違いも人それぞれだと思うの


よく会う約束をアバウトに


夕方くらいに・・・って互いに約束してみても


人によっては4時くらいが夕方と感じる方もいれば


6時くらいかなって思われる方もいると思うの


時間って本当に不思議だと思うの


私が最近仲良くなった友達は


二人の子育て・家事・フィットネスetc


様々な事を自分の時間割が出来ていて


充実した日々を過ごしているのだけれど


私は真似したくっても


なかなかそうは出来ず


ちょぴり落ち込んでいると


いつも「そのうち慣れるよ


私の場合は


やらざる終えない状況だから


色々やっているだけだよ」と


押しつける事もなく


励ましてくれるの


そしてスローな私を心配して


いつも場所を用意してくれたり


道具を私の分まで持ってきてくれたり


ありがたい限りなの


前ならば自分ができない事を


見つけては落ち込んでしまったりする事が


多かったのだけれど


今は初めから


自分が処理能力のキャパが小さい事を


自覚する事で


優れた方の手助けをお願いさせてもらうのも


私の人生には必要な事だと感じ


色々な方から


ありがたくサポートを受けて過ごしているの









ずっと足を運びたかった場所へ


週末などに


最近パートナーとよくお出かけしていて


その小旅行の中で


色々感じる事が多いの


たとえばこの間は


たまたま足を運んだ場所で楽しみ


出口に向かうと


そこで倒れている方を介抱し


救急車を待つ方に遭遇したり


それから1時間後には


事故にあった車を


処理されている人たちを見かけたり


そしてやっとおうちにつくと


今度は若い女性が


私たちが車を止める駐車場で


しゃがみ込み飲み過ぎたのか


吐いていて「え?!」っと思う事が


同じ日に重なった事があったのだけれど


その時同じ現実でも


見る角度は幾つもあって


どの方向から見るかによって


現実が与える結果は違ってくるように


感じていたの


たとえば「なんだかついていないな~」って


受け取る事も出来るし


その逆に「私がこうならなくってよかった」っていう


思い方もできると思うの


でも私の場合は


その時なぜかどちらでもなかったの


その理由はなぜだかは分からないのだけれど・・・


私が感じたのは


私がそのタイミングで瞳に映した事に


意味があるように感じて


その意味をゆっくり感じていたの


そうすると私の場合は


日々何もない事が当たり前のようになっている私に


感謝を忘れずに


過ごす事を教えてくれているように感じたの


どんな事でもそうなのだけれど


ほんの少しのきっかけで


そこにいた人たちと同じ事が起こっていても


不思議ではなく


その多くの障害を


私たち一人一人は気づいていないだけで


日々何事もない事が


当たり前ではないのだという事を


教えてくれているような


気がしていたの


そしてあらゆるものに守られ


過ごしているのに


時に感謝を忘れ


「退屈だな~」とか「暇だな~」って


ハプニングを求めるような


表現をしてしまう事さえあると思うの


でも実際にハプニングに出会うと


何もない穏やかな時間が


とってもかけがえのない時間だった事に


気づかされるように


今回のあらゆる出来事を


漠然とそう感じたの


もちろん私が感じた答えが


正しいかどうかはわからないけれど


どんな出来事も


自分の幸・不幸を計る答えを


出してしまうのではなく


自分の人生の気づきとなるものを


生み出せたならば


それはそれでよいかなって


感じているの


その日は様々なパワースポットなどに足を運び


良い流れを感じている中で


巡り合った出来事だったからなのか


自分が納得できる


意味をすぐに見つけられたの


その日は私の周りであらゆるものが


形をなくす出来事があって


たまたま食器を整理していると


手が滑って大切にしていた


クリスタルグラスを割ってしまったり


車の中にあったバックミラーに


物をぶつけてしまい割れたりと


大忙しだったの


形をなくした瞬間は


「なんて事をしてしまったんだろう」って


心が曇ったのだけれど


よーく考えてみると


クリスタルグラスの場合は


大切にしすぎて


しまったまま何年も使ってはいなく


だからといって捨てる事も


躊躇していたものだったので


はっきりと結果が出てしまった事で


逆にスッキリとした思いで


手放せて


その空いたスペースに


ずっと納めるところがなく出したままになっていた


他のお皿をしまえたので


これはこれで良かったって思えたの


そして車の中のミラーも


パートナーに聞いてみると


そのミラーを止めている部分が少し壊れかかっていて


いつもそこから外れて落ちてしまうんじゃないかと


気になっていて


人が乗るたびに無意識に心配しながら


小さなフラストレーションを感じていたので


こうなったおかげで


新しいのを買うきっかけができたと


受け止めていたようなの


でも今回のような出来事が


次々と訪れた時


心のコンディションがあまりよくない時だったならば


きっとすべての出来事を見つめ


「なんてついていないんだろう」って


同じ出来事であっても


受け止め方は違っていたと思うの


私たちは出来事を


自分の今の心のコンディションにフィットした


見方をしているだけだと思うの


コンディションが保たれている時ならば


日頃理解できない


遥かに自分の視野を超えた事であっても


理解しようとする事で


視野が広がり


その大きく成長する自分が心地よく


さらに気持ちをあげてくれる


状態へと運ばれてゆくものだと思うの


そう思うと


私たちは頭で考えて


無駄なく行動する事よりも


無駄だと思ってしまうけれど


自分が心躍る時間を


自分に作ってあげる方が


自分のためにも


周りのためにもなる


大切な時間なんじゃないかなって


感じているの









表現が少しへんかもしれないのだけれど


何十年もこの地球で暮らし


人間関係のノウハウは


少しはわかってきたようには


感じてはいるのだけれど


女性同士の付き合いのむずかしさの克服は


なかなかできていないの


たとえば携帯メールなどで


メールを受け取った時


急ぎではないような内容だった時でも


すぐに返さないと相手がなんとなく


不快に感じているのが伝わる事があるの


そのたびに相手が満たされるまで


天気から始まり


テレビの内容など


私にとってはどこまで続くのかなって


思ういながらも


人との繋がりをなくしてしまうのはっていう


思いから


このような繋がりを続けているの


ある時


返事を返さずにいたら


それからメールがこなくなってしまって


改めて人との繋がりの大変さを


感じていたの


女性同士ではきっとよくある


繋がっている感を確かめ合う


一つのツールになっている


携帯メールの場合


どちらかが寂しさが満たされるまで


何気ない内容のメールをしあうのが


仲良しの証のようになっているの


かもしれないのだけれど


私自身


処理能力のキャパが人よりも小さない事もあって


何かをする時に


人の倍の時間が必要なので


たとえする事が少なくっても


何となく時間がいつも必要な私にとっては


この何気ない


繋がっている感の繋がりに


時間を作る事が難しくって


いつも返事が遅い事で怒られてしまうの


でも自信のない私は


社会的に受け入れられ


社会生活をしている人の方が


私よりもあらゆる面で


判断が正しいのだからと


自分自身で感じた感覚よりも


優先してきたの


でも冷静に見つめてみると


私は人との違いを少しでも埋めたいと


自分なりに努力を重ねてきた


部分があるのだけれど


根本的には重ならない部分は多くあって


その中でわかりやすいのは


TVを所有していない事だったり・・・


TVを所有しなくなったのは


冷静に見つめる能力が自分にはないと


感じたからなの


たとえばニュースなどでは


日常的にはそうない出来事を伝えられているのだけれど


そのニュースの多くは


心が痛くなるもの・


怒りがこみ上げてくるものなどが多く


その出来事を


自分の事ではないのだからって


冷静に流れるように見る事が


出来たならばよいのだけれど


私の場合は


その出来事に心を重ねすぎて


スイッチを切ってからも


自分の心を保つ事を難しくしてしまう一つだったので


あえてそうしたの


でもありがたい事に


どうしても私が知る必要がある事は


誰かから教えてもらったり


何気なく話した方から


世間話として伝え聞く事が出来るので


そう困る事はないの


でもこういう何気ない事も


人との共感の数を減らしているようにも


感じているの


でも最終的には


自分と長い時間共にいて


心地が良いと感じる時間を


一つずつ増やしてゆくと


一つずつ人と違うものも


増えてゆくの


でも神様は人間がが表現するように


同じ考え・行動を持つ事を望み


正しいと思っていたならば


初めから


みんな同じように創造していたはずだと思うの


人の顔だって


極端に違わないはずなのに


数ミリの微妙な差で


世界中に人々すべてが違うように作り


今の時代では性別でさえも


身体と脳の部分がフィットしない方がいる事や


生まれた時から


どちらの性別にも当てはまらない


性別を持たれる方がいる事も


私たちは知り


自分とは違う人たちが


同じ地球にたくさんいる事を


自分の意思とは別に


受け入れ過ごす事を


求められていると思うの


私たち人間は神様ではないから


すべてを理解できないけれど


完璧な神様から見たら


その人それぞれが


人とは違う部分を見つけて


落ち込んだり責めたり


責められたりするために


違いをつけたのではなく


一人ひとりが違う事に意味があって


そうしてくれたのだと思うの


今の私たちのライフスタイルの中で


その事がもっともわかりやすいのは


たとえば


インターネットを通じて


多くの方が自分を表現する


チャンネルとスペースを許され


そこで様々な事を表現されていて


そのジャンルも色々あるけれど


書かれている方の中には


自分の何気ない日常を


わざわざ載せるほどかしらって


躊躇される事もあると思うの


一般メディアなどと比較すると


そんなに目新しい事も衝撃的な事もないしって


思いながらも


自分の好きな時間を表現されている方も


いると思うの


でも


インターネットで何気ない事ではあるけれど


知りたいと思った事があった時


ありがたい事に


検索して


ヒットしない事がほとんどないのは


一人ひとりが


こんな些細な事は・・・とか思いながらも


一人ひとりが感じた事を


インターネットという宇宙に


放ってくれているからだと思うの


そして現実とは違い


過剰なほど周りに合わせる事をせずに


本当に自分が心惹かれる事


表現しあえる


インターネットの空間では


改めて


日本人だからとか一つのピースや


年齢などで


決めつけられないなって感じるほど


本質的にはみんな良い意味で


違いを表現されていると思うの


社会の中では適応しようと


それぞれが自分をその時々抑えて


デリケートな人間関係を壊さぬように


努力し


人と違う部分がある事を悟られないよう


歩幅を合わしながら


過ごされている方も


多いんじゃないかなって


感じているの


でもみんな表現はしないけれど


心の深い部分では


自分を感じる軸を持っていると思うの


私はよく


自分が思うようにスムーズに物事が運び


とっても楽しく感じる時


できるだけ意識しているのは


私が思うように何でもスムースに運んでいる時は


周りの誰かが


自分の気持ちを抑え


我慢しすぎていないかを


意識しているの


もちろんお互いが思うように


過ごせるのがベストではあるけれど


人にはそれぞれのタイミングや


心の動きが宿っているから


どんなに仲良しであっても


すべてがフィットしているという事は


少ないと思っているの


ちょっとした譲り合いで


相手が笑顔になってくれたらって思う


気持ちを本来秘めている日本人の多くは


時にちょっとの譲り合いではなく


過剰に自分の気持ちを抑え込んでまで


相手の思いを優先してしまう事があるから・・・


自分では個性がないと思われている方も


逆に自分は人とは違うと思われている方も


形が違うだけで


心開いて


自分自身になれたならば


すべての人が少数派グループに入る


心のスペースを持っていると思うの


私が最近仲良くなった方は


スピリチュアル的なニュアンスの話題やキーワードを感じると


「こわい・こわいやだ~」と


笑顔を作りながらユーモア的な


音色ではあるけれど拒絶に近い表現を


いつもしていて


その姿を見つめ


とっても仲は良いけれど


自分が一番したいお話は


せずにお付き合いしているの


でも不思議とそれ以外の部分では


心惹かれる事はフィットしているの


昔の私ならば


自分が話したい事を


理解してもらえないと思った瞬間に


縁を結ぶ事はなかったと思うのだけれど


それは私が本当に自分本位で


自分は認められたい・


受け入れてもらいたいと願いながらも


自分は他者には


そうできていなかったからだと思うの


そして過剰に働く疎外感から


みんなと違う部分を指摘されると


勝手に否定されたと思い込み


自ら心を深く傷つけてしまう


流れを持っているからなんじゃないかなって


感じているの


今親しくさせてもらっている方は


スピリチュアルな話題は好まない人なのだけれど


私の心の動きがわかるからなのか


私をいつも気にかけているという事を


意識的に表現してくれるの


そのおかげで


私は自分が気づかなかった


疎外感を秘めている事に気づけたの


その方が私を気にかけてくれる表現を


受け取るたびに


心が穏やかになる体験から


いつも感じた事がなかった感覚によって


今まで避けていたものを


まっすぐに見られたように感じているの


その方が友人を紹介してくれた時も


私の良いところ・個性的な部分などを


私も相手も受け入れやすいように


弾むような音色で語り


自分の周りの大切なものを


私にもおすそ分けしていただいているの











この間知り合いのうちで


話をしていた時


知り合いは学生時代に戻りたいと


話していたのだけれど


私は真逆で


絶対に戻りたくないと伝えたの


そうしたら


「なんで?」と不思議そうに


尋ねてきたので


その理由を話しながら


鮮明に昔の事を思い出していたの


子供の方が大人よりも


露骨で


大人の世界でもいじめはあるけど


ストレートに態度や言動で


表現しないけれど


子供の世界は


もっとストレートで


仲良し同士で団結力を持ちたいと思うと


誰かをターゲットにしながら


同じ思いでj行動したり


中にはいじめをする事に躊躇する子もいるとは思うけど


もしもその事を周りに悟られたら


自分が次のターゲットになってしまう怖れから


誰も止められない事もあるし・・・


たった3年とは過ぎてしまえば思うけど


その間は


自分の世界は今ここの世界だけだし


永延に続く様な思いで


当人にとっては


出口が見つからず


自らこの世を去る以外考えられない状態になる人も


いると思うの


私はとにかく自分の命を守る事を考えて


転校したいと両親に伝えたけれど


聞き入れてもらえず


毎日朝学校gへ行く時間に家を出て


少したったら裏窓から自分の部屋にある


ビニールロッカーに入って


夕方まで物音をたてないように


過ごしていたの


でもその頃の担任の先生が正義感が強く


毎日夜に私の家へ足を運んでくれて


勉強の遅れがないように


色々とプリントを持ってきてくれる中で


「お前が学校にこられるように


お前を守ってくれるナイトを


何人か明日から迎えに行かせるから


安心して学校へ来い」と伝えてくれて


次の日から毎日


クラスの男子4人くらいが


送り迎えをしてくれたの


その男の子たちはクラスでも地味な男の子たちで


今までの自分とはまるで接点がないタイプの


子たちだったのだけれど


その時


本当の強さは見てわかるものではなく


秘めたものなのだと感じたの


私の場合は


元々目立つグループで過ごしていて


そこから抜けた事で起こったいじめだったのだけれど


ありがたい事に


真逆のタイプの男子や女子が


目立つグループを抜けた私を


守るように


いつも一緒にいてくれたので


今この命があるけれど


もしも誰も味方となってくれる人がいなかったら


今の私はいなかったと思うの


そんな話をしていると


そばにいた知り合いの中学生の女の子が近寄ってきて


急に


「見方がいない場合はどうしていたの?」って


尋ねてきて驚いたの


なので私は


「え?!もしかしてその体験中だったりして?」と


尋ねると


静かにうなずいたの


その瞬間


私は自分が辛かった過去と重なって


気がついたら涙が溢れそうになっていたの


その時知り合いは知らなかったようで


ショックだったようで


「何でちゃんと言わないの!」と


強い口調で表現すると


その子は下を向いたまま涙を落したの


もちろん


この問題は親子の問題だから


私が口をはさむ事ではないとは思ったのだけれど


何かしてあげたい思いが強く生まれていた私は


気がつくと知り合いに


「親に言っても解決しないし


心配かけたくないから言えなかったんだよ」と伝えると


知り合いも涙が溢れて


テーブルに3人で座りなら


みんながそれぞれの思いで


涙目になっていたの


私はこの事態をとにかく早く好転させたい思いから


具体的な案を色々と


伝えたりしていたのだけれど


知り合いは問題を大きくしたくない思いと


たとえば引っ越しとなると


両親にとっても大変な覚悟が必要になる事を感じてなのか


「自分たちが悪い事をしていないのに


なぜ逃げなきゃならないの!」と


この問題がそんなに深刻には


感じていないようだったの


私の両親もそうだったからよくわかるの


その時


一番つらく大変な時期を過ごしている娘さんが


「私もう死ぬしかないよ」と小さな声で


つぶやいたの


その瞬間


知り合いがハッとした表情になって


急に立ち上がり


御主人に電話をかけて


早く帰ってきてくれるように伝えていたの


後はご家族で話し合って


きっと良い方向に進んでくれるかなって思い


私は帰ろうと思ったのだけれど


娘さんが私にも同席してほしいと言ってくれて


その日


ご家族の問題なのに


私も参加させてもらったの


私は御両親に


子供だからという意識で


娘さんが置かれている現状を


安易に考えてしまわないよう


命に関わるほど大変な時を


娘さんが過ごしている事を


私の体験から伝えたの


そして後は少し


精神政界的かもしれないのだけれど


「みんなが目的を決めたら


ちゃんとそうできるように


整うと私は思うから


まずは大まかに


このまま学校に残るのか


転校するのかを考えて


どちらかを選んだから


そうなるためにはどうするかを


考えたらいいんじゃないかなって思うの」って伝えると


急にはやはり答えは出せないようだったのだけれど


そんな時ちょうど


部屋でつけたままになっていたTVから


いじめによってこの世を去った方のニュースが


伝えられてきたの


そのニュースを見終わる少し前に


御主人が


「思いきって引っ越そう」と言い


その時知り合いもお子さんも


できない理由は表現せず


一番大切なものを守るために


心が一つになっていたの


私はそのあとすぐに帰ったのだけれど


3日後に知り合いから電話をもらい


御主人の会社で家を借りてくれる人が見つかった事や


市内で移動すると


色々と不思議がられても嫌だからと


あえて遠い街に転勤願いを出し


できるだけすぐに行きたい思いを伝える


会社からは喜ばれたそうなの


今度暮らす街は都会ではない事もあって


誰も行きたがらない事もあったようなのだけれど


御家族みんなが自然とふれあうのが大好きで


都会に住んでいる時から


わざわざのどかな場所へ向かい


過ごされていたので


「これはこれでよかたかな」って


知り合いはホッとした様子だったの


娘さんも方向性が見えてきたからなのか


以前とは違い


「こんなにしゃべる子だったとは思わなかった(笑)」っていうほど


毎日楽しげに過ごしているそうなの


その報告を聞いて


本当にうれしかったの


学税時代って


多くの方が


大人になって思い出すたびに


社会生活よりも学生時代の方が


色々な意味で楽しい思い出に溢れ


戻りたいとさえ思われるくらい


スムーズに過ごされてきたとは思うのだけれど


そうではない方にとっては


もっとも命の危機を感じるくらいに


追いつめられる時期でもあると思うの


もしもその様な体験の中に今いる方がいたら


今は昔よりも


はるかに知識やを持っている方や


力になってくれる方が


色々な方面でいるので


一人で考え込んで抱え込んでしまわずに


調べてみるのも


一つだと思うの


そして日本人は向き合う事の強さや正義を


表現されたりするので


今いる場所から


違う道を選ぶ事は


逃げと表現する方もいるけれど


それは逃げではなく


そのタイミングではないだけだと思うの


人生には幾つもの問題が届けられるけれど


すべてに向き合っていたら


どんなに強い人でも


心身の体力が続かないと思うの


少したとえは違うかもしれないけれど


私が暮らす北海道では熊と出会った時の対処法として


良く伝えられているのは


後ろを向いて逃げると熊は追ってくるけれど


目をそらさずに


ゆっくりと一歩・一歩後ろにさがる事で


熊の方が目をそらし


去ってゆくそうなの


それと同じで問題に目を向けてはいるけれど


その問題からゆっくりと


距離を持つ事は


逃げではなく


自分の命を守る対処法の一つだったりも


するんじゃないかなって


感じているの







自分って自分と最も近くで


長く過ごしているのに


知らない事って多いんじゃないかなって


感じる事があるの


以前は


一人でいる時間が


とっても好きで


一匹オオカミ的だと自分の事を


思っていたのだけれど


本当はただ群れからはぐれた


羊だったんじゃないのかなって感じる事があるの


もしも本当に一匹狼的だったならば


周りが気にならず


わが道を突き進んでいるはずなのに


周りの動きが


とっても気になるところもあって


一人の心地よさと


はぐれた不安がいつも交差していたように思うの


人と会って楽しく過ごした後


まるでスイッチが切れたかのように


疲労してしまい


数日は一人で過ごしたい思いに包まれる事が


よくあって


それってなぜなんだろう?って


心静かに自分に尋ねてみた事があったの


あんなに楽しい時間だったのに・・・なぜ?って


そうすると


私は幼い頃のトラウマがあって


人に好かれたい思いが強く


そのために短い時間の中で


精一杯人に好かれようと


過剰なくらいに自己演出していて


そこに注ぐ労力と同じくらいに


帰ってきてから


自分が話した言葉すべてを思い出し


リップサービスから表現した


多くの言葉に恥ずかしくなったり


反省したりしているうちに


自分を否定し


人といた時間以上につかれてしまったり・・・


初対面の方の場合は


好感を持ってもらいたいと


過剰に頑張っている姿の私を


本当の姿だと誤解を与えてしまい


距離が縮まってくると


今度は何を話したらいいのか


いつも頭の中がフル回転して疲れてしまうので


自分からインターバルを作ってしまうの


心の中ではとっても親しい友人を望みながらも


そうすることが難しい私が


いる事を感じたの


今繋がりのある方の多くは


相手の話題に合わせる形で


繋がっていて


本当に自分が話したい事や


知りたい事を話す事がないの


でも最近は


それはそれでよいかなって


自分を受け止めているの


何度もそんな自分を治そうと


努力をしていたけれど


努力を重ねても治らないのは


個性として


自分が受け止め


歩む道を共に選んであげられたら


それでいいんじゃないかなって


感じているの


私は弱い人間だから


病によって母親になれないとわかった日から


将来パートナーがいなくなってしまったら・・・って


考えていた頃


大きな不安から


今から友達をたくさん作っておいた方がいいと


同じような環境の人からアドバイスを受けて


友達作りにちょっぴりがんばった時期があって


知り合いがたくさんできた事もあったのだけれど


時間と共に


環境や状況など


お互いが様々な変化から


自然に疎遠になった方も多く


その時


不安に備えて今からあれこれと準備し


関係を


大切に育んでいたとしても


環境や状況によって縁が


いつまで続くかもわからないし


逆にもっと先にふっとした出会いから


心通いあう友人ができ


支え合う関係になれる事もあるのだからと


変な努力をやめたの


いつも感じる事なのだけれど


昔あんなに毎日会っていた


その頃の親友もとくに


何かあったわけでもないのに


気づいたら


今どうしているのかもわからないようになっていて


だからといって


ずっと孤独だったわけでもなく


その時々


まるで天から私に何かを教えに来てくれたように


その方から何かを学び


その修学を終えると


気づかないうちに


次のステージへ互いに進んで


自分の人生には見えなくなっていたり・・・


その様な出会いと別れを繰り返しながら


今日という場所にたどり着いたように思うの


そう思って自分の人生の登場した人を


見つめてみると


未だに言えない心の傷を


私に与えた方であっても


そういう人との出会いがったから


優しい人と出会い


優しさ溢れたのあたたかい言葉が


何百倍にも嬉しく感じられたり


少し自分本意な私であっても


人の思いを考える事が出来るようになっていたり


必ず人生に


心の傷と同じくらいに


消えない


深い意味を宿してくれていると思うの


私の人生での課題は


今もやっぱり


自己表現を


おしつけ感なく自然に


周りを気にせずできるように


自分が自分としていられる


時間を広げて行く事なのかなって


感じているの








私の母は


自分というものを強く持っているせいなのか


小さなことでも


人よりもストレスを感じやすく


それでも自分の人生を


整えるために円滑になるように


人と繋がりあい


そのすべてがまたストレスを生むという


流れの中で過ごしていたのだけれど


年に数回ではあるけれど


実家に足を運ぶたびに


母が少しずつ変化していて


今更ながら


母の素敵な部分に触れる事があるの


昔は人と付き合うには


我慢や自分を抑える事という


ベースの元


人と繋がりあっていたのだけれど


最近は


人の好ましくない部分に触れても


「あの人はこういう人なんだって


わかれば付き合いやすいから」と


我慢や自分を抑えるというのではなく


人をありのまま受け止めたうえで


今よりもお互いに


限られた時間


楽しく過ごす方法を


考えているそうなの


その変化に感動と尊敬と


驚きを感じた私は


「何でそういう考え方になったの?」って尋ねてみると


「きっと相手も自分と同じ考えで


人と付き合ってるんじゃないかなって


思ったら


自分も自分らしさを相手にも


少しは出した方がいいと思ったし


相手の自分らしさも


否定しないで


そのまま受け取っている事を


お互いに伝われば


楽に楽しく付き合えると思ったから」と


伝えてくれたの


そしてそのきっかけが


いつも私が母に手渡す本の中あったそうなの


昔から母は本が大好きで


どんなジャンルのものでも読む人で


私が読み終わった本を


良く手渡していたので


知らぬ間にスピリチュアルな本や


精神世界的な本を


多く読んでたのだと思うの


母は自分というものがきちんと


自分の内にある人だから


時に人からのアドバイスや考えを


無意識に跳ね除けてしまう部分が


たぶんあったと思うのだけれど


本は自分のスピードやタイミングに合わせて


心の音色で


自分が感じたい形で


吸収する事が出来るから


本に教えられた事は


そのまますんなりと入ってきたと思うの


ずっと長い間


極力人付き合いをせずに


済む形で過ごしてきた


私の母は


弟たちの元に舞い降りた天使たちのおかげで


人間関係が広がっていて


都会ではそうないような


繋がりの中


楽しく過ごしているようだったの


父も同じで


今までならば自分を快く思っていない事を


わかっている相手であっても


体調がよくないと知ると


車で送り迎えをしていたりしていて


周りからも


「あの人はあんたの事こんな風に言っているのに


なんでそんな事をするの?」と


不思議がられるくらい


人に対して優しさを手渡しているの


その姿に母の時と同じように


不思議な驚きと尊敬から


父に尋ねてみると


「初めからこじれた人間はいない


その人もそういう風にしか


自分を表せないくらい


自分を大きく見せ守らなければならない


何かがあったんだろう


俺はなんだかんだ言っても


今幸せだから


幸せな人間が


理解してやらなきゃならないベ」と


照れながらも


自分の気持ちを伝えてくれたの


それを聞いた私は


「それでも自分の事悪く言う人だよ」と伝えると


父は


「いいんだ。


その事でもめたからって


いいことないだろう


俺らはお前と違って


長くてもあと10年も生きればいい方なんだから


それより


年をとったら人を助けられる方が


助けてやればいい


俺は幸せだから


細かい事は気にならんがな」と


話していたの


でも私が今まで知っていた母も父も


そんな人ではなかったのだけれど


そういう姿に触れるたびに


本当は昔から


優しさ溢れていた人だったのだろうけれど


若さゆえの不足感から


余裕を持てず


私が知っている両親だったんじゃないかなって


感じたの


でも今は弟夫婦のおかげで


天使を3人も授かり


両親の心の中に


私には与えられなかった


大きな幸福を受け取り


その中で


本来の自分たちになっていったのかなって


感じているの


両親は今でも働いているのだけれど


父も母もこの年齢になったら


仕事を引退しようと決めていたのだけれど


ありがたい事に望まれて


今でも仕事を続けているのだけれど


その支えになっているのは


3人の天使たちの存在で


その天使たちにおいしいものを食べさせてあげたいとか


遊びに来た時に


楽しめるものを買ってあげたい思いが


気力を生み出し


健康という財産を


保てているように感じているの


一見


何でも両親に任せている弟夫婦は


自分で何もせずに


無責任に映るかもしれないのだけれど


私の両親の場合は


個人的な生きがいを特に


こだわり持つことなく生きてきた事もあって


継続している


家族のために


自分が必要とされている事が


自分が生きる意味だったり


喜びとなっているから


何でも頼ってくれる


弟夫婦は


ある意味で両親の健康を保つためには


とってもありがたい存在だと思っているの


そんな中私の役割と言えば


愚痴聞き役で


その愚痴も幸せをストレートに表現する事を


躊躇する大人特融の


形を変えた自慢で


そんな時は娘というよりは


少し距離のある人として


「いいね」「うらやましい」など


両親が他者に言ってもらいたいであろう


言葉をそのまま伝えているの


会うたびに笑顔の多い


両親を見ると


会わない間


その笑顔を育んでくださっている


すべての人に感謝を感じているの










この間とって不思議な事がったの


私は夜


パートナーと共に


フィットネスクラブで過ごすのだけれど


そのたびに


時間を決めてフロアで


待ち合わせをしているのだけれど


ほとんどが私の方が早く


ソファーに座り


新聞をよく読んでいるのだけれど


その時


私たちと同じように


いつも同じ時間帯に


待ち合わせをし


待っている方がいるのだけれど


その男性も私と同じように


雑誌などを読みながら


誰かを待っているの


その方の顔ははっきりと記憶していないのだけれど


次の日


私が暮らす場所から車で


片道3時間半くらい離れた


パワースポットに


パートナーと向かい


過ごしていた時


前から歩いてきた方とすれ違った時


なんと


前の日にフィットネスクラブのソファーで


一緒に誰かを待っていた男性だったの


相手の方もわかったのか


ハッとされた顔をしていたの


こんなに離れた場所で


それでいて


子のベストなタイミングで


すれ違うなんて


何か意味があるのかなって


感じたの


でもフィットネスクラブのフロアで


またその方と会ったのだけれど


何となく話しかけずづらくって


何も尋ねずにいたのだけれど


今度は車で2時間くらいかかる


自然あふれた場所へ


パートナーといった時


駐車場に車を止めていると


隣に同じように駐車しようと


車が来たので


ふっとみると


またその方だったの


このたび重なる偶然に


パートナーと私も


そしてその男性も


驚いた表情になっていたの


その男性は50代後半くらいで


同じ年代の女性と共にいつもいて


そのたび重なる状況に


何かの縁を感じてはいるの


今はその意味がわからないのだけれど


何となくそのうち


会話を交わす事が出来るのかなって


謎がひも解かれる日が


今から楽しみなの












私は長い時間


パワーストーンとふれあい


同じ石であっても


一粒・一粒微妙ではあるのだけれど


発するエネルギーの違いを感じたり


効果だけではなく


身につける場所などによっても


違う個性を感じる事があって


飽きっぽい私が


飽きることなく


パワーストンとのふれあいには


今でも心惹かれてれいるの


病の中過ごしていた数年前


知り合いが信頼する


スピリチュアルな知識のある方を


紹介していただいて


その方から色々アドバイスをして頂き


ある時期


自分の感覚を手放し


その方のアドバイス通りにしていたの


その方のアドバイスで


今まで私は左に身につけていた


ブレスレットを


右手にしてみたのだけれど


説明のできない違和感を感じていたの


それでもそれは


今まで身につけていなかった方に


つけた違和感だと思い


そのまま右にしていたの


その後


今までの流れとは違う感覚を感じてはいたけれど


病によって


自分の感覚を以前よりも


強く信頼できなかった私は


その違和感をそのままにしていたのだけれど


ある時ふっと


やっぱり元に戻してみようかなって思い


1時間だけ元に戻してみたの


そうしたら


今まであいさつを交わした事のない方から


「おはよう」とか「久しぶりですね最近見かけなかったから」と


当然色々な方から話しかけられたの


そして気がつくと


いつもならば何を話していいのか


考えすぎてしまい


空回りしてしまう私が


自分の内に湧いてきた事を


そのまま話していたの


その何気ない話は


当たり障りのない世間話ではない


ちょっと高度なお話だったのに


みんなが興味を持って聞いていて


中には


色々な事を知っている方がいたりして


話に花が咲いていたの


その時感じたのは


エネルギーは


左手からエネルギーが入ってきて


右手に抜けて行く事を思い出していたの


私は自分ではそんなに


感じてはいなかったけれど


少し過敏なくらい瞳に映らないエネルギーを


感じてしまうところがあって


言葉では上手に表現できないのだけれど


左手にブレスレットを身につけていた事によって


周りからのエネルギーを良い意味で遮断していて


今目の前にいる人だけのエネルギーを


感じられる事によって


自分の内側が安定し


その内側から無意識に


良い波動を外へと放出していて


それを無意識に感じた方たちが


そばにこられたのかなって


感じたの


念や思いって


今普通に生きている方すべてが


当たり前に外へと手放していて


その漂うエネルギーは


どんな場所にもあって


時に自分では意識していない方であっても


突然わけもなく気持ちが落ち込んだり


特に問題を抱えているわけでもないのに


不安になったり


さっきまで楽しい気持ちだったはずなのに


急に怒りを感じる感情が生まれ


その怒りを広げるために


無意識に怒りを感じる話題や情報ばかり


瞳に映そうとしている方の中には


自分では気づいていないけれど


あちらこちらに漂う


誰かの思いや念を


瞬間的に自分の中に通過させている事も


あるんじゃないかなって


感じているの


あちらこちらに漂う思いや念は


特に自分に何かしてほしいために


訴えてくる霊的なものとは違い


ただそこに落ちている塵のようなものだから


問題を起こす事はないけれど


感情に影響を受ける事で


自分の人生が自分のものではないような感覚を


感じる機会が多くなったり


人ってみんなこう思っているものなのねって


人間が誰でも持っている


影の部分にばかりふれる機会が多くなってしまい


人間不信から


人との繋がりを怖れたりして


人生を楽しめなくしてしまう事が


あるんじゃないかなって


感じているの


その漂う念や思いは


ノイズのように自分を包み


すべてを曇らせて


クリアに物事をありのままに


見えなくしてしまう事で


ふれあうすべての人を


そして自分自身も信頼できない


不安定な状態にしてしまう事も


あるんじゃないかなって


感じているの


誰でもそうだけれど


相手の思いを考えすぎてしまうと


どうしても自分の思いを


表現しずらく


自分の思いを抑え過ぎてしまう事が


あると思うのだけれど


そういう方は


私が思うには


左手にブレスレットを身につける事で


様々なノイズとなるものを微調整し


自分を軸にどうしたらよいのかを


選択しながら


過ごせるような気がしているの


時々感じているのは


様々な方と出会うたびに


霊感が強いと伝えてくださっている方よりも


自分は何にもそういう感覚がないと


思いこんでいる方の方が


スピリチュアルな能力が高く


ただ知識として知らなかったり


時には避けている方も多く


すべて偶然として


過ごされているの


そしてそういう方は


わけのわからない感情の動きでさえも


何で自分っていつもこうなのだろうって


すべて自分のせいだと思い


その原因を消化している事もあると思うの


ただ人によってベストな身につける場所はあって


自己表現をちゃんといつもできる方で


その自分の伝えたい事を


相手に深く理解してもらいたいと願う方は


右手に身につけられると


相手の心のサイズに合わせた優しさを重ねた表現が


自然にできるようサポートしてくれると思うの


ただ気をつけなければならないのは


右手は左から入ってきたエネルギーが


自分の体をめぐり放出してゆく所だから


自分の心もクリーンに


思っている事と言葉が


いつも一致していないと


自分の中に宿る


すべてのエネルギーも共に


相手に無意識に伝わってしまうから


ある意味で


ハイヤーセルフと繋がり


良い状態の時に身につけられると


自分の思っている以上の


評価を受ける事もあると思うの


恋人や好きな人と会う時などには


右手につける事によって


その方との縁を近づけてくれる事もあると思うの


石たちは命あるものたちと同じような


バイブレーションを持っているから


石の効能だけではなく


身につけられる方の個性や


コンディションによっても


招き寄せる出来事が変わってくると思うの


手といいのは


人間の体の中でも


とっても繊細で頭で考える範囲を超えた


感情と最も繋がっている器官だと思うの


昔の人は


今の人たちのように


具体的な知識を持っていなくっても


痛い場所に手を当てる事によって


痛みが緩和できる力が


手にある事を


感覚的に知っていたように


手には多くのエネルギーが


いつも放出していると思うの


その手に近い場所に身につけるアクセサリーは


色の持つバイブレーションや


金属の持つバイブレーションなどが加わって


それが様々なハーモニーとなって


石の持つ個性にプラスアルファーで


身につける方によって


届けられる出来事も


様々に変化してゆくんじゃないかなって


感じているの







幸せってなんだろうって


時々ふっと考える事があるの


私の精神性が今よりも幼い頃は


瞳に映るものだけで


人を判断し


あの人は幸せ


あの人は不幸って


頼まれてもいないのに


勝手にジャッジしていた事があって


時には友人や知り合いたちと


心配している雰囲気をベールに


誰かを見つめては


自分の方が幸せだと無意識に


確認し合ったり・・・


私が実家に暮らしている頃


毎日毎日


夜になると母の愚痴聞き役だった私は


母が過去を思い出しながら


嘆くたびに


「私は母さんのようには


絶対になりたくない」とよく伝えていて


若い頃はモテた父の浮気話しの時にも


「何でそんな浮気をする男の人を選ぶの?


見る目がなかった自分が悪いんじゃないの


男の人が浮気するのは


奥さんにも原因があると思うけど」と


わかったような事を


言っていた事があったの


そのたび母は


「あんたにはわからないよ」とつぶやき


話を終えていたの


でも私も結婚し


とっても信頼していたパートナーが


ちょっとしたきっかけで


私に偽って女性と会っていた事がって


それを知った私は


考えもしなかった出来事に


想像を超えるほどのショックと


男女間の事だけれはなく


今まで自分の中で信じ


人生を支えていた価値観までも


壊れそうになっていた時


仲が良かった友人や知り合いの多くは


私の思いを代弁してくれるように


相手の女性を非難し


私のパートナーの事は


私が大切に思っているだろうという事を察して


あえて


「男にチャンスが多ければ


断る人は少ないものだよ


うちはもてないだけで


チャンスがあればうちだって


きっとそうなっているよ(笑)」とか


「うちも隠れてしていたりして(笑)」など


表現してくれていたの


そしてこの出来事を母に伝えた時には


「男って本当にしょうがないよね


うちもよくあったから(笑)


どんなに奥さんが綺麗でも


いい奥さんであっても


隙あればする奴はするんだよね(笑)」と


伝えてくれた時


はっとしたの


私は母が同じような出来事を話した時


辛い体験をしている母を


まるで母が原因かのように表現してきたのに


母は同じ体験をしている私に


誰のせいでもなく


まるで人生の経験の一つなんだという


ニュアンスで


私に伝えてくれた時


今までの自分の精神性の低さと思いやりのなさに


気づかされたの


同じ時期


ある方は


「男の人が浮気をするのは


女性に原因があると思うよ」と伝えられ


その方が思いつく


私の言動や行動と結び付けて


よくない部分を伝えてくれる方が


いたのだけれど


その方は少し前の自分と同じように


幸せな中にいて


悪気なくそのように表現しているのだろうなって


感じる事が出来たの


本当はこのような思いって


当人の奥さんが相手を責める事を終わらせ


新たにスタートするために生み出す


思いであって


男性の行動が奥さんに原因があるという


考え方を


周りが表現することでは


ないのかもしれないなって


その体験の中で感じる事ができたの


すこしお話がそれてしまったけれど


私の経験値の低さから


母の生き方の中に宿る


幸せが見えなかっただけなのに


母の人生を全否定するかのように


あなたのようにはなりたくないと


伝えられた母は


どんな思いだっただろうって


反省がいつも重なるの


大きく見つめると


人間が思い描く幸せの形はなんとなくあるけれど


環境や体験によって


その幸せの形も微妙に変化していると


思うの


今経済的に大変な方からすると


経済的に恵まれている方が


何よりも幸せに映るし


病の中に暮らす方にとっては


ただただ元気に過ごしている人が


うらやましく


子供を望みなかなか


望みが叶わない方からすると


子育てに追われてイライラ過ごされている人でさえ


うらやましかったり・・・


少しお話は違うかもしれないけれど


以前


経験値が今よりも低い私は


友人たちと誰かを見つめては


あの人は幸せ


あの人は不幸と


勝手にジャッジしあっている時


言葉では上手に表現できないのだけれど


今思うと


自分で表現しながらも


自分の内側では違和感があったのだけれど


その頃の知り合いや友人たちが


こういう人を幸せではないと判断し


あんな風にはなりたくないと思っている事を


感じた私は自分の弱さと見栄から


無理にみんなに


ちょっぴりでも幸せそうに映るように


無理を重ねていたように思うの


本当は誰にアピールする必要もないの・・・


ただ人によっては


その様な事がすべての原動力となって


人生を発展できる人もいるけれど


私の場合は


自分が幸せに感じる事が


あまりにもささやかすぎて


人にうらやましがられるものではないの


たとえば図書館や本屋さんに


足を運んだ時


それだけでワクワクして


これから出会う自分の知らない世界を


旅する時間が


物心ついた時から


はずす事の出来ない


幸せを感じる時間の一つだったり・・・


こんなささやかすぎる時間が


私の中ではとっても幸せで・・・


本をゆっくり読める時間には


病で痛みに長い月日包まれていた


私にとっては


唯一無理せずに


繋がれる社会のような感覚だったの


そして本をゆっくり読めるという事は


私に時間を与えてくれる


パートナーのおかげだったり


もっと深い部分では


字を読み理解できるまで


学ぶ機会を与えてくれた両親や


周りの方たちのおかげでもあって


本を読んでいると


自分がとっても恵まれている事と共に


感謝も感じられる


大切な時間なの


字を読み書きできるのは


当たり前のように感じられる方も


いるとは思うのだけれど


私の父方の親戚などは


様々な事情から学ぶ機会がなく


今でも読み書きができない方も多く


日本人で日本に暮らしているのに


不便な事が多く


子供ならば読み書きができない事を


相手に伝える事も出来るけれど


年を重ねている親戚たちは


書類などに字を書かなければならない時には


その事を悟られないように


手に包帯などを巻き


怪我で書けない事をアピールし


口頭で伝え代書してもらう姿を


何度も瞳に映してきた私は


字を読み書きできる事が


とっても特別な人生の贈り物のような


気がしているの


文字を読める事


そして理解できる事が幸せな私は


その様な思いからなのか


お手紙なども大好きで


文字に思いが重なった手紙たちは


どんなに自分の環境が変わっても


共に一緒に引っ越しをしているの


幸せって


人が判断できない事が本当は多いと思うの


恋愛をしている人は


好きな人と縁を感じる


何かを見つけただけで


ただただ嬉しかったり


毎日暮らす家族と


ふとした瞬間


同じ方向を見つめ


過ごしている事を感じた時


深い安心感と幸せを感じたり・・・


私が感じているのは


幸せは感情や思いであって


形あるものがもたらしてくれるわけではなく


形あるものも


そこに思いや感情が重なるから


形あるものを受け取った時


幸せが広がるものなんだと思うの


人は自分に自信が持てない時


もっともらしい理由と形にこだわり


大切な心を


置き忘れて


誰かが望んでいる幸せの形を


自分の幸せの目標のように


錯覚してしまう事があるけれど


どんなに誰もがうらやましく思うものを


受け取れたとしても


そこに幸せな思いが重ならなければ


いつまでたっても


幸せにはなれないと思うの


そして逆に


人に誇れるほどのものを


何一つ持っていなかったとしても


笑顔がこぼれていたならば


その方は間違いなく


幸せな人なのだと思うの








よく自分の感情や波動と会うものが


日々届けられるという


精神世界の知恵があるけれど


私たちは時に


頭の中ではわかっているし


知っているけれど


ついその事を忘れて


つい目の前に届けられる出来事に


すぐに反応し


感情がその出来事に見合うものへとなって


「なぜこん事されるの!」って


怒りに包まれ


秘めている知恵を怒りで消してしまう事が


あると思うの


たとえ知恵と寄り添い過ごされている方でも


「私が何で・・・」って


偶然外からもたらされた事に


動揺してしまう事もあると思うの


精神世界の中では


あらゆる出来事には


偶然はないと表現されているけれど


見方を変えれば


確かにそうなのかもしれないなって


感じる事があるの


とっても小さな出来事なのだけれど


この間


いつも止めていた自転車が故意的に


倒されていて


それも簡単には倒れないようになっていた事もあって


わざわざ大変な思いをしてまで


倒したのだろうなって思うほど・・・


そしてそのそばにあった


様々なものを壊したあとがあって


朝それを瞳に映した私は


怒りよりも


想像を膨らませ


ショックと恐怖を感じたの


そしてその時


この出来事が自分に関係のあるものとして


考えなかった事もあって


いつ突然自分とは違うタイプの人が


私の元に


様々なものを運んでくるのかと思うと


急に恐怖に怒りがプラスされていたの


その時


図書館好きの私は


毎週のように足を運んでるのだけれど


そこで何気なく出会った本の中に


「すべての出来事は偶然ではなく


自分の感情が招いているもの」と書かれていて


見慣れた知恵なのだけれど


何となく深く入ってきたの


その時


私は日々楽しい時間を過ごしているのに・・・って


疑問に思うと共に


もしかしたら


自分でも気づいていない


怒りや恐怖の種となるものが


あるのかなって思い


またまたいつものように


瞑想してみたの


そうすると私自身も驚いたのだけれど


数ヶ月前ある出来事があって


どうしても納得のできなかった


出来事と繋がったの


それはずっと前から


友人と約束していた事があるのだけれど


その事をとっても楽しみにしていたのだけれど


友人がその日


別のしたい事が出来た事で


約束は消えてしまったの


その時


特に怒りを感じたわけではないのだけれど


その出来事を


何度か思い出す事があって


そのたびに


私はその友人と行く約束を守ろうと


他の方からの誘いを断っていて


何となく自分がその約束を守るためにした


努力までもが


意味のないものとして流され


さらには友人は特に謝るわけでもなく


何もなかったようにしている姿に


きっと私は感じないようにしていながらも


その怒りや恐怖の種を


手放せずにいたように思うの


その様に気づいた私は


自分の幸せのために


この出来事から生まれる感情や思いを


変えたいと思い


自分が納得するまで対話したの


人は自由意志を持つ権利を


誰もが持っているから


どのような選択をしても


かまわないとは思うのだけれど


許せない感所が広がっていたの


でも本当に許せないのは


その思いをはっきりと


表現できない自分へ向けたものと


自分を尊び大切にしない


相手と自分に向けたものだったように思うの


そしてその自分では気づかなかった


感情が偶然のように起こる出来事に重なり


感情を放出していたのかなって


感じていたの


結局私は自分のために


その友人との縁は卒業しようと決めたの


決める前は


そんなに友人がいないから


寂しくなってしまうかも…って


躊躇していたのだけれど


その様に決める方向へ向かったのは


自分の中で納得できるだけの


過去から繋がる思いや出来事もあったと思うの


人を許す事は


とっても大切で素晴らしいことだけれど


何度も何度も


自分との予定を大切にしてくれなかったり


自分を傷つける人といるのは


人を許すという事とは違い


自分自身を大切にできない私を


私が許し


他者がどんなに自分を大切にせずにいても


大丈夫なんだって


誤解を与えてしまうんじゃないのかなって


感じたの


だからといって今までの付き合い方が


できている関係では


急に私がこういう人というアピールをしても


今まで誤解いを与えていた私を


本当に私として付き合ってくれていたのだから


関係が良くなるイメージが


できなかったの


人との縁は


不思議なもので


どんなに繋がっていたいと思っても


そうならない事もあると思うの


そしてお互い


その時々


自分の波動に合った出会いを重ねながら


成長してゆくものだと思うの


私の知り合いの中には


一人で過ごす事が苦手な方がいて


今親しくしている方だけでは


どうしても埋める事が出来ないからなのか


もう何年も会う事も


連絡し合う事もない相手に


急に連絡をしては


また新たな縁を深めようと


行動されている方がいるのだけれど


連絡を頂いた方も


懐かしさから少しの時間は


昔話などをし楽しく過ごすようなのだけれど


しばらくすると


今の自分たちの趣味やライフスタイルと


合わないからなのか


また疎遠になっているようなの


その事を見つめながら


改めて


終った縁は


互いに意味を果たし卒業した関係なんだなって


教えられた気がするの


私はよくパートナーに


「突然付き合いをやめなくても・・・」と


伝えられる事があるのだけれど


私の場合は


社会的な繋がりや自分のライフスタイルに


どうしても関わらなければならない


繋がりではない事もあって


社交のために


縁を続けなければならないわけではない事もあるから


思いをすぐに形にする事に


躊躇しないだけだと思うの


それがもしも


私の過ごす空間でどうしても


繋がりあう方であったならば


思いがあっても


そう簡単には決断は難しいと思うの


人はそれぞれに


感情を生み出す種を手放す方法があると


思うのだけれど


私の場合は


とても良くないのだけれど


自分なりに我慢したりしずぎて


ちゃんと自分の思いを表現せずに


居る事が多く


その事で溜まったフラストレーションが


ある一定になると


自分の中で今度は


自分を守り大切にしなければって


スイッチが入るようで


関係が疎遠になってしまう事には


あまり悲しみを感じたりはしない


所があるの


でも本当は我慢しなければ


人と上手に付き合えないと


思いこんでいる自分の意識を


変えなければ


人が変わっても


同じ問題が運ばれてきてしまうから


私自身が


ちょっぴり勇気を持って


自分の思いを


伝える訓練をしなければって


とても感じているの











私の弟は


何でも驚くくらいに否定的に


物事を見つめるタイプで


とっても驚く事がったのだけれど


ある時


弟と共通の知り合いが


良い成績を残した報告を受けて


嬉しかった私は


人間の秘めた可能性の素晴らしさなどを


語っていると


すぐに弟は「周りがただ大したことがなかっただけじゃないの」と


表現し


その言葉に反応した私は


その知り合いの素晴らしさを


何度も表現していたの


でも弟は時が流れても


同じような否定的な返答を繰り返し


そのやり取りが


様々な分野にも広がっても変わらず


そんな時間を終えて


パートナーと車に乗り


家に帰る途中


私はさっきの様子を振り返り


「何で弟はいつもあんなに否定的なんだろう?」と


私がつぶやくとパートナーが


「でも弟から伝染した空気に今


さーちゃんも包まれているんじゃない?


さーちゃんは正義感と前向きな思いから


良い波動を伝えようとしてるのは


わかるけど


形が違うけど


いま弟の事を否定的に


分析しいるよ


本当の意味で精神性の成長を願うなら


どんな事も否定ではない


答えを自分で出す事が必要かもよ


違うなって思っても


上手に流すとか


言葉にしなくってもいいけど


色々受け入れる時に


この考えは自分に必要ないなって


心で思いながら


否定しない訓練をするとかさ」と


伝えられたの


その時ハッとしたの


私の人生にはよくあることなのだけれど


自分の意見の正しさがはっきりとしている時


その正しさで


間違いを正そうとし


それが相手のためにも


自分のためにもなるという思いから


一見前向きな表現に溢れてはいるのだけれど


感情は否定的な相手と同じような


怒りや否定的な


感情になっている事があるの


その様な事って


なかなか気づくのが難しいと思うの


良く昔から


自分が放つ波動や過去に放った波動が


次々と運ばれてくる出来事を


無意識にシャッフルしていて


偶然のように映る出来事も


今の感情にフィットするものが


運ばれてくると伝えられているのを思うと


心地の良い状態を維持する事は


最も自分が望んでいる


幸せな時間を体験する機会が


与えられるのだから


周りの状況や意見などの過剰反応する事よりも


自分の気持ちが


今心地が良い状態なのかに


意識を注ぐ事が


とても大切なんじゃないかなって


感じていたの


少しお話は違うかもしれないのだけれど


以前の脳科学の本を読んだ時に


人は見たものを見たいように見てしまうように


脳が反応している事が書かれていたのだけれど


この間


ある実験的な事が書かれていた本を読んだ時


脳は効率的に働かせるために


見慣れた安全なものには


意識を注がなくなる部分があって


現実に見えなくなる事もあるそうなの


日常の中でも


何か問題があった時


なかなか解決策を見つける事が


難しい時


まったく違う環境の方に相談される事で


簡単に問題が解決する事があるらしいの


それは同じ場所にいても


脳が意識を張り巡らせているスペースの違いから


自分には見えていないものも


違う環境の方には普通に見える事も


あるようなの


今回パートナーから


何気なく伝えられた表現のおかげで


正しいかそうではないかにこだわり


気がつくと


自分のよかれと思う思いとは別に


形を複雑に変えながら


私も日常の中で


否定的なものを表現しているんだなって


感じる事が出来たの


否定的な表現をストレートに良くされる方の中には


無意識に


自分の分析力のすごさのアピールだったり


人とは違う頭の良さを持っている自分や


正直な自分のアピールだったりと


様々含まれている事も


有るとは思うのだけれど


ある意味でその事を仕事とされているような


評論家の方ならば報酬を頂く事もあって


自分の人生に幸せを引き寄せる事を


犠牲にしても


それなりにバランスがその方にとっては


納得できるかもしれないけれど


報酬を頂かない私たちが


同じように否定的な思いを抱き表現する事で


自分の人生に幸せを引き寄せる事を


犠牲にしてしまうのは


とっても意味のない事なんじゃないかなって


感じていたの(笑)


スポーツ選手などはよく


試合中のミスが重なっても


気持ちの切り替えに多くの意識を注がれるけれど


それはきっと無意識に


今の自分の思いとフィットした出来事が


次に運ばれてくる事を感じているから


なんじゃないかなって


感じているの


最近


私もその事をできるだけ


意識して過ごしているのだけれど


気がつくと「今私は否定的」って思う瞬間が


いくつもあって


すぐに立て直す事が多いの


その多くは正しい事を伝えたい思いからなのだけれど


自分と関わる人たちは


みんな多くの経験と時を重ね過ごしてきた大人ななのだから


今更・正しいかどうかを問う事の必要性はないなっていう


思いが生まれた事によって


自分の価値観の中にある正しさとは


違うものに出会っても


深く繋がりあう人ではない場合には


わざわざ正当な理由と正しさを盾に


同じ波動に包まれてしまう事はないのかなって


感じるようになったの


それは一見・情がないような冷たさを


感じる方もいるかもしれないけれど


私たちの人生の限られた大切な時間の大半を


気がつくと人との関わりから


望まない問題を受け取ったり・巻き込まれる事によって


自分のために自分の人生に与えられた


使命やカルマなどを消化する時間が


ほとんど持てていない事を思うと


意識的に


自分の人生を見つめなければ


時ばかりが速いスピードで過ぎてしまって


自分自身が納得できる時を


重ねて行く事が難しくなてしまうと思うの


この間などは


パートナーがコーヒーをこぼしてしまい


そこにあった洋服にかかって


とても落ちる状態ではなく


落としたコーヒーカップも割れてしまい


いつもの私ならばきっと


怒りをストレートに表現したり


湾曲させて怒りを表現しない代わりに


アドバイスと称して


相手の良くない部分をこの時とばかりに


長い時間表現していたと思うの


でも今回は


心地の良い気持ちを続けようキャンペーン(笑)という事もあって


望まない出来事の中から


良い事を探そうと意識が働いた事もあって


気がつくと


「この洋服そんなに大切ではなかったけど


捨てるに捨てれなかったから


思いきって捨てられて良かった」とか


「このコーヒーカップ見るたびに


もらった○○の事を思い出して


楽しい気持ちになれない事もあったから


新しいのを卸そうっと」って表現していたの


そしてそれから数時間後


たまたま実家による用事があった私たちは


実家でぜひにと


洋服の仕立て券をもらったの


母がお世話になっている方から


頂いたそうなのだけれど


フォーマルな仕立てのお店という事もあって


作ってもきっと着る機会がない事や


体系の変化が激しい母は


安定したフィット感のあるものよりも


伸び縮みするものが好みな事もあって


その券をもらったの


そしてその喜びによって


今度はフィットネスクラブで仲良くなった友人が


多くの交友関係の中で冠婚葬祭で頂いたものの中で


使用しないものが多いらしく


いくつも頂き物があったの


そのほとんどが


何気なくどこかで見て


買うタイミングを待っていたものばかりで


とっても嬉しかったの


ただ自分がどんなに心地の良い気持ちを維持し


精神的なレベルが上昇していたとしても


過去に手放した感情の清算のために


その頃の感情と同じものが届けられる事もあると思うの


望まない出来事の多くは


過去の清算が出来る


与えられたチャンスだと思うの


過去と言ってもこの世に誕生してきてから


意識できる過去と


遠い記憶の中でしか存在していない過去世があると思うの


そしてある程度精神レベルが上がった時だからこそ


一見良くない出来事が


復習とさらなるレベルアップのために


届けられるんじゃないかなって


感じているの


でも望まない問題に


ストレートに反応してしまうと


不思議な事に


つぎつぎとその思いを大きくしてしまう


出来事が届けられる事もあると思うの


そうして何度も何度も


聖なる者たちは私たちに


人生の仕組みのかけらを見せてくれているんじゃないかなって


思う事もあるの


人の念や思って


瞳には映らないだけで


何よりも強力な力を秘めていると思うの


たとえば心で何を思っていても


相手に表現しなければわからないと思っていても


多くの人間には退化したとはいえ


超能力的に言葉を超えた


瞬時に様々な事を見分ける能力があるから


具体的には伝わっていなくっても


何となく心で思う感情と同じ事を


相手も感じている事が多いと思うの


人は好ましくない事を思いながら


良い事を同時に表現する事は難しく


少しタイムラグが生まれてしまうと思うの


その何気ない瞬間に


人は何かを感じるものだと思うの


人はそれぞれに価値観を秘めているから


嬉しい事や正しいと思う事も


繊細なほど微妙な違いを持っているけれど


相手の喜びや幸せを心から願い行った事は


ちゃんと伝わるものだと思うの


時に深い部分では伝わっていても


受け取り手が


何でも否定する方向から見つめる癖を


持たれている方だった場合は


意識の上では


喜びや感謝を感じにくい事はあるとは思うの


昔から類は友を呼ぶという教えがあるけれど


自分が今繋がりあっている人を見つめる事で


本当の自分が見えてくる事も多いと思うの


私の知り合いの中に


多くの人間関係によって交友関係も多く


楽しい時間を過ごしている方がいるのだけれど


その方のお話の中でよく聞くフレーズがあるの


それは「自分が利用されているように感じる」とか


友達の要領の良さずるさなどなど・・・


その知り合いは一見


利害を求めず純粋な印象を受けるのだけれど


人によって付き合い方が


極端に違っているの


縁が深い人には甘えからなのか


気遣いがなくわがままを通す部分がよくあるのだけれど


「自分が利用されているように感じる」と


感じさせている相手には


少し過剰なほどの気遣いをされているの


私が見つめた感覚ではあるのだけれど


深い縁の方との間では


本当に利害関係がなく


心休まる時間で


でも何かを与えてくれる存在ではない事もあって


心が疲れた時の愚痴聞き役としてであったり


一人で過ごしたくない時にだけ


都合よく繋がりあえる存在として


ストックしているようにさえ感じたの


でも「自分が利用されているように感じる」と


感じさせている相手は


社会的なポジションから


色々な人との出会いを与えてくれたり


自分だけでは体験できない


ワンランク上のライフスタイルに


ふれる機会を与えてくれて


何となくその方たちと一緒にいる事で


自分にないものを満たしてくれるような感覚があるからこそ


心に違和感を感じても


繋ぎとめているんじゃないのかなって


映る事があったの


自分は要領も良くないしずるさはないという前提で


だから合わないと表現していても


やはり類友で


その知り合いも同じ部分が多く秘めているから


その縁を繋ぎとめているんじゃないかなって


感じたり


深い縁で繋がる


自分の都合に合わせてくれる友人はもしかしたら


知り合いが「自分が利用されているように感じる」と


感じさせている相手にもつ感情と


同じものを感じている事もあるんじゃないのかなって


感じていたの


このような事って誰にでもあるのだけれど


自分の事は近ずぎて見えず


人の事は良い距離感があるおかげで


はっきりとわかると思うの


そう思って見つめてみると


自分が不快に思う相手は


表現や形は違っていても


自分と同じものに嫌悪感という形で


反応しているだけの事も多いと思うの


本当に合わないものは


同じ時代や同じ地域にいても


話す事も見かける事もなかったり


たとえ何気ない縁で出会っても


縁が深まらないものだと思うの


今私は日々フィットネスクラブで


過ごしているのだけれど


たくさんの人がいて毎日のように顔を合わせても


一度も話した事がない方もいれば


特に何か意味があるわけではないけれど


自分はここにいるよって手を振りあう人や


自分の日々の出来事を話し合う人など


互いに選んでいるわけではないのに


気づけば


同じ空間で過ごしていても


引きあう人とそうではない人がいるの


それは人間が持つ超感覚的な能力を


無意識に使い


過ごしているからだと思うの


その超感覚的な能力は


あくまでも自分の人生にとって


良いと思うものを見分ける能力だから


その超感覚的な能力から生まれる感覚は


誰にでも当てはまる価値観ではないと思うの


その事を心に置いておくだけで


相手のためになったり


自分のためにもなったりしてくれるんじゃないかなって


感じているの