2012年6月





私は数年前から


自分の思いをどんな時にも大切に


表現する事を


意識して頑張っているのだけれど


やはりなかなか難しくって


断りたい事にYESと答える方が


NOと伝える事よりも


今でもやっぱり簡単なの


でも心の重さは


時間差では同じになるのだけれど・・・


このなかなか変えられないクセを


ほんの少しでも変えたい思いながらも


できない理由をきちんと知りたくって


心穏やかで静かに過ごせる時に


瞑想しながら


ゆっくり答えを受け取っているの


初めのうちはこの流れを肯定するかのように


「人と仲良くするには時に我慢も必要」とか


「自分を頼ってくれているのだから」とか


「以前自分が困っていた時に助けてくれたから」などの理由から


何となく自分の表面にある


思いが溢れてくるのだけれど


それからさらに深く瞑想が進むと


「本当の自分を表現すると誰も自分を


きっと受け入れてはくれないかもしれない」などの


もっとも自分が恐れている


キーワードに出会うの


いつからなのかはわからないけれど


深く刻まれたその思いが


人間関係の中で


いつも一番初めの答えを選ぶ


検索キーワードになっているような気がしているの


そして自分の表現や行動によって


誰かが傷ついた事を感じてしまうと


たとえ自分の思いが遂げられても


心から喜べず


人が感じる心までもが


自分の責任のように感じて


持つ必要のない罪悪感を感じてしまう所が


あるの


でもその様な流れは


本当に相手にとっても


自分にとっても愛情から生まれた


答えになっているのかなって


考えてしまうの


誰もが自分を笑顔にする


権利と義務を秘めていて


自分と繋がりあう方たちが自分を幸せにするために


選択した事を優先するように


自分自身にも同じ権利と義務があるのに・・・


ここ数年色々な事を手放し


人生をシンプルに見つめるような


時間を持つ中で


言葉では上手に表現できないのだけれど


人生の中の心曇らせる事も


不安も自分がそれを無意識に


わざわざ維持しながら努力している


矛盾を感じた事もあったの


その理由の多くの場合は


持つ必要のない罪悪感や孤独感や疎外感を


感じずに済むだけのために


ただそれだけのために


自分の大切な多くの時間を


自分ではなく自分以外の誰かの反応や動きに


意識を注いでいる事も


あるように


感じたの


私たち人間は


自分の心のお天気によって


たとえ相手がどんなに優しさから


手渡してくれた事でも


そう感じない時もあれば


逆に相手は深く考えずに


表現した言葉であっても


自分が光に満ちていれば


何でも良い方向にとらえる事が


出来たりする事を思うと


受け取る相手が決めるものなのだから


自分の中で正しいと思う選択を


できるように


してゆけばいいんじゃないのかなって


感じているの


それにいつもYESしか表現しない方は


自分が努力してそうしているのにも関わらず


周りからは心が見えず信頼できない人に


映っている事もあると思うの


私自身


独身の頃


とってもお世話になった方がいて


感謝と恩をいつも感じていた事もあって


その方がその後


精神的な病になった時


私が出来る事をさせてもらえたらと思い


おうちに行っては


家事をしたり


彼女に頼まれた雑用をしていたの


ただその様な時間が長くなってくると


私のライフスタイルにも


様々な変化があって


自分の人生を整えなければならない時期を迎えていて


初めての一人暮らしやパートナーとの時間など


今までにはなかった時間が届けられたの


それでも毎日お世話になった彼女から


電話をもらうたびに


駆けつけていたのだけれど


私の心が以前一人だった時とは違うのを


感じていたの


でもお世話になった方なのだから


恩があるのだからという思いと


もう2年間も彼女をサポートしたのだから


もう私の時間を持っても良いのではないかという思いが


時折クロスしていたの


ある日精神的な病によって


私には理解できないほどの不安を


日々感じている彼女にとっては


いつも誰かといる事で


安心し心が安定できる事もあってなのか


だんだんと彼女が望む事がエスカレートしてゆき


他の予定があるからと私が断ると


その予定が終わる時間を聞くので


そのあとはパートナーが家に来るからと答えると


「私は気にしないから家に言ってもいい?


隣の部屋にいるから」と尋ねてくるようになって


本来ならば


自分の人生を大切に考えてきちんと


距離を持てるように伝えるか


もしくはご縁を卒業するものだと思うのだけれど


私がとっても困っていた時に


助けてくれた人だからという思いから


簡単には関係を変えられずにいたの


でも私にとっては


このような事に近い事が過去にもあって


毎日毎日一緒にいたがる友人がいたので


特に不快には思わなかったのだけれど


悩んでいた私は母に


何気なく相談してみると


母は


「恩返しって難しいんだよね


どこまで返し続ければいいのか・・・


私はもう十分やったと思うよ


その人の心が健康だったら


恩返しするあんたの事を思いやって


違う行動をすると思うけど


その人が今いい状態じゃないから


頼れる人にずっと頼っていたいんだと思うんだよね


そんな状態が続けば


あんたの人生もなくなっちゃうんじゃないの


もういいよ」って伝えてくれて


私は罪悪感が広がる事なく


彼女と距離を持つ言葉を


伝えるようになったの


そうする事で彼女は別の一緒にいてくれる相手を探し


その方が限界を迎えると


また違う方を探すという


流れで過ごしているのを


人づてに聞いたの


その体験から色々な事を学んだの


私は人の人生を背負うほど


大きな力もないし


行動や表現とは別に


心の中はそんなに良い人ではない事も・・・


でも自分の意識とは別に


「よくがんばったね


やっと元の軌道に戻ったね


自分の人生を後回しにしてまで


行う事は


正しい選択ではないんだよ」って


どこからか伝えられているかのように


その言葉が全身を包んでいたの












私たち人間は


歩みの中で高度に自分の心を


コントロールできるようになっていて


時々ふっと感じる罪悪感までも・・・


たとえば私たち日本人は


優しさや思いやりの教えから


様々なものに及ぶものすべてに


つい罪悪感を重ねてしまいやすく


その罪悪感を感じないために


色々な方法を


それぞれの方が持っていると思うの


たとえば私たち日本人の中には


物を大切にするという教えがあって


時に今の自分に必要のないと感じる物があっても


なかなか捨てる事が出来ず


それでも手放したい時には


リサイクルショップに持ってゆくなどする事も


あるかもしれないけれど


手間暇がかかるという事もあって


誰かに手渡す事もあると思うの


その事によって罪悪感を感じる事なく


物を手放せて


誰かが喜んでくれたなら


こんなに良い事はないと思うの


ただ相手が本当に喜んでいるかは別だと思うの


私の友人の中には


たぶん物を手放す事に


必要以上に罪悪感を持ってしまうからなのか


賞味期限ギリギリのものや


時には数日過ぎたものをよくくれる友人がいて


それも私には気遣いする必要がないから


そういうものを持ってきてくれるのだとは思うのだけれど


当日食べられない時には


もらった私が捨てる時に


罪悪感を感じ


そのたびに彼女は無意識なのだと思うのだけれど


物を受け取るというよりも


彼女が罪悪感を感じずに済む代わりに


私がそれを手渡されているのを


時々感じるの


人は自分で罪悪感を感じるのが


とっても辛いと感じる方は


つい無意識に誰かにその感情を消化してもらうために


相手に手渡している事もあるの


たとえば何か予定している事があて


「どうしたらいいと思う?」って尋ねる事があるけれど


ほとんどの場合


どうするかは決めていて


ただその選択を自分が決めたと思うと


心に大きな負担や責任を感じてしまう事から


誰かにその重さを


手渡してしまう事があると思うの


罪悪感って


周りからの否定や批判などとは違い


自分の内にいつも寄り添う感情だから


長く続いてしまうと


とても耐えられない事もあって


その感情を避けるために


多くの人が様々な方法を受け取ってきたんじゃないかなって


感じているの


そして罪悪感を感じる部分は


集合意識で感じるものと


それとは別に


この世に誕生した時から


様々な方との出会いによって


刻んできたものもあって


とっても繊細で複雑だと思うの


たとえば礼儀正しい方は


罪悪感を感じる部分も広く


誰かから頂き物をする事にも


躊躇される事もあると思うの


プレゼントを頂くのは嬉しい事だとは思うのだけれど


日々忙しく過ごされている方にとっては


お礼やお返しの事をいつも忘れずに


そのタイミングを考えならない事が


とっても重荷になっている事もあると思うの


それがやがて負担となって


自分が思う礼儀の沿えていない自分に


変な罪悪感を感じられたり・・・


そんな複雑な思いを秘めながらも


言葉では短くストレートに表現してしまい


誤解される方もいたり・・・


私は社会経験がない事もあって


常識をあまり知らない部分があるのだけれど


そんな時周りの人たちの何気ない会話から


人ってこう考えるんだ~って


学ぶ事があって


以前友人が知り合いに何かを贈ったらしく


その後何度も話す機会があったのに


その事にふれる事なく


寂しかった思いからなのか


「あの人って常識ないと思わない?」という


表現を聞いて


つい非常識な私は


「そんなに気になるならあげないほうがいいじゃない?


相手も忙しいんだよ


私みたいに暇な人は


一つの出来事を覚えてられるけど


考えなければならない事がいっぱいの人にとっては


贈り物も負担になるんじゃない」と


表現してしまったの


今の日本ではありがたい事に


多くのものは自分で購入できる経済を持っていて


誰かに要求する必要がなくなっていると思うの


それでも贈り物が嬉しいのは


相手が自分のために選び


そこには何か見返りの要求を感じずに


受け取れるから


単純に喜べるものだと思うの


そして自分のタイミングで


お返しという意識ではなく


感動したものを共有したい思いから


その物を贈ったりできるようになると思うの


最近仲良くなった友人がおうちを新築した事もあって


お誘いを受けた時


彼女は「ケーキとか高価なてみやげ禁止だからね


私そういう付き合い続かないから。


もしどうしてもっていうなら


スーパーとかの袋菓子買ってきて


それも2個までね(笑)」って伝えてくれたの


その時彼女は私と長く親しくしたいと


思ってくれているのと同時に


何かを受け取っても


お返しを考えて負担になる方なんだろうなって


感じたの


私は常識を持ち合わせていない事もあって


頂いたタイミングで


相手が望むお礼をさせていただいてはいなく


本当に常識がないんだなって(笑)


思われた方もいるとは思うのだけれど


形だけでお返しをするのが


何となくできない私にとっては


ちょっぴりずれずれのタイミングでのお返しに


なる事も多いのだけれど


その物を見るたびに


感謝という祈りにも似た思いは


いつも感じているの


もしも何かを誰かに手渡したのに


自分が望む見返りがなく


当初の思いが消えそうになっている方は


人に与えられる豊かさがある自分を喜び


手渡した相手からだけではなく


別の形で見返りとなるものが


与えられている事を


再確認してみるといいんじゃないかなって


思うの


そして見返りを期待している


自分の心を責めたりせずに


過ごす事が


大切なんじゃないかなって


感じているの











私たちは時々


ふっと夢見ている事や


望んでいる事を


何となく人に表現してしまうと


笑われてしまうのではないかとか


え~そんな事考えているの~って


自分の人格的な事を誤解されてしまう事を怖れて


あまり誰かに話す事はないと思うの


確かに自分の中でイメージするだけでも


脳は現実とイメージした事の区別がつかず


それに近い出来事を


引き寄せてはくれるけれど


もっと早いスピードで形にしたい時には


それにプラスして


出会う方に話されると


自分の予測を超えた場所から


望む事との縁がもたらされるんじゃないかなって


思うの


本来人間は


人が笑顔になる事が


自分の幸せになる事を知っているから


何気なく聞いた


知り合いや友人が求めている事や


望んでいる事を


無意識に心のストックしていて


その事に繋がりそうな事を見つけると


その方のために力になりたいと


縁を結んでくれたり


情報を教えてくれたりすると思うの


言霊ってとっても力を持っていて


自分の内側から


外に放たれた瞬間から


自分が見えない場所でも


言霊は


流れて行くものだと思うの


今までの歩みを


ゆっくりと見つめてみると


多くの方が必ず


何気なく自分が表現した事を


誰かのおかげで


思いもよらない形で


叶えられた経験を持っていると思うの


特に女性は


小さなコミニティで過ごしているとはいえ


何気なく話す会話の中に


あらゆる情報が織り込まれていて


ほんの少し共に過ごしただけで


今話題の事・身近な情報などを


短い時間で手渡しあえるくらい


色々な事にアンテナが張り巡らされている事もあって


何気なく表現した言葉に


すぐに繋がる情報やヒントを


与えてくれる事も多いと思うの


私自身もそのような事は


日々あって


人が秘めている情報や繋がりに


驚かされているの


たとえばこの間何気なく


最近自分がお部屋を整理していて


ブラウン管テレビや家電を処分するの考えると


費用がかさむ事もあって


無理とは思いながらも


会う方あう方にその事を話していたの


初めはみんなも


「無料なら私だって捨てたいわよ」って


ちょっぴり無理っぽい表現が


続いていたのだけれど


それから数日後


無理だと表現されていた方と会った時


「この間友達と会った時


その友達が遠くに引っ越しする事になって


色々引き取ってもらった話をしてて


その時あなたの事思い出してさ


聞いたら


その人は知り合いだったから


無料で引き取ってもらったみたいなんだけど


その人がもしよかったら


うちに持ってきてくれたら


処分してあげるっていってたよ」って


信じられない形で


何気ない望みがかなったの


もしもこの出来事も


ただ私が無理だと思い


心に秘めていただけでは


こんなに早く


望む事が叶えられたかどうかは


わからなかったと思うの


この出来事は人生の中では


とってもとっても小さな出来事ではあるけれど


どんな出来事であっても


こんな風に言霊が自分の元を離れた後も


動き出して


その答えや情報を連れて


自分の元に戻ってきてくれると思うの


脳はイメージした事と現実の区別がつかず


イメージの範囲で


疑いを持つ事なく


現実のようにインプットできる方は


外の世界にアクションを起こさなくっても


良いかもしれないけれど


やはり私たち人間は


長い歩みの中で様々な経験や知識を持っているから


どうしてもその範囲を超えて


あらゆることを可能だと思い込む事は


少し難しいと思うの


そんな時


言霊の力を借りてみるといいと思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


言霊の場合は


表現しながら


自分の意識の中でたとえ無理かもって思っても


イメージする時とは違い思いとペアではなく


言葉は言葉として独立して動き出すものだから


よく精神世界で語られているように


願う事が叶ったとイメージし思い込む事で


願いを叶えると伝えられている方法が


ちょっと難しいかなって


感じる方は


言葉の力を借りてみるのもいいんじゃ


ないかなって感じているの


たとえば私たちは時々


大人としての振る舞いの中で


心曇る時や何か考え事がある時


ちょっぴりがんばって


笑顔を作ったり


周りを気遣い楽しげに振舞う事があるけれど


不思議なもので


気がつくと心が晴れていたり


本当に笑顔になっている事があると思うの


それはきっと言葉の力が作用して


自然に言葉にフィットする


自分になっていったからだと思うの


言葉は大きな力を持っているから


どんなに月日が流れていても


嬉しかった言葉や傷ついた言葉が


何かのきっかけで思い出すくらい


言葉はすごいパワーを持っているものだと思うの


何となく自分が望んでいる事を


人に話すのは


ちょっぴり勇気が必要かもしれないけれど


同じ空の下で


必ずあなたの力になりたいと願い


そうなれる日を待ち望んでいる方が


いると思うの


その方自身も


まだそれが誰なのかは知らないまま・・・









この間友人と会った時


友人が友達に会おうと電話をかけた話になって


その時友達が


「今日は本を読みたいから・・・」と


誘いを断った話を聞かせてくれたの


そして友人は少し怒った口調で


「それっておかしいと思わない?」と


私に尋ねてきたのだけれど


友人が怒りの中で私に


共感を求めているのを感じた私は


別におかしくはないんじゃないのって思いながらも


「う~んどうなんだろうね」と答えたの


怒りの中で共感を求めている時に


たとえ正しい意見であっても


「そうだよね」って共感してくれる以外の意見は


益々怒りを大きくしてしまうから・・・


言葉では上手に表現できないのだけれど


でも私はとっても感じたのは


私の友人は自分では気づいていないかもしれないけれど


許しのエネルギーが溢れていて


無意識に人の心をありのままの姿にできる


力があるから


相手がストレートに表現しただけ


なんじゃないのかなって


感じていたの


人は無意識にふれあう人によって


接し方・話し方あらゆることを


その時々に応じて変えていて


時に友人の友達のように


誘いを受けた時


時に用事があるわけではなくっても


相手が理解しやすい


つかなくってもよい嘘や言い訳を考え


表現する事があると思うの


それは嘘を表現した方が問題なのではなく


相手が本当の姿になる事を許さない


空気感を相手から感じとってしまうから


ついそのような流れになってしまう事も


あるんじゃないかなって


感じているの


もしも相手が両親やパートナーだったら


きっと多くの方は


気遣いが少なく感じるかもしれないけれど


その時々


そのままストレートに思いを伝えられると思うの


それは無意識に相手が


自分をありのままにいる事を受け入れ


許してくれている事を


感じとっているからだと思うの


人はあえて誰かを傷つけようと


何かを伝える事は


本当に本当に少なく


現実は一つであっても


見方や受け止め方が違うと


好意的に感じられなくしてしまう事も


あると思うの


昔私がとっても親しくしていた方がいて


その方の物の見方や感性が好きで


共に過ごしていたのだけれど


少し心の安定期間が保てない方で


意見を求められるたびに


自分が思った事を表現したりすると


心のバランスが保てていない時には


自分が描く通りに私が受け答えしないと


「それはおかしいよ」から始まり


自分の正しさをh証明するために


周りと比較される機会が多くなり


その苦痛から解放されたかった私は


自分でも信じられないくらいに


その方といる時には


本当の事を何一つ表現しない人になっていたの


そんな中で私は


その方と会った帰る道


いつも自己嫌悪に包まれ


「なんて私って弱いんだろう」って


自分の事が好きになれずにいた事がったの


でも何かのきっかけで


その頃出会った方と話す機会が増えた時


私がありのままに自分を表現しても


怒りや否定の空気を感じず


違う意見を楽しんでくれている笑顔の人に出会い


その時ふっと


自己弁護をするわけではないのだけれど


嘘や言い訳を無意識に


強要している空気を出されている方の前では


多くの方が


つく必要のない嘘や言い訳を


優しさや思いやりだと思い


表現させられる事もあるんじゃないのかなって


感じたの


そう思って人々を見つめてみると


人間関係の中で


言葉によって傷つき過ごされた経験のある方の多くは


きっと人を許し受け入れる


エネルギーがオーラに転写されているから


相手が心開き


わざわざ嘘をつくたびに感じる


罪悪感を持たせることなく


付き合える方として


多くの方が感じているんじゃないのかなって


思うの


それはとっても素晴らしい能力なのに


多くの方は気づかず


時に自分はいつも


人から大切に扱われる価値のない人のように


誤解し


人間関係が辛く感じている方も


いるとは思うのだけれど


私たちは今日まで


様々な方たちと縁があって


その時々繋がりあった経験で知っているけれど


どんなにたくさんの人に囲まれていても


日々どんなに煩わしいくらいに


人付き合いがあったとしても


本当の心をストレートに表現できる人は


その中に一人いたならば


それはとっても幸運だと思うの


たとえ言葉では相手がリラックスするように


伝えてくれたとしても


急にそうはできないと思うの


そして時々感じる事なのだけれど


私たちの多くは


最も大切で大事に思う相手に


わかってくれるだろうという思いや照れから


優しさを表現せずに


過ごしてしまう事があるけれど


誰でもわかっていても


やっぱり愛情あふれた言葉を


手渡されると


本当に嬉しくって


人によってはそのたった一言によって


人生が支えられ


前に進めたりするくらいなのだから・・・


私たちに届けられる


現実はさほど変わらず


事実は一つではあるけれど


受け止め方や見方が違うと


その現実からその後繋がる事が


変化してゆく事があると思うの


それは私たちが持つ念のような思いが


引き寄せる事であったり


脳科学で表現されているように


自分が意識した事に繋がるものが


急に鮮明に見えてくるから


その時の思いが同じようなものを


無意識に選び取ってゆくように


色々な要素によって


一つの現実が人によって幾つにも


変化してゆくのだと思うの


そして私たちは無意識に


様々な暗示を日々自らかけていて


それは自分が参加せずに


見聞きしただけでも


スッ~と入ってきていて


その時意識的にシャットアウトしていなければ


潜在意識にしまわれていき


何か自分が選びとろうとする時


顕在意識に上ってきて


選択肢の一つになったりするのだけれど


いつも正しい使われ方をするわけではなく


何気なく人から聞いたり話したりした


誰かを批評したり批判した言葉も


同じスペースに納められていて


自分が何か答えを求めている時に


今まで蓄積した様々なささやきたちが


真実の答えを見えなくしてしまう事も


あると思うの


ただ私たちには素晴らしい機能が備わっていて


ある程度の数しか


様々なものを納めてはおけず


そのおかげで


古いものや思いだす必要がないものと


新しく入ってきたものが


同じ分野であった場合


自然に新たなものに書き換えられるそうなの


なのでたとえば今日から新たに生まれ変わろうと


意識して過ごそうと思えば


本当にそうできるようなの


私たちは誤った暗示や


時代や環境によって


自分にはフィットしない暗示が


一杯納められていて


自ら生きにくくしている部分も


あるんじゃないかなって


感じているの


この間読んだ書物に書かれていた事なのだけれど


たとえば私たちが誰かを褒めたとしたならば


それは相手のためだけではなく


耳から脳に伝わり


表現した自分に暗示を


かけている現象と同じなのだ


そうなの


相手の良い部分を褒めていると


自分の潜在意識の中にその言葉が納められて


自分が不安を感じたり悩んだ時


その言葉たちが


顕在意識に上ってきて


自分が表現した言葉という事を忘れていて


誰かにその言葉を手渡されたかのように


自分を励まし元気づけてくれるように


なるそうなの


もちろんその逆もあって


いつも無意識に人に噂話や批判などを


何気なくしているつもりでも


いざ自分が立ち止まる機会があった時


自分が表現した言葉だという事を記憶していない


部分から


自分が自分を否定したり


周りからこう思われるんじゃないかという


自分基準が作られてゆくそうなの


そう思うと


どんな現実であっても


良い方向に受け止める能力を


育んでゆく事が


何よりも大切なんじゃないのかなって


感じていたの