2012年5月





私はよく目的地はないけれど


どこかへ行きたくなった時


気がつくとふっとパワースポットに


足を運ぶ事が多いのだけれど


今回は今まで足を運んでいない場所ばかり


いくつも行ったの


そしてそのたびに感じたのは


パワースポットと言っても


その場所という広い範囲ではなく


ほんのちょっと移動するたびに


縁寝るぎーの強弱を感じ


パワースポットと表現されているように


パワーが溢れている


とっても狭く小さな範囲が


その敷地内にあるのを感じ


ただパワースポットへ足を運ぶだけでは


特に変化を感じられない方もいるんじゃないかなって


感じたの


そしてとっても不思議で面白かったのは


パワースポットに聳え立つ木々にも


個性があって


手を当てると両手がびりびりするほど


強いエネルギーを発しているものもあれば


ほどよくゆっくりと柔らかなエネルギーが


左手に感じるものもあったり・・・


エネルギーの流れは


左から入ってきて右手へ流れて行くから


きっと左手にエネルギーを感じる木は


きっと人間ととっても波長がフィットしていて


私たち人間にエネルギーを注いでくれる


癒しの木なんじゃないかなって


感じていたの


両手がびりびりする場合は


木のエネルギーを左から受け取り


右手から木へ戻すような流れだから


エネルギーがほしい時ではなく


心が曇っている時や思い煩う出来事を


忘れられずにいる時に


自分の体を新たなエネルギーで浄化してくれるように


感じたの


そして今回足を運んだ中で


今まで足を運んできたタイプの神社とは


まるで違う空気を感じた場所があって


なんでかな?って思いながらも


その場所で静かに過ごしていると


気がつくとパートナーに


「ここでは気軽に願い事はしない方がいいような気がする」と


言葉にしていて


それを聞いたパートナーは???だったのだけれど


私自身もわからないけれどそう感じるだけだったので


その感覚はとっても不思議だったの


神社や寺院や教会などに足を運びたくなる時って


多くはそこに宿るお力を借りたいと願う時が多いけれど


そこは心身が整わない時に


行く場所ではない気がしたの


ただそれは相性なのかなっとも感じたの


ただ神社で相性を感じたのは初めてだったの


そしてとっても興味深かったのは


一緒に行った人に


驚く様な急展開な反応があって


一人は数日後に会社でトラブルが生まれ


本来ならばその方が何かしたわけでもないのに


どんどん思わぬ方向へ進んで


そうかと思うと次の日には


自転車で事故に会ってしまい


「パワースポットにいたはずなのに


あれから良くない事ばかりで


怖いんだよね」って報告してくれたの


そしてもう一人は


急に自分の意識というのか内側に宿る


何かが変わったからなのか


急に好きな人が出来て


話を聞いてみると


今までならば好きにならないタイプの人のはずなのに


誰にでも宿り持っている


その人にしかない良い部分が見える


心の瞳をもったからなのか


あれだけいつも人の分析をしては


男女問わず人の好き嫌いがあった人なのに


その部分が消えている事に


私もそして何より


本人が一番驚いていたの


私はよくパートナーに伝えられる事なのだけれど


「ドライブ途中に鳥居を見つけると


すぐに反応するけど


急に車を止めてっていって


お参りするところと


俺が止まろうかって聞いても


通り過ぎていいよっていう違いって何?」って


尋ねられるのだけれど


私自身も答えられないくらい


感覚的なものなので


具体的に言葉として説明ができないの


今回昔から伝えられているように


何となく軽はずみに


足を運ばない方が良い場所もあるのかなって


何となく感じた


不思議な旅だったの











今よりもまだまだもっと未熟だった私はよく


自分の周りの誰かを見ては


「あんな風にはなりたくない」と表現したり


思ったりしながら


まるで自分はその人よりも恵まれ


優れているかのような


表現をしていた事があって


今思えばとっても恥ずかしく


何も分かっていないのは自分だった事を


感じる事があるの


誰も頼んでもいないのに


勝手に誰かの人生を査定するような表現をしたり・・・


でも本当は自分の幸せを自分で感じられていないから


自分の幸せを再確認する必要があって


自分の判断基準の中で


自分よりも幸せそうに映らない人を見つめては


その様な事をしていたんじゃないかなって


感じているの


でもその自分の中に合った価値観が


やがて誰よりも自分を傷つける時間が訪れるのだけれど・・・


人間はどんなに周りから


様々な価値観を押し付けられても


本当に自分がその事に


心重なる価値観を持っていなければ


傷つけられる事はないのだと思うのだけれど


自分の中に周りが表現する価値観に


自分も同じものを持っていると


その表現が何倍にもなって


自分が傷つく事があると思うの


私の場合は


母親になる人生が与えられなかった事もあって


その事について


様々な価値観を表現されるたびに


傷ついた時期があったのだけれど


それは私の中でその方たちを否定しながらも


そう思っている部分があったから


強くその表現を受け取り


忘れられなくなっていたんじゃないかなって思うの


私の友人の中には


独身の友人が多くいるのだけれど


表現する言葉はみんな「結婚だけが人生ではないし


縁がったらしたいな」と表現するのだけれど


時に周りからその事について触れられると


反応は様々で


怒りを表現しながら結婚についてのマイナス部分を


一生懸命に語りながら


自分の方が結婚している人たちよりも


優れた選択の中にいる事を表現する人がいたり


ある友人は本当に自分の中で


引け目や不安を持っていないからなのか


心揺れる事もなく


日々自分に与えられた時間を


どのように過ごすかでいっぱいだったり・・・


人は大人の階段を上る過程で


自分が傷ついていないようにふるう事が


上手になってきたけれど


それゆえに形を変えて


その傷の痛みを無意識に周りに


表現してしまう事があると思うの


女性の人生の歩みには様々なパターンがあるけれど


どのパターンもうらやましいと思ったり


かと思うとどれも大変そうに映ったり


本当は絶対的な幸せの基準ってないのにね


今健康が優れない方は


誰もが当たり前に備わっている


健康をもつ方がうらやましかったり


経済的に大変な時を過ごしている方は


ただ経済的に恵まれた方をうらやましいと思うけれど


それはある部分女性特有のバランス感覚が


生み出す感覚なんじゃないかなって


感じているの


私の周りの少ないサンプリングでしかないのだけれど


男性は仕事という太い柱が保たれている間は


他の部分が保たれていなくっても


そんなに気にならずにいる方が多いのだけれど


女性の場合は


小さな不満はあるにせよ


一般的なものすべてに満たされていても


そのどれもがバランスよく保たれているか


計るバロメータが備わっていて


どんなに周りから幸せだと教えられても


自分にしか分からない感覚的なものがあって


妻や母以外の一個人的な自分が


幸せに感じている小さなスペースがあると思うの


たとえ仕事で満たされていても


女性はそれだけでは満たされないものがあると思うの


私はよく温泉などに足を運ぶのだけれど


そのたびに女性一人でこられている方を


良く見かけるのだけれど


そのたびに


自分が作れる範囲で自分個人を感じる時間を


作られているんだろうなって


感じているの


女性はその環境に自分を合わせて活きて行く能力に


優れている事もあって


多くの場合


その時々自分が置かれたポジションを


瞬時に感じとり


それにあったふるまいの中


自分の心に蓋をして


周りのためにそして自分のためにと


過ごされていると思うの


時々女性同士で生き方に対して色々思う事があるけれど


ただただみんな自分を幸せにしてあげようと


一生懸命なだけで


その経過や行動がたとえ理解できなかったとしても


ただそれだけの事なのだと思うの


そして人生はトータル的に見つめると


そんなに大差はなくって


私たちが感じる幸せを持つ人がいても


その方にも見えない大変な体験はあったり


今笑顔に満たされない人も


バトンタッチするかのように


今まで笑顔だった方と体験時期が


入れ替わる事もあったり・・・


私が良く感じるのはそれぞれの方に


人生で果たす事が10あったとしたならば


その10がいっぺんに与えられ乗り越えなければならない方もいれば


10年~20年に一度のペースで与えられる方


様々なペースと形があると思うの


そして周りからはそんなに大変な事がないように映る方も


周りの判断基準とは別に


その方にとっては大きな大きな問題と


なっている事もある事を思うと


神様はその方が背負い乗り越えられる


大きさで


絶妙なタイミングで


私たちがこの世に誕生する時に約束した事を


果たすために


力を貸してくれているんじゃないかなって


感じているの








何にも才能も能力もなく


自分は平凡で・・・と思い込んでいる方にも


日々無意識に才能や能力を働かせて


今日と言う日まで


人生を歩んできたんじゃないかなって


感じているの


昔は能力と表現されるのは


経済と結び付く事で測られてきて


その物差しで自分を図ると


自分は・・・って


思われていた方もいるかもしれないけれど


2000年という新たな年を迎えてから


今までの資本主義の時代と並行して


スタートした精神性の時代によって


物差しの種類も増えて


今までは計れなかった


あらゆるものが計れるようになったkりがするの


たとえば今までの時代ならば


人との付き合いが上手にできても


その事に特別な評価はなかったけれど


今の時代は「コミニケーション能力」として


すべてのベースとなる


大切な能力として表現されるようになったり・・・


そんな風に見つめてみると


自分が意識していなくっても


能力に溢れていなければ


次々と年齢を重ねるごとに届けられる


出来事に対処しながら


今日を迎える事は出来なかったと思うの


時々思うのだけれど


結婚も能力の一つで


どんなに素晴らしいパートナーと巡り合い


結婚したとしても


日々小さな洞察・タイミング・許す心


過剰な期待をもたず


よりよい選択をするための能力が


連続的に結婚の中にはあって


その中でとっても難しい


人との調和をどんな状況でも保つのは


とってもすごい能力だと思うの


そしてその真逆のように映る


一人で過ごす能力も同じように


大きな不安やあらゆる問題を


先送りにする事なく


まっすぐに見つめる機会が多く与えられるのを


受け止めて


人生の責任を誰のせいにもする事なく


その時代の変化に応じて


経済的な基盤を保ち


歩んでゆくのも大いなる能力がなければ


続ける事は出来ないと思うの


どんな歩みの中でも


少しくらいならば人と過ごすのも


一人でいるもの


ちょっとした気分転換となるけれど


どちらも長いベースになると


才能や能力がなければ


続ける事は出来ないと思うの


よくメディアなどでは


昔からの価値観しか持ち合わせていない方は


難しい事が理解できない人を


レベルの上下を表現する時に


主婦というようなキーワードを


用いる方がいるのだけれど


そのたびに私の母はとっても


ストレートな人と言う事もあって


良く表現するのだけれど


「今世の中にいる人間すべては女から生まれて


働いてもいないのに


旦那から給料をもらって


好きな事をしてるって言うけど


好きな事するほどもらってないって(笑)


生活費を払ったら残るのはわずかだよ


そのわずかなお金で


何でもしてくれる人は奥さんだけなのに


こんなに偉い人たちでも


そんな事もわからないんだから


日本は良くならないんだよ」って表現していて


改めてそうだなって感じていたの


私自身


主婦いといっても長い間


パートナーの仕事の関係で


離れて暮らしている時期が長かったから


本当の意味で主婦のタイムスケジュールを


感じる事がなかったのだけれど


数カ月共に過ごす時には


今まで自分の思いつきで過ごしていた私も


相手のタイミングを自分のスケジュールに


何となく意識的に組み込み


時には色々忙しく過ごして疲れてしまい


小さな事ではあるけれど予定していた事を


キャンセルしたりしながら


私の場合は本来未熟者なので


やめる理由を探してしまったりしながら


相手に依存してしまうタイプなの


でも心は独立心を持っていて


相手の依存しているそんな自分を認められず


時には


「あなたがいるからできなかった」など


人のせいにしながら


できないのではなく


やらなかったと自分を慰めながら


どんどん自分で判断し


行動する事ができなくなった時もあったの


本来秘めている主婦の能力を活かし


人生を創造し過ごされている方もいるけれど


もっとも陥りやすいのは


自分さえ思いを押さえていれば


波風立つ事がないんだって思って


自分らしくいられる時間をもたなくなって


その様な時間が長くなればなるほど


自分の中から何も湧かなくなってきて


満足感も不満も何も感じなくなってしまうと思うの


ある意味で不満を感じるのは


まだ自分を見失っていない証だと思うの


女性の場合は


生まれた時からの名字が


結婚という新たなスタートと共に消え去り


円満なご夫婦を表す表現として


二人で一つというのがあるけれど


私が感じているのは


その考えが女性に大きな負担となって


無意識に自分の人生を相手の人生の


影のように寄り添い


メインでは考えられなくなってしまうんじゃないかなって


感じているの


結婚しても二人は二人だと思うの


ただ長い人生を平行に歩み


時にクロスしながら


力になれる事学ぶ事が多い相手と


過ごしているだけなんじゃないのかなって


感じているの


よく何気ない女性同士の会話の中で


「私は結婚に向いていない」とか


「一人で人生過ごしてゆくのは私には向いていない」という


キーワードがあるのだけれど


向き不向きは仕事や習い事などでは


自分時合ったものを選択するのに


必要な判断材料の一つになっているけれど


人生の大きな選択の中で選び取る


誰かと共に過ごす事や


一人で過ごす事には


どちらもずっと向いていると思えるときは少なく


向いていないと感じても


懸命に与えられた人生を


自分が納得できるように


整えているだけなんじゃないのかなって


感じているの


この間も独身の友人たちと話していた時


彼女たちは将来の不安について


話す時


必ず結婚している知り合いを


うらやましがったりする事があるのだけれど


独身の友人たちは


まだ訪れていない時から


予測して未来の対処法を見つけ行動しているから


一見


結婚されている方とは違う悩みや不安が


多いように映るかもしれないけれど


私はよく友人に伝えるのは


「結婚していると一人になるのに期間があるから


今すぐにその事を考えず後回しにできるから


リアルに将来の不安と向き合っていないけど


女性の人生は


どんな歩みでも考える事は


そう大差はないんだと思うよ


だからこれからも助け合っていこうね」って


伝えているの


今私たちの年代は


まるで違う歩みを選択してきたはずなのに


不思議と共感できる事が


若い頃よりも多くって


良い意味で力を抜いてつきあえる人が多く


年を重ねて手放すものも多いけれど


受け取るものも多いように感じているの


女性はどこかに所属していても


みんな一個人としての意識が働いている事もあって


その部分がいくつになっても


過去よりも強く美しくしてくれているんじゃないかなって


感じているの










良く精神世界の中では


自分の意識が目の前の世界に映しだされていると


伝えられているけれど


その言葉にうん・うんって共感すると同時に


私こんなこと考えた事もないけど?って


疑問に感じる事もあるの


人生では考えた事もないような


出来事が届けられる事もよくあるけれど


それはその人がステップアップするために


与えられている事だと思うと


私は答えを出せない時に


いつもしっくりするのは


今の自分に合った波動のものが


届けられるという事なの


でもそれも正しい確実な答えではなく


どんなに文明が発達し


優秀な人たちが神様の姿を所々見つけても


トータル的に完成したパズルにできないのは


神様がどんな選択・答えを出しても良いんだよって


答えを一つにしていないからなんじゃないのかなって


感じているの


私たちが今無意識に日々考え


心惹かれている事は


ネット検索履歴などを見ると


驚くほど気づかされるように


自分では意識していない部分で


今の自分の周りに映しだしていたり・・・


以前何かの本に書かれていた事なのだけれど


急にガーデニングに心惹かれて


色々とイメージして過ごしていたある日


何気なくいつも通る道に


ガーデニングのお店を見つけた


お話が載っていたの


そのお店はもう随分前からあったような


佇まいなのだけれど


毎日通っていた道なのに


今までなぜ気づかなかったのだろうと


不思議だったそうなの


でも人間の脳は瞳に映るものすべてを


まるで写真を写すように記憶しているけれど


そのすべてを全部意識して過ごしてしまうと


必要な容量がいっぱいになってしまうから


一旦しまいこまれて


必要になった時


自分の意識は忘れていても


記憶倉庫から適切なものを


ゆっくりと私たちに気づきという形で


偶然のように与えてくれているんじゃないかなって


感じていたの


長い人生の中で自分が意識しようがしないが


瞳に映るものを写真のように写したもの


すべてが記憶されていて


選択の時にはその記憶から


紐解かれてゆく事を思うと


自分が見たり聞いたりすることすべてが


今後の自分の人生の大切な


選択肢になる事を思うと


できるだけ自分の栄養となるものに


ふれていたいなって感じていたの


私は小学生の時6年間


特に意味もなくいじめを受けていて


その記憶がこんなに月日が立った今でも


時折・人間関係の中でふっと浮かび


自分を表現する事をためらわせたり


かと思うと中学生の時には


その反動もあってなのか


威圧感溢れる存在となり


言葉の表現はあまりよくないけれど


人を思うように動かせた体験があるからなのか


時に感情的になり


その様な流れで自分の思いを


遂げようとする時があったり・・・


自分の中の選択肢が


そのようなものしか選びとれないから


そのような場面でそのような


行動をしているのだと思うの


でも年を重ねるごとに


ありがたい事に自分を


理解してくれようとしてくださる人や


私も感じていない


私の中に宿る光を


教えてくださる方の存在によって


同じような出来事が届けられても


私の中の選択肢は


新たなものが増えたせいなのか


以前よりも冷静に


小さな勇気の芽生えによって


新たな答えを導き出す事が


出来るようになったの


一見


すべてを自分の性格だと誤解しているけれど


性格ではなく


自分の中にある選択肢よって


答えが様々あったりして


その方の歩みの中で受け取ってきたものによって


感情がそれに重なっているだけなんじゃないのかなって


感じているの


そしてどうしても新たなもので


書き換え更新に時間がかかる


出来事もあると思うの


私の母や親友は


両親が自ら人生をリタイヤし天国へ


若い年齢で旅立った事もあって


その年齢までしか


自分たちの人生はないような恐怖を持っていたのだけれど


何十年もの間その恐怖を抱えながらも


その年齢を超え


その恐怖は和らいだのだけれど


今度は親から受け継ぎ


秘めていた精神的な病が原因で


自分も同じ選択をしてしまうのではないかと


新たな怖れが生まれたようなの


何かに悩みが生まれるたびに


「やっぱり」って感じる事もよくあったみたいなの


でも母や親友がやがて本当の意味で


親を超える時期が訪れたの


それは親が出来なかった


良い意味でいい加減な自分になる事で


超えられたの


母や親友は自分なりのバロメーターがあるらしく


これ以上考えたら大変かもとか


体調などによって


落ち込む前に兆候がわかるらしくって


そう感じた時には


すぐに今自分がしたい事を何よりも優先し


過ごすようにしているそうなの


母の場合は大好きなお菓子をたくさん買い込み


大好きな本を古本屋さんで探しに行き


せんたくものもお掃除も


「今日じゃないくっても明日でいいんだ」って


自分を許し言い聞かせながら


部屋にこもって過ごすらしいの


親友は家にいるとあれこれと考えてしまうから


すぐに外に出て映画を見たり


おいしいものを食べたりして


それでもやらなければいけない事があると


もったいないかなって気持ちはあるものの


「今日はしたい事だけをする」って決めて


業者さんに大切なお金お支払って


してもらうそうなの


その事で一旦は母も親友も


自分が我慢してやっていればかからない


お金を使う事にはなるのだけれど


その対価は別の大きなものとなって


返ってきていて


親友は病院へ通う事はなくなり


いやなことを我慢して行う事のリバウンドで


必要のない部分に多くの経済が


注がれていた部分解消され


受け取る報酬が減ったはずなのに


今の方が豊かに過ごしていたり


母もささやかな自分に戻る時間をもことで


いつも会うたびに


楽しいお話が出来ているの


その事でご近所の方とも良い関係が


保たれているのか


楽しげに伝えてくれるの


母と親友の姿を見つめならが


改めて人生は自分で作ってゆくもので


時に周りから快くない言葉を伝えられても


その人それぞれに合った


問題と向き合う姿勢があるのだから


周りには理解は難しく


自分にしか分からない事もあると思うの


どんなに近くで過ごしていた私でも


本当に深く理解しているかと問われれば


きっと愛情から理解したい思いだけで


わかる気になっているけれど


わからない事もいっぱいあると思うの


私にはそんなに大きな深い悲しみを受け取る体験はないから


当事者的な場所からの理解は難しと思うの


ただ母には感謝していて


母が親を超えて人生の影を解消してくれたおかげで


私が母と同じ大きな悲しい体験を


する事なく過ごせたのだから・・・











今年は瞑想の中で


個人個人


違う形ではあるけれど


予想を超えた出来事と出会う年で


予想を超えた出来事が届けられ


自分がコントロールしていた枠から


良い事もそうではない事も


解き放たれてゆく年になると


受け取ってはいたのだけれど


私の周りでも急な転職・急な引っ越し


急な人間関係の変化など


自分の意志とは別に与えられているの


初めは予想していなかった動きに


小さなパニックと不安が生まれるのだけれど


その後自分から生み出した答えによって


この急な展開が


自分では怖くって選択しなかった


良き流れへのためのものとなっているようなの


急な転職を与えられた知り合いは


初めのうちは大きな不安と戸惑いで


どうしてよいのかわからずにいたのだけれど


元々秘めている行動力が目を覚ましたのか


日頃はのんきな彼女が


数日後には自分がどのような暮らしになっても


動揺する事がない金額の住まいを見つけ


最小限のもの以外は手放し


仕事がなくなった事を


与えられた時間と考え


今までずっと足を運びたかったお伊勢参りに


行く事にしたようなの


急展開が与えられた当初の曇った表情がうそのように


スッキリとして


今までのお付き合いの中では


見た事がないほど輝く笑顔だったの


知り合いは独身で一人で生きて行く事を


予測して安定剤となる経済を満たす事だけに


過ごしてきていたのだけれど


今回の出来事で


「一般的な生き方の私が絶対に不安を感じない金額を


貯めるのは難しい事を感じたの


幸せって日々の中にあるんだなって


今回の事で感じたの」と表現していたの


彼女が何気なく語る夢と


現実の過ごし方は今まで


遠く叶わないもので


自分が望む事を選ぶ不安を考えると


今の仕事をやめる事は考えられなかったと思うの


でも今回のように自分の意志では


怖くってできなかった事も


半強制的に周りから与えられた事で


良い意味で開き直る事が出来て


今までの人生を考え直したそうなの


その事で彼女が一番傷ついたのは


親しかった人たちの反応で


たまたまその方たちが


今回の事で会話の流れの中で


「この年で色々手放すのは大変よね」と


心配してくれているように言葉は表現しながらも


大変という部分は惨めよねと


言われているように感じるような


ニュアンスだったり


「自由を謳歌して楽してきたんだから・・・


こうなる事は独身ならわかる事でしょ


結婚している人たちは


そんな事を予測してみんな結婚しているんだから」と


自分以外はみんな未来を予測して


生きてきたのに


あなたはこんな事もわからなかったの?って


問われているような


複雑な思いに包まれたそうなの


でもあらゆるものから解き放たれた彼女は


自分の隠されていた感情にも


まっすぐに向き合える準備が整っていたのか


自分が今までのライフスタイルを


変えたいと思いながらも


変える事が出来なかったのは


自分自身も周りの方と同じ思いを持っていたからで


周りからそう言われる事を


何よりも怖れていたからだと感じたそうなの


多くの女性は


様々なコミニティで過ごしていても


一個人としての意識を失わない部分がある事もあって


自分の満足以外にも


周りに幸せに映る自分も


意識してしまう部分があると思うの


美意識・持ち物・あらゆるもので


瞬間的にでも


幸せそう・うらやましいって映る自分を


演じる所を秘めていると思うの


でも時にはそんな部分が


今よりも前進する力になっていたりもすると思うの


ただ物事が思うように運ばない時には


演じている自分が大きな負担になってしまったりも


すると思うの


私が良く感じるのは


人生ってぬりえのようなものを


この世に生まれてくる前に秘めて誕生し


その絵はそんなに大差もなく


薄く描かれた下絵のようなものだと思うの


なので大きく絵を変える事は出来ないものだと思うの


それは与えられた自分には意味のある


時代の一部分のパーツでしかないけれど


色づけは自分に許された自由な色が


描いてゆけるもので


同じ絵でも色が違うだけで


まったく違う印象のものになるように


その分が自分らしさや人生の違いだと思うの


そう思って見つめてみると


なぜこうできないのだろう・・・とか


なぜあの人のようになれないのだろうって


思う感情は


自分の努力が足りないからでも


運がないからでもなく


そんな時には自分に許された色づけの時期ではなく


ただ与えられた絵をなぞる時期を過ごしているだけだと


思うの


そんな時にはたとえどんなに努力を重ねても


コントロールできないものなんじゃないないのかなって


思うの


私たちに大切なのは


今がどんな時期なのかを感じ受け取る事


なんじゃないかなって思うの


もしもそうする事が出来たならば


無駄に自分を傷つけたり


周りのせいにする事も


少なくなると思うの


地球上では人間がコントロールできないくらいの


生命をもつものたちの物語が


日々描かれていて


ミクロで見つめてみると


それぞれの方がドラマチックに


喜怒哀楽を人生の彩りとしながら


過ごしていると思うの


眠たくなるほど何もない人生を歩んでいる人は


誰ひとりとしていなくって


周りからは測れない幸せ・悲しみがあると思うの


私たちが目指すゴールは


どんな形であっても


自分らしく日々過ごし


自分らしい幸せに満たされる事なんじゃないかなって


感じているの


誰かがいなければ自分の幸せを再確認できない


そんな幸せではなく


自分が自分を幸せだと


感じられる時間が多くあれば


たとえなにひとつ誇れる自慢できるものを


持っていなくっても


この人生では成功者なんじゃないのかなって


感じているの








どんなに色々な経験を重ねてきて


たくさんの事をわかった気でいても


その年齢にならなければ


学び気づけない事も


あるのかなって時々ふっと感じるの


その多くは頭ではわかっている事でも


実際に行動したり


体験する事で


頭の中で考えるものを


遥かに超えた感情が生まれる時だと思うの


たとえばスタンダードに考えると


両親は自分よりも先に天国へ旅立つ事を


誰もが感じ知っているけれど


実際にその体験が届けられて見ると


思っていた以上に


様々な感情が溢れてきたり・・・


たとえそんなに仲が良かった間柄ではなくっても


遠くでも生きていると思って


無意識にその事が支えであった人にとっては


何をしてくれるとか


会う回数とかでは測れない


掛け替えのない存在がいなくなった事で


一時的に心身のバランスを


保ち事が難しく感じたり・・・


よく偉人の言葉で


失った時


そのものの大切さに気づくとあるけれど


私たち人間は賢く


頭の中であらゆることをシュミレーションし


来る出来事に備え


自らを整えてはいるけれど


それでも耐えられないくらいの事って


体験して初めて知る事も


多いんじゃないかなって


思うの


それは人生の中でまだ気づいていない大切なものが


私たちの中にはあって


それはなくして初めて


その大きさに気づいてゆくのだと思うの


代わりになるものは見つけられなくっても


ありがたい事に


私たちの人生は失うばかりではなく


その事で得られる事もまた同じ大きさのもので


与えられているから


人生を続け歩んでこられていると思うの


人間って繊細だけれど


ある部分大胆なくらい割り切って


忘れるという最大の能力を使ったり


映る自分は弱くっても


いざとなると自分の想像を超えた強さを


目覚めさせて決断・行動したり


自分と向き合ってみると多くの方は


自分の勇敢でたくさんの事が出来る


個性と能力がいっぱいの


自分に驚かされると思うの


日々秘めている能力は


使う時に初めて目覚めるから


その時に


初めて本当に自分と出会う方もいると思うの


たとえば母親として


守りたい天使と共に過ごされている方は


時に自分が望んでいないはずの


悪役を自ら守りたい天使のために


演じる事もあったり


大好きで大切な天使に嫌われても


天使のために


自分が自分を好きになれない事を


選択する事もあったり・・・


でも計りきれない深い愛情から


犠牲ではなく


そうする事の中にも


喜びを見つけられたり・・・


通常の人間関係の中でならば


できなかった・感じなかった


自分の中に宿る深い愛情にふれ


改めて親の感情に自分を重ね


今まで持つ事のなかった


大きな感謝が生まれる方も多いと思うの


その逆に恵まれた天使を見つめながら


何で私の親はこうしてくれなかったんだろうって


忘れていたわだかまりが


表面に現れ溶かす時期を迎えたり・・・


親世代も


子育てを終えて心にゆとりが生まれ


そんな中で後悔と反省


そして今の自分が出来る事を考え


孫として新たに存在する天使たちに


自分の子供にはできなかった愛情表現を


手渡してたり・・・


その年を迎えなければ気づかない事も


いっぱいあると思うの


だからといって若い世代に


今の自分が気付いた事を


よかれと思い押しつけても


まだその時期を迎えていない年代には


不必要な知恵で


他にも学び気づく事のスペースを


作れなくなってしまうから


自分は自分のために気づいた知恵を


活かしてゆく事が


大切なんじゃないかなって


感じているの


大人は自分が歩んできた道を伝える事で


大切な子供たちが安全に


人生を渡れるようにと


様々な知恵を手渡す事があるけれど


その子が受け取る準備が整ってないければ


風のように流れる音として


言葉を受け取る事は難しいと思うの


そんな時よかれと思い伝えている親世代は


大事なことなのだからと


流れる音のように聞いている子供に


初めの感情を忘れ


聞いてるの!って怒りが溢れて


気がつくと聞かない子供たちの


あらゆることを否定してしまい


益々子供が心を閉ざしてしまう事があると思うの


そんな風な親子関係でも


何も心配する事はなく


不思議なもので自分たちもそうだったように


社会の中で様々な人たちに出会い


その中で自分を見つけ


その年代に応じた


気づきや学びの中で


やがて親に大きな感謝を生み出す


存在へとなってゆくものだと思うの


私自身も幼い頃


若かった両親は仕事が忙しく


空いた時間は遊びたい時だったからなのか


子供だけを家に残し


まだ子供だった私は


不安と同時に


周りのあたたかな家庭を見るたびに


うらやましかった事があったけれど


今の年齢になると


許せる事も多いの


というよりも


許し方がわかるようになったように思うの


許さないってことは


とっても大変な事で


何よりも相手だけではなく


自分の人生にも大きなダメージを


与え続けてしまう事だから・・・


そして変えられない事にこだわるよりも


今の両親との付き合いを見つめ


大切にしたいと思ったからなの


でもそう思わせてくれたのは


何より両親だったと思うの


私が感じているよりも


両親が穏やかに過ごせる年代を迎え


その中で過去を見つめ


新たに私とのつきあいに


あたたかなわかりやすい愛情を


照れずに表現してくれるようになったから


だと思うの


親子ならば何度でも


人生を改めてスタートできる


機会を互いに待ち与えあえるものだと思うの


だから今子育て中で


今の自分が与えられるものを


がんばって詰め込もうとしなくっても


その時々必要な時期に


サインを送ってくるものだと思うから


そのサインをキャッチしてあげられるように


見守ってあげる事が


何よりも大切なんじゃないかなって


思うの







何となく物事がスムーズに流れている時には


特に運というものを意識する事もなく


過ごしているけれど


一変し運の流れがちょっと・・・って思う時には


急に瞳には映らないエネルギーを


意識するものだと思うの


そして自分が出来る事・知っている範囲で


良いと思い事・運が上がる事を


いっぱい行うものだと思うの


でもなぜだか一向に変化がなく


心が迷路に迷い込んだように


どうしたらよいんだろうって


自分で何一つコントロールできないような思いが広がり


無気力になってしまう事があると思うの


でも私が思うのは


そんな時ほど


今後のために今の過ごし方が大切なんじゃないかなって


感じているの


言葉では上手に表現できないのだけれど


私たちの人生は自分が行った善による徳の積立を


自分での意識で使う場面を


選ぶ事が出来ないのだけれど


運の流れが何をしてもスムーズな時には


小出しに注ぎこまれているんじゃないかなって


感じているの


そんな時でも意識的に徳を積んでいるような


過ごし方をしていたならば


急激に運の変化を感じる事はないかもしれないのだけれど


私を含め人間というものは


自分の人生が良き流れになって安定した時期には


当初の運の上昇への感謝も忘れ


何となくすべて自分の力のような錯覚から


今現在思うように進まない方へ


優しさのない言葉を手渡してしまっていたり


無意識な驕りから


様々な行動や言動をしてしまっている事もあると思うの


その事で運のエネルギーが少し弱まって


次には運へのエネルギー補充が必要になる時期が


与えられるように感じているの


運の流れが自分で心地よくない流れになった時


つい運が悪いと思い込んでしまう事があるかもしれないのだけれど


それは運が悪くなったのではなく


今まで積もり積もったあらゆる瞳に映らない


エネルギーのデトックスと


短期集中的に徳の貯金をチャージできる時期として


訪れただけなんじゃないかなって


感じているの


そう思って見つめてみると


運がスムーズに流れている時よりも


運の流れがスムーズに流れていないと感じた時の


過ごし方の方が重要で


次から始まる新たな運の流れの持続と質が


その過ごし方で決まってくるようにさえ感じているの


このような運の流れは


どんなに素晴らしく過ごしている方にも


人ぞれぞれに期間は違っていても


定期的に訪れる事で


次のジャンプアップに必要なものとなるように


感じているの


でも運の流れがスムーズにない時には


気持ちが晴れやかではない事もあって


つい何を見ても意味なく批判的になってしまっていたり


時にはいつもとは違う価値観の人に


共感したり心を重ねてしまう事もあるかもしれないのだけれど


瞬間的にでも


自分が批判的になっている事に気づく事が出来たならば


その事はクリアになり浄化されるように思うの


なのであまり思い詰める必要はなく


自分が今どう感じているのか?


今の自分の心がどういう状態なのか?


感じる事が出来ていたならば


運のチャージがそろそろ終わりを迎え


新たにまたスムーズな流れの時を迎える時期が


早まるように感じているの


私が運について良く感じているのは


たとえば「経済・仕事」「健康」「恋愛・家族関係」など


大きく分けると幾つかのパーツに分かれていて


すべてがバランスよく自分が満足がゆくような時は少なく


どこかの運が上昇している時には


どこかの運がその分補填しているように感じているの


私は若い頃


雑誌の占いコーナーを見る時には


「恋愛」「マネー」以外見る事がなく


その部分だけが良ければ


運が良い流れだと思い込んでいた事がったの


そして神社へ参拝した時にも


その二つ以外で


祈る事はなく


その二つでしか運を図る事はなかったのだけれど


30代初めに今まで当たり前すぎて


意識せずにいた


健康のバランスが整わなくなった時


自分が望んでいた「恋愛運」「マネー運」は


今まで以上に良かったはずなのに


それどころではなくなり


日々自分の健康を願い過ごすようになっていたの


その頃は「健康運」以外は


とっても良い流れで


きっと人生の中でも良い時だったと思うの


でも当たり前にありすぎて意識もしていなかった


人生のベースとなっていた「健康運」のバランスが整わない事で


何をしていても心は沈み


その時初めて自分が望む運の小さなパーツだけ見つめては


「私は今運がよくない」と決めつけていたけれど


本当は今まで多少の不摂生をしても


問題なく歩んでこられただけで


本当は幸運だった事を感じたの


人は穏やかで安定した時間を望んでいながらも


ついその安定の中にいると


その事に気づかず


別の不足していると思い込んでいる部分に


思いを重ね


自分の人生を判断してしまう事もあると思うの


でも神様は絶妙なバランスで


一歩・一歩歩みを止める事なく


この世に生まれる時にそれぞれの方が持ち込んだ


使命や目的を果たせるように


調整してくれているように感じているの


時に自分とそう変わらない環境


年齢などの方と


心が弱っている時


つい比較してしまう事もあるかもしれないけれど


私たち一人ひとりが


地球上に二人として同じ人がいないように


同じ人生を与えられていないのだから


本当はすべての部分で比較対象にはならないと思うの


どんなに自分よりも恵まれ


うらやましく思う方がいたとしても


私たちはその方の一部分・ひと時しか知らず


すべてを見つめているわけではないのだから・・・










ここ数年


新たな自分に生まれ変わるために


言葉を意識しながら過ごしていて


その中でも


とっても簡単そうで


とってもとっても難しい


自分以外の人への評価・悪口・噂話などを


しないように過ごす事に


チャレンジしているの


一人で過ごしている日には


どんな事でも自分が思い描いた通りに


過ごす事は簡単だけれど


人と過ごしていると


つい雰囲気や無意識に相手が望む会話を


感じとってしまい


悪口とは気づかずに


誰かの生き方・人生etc・・・


様々にせっかくの自分の大切な


イマジネーションを使ってしまい


わざわざ自分の波動レベルを下げる事に


長い時間注いでいる事があるのを


ある時ふっと感じ


たった3日ならば自分の意識に集中して


過ごせるかなって思い


チャレンジし始めたの


そうしたら意外と難しくって


様々なTVの話題・最近流行っている事など


知り合いや友人・時にはちょっと話す機会があった方との


あいさつ代わりの会話の糸口になっている


何気ない日常で


意外と自分が無意識に


周りとの調和に人の噂話や


悪口とは思っていない誰かの評論などを


自分がしている事に気づき


なかなか自分の意識だけの集中する事の


難しさを感じていたの


私たち人間は大人になるにつれて


自分の思いをストレートに表現せずに


様々な言葉や表現を用いながら


自分の中に積もり積もった


フラストレーションを解消したりできるのだけれど


その中にはもっとも日常的に


習慣のようになっている事の中に


自分以外の誰かに意識を集中する事で


自分の悩みや不安を一時的に


見つめずに過ごせたり


ターゲットとなる人の話題で


一時的にでもその場にいる人との繋がりを強めたりと


高度に複雑に


自分の心に気づかないように


過ごしている事もあるんじゃないかなって


感じているの


人は正しいかそうではないかの


ふたつに分ける事はできないのだけれど


それは社会的なジャッジとは別に


自分を幸せにしようと


誰もが努力しがんばっているのに


この何気ない事が


自分の幸せを自ら遠ざけてしまうのは


もったいない事なんじゃないかなって


感じたの


それで昔とっても波動が高い時には


どう過ごしていたんだろうって


思い起こしてみたの


そうするとどんな場所にいても


どんな人と過ごしていても


自分を保ち誰かの話題が出た時には


その場所にカメラやマイクがあって


相手に届くものだと思いながら


その方を目の前にしても


自分が納得し話せる言葉を


表現していたの


それゆえに時に


「なんかあの人って面白くないよね」とか


「あの人って自分以外の人に興味がなくって


自分好きなのかな」ってささやかれた事もあったけれど


その当時その様に表現していた方とは


たとえその場・その場何となく


仲良く過ごしてきたとしても


今現在まで付き合いがあるほど


縁が深くなる事はなかったと思うの


そう思うとそれはそれで


様々な」問題・トラブルがなく良かったのかなって


感じているの


私たちは人から自分が望むように評価されない時や


心ない言葉に傷つく事があるけれど


心静かに自分を見つめてみると


思わぬ形で


自分も誰かの生き方や考え方・過ごし方を


批判していたり


面白がったような表現をしてしまっている事に


気がつく事があると思うの


私と母は会うと


日々話したかった積もり積もった話題と


そこから広がる


見聞きした出来事など


気がつくと何時間も話す事があるのだけれど


そんな時


ある意味自己中心的な父は


自分の話に注目してほしいのか


私と母が何気なく話していた事を遮り


「○○の話はもういいって!


お前たちがここで話したからって


どうにかしてやるつもりもないんだから


人の事を面白がって話すのはやめろ!」と


伝えてきたの


その時母と私が言葉を失うと


父は


「お前たち自分の事をもっと考えろ


お前も誰かに同じ事言われたら


嫌だろう」って言われ


母も私も悪口とは思わずに


自分たちが人の生き方について


自分の価値観を表現する場にしていた事に


気づかされたの


その後は父のつまらない自慢話と


最近会った話になったのだけれど(笑)


私の父は私と同じく


経歴なども持っているものも


何一つ周りに誇れるものはないのだけれど


父には不思議な感覚的な能力があって


数日間の天候がわかったり


直感的なもが働くのか


無意識ではあるのだけれど


何気なく自分で決めた事が


後になると正しい選択だった事がよくあるの


父の能力はどちらかというと動物的な直感や感覚で


母は霊感体質な事もあって


性質は違っているので


考え方・生き方様々なものが違っているの


父の動物的な勘は


自分だけに適応するもので


実際に父は人のあれこれには


意識を注ぐ事はなく


よくもわるくも


自分に意識を集中しているの


母は霊感体質なので


自分に意識を集中するというよりは


自分以外の周りに漂う瞳には映らない


空気感や説明のできない


感覚的な流れに寄り添い過ごしてきた事もあって


どうしても自分に意識を集中する事は


難しいんじゃないのかなって


感じる事があるの


霊感体質の方の多くは


自分の意識とは別にアンテナを張り巡らせている事もあって


自分だけに意識を注ぐ事が


そういう能力を持たない方よりも


難しいんじゃないかなって感じたの


そして張り巡らせたアンテナが


様々なものをキャッチしてしまう事もあって


自分が時に


誰かの思いをキャッチしてしまうのか


いつもの自分ならば考えもしない事を


急に考えたり


誰かの思いをキャッチして


落ち込んでしまったり・・・


ご自分で霊感などの能力がある事に


気づいていない方は


時に自分との折り合いに


とても大変な思いをされていて


「何で私はこんなにも


気持ちが変わりやすいんだろう」って


自分の思いがくるくる変わるのを


自分の根気のなさや


あきやすさだと誤解されている方もいるんじゃないかなって


思うの


憑依というほど強いものではなく


空気のように漂う


人の様々な思いに


ちょっと人よりも敏感なのだと思うの


そんな方も大変かとは思うのだけれど


自分の行動や表現に


日々意識を注ぐ事が出来るようになると


ふいにキャッチした様々な思いによって


自分の人生を描けなくなる事はなくなり


波動が高まる事によって


アンテナが高く伸び


キャッチするものも変わってkるるんじゃないのかなって


感じているの












私たちは最も近道を望みながらも


時に自ら遠回りをしようと


努力を重ねている事があるんじゃないかなって


感じているの


たとえば就職活動などを


経験された方の中には


なかなかうまくゆかず


スムーズに運ばず


自信をなくしたり


これからの未来に不安が広がり


どうにかしなければと


様々な方向から就職活動が


スムーズに運ぶために学び


その場の空気をコントロールし


過ごされている方もいると思うの


いつも短い時間の中で


命一杯


緊張の中で自分らしさを隠し


相手が望む理想を演じ


それでも受け入れてもらえなかったと


面接のたびに


自己否定してしまったり・・・


でもほんの少し


心静かにありのままの自分に


戻れたならば


何のためにこんなにもがんばっているのだろうって


多くの方が感じると思うの


もしもそのお仕事や


お仕事をする場所が


自分の人生に必要な通り道ならば


自然に自分の場所が用意されていたり


今お仕事をされている方の中には


逆に自分が望んでいなくっても


様々な形で今の仕事をしていて


特に自分がそのお仕事が好きだったのか


望んでいたのかは考えていなくっても


それがまるで自然の流れだったように


続いていると思うの


その違いはきっと


日々自分らしく


そして流されているのではなく


流れに逆らう事なく過ごしていたkららだと思うの


スムーズに運ばない事の多くは


そこに私たちすべてが気づく必要なものが宿っていて


その気づきを曇らせ


見えなくしているのは


多くの場合


自分ではなく周りに


自分の人生を委ね任せすぎてしまっているから


なんじゃないかなって感じているの


スムーズに運ばない事は


冷静に見つめてみると


心の深い部分では


自分が望んでいない事だったり


たまたま自分の心の視野では


それしか考えられなかったから


選んだだけで


本当にしたい事は別にあったりするんじゃないのかなって


思うの


でも自分を無意識に過小評価しすぎて


あえて自分には合わないものを得るために


努力を重ねられている方も


いると思うの


私自身


社会で学ぶ機会が


他の方よりも少ないのだけれど


そんな私でもみんなと同じように


働くという経験をしたいと思い


学歴や職歴を問わない


自分が思いつく職場を探し


面接へ幾つも足を運んだ事があるのだけれど


そのたびに


履歴書が問題ではなく


私自身から溢れる何かが問題で


どこにお勤めする事もできずにいたの


ある会社では


労働作業の会社で面接に受かり


次の日


会社へ行くと「何なんだその格好は!


ばかにしているのか」と突然伝えられ


意味がわからず泣きながら家に帰ってくると


両親がいたので私は


「ちゃんと動きやすい恰好をしていったのに・・・」と


その時の話を伝えると


両親は


「よかったな。お前には合わないところなんだから


けがをする前に向こうに断られて良かった」と


伝えてくれたの


その話を友人たちにした時にも


少し笑いながら


「何でさーちゃんそんなところに行ったの?


さーちゃん何で働こうと思ったの?」と


突然尋ねられて初めて


自分が望んでいない事に


努力を重ねては


落ち込んでいる自分に気づかされたの


私はただ皆と同じにできない


自分の劣等感から


いつも自分の人生の流れとは違う事に


がんばっていた事を感じたの


そして若い頃から


なぜか節目節目で


占いをメインに人を癒す事を


周りから進められ


そのたびになぜだか避けてきたの


それも自分自身が


人に誇れるだけのものを何一つ持たない私が


人にアドバイスするのは・・・という思いがあって・・・


でもこのキーワードは


何十年もの間


周りから進められてきていて


今回もたまたま友人が知り合いから


占いスペースを作る話を聞いたらしく


その時すぐに私の顔が思い浮かんだらしく


私に進めてくれているの


人生って面白いもので


避けても避けても


運命の一部となっているものは


どんなに月日を重ねても


巡り合うようになっているのかなって


人生の神秘を感じているの


神様は私がどうしたら


本来の自然な軌道に沿って歩んでくれるのかを


様々な方向から


背中を押しているのを感じているの


私の知り合いの中には


とっても手先が器用で


洋裁や和裁ができる方がいて


独身時代はその事に関わる仕事をしていて


その頃は将来


小さなお店を持ち


結婚してからも続けられたらいいなって


夢を持っていたそうなの


でもありがたい事に


結婚したパートナーが経済的に豊かな事もあって


気づくと今ある幸せを維持させたい気持ちから


パートナーのライフスタイルにすべてを合わせ


過ごされていたの


もちろんそれはそれで幸せだったのだけれど


何か満たされない小さなスペースが


心の中にあったのだけれど


それが何かを感じられないくらいに


自分の人生をいつの間にか


人に任せるようになっていた友人は


様々な人の生き方を見つめては


今の自分は幸せなのだと


確かめ確認していたの


そんなある日


予想もしていなかった急なパートナーのリストラによって


初めに考えたのは


子供の事で


子供の事を考えるとすぐに仕事を見つけなければと


ブランクがあり年齢を重ねた自分でも


すぐに働ける場所を探し


面接へ足を運んだそうなの


そのたびに経験のなさや


時間帯など様々な事がネックになって


なかなか決まらずにいたの


そんな時


昔同じ職場で働き


しばらく疎遠になっていた人と


偶然百貨店で出会い


懐かしい思いから


近くのカフェでお互いに近況報告などをしていた時


何気ない会話の中で


自分が昔よく話していた夢を


思いださせてくれたそうで


その時


「自分は望んでいない事のために


がんばって落ち込んで


何やっていたんだろう」って


ハッとしたそうなの


そのような気持ちの切り替えが


人生のの濃霧を消し去ったからなのか


急に仕事が決まり


自分が本当にしたい仕事が軌道に乗るまでは


その仕事に支えてもらい


過ごすそうなの


その話を聞いた時


人生に必要な運命は


どんなふうに過ごしていても


何度も何度も与えられるものなんだなって


感じたの


若くって一人の頃は


複雑に考えたりせず


安全だからという思考で選び取ることが少ない事もあって


その頃何気ななく表現していた事が


その方の人生の本質を


一番気づかせてくれた時期だと思うの


もしも今


心の糸が複雑に絡み合い


糸口を見つけられない方は


自分だけの意識を集中していた


若い頃自分が話していた言葉などを


思いだしてみるのもいいんじゃないかなって


感じているの














私が怒りに似た感情を生み出す時って


ほとんどが


自分以外の誰かに人生を任せている時なんじゃ


ないかなって


ふっと感じたの


たとえば仲が良い友人に誘われ


会う約束をした時


その日は自分の中で別の予定を立てていたのだけれど


誘いの方を優先し出かけたの


そして楽しい時間を過ごしている時


相手が急な用事で変えることになった時


相手が「ごめん。用事が出来ちゃったから


早く帰らなきゃ」と表現したので


私は「ぜんぜんいいよ」と伝えながらも


帰り道


言葉では表現できない小さな怒りが


心にあるのを感じたの


そんな時「なぜ?」って


自分の心に尋ねてみると


初めはもっと一緒に過ごしたかったのに


そうできなかったから?


それとも嫉妬?などが浮かび上がってくるのだけれど


何度も何度も自分に問いかけてみると


そのどれでもなく


自分の意志を抑え


相手の望みを優先したのに・・・という思いと


いつも自分の自由を許す事ができていないから


人の自由も許せていない思いが


こういう複雑な小さな怒りが


生まれるんじゃないかなって


感じたの


人間は自分に向ける瞳と


同じものを他者にもむけるものだから


形だけで人を思いやり優しさを表現しても


自分にも同じ思いを注げていない方は


最終的につい


心のどこかに


自分だけが犠牲になっているような気持ちが広がり


「私はこんなにしているのに」とか


本当は見返りを期待していたわけでもないのに


気づくと自分がした事と同じものの


見返りをしてくれない相手に


小さな怒りを感じたりしてしまう事があると思うの


私自身


幼いころからのトラウマなのか


人から愛されたい思いがいつもあって


それゆえに


つい自分の思いを抑え込み


相手に必要以上に合わせてしまう事があるの


そんな時は自分が決めた事で


相手に強制されたわけでもないのに


心がモヤモヤしてしまう事があるの


そしてそういう時には


自分の人生なのに


何となく自分では何一つ選びとれないような


錯覚に包まれ


周りの動きが自分の人生を


決めて行く様な思い込みに包まれ


周りに対応する事だけで


いっぱいになってしまうの


でもそのすべての始まりは


自分のすべてを許しきれない自分に


あると思うの


そしていつのころからなのかは分からないのだけれど


思いやりや優しさの表現を


誤解したまま


大人になってしまったように感じているの


たとえば何かをお願いされた時


その場で答えがわかる時にも


すぐに断ると…って思い


先延ばしにしてしまう形を取る方も


いると思うのだけれど


その方によってはそのワンクッションが


良いと思いそうされている方もいるかもしれないけれど


答えが決まっているのに


期待しまっている方にとっても


そして答えを知っているのに


その事をどのように断ろうと


断る日まで頭の中で考え


心も重くなるのは


どちらにとっても良い選択ではないと思うの


初めに自分が答えをわかるのならば


それを相手にすぐに伝えた方が


相手にとっても次の対処法を


すぐに考える時間が出来るし


何より断る負担を抱え


長い時間過ごさなければならない


自分を救う事も出来ると思うの


もちろんすぐに断られた事で


不快に思われる方もいるかもしれないけれど


それはここに与えられた自由で


その部分まで


コントロールする必要も


コントロールできるものでもないんじゃないかなって


感じているの


すべては自分から始まる事で


自分が自分にどう向き合い


自分にどれだけの優しさや思いやりを


本当の意味で注げているかで


見えてくる世界や動き出す時間が


変わってくるんじゃないのかなって


感じているの


自分が自分でいる事を許し


それが時になまけているだけに感じても


それも自分の一部分として


許してあげる事が


何よりも大切なんじゃないかなって


思うの











今年は世界的にマヤ暦の影響で


今年は人類のラストステージのように


表現されている事も多いのだけれど


その中でもそれとは別に


私が心重なる表現も多く見つけるたびに


無言の誰かに「うん・うんそうそう」と


知らない誰かと共感する事があるの


私が感じているのは


今年は人類のラストステージというよりも


個人個人にとって


今までの価値観・歩み・の終わりを迎える年で


それゆえに


今までスムーズにいっていた事が


急に何の前触れもなく変化し


戸惑う事も多い年だと思うの


今までならば


考えて対処したならば


何となくすぐに軌道修正できていたはずなのに


なぜかどんなに正当な選択をしても


思うように運ばない事もあると思うの


それは今までの価値観や歩みを


変える事を


地球や宇宙・時代が


一人ひとりの求めていて


今まで体験しなかった価値観や歩みを


生み出す時期を迎えているように感じているの


たとえば人と親しく繋がるために


今までの時代ならば


自分の趣味嗜好が合わなかった場合


力関係によっては


自分の意見を表現せずに


周りに動きに寄り添い


ある意味で自分の人生を


周りの誰かに委ね依存する事で


何となく今まで続いていたものが


保たれていたけれど


これからの時代は


一人ひとりが初めて当たり前の事を


体験する時代に突入していて


自分の人生を人に委ね依存する形ではなく


自分の人生は自分で考え


自分で育んでゆくようになると思うの


それはたとえ結婚生活でも同じで


日本では良い奥さんと表現されているのは


ある意味で今までの名字が消え


新たな名字に変わると同時に


自分の今までの人生は消し


女性が自分でものを考え


自分が心から望む事を抑え


相手のために尽くす事をそう表現しているけれど


一個人として見つめてみると


決して結婚と同時に


今までいた人が消えたわけでもなく


人格も今まで通り持っているのに


なぜそんな風になってしまうのかなって


自分と重ねて考えてみると


私の場合は


結婚によって初めて


自分だけの時とは違う幸せを感じ


その幸せには様々な要素があるのだけれど


様々な不安が相手といる事で


考えずに済むようになったからなの


そんな風に過ごすうちに


自分で何かを考え行動する事で


衝突するよりも


相手に合わせていた方が


色々あっても究極的には


楽だと感じたから


きっとどんどん自分でいる時間が


気がつくと消えていったように感じているの


それでも長い人生なのだから


自分一人で過ごしていたとしても


うまく運ばない事はあるはずなのに


何か人生がずムースに運ばないと


すべて相手のせいにしてしまったり・・・


でも冷静に考えてみると


どこにいても誰といても何をしていても


誰もが一個人として


自分の人生は自分でしか作っては行けないし


その中で家族が出来たり・恋人ができたり


友人が出来たりしながら過ごしていても


たとえどんなに大切に思う相手であっても


人生の運転を変わる事はできないと思うの


ただお互いに


同じ時間・同じ思い出を共有できる


とっても貴重な縁でしかなく


たとえ同じ時間を共有していても


同じ学びや気づき


答えの生み出し方は違うものだと思うの


それが今年はとってもはっきりと


感じられる貴重な年のように感じているの


なので人間関係も変化があって


今まで仲が良かった人と


特にトラブルがあったわけではないのに


疎遠になったり・・・


社会の中で働いている方の中には


今まで顔をあわせていた方がいなくなり


新たな人がいる事に気づいたり・・・


ちょっぴり周りの動きの変化に


戸惑う事もあるんじゃないかなって思うの


今まで忙しさを理由に


自分の人生を見ないように過ごされてきた方にも


その忙しさがストップする時期が訪れ


自分の人生を見つめなければならない


時期を与えられる事もあって


今までの自分ではないくらいに


心が揺れ動いたり


暗いトンネルに入ったような


戸惑いを感じられる方もいるかもしれないけれど


それもすべて


今までの時代がラストを迎え


新たな時代を迎えるためには必要な


道にやっとたどり着いたからだと思うの


たとえ暗いトンネルに迷い込んだように感じても


何も心配はなく


そこを抜けるための地図は


自分の内側にちゃんと用意されていると思うの


その地図は自分が今まで怖れていた真実の答えが


納められた部分に


用意されていると思うの


たとえば人間として愛溢れた正しい答えや選択が


私たちはみんな知っているけれど


社会の中で長く過ごすうちに


これは違う・・・って思いながらも


人に受け入れてもらうためだったり


決められている事だからと


気がつくと自分が自分ではないような


答えを選択し行動してきた事もあると思うの


その事で長い間無意識に


自分を愛せなかったり


自分を否定してしまうベースを作り


それでも生きて行くためにはしかたがないと


自分に言い聞かせながらいたと思うの


でも今年特有の流れの中で


今までの感覚と違う心の動きの中で過ごされているのならば


あえて自分の中にずっと宿っている


真実に従い過ごしてみると良いんじゃないかなって


感じているの


ここ数年


よく心の病の方のお話が


一般的に過ごす方の中にも知識が届けられているけれど


その多くはきっと


自分以外の多くが望む


理想的な誰かを演じているうちに


自分が自分を感じる事が出来なくなって


その様になってしまった方も


多いように感じているの


人生の中では絶対と表現できるものは


何一つないのだけれど


唯一


世界中にこんなに人がいても


絶対に自分と同じ人が存在していない


不思議で神秘の世界の中で過ごしていていると思うの


でもそれが私たちの中では


当たり前すぎて


その不思議な神秘について問う事もないのだけれど


人間を創造したと伝えられる神様は


万能で完璧なのだから


一人ひとり違うという事に意味があって


逆に一人ひとり違っていてくれなければ


地球上の上では意味をなさないのだと思うの


でも私たち人間は


様々な怖れからわかりやすく


ある程度自分が予測する通りに


行動・発言する人を好む傾向があるから


つい無意識に同じカラーにしたがるし


同じカラーを押し付け合う事もあると思うの


でも面白い事に


完璧に自分が思う事に共感し


予想通りの行動発言を望んでいるのかと言えば


そうではないように感じているの


もしもそうならば


最近社会の中で広がっている


音声に反応するロボットなどで十分満たされるはずなのに


私たち人間は自分が望むかどうかは別に


前の世代よりも進化し


さらに今の自分が前の世代が出来なかった


進化を果たし


次の世代にバトンタッチする事を


集団的な使命の一つとして


内蔵されているから


同じ事を何度も繰り返しできる安心感を


自分の意識は求めていても


別の集団意識の中では


それでは満たされず


あえて新たな事に進んでゆく事で


満たされる


二つの部分を備えているんじゃないかなって


感じているの


今年は自分の意識が少しお休みしていて


集団意識でしか変えられない


世界・社会・ライフスタイルの変化を


多くの方が求められていると思うの


何となく今まで体験しなかった変化は


ちょっぴり怖いけれど


元々の自分らしさに戻るだけだと思えば


本当は恐れるよりも


喜んだほうがよいのかもっとも


思うの