2012年4月





私たちはいつもどんな時も


その行動の多くは


自分が喜びや幸せという感情を


体験したくって


その様な時間を過ごしているんじゃないかなって


感じているの


生きて行くのに一見関係ないような事でさえ・・・


最近では生きて行くのに関係のない事の


優先順位も一見正され


娯楽的な事はライフスタイルから


少なくされている方もいるようなのだけれど


私たち人間は自分が意識するかどうかに関係なく


喜びや幸せを栄養として生きていて


その何気ない事が人生の柱となっている事も


あるように感じているの


人生の折り返し地点にいる


私の世代ではよく友人などと話すと


昔の何気ない体験を笑顔で話す事がよくあるのだけれど


いつも感じるのは


その様な何気ない記憶が


今の自分たちを支えているんだろうなって感じているの


人間は頭がよく先行きを予測できる生き物だから


頭で考えた時に


自分が歩んできた中で記憶に残る事の多くは


一見必要のない事のように映るけれど


すべての記憶は


自分が生きている証で


感情が揺れ動く事でしか


人は生きている実感を感じにくい部分もある事を思うと


計算脳では無駄だと思うような事が


人間にはとっては


最も大切で最も必要な事なんじゃ


ないかなって感じているの


少し前ならば私の勝手な偏見なのだけれど


男性よりも女性の方が


感性豊かで男性はあまりこだわりを持たないと


感じていたのだけれど


本当はそんな事はなくって


男性であっても女性であっても


心地の良い喜びを


体験できる機会を求め


受け取り


明日へのエネルギーとされているのを感じているの


私がいつも足を運ぶフィットネスクラブでは


みなさんが無意識に周りに配慮されていて


きっとそれぞれの方が


香りなどに配慮されていて


できるだけ個性的な香りを抑え過ごされていて


運動にみなさんが集中できる空間になっているので


私自身もエレガントな香りなどのしない


無香料のものを使っていたのだけれど


私自身いつも私を包んでくれているバニラの香りを嗅ぐと


とても幸せな気持ちになる事もあって


皆さんの邪魔にならないように


私だけが感じられるようにつけられたらって思い


たまたま日頃使っているバニラの香りのボディローションを


ハンドクリームとして使ってみたの


そうしたらスタジオの前で次のプログラムを待つ間


多くの方が好意的に言葉を手渡してくれて


「あ~なんか幸せなにおいがする~誰?」など


年齢も性別も関係なく反応があったの


その時私は自分が持っている偏見に気がつく事があったの


60代くらいの男性が私に話しかけてきて


「こんなおいしそうなにおいのものがあるの?


今まで匂いって鼻がむずむずして嫌いだったけど


何だか安らぎな~」ととても興味深く尋ねてこられ


購入したいようだったのだけれど


それはたまたま友人から頂いたもので


どのように購入したら良いのかがわからなかったので


使いかけで失礼かと思ったのだけれど


そのまま差し上げたの


そうしたらその方が早速嬉しそうに使ってくださっていて


その香りに誘われて


その方に話しかけてきた女性たちに


手のひらに分けてあげていたの


それを見つめながら


男性はこう!女性はこう!この年代はこう!って


今まで自分が決めつけ


思い込みから見つめていた


色眼鏡がクリアになった気がしたの


ほんのわずかな時間であっても


人は幸せな気持ち嬉しい感情を


体験するために


色々な事をしていて


その喜びや幸せな気持ちが


自分が生きる意味と使命を満たしている事を


無意識に感じているんじゃ


ないかなって感じていたの


ただその使命と意味を忘れて


つい自分の正しさを証明するために


幸せや喜びと遠い場所に


どんどん進んでしまう事もあると思うの


それがどんなに小さな事であっても・・・


正しさを証明する事は


無意識に勝ち負けを決める瞬間のように感じ


口論になってしまったり・・・


そのような時間が長くなってしまうと


たとえ自分の意見によって


相手が言葉を失い


正しさが証明されたとしても


互いによい思いを受け取る事が


難しくなってしまうと思うの


もちろん人間同士なのだから


相性もあるとは思うのだけれど


私自身昔とっても親しくしていた方といると


必ずと言ってよいほど


会話がスムーズな時が少なく


ちょっとした違和感のたびに立ち止まり


彼女が納得するまで意見を求めてくるの


彼女はとってもまじめで


会話の結末としては


自分の正しさを納得するような流れにならないと


少し強い口調になってしまい


私は彼女のようにまじめではない事もあって


最終的にはつい


相手がどう受け取ってしまっても


よいかなって思ってしまう所があるので


あまり議論にはならなかったのだけれど


彼女が少しずつ心開き


私と話してくれるようになってくれた時


伝えてくれたのだけれど


彼女は優秀な兄弟・姉妹の中で


唯一周りからはそのようには思われてはいなく


だまっていたらいつも


自分が望まないようになってゆく事が多かったようで


もしかしたらその事が原因で


会話自体が戦いのようになってしまうのかもって


伝えてくれて


それまで彼女に持っていた感情が変わり


彼女の人との付き合い方が


長い年月をかけて自分を守るために


取得してきた形だった事を知って


今まで彼女と会うたびに楽しい気持ちになる事が


少なかった私も


良い意味で情と言うフィルターが生まれた事で


一生懸命に自分の正しさを証明しようとする


彼女の姿が幼い少女のように感じ


私にとっては好ましくなった時間が


そうではなくなった事で


その方から色々学ぶ機会となったの













いつもなぜだか


親友は自分が好きではないトマトを


周りから頂く事が多いようで


そのたびトマトが大好きな私の元に


届けてくれるの


その時いつも思い出すのは


母が私を宿した時


無性にトマトが食べたくって


いつも食事もせずに


トマトばかりを食べていた事をよく聞いた事なの


命を宿した女性がよく


その命が望むものを


その時期好むお話があるのだけれど


よーく考えて見ると


とっても不思議な事だなって感じていたの


本来ならばまだこの世に誕生していなく


食べ物を見た事も食した事もないのに


テレパシーのもののようなもので


母親に自分の求めるものを伝えているなんて・・・


その事を考えると


ついいつも私は前世から繋がる嗜好なのかなって


思ってしまうの


命を宿した女性に共通する嗜好ももちろんあるけれど


それとは別に


兄弟姉妹であっても


母親が好んで食していたものがいがう事に


とっても深い神秘を感じているの


物心ついた時から


毎日のようにトマトを使ったものを食している私は


なぜなんだろうって


思いを注いでみると


味が好きっていうよりも


何か安心する感覚が強い気がするの


それが何かの記憶と繋がっているものなのかは


わからないのだけれど


幸せな気持ちに包まれるのが


心地よくって


習慣になっているの


私の周りにも母親が彼女たちを宿した時


毎日のように食していたものを


無意識に今の自分も求めているようで


ある方は春菊だったり


ある方はチョコレートだったりと


様々なの


とっても興味深いのは


精神的な安定が保てない時に


気がつくと


強くそのようなものを求めるそうなの


私たち人間は改めて


本当に神秘的な生き物だなって


感じているの







時々ふっと何かを思う時


誰かと特定のできない


誰かと繋がった瞬間を感じる事があるの


ちょっと言葉の表現が上手にできないのだけれど・・・


それが地球上ではない気がしたり・・・


でも何なのかは分からないの


ただその様な時


いつも生まれる思いは


私がとっても昔の人のような


何とも表現のできない思いなの


こんな事を話すと私自身が大丈夫かなって


心配されてしまうそうなので


人には話さないのだけれど


この間信頼し仲良くさせてもらっている友人に


私が心配されないように


あれこれと前置きをしながら


このお話をしたの


そうしたらその友人が淡々と


タイムトラベラーの話をしてくれて


時空を超えて旅する未来の人たちがいて


SFの世界のような事がある事を


一般の人の中にも理解している人も増えていて


時々未来からタイムトラベルした方が


何かの拍子に自分の元の時代に戻れずに


その場所にとどまらざる終えず


過ごしている人もいたりして


それがずーっと昔からある事で


そういう人の多くは


当たり前なのだけれど未来を知っている事もあって


成功されていて


通常では行わないハイリスクの事も


恐れる事無くしていたりするんじゃないかなって


その友人は今まで見た事のない勢いで


私に伝えてくれたの


その友人はとっても常識的で


精神世界的な事には関心がない人だったから


尋ねた私自身


ちょっぴり驚きながら聞いていたの


そしてその友人が表現するには


私が何か分からないものと繋がる感覚を感じるのは


そういう未来人は


時空を超えるときに


電磁波のような摩擦のような良くわからない波動によって


きっと移動しているから


たまたま思いという波動とクロスして


何かを感じたんじゃないのかなって


伝えてくれたの


私自身


その様なお話にとっても心惹かれるタイプなので


その友人のお話に


相槌をするのも忘れて


聞き入っていたの


確かに私は幼いころから


何か違和感があって


時々自分がしていることすべてが


何かの後を辿っているだけのような


言葉では説明のできない感覚を


感じる事はあったの


それがもしも友人が伝えてくれたように


誰だかわからない意識と瞬間的に繋がり


感じた事だったならば


何だか面白いなって感じていたの


昨年の原発事故の時には未確認飛行物体が


何体も飛行しているのが


目撃されていたそうで


もしも別の星に暮らす未来人がいるのならば


過去のデーターベースから


タイムトラベルしてきたのかなって


ふっと感じていたの


ちょっとお話は違うのだけれど


この世の中にある様々な問題を


解決できる知識を持ている学者たちは


まるで予言者のように


ずっと昔から色々と提示してくれている事が多いのだけれど


それが生かされないのは


ある一部の人たちにとって好ましく


あえてゆっくりとスローなペースで


ぎりぎりまで経済となる間は


進めないように様々な情報操作をしているそうなの


本来ならば私たちが思いつく事の多くは


実現できる知識はある事が多いそうなの


その事を思うともしかすると


未来からこの時代にタイムトラベルしてきて


留まった方の中にも


この時代を正そうと働いてくれている人と


その逆に先がわかるゆえに


私欲を満たすためだけに働いている方もいるのかなって


感じていたの


以前長い間解明されなかった事が


初めて解明された時に


その解明された計算式を


理解できる人は世界に2~3人しかいなく


その計算式が理解できる人がいなければ


正しいかどうかもわからないままになっていた話をされていて


そのお話を聞いた時


とっても衝撃を受けた事があったの


私たちは何となく多数決の社会の中で生きているから


少ない意見や自分がわからない事に出会うと


それはおかしいとか正しくないと


決めつけてしまう事があるけれど


本当は自分が理解できるまでに


到達していない事もあるんじゃないのかなって


その時感じたの


未来の人に思いを寄せて見ると


私たちが一歩一歩


ゆっくりではあるけれど


歩んでいるのにも意味があって


未来人が心惹かれタイムトラベルしてくるのは


感謝に似た感情も重ねて


私たちを見つめているんじゃないかなって


感じているの


それは私たちが過去の人々の歩みを見て感じるように・・・


大昔の人々から見つめると


私たちも未来人なのだけれど


時々思いを寄せていると


きっと大昔の人から今の時代を見つめると


今の時代は全く理解のできないもので溢れていて


夢を見ている感覚になるんじゃないかなって


感じているの


たとえば自転車もない時代の人からすると


私たちが当たり前に乗っている車も


私たちが未確認飛行物体として見ているものと同じ


感覚だと思うし


電話自体も不思議すぎると思うの


実際には今の私たちの多くも


感覚的にはふれているけれど


仕組みをいくら聞いても


不思議な感覚を持つ事もまだまだあると思うの


たとえば


今の私たちは電気を当たり前に使っていながらも


具体的にはどうしてこうなっているのかは


多くの方がわからないけれど使っているように


進化のスピードが肉体を持つ私たちにとっては


追いつかない部分もあって


感覚的に今は適応している部分も


多いように感じているの


そう思うと


私たちは自分で言葉では説明ができない事であっても


感覚的にあらゆる事を


受け取り自分の人生に加えてゆけるんじゃ


ないのかなって感じていたの











最近自分が無意識に人の事を好きだなって思う


ポイントを持っている事に


気がついたの


たとえば人のおうちへ行った時


飲み物を用意してくれて


その時何気なく「コップ持ってくるから待ってて」など


グラスとは表現せずに


何気なく溢れるそのフレーズが


私の心にあたたかく懐かしいようなものが


広がって


ただそれだけで相手の事に好感を持っていたり・・・


それはまるで心開いた時に


ふっと溢れる方言のように


なんだかとっても好きなの


昔は当たり前に使われていた日本語も


時代と共に様々な国の言葉に置き換えられて


スマートでおしゃれな単語になっているものが


多いのだけれど


それでも昔から表現されている日本語を


表現する方と出会うと


ほっとしちゃうの


ここ数年あらゆるドラマや映画が


昭和を背景に描かれているものが多いのも


何となくわかるなって感じていたの


もちろん今何か不満を感じているという事ではなく


無意識に多くの方が


今まで歩んできた時代の中に


置き忘れていたものに気づき


今の自分にプラスして


さらなる幸せを築いてゆくよう


意識が注がれているのかなって


感じているの


よく昔は良かったと表現される方がいるけれど


冷静に見つめたならば


昔よりも今の方が良いはずだと思うの


たとえば私が幼い頃は


地域地域に銭湯などがあったのだけれど


それは多くの方のおうちにはお風呂がなく


私の暮らす北海道では


真冬の銭湯の行き帰りには


髪が凍ってしまうくらいで


そのたびにおうちでお風呂があって


入れるのは夢のようだと


想像していたの


でも何気ない願いは叶えられ


今では多くの方が当たり前におうちにお風呂がって


外の入りに行くのは


娯楽感覚として足を運ばれる場所となっていると思うの


そんな時代は今では当たり前だったり


なんなくできてしまう事が


非日常的なもので


メリハリがはっきりとあって


だからこそ特別な思い出や記憶として


残っているのだと思うの


でもその頃幼かった人たちにとっては


苦を苦とも思わずに歩んでいたけれど


大人たちはもっと豊かになりたいと願い


過ごしていたと思うの


時代の変化は多くの方の集合意識が


作り上げて行くものだから


今の時代は多くの方が願った形ではあると思うの


人が昔の方が良かったと感じる時は


単純に記憶が美化され整えられているから


そう感じるだけだと思うの


冷静に細かく思いだして行けるとしたならば


必ずどの時代にも


その方の力量に合わせた


問題や悩みが届けられていたと思うの


でも人間って不思議なもので


記憶は意外と正確なものが少なく


良い意味で自分の都合がよいように


無意識に書き換えているそうだから


どんな時も過去よりも未来よりも


今現在が一番つらいものらしいの


でもいまこうしている間にも


数秒ごとに今が過去になってゆくから


たとえ今何か問題や悩みがあっても


その痛みは和らいでゆくものなんじゃないかなって


思うの


今の私たちは恵まれた時代に生きていて


その豊かさが当たり前になっていて


昔誕生日の時だけ食べられるケーキが


何よりうれしかったレベルには戻る事が出来ず


今の時代を生きている方の多くは


喜びを感じるレベルが無意識にはいレベルになっていると


思うの


でも私はその事が良い事ではないとは思っていないの


なぜならば人間はそうして


次の扉を開き進化してきたのだから・・・


人は何であっても次々に進化してゆける事に


希望を持ち


何気ない毎日を輝かせている生き物だから・・・


私が幼い頃夢のように思っていて


今では当たり前になった事があったように


私たち一人一人は


自分が忘れているだけで


夢のように思っていた事を


一つ一つ叶えて


今という場所にいると思うの


もしも今何か問題と向き合っていたり


心揺れる出来事に包まれている方も


決して自分の選択が間違っていたから


そうなったわけでもなく


次の望みを叶えるために


でこぼこ道の近道をあえて選んでいる事もあると思うの


神様は人間の想像をはるかに超えた形で


私たちの望みをいつの時も叶えてくれたように・・・











昨年からフィットネスクラブに通い


その中で仲良くなった女性がいるのだけれど


その女性は幼稚園へ通うお子さんと


小学生になったばかりのお子さんがいるので


二人が幼稚園や学校に通っている


空いた時間に合わせて


フィットネスクラブへ足を運んでいるのだけれど


長いお休みになるとどうしても


いつものようには通えずにいたのだけれど


この間は初めて友人や保育所のような所の


サポートを受けて来ていたの


でも何となくワクワクした時間と共に


何か瞬間的に笑顔が消える事が多く


どうしたのかなって思いながら話をしていると


体調がここ数日優れないようで


それに伴い精神的にも保たれていないようだったの


私の勝手な想像なのだけれど


彼女は今まで人に子供を預ける事なく


どんなに辛くっても


すべて自分でやってきた方だと思うの


たとえほんの少し一人になりたい思いが生まれても・・・


それが今回は


自分の気持ちに正直に行動した事で


嬉しさ半分・持つ必要のない罪悪感半分だったのかなって


感じていたの


彼女とはよく美容について話す事があって


話が盛り上がるのだけれど


その日はふっと


「ここにいる人たちって


自分の倍以上の人たちが多いけど


こんな風に動ける人ってかなり恵まれている人だと思う


自分がその人たちと同じ年になったら


こんな風に動けないと思う」とつぶやき


うつむいていたの


以前の私ならばきっと有り余る元気があって


痛みを知らない頃ならば


よかれと思い前向きな言葉を相手に表現して


自分が心地yくなるために


押しつけていたと思うのだけれど


病という大切な経験をしている今の私は


彼女の揺れ動く心身のアンバランスが辛く


前向きになれない自分を


自分が一番わかっても出来ない事が


辛いんじゃないかなって思ったので


「そうだね


でも私たちは早い段階で身体を動かしているから


素敵な熟年になれるかもよ


今は時代が良くなっているから


逆に元気すぎて同じ年代の友達を探す方が


難しかったりして(笑)


私も病の時には毎日絶望的な気持ちで


狭い行動範囲で狭い視野でしか


考える事が出来なかったけど


今ある悩みはほとんどが幸せな事を


別の角度から見ているだけで


荷物でも何でもないはずだよ」と伝えたの


そうしたら急に「これからどうするの?」と


帰ろうとしている彼女が訪ねてきたので


もう少し運動する事を伝えると


彼女も笑顔になって


お互いにもう少し頑張る事にしたの


女性ってたぶん結婚し妻となり


母親となる流れの中で


たとえ現実的には自由な時間があったとしても


心の解放感は何となく少なくなるんじゃ


ないかなって感じているの


別にこれから誰か恋人を作ってトキメキたいとか


友達と朝まで遊びたいとか思ってはいなくっても


どこにいても家族の事が気になって


色々考えてしまうくらいならば


おうちで静かに過ごした方が良いかなって思ったり


近くの見慣れたすぐに帰れるエリアで過ごしたり・・・


そんな風に過ごすうちに


人間関係も小さく小さくなって


その小さくなった人間関係の中では


いくら共に時間を過ごしても


一番話したい事が話せない人間関係で


自分個人として繋がる友人とは違っていたり・・・


なのでまだまだ若い年齢なのに


まるでこの退屈で平凡な毎日が


永遠に続いてゆくんじゃないかと思えるくらい


身動きができなかったり・・・


何となく母親という存在を


聖母のようなイメージを


世の中は押しつけている部分があるけれど


母親もほんの数十年前は


恋をしたり友人ととりとめのない話で


長話をして過ごしていたりしながら


日々キラキラ女性だったと思うの


私の母が以前ふっと私に表現していた言葉なのだけれど


「あんたから見たら



ただのおばさんに見えるだろうけど


こんなに年をとっても


20代の頃と心の中は何も変わらないんだよ


気が付いたら結婚して


気が付いたら母親になっていて


気が付いたらこんなに年とっていただけで・・・


母親だから母親らしくしなきゃって


自分に言い聞かせて色んな事を


あんたに言ってきたけど


心の中ではあんたの気持ちはわかるし


あんたが楽しんでいると


いいなって思う事もあったんだよ」と表現した言葉が


私の中にはあって


年齢だけで多くの事を知っていて当たり前


多くの経験をしているんだからこうだろうという


表現はとてもプレッシャーのなる事もあるんじゃないかなって


感じたの


女性は結婚と共に今まで慣れ親しんだ


名字が変わると同時に


人生の流れも変わり


時に自分の人生を生きる事にさえ


持つ必要のない罪悪感を感じるようになっていったり


何の達成感も評価もない


でも自分がいなければ絶対に困るポジションで


多くの女性は


がんばているんじゃないかなって思うの


その流れが家族にとっては当たり前な


流れになっているかもしれないけれど


様々な出来事のたびに


妻・母親の笑顔と共に


感謝の思いを育んでいるとは思うの


極端な表現かもしれないのだけれど


らしくないと表現される行動をたとえ望みしたとしても


その中でも人は


様々な事に気づき学び


個人個人が自分の人生の栄養として


ゆけるものなのだと思うの


誤解を恐れずに表現させていただくのだけれど


私の母親はまじめで


自分の気持ちよりも世間体などから


すべての選択をして行動していた事もあって


周りから見つめると立派な母親だったけれど


そう装う事に日々フラストレーションが生まれる母は


無意識だとは思うのだけれど


いったんしつけのためにと叱りだすと


止まらなくなり


気がつくと自分のストレスの解放になっていて


私は恐怖で母に自分の思いを表現できない子供だったの


特に同じ世代のママ友たちと会った時には


その時の私の振る舞いが


自分の望むものではなかった時には


家に帰ってから大変な事になったり・・・


それでも幼い私は両親がいなければ


明日もないわけだから


自分の逃げ道として大人になったならば


もう我慢しなくっても済むんだって言い聞かせて


幼い長い時間を過ごしていたの


そして私は予想通り中学生になると


私が通りと目も合わせないくらいの威圧感を持つ


存在となり


日々両親を困らせる存在となっていったの


その頃はもう幼いころとは違い


腕力でどうにかできる状態ではない事もあって


母は毎日みんなが寝静まった後に


飲めないお酒を飲みながら無言で泣いていたの


そしてある日真夜中人の気配を感じ


薄目を開けると母が私の寝顔を見ながら


頭をなでてきたの


私は眠ったふりをしていたのだけれど


母の手元には刃物があって


その瞬間恐怖と言うものよりも


元々は母からこの世に送り出してもらったんだから


終るなら終るのも仕方がないかなって思っていたの


そんな時間はきっと数分だったのだと思うのだけれど


とっても長く感じる時間だったの


そして朝を迎えて目を覚ますと


家族は仕事や学校に言っていなかったのだけれど


ふっとテーブルの下を見ると


母が書いている日記があって


母の気持ちが書かれていて


その中に


「生まれた時は天使だったのに


何でこんなに変わっちゃったの


この子がこんな風になったのはすべて私の責任だから


けじめとしてこの子をころして


わたしもしぬ


でもできなかった


あの子の寝顔を見るとやっぱり天使だ」って


書かれているのを見たの


私はその読めないくらい思いをぶつけた文字を読んだ時


今まですべての出来事を洗い流してくれるだけの


エネルギーが注がれた気がして


その日から少しずつ変わっていったの


そして母も少しずつ変わってきて


父への過剰な気遣いや


心の負担になっていたママ友たちとの付き合いを


やめていったの


そして私と話す時にも


自分の意見を押しつけ表現する事から


いつも私の話を聞いてくれるようになり


たとえ母の中ではきっと否定したい話もあったとは思うのだけれど


絶対に否定せずに


聞いてくれるようになったの


そして一番大きかったのは


世の中の人がどう思っても


私はこう思うという事を大切にするようになった事なの


一見このような出来事は


ないに越した事はないとは思うんだけれど


互いに大きく傷つけあったかもしれないけれど


その傷は深いもののように感じていても


本当はお互いの殻が厚く


それを破るためには


これくらいの事が必要だったのかなって


今では思えるの


秘めていた出来事だったから


お互いの姿を周りが見たならば


母も私も別の立場から非難されるのかもしれないけれど


自分らしくいられない事は


自分が意識しなくっても強いストレスとなっていて


そのストレスが社会の中であっても


立場が強い人が弱い人へと


もっと強いストレスとなるものを手渡して行くものだと思うの


そう思うと社会が求めイメージするものに


無理に自分を合わせる必要はないと思うの


私が子供だったならば


母親が自分のために色々な事を手放してゆき


笑顔が消えてゆく事の方が辛く


ある意味家族の我儘から不満を表現されるくらい


自分らしい好きな事をしてくれた方が


寂しさよりも喜びの方が大きいと感じられる


母親と接する事が出来るんじゃないかなって


感じているの


特に子育ては色々なマニュアルが伝えられているけれども


もしもそのマニュアルがすべての人にとって


正しければ


世の中にはロボットのように


予想外の事をしない人ばかりで


単色の世界になってしまうと思うの


同じ世代のお子さんと過ごされる方たちは


様々な情報交換と共に


それぞれが持つ子育て論を持っていて


自分の子育て論とは違う人と出会うと


自分の子育て論の正しさをある意味で


自分に言い聞かせるように


押しつけてくる方も知るかもしれないけれど


やはり人それぞれだから


人に対するものには


これが絶対に正しいというものはないんじゃないかなって


感じているの


大人になってもそうだけれど


プレッシャーをかけられればかけられるほど


それが原動力となる方もいれば


その逆に結果にこだわらず許された範囲で


力を発揮できる方もいたり


様々だと思うの


それを一番近くで見つめている家族が


一番わかっているのだから


世間の物差しで無理に計るのではなく


自分の中にある真実の物差しで


計ってゆく事が大切なんじゃないかなって


感じているの












私の友人の中に


とてもしっかりしていて


時にそれが計算高く感じることさえ


ある人なのに


なぜか好きになる男性はいつも


どう見ても幸せを共に


築いてゆける相手ではない感じの人なの


まだ友人の事をあまり知らなかった私は


とっても不思議に思うのと同時に


彼女のそんな部分に


人間的な温かさを感じていたの


人間って誰でも


多くの事にはしっかりと考え


正しいと思える判断をしているのだけれど


ある人はお酒やたばこには


あまり自分にはよくないか持って思いながらも


離れられなかったり・・・


でもそんな部分を知ると


私はホッとする事があるの


それが何となく人間の愛すべき部分のように感じて・・・


ストイックに頑張っている方も


素晴らしいとは思うのだけれど


ある部分でその人らしさが見える瞬間って


自分から見ると恥ずかしく感じる事だったり


自分の好きになれない部分のように


映る事があるけれど


本当はそんな事はなくって


その良い意味での隙間が


人との縁なを繋いでくれる事もあるんじゃないかなって


感じているの


人はあまり多くを語らないだけで


通る道はそう違いはなく


人からは評価されないだろうことも


体験してきていると思うの


自分の事って近すぎて見えなくって


自分の判断と基準で


良く見せようとして逆にそれが


誤解を招いていたり・・・


先ほど書いた友達の事をあまり知らない時には


先をあまりにも考え行動している事もあって


冷たく割り切りの良い人だと感じ


あまり好きになれない時もあったのだけれど


だんだんと親しくなり


仲間同士で旅行に行った時


とっても疲れていた私は体調が整わず


吐いてしまった事があって


「ごめんね・ごめんね」と身体を起こし伝えていると


友人は素手で私が吐いた物をかたずけてくれたの


その瞬間


とっても驚いてしまったのと同時に


私が友人に対するイメージは


たったひとつの側面だけで決めつけていた事を感じ


自分が恥ずかしくなったの


そしてその時人から見て良いかどうかは別にして


人の助けとなる事を喜びとできる人だから


つい問題を多く抱えた恋人に惹かれて行くのかなって


少し理解ができるような気がしたの


もしも友人が誰からもうらやましがられる


立派な人とお付き合いをしても


心から幸せを感じるかどうかわからないと思うの


世の中ではわかりやすい尺度で


あらゆるものを計りわかいやすく答えとなるものを


作り上げるけれど


本当の幸せはその人にしか分からない事も


あるんじゃないかなって


年を重ねて感じられるようになったの


それまでは私自身


自分が心から幸せを感じる事よりも


誰かが望む幸せにこだわり


うらやましがられるかどうかを無意識に


優先していた頃があったの


でも何かのきっかけで


その事があまり意味がないことだと感じてからは


周りから自分の生き方を肯定してもらえなくっても


そんなに気にならなくなっていったの


それでも頭ではわかっていても


思ったように行動できるまでには


時間が必要だったのだけれど・・・


そのように自分の幸せを優先できなかったのは


きっと人よりも多くのコンプレックスを抱えていて


そのすべてを隠すためには


誰もが望む幸せが必要だったのかなって


今では思うの


私の知り合いに生まれた時から豊かな暮らしで


自分が望む事は何でもできたおうちだったのだけれど


その後好きな人ができて


結婚されたのだけれど


相手が経済的にあまり豊かではなく


本当に大変そうだったのだけれど


悲壮感はまるでなく


初めて体験する事に溢れた毎日を


楽しんでいるように映ったの


それはきっと彼女自身


幼いころから自分を否定せずに過ごし


経済的な見栄も何も必要がない暮らしを送ってきたから


自分がどのように映ろうとも


気にならなかったんじゃないのかなって


思うの


でも逆に幼いころから経済的な事によって


その事がコンプレックスとなった方だったならば


現実がどうあれ


無理をしてでも豊かさを演出し


その様な時間がいつまで続くのか


恐怖さえ感じてしまっていたと思うの


人は瞳に映る印象とはまた違う事も


多いと思うの


この間フィットネスクラブで何かがあったようで


多くの方たちがあちらこちらで誰かの噂話をしていて


そのほとんどが誰かを心配したような雰囲気で語りながらも


わざわざ問題を大きくしているのを感じながら


聞こえてくる話しに


心を重ねないようにしていた時


伝言ゲームのように来る人来る人に


そのお話しを伝えていたいた方がいて


それを聞いたある女性が


「実際はどうなのかもわからないのに


勝手な判断でそんな話はしない方がいいよ」と


表現されたのが聞こえたの


その時かっこいい~って思わず思ってしまうくらい


自分の正義を迷わずに表現できる


その方を尊敬してしまった事があったの


そのみんなのターゲットとなった方は


私と同じで少し言葉足らずで


誤解される事があるような方ではあるけれど


よくよくお話しをするととても良い方なのだけれど


多くの方たちは


話した事がないから


何となくの印象でその方を


決めつけられているのだと感じたの


そう思うとその様な決めつけられた時


釈明できる場面がなければ


何だか怖いなって感じていたの


自分の幸せよりも人の幸不幸が気になるのは


無意識に刷り込まれた思い込みのせいだと思うの


世の中では幸せの椅子の数が決まっていて


自分が幸せになる時


その陰で誰かが悲しみ


誰かが幸せになる時


自分が座る幸せの椅子がなくなってゆくような


根拠もない思い込みが漠然とあるからなんじゃ


ないかなって感じているの


だから自分以外に人が幸せになると


わけもなく焦ったり妬んだりしてしまうのだと思うの


そして自分だけが幸せになってもよいのかなって


漠然とした罪悪感のようなものが生まれる方も


形は違うけれど


幸せの椅子には数が決められていると感じている


部分もあるんじゃないかなって


感じているの


でもすべての人が同じ幸せの形を求めてはいない限り


それぞれの方が座れる椅子はちゃんと


用意されていて


時にはせっかく座った椅子であっても立ち上がり


別の椅子を探される方もいたりするのだから


座るタイミングが訪れた時には


焦ることなくちゃんと座れるものだと思うの


物質的なものには限りはあるけれど


瞳に映らないものには


限界はないものなんじゃないかなって


思うの


そう思えるようになれると


心軽くどんな時でも


自分の大切なものを守りながら


歩んでゆけるようになるんじゃないかなって


思うの










私はよく


パワースポットと伝えられている場所に


足を運んでいて


それは何となく習慣になっているのだけれど


いつも石とふれあう私は


自然からエネルギーを受け取るのが


なんとなく心地よくって


作るアクセサリーにも


そのエネルギーを転写できるような


思いがあってなの


そしていつも感じる事なのだけれど


自分が何かを心に思うと


ちゃんとそれに繋がる情報が


どこからともなく届けられるの


今回は今まで身近なのに知らなかった


パワースポットや御利益などを


偶然に入ったカフェの隣に座っていた


女性二人が話されていて


つい聞き耳を立てながら


メモしていたの(笑)


そしてもっと驚いたのは


その方が身につけているロザリオに


心惹かれ何気なく見つめている時


隣の方の一人が


私のhpの名前と


そのロザリオを友人からプレゼントしてもらった話をされたの


その瞬間


喜びと驚きと


このままお話を聞いているのが


ちょっぴり怖い気持ちがよぎったのだけれど


きっとこのメッセージを


このタイミングで聞けるという事は


良い事もそうではない事も


神様が私に姿を変えて


伝えようとしてくれているのだからって


受け止めようと思い


その方たちが立ち去るまで


メッセージを耳から心に


吸収していたの


そのロザリオを身につけている方は


とてもエネルギーに敏感な方のようで


「今ではロザリオがないと不安になるくらいなの


この間も出かけてすぐに忘れている事に気づいて


急いで取りに帰ったんだよ(笑)」と話されていて


横の席で思わず泣き出しそうなくらい


私は嬉しくって嬉しくって


お礼を言いそうになっていたの


でも勇気のない私は


ただただ大きな喜びに抱かれながら


今まで私のアクセサリーを受け取ってくださった方たちに


言葉では言い尽くせないくらいに


感謝とみんなが


それぞれの街で笑顔になってくれていたならば


ありがたいなって感じていたの


そして今回何より感じたのは


よく今まで周りの方から


人の見えない部分


(パワースポットに足を運んだり


教会や神社などで祈りをささげる事)に


時間を注ぐ事は


無意味なんじゃないかと表現される事もあって


確かに感じない方もいるのだし・・・と


心が揺れる事もあったのだけれど


今回改めて


アクセサリー制作する時間よりも


多く注ぐ見えない時間も


やっぱり大切なんじゃないかなって


感じる事が出来たの


私にとっては大切な儀式になっている事もあって


アクセサリーをオーダーしていただいても


いつもお時間を少し頂く事が多く


お待たせしてしまう事も多いのだけれど


要領があまりよくない私は


ひとつのアクセサリーと向き合い


制作させていただくために


あちらこちらに足を運んだりして


私とはまた別の存在たちに助けてもらわなければ


作れないくらい


私だけのイマジネーションではどうしても完成できないの


今回は今まで足を運んだ事のない


パワースポットに


ゴールデンウィークにいくつも行こうと思っているので


そこで何かを受け取れると


いいなって今から


とっても楽しみなの











最近国籍を変えて


オリンピックを目指す方のお話が


話題に上る事が多く


そのたびに感じているのは


良く精神世界で語られている


知恵を形としている姿なの


昔からよく表現させていただいている事なのだけれど


私たち人間は無限のように


自分が考え望む事は


叶えられる可能性を秘めているのだけれど


多くは自分の思考や見方によって


無理だと思い


そう思う事で人は


自分の思考にあったものを見つけては


自分の考えと現実の統一を計りながら


ある意味で自分の考えの正しさを感じ


迷いを少なく


歩めるように整えていると思うの


でも本当は自分が考える事


イメージできる事のほとんどが


可能性を持っていると思うの


たとえば女性は子供を授かるには


限られたタイミングの期間しか


無理だと表現されていても


あらゆる道徳的な思いや経済的な事を


考えずに


絶対に叶えたいと思えば


これだけ発達した医療が生まれている時代ならば


何歳になってもそれは可能だと思うの


そして経済的なネックがあったとしても


それは自分で支払うという所に


意識が注がれ


すぐに答えを出しているけれど


きっと今の自分では想像がまだできない領域で


可能な事もあるように思うの


私たちはあらゆることに


自分にフィットした思考や波動に合ったものしか


受け取れないから


私たちが奇跡だと思っている事であっても


限界を設けず


様々な角度から見つめる事が出来たならば


多くの事は叶えられるんじゃないかなって


感じているの


私たちは時々


年齢・環境・自分のレベルによって


あれは無理・これはありえないと決めつけて


それに対する説明を


誰に聞かれたわけでもないのに


自分に言い聞かせて


いつも夢見る事を怖れる事があるけれど


自分が強く望む事は


きっと神様も


その様に歩んでほしいと願っていると思うの


なぜならば


みんなが同じ事を望まないのは


その人には可能だから


強く惹かれ望んでゆくと思うから・・・


本気でその望みを叶えたいと思えば


叶える事はきっと可能だと思うの


私たちは見たいものを見たいように見る脳を持っていると


伝えられているから


可能だと思うとあらゆる方法が見えてくるものだと思うの


でも私たちの多くは


望んでいると思い込みながらも


ほんとは叶えたいと思っていない出来事も


多くあると思うの


たとえばよく宝くじが当たったら・・・って


空想のお話でも


ワクワクしながら話しながらも


最終的にはそのお金の管理に思いを注ぎ


不安や怖れへの話が流れて行き


話しを終える事があると思うのだけれど


そんな時には


無意識に自分では気づいていないけれど


今の自分に満足していて


生活すべてを変えてまで


受け取る事を望んではいないと思うの


でも自分では気づいていないから


行動は望んでいるように行動し


思考は望まない形で見つけている


不一致の中過ごされている方もいると思うの


人はとっても神秘的で不思議なもので


ある部分自動的に勝手に


動いている部分があって


ある事を考え過ごしていると


その物事が動きだし


自分も意識せずに導かれていると


感じる事があると思うのだけれど


オートマチックに設定されていて


自分が設定した事も忘れている場合が


多いと思うの


少しお話は違うかもしれないけれど


私たちは無意識に歩く事が出来ているのも


その様な作用で


右足を出して左足を出してって


意識せずに歩いているように


私たちは歩こうと思った瞬間に


疑う事なく自然に


取得した自動的な行動だと思うの


そして私たちは物事が叶うための経過や流れに


こだわりすぎて


自分が考える経過や流れでは


到底無理だと思ってしまう事も


ほんのささいな脇道に入ったり


寄り道となる予想を超えた


歩みの中で


予想を超えた出会いやきっかけ


タイミングが整い


叶えられる事もあると思うの


良く物語などでは語られる


不思議な流れは


そっと心静め見つめて見ると


誰の歩みの中にもあった


出来事だと思うの


人はそれぞれに自分の人生に何かを求め


一見その目的は


自分がただただ望んでいる事のように思うけれど


一人ひとりが


必要だからこの時代に送り込まれ


多くの方の琴線にふれるきっかけを


与えるために存在していたり


何かを考える機会を与えたり


みんなが間接的であっても


進化のために


瞳には映らない何かを与えたっていると思うの


その時に一番もったいないのは


正しいかそうではないのかだけで


答えを出してしまう事だと思うの


そう思ってしまう事で


他に新たに受け取る何かを受け取れなくなったりして


その出来事自体が


ただ思い煩う出来事や嫌な出来事としか


思えなくなってしまうと思うの


その様な流れが定着してしまうと


世の中は恐怖と悲しみに溢れていて


自分ではコントロールできない


その不運に出会わない事だけに


意識が注がれ出してしまい


気がつくと自分が望むものを選択する


小さな勇気を持てなくなってしまう事もあると思うの


私たち人間は奇跡を形にした命を持つ


今でもすべてを解明できない


神秘の存在なのだから


一人ひとりがもっと自分の価値に気づき


人生を謳歌してもよいんじゃないかなって


感じているの










人が辛いと感じる時って


その多くは現実的な辛さよりも


迷いによって


方向性が定まっていない中で


過ごしている時なんじゃないかなって


感じているの


たとえとっても大変な中で過ごしていても


その事で自分が描くものを


信じて過ごしている時には


その大変さを超える力が


その時々湧き上がり


人が思うほど辛くはないものだけれど


本当にこれでいいのかなっとか


こんな事をして何になるのかなって


迷いや疑問の中で


与えられた時間を過ごしているのは


現実にさほど大変な時期ではなくっても


心が辛さを感じ


その辛さが目の前に映る世界を


大変に感じてしまうと思うの


そんな時には自分の心を開いて


自分はどうしたいのかを


自分で感じて見るといいんじゃないかなって


感じているの


その時迷いとなっているという事は


必ずふたつの存在しているから迷い


方向性が定まらず


その二つの間に立っていると思うの


もちろんその立ち位置で過ごしていても


構わないとは思うのだけれど


その様な時間が自然に解決されるには


とっても長い時間が必要だったり


その長い時間を過ごしてきたにも関わらず


最終的な解決の時期が来た時には


半強制的に周りから決断を与えられる事が多く


言葉では上手に表現できないのだけれど


せっかく耐えてきた努力に


実りを感じない事もあると思うの


それならば自分の人生を


早い段階で楽にしてあげられるのならば


そうしたほうがいいんじゃにかなって


思うの


そのために迷いとなっている二つある問題を見つめ


自分の心にフィットした歩みを


早くから整えていった方がいいと思うの


その二つの迷いと感じる問題は


多くの場合


どちらも大切でつい同時に


叶えたいと思い


そこから迷いが生まれると思うの


でも心静かに見つめて見ると


若干の時差や優先順位を


自分で決められると思うの


なぜならば


神様は私たちに必要なものを同時に与え


行う事を強制している事は少なく


迷いは角度を変えて見ると


恵溢れた幸せに包まれている自分を


確かめるために


与えられている時間でもあると思うの


本当に何もなく過ごしていたならば


迷いで過ごす余裕も


選び取る豊かさもないと思うの


もし今何かふたつの事で悩んでいる方は


ほんの少し心を開き


迷いの問題を見つめて見ると


優先順位を決められる時差を感じられると思うの


その事をもしも見つけられたならば


あとは優先した問題が


早く形となるよう


信じて過ごす事で


今という時間が輝きだし


他の事にもその輝きが広がり


どんどん自分が思っている以上に


自分の人生が至福に満ちたものと


なってゆくんじゃないかなって


感じているの







今日は今まで足を運んだ事がなかった


パワースポットに足を運んでみたの


いつもパワースポットの領域に入ると


必ず感じる空気が澄んだ感じと共に


言葉では上手に表現できないのだけれど


今回はあらゆるフィルターがクリアになった気がしていると


視界に入るもののエネルギーを


色で見る事が出来たの


その感動をもしかしたら


写真に写せるかもって思い写してみると


ちゃんと写って


「見えないよ~」って言っていた


パートナーにも見せる事が出来て


嬉しかったの


よくパワースポットに足を運ぶと


その場所にあるものにふれる事が多いのだけれど


その時やわらかな何かを


感じたりする事があるのだけれど


今回は左手がビリビリと強くエネルギーを感じる木や


ある木は両手が吸いつくように引き寄せられ


ビリビリト強く感じたので


ちょっぴりびっくりして


その木から手を離し


木に背を向け背中を当てていると


なぜだか歯がズキズキしてきたり・・・


その大きなエネルギーに


驚きと感動を感じながら


改めてこの土地に生まれ育ち


どこでも知っているような気になっていたけれど


まだまだ知らない


素晴らしいところが身近にある事を感じ


遠い場所に何かを求めるのではなく


もっと身近にある


喜びに瞳を向ける事も


大切なんじゃないかなって


感じていたの


人はだれでもエネルギー体として


存在しているから


その場所に合うエネルギーになるから


意識的に良いと伝えられる場所で


過ごしてみるだけでも


その時たとえ何も感じる事がなかったとしても


細胞レベルでは


何かしらの小さな変化をもたらしてくれると


思うの


今回足をはこんなパワースポットあらk受け取った


エネルギーを少しでも


おすそわけできたら嬉なって思い


エンジェルアイズに写真を


アップさせていただきましたので


瞳からパワーを受け取っていただけたら


幸せです