2012年3月





私たちは時々


精神性の成長と進化を経てゆくうちに


多くの疑問や迷いに出会う事があると思うの


そんな時私たちはまるで


初めて出会った問題のように


戸惑いパニックになる事があるけれど


ほんの少し心に静寂を作る事が出来たならば


その問題の多くは初心を忘れている事に


気づかせてくれる事があると思うの


その事に気づくと答えはすぐに見つけられたり


自分が進化と共に


今まで学んできた事を


今現在の自分にプラスしながら


今までよりも深まった自分らしい


精神性の高まりと進化を手にできると思うの


ついこの間私が人生の中で出会った本の中で


とても印象に残っていて


大好きだった「神様はハーレーに乗って」という本を見つけ


懐かしさから手にとって読んでみたの


ストーリーはわかっているから


今更学ぶ事は特にないとは思っていたのだけれど


この本を初めて読んだ頃の自分が蘇り


言葉では上手に表現できないのだけれど


今の自分が思っている自分とは少しずれていて


虚栄心から迷いや問題を生み出し


時には心の負担を作り出している事を


感じていたの


その本の主人公の女性はハードワークで


自分がしたい事をする時間もなく


いつも満たされずに過ごしているのだけれど


偶然のように知り合った彼にその話をすると


彼はなぜ?好きなように生きられないの?と


不思議そうに尋ねると


彼女は高い家賃や様々な経費


生きて行くために必要なものを維持するために


仕事時間を増やし働かなければならない事を


説明すると


彼女が守らなければならない生活のひとつひとつを


彼が本当に必要なものなのか問いかけてゆくの


たとえば彼女のマンションには共有プールが


あるのだけれど


彼がどうしても必要なのかを彼女に問うと


彼女は自分の体形維持には必要な事を伝えると


彼は月に何回使用しているのか?など


ひとつひとつゆっくりと彼女に問いかけてゆくと


初めは彼女も忙しさや色々な理由を語り


使用できないけれど必要なのだと表現しているのだけれど


最終的には自分の虚栄心から


自ら自分の人生を思うようにできていない自分に


気がつく場面があるのだけれど


それを読みながら


私も少なからずそんな部分があるのを感じていたの


そんな中


たまたま大切な友人と会い話していた時


その友人は独身という事もあって


未来に対する不安を早い段階で予測して


不安を感じている事を話してくれたの


一見既婚女性と独身女性は


未来が大きく違う気がするかもしれないけれど


女性の人生と言う部分ではそう違いはないように


私は感じていて


私も時々ふっと一人で歩む時期が来た時


独身の友人よりも


私の方が社会的に何もできない分


深く見つめたならば


不安が大きい事を伝えたの


そして私が自分の心を安定させてあげるためにした事を


友人に伝えたの


それは一見前向きではないように


映るかもしれないのだけれど


色々なものを手放す時期が来た時をイメージしてみると


自分が知っている範囲の中で


不安が大きくなる事があるのだけれど


それはあくまでも


自分の知っているものの見方の中で


ぐるぐると廻るイメージだから


不安を打ち消すために


頭の中で考えるのではなく


具体的に瞳に映せるものを探して


不安を溶かす事をしているの


たとえば数年前ならば


病にって将来母親になる人生が


私にはない事を感じ


年を重ねてゆく事がとても大きな不安に感じた時


今まで自分が瞳に映してきたものとは逆に


母親と言う人生を歩んでいないけれど


幸せに過ごされている女性を探したり


年を重ねても心豊かに生きている女性を知る事で


私の不安は小さなスペースの中でしか知らなかった


女性の生き方を決めつけていた事を感じ


不安は溶かされていったのを思い出し


友人が不安に感じている事を


解消できる事はないかと思いながら過ごしていると


いつも通る道でたまたま通りかかったアパートに


家賃管理費を含め2万円と書かれた張り紙を見つけ


特に今必要なわけではないのだけれど


ふっと見て見たい思いが溢れ


外で雪かきしている方に尋ねると


偶然に大家さんで中を見せてくれる事になったの


そうするととってもきれいで日当たりも良く


お部屋も二つあって


お風呂もあって


今まで自分が2万円の住まいというものに持っていた


概念が変わるくらいだったの


時代も変わりたくさんの物件が溢れてきている今は


1年1年変化しているのを感じていたの


そしていつものように友人と話す機会があった時話すと


友人は柔らかな表情になって


「何だかほっとした


年を重ねて仕事もしなくなっても


普通に生きられる選択がある事を知って・・・


今はもう少し冒険してもいいだなって


嬉しくなっちゃった」って話してくれたの


友人は私が今読んでいる本の主人公のように


ハードワークで


その理由は高い家賃と様々な経費の


維持のためだったのだけれど


ある時私が暮らしたい街の話をした時


彼女もそう思っている自分に気づいたようなの


だけれど


自分の手が届く住まいは今よりも間取りが狭くなり


車の維持も考えると


とても難しいと考えていたのに


私と不動産屋さんへ行って今の住まいを見ていた時


そのお部屋から見える目の前のビルのお店から


数年前


「こんなマンションに暮らす人って豊かなんだろうな


私もそんな暮らしができたらいいな」って


思っていた自分を思い出し


言葉を失うほど


彼女の中で何か頭で考えるという意識とは別に


ハイヤーセルフと繋がる感覚を感じていたのを


横で私も感じていたの


それで彼女が始めた事は


今まで自分の周りに何となくあったものを


すべて処分し


新たなお部屋に納められるものだけを


何日もかかって選択していったの


そうしてゆくうちにきっと物に重ねていた


過去への執着も手放していったんじゃないかなって


感じているの


それからの彼女は自分に本当に必要なものを


そうではないものを知り


シンプルに人生を見つめ直す事で


今までやりたかったけれどできなかった


いっぱいあった理由をひとつずつ見つけ解消し


今は長い間やれる時期を待っていた自分が


うそのように


自分がしたいと思った事が


自分の見方を変える事で


いつでもできる事を感じているのか


自信溢れた姿で過ごしているの


それまでは物質的にはとても満たされていたのに


それとは反するように


未来への不安と


今現在の自分が思うようにできない不満で


時には何のために働いているんだろうって


よくつぶやいていたの


彼女の姿を長い間見つめる機会を与えられてきた私は


彼女の歩みから


書物や誰かが語る知恵が


本当に現実になる奇跡を見つめて


時折


私はある意味でまだまだだなって感じる事があるの


あれもこれも大切って思う気持ちがなかなか消えなくって・・・(笑)


でも面白い事に


人は究極に大切なものを選び取る時


意外と経済的な価値がないかもしれないけれど


その方にとっては価値のあるものを


ずっと持っている事が多いように感じたの


昔仲が良かった友人は火事で実家がなくなった時


唯一残っていた写真を


どんなに環境が変わっても大切に持っていて


その後も増えて行く写真を何よりも


大切にしていたり


ある知り合いは真っ黒になった小さなぬいぐるみを


いつでも大切にしていて


その方にとってはそのぬいぐるみが


幼い時から自分を癒してくれていた存在で


結婚し母親になってからも


大切にしていたり・・・


でもそのような経済的な価値では計れないものが


その方オリジナルの人生を支えてくれる


価値のあるものなんだろうなって


感じているの


私が幼い頃


引き出しをあけるとその中に


お菓子の空き箱があって


お菓子があるかもってワクワクしながら開けて見ると


その中には独身の頃


母が父に送った手紙が入っていたの


その手紙の文字は達筆すぎて読めなかった私は


父に手紙を持ってゆき読んでもらおうと思ったのだけれど


父は「これは俺の大事なものだからさわるな」っていわれ


読む事は出来なかったの


幼いころから住まいが変わった


実家の引き出しには


今でも父がいつも「ここはさわるなよ」という場所に


母の書いた手紙がそっと納められているの


今「断捨離」という知恵が流行っているけれど


その知恵もきっと


本当に自分が必要な事を知り


自分が何よりも大切な事が見えてきて


自分の人生をシンプルに見つめる事で


人生をある意味で豊かに過ごせる事が


多くの方にとって


心地が良いからだと思うの


そして滞っていたすべてのものを


今の自分にあったものへチェンジする事で


すべての波動が自分にあったものとなって


運の循環も良くなってゆくんじゃないかなって


思うの









私たちはどんなに相性がよく


大好きな相手であっても


すべてに共感し


すべてを共有する事は出来ないけれど


それでもいくつもある中の一つの糸と繋がり


それだけで共感できない部分や


共有できない部分も


受け止められる事もあるんじゃないかなって


感じているの


たとえば夫婦などの関係では


そう思える事も多いと思うの


恋愛時期はたったひとつの糸が


強く引きあう事で


理解できない事も心重ねる事も少なかったりしても


すべて受け入れられるほど


そのたった一つの糸が輝くと思うの


そして恋愛時期が過ぎ


家族と言う次のステージへと歩みが進んで


わからなくて当たり前のはずの相手に


甘えや共に過ごした時間が長いのだからと


すべての理解と共感を求めてしまうと思うの


それは友人関係でも同じで


仲が良くなればなるほど


何でもわかりあいたい気持ちや共感したい思いから


自分と同じ価値観を求めては


勝手に心曇ったり


寂しくなってしまう事もあると思うの


私自身もそういう経験があって


私の場合は


最も大切に思っている


瞳には映らない感覚的な思いを


大切に思う相手と共有したい思いがあって


少しずつ仲が良くなると


無意識にそういうお話を


様々な経験と重ねてつい話してしまう事がって


そんな時


人によっては「なんか怖い~」と


はっきりとわかるように壁を作る方もいたり・・・


そんな時昔の私ならば


その最も自分のベースとなっている部分が


フィットしないと


この人とは合わないって決めつけ思いこむ事が


あったのだけれど


本当はそうではなく


どうしても思いを寄せられないものが


たまたまひとつその時わかっただけで


決して私を否定しているものではないのに


私は勝手に自分の大切な事を


否定されたと思い込み


それ以上傷つく事を避けるために


付き合いを卒業していた事もあったの


でも誰も私を傷つけようとはしていないのに


自分の甘えから


思うように進まないたびに


自ら心曇ったり


落ち込んだりしていた事がったの


そして私はいつも誰かに理解してもらいたい思いばかりを


強く心に秘めていて


その満たしたい思いが強すぎて


時にり理解してくれない相手に対して


心の中で理解できない相手を否定したり


自分の正しさを自分にささやく事で


自分を慰めていた事もあったの


でもほんの少し自分が立つ位置を変えて見ると


理解してもらいたい思いから


理解できない相手を否定するけれど


私自身


相手を理解しているかといえば


私の方がきっと相手をわかろうともしてないし


何も分かっていないんじゃないかなって


感じるようになったの


そう思うようになってから


自分自身も自分の事


わからない部分が多いのだから


たとえ何十年も繋がりあう相手であったとしても


わからない事・知らない事がって


当たり前んなんじゃないかなって思うの


そう思って人と繋がりあうようになると


不思議なもので


甘えや過度な期待を持たない事で


新たな相手の良さや素晴らしさに気づくようになったの


特に家族の間では


その事に気づかせてくれる事が多いと思うの


冷静に立場を超えて見つめて見ると


親ならばこうしてくれるものという思いから


大きな愛が見えない時があるけれど


親がしてくれている事と同じ事を


他の方がしてくれるかどうかというと


多くの場合それは少ないと思うの


たとえそれが責任感からだったとしても


長い年月


どんな事があっても変わりなく


繋がりあってくれる存在なのに


つい切れる事のない縁に甘えて


過度な要求と期待から


時に感謝を忘れ


外の世界で積もってしまった


フラストレーションの様々な形を変えて


手渡してしまったり・・・


家族以外の方には


小さな親切にもありがたく感謝できるのに・・・


友人関係でも同じだと思うの


私たちは自分の人生に知る必要がない事や


特に必要を感じない事は


知らないし・知る機会を求めない事もあって


私はそれで良いと思うの


そうでなければ自分の事を考えるスペースの容量までもが


いっぱいになってしまうから・・・


だから世の中には様々な分野で


専門知識を持った専門家がいるのだから・・・


私の友人には性同一障害から


心に合わせ女性になった方がいるのだけれど


出会った頃はよく


周りが理解しわからない事を悲しむと同時に


周りの人の知識のなさを否定していた事がったの


そして今も様々な体験からトラウマがあって


友達になろうと寄り添い来る人を


自ら避けて過ごしているの


その理由は一般的な人たちは


性同一性障害の知識をメディアなどで伝え聞く事が多く


その多くは面白い事を話す人とか


興味からで


少し仲良くなって自分の事を話すと


次には友人が友人を連れてきて


「私たちはそんなの気にしないから


みんなで仲良くしよう」って表現されるたび


興味本位なのが伝わって辛くなるそうなの


その様な思いを聞きながらも


何となく本当の意味で


自分を受け入れ幸せになってほしいという思いから私は


「確かに私を含め


知らない分野だから誤解している事も


あると思うのだけれど


わからない事があって当たり前なんだよ


専門家のお医者さんだって


すべてわかるわけじゃないんだから


親や周りの人がわからないのは仕方いと思うよ


私だって病の痛みがった時


周りから「痛いの辛いよね大丈夫」って言われても


あなたにはわからないよって思ってた事あったけど


わかったところで痛みは代わってもらえないし


もしも同じ体験の経験がっても


遠い過去の痛みと今痛いのでも違うし


相手に同じものを求めるのは違う気がするの


○○ちゃんも理解してくれる人が多いと


心強いかもしれないけど


それを求めていると


いつまでも自分が幸せになるのを


遅くしてしまう気がするの


そして少し後ろ向きかもしれないけど


自分を理解してくれないのは当然だと思ってみると


そんな中でもしもわかってくれる人に出会えたら


それは輝く奇跡にならない?」と伝えたの


そうしたら彼女は


「そうだよね


今こうして自分の思いを茶化す事なく


聞いてくれる人と出会えたんだもんね


それだけでも恵まれているんだよね」って


伝えてくれたの


私は病の間


未来に希望が持てず


その頃は女性同士で話す事が辛くなる事が多く


それはある意味で


女性だから理解しあえるからこそ生まれる


私に対する憐れみが


辛かった事があったの


そして女性に生まれたからこそ体験する


悩みや痛みで日々大雨だった私の心に彼女は


「いいよね~私も女に生まれて


そんな風に悩んでみたかったな


さーちゃんは


お母さんにはなれないかもしれないけど


私は母親にも父親にもなれないし


ましてやずっと一緒にいてくれる相手に


出会えるかどうかも分かんないんだよ」と


憐れみではなく


私の問題の見方を変えられるよう


大きな傘で私の心を守ってくれていたの


そのおかげで


私は病だし母親にはなれないけれど


不幸せではない事に気づかせてくれたの


だから私も彼女にもらった見方を変えられるように


大きな傘で彼女の心を包んであげたいなって


思っていたの


人はみんなその人にしか理解できない形の


傷つく事や心にあたたまる事がって


そのすべてをどんなに大切に思う相手であっても


わかりあえないけれど


多くの人は人を意識的に傷つけようと


生きている人はほとんどいない事を


知ってるだけでも


人から溢れる


いくつもの方向に広がる糸の一つと繋がり


人生が豊かになてくるんじゃないかなって


思うの


同じ問題でもほんの少し時間をおいて


見る角度を変える事が出来たならば


問題は自分を悩ませ迷いを


生むために与えられた事ではなく


新たな幸せに気づき


自分の今ある豊かさに感謝できる


機会となると思うの












今日お買い物をしている時


近くにいた外国人の女性が


パッケージなどでわからない漢字を見ては


流暢な日本語で


私に尋ねてこられたの


私はその漢字を英語にして伝えられるほど


英単語を知らない事もあって


う~んって悩んでいると


近くを通られた店員さんが「何かお探しですか?」と


声をかけてきたので


外国人の女性が尋ねてきた言葉を


英単語にして伝えてもらえるようにお願いしたのだけれど


その方もわからなかったようで


「わからなくってすいません」と


その方に伝えるとまた流暢な日本語で


「いいえ・いいえ・いいんですよ


日本の方は人の望みを叶えてあげられない時


ごめんなさい・すいませんといいますが


私はそのような深い優しさを持つ日本人が好きで


日本人になったんでしょ


今日もまた優しい日本人に出会い嬉しいです」と


とても美しく温かい言葉を受け取り


店員さんと私は


何だか嬉しく笑顔になっていたの


その様に表現されて


私たち日本人の多くの方が


当たり前の習慣となっている事も


外国の方から見つめると不思議に映ったり


多くの方がこだわった宗教を持たない日本で


宗教が教えている事を


何の意識気もせずに行っている事に


感動されたりしているんだろうなって思うと


ちょっと私も何気なく日本人の良さや


素敵な事を探してみようと思ったの


そんな時たまたま棚に並ぶ商品を少し離れて見つめていると


そこを通りかかろうとされた女性が


軽く頭を下げて通って行った時


何となくこのような何気ない配慮が


日本人の素敵なところなんじゃないかなって


感じていたの


もちろんすべての方がその様に


振舞われるわけではないけれど


多くの方がまだ無意識の幼いころから


その時々教えられた事の中で


受け継ぎたいものをその方それぞれに秘めて


その場面・場面で


そうされているんじゃないかなって思うと


その当時はうるさいな~って思ったりしていた事も


今ではその様な事を知っていて


よかったって


顔も思い出せない人のにも


感謝が生まれてくるの


私はマナーやルールを知らない部分が


多くの方よりもあるとは思うのだけれど


そんな中でも自分で感じた思いやりの表現を


恥ずかしがらずに


できたらいいなって思っているの









ここ数年


私が出会った方の中には


自分が意識していないけれど


特殊な能力を持っている方がいて


その中の二人は


嗅覚が優れているのだけれど


本人たちは幼いころからそれが当たり前で


みんなもそうだと思っていたようなの


その嗅覚の能力は


匂いで自分にフィットする人かどうかを


判断できたりするから


人生の中で人間関係にトラブルなどがない


恵まれた人生を歩まれているようだったの


そのお話を聞いて


きっと人にはそれぞれ能力があるけれど


その事がその方にとっては普通の事過ぎて


能力だとは気づいていない事も


あるんじゃないかなって感じていたの


その二人はまったく面識を持たず


私が別々に出会っている人たちなのだけれど


お話を聞いていると


同じような表現が重なっていて


私は勝手に何か遠い時代


同じ民族だったり


何か共通の能力を持つ人種だったのかなっと


イメージするだけで


何だかワクワクしてしまうの


でもその二人は精神世界やスピリチュアルなお話は


好まない事もあって


この能力についても身体的な特徴のひとつだと


受け止めているの


私自身も不思議な場面で香りを感じた事が


時々あって


たとえばとって心身が辛かった時


ふっと気がつくとフルーツのチェリーのような


甘い香りがどこからともなく漂っているのを感じ


その時共にいるパートナーに


「なんだろう?この甘い香り?」て表現すると


パートナーは


「え?何にもにおいはしないけど・・・」と


良く答える事があったのだけれど


その甘い香りがするたび


なぜか私はやすらぎ安心した思いになっていて


なぜだろう?って思っていた時


実家で母が自分の人生をあれこれと語っている時


母の兄(私にとっては伯父)の話になった時


あ!あの甘い香りは伯父さんが


いつも取り寄せて吸っていた外国煙草の香りだって


私の記憶とその香りが結びついたの


そしてよく体験しているのは


瞑想している時や


精神世界系の本を読んでいる時


時々お香のようなお線香のような香りが


柔らかく漂ってくる事があって


その多くは深く何かを受け取る事が出来た時なの


元々人間は今よりも視覚に頼らず


超感覚的なものを当たり前に暮らしていた頃は


香りや草花のちょっとした変化


周りの音などから


様々なものを予測したりしながら


自分へのメッセージを受け取り生きていた頃は


超能力に近いものを


誰もが活かしながら過ごしていたけれど


視覚に多くのエネルギーを注ぎ


他の能力までエネルギーが及ばず


退化していった方もいると思うの


でも時々


その頃の能力を残している方も


いるんだろうなって感じていたの


その二人が匂いで


自分にフィットする人を判断できると表現していたのだけれど


その匂いは女性と男性でも違うようで


男性の場合は


時に良い香りとはいえない香りだったり・・・


ただ香水や香料などで


わからない人もいると表現していたの


その方たちが共通して表現していたのは


ほとんどの方が何もつけていない方が


良い香りでその人それぞれの性格も


何も言わなくっても相手に伝えられるのに


色々なにおいでわからなくしてしまっていると言っていたのが


印象的だったの


その話を聞きながら


私にとってはこのような話題自体が


スピリチュアルな感じがするのだけれど


その方たちが表現するには


そうではなく人間の体の機能(医学)的な事で


霊的なものではないと思っているの


ただその二人の悩みは


決めつけや思い込みで人を判断してしまう事を


治したい事のようなの


その二人がそう思うのは


その能力を能力だとは思っていなく


自分の性格的な問題だと思っているの


その時


私が無意識にずっと精神世界やスピリチュアルな事に


心惹かれてきたのがなぜなのか


気づいたの


それは自分の持つ様々な特徴や個性によって


答えが出せない問題のヒントや


時には答えに繋がるものが


そこにあるからなんじゃないかなって


感じたの


もしもその二人も自分の持つ特徴や個性が


能力として与えられた事を知る事ができたならば


問題や悩みが


本当はそうではなく


人生を歩みやすくするために


与えられた素晴らしい神様からの贈り物だと


感じられると思うの


でも精神世界やスピリチュアルのものに


光が当たる時


多くの方が瞳に映すのは


怪しげな人や物・ニュースだったりするから


好ましく思わないのは


仕方がないことだと思うの


私はいつもその二人と会話をする時


意識的に精神世界やスピリチュアル的な


会話にならないよう配慮しながら


話しているのだけれど


それがいつも何だか不思議な違和感を感じているの









最近また新たに今にフィットした空間に


整えようとお掃除をしているの


そんな時の中で過ごしていると


忘れたままの過去を思い出させてくれる


様々なものを見つけ


そのたびに


今現在の自分に大きなメッセージをくれるの


15年くらい前は


私が感じている中で


もっとも自分が内なる高まりがあって


人が当たり前にふっとよぎる不安や悩みが


まったくもつ事無く過ごしていて


それはよくスピリチュアルな事で語られているように


自分の波動が高まる事で


あらゆるものを引き寄せ可能にしてくれていたからの


なのでその頃は


自分であれこれと考える事よりも


自分自身の高まりを保つ事を


何よりも大切にしていたの


今の私はその頃のような高まりより


少しダウンしている事もあって


ちょっと自分の感情とフィットしない出来事に出会うと


すぐにその出来事が


私の内側に広がって


自分を保てなかったりする事が多く


いつまでもその感情に重なる波動に


なってしまう事があるのだけれど


その頃はたとえ理不尽な出来事に出会っても


その出来事に心重ねすぎる時間が長ければ長いほど


自分自身が自分の求める


喜びや幸せから遠ざかる気がしていたから


できるだけ自分を納得させられる


表現や思いを探し


すぐにいつもの自分に戻れるように意識していたの


その事で今考えると奇跡的な出来事が


日々当たり前のように届けられていて


その高まりからさらに意識して


自分が無意識に考える思考や


瞳に映すものも


シンクロとして届けられる事を体感するようになって


ある意味で今よりもあえて


様々な情報にはふれず


自分が望む事だけを考えて過ごしていたの


その事を今回のお掃除で


思い出していたの


たとえばその頃


大好きだったアーチストがいたのだけれど


その頃出会ったばかりの


仲良くなった友人にその話をしたら


たまたまそのアーチストの知り合いだったようで


急展開で会う事が出来たり・・・


たまたまTVで見て心惹かれた情報があって


時間ができたら調べようって思っていると


またまた偶然のように


久しぶりに電話をもらった友人が


私が知りたかった情報に関わる仕事を


始めた報告だったり・・・という事が


日々届けられていて


その時初めて偶然ってなくって


特に送信能力が強いと感じる人は


気をつけなければならないんじゃないかなって


感じた事さえあるの


特に10年以上前よりも


すべての速度が速まっている今は


届けられる時差が少なくなっているから・・・


少しお話は違うかもしれないけれど


私は毎日のようにフィットエスクラブに


足を運んでいるのだけれど


運動をしながら若い頃よりも


効果を感じるのがスローで


若い頃は努力を1行うと99の効果を実感できたの


それが今は逆で


それはスピリチュアルな事にも重なるんじゃないかなって


感じていたの


年齢と共に様々な経験を超えて


どんなの純粋な方でも


若い頃よりも自分を色を持ついる事で


何のフィルターも持たずに


自分の内側に吸収する事が難しくなっていたり


脳の分野でも年齢を重ねる事で


幸せや喜びを感じる


ドーパミンの放出量が少なくなっているから


どんな小さな出来事であっても


深刻に考えてしまったりしてしまう事もあって


年齢を重ねれば重ねるほど


意識的な努力も必要になっているのかなって


感じていたの


私の周りでもそう感じる事が時々あって


長い間仲良くしてくれている


知り合いや友人と話していると


どんな深刻な問題であっても


若い頃は自分たちが心地の良い方を


すぐに選択してしまう事もあって


すぐに笑える話題に切り替わったり


これからの遊びのプランに


思いを寄せていたけれど


年齢を重ねて行くと


ちょっとした言葉の行き違いや誤解に


立ち止まる時間が長く


その問題自体は大したことではない事なのだけれど


こだわる時間が長くなって


自ら辛い時間を新たに作り出してしまったり・・・


それはきっとひとつには


どんなに忙しい方であっても


予測の範囲の中で出来事や人間関係の中


時に日付は日々変わっているはずなのに


同じ事を繰り返しているような


錯覚の中で過ごしているからという事も


あるんじゃないかなって感じているの


それは母と話すたびに


私自身感じているの


どんなに楽しい事であっても


同じ事の繰り返しの中で過ごしていると


脳が退屈してしまって


その退屈から新たな喜びを見つけたいと思っても


家族や仕事etc・・・色々あると


自分の思いをすぐに形にできるものって


意外と少なくって


その様な時間を長く過ごしていると


意欲を持つ事で辛くなるのならば


何も求めず考えずに過ごした方が良いと


自分の深い部分が理解して


無気力になってしまう事もあると思うの


私が感じているのは


今の自分を辛くしているものが


たとえ良い事や正しい事だったならば


それは人生ベースで考えると


決して自分が望む良い事とは結びつかないと思うの


何よりの私たち人間に必要なのは


時に甘やかしと受け止められても


自分自身を笑顔にしてあげられる事を


できるだけ選択してあげることだと思うの


なぜならば


私たち一人一人


幸せに感じる事は違っていての


笑顔になれる事は


自分がこの世に誕生した意味に繋がっているのだから・・・







今私が暮らしているマンションは


よく引っ越しが多く


その理由はたぶん構造上の問題で


まるで誰かと暮らしているかのように


横・上などから


生活音が聞こえる事だと思うのだけれど


私は引っ越した当初


驚くと同時にイライラする時間が生まれたりして


辛い事もあったのだけれど


そのたびにそのイライラをパートナーに手渡し


そうしたからと言って何も解決しない事は


頭ではわかっていても


どうしても抑えられなかったの


そう思い過ごしている時に限って


さらに重なるように


その感情を大きくするような大きな物音が響いたり・・・


それで考えたのはやはり


ネガティブな思いでは思いは届かないんじゃないかなって思って


勝手にその方のライフスタイルをイメージして


おだやかに幸せにその方が過ごせるように祈ったの


その事もあって以前よりも


聞こえる音が少なくなったのだけれど


やはりその祈りは形だげで


心から祈っているものではないから


どうしてもすべて改善する事が難しかったと思うの


それがついこの間


次の日に予定があるから


早く眠らなければならなかったのだけれど


どうしても早く眠れず


今から眠ったら起きられないかもって思った頃に


眠たくなって寝てしまったの


そんな時上から驚くくらいの大きな音が


何度も何度も続き


目を覚ました私は時計を見ると


ちょうど置きたい時間だったの


目覚めた瞬間


本来ならばイライラしてしまう大きな音に


「ありがとう」ってささやいていたの


そしてそれ以来


音が聞こえるたびに


「この間はありがとう


また朝起こしてもらえるから安心」って


心でささやく事が何度かあった時から


ほとんど音が聞こえなくなったの


その事は本当に不思議で


改めて人と人は


望む望まないにかかわらず


繋がりあっていて


届く形さえ整えば


ちゃんと届く事を感じていたの


言葉では上手に表現できないのだけれど


以前の私は静かな環境を望みながらも


望まない現実について


あれこれと話していたり考えていたりして


その事がその思いと重なる波動にフィットした状態が


まるで


ずっと続くように祈っているかのように


念のようなもので


自ら望む事を遮断していたのかなって


感じていたの


人生にはすべてがスムーズに思い通りに


進む時期ばかりを迎えられないけれど


その多くは今まで学び乗り越えてきた事を


もう一度復習する抜き打ちテストのような


時期なだけで


決して運に見放されたわけでも


自分の人生が他者によって変化してゆくという


自分から離れたものでもないと思うの


ほんの少し心にスペースを作って


いつもの自分を意識的に見つめていると


無意識に瞳に映しているものや


ふっと考えている事が


目の前に届けられている事に


気づくと思うの


そして自分たちが出会う人たちは


良い事もそうではない事も


様々な気づきや学びを与えてくれる事で


さらに時間が進んだ時


自分一人では咲かす事の出来なかった


大輪の笑顔の花を咲かせられると思うの



ただどうしても受け入れられない方に対して


無理に好意的に思わなければと思う事は


心に負担になって


時にはそう思えない自分を責めてしまって


波動の高まりを保てなくなってしまうから


そういう場合は


一見逃げているように映るかもしれないけれど


その人や出来事を考えず


過ごせる事に意識を注がれる事が良いんじゃないかなって


感じているの


そして自分が他で様々に高まり


心にスペースが出来た時


自分がベストなタイミングで


向き合えばそれで良いんじゃないかなって思うの


何よりも大切なのは形ではなく


心から生み出される


エネルギーにあった波動なのだから・・・