2012年2月





人は無意識に人を傷つけ


そして時に何でもない事で


傷つく事があるんじゃないかなって


感じていたの


そのすべては手渡す方と


受け取る方の


心のコンディションの温度差が


生み出すものだと思うの


私の知り合いに震災で


大切な方を天国へ送り出した人がいて


その方はTVなどで


助かった方たちが笑顔で涙を浮かべ


「助かってよかった」と何度も映し出されるたびに


無意識に少しずつ心がゆがんでゆくのを感じたそうなの


そしてそのたびに


言葉では表現できない思いに包まれ


人の笑顔に傷つくようになったようで


全然関係のない喜び事を


表現している人や


時にはただ幸せそうに映る方を見るだけでも


傷ついたお話を


今日私にしてくれたの


その時私はふっと


今まで自分が無意識に人を傷つけてきたであろう事が


きっといっぱいあったのだろうなって思うのと同時に


私自身も数年前


過敏なくらいに傷ついていた頃を思い出していたの


今思うと


心が幸せに満たされていない人とって


とてもやっかいなくらいに


何を手渡しても


すべて傷つく様な状態にああると思うの


私の場合は10年くらい子宮の病によって


痛みと共に


周りから天使を授かる事を望まれていて


様々な治療の中


ゆっくりと自分の心が痛みも増してきて


とても表現しずらい思いなのだけれど


時には優しさから


「子供がいなくったって幸せな人もいるんだから」と


心を包んでくれる言葉にも


素直にその思いを受け取る準備がない私は


心の中で


「あなたたちには子供がいるのだからわからないわよ」って


思ったり


かと思うと独身の知り合いに


「子供を持つだけが幸せではないんだから


自分の体を大切にした方がいいよ」って


あたたかい言葉をもらっても


「あなたにはわからないわよ


だってあなたと私が求める未来が違うんだから」と


心でささやき


その当時の私には


どんなに素晴らしく温かくやさしい言葉を


手渡しても


すべて冷たく硬くなった氷のような心には


届かなかったのだとと思うの


そして街を歩いている時にも


私以外のすべての人が健康に幸せに見えて


誰を瞳に映しても


傷ついていたような気がするの


でも誰ひとりとして


意識的に私を傷つけようとした人は


いなかったと思うの


でも心身が幸せに満たされていない人は


氷のように固く冷たくなった心を


溶かすきっかけがないと


いつでも被害者意識の中で


過ごしてしまうと思うの


そう思うとすべての人を思いやり


傷つけずに暮らす事も


傷つかずに過ごす事も


難しい事なのだと思うの


優しく思いやりのある人は


人を傷つけてしまう事のないように


過敏になりすぎてしまうと


何も人とはお話をする事が出来なくなってしまうと思うの


人間は今現在の心のコンディションによって


表に現れるカラーが変わりだけで


幸せではない状態の中にいると


人はそう違いはないように思うの


たとえばドラマやドキメンタリーなどの場合は


はっきりと善とそうではない人がはっきりと


わかる形で表現されていて


客観的に見つめている


私たちは


善ではない人を時に何でそんな事をするのだろうと


思ったり


時には自分の心が幸せに


満たされていない時であったならば


いじめられる方にも原因があると見つめ


心を重ねたり・・・


私たちは自分との距離が近ずぎて


見えない部分を


色々な場面


客観的に感じる機会を与えられ


時々ふっと


自分の今の心のお天気を知る事ができると思うの


今回知り合いと話しながら


素直に自分の心がゆがみ


自分が受け入れたくない気持ちがある事に気づき


表現できている


強さと心の回復力を感じながら


改めて


人は必ず様々な心の体験を通りながらしか


次のステージへは


登ってゆけない時があるのを感じていたの


その知り合いはきっと


自分の中が整理できたからこそ


今冷静に思いを表現していたと思うの


私自身も


あの頃人生に秘めていたすべての毒を出す時期で


今までの自分ならば感じない


自分の中にある認めたくない思いを


すべて出し切ったように感じているの


その体験がなければ


おめでたいくらいに


善とそうではないものに分けて


(もちろん自分は善で)


人の心の影や傷を見ずに


その時々の言動や行動だけで


人の事を決めつけて過ごしていたと思うの


人は人生の中で


無意識に積もり積もった思いや感情を


お掃除する時が


時折与えられると思うの


それが私の場合は一気に


届けられた時期だったのかなって


今は感じているの


その知り合いが話し終えた後


「あなたなら否定せずに聞いてくれる気がしたから」って


伝えてくれて


そう思ってもらっている事が


とっても嬉しく


私にとっては過去から気づきと


学ぶ時間を与えてもらえた


素敵な一日になったの










「愚痴は過去に向かい


感謝は未来に向かってゆく」という言葉を


よく感じる事があって


まだまだな私が


何かがスムーズに運ばず


落ち込んでいる時などに


心がささやく言葉なの


たとえ誰かが関わる問題であっても


その相手に対して


良くない思いを向けることがあるのだけれど


直接的にはその人のせいでそうなってるかもしれないけど


時間と共に


なぜか不思議と過去の良くない思いでと結びつき


愚痴が大きく育まれて


まるで自分の人生が


無意味で悲しい出来事ばかりのようにさえ


思えるように


自ら変えられない過去にエネルギーを注ぎ


身動きができなくなる事があるの


そんな時には


何もかもがいやになったり


答えがはっきりとわからない


迷路の中に自ら望んで入ってゆく時があるの


その様な時って


考えてみると


ひとかけらも感謝というものがなくって


自分だけが犠牲者で被害者という思いに包まれて


未来には意識が向かってはいなく


それでいて


幸せを求めるという


矛盾と不一致の中で


希望の光を自ら遮ってしまう事があるの


でも何かのきっかけで


小さな感謝を感じる機会が与えられると


不思議なほど


今度は次々と感謝が生まれて


数時間前までは


自分の人生を否定していたはずなのに


急に自分の人生は恵まれていて


素晴らしい体験に溢れているようにさえ感じられるの


人はとっても繊細で


ちょっとした変化で


どのようにでも進路を変更できたりするものだと思うの


感謝ってとっても大きな力を秘めていて


時には何でも可能にさえしてくれるほどの


力があると思うの


でも感謝って時々忘れてしまって


つい自分だけががんばっていて


良い事もそうではない事も


すべて自分の力だと思い込んで


その結果


自分を責める人と


周りの誰かを責める人に分かれてつくのだと思うの


よく私のパートナーは


通常ならば愚痴ってしまうような出来事であっても


すべて感謝に変える力を持っていて


ある時には


パートナーだけ仕事が多く大変な思いをしている時


私はつい


「同じ報酬なのになぜあなただけが


こんなに大変な思いをしなければならないの?」と


表現すると


パートナーは


「給料をもらいながら色んな事を覚えられて


俺は感謝しているけどね


他の人みたいに楽はできないけど


楽な仕事しかしない人は


他に変わりが次々と入ってきて


自分が最終的に考えることだから


俺は自分の人生を考えてそうしているだけだから


不満はないよ」と


よく表現するの


確かにその通りなのだけれど


すべての感謝を感じられるパートナーって


すごいなって


いつも感じているの


そう思うと私の友人の中にも


会社でとっても多くの仕事を請負


大変そうで時には愚痴も溢れていた事もあったけれど


まるでその愚痴を溶かすように


そのあと必ず感謝の言葉を表現していたの


その友人の会社はその後なくなってしまったのだけれど


すぐにほかの会社から


今までの会社よりも良い条件で


迎え入れられた事がたの


その時にも会社がなくなり


落ち込んだり愚痴る事もなく


ノウハウをその会社で覚えられた事で


自分が自信を持てた事に感謝をしていたの


その感謝がきっと


もっと良い場所へ運んでくれたのかなって


見つめていたの


私自身も良く感じる事なのだけれど


星の数ほどあるサイトの中で


わざわざ私の未熟な表現の中から


何かを感じ繋がってくださる方や


技術なども私よりもはるかに優れた方も多い中


私のアクセサリーを愛し


身につけてくださる方がいるおかげで


私の大好きなアクセサリーを作る時間を


続けさせてもらい


ありがたい気持ちでいっぱいになるの


そんな時


神様にも感謝が生まれるの


私は社会経験がほとんどない事もあって


人との縁が本来ならば


持てない事も多いはずなの


神様が授けてくれた言葉や表現のおかげで


多くの素晴らしい方たちと出会い


昔ならば想像もできない


多くの方の心にふれさせていただき


時には私に生きる意味を与えてくださる方たちの


おかげで


今の自分が笑顔で過ごせていると思うの


数年前


私が心身共にもっとも辛く


この世界を卒業しようと思った時


それを思いとどまらせてくださったのも


多くの方から頂いたメールやお手紙の言葉だったの


深く深く感謝をしていても


その思いを表現する言葉が


ありがとうという言葉しかない事もあって


軽くしか伝わっていないかもしれないけれど


みなさんの何気ない繋がりが


私にとっては大きな大きな


人生の喜びになっていて


私の命の栄養にさえなているの


気がつくと今年の4月で


このホームページを初めて10年を迎えるのだけれど


何一つ長く続ける事が出来なかった私が


生まれて初めて長く続けられたのは


未熟な私を


いつもあたたかく見守り


育ててくださってくれている


多くの方ったいのおかげだと


心から感じているの


本当に・本当にありがとう








人には様々な能力が与えられていて


時にその能力が能力として


受け取れないくらい


自分を苦しめてしまう


ひとつと思い込んでいる事もあるんじゃないかなって


感じているの


私自身幼いころから


自分にしか分からない感覚的なものがあって


それを時に人と同じように受け取れない自分を


変だと思い落ち込んだり


周りからも同じように表現されたりする事が多く


年を重ねるようになってからは


感じた思いを表現する事はせず


できるだけ自分の思い過ごしとして


心の中にしまいこむようになったの


たとえば人とふれあっている間


みんなは笑顔で話をしていて


特に何か問題がある言葉を誰も表現していないのに


その中の誰かが笑顔で


「よかったわね。あなたは素敵だから」など


言葉には光があるはずなのに


言葉とは別のものを


幼いころから受け取っていて


その理由をずっとわからずにいたの


でもその理由が最近読んだ本でわかったの


その本の中では私のようなタイプは


感情直感型という共感力が強く


そこには


声の調子や話すスピード


ふとしたしぐさや目の動きで


その人の感情が瞬時に分かる能力で


顔の表面的な表情と


内心が違う人が目の前にいると


嫌な気持ちになったり


いたたまれなくなるそうなの


哀れむ演技をする人を


あなたが嫌悪していたら


あなたは感情直感型のエンパスかもしれませんと


書かれていたのを読んで


今まで自分が否定していた感覚は


ある一つの共感能力だったんだって


なんだかふっと気持ちが軽くなったのと同時に


私は今までスタンダードな歩みとは違う


人生だった事もあって


人と心から共感できない


何かが欠けた人間だと思っていなのだけれど


実は深い部分で


言葉を超えた共感できる個性を持っていた事に


喜びを感じてたの


その本には様々な共感能力が書かれていたの


身体直感型の方は


主に人の身体に起きていることを


知覚したとえば


赤ちゃんの鳴き声で


その子が何をして欲しいかを


母親は直感でわかりますが


それも限定的なエンパシーで


この関係が


広く他人に対しても外から分かってしまう


能力だったり


身体直感型は


外から知覚しますが


ワンネスはそれを自分の身体の中で


同じように体験する能力を持っていて


一緒にいる人の身体の不調部分とシンクロして


自分自身も痛みなど不具合を


「一体化」して感じてしまうようで


職場やクラスで


不穏な空気が流れたとき


必要以上に胸が締め付けられたり


のどの渇きや動悸


又は胃が痛くなったりする方は


その感覚はあなた自身のものだけでなく


その場にいる全員の体調を


受け取ってしまっている事もあったり・・・


感情ワンネス型は


外からの知覚ですが


感情ワンネスは身体ワンネスと同じように


自分の内側で同じように体験し


ただ単に同調や迎合することではなく


身体の内側で同じ感情を感じてしまうので


人ごみやパーティーなどでぐったり疲れてしまったり


人の感情に振り回されたり


エネルギーを吸い取られてしまうと


感じることもあるようで


その場合は


これから能力を上手くコントロールしていくことで


身を守っていかなければならなかったり・・・


知的変容型は


人の思考の構造を


自分のもののように体験する能力で


エンパシーの中でも


理解されにくい能力なので


自分自身でも気付きにくいそうです


知的な人といると強い反応が現れたり


数学はチェス・コンピューターなどに惹かれたり


情報より知識を探求する方が好みであったり


また、複雑な仕事や論理を


分かっている人と一緒に仕事すると


すぐに身についたり


高度であればあるほど


早く理解できる能力があるそうなの


霊的一体型は


スピリチュアル・ワンネス(霊的一体化)は


人の内面をそのまま体験できる能力で


他の共感能力のどの能力とも違い


制限がなく


もう一段階スピリチュアルな次元で


たとえばすでに亡くなった賢者とも交流できたり


スピリチュアル・ワンネスの能力は


だれにでも備わっているとされていて


この能力が開いていくと


魂は学びを深め


より霊的な進化を遂げていくことが出来るそうなの


そして他にも

特殊なエンパシーのタイプというものがあって


動物エンパシーは


動物と魂レベルで会話することが出来るだけでなく


人間の感覚を超えた


好物の知性を感じることができ


この能力を持つ人にとっては


名ばかりの動物愛護はむしろ


違和感を感じたり


動物は人の従属物ではなく


独立した一つのスピリットだと感じられるそうなの


メディカル・エンパシーは


身体レベルで人と結合し


その上で相手を自ら体験し診断する能力で


二つの身体エンパシーを


より深くした能力で


たとえば治療の可否や余命が分かってしまう程となると


むしろまずは自分自身を守るところから


はじめなければならない事が書かれていたり・・・


ガーデニング・エンパシーは


植物と一体化できる能力で


ただ植物に話しかけることではなく


自らの内側で植物の感覚を感じ取ることができ


植物の中へ意識を入れて同化し


声を聞き


何が必要かをたずねることがきるそうなの


クリスタル・エンパシー


鉱物の世界を共感することができ


単に石の波動を感じることが出来ることではなく


クリスタルの世界に


同調し旅することが出来るそうなの


この様々な共感能力を読みながら


過去を整理している自分がいて


私の元に今ある瞑想や浄化や


充電に使用している石との出会いは


偶然のように旅先で出会ったものばかりで


ある場所に旅行へ行った時には


そこで偶然の出会いによって


観光案内をしてくださったがたまたま連れて行ってくれた


お店が美しい石たちが並んでいたお店で


店内を歩いている時


ふっと瞳に映った石を見た時


隣にいた友人に気がつくと


「私はこの石に出会うために


今回旅行に来たのかもしれない」って


表現していた事があって


今思えば


私が過去に遠い場所への旅行へ足を運んだ時には


必ず長くお付き合いする石との出会いがあったの


でもその頃の私は知識がまだまだ何もなかった事もあって


ただただ綺麗!とか素敵!っていう


感覚的なものから始まって


石たちとふれあってゆくうちに


感覚的に「この石は受信する事が出来るんだ」とか


「この石は私の思いを届ける事を助けてくれるんだ」と


小さな経験によって教えられて


今でも私が制作しているというよりは


石たちが無言で自分たちがしっくりときているのか


そうではないのかを私に伝えてくれているように感じ


私はその通りに寄り添わせているだけなの


今回掲示板で


私がクリスタルエンパシーではないかと


教えていただく事で


今まで知らなかった知識と知恵を


受け取る機会を与えていただき


本を読みながら


自分が生きにくくしていると思っていた個性は


一つの能力だと知る事が出来て


何だか心が軽くなれたの


幼いころから大人にあまり好意を持ってもらえなかったのも


私自身がその方が言葉とは違う


感覚を心にあるのを感じ


私自身も無意識にその違和感がひょ状に現れていたり


逆にその方にも自分では気づかない


共感能力があって


私がその方に違和感を感じているのが伝わって


心の中すべてが見透かされているようで


そばにいたくない気持ちにさせていたのかもしれないなって・・・


そう思える事で


今まで長い間


すべて自分が悪いと思っていた事が


そうではなく瞳には映らない


感覚的なものにあったのかと思うと


ほんのちょっぴりでも


自分を責めずに


自分に与えられた個性や能力を生かせるように


これから歩んで行けたらいいなって


感じていたの


日本人には共感能力が高い方が多いそうで


言葉を超えて悟る能力があるから


自分でも理解できない感覚的なものを


体験している方も多いんじゃないかなって


感じているの


私の親友は


とっても優しく思いやり溢れる人で


人と会ってお話をした時


無意識に相手と同じ感情が


まるで自分も体験しているようになり


その方と別れた後でも


その感覚が残り


一日中心が曇っている事があって


そのような親友を見るたびに私は


ただ単に共依存的なものだと思っていたのだけれど


今回本を読みながら


もしかすると友人も高い共感能力によって


そうなっているのかもしれないなって


感じていたの


そして共感能力が高い方に


最も必要なのはスイッチをON/OFFにする事を


学ばなければならないってことも書かれていたの


でも共感能力が高い方にとっては


ある意味でとっても難しく


相手の思いがわかっているのに


自分の思いを優先し伝える事は


本当に大変な事で


何も表現せずにいると


気がつくと相手の感情に振り回されていたり・・・と


いう事もあると思うの


そんな時共感能力が備わっていない方のように


何も気にせず


自分の思いのまま過ごせたら


どんなに良いだろうって思う事もあるとは思うけれど


私が感じているのは


共感能力は人生を安全に過ごせるための


ルールブックみたいなもので


すぐに相手がどのような状態なのか?


何を望んでいるのか?が


わかる事は見る角度を変えると


あとは自分自身の対処法を学ぶだけで


問題なく自分が望む方向へと行けるという事だと思うの


つい共感能力が高い方たちは無意識に


すべての望みを叶えるために


自分がいるかのような言動や行動をしてしまい


自分の人生を後回しにし


人に振り回された気持ちになってしまったり・・・


よくある不一致なのだけれど


望む事をいっぱいしてもらった方たちは


してくれた相手に好意と感謝を感じているのだけれど


した相手はその逆で


たくさん親切に優しさを手渡したように映る方は


自分の思いから溢れてそうしたのではなく


共感能力から


相手が望む事を感じとってしまうから


気がつくとそうしてしまい


断れない自分を好きになれず


やがてはできるだけ自分から


人と接しないように過ごす事を


無意識に選択されている方も多いように感じているの


日本人の中には


そういう方が多く


角が立たないようにできるだけ


自分の個性をしまいこみながら


多くの方とふれあい


どんなに長い月日付き合いがあっても


本当の自分を誰にもわからないように


お付き合いしている方もいると思うの


そしてその様なふるまいをにととして利口なふるまいという


表現のされ方もあるから


スペースによってはそのようなふるまいが


良い場合もあるのかもしれないけれど


私がいつも感じているのは


この世界に同じ人が絶対にいなく


どの時代にも自分と同じ人がバッティングしない事に


大きな意味があって


その方がただありのまま過ごす事で


色々なものを人に手渡し


その大河の一滴がやがて様々なものに繋がり


世界をゆっくりと変えるほどの


意味ある個性となっているように感じているの


一見「私一人が何をしようと関係がない」とか


「誰も私に注目などしてない」と思っていても


地球の一員として間違いなくカウントされている以上


間違いなく時代・世界の変化に


力を授けていると思うの


私たちが自信を失う時って


何気ない一言だったりするけれど


その一言がまるで世界中からのジャッジのように


受けとめてしまうから


心が曇ったり落ち込んだりするけれど


すべての人がその様に感じ取るかどうかと言えば


そうではないと思うの


私が足を運ぶフィットネスでは


お話好きな70代の女性がいて


どう見ても60歳前後にしか見えないくらい


若々しいのだけれど


その方を好きな方とそうではない方がいるのを


話されているのが聞こえてきた事があるの


その方はその事を知っているようで


私と話をした時に


「私を嫌いな人もいるけど


その倍私を好きな人がいるって信じてるの


だってそう思わなければ


誰にも話しかけられないでしょ」と表現していたの


私はその方と話すたびに


その方を好きではないという方の理由がわからないくらい


その方が大好きなのだけれど


大好きな人はそのままお付き合いをし


その思いを表現しないから


わからないけれど


あまりよくない事は印象に残り強lく届くから


その言葉だけを聞くと


シュんってなっちゃうけれど


何の理由もなくっても相性や


相手が勝手に過去の出会いで似たような姿の方との間で


思い出したくないような出来事がった事と重ね


そのように感じている事もあるのだと思うの


誰からも好かれたい思いは誰にでも


少なからずあるものだけれど


まずは自分が自分に好かれるように


がんばってみる事が大切なんじゃないかなって


感じているの


そして自分が自分を愛する事が出来るようになると


その愛するものを大切にする本能から


持つ必要のない罪悪感も消え


YES・Noがはっきりと相手に伝える事が


スムーズにできるようになるんじゃないかなって


思うの







この間初めて激痛を伴う


マッサージを受けたの


マッサージを受けている途中で


自分の内側から


自分の意思とは別に


色々な知識や言葉が次々と広がってきて


その事にも驚いたのだけれど


施術を行ってくださっている男性は


私が違和感を感じるたびに


「好転反応」というフレーズを表現されていて


日頃意識しなかったそのフレーズにも


違和感を感じていたの


「好転反応」は様々なスペースで表現される事で


実際に新たなものを受け取るためには


今まで不必要にあるものを出し切るような


考え方はあるのだけれど


時々ただ責任を持たされる事を回避するための方便の時も


あるんじゃないかなって感じていたの


そしてそのように責任回避を


すぐに表現する時って


本当は自分の内側で


大きな怖れが広がっているからだと思うの


人間の想像力ってとてもすごい力があって


まだ何も始まっていない


先々まで巡らせて先回りをして


その危機を回避しようとするんじゃないかなって


思うの


でも相手はそこまで求めていない事も多く


ただ自分の望みと相手の望みを


調和させたいだけだったり・・・


今回通常では出会わない


言葉では説明のできない


感覚を持たれた方との出会いによって


初めて知る事が出来たのは


私と言う存在に重なるように


守護し導いてくれている存在が


本当にいる事を確信できたことだったの


施術を受けている時


自分では知らない医学用語


(今は思いだせないのだけれど)


その様な言葉を使いながら


相手にある意味で威圧感を与えたりしている


自分に驚いていたの


そしてそのように表現しながらも


私の意識は


どうしてよいのか分からない状態だったの


相手の方は色々と不安が広がってきたのか


施術を終えた後


「うちは遠くからいくらでもお客さんが来るんだよね


調子が悪くなった人は一人もいない


ただまれにその人に問題があって


体調が悪くなる人がいる」と伝えられたの


その時も変な正義感からなのか


だまって帰ればいいのに私は


「その様な事を言われると


素直で優しい方は


すべて自分が悪いからだと思い込んで


変に頑張って


大変な事になる事もあるように思うのですが」と


強い音で伝えたの


帰り道


私は今日何しに来たのだろう?とか


なぜ私はこんなにも不快な気持ちでいるのだろう?って


久しぶりに自分の内側に


問いかける機会が与えられたの


初めは「私って相変わらず素直に


相手の表現する事をすんなりと受け取り


納得できない性格だからなのかな?」とか


思っていたのだけれど


帰り道の間には自分がフィットする答えを生み出せず


最終的におうちに帰ってから


いつものように水晶を使いながら瞑想してみたの


そうしたら急に私の頭の中に


「自分の感覚を信じなさい


これまでいくつもの時代で


いくつもの知恵と知識を蓄えてきたのだから」と


言葉が広がり


また施術の時のように


少し驚きながらも横になったまま


水晶を眉間あたりに置いたまま


次々と伝えられる言葉を聞いていたの


今回のような事をはっきりと体験したのは初めてで


以前よりも前世というものが


存在する事を感じていたの


以前セラピーで見ていただいた時


何度も生まれ変わる人生の中に


医学博士だった時がったようなので


必要以上に今の人生でも


心身の作用に興味を持っていたり


無意識にその自分では自覚できない


意識が時々


必要な時に


私を助けてくれているのかなって思うと


よく人生の経験はどんな経験でも


無駄ではないという表現があるけれど


本当にそうなんじゃないかなって


感じていたの


きっと誰でも


ある意味で自分らしくない部分ってあると思うのだけれど


その中には


前世での体験からくるものも


あるんじゃないかなって感じていたの


そしてその前世での経験が


生まれ変わり肉体が変わっても


自分が体験した事は


次の肉体へとバトンタッチされるだけで


すべてが消えるわけではないんじゃないかなって


感じたの


そう思うとこの世を去ってしまったら終わりだかという


思いで人生を過ごすのではなく


たとえ現世利益がなかったとしても


次にバトンタッチする私のために


自分にとって良いと思うものを


自分に吸収してゆけたらなって思ったの


施術を受けてから思った通り


次の日から数日体調が整わず


病院に足を運ぶ事になってしまったけれど


ある意味でこの体験は


私が忘れかけていた


私を守護してくれている存在への感謝を


思い出させてくれた


素晴らしいギフトだったんじゃないかなって


思っているの






時々感じる事なのだけれど


人は過去と未来に


今というリアル感を重ね


必要以上に怖れや後悔を感じ


わざわざ今の自分の心を


曇らせてしまう事があると思うの


たとえば過去はやり直しができないし


変えられない事を頭ではわかっていても


つい「あの時こうしていれば・・・」って思ったり


未来に対しては


様々な情報社会の中で


無意識に見たり聞いたりした誰かの人生を


自分に重ね漠然と大きな不安に包まれたり・・・


そして未来の不安のためにできる事を


あれこれと探したり・・・


過去も未来も


一見違うもののように感じるけれど


今現在の自分から見つめると


きっと同じ事が原因だと思うの


それは今の自分を受け入れ


自分を笑顔にしてあげられていないからだと思うの


もしも今現在の自分の意識が注がれていたならば


見えない恐怖に包まれる事も


終った過去の迷路に入り込み事も


ないんじゃないかなって感じているの


私自身もその様な癖を持っていて


その様な時はきまって


気持ちがしずんでいる時だったり


今現在様々な問題から逃れたい時だったりする事を


感じた事があるの


私が病と共い過ごしていた時


自分の気持ちだけでは変えられない現実を


初めて与えられた時


自分では無意識なのだけれど


時折意味なくその気持ちとフィットする


悲しかった過去を思い出したり


ちょっぴり心に力がある時には


両親を責めたり


ある時には「神様っていないよね


だってあの人は何も良い事してなくって


ひどい事をしているのに


あんなに幸せなんだもん」って誰かと比較したりしながら


今まで自分の中にあった


漠然ではあるけれど自分を支えていた


あらゆるものがこわれていったの


そしてその様な状態が進むと今度は


過去の幸せだった過去ばかりを思い出し


まるで今もこれからも


自分がどんどん衰退してゆくようなイメージを


わざわざ自分に与える時間が多くなったり・・・


そして最終的には病によって


未来に繋がる命のバトンを


私は与える事も見つめる事もなくなる事に


大きな不安と悲しみに包まれていったの


その過去を今ゆっくりと見つめて見ると


やっぱり未熟な私には


重すぎる荷物をたくさん抱え


現在の自分を受け入れ


次の一歩を踏み出すために


色々考えたりする事を避けていたのだと思うの


だから余計に


自分を笑顔にしてあげられなかったのだと思うの


でももしその時


今の自分自身にだけ


心の瞳を向けるパワーがあったならば


実際には自分が感じているよりも


荷物は軽いものだったと思うの


でもどんなに先延ばしにしていても


どんな問題も時期が来れば


答えを出さざる終えない時が来て


今現在の自分と対話するのだから


どうしても今現在の自分と向き合えないなって思うのならば


せめて過去や未来を旅して


今の自分を傷つけ悲しませない事が


大切だと思うの


一時しのぎだったとしても


今の自分が無理せずにやれる事


したい事をしていたらいいと思うの


それだけで今の自分を生きている事になると思うの


やがてまた心が元気になった時


人生の整理整頓はまたできるのだから・・・












今日何気なく夜遅くに


犬の遠吠えが聞こえた時


何だか懐かしい気持ちに包まれ


ふっと幼いころから知らず知らずに


耳にしなくなった音や言葉


いつも何気なく瞳に映していたものが


いつから


消えていったのかなって考えていたの


そんな時


私も人生を懐かしむ年齢になっているのかなって


感じながら


過去を愛しく感じてたの


私が幼い頃は


ちょっと窮屈を感じるくらい人との関係が近く


そんな中で無意識に


自分とは違うライフスタイルの方たちや


考え方の人を受け入れる事を学び


過ごしていたように思うの


もちろん心から歓迎しているかどうかは別にして


自分が与えられた環境を受け入れ


その中で自分が出来る自己実現を


誰もが重ねていたように思うの


ただ今の時代が作られたのは


多くの方たちの集合意識が


今の形を作ったとは思うの


昔は思いが実現するのに


何十年もの月日がかかったのだけれど


今は多くの方たちが


意識するかしないかは別に


ハイスピードで思いが実現してしまう事もああると思うの


私たちは時々勘違いをしてしまう事があるのだけれど


思いが叶えられるというフレースから


連想されるのは


自分が望む事だと思っているけれど


宇宙は望んでいるかそうではないかという区別ができず


その方が多くの時間考えている事を


実現化してしまうようなの


そう思って見つめてみると


人は望まない不安をイメージしながら


過ごしてしまったりする時間が多く


ふっと気がつくと自分が本当に望んでいる事を


想像しながら過ごす時間は少ないんじゃないかなって


思うの


それが時々忘れたころに届けられ


なぜこんなことが・・・って思い


何となく自分の運命が周りに


すべてコントロールされていて


自分と切り離されたところで動いているような


感覚に包まれ


自分が望まなくっても確実そうに


語られてきた事を選択してしまうんじゃないかなって


感じているの


確実そうな選択をしたはずなのに


多くの方は自分の人生で幸せを感じられないのは


自分の心や魂が望む幸せを選び取ったのではなく


安全をベースにすべてを見つめ


選択してきたからだと思うの


社会も人の心も


その時々変化してゆくけれど


その方それぞれに宿る幸せの価値観のベースとなる


思考はそう簡単には変化しないものだから


どんなに月日が流れても


自分の人生に納得してゆけるのは


未熟であったとしても


その時の自分にうそをつかず選び取ってゆく事なんじゃ


ないかなって感じているの


そしてもっと時間が進んだ時


精神的にも成熟し成長した時


過去の自分を恥ずかしく思ったり


時にはあんな事をしなければよかったって思う事があっても


必ず「あの頃の自分はまっすぐだったな」とか


愛しく自分を見つめてあげられると思うの


でも自分らしくない選択を


幾つも重ねてくると


自分自身さえ信じられなくなったり


自分を愛せなくなってしまうと思うの


人生は自分が思うほど長くはなく


とても速いスピードで消化されてゆくのだから


本当に自分が望む事を知っているのならば


恐れずに一歩でも進んでみると


いいんじゃないかなって感じているの










この間


長い間使っていたデジカメを


落としてしまい新たなものを購入したの


ただ落とした時には


自分が落としたにもかかわらず


いつもの私の癖で「なんでこうなんちゃうの!」と怒りや


「どうしよう」ってパニックになりそうになったの


でも最近できるだけ


自分に届けられる出来事には


何か意味がもしかしたらあるのかもって


一呼吸置く事を学んでいる時だったので


まずは自分に「落ち着いて・どんな答えがあったとしても


結果は購入するしかなく


後はのその時期を考えるだけなのだから」と


自分の心で唱えたの


そうする事で感情的になって


何もかも見えなくなる流れを通ってからしか


答えを出せないいつもの自分に気づき


答えをすぐに出せたの


初めに「なぜこのタイミングでこのような事になったの?」と


自分の内側に尋ねて見たの


そうしたらその瞬間


いつも自分が使っているノートを見たくなって見てみたの


そのノートには自分が望む事


知り合いや友人が望んでいる事


欲しいものなどを何となく書いているノートで


書いた日と叶った日を記入していて


自分なりに自分が持っている時差や


タイミングを知りたくてそうしているのだけれど


そこにデジカメを購入したい事が書かれていて


その書いた時差やタイミングが


いつものパターンと重なっていたの


その時


私のバイオリズムでは今購入するタイミングだった事を


スムーズに知る事が出来たの


そのおかげで不必要に感情的になったりする事なく


このハプニングが


喜びの一つとできたの


人には自分の考えた事が形となるにも


同じような時差やタイミングがあったり


バイオリズムがあると思うの


その個人差は自分の心の波動の流れと重なっていて


波動が高い時期が長くなると


形となるのが早くなり


その逆もあったりするから


はっきりとした前向きな望みがある時には


できるだけ自分の心を保つ事が


何よりも大切なんじゃないかなって感じているの


今回の出来事でいつもとは違い


冷静に見つめ穏やかに答えを生み出し


喜びとして受け止めたからなのか


それから数日


嬉しい出来事が幾つも続き


この出来事に対する答えは正しかったんだよって


伝えられているような気がして


また嬉しかったの


私たちは時々結果が決まっている事であっても


自分の気持ちを納得させる時間が必要な方は


わかっていても怒りや不安・ぐちなどを


表現しないと落ち着かない流れを


持っている方もいるとは思うのだけれど


自分の気持ちが納得した頃には


その思いが強く望んでいるものとして


宇宙が受け取り


忘れたころにまた同じ感情を体験する


出来事が届けられる事もあるんじゃないかなって


感じていたの


人の人生って届けられる出来事には


そう大差がないと言われているのだけれど


大きな違いはただ反応で



その反応が人生に違いをもたらすそうなの


ただ私は打てば響くとといわれるタイプなので


すぐに感情的になってしまうので


まだまだ努力が必要なの(笑)









多くの人は


生きる知恵として


人から好感を持ってもらえるように


過ごしてしまう事があるけれど


その中にはできるだけ自分を出さず


無難な対応をしながら


何となく繋がりながらも


心の負担になるお付き合いの人もいると思うの


そんな時ちょっと自分の人生を


見つめ直してみるといいと思うの


良く耳にするママ友ならば


ある一定の時期だけだという事が


予想がつくからその間だけ


合わせるのも生きる知恵だけれど


漠然と気遣いを重ねながらも


人との繋がりを維持し


特に楽しい会話ができるわけでもなく


時には心の負担になる関係なのに


卒業できない自分を


見つめて見ると


「自分が何jかあった時の事を考えると


人と付きあいがあった方がいいから」とか


「人に嫌われたくないから」とか


様々な理由が浮かんでくると思うの


その理由は実は人間関係だけではなく


自分の人生を大きく作っている事だと思うの


私自身


わがままで好き嫌いがはっきりとしている事もあって


そのたびに母から


「人生何があるか分からないんだから


親戚や兄弟・人には嫌われない方がいいんだよ」と


よくアドバイスをされていたのだけれど


冷静に自分の人生を見つめて見ても


何かあったとしても頼るほど近い付き合いではない人には


頼る機会はないように思ったの


それでも母に何度も伝えられてゆくうちに


刷り込まれていったのか


気がつくと会う人会う人に好感をもたれたい思いが


強く働き


そうなると自分が思う事


時には正当な要求さえも


表現できなくなったの


そうする事で学びが終わり卒業の時期を迎えた


人間関係まで維持しようとし


無意識に心の負担が増えていった事があったの


でもある時


自分のそういうような生き方が


自分自身で見つめて


好きでいられなくなって


最終的には人からの評価を求めなくっては


自分を認められないなんて


何だか違う気がして


時間はかかったけれど


今はシンプルな人間関係になっているの


その当時


元々友人が少なかった私は


この人がいなくなったら付き合う人がいなくなっちゃうかもって


思っていた事もあったのだけれど


人生って不思議なもので


別れがあればまた出会いも用意されていて


空いたスペースに手放した以上に良いものが


手渡されるのを感じたの


それからはできるだけすべての事に


執着する事を手放し


今まで奪われる・失うと感じていた感覚を


別の角度から見つめ


今よりも良いものを受け取る時期がきたのかなって


思うようになれたの











この間海外から帰ってきた友人に


様々な話を聞かせてもらいながら


近すぎて見えない


幸せってあるんだなって感じていたの


日本を離れて日本の良さを感じた話が多く


その中にはレストランなどに入ると


日本ではすぐにお水を出してくれるけれど


海外ではそういう事がなく


注文しなければ運ばれてこなかったり


蛇口をひねればすぐに飲めるお水が出てくる環境も


日本だけかもしれないと表現していて


私にとっては当たり前になっている事が


本当は当たり前ではなく


ただ恵まれた環境の中で生まれ育っただけだった事を感じ


ありがたく感謝を感じていたの


そしてその友人が一番大変だったのは


日本で暮らしている時には


女性でも男性と平等に扱われたいという思いがあって


海外へ行ったのだけれど


海外ではある意味平等だと思うのだけれど


女性だからという言い訳は通用せず


日本にいる時にはキャリアウーマンだと


自分で思っていたのだけれど


男性たちの優しさの中で自由に活躍できていただけで


何もかも本当に平等になると


意外と大変だと語っていたの


何でもそうかもしれないけれど


近ずぎると見えない事も多いけれど


離れて見渡せる事もあるのかなって


感じていたの


今パートナーも遠く離れた場所に暮らしているのだけれど


電話で話すたびに


私にとって与えり前になっているものが


地域地域によってそうではない事を教えてもらったり・・・


この間はいつも通うサロンの女性と話していた時


その方は港町で生まれ育ったそうで


毎日毎日新鮮な魚介類ばかりを食べていて


その当時は食べた事のない


ファーストフードなどにあこがれ


都会に行ったら毎日食べたいと思っていて


実際に都会暮らしになりその小さな夢も実現し


飽きた頃


急に昔毎日食べていた魚介類が食べたくなり


近くのスーパーマーケットに足を運んだそうなの


そうすると無意識に自分に身についていた


鮮度の見分けが出来た事もあって


買えなかった話をしていたの


そして毎日飽きるほど食べていたイクラを食べたいなって思い


食堂に言った時には高くって驚いた話をされていて


自分がどれだけ恵まれていたのかを


実家を離れて感じた事を


話してくれたの


北海道では高級食材の作物や魚介類など


地域によっては当たり前なほど


毎日食している地域も多く


私自身も幼いころ


父が青果店で働いていた事もあって


お店に2日間置いた後は


すべてさげてしまう事から


高級なフルーツなど毎日のように


父が持って来てくれる事もあって


弟も私もメロンなどが好きではなくなっていたの


でも何となく懐かしい思いでメロンを食べようかなって


青果店に見に行くとその価格に驚くと同時に


恵まれた環境にあった事を


改めて感謝した事がったのを思い出していたの


ただその当時は紙幣はなくっても


食べ物の豊かさはあったんじゃないかなって


感じているの


大人になってからも乳製品の会社に勤める友人のおかげで


破棄する牛乳が毎日たくさんある事を聞き


たくさんいつも頂き


美容に良いと聞き数年間は


洗顔やお風呂もすべて牛乳を使っていたり・・・


豊かな体験を当たり前にしていたけれど


環境が変わって初めて


その豊かさやありがたみを感じているの


人の歴史の中で想い出と共に重なる


食べ物のお話は


とっても興味深くてその情景が思い浮かぶの


今では思いつきですぐに食する事ができるケーキも


1年の特別な日にしか食べられないから


今よりもおいしく感じ記憶に残っていたり


何気ない日々の中にメリハリがあって


その事が幸せとして感じていたのだと思うの


でもその事がいつでもできる状況で


本当は前よりも恵まれているはずなのに


その事が当たり前になってしまうと


大きく印象に残る出来事でもない限り


平凡でつまらない毎日のように感じてしまうのだと思うの


幸せのまん中にいる方の方が意外と


不満を感じている事もあると思うの


それはその事が当たり前になっているのだから・・・


でもちょっと幸せのまん中から離れてみると


自分が恵まれ


幸せな事に気がつくと思うの


そういう風に幸せに気づく事を


一つずつできるようになると


当たり前の事は当たり前ではなく


自分の人生は


恵溢れた人生の贈り物に囲まれている事を感じ


すぐに至福を感じられるようになるんじゃないかなって


感じているの