2012年1月





新たな年を迎え


今年も毎年ながら


どんな年になるのかを


瞑想の中で受け取りながら


今年の過ごし方を考えていたの


今年は個人個人


違う形ではあるけれど


予想を超えた出来事と出会う年になるようなの


それは良い事もそうではない事も


その方によっては違うのだけれど


届けられた出来事で感じる感覚はすべて


その方にとって予想を超えた出来事となるようなの


今まではどんな出来事も


予想が出来る範囲内の中で


起こる出来事が多いのだけれど


今年は良い意味で取られるとしたならば


予想を超えた出来事を受け取ると


今まで小さくまとまりながら


無意識に何事に対しても


ストッパーをかけていた内なる自分から


予想を超えたジャンプアップができる事で


人によっては大きく


未来への方向性まで変えられる年となるように感じているの


今年という年が持つ力が


良い方向であってもそうではない形であっても


どちらの結果を受け取ったとしても


今年は人生を変えるくらいの価値観や


行動力・出会いなどが


新たに生まれる年となるようなの


喜びも悲しみも


今までに体験した事がないほど大きなものに


なる方も多く


ある意味で自分の内側から


新たに生まれ変わるような年になりそうなの


ここ数年は


今までの何十年とは違い


自分の意志だけで


人生が作られていない事を多くの方が感じ


本来ならばただ漠然と歩んできた方たちも


不思議なエネルギーや何か瞳に映らない力の存在を感じ


精神性を高める学びが


過去何十年では比較ができないほど


ハイスピードで進められてきて


精神性の学びがほぼ終了に近づき


次に人間に与えられた


心や感情の学びへと移行している年だと思うの


本来ならば心と感情の学びが先で


精神性が後になりそうなのだけれど


現代人はとても知識レベルに優れていて


頭で学び


深い理解力が備わっている事もあって


その部分から精神性の方が


早く学ぶ事が出来たように思うの


その事によって


ある方は感情や心で何も感じないように


コントロールできる事で


一見パーフェクトな人として整っているように


映る事もあるのだけれど


ご自身も意識しないようにコントロールできるから


無意識に様々な不調の原因に気づかないまま


別の方向からばかり


原因を探されていたりしたと思うの


そういう方にとっては


ちょっと大変な時期になるかもしれないけれど


自分の正直な心のささやきに従い


行動するように背中を押す


出来事が届けられると思うの


そして真逆に


自分の感情や心をコントロールできず


周りのだれかとの折り合いをつけるよりも


自分自身との折り合いをつける事に


難しさを感じていた方は


その感情や心が180度変わる体験によって


自分の人生の歩み方を計画的に


イメージできる年となるように思うの


どちらの場合であっても


小さな殻を破る年になり


未来に大きな影響を与える


新たに生まれ変わる年になるように感じているの


瞑想でその事を受け取った私も


どんな流れになるかはまだわからないけれど


今年は自分の心と感情を


様々な出来事によって現れた時


冷静に


「私は今どう感じたがっているのか?」って


問いかけられるように


ひと呼吸置くように


意識しながら過ごしてみようと思っているの


そうする事で


たとえ自分と違った価値観を持った方と出会っても


自分の正しさを証明しようとこだわるあまり


感情的になり


気がつくと勝ち負けだけにとらわれ


大切な意見交換ができなくなってしまう事もなく


その方と出会った意味を消化てゆけると思っているの












当たり前だと思いながら過ごしてきて


見えなかった


心なごませてくれている事や


優しい気持ちへと導いてくれる事を


みつけてみようと


最近意識しながら過ごしているの


そうすると何気ない日常の中に


たくさん溢れていて


知らず知らずに


私たち一人一人が誰かの心を整え


そして誰かから


心和む瞬間を与えられている事を


感じていたの


ここ数日なぜか私の自宅に


間違い電話が続いていて


そのほとんどが小学生くらいの子供たちで


間違いだとわかると


「間違えました。すいませんでした。」と


私に伝えてくれるの


これは一見当たり前の常識のように


思われるとは思うのだけれど


自分が誰なのか分からない場合


違うとわかった時


そのまま切られる方も多い事を思うと


決して当たり前のことではなく


その方たちが持つ資質の素晴らしさから


表現されている行為だと思うの


よくショッピングセンターでお買い物をしている時にも


どうしてもその場所にいる方の前を


通らなければならない時


何気なく会釈をし


それを受けた方もどうぞという意味で


軽く会釈し合う事があるけれど


その行為も


年齢に関係なく


その方それぞれに備わった資質によって


自然に行動へと現れている事なんじゃないかなって


感じているの


社会の中では


見ず知らずの方たちから


ふっとした瞬間にあたたかいものを受け取ったり


与えあっていたりしながら


今日と言う一日が


とても素晴らしく感じたり


その逆に感じたりしながら


無意識の部分で私たち一人ひとりが


瞳には映らない


大切なものを


感じあっているんじゃないかなって思うの


当たり前だと思う事の多くは


続く事で


時に感謝が見えなくなってしまうけれど


何気ない人から溢れる


配慮や心使いなどは


ミクロで見るとたった一人にしか


与えていない事かもしれないけれど


大きく見つめたならば


受け取った一人が


その事で


あたたかくやさしい気持ちになったとしたならば


少なくてもその日一日は


その気持ちに包まれ


出会う人々にも優しさを知らず知らずに与え


そしてまた与えられた方たちが・・・と


エンドレスであたたかな愛情を


チェーンのように繋ぎあって


与えた最初の方が想像もつかないくらい遠い場所まで


愛情が運ばれている事もあると思うの


人間はとても繊細で愛情深い生き物だから


他の生物にはない


分け与えるという事を


無意識に行える素晴らしい存在だから


一人ひとりが心豊かだったならば


その豊かさから溢れるものを


分け与えたいと自然に感じる存在だと思うの


もちろん今現在


そうしたい思いが持てない方や


そうできない方は


無理にそうする必要はなく


その様な気持ちの方は


形にこだわり


周りに分け与える事を先にするのではなく


まずは自分自身を満たしてあげる事が


何よりも大切だと思うの


そうでなければ最終的に


「私はこんなにも相手にしてあげたのに・・・」という


思いが生まれてきてしまい


せっかくの行為が


意味のないものとなってしまうから・・・


自分の人生の栄養となり徳となるのは


行動そのものだけれど


無意識にできた時には


ポイントが何倍にもなって(笑)積まれてゆくものだと思うの


計算されたものは


あくまでも計算ないのものしか


受け取りあえないけれど


頭ではなく心で感じたままに


行う行動は


人間の想像を超えたものを


受け取りあえるんじゃないかなって


感じているの









年末年始


久しぶりにパートナーの実家や


私の実家に足を運んだの


ここ数年色々と私の心身の問題によって


良い意味で距離が持てた事で


人間として


お互いの家族の良い部分を感じたの


それと同時に


私の実家で過ごしている間


色々気づかされる事もあったり・・・


私とパートナーの間には


子供という存在がいない事もあって


パートナーが私の事を子供のように


接していて


父から見ると感じるものがあったのか急に


「」いまさら言っても仕方がないけど


お前の所に子供がいたら


おまえの旦那は子供をかわいがっていただろうな」と


突然表現したの


その瞬間母が私を気遣って


「あんたは何を言っているのか


自分でわかっているの!


そんなこと今っても仕方ないでしょ


二人が幸せなんだからそれでいいの!


わかった!」と起こって表現すると


父は


「だからいまさら言っても仕方がないって言っただろう」と


答えたの


その流れを見つめながら


私は自分の中に父の遺伝子を感じていたの


私も父と同じように


心に思い浮かんだ事を


頭まで運び考える


一呼吸を置かず


相手の事を何も考えず悪気なく


その様な事を言葉にしてしまっている事が


良くあったのを感じていたの


相手がどう思うかと言う事が


その時には考えられず


後になって反省してしまう


少し人とずれた流れの癖があって


父を見つめながら


私もそういう部分を気をつけなければならないなって


感じていたの


母が良く表現するのだけれど


「悪気がなく表現するからたちが悪いの(笑)」っていう意味が


何となくわかったような気がしたの


人によって傷つく部分や感じた方は


様々ではあるけれど


私の場合は手術をするまでの10年くらいの間


色々な心の痛みは覚悟して


手術を受けた事もあって


手術を受ける前よりも


今の方が


そのようなデリケートな問題に対して


良い意味でガラスのような心から


ダイアモンドのように固く傷つかない


心に少しずつ変化してくれたのかなって


感じているの


何よりも今回嬉しかったのは


実家のドアを開けて母と会った瞬間


母が


「あんた輝いているね


あんたの姿を見てると


あんたの判断は正しかったんだね」と


伝えられたことだったの


人間ってすごい能力があって


どんなに言葉や身に纏うもので幸せを演出しても


そうではないんじゃないかとか


わかるように


何も伝えなくっても


わかるものなんだなって改めて感じていたの


毎年初詣に足を運び


おみくじを引くのだけれど


物心ついた時から


大吉しか引いた事のなかった私が


結婚した年から吉や小吉しか


引かなくなり


昨年からまた本来の自分に戻ったのか


大吉を引くようになり


今年もまた大吉で喜んでいたの


ただ物心ついたころから


大吉しか引かなかったからといって


何も問題がなかったわけでも


人よりも大きな幸運に恵まれたわけではなかったけれど


今思うと


私の場合


病になりやすいという運命をきっと持っていて


その部分が出てこないよっていう意味で


大吉だったんじゃないかなって


感じているの


幸運というと何か


人よりも大きな幸せに恵まれるような


イメージがあるかもしれないけれど


私が感じているのは


その方それぞれに運命・宿命として


備わっているあまり好ましくない部分が


表に現れないという事でもあると思うの


すべてが何となく整っている時


人はそれ以上の幸運を願い


ラッキーアイテムやパワースポットなどに足を運ぶのだけれど


自分が思い描くようなものが


手にできないと


効果ないような気がするけれど


すべてが何となく整っているという事自体


奇跡だと思うの


私は病になってから


今まで自分が知ることのない


世界の人々や書物などに出会い


病が一つもない人は奇跡的な人だと思うくらい


様々な病があって


特別な人がかかるものではない病もたくさんあって


私のように婦人科の病は


今では10人に一人というほど


見てわからない分


辛い思いをしている人が多い事を知って


今まで「なぜ自分だけが・・・なぜ」って


毎日不幸に見舞われたような思いでいたけれど


本当は特別なことではなく


今まで自分が気付かなかっただけで


実は幸運だっただけなんだって感じて


様々なものに忘れていた感謝をするようになれたの


たとえば車を運転している人ならば


たくさんの車が


様々な事情と状況で運転している中で


走っていたならば


自分がちゃんと運転していても


どのようなことがあるかは分からない事を思うと


無事に自宅へ毎日帰ってこられている事は


奇跡的な幸運の連続だと思うの


人はほんのちょっと運気のバランスが


整わなくなって初めて


当たり前に備わっている幸運に気づかされる事も


あると思うの


すべての運のバランスが保たれている時


運のたるみの余裕から


人は毎日が退屈に感じたりするけれど


それは無意識に溢れる幸せな寝言だと思うの


よく結婚したいという方がいて


縁結びのお参りに足を運ばれているのに


結婚に縁がなく


付き合う相手があまりよい相手ではない


表現される方もいるのだけれど


私が感じているのは


本当に巡り会いたい相手に出会うまでに


様々な人を通らなければ辿りつけない場合もあったり・・・


本当に巡り会いいたい相手と


もしもすぐに出会っても


互いに惹かれない場合もあったり・・・


様々な人との出会いによって


自分の人生も熟成され


本当に自分に必要なもの大切なもの知る事で


人に求める価値観も変わったりして


長く人生で寄り添いあえる相手が


見えてくる事もあると思うの


私の知り合いの中には


若い頃から


恋人がいない時期がないくらいモテる方がいて


よく若い頃は


一番彼女が結婚早いんだろうなって


みんなで話していたのだけれど


その通りだったのだけれど


続けることが難しい相手で別れてしまったの


それ以降もモテモテで


恋太がいない時がない人ではあるのだけれど


月日が流れて見ると


周りの友人たちの方がみんな結し


今ではしっかりしたお母さんになっていたりする中


こんなに縁が多いのに


自分が望む相手と巡り合えないのかと


将来に不安を感じているようだったの


若い頃はよくみんなで縁結びの神社へ


小旅行したり


これが恋愛に良いといわれると購入したりして


楽しんでいたの


でも私を含めて彼氏ができる事はなかったの


そのたびみんなで「変な人と付き合って


問題が多いくらいなら一人でいたほうがいいよね」って


慰め合っていたの


でも今思うとその言葉に表現されているように


無意識に巡り合う相手にたどり着くまで


どうしても通らなければならない相手がいたとしても


そのようなスピリチュアルな知恵がない私たちは


ピンポイントでその相手に合う事だけを


考え過ごしていたのだと思うの


でも年齢を重ねてきて


みんな結婚は自分の人生にはないと


思い始めていた事もあって


真剣に男性を結婚相手として見てしまう


感覚が少しずつなくなっていた頃


ある友人は


今でいう出会い系と表現されるもので


ちょっとした暇つぶしのつもりと好奇心で


メール交換をしたようで


その話を聞いた私たちは


彼女の性格や考え方から


このような行動が信じられず


心配した事もあったのだけれど


今思えばそれが縁だったというのか


そうしなければ神様は出会わせられなかったからのか


出会うきっかけは


今でも私たちだけの秘密になっているのだけれど


飛行機で行き来しなければ会えない遠い相手だったのに


3回くらい会ってすぐに結婚して


今では二人の天使に恵まれて


幸せに暮らしていたり


私自身も特に意味もなく年下の人はちょっと・・・って


思っていたのだけれど


その頃


結婚はきっと自分の人生にはないものだから


自分の人生を考えなくっちゃって考えた時


沖縄にその頃心惹かれていた事もあって


様々なものを処分して


準備をしている時


何気なく出会った年下の男性がいたの


その頃深く付き合うつもりがなかった私は


通常ならば付き合う事のない


年下の男性と初めて付き合い


とても心惹かれていいたの


でも私は沖縄に行くと決めていた事もあって


私の方からもう会わない事にしたの


その頃


たまたま飲みに行った居酒屋さんで


相席になったのが


今のパートナーで


その時の私は年下の男性への意味のない偏見は


取り払われていたせいなのか


すんなりとパートナーに心惹かれ


沖縄に行く事を話した時には


「いい計画だね


でもそれは今しなくっても将来的にできるんだから


今はやめたら」って止められて


気がつくと出会って一ヵ月後には


私の実家にあいさつに来てくれて


一緒に暮らし


1年後には結婚していたの


私たちは小さな自分で作った壁が一つあって


その壁を壊すのは一度だったから


すぐにパートナーと巡り会えたのだと思うの


私のモテモテの知り合いは


縁は多いけれど


その相手との出会いによって


寂しさを感じる事はないけれど


その分自分を見つめる時間や機会が少なく


自分を感じる時間がないから


なかなか自分が求めるご縁を


感じにくくしてしまっているのかなって


感じていたの


でも子供を授かるためにはタイムリミットは


どうしてもあるけれど


人生のパートナーとの巡り会いには


タイムリミットはないと思うの


私がよく母と話す時


「年を重ねても自分の話を理解して


聞いてくれる人がいる事を思うと


結婚っていいよね」と表現すと


母は必ず


「結婚したからって


その相手が自分を理解し


話を聞いてくれるかわからないよ


相手の話を


聞かされるばかりで疲れる事もあるし(笑)」という


意見もあるので


結婚が幸せなものかどうかは


その方それぞれだと思うのだけれど


人生は経験だから


望んでいるのならば


一度してみるのもよいものなんじゃないかなって


感じているの











人は本能的に


やきもちというのか嫉妬というものを


秘めていて


それは男女間だけではなく


人間関係にも重ねられる事で


それゆえに無意識に


今目の前にいる相手とは別いの人の事を


あまり褒めたりせず


無意識に目の前にいる人を思いやり


快い表現をしない時もある事を


感じていたの


私はずっとある友人の事を誤解していて


あんなに優しく思いやりある人が


何でいつも私の前で


中の良い相手の事を


快い表現をせずにいるんだろうと思い


それと同時にそれならばなぜ


いつも一緒に過ごしているんだろうと思っていたの


その時は友人は寂しさから


好ましくない相手とも付き合っているのかなって


思っていたのだけれど


それは思いやりや優しさあふれる友人だからこその


別の角度からのは配慮だったのかなって


最近感じたの


上手に言葉で表現できないのだけれど


私があまり人に嫉妬ややきもちや


劣等感を感じずに済んでいるのは


友人の一見ネガティブに映る表現のおかげだったのかなって


ふっと感じていたの


それを感じたのは


年末様々なものを整理していた時


過去に中が良かった方のアドレスなどが出てきて


ふっとその方と過ごした時間が蘇ってきたからなの


その方はとても独占欲が強いのに


社交性から


私に様々な友人を紹介してくれたのだけれど


会う前に必ずと言ってよいほど


これから会う方の良くない部分や良くない過去を


私に伝えるの


初めはそれを彼女の親切からだと思っていたのだけれど


そうではなく


無意識な独占欲からだと気づいたの


そしてある時


会った事のない相手で


私とはまるで違う歩みの方の話になった時


無意識だとは思うのだけれど


「あの人は立派だわ」「あの人は常識がある」など


私のあまり好ましくないフレーズを


ずっと笑顔で表現される方だったの


その時私の中で


会った事もない相手に嫉妬のような感情と


劣等感を感じた記憶がよみがえり


その時


今仲が良い友人はネガティブなんかではなく


自分と言うものをよく知り


人間と言うものをよくわかっているから


無意識に思いやりや配慮から


目の前の相手に


いない人の事を必要以上に


褒めたりしないんじゃないかなって


感じていたの


少しお話は違うかもしれないけれど


ある時


私が実家で過ごしている時


弟の元にいる天使たちに


両親は色々とできる力以上の事をしながらも


それを喜びに過ごしているのだけれど


節目節目に


経済的に豊かなお嫁さんの実家が


弟の元のいる天使たちに


様々なものを買い与えている事に


初めは対抗するように


無理をしては


やきもちのような嫉妬を表現していたのだけれど


ある時


その無理をしなくても


相手が望み自分たちが


出来る事をしてゆけばいいんだって


思ったようで


今では日々お嫁さんが仕事で


子供たちを見る人がいないので


両親が見ているの


きっとお嫁さんもある意味で物質的なものは


豊かな実家のおかげで満たされている事もあって


子供を見てくれる事に


きっと大きな喜びと感謝を感じていると思うの


こんな風に


どんな場面であっても


人は良い意味でもそうではない意味でも


本来は


向上するために備わっている


やきもちや嫉妬を感じるものなのだと思うの


経済的に豊かではない人は


経済的に豊かな人を見ては


あれこれと自分を納得させるために表現するし


子供を望んでも授からず


その思いが強い人は


子供を持つ事でのデメリットなどを見ては


あれこれといなくてよかったと思う事を見つけては


心を納得させたり


子育てで大変な方たちは


独身の方や子供がいない人を見つめては


憐れむように


未来への不安を語ったり・・・


人は誰でも


どんな状況であっても


対相手ではなく


自分が選び取った人生を納得できるように


自分を説得するために


自分と違った存在に対して


時に嫉妬と言う形で


自分はこれで良かったんだって思うために


作った流れの癖だと思うの


そして表現する言葉の中には


本当は自分とは違う歩みの人をよいなって


思う事があっても


そうする事は脳で混乱を作ってしまうため


一番簡単に


答えを出すために


このような流れを利口な人間は


取得したんじゃないかなって


感じているの


自分が自分だと思う部分って


今までの歩みの中で統一された部分で


感じている事だから・・・


でもどんな環境の方たちも


一時的にやきもちや嫉妬を感じるだけで


心の深い部分では


自分の人生を納得し愛しているんじゃないかなって思うの


だって本当に嫌ならば


今の人生を


放棄してしまう事だってできるのだから・・・


ただ嫉妬ややきもちは


魂を傷つけてしまう事もあるけれど


本来人間に神様が備えたのは


その事で次のステージへと


階段を上りやすくするための力になるからだと思うの


だからこの本能的の備わったものは


無理に消す必要はないと思うの


そのやきもちや嫉妬を


自分の人生の飛躍のためになっている


過去を思い出してみるだけで


その過去は消化されるように思うの










最近よく盲導犬と共に


お出かけされる方を見かける事があるのだけれど


そのたびに


わけもなく胸一杯になるの


数年前


友人が盲導犬の施設の近くに住んでいた事もあって


興味を持ったようで


色々調べては


私に伝えてくれていたの


今誰かの目の代わりとなり


仕事をしている盲導犬は


幾つものステージをクリアして


やっと盲導犬として活躍しているのだけれど


今までは


盲導犬を見かけるたびに


「がんばってるね」って思いながら見つめたり


「かわいいな」って思いながら


ずっと見ちゃう事があったのだけれど


この間盲導犬センターの方のお話を


聞く機会があって


その時お話の中で


ずっと見つめたりする事で


盲導犬の意識が集中できなくなって


お仕事ができなくなる事もある事を


初めて知って


昨日も盲導犬を見かけたのだけれど


見ないように見ないように


私の方が意識が離れずのいたの(笑)


昨日見かけた盲導犬と共に過ごされている方は


その事を知っているのか


乗り物の椅子に座った後すぐに


盲導犬の顔を自分の方に抱き寄せて


周りが見えないようにされていたの


以前の私のようにその事を知らない方は


声に出して盲導犬にアクションを送る方や


盲導犬のそばにいた方は


なでたりしていて


気持ちはとってもわかるのだけれど


その事が盲導犬にとって嬉しい事ではない事を


もっと多くの方に広がってゆけばいいのになって


とても感じていたの


私もつい最近


見つめてしまう事が良くない事だと知ったのだけれど


そう言われてみると


確かに人間であっても


人の視線を感じると気になってしまうくらいだから


どんなにお利口な盲導犬であっても


大変なことなんだろうなって思っていたの


そしていつも感じるのは


社会を信頼し


人を信じていなければ


続けられない事だと思うの


良く世の中では自分の価値観や


道徳観では計る事の出来ない


悲しいニュースなどがよく伝えられ


その様な方が多く地球上にいると感じ


不安に怒りを感じられる方もいるとは思うのだけれど


ほんの少し別の角度から見つめると


ニュースとなって届けられる事の多くは


非日常的な出来事が多い事を思うと


やはり今でも


この地球上には心あたたかく


特に自分に利益がなくっても


愛を手渡し合う方たちが多いと思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


だからこそ


人間の社会では


自分の弱い部分を見せる事が


できたりしあえるんじゃないかなって


感じているの


そうでなければ


弱い部分を相手に悟られてしまうと


その部分を利用されてしまたりして


誰もが安心して人生を歩めなくなってしまうと思うの


そう思うと


どんな個性を持った方でも


自分の人生を描き歩んでゆける社会は


一人ひとりの豊かな心が


映し出している世界なんじゃないかなって


感じていたの









年々時間がまるで


羽根が生えたように私の元から


飛び去っていて


気がつくとえ!って思うほどに


月日が流れているの


元々反応は早いけれど


行動が遅い私にとっては


戸惑うばかりなの


ただ良い事もあって


良く時間が解決するという言葉があるけれど


問題が解決する時間も


実際に流れる時間よりも早く感じるので


がんばれない私もがんばれたり・・・


改めて時間って


面白いなって感じているの


世界中一日は24時間と決められているけれど


体感感覚は人それぞれで


長い方もいれば短い方もいたり・・・


時の流れっを感じるのは


やはり子供の成長かなって思うの


お正月久しぶりに会った親戚は


ついこの間まで


高校に入学する話をしていたと思ったら


もう就職して社会人になっていたり・・・


そんな周りの子供たちの成長にふれあるたびに


確実に月日は流れているんだなって


何の進歩もない自分は


ちょっぴりショボンってなっちゃうの


ただ嬉しかったのは


自分に気づくために


周りとの意見と対立しだしている


親戚の中学生の男の子が


私の作ったアクセサリーを身につけている


パートナーのアクセサリーのようなものが


欲しいようで


言葉少なにその事を伝えてくれた事が


とっても嬉しくって


これからもまだ続けてもいいのかなって


何だか大きな勇気をもらったの


時の流れの速さは


良い事も多いけれど


どこかまだ心の深い場所で


自立できていない私は


両親の年齢を聞くたびに


あとどれくらい


こんな風に会って笑いあえるのかなって


複雑な気持ちに包まれる事があるの


そう思う機会となったのは


親友が自分の両親に対して


帰郷するたびに


「あと何回会えるのかなって」って


思うお話をしてくれて


初めて私も自分と重ねる機会となったの


私の場合は


近くに暮らしている事もあって


友人のように親を思いやり


その思いをいつも表現する事がなく


この状態が何となく漠然と


終わりを迎えるなどとは


考えてもいなかった事もあって


その時改めてリアルにそう考えると


心の中に冷たい風が吹いて


弱虫の私は


そこから考えるのをやめたのだけれど


できるだけ今の自分が出来る事をさせてもらおうという


気持ちを持つ事が出来たの


私の世代の友人たちの中では


私の両親は年齢が若いのだけれど


この世の学びを終えるのは


必ずしも年齢だけではないから


深い深い縁を持って


繋がりあってくれた両親には


きっと今から色々と何かをしたからといって


恩は返しきれるものではないけれど


両親が私に一番望んでいる


私が笑顔で元気に過ごしている姿を


いつも見せられるように


日々自分を喜びで満たす事を意識しながら


過ごす事が大切かなって感じているの


深い縁で結ばれた家族や友人って


とっても凄い洞察力を持っているようで


いくら幸せを演出しても


瞬間的に今どのような暮らしをしているのかが


わかるようだから・・・


特に私の父は


日頃は霊的なものを信じる事もなく


そのような能力はないと思うのだけれど


自分にとって大切に思う人の


ちょっとした異変には敏感に霊的な直感が働くようで


突然「お前最近○○に行かなかったか?」と


尋ねられて


「なんで?」って答えると


父は「なんかそう思ったから」と表現する事があって


その多くは私の健康にまつわる事が多いの


昔父と口論になった事があって


父がよく


「お前が人生うまくいかないのは


俺に原因があるんだ


俺は昔からそんなにいい事してこなかったから


今になって罰が当たってて


自分に直接来る不幸は耐えられるし


そんなに辛いと思わないけど


一番つらいのは


自分でどうする事も出来ない


大事な子供に行く事なんだ


いい事も同じで


お前が何かに救われる時


それはお前の力ではなく


親や先祖の運の貯金を使っているんだ」と


伝えられた事があって


その頃


特に親との意見が合わない価値観を


自分の中で育んでいる時期だった事もあって


私はいつも


「じゃー私の人生は


いつも親や先祖によってすべて決まってんの!


おかしくない?」って言葉を返していたのだけれど


今思うと


父は日頃優しい言葉を


意識的に表現できない人だから


遠まわしに私の事を


何よりも大切に思っている事を


表現していただけだと思うの


父は小学生のころから


家計を助けるために働いていたので


ほとんど学校へ通う事もなく


過ごしてきた事もあって


今でも自分の思いに見合う言葉を


自分の辞書には持っていなく


それゆえに誤解されてしまう事もああったり


弟はネクタイをして働く仕事ではなかった父を


幼い頃には恥ずかしいと思い


バカにする事もあったのだけれど


今は3人の天使が授かり過ごす弟は


両親を尊敬しているようで


「姉ちゃんみたいに


何を始めてもすぐに辞めて


そのたびに親は大変だったと思うよ」と


両親に伝えたようで


その時も母は


「姉ちゃんが何も続かないっていっても


それはあの子の人生で


ゴールまで入ってなくっても


人生には無駄はないから


きっとそれは生きるときもあると思う


あの子は私と似て


きっときつい部分を持っていると思うけど


それが出ないのは


挫折を知っているからだと思う


あの子は順調にいかなかったから


逆に良かった面もあるんだよ」と


弟に伝えたようなの


そして後日母がその話そことになった時


「あいつは姉ちゃんの事で大変だっただろうって


言ってるけど


あいつの方がどれだけ


お金がかかったかわからないんだよ(笑)


でもそれも親の生きがいだからね」と


笑っていたの


時の流れと言うものは不思議なもので


今では考えられないほど


エネルギー溢れすぎて


問題が多かった両親も


穏やか過ぎるくらいに穏やかになって


その姿を見つめるたびに


人は本当の意味で自分が望む幸せに


包まれた時


人からの評価も勝ち負けもなくなり


自分が思うハイヤーセルフから生まれる


あたたかい言葉を


自然に表現できるものなのなんじゃないかなって


感じていたの


幼い頃


深く傷ついた出来事も


あったけれど


それは両親も同じで


私j自身は忘れているけれど


甘えから他者には表現しないような


傷つく言葉を幾度も


手渡してきたはずだと思うの


そう思うと


遠い過去は思いだしても


未来に良い影響はないのだから


許し合い


消えない傷であっても


その傷のおかげで


少しでも人の痛みを理解できる


感性が育まれているのならば


それも人生の大切な経験だったのかなって


今は感じているの









人は少し心にスペースがある時には


聖なるものに委ねる


余裕と信頼を持っているけれど


心にスペースがなくなると


無意識に自分で今目の前にあるものを


どうにかコントロールできる方法を


あれこれと考えながら


さらに心のスペースが小さく小さくなって


周りの動きや自分自身の心の動きに


過敏になりながら


最終的には


考えられなくなって


投げ出す形で


自分でのコントロールを


手放す流れになると思うの


そして不思議なのは


あれほど緻密に自分でコントロールしていた時よりも


ありのままその時々


過ごしている方が


自分の望む流れが整ってゆく事も


あるんじゃないかなって思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


コントロールするという事は


自分が持つ流れとは違う形になろうとする時に


かかる負荷のようなものだと思うの


努力とコントロールは


少し似た印象を持たれるかもしれないけれど


努力は続ける事に


大変さはあっても


その後に受け取る喜びや幸福と言う報酬が


原動力となって


続けて行ける事だけれど


コントロールは


自分が思い描く通りに整えるために


少し無理をしてでも制御し


決まった形にはめて行く事のように感じているの


そう思い見つめて見ると


コントロールは自分自身へのおごりから


生まれている事もあるんじゃないかなって


感じているの


人間はこの地球上では


命あるものの中ではトップに存在しているけれど


それでも可能ではない事もたくさんあって


時には


自分よりも実力を持たないものが


自分よりも優遇されていたり


幸せに過ごしている事もあると思うの


その違いってなんだろうって考えて見ると


私が感じているのは


その方の内から溢れる


瞳には映らないエネルギーだと思うの


その瞳には映らないエネルギーも


長い間同じエネルギーを保っていると


やがて誰から見てもわかる


その方の印象になってゆくように思うの


よく冠婚葬祭で


気慣れないスーツ姿になる方は


何となく見てわかるように


自分でも気づかないうちに


日頃の過ごしている時間が


容姿にも表れてくるんじゃないかなって思うの


私が時々感じるのは


読書が好きな方は瞳が良く動かれる方が多く


テレビを長い時間見られている方は


瞳があまり動かない印象を感じていて


その方に尋ねると


多くの場合そうだったりするの


それもその方が意識してそうしているのではなく


日々の過ごし方で


無意識に備わっているものだと思うの


自分の事って見えないし


見る時には鏡に映してみる事もあって


意識して顔を作ってしまうから


意識をしてない顔は


自分以外の方の方がよく知っているものだと思うの


私自身


日々フィットネスクラブに足を運んでいるのだけれど


その中で


無意識に人を見て


「あの方はきっと若い時


とってもきれいだったんだろうな」って思いながら


見つめていると


言葉に表現していないのに


微笑みかけられたり


逆に私の悪い癖で


意味もなく「あの人何となく好きになれない」って


思い込みを持って見つめていると


その方が私を見る目が優しくなかったり・・・


人は無言ですべての人と繋がりあっているから


伝わりあっている事もあるけれど


私自身自分の顔が見えないけれど


良くない事を思いながら


きっとよい表情はしてないんじゃないかなって思うの


それが長くなってくると


きっといつも人をそう見つめている表情がが残り


出会う人にその様な印象を


与えてしまう事になってしまうと思うの


そう思うようになってから


できるだけ誰に見せるわけでも


表現するわけでもないけれど


自分自身の心穏やかでいる事が大切に思い


無宗教ではあるけれど


祈りの言葉を唱えるようにしているの


そうすると自分が無意識に


コントロールしようとしている事から


解き放たれて


神々に委ねる事で安心感を感じ


安らかな気持ちが広がるの


そして祈る事は毎日


様々なのだけれど


多くの場合朝一番初めに祈るのは


朝刊を配達に来てくださる方の音が聞こえると


「今日も寒い中御苦労さま


今日一日この方が


幸せな気持ちで過ごせますように」から始まり


あとはその時々で


知らない方の幸せを祈る事は


相手のためと言うよりも


エゴの強い私ならではの納得した方法なのだけれど


何よりもそうできている自分が心地が良かったり


実際に心が澄みきった感覚が


よくってそうしているの


誰でもそうだけれど


自分と言うものを基準にして人を見つめたり


判断したりしてしまうと思うのだけれど


自分が知らない方への幸せを祈るようになってから


もしかしたら私の知らない所で


誰かが私の幸せを祈ってくれているかかもって


思えるようにあって


益々心の中で


人間の素晴らしい良さが広がってきて


人と関わる事が


苦痛や恐怖ではなく


喜びに少しずつ変換できるようになったの


ただまだまだの私は


自分よりも恵まれている方を見ては


気づくと僻みを持ち


見つめている自分に


ふっと気づく事があって


改めてまだまだだなって感じているの


でもそんな自分に気づき


受け入れられた事を


褒めてあげながら


心の光を失うことなく


過ごす事も大切かなって思っているの


感情的になる時って


多くの場合


リスク回避したい思が生まれた時だったり


自分と意見が違う人と出会った時が


多いと思うのだけれど


どちらの場合も相手を見て


自分の心を見ていない時に


起こる事なんじゃないかなって


感じているの


もしもほんの少しでも


自分の心を見つめていたならば


「自分は今どう感じたがっているのか?」と


ひとつだけでも問う事が出来たならば


すぐに心静まり


自分にとっての真実の答えは


受け取れるものだと思うの


たとえば相手と違う意見に


感情的になった時には


ほとんどの場合


自分の正しさを伝えようと始まった事が


次第に気がつくと


勝ち負けへと変化し


冷静に見つめたならば


そんなに重要なことではない事に


こだわり


たった数分・数時間の事で


一日を笑顔でいられなくしてしまう事もあると思うの


でもそんな時


「自分は今どう感じたがっているのか?」と


問う事が出来たならば


多くの場合


相手が自分が思い描く様な言葉や行動を


望み要求している事を感じられると思うの


それは自分に置き換えて見ると


よーくわかるように


とても息苦しく辛いことだと思うの


自分の思いや意見を認めてもらいたいと願うように


相手にも同じ思いはあると思うの


もしも自分の意見や思いを


わかってもらいたい時は


相手が望む事を素直に受け取り


それでも自分はこう思うという事を


ストレートに伝えた方が


感情に包まれ


問題が見えなくなるよりも


早いスピードで互いに納得した


答えを生み出しやすいんじゃないかなって


感じているの


この間フィットネスのパウダールームで


不機嫌な女性がいて


その方はどうしても自分の感情を解消できなかったのか


周りの方に


「さっきすれ違う時に


あなた健康そうでいいわね


私は足が悪いから


あまり運動ができないのって話しかけたら


無視されたのよ!


あの人常識ないんじゃない


おかしいよね


何様のつもりなの」って怒っていて


それを聞かされている方も


え!?え!?って


まるでコントの一場面のように


何度も聞き返していて


そのやり取りを見ていた私は


笑いそうになりながら見ていたのだけれど


運動された方ならばわかると思うのだけれど


運動した後って爽快感に包まれている方も多く


重い話も軽く流せる状態にある事もあって


何度も聞き返されていた方は


怒って話されている相手に


「その人私と同じで耳が遠かっただけなんじゃないの


年をとると聞こえない時もあるから」と


答えられていて


私は思わず心の中で「ナイス!」と


ささやいてしまっていたの


怒って語られている方は


何で怒っているのかというと


無視された事や相手の態度に


置き換えてはいるけれど


きっと元々何か心曇る出来事や


思い煩う事を持っていて


それをなにかのきっかけで


変えたいと思い


自分なりに小さな努力と勇気で


話しかけてみたのだと思うの


でもその事が自分が思い描く通りにはならず


自分の小さながんばりが


無駄になってしまった事で


その気持ちに怒りがプラスしてしまい


感情が溢れてしまったんじゃないかなって


感じていたの


その方はその話をした後


やはり思った通り


本題に入ってゆき


家族問題や病気の悩みなどを延々と


話されていたの


その場を立ち去れない優しい聞き手は


その思いを手渡されて


小さな我慢をしている


フラストレーションから


おうちに帰って


家族にまで伝染しなければ良いなって思い


気づいたら


また小さな祈りを


心の中でしていたの


どんな場所でも良く見かける事なのだけれど


怒りの多くは


自分の小さな努力を認めてほしい思いから


溢れる事が多いと思うの


怒っていた方は誰かに


「大変ね」って慰めを求めていたのかなって


感じていたの


そう感じられるようになったのは


きっと私も病を体験し


痛みを誰に表現したからといって軽減するわけでもなく


治るわけでもないけれど


色々な事に耐えて頑張っている自分を


労わり褒めてもらう言葉を


求めていた時期があったからだと思うの


ただ年齢を重ねてくると


健康でそして家族に恵まれ


何の問題もないように映る方であっても


気持ちがしずむ事や


平凡の中にある不安から


若い頃よりも気持ちの切り替えとなる時間を


作る機会が持てなかったりして


一つの問題にこだわりすぎてしまう事もあると思うの


今私は


日々両親くらいの方たちと


日々会う機会が多く


ある意味で


これから自分が歩んでゆく先に進んだ方たちの姿から


学ぶ事が多いの










最近休息というものを受け入れ


学ぶ時期を迎えているようなの


私はどちらかというと


計画的にきちんと物事を


運ぶタイプの人間ではないと思うのだけれど


それはあくまでも


自分が感じる自分で


無意識の自分は意外と


立ち止まる事が苦手で


充実というもののとらえ方が


どこかで忙しく行動的に過ごす事だと感じていて


時に心身に余裕がないほどに


自分を追い込んでしまい


疲れたかなって感じた時には


かなり大変な状態になっている事さえあるの


気持ちってすごいもので


気持ちが前に進む事を望んでいると


身体のサインをすべてストップし


意識にはいらないようにしてしまうみたいなの


以前手術の日程が決まった時


私の心はその日に備え保つために


その後に受け取る


喜びに意識を向けて過ごしていた事と


このHPに来てくださる方たちから頂いた


メッセージを拝見しながら


楽しみにさえ思えるくらいになっていたの


でもある時


自分の頭に円形脱毛症があるのを見つけた時


言葉では上手に表現できないのだけれど


人は二重構造のようになっていて


感じられる心と


自分でさえ感じられない心があって


感じられない心の力の方が


深く強いものなんだなって


感じた事がったの


今回も日々痛みから解放された喜びから


ここ数カ月


自分がしたかった事をあまりにも多くやりすぎた事で


免疫力が下がるくらい


行動的になった事で


半強制的に休息を与えられているの


そんな中で何もしない時間が


退屈に感じられていたのだけれど


たまたま友人と話していた時


「良い本があるから読んでみて」と薦められた時


無意識の私は


「忙しくって今は読めないけど


近いうちに読むね」と答えていたの


その時私は現実にはたくさんの時間があるのに


心や頭の中は忙しく


何かを入れるスペースがない状態なのかなって


感じていたの


本などをゆっくりと読む時って


時間があるかどうかが問題なのではなく


多くの場合


気持ちにゆとりがあるかどうかだと思うの


その頭や心の頭の中の忙しさは


現実的な時間とは別のもので


行動には余裕が持てるほど時間があっても


無意識の自分があれこれと考えている事が


自動的に行われていると


日々休息する事がないから


身体は疲労していなくっても


何となく心身が疲労しているようにさえ感じると思うの


そうなると無意識に人からエネルギーを補充したいと


言動や行動が


人に向けられたりして


益々自分の内側から湧き上がるエネルギーを


育めなくなってしまったり・・・


何となくそう感じた私は


思いきって色々な事をいったんお休みしてみたの


その中には


日頃から楽しみにしている出来事も・・・


そうする事で


慌ただしく更新される


自分の内側が良い意味で停止し


自分に心を向ける時間へと


導かれるのを感じていたの


そうする事で


今自分の周りで起こる出来事


出会う人々


耳にする言葉すべてが


本当の意味で自分にメッセージをくれていた事を


感じられたり


忘れかけていた波動が上昇していた頃の感覚を


また取り戻せたり・・・


忙しさという行動的な充実で


満たされている時


それと同じように心も頭の中も満たされているのならば


きっとバランスは良いと思うのだけれど


私の場合は


もともと行動がスローで


いつもゆっくりしていたいところがあって


もしも何か目標を決めたとしたならば


普通の方が当たり前にしているを


行うだけでも


とっても頑張らなければいけないくらい


負荷がかかってしまう事もあって


時々友人にも


「え!?そんな事で我慢していたの?」とか


急いでいるつもりの私に


「急がないと!何のんきにしているの」と


人に映る姿と私の心の中は


よく不一致している事もあるくらいなの


でもありがたい事に


私の友人は優しく思いやり溢れる人なので


いつも私の分まで色々と整えてくれるの


ただそんな時でも


みんなに足並みをそろえなければって


まるで小さな幼子が


大人と歩く時に


小走りしながら


スピードを合わせるように


私もそんな部分があるの


なのでやろうと思った事がいくつもあっても


その予定した事の半分もできない事もあって


そのたびに「私って・・・」て落ち込んでしまったり・・・


社会はスピードを求められていて


効率よく過ごすための知識やアイテムが


溢れているのだけれど


性格的なものもあるのかもしれないのだけれど


ひとつひとつに時間をかけてしまう私には


効率的に生きる事は


少し難しいのかなって感じているの


日々足を運んでいるフィットネスクラブでも


道具などを使用して行う運動の時があるのだけれど


私はその道具がある場所まで辿りつくのは


早いのだけれど


一斉にみなさんが道具を手に取ろうとされると


ついすべての方がとり終わるまで待ってしまい


気がつくと最後になってしまい


それを心配した仲良くなった友達が


「自分の分もらった?」と心配してくれたり


ある時には私の分を一緒に


手にとってくれていたりするのだけれど


そんな時ありがたい気持ちと同時に


また人の手を煩わせてしまったかなって


心曇る事もあるの


何でもないような事が


私の無意識の部分で自己嫌悪を感じる


機会となっていたりしているのかなって


ふっと感じていたの


自分が感じている自分は


行動的な自分が大好きで


様々な場所に行くたびに「楽しかった」って


思っているのだけれど


今回免疫力が下がっている原因を


お医者様から忙しすぎることだと伝えられて


休息するように伝えられた時


本人は忙しいとは思ってはいなく


充実した毎日を過ごしていると思っていたのだけれど


よーく自分の内側を感じて見ると


何も考えず過ごせている事が


何となく充実と感じていただけで


心と頭の中はとっても疲労していて


そのささやきが時間と共に大きくなって


身体にサインを伝えてきたのかなって


感じていたの


それで今は自分が感じる自分は


退屈を感じているけれど


その事で気持ちが充電できているのか


急に本を読みたくなって


買ったままになっていた本を今読みだしているの


その本は自分の内なる聖なるものと繋がる為の本で


本来は他社にセラピーをするために用いられる方法を


自分で自分に行えるものらしいの


この本を購入したのはもう何年か前で


その時心惹かれたまま


私が読むタイミングを待っていた本なの


出来事でも物質でも


その時々の自分に合ったものが手渡されるから


きっと購入した時は


まだ読むタイミングではなかったのかなって


感じているの


それと並行して過去に読んだ本も読み返しているのだけれど


読んで知っているはずの内容なのに


不思議なもので


ほんの少しでも様々な体験を経ている事もあって


その当時の自分と今の自分では


受け止め方が違う事もあって


深く理解で来たりして


まるで初めて読む本のように


ワクワクできたり・・・


そう思うと過去に苦手だと思っていた事も


その当時の自分と今の自分では


受け止め方も違っている事もあるから


あえてトライしてみるのも


自分の中にある曇りをクリアにしてくれる事も


あるんじゃないかなって感じていたの


年を重ねるって


改めて凄い事なんだなって感じていたの








最近自分の視野が


狭くなっているのを感じていたの


昔は自分が望むものがはっきりとしていたのに


気がつくと可能な事だと思う事の中からしか


望むものを選べなくなっていたり


何かを決めつけてしまう自分に気づいたり・・・


昔の私ならば人生は神秘的で


自分の想像を超えた出来事によって


展開していると思っていたはずなのに


何気なく誰かと話している時


相手の方が


「そんなのありえないと思わない?」と尋ねられると


「そうだよねだって・・・」と話している自分に


ちょっと驚いてしまったの


ただ良い事もあって


自分ではフィットしない事ではあるけれど


周りとは調和しているのか


バッシングを受ける事は少なくはなっているの


でも自分自身は


何か違う感覚が残って


おうちに帰ってから水晶を使った瞑想しながら


自分の深い部分と繋がりながら


自分の中にまだハイヤーセルフと繋がる感覚がある事に


ホッとしたり・・・


たぶん私は最も大切な自分を満たす時間を


本当の意味で作ってこなかった事で


周りのカラーに合わせる事で


無難に過ごしていたんじゃないかなって思うの


でもその様な過ごして方をしていると


自分の内側と繋がっていないから


自分にとっての真実に繋がる答えを持てず


いつもちょっとした事で不安になったり


気持ちがしずんでしまったりするのだと思うの


そしていつも気がつくと自分の内側に意識を向ける事がなく


人の事ばかりが気になったり


誰かの事を考えては


気持ちが不安定になってしまうんじゃないかなって


思うの


そんな時とっても大きな力をくれるのは


過去の自分を思い出してみることだと思うの


今の現状で自分を無理に良い方向へ導くのが難しい方は


過去の自分を思い出してみるといいと思うの


誰でも過去には良い流れの時が必ずあって


その時きっと無意識ではあるけれど


今とは違う感覚や言霊を表現していたり


足を運んでいた場所


好きなものなどがあったと思うの


その頃の感覚をまるで今の自分と重なるくらいに


リアルに思いだしてみるとよいと思うの


そうする事で想像が心身に影響を与え


その頃の心地よかった大好きな自分が


蘇ってくると思うの


私自身も波動が人生で一番高く


今では考えられないくらいに


人生の視野が広かったころを思いだしてみると


未来へ進んだはずの自分に


新鮮な知恵を与えてくれるの


自分では気づかないうちに身に纏ってしまった


様々な意味のない虚栄心によって


何も手放せなくなっている自分や


たとえ自分にとって重荷で必要ないと思っている事であっても


失う事を怖れていたり・・・


でも実際にはその事が錘となって


人生の負担となっていたりするのに・・・


昔私の母が父方の祖母について話していた事なのだけれど


何かあるたびに祖母は


経済的に豊かな事を何気なく母に伝わるように


表現していて


母にとってはその事がとても嫌だったらしいのだけれど


年齢を重ねてくると


その姿が何となく理解できるような気がするの


若い頃は存在自体


輝き何もアピールしなくっても


その輝きで人も体験も


様々なものを招き寄せ


自信に満ち溢れていたと思うのだけれど


年齢を重ねて


その自然に溢れていた光は柔らかく


人からはわからないほどになって


人と会って嬉しさから


言葉数はたくさん話すのだけれど


行動範囲が狭くなり


日々変化のない毎日の中から溢れる会話は


聞いている相手にとっては楽しいと思える話題は少なく


そうなるとわざわざ祖母と話したいと


足を運んでくる方は少なくなり


気がつくと人の意識を向ける方法が


悲しいけれど豊かさを


何気なくアピールする事だったのかなって


感じていたの


私の友人の両親も年々年を重ねて行く事で


考えに柔軟性がなくなり


話すないようも暗い話題が多く


友人はそんな両親を見つめながら


年をとるってそういうものなのかなって


思ったらしいの


確かに私も年々思考が様々な体験を重ねた事もあってか


自分の体験から表現する事が多く


自分が体験していない事には


心寄せられない事もあるから


年を重ねてくると頭の中では


何でもわかったつもりになってしまうのかなって


感じていたの


でも本当は幾つになっても


予想できない出来事はあって・・・


その様な言葉の表現から連想するのも


年齢や性格によってもまるで違っていて


予想できない出来事というフレーズから


想像もしない幸せと思い浮かぶ方の多くは若い方で


その逆にこのフレーズで不安を感じる方は


年を重ねられた方が多いようなの


もちろん年齢だけではなく性格的なものもあるとは


思うのだけれど


どうしても年齢を重ねると


若い世代の方よりも経験がある分


色々な予測が働くから


ただ漠然と喜んだり幸せを感じる事が


難しい事もあるとは思うの


ただ年齢を重ねた方の方が


人生に背負っているものが大きく重いはずなのに


深く悩み抜けられない迷路の中に


入ってゆかない方が多く


それも経験で


人生はどんなんに深く考え悩んでも


良い意味でなるようにしかならない方法を知っていて


ある一定までは考えるのだけれど


それ以上考えてしまうと良くないと思うと


ちゃんとストッパーが働き


流れに身を任せるという


人生に必要な知恵を持っていると思うの


それは漠然と


自分の力だけで人生が成り立っていない事を


魂レベルで知っていて


その様に過ごしているんじゃないかなって


感じているの


あまりにも大きなストレスは


心身に大きなダメージを与え


その問題がたとえ解決した後でも


その刻まれたダメージが


人生に良くない影響をもたらす事を


言葉や知識とは違う感覚で


知っているからだと思うの


そして良くない方向に考え出すと


何もかもが不安の材料になり


逆に良い方向に考えると


脳がその様な切り替えをし


どうにかなるための方法に気づかせたり


良い知恵が浮かんだり・・・


その様な知恵は先進世界の分野では


当たり前のように語られていることだけれど


特にそのような事を学んでいない方でも


深い部分で得ている知恵なのだと思うの


その様な力が


人の人生を意味あるものとし


朝を迎える力を与えているんじゃないかなって


感じているの


物事はとらえ方で


まるで違ったものに映るようになっていて


自分を幸せにするのは


自分のとらえ方一つだと思うの


自分の気持ちが曇り光が少ない時には


たとえ相手が親切でしてくれた事であっても


良い思いとして感じられなかったり


たった一つの言葉にこだわり


その言葉が頭の中を離れなかったりするものだと思うの


でも自分自身のコンディションが良い状態ならば


逆にあまりよくない出来事が


届けられても


そのままストレートに受け取る事で


自分が幸せから遠ざかって行く事を知っているから


自分にとって良い方向に考え


その出来事の意味を納める事が


出来ると思うの


そして最終的には


自分を保つという事が


どれだけ自分のためにも


自分とふれあっている方たちにも


良いエネルギーを手渡しているか分からないと思うの


私たち日本人は


思いやりや優しさの大切さを学ぶ時


必ず相手を思いやる事を学んできたけれど


今年を重ねて思うのは


相手を心から思いやり


見返りを期待しない優しさを手渡せるのは


自分自身を満たしている方だと思うの


そうでなければ形を気にして


そうしただけでそれはまるで


カラの素敵な箱を手渡したにすぎず


相手にも伝わらないし


手渡した方も中身が入っていないものを


手渡したにも関わらず


そのカラの箱の中に何かをれて


返してくれるのを期待して


そうならなかったら相手を否定したりするようなものだと


思うの


私はこれだけしたのに・・・という思いが生まれる時は


きっと自分を満たす事を後回しにしてしまった事で


生まれる感情だと思うの


そして日本ではまだまだ


様々な個性を受け入れられる


準備が整ってない事もあって


その事を感じている方たちは


必ずしも付き合いたい相手だけと付き合う事が出来ない


立場や地域性などから


カラの箱を幾つも用意し


手渡す事が習慣となっている方も多いとは思うの


だから時に煩わしいほど人に囲まれているはずなのに


心はとってもさびしい気持ちに包まれたり・・・


人の能力は退化したとはいえ


まだまだ深い部分に


説明のできない感覚的に感じる能力があって


たとえ喧嘩しても心触れ合う感覚を感じ


益々親しくなる場合もあれば


一度の意見の違いで自然に会わなくなる事もあったり


一見中が良く意見がいつもあっているように


映っていた方であっても


互いに表現しないだけで


我慢を重ねていて


周りが驚く形で別れる方もいたり・・・


人間には心のセンサーでしか感じられない


不思議な感覚があって


心の琴線にふれるものもその方それぞれにあって


無意識に自分の人生に必要な人と


縁を深めているんじゃないかなって


感じているの











この間


久しぶりに会った知り合いと話していて


無意識の自分と出会う機会を


与えてもらっていたの


無意識の時って深くしまいこまれた


潜在意識が開き


自分の意識とは別に


時に自動的にそうしている事ってあって


その無意識の潜在意識の部分って


まるで私たちが意識しなくっても


心臓を動かしているのに


とっても似ていると思うの


その知り合いと話している時


その知り合いはとても勉強家で


そして自分を幸福にしてあげる事に


とても努力をしている方なのだけれど


そんな中で様々な疑問が溢れてきて


こんなに頑張っているのに…って


心曇る気持ちとちょっぴりイライラした気持が


溢れていたの


その疑問の中の一つに


いつも自分は意識して良い行動や言葉を話し


夢などをイメージしたりしているのに


一向に思ったような方向へと整っていない事があって


私に尋ねてきたの


その時の私は


その空間でコーヒーも深い香りと


外とはまるで違うあたたかなぬくもりで


リラックスしすぎていて


何も考えていなくって少しボーっとしていたのだけれど


気がつくと自分が自分ではない感覚で


その知り合いに


「意識してする事は


深い部分とは繋がってゆかないと思うの


ただそうしてゆく事で習慣となって


気がつくとその事が無意識でできるようになった時


潜在意識に刻まれて


外の世界に形となると思うよ


それまでは自分の内側に届けるために


人によっては時間がかかるもんなんなんじゃないかな


何気なくボーっとしてテレビを見ている時とか


何か好きな事に夢中になっている時には


潜在意識が開いているから


何でもすんなりと深く入ってくるから


そういう時こそ


見聞きするものに気をつけたらいいんじゃないかな」って


答えていたの


その言葉を受け取った知り合いは


ありがたい事に


言葉足らずの私の言葉に納得してくれたの


でも私自身も


その知り合いと話しながら


私の潜在意識に刻まれている知恵にふれて


改めて納得していたの(笑)


人の脳は未来を無意識に予測して


自動的に働くように進化していて


そのおかげで


私たちは右足を出した時左足を出して・・・って


意識せずに自然に歩けるように


潜在意識も刻まれている思いや考えが


未来を作り予測しているスペースだと思うの


意識の上では


ポジティブに表現し行動をしていても


潜在意識の深い場所に


その思いとは別の意識が刻まれていると


ふっと意識から離れた時には


やはりそのポジティブな表現や行動には


がんばってそうしている自分が必要になって


保っているけれど


そうではない自分が現れる事もあるんじゃないかなって


思うの


幼い頃に人間は一番


良い事もそうではない事も


様々な事を吸収し色々な社会のルールを学んだり


時には暗示によって


誰かの価値観を受け継ぎ


消去することなく


潜在意識にしまわれたままになっている事も


あると思うの


そして大人になってから


自分で表現しながらも


自分が表現した言葉に嫌な気持ちになったり


違和感を感じる時って


多くの場合


自分が経験から感じとったものではなく


他者の価値観から生まれている


言葉だったりもするように思うの


人間は大人になっても


柔らかく柔軟で少年少女のように


純粋な思考を秘めているから


その部分を通して


自分の中に深く入ってくる事もあるから


その部分を自分らしい


強い価値観や信念でガードしてあげる事が


大切なんじゃないかなって


感じているの


ただそのやわらかで柔軟な部分を通して


人は更新しながら進化を遂げているから


閉ざすというのではなく


一つ自分らしいフィルターが


必要なんじゃないかなって感じているの


人は無意識に


自分に不必要な情報や言葉を


見聞きして記憶にはないくらいに


なっている事もあるけれど


人が瞳に映したすべて


聞いたすべては深い部分にしまわれていて


普段は脳が混乱しないように


意識しないようにできているなのだけれど


そのすべてが私たちに


ゆっくりと影響を与えている事もあるんじゃないかなって


感じているの


だから私たちは自分の体験・経験以上の事知っていたり


経験ない事に漠然と想像をめぐらせ


怖れを感じる事があると思うの


でも経験・体験は


すべての人が同じではないし


たとえ同じ体験・経験をしても


そこで感じる感覚や気づきも違うから


謙虚にすべての人をお見本とする事もないように思うの


ただ肉体を与えられた人間は


肉体面では大きな違いはないから


その部分では共感したりできるとは思うの


私が一番いつも意識してるのは


「今自分は楽しい気持ちかな」ってことなの


それが様々な知識のない私が


一番簡単に自分を幸せにする方法だと


思っているからなの


楽しい気持ちに包まれている時は


何の知識もなくっても


確かに高次元と繋がっている時だと思うの


その次元でいる時って


自分が本来の歩みが出来ているからなのか


自分が望むものを早い段階で引き寄せたり


自分の予想を超えた展開で


人生が色鮮やかになって行くを感じられると思うの


そしてコントロールする意識から離れても


不安も怖れも消えて


すべてを受け入れようって


明日届けられるかもしれない出来事に


ワクワクさえしたり・・・


そんな時には


多くの知識や誰かの価値観からも解放されて


ただ自分はこのままでいいんだって


今まで一番難しかった


自分を愛する気持ちがゆっくりと湧いてくると思うの


私たちは無意識に


他者から受け入れてもらいたい気持ちや


評価を気にする部分を持っているけれど


自分が自分を受け入れ


評価する事ができたならば


その事で心がアップダウンする事ンの少なくなって


いつでも自分がどんな言葉を求めているのか


わかるから


その言葉を誰かに求めるのではなく


自分でささやいてあげるだけで


驚くほど元気になれると思うの


潜在意識や記憶は


ちょっとした事で更新する事が出来るスペースだから


見聞きするものを


できるだけ自分が望むものに切り替えるだけで


大きく人生が変わってくるんじゃ


ないかなって感じているの