2011年9月





よく自分の目の前に届けられる事は


偶然ではなく必然的に与えられていると


伝えられているのだけれど


たまたま目の前で起きている事まで


自分と関係があるの?って


思われる事もあると思うの


たとえば騒音を振りまきながら走る車やバイクまで・・・


自分だけが聞こえているわけでもなく


多くの人の耳にも届けられるのに・・・


私自身もはっきりとした理由はわからないのだけれど


同じ出来事でも感じ方は様々で


そこで意味を持っているんじゃないかなって


感じているの


ある人は「若い時は何も考えずに


人に迷惑をかけるもんなんだよな」って


自分の若い頃を重ね


反省と共にその当時の大人たちが


自分が若い時どれだけ寛大でいてくれたかを感じ


年を重ねた今感謝を改めて感じるきっかけと


無意識にしていたり


またある方は「本当にうるさい!


あんな人間はこの世からいなくなればいいのに」と


自分の心にしまわれた怒りを正当な理由によって放出する


きっかけとされる方もいたり・・・


同じ出来事であっても


感じ方は人それぞれだし


また聞くタイミングによってもまるで違っていたり・・・


ただ私が感じるのは


怒りが良くないという事ではなく


怒りは時に大きな力を生み出す事も多いので


タイミングによっては


素晴らしいスイッチになる事もあると思うの


私が思うには


世の中の流れとまるで繋がっていない人はいないと思うから


よい事もそうではない事も


自分たちが作り上げてきたもののように感じているの


表現やライフスタイルが近い感覚の方たちが


深く縁が結ばれ過ごしてはいるから


そのグループの中での


価値観からは理解できない人もこの世界には


たくさんいるけれど


そのために愛情溢れ思いやりの中で学ぶ方たちが


心曇らせたり怒りで心を支配されるのは


違うんじゃないかなって感じているの


言葉では上手に表現できないのだけれど


なぜならば今まで時代を作ってきたのは


この世界の人一人ひとりだと思うと


一人ひとりが思う事や考えた事が良いかどうかではなく


意識や思いが注がれた事柄に力が注がれ


エネルギーを持ち育ってゆくように思うの


よく人に嫌われる事よりも


無関心で無視される方が辛いと伝えられているのは


きっとどこからもエネルギーが注がれなくなるからだと思うの


よく幼子は何かあるたびに「みて!見て!」って


特に何かを作り上げたわけでもないのに


視線を集めようとする事があるけれど


大人が見つめている視線を感じているだけで


安心した喜びを感じているのと同じで


視線や思いは瞳には映らないけれど


大きなエネルギーを持っていると思うの


私の母などは夏になると車やバイクの騒音を聞くたび


「誰もいない山でもいって走ればいいのにね


でも誰もいない所では意味がないんだよね(笑)


人間は誰でも自分に注目してほしいものだもんね


いい事で注目できる能力がある人はいいけど


そうじゃなかったら


あーでもするほかないのかもね


そう思うとうるさい音に腹も立つけど


なんだかかわいそうだね


若い時は大人から見ると意味のない事に


大きな意味を持っていて


そうするんだろうね」とよく表現しているの


私はあまり寛大な方ではないので


夏になると始まる音が気になりながらも


少し変なのだけれど


冬が好きではなかった私が今では


静かになる冬が待ち遠しくなっているの(笑)


世の中にはたくさんの人がいて


言葉も交わす事もすれ違う事もないまま


出会う事な同じ時代を生きている人も多いけれど


時々普段仲良くしている友人や知り合いとは


まるで違う感覚の方を知る事は


よい意味でもそうではない意味でも


自分を知るきっかけとなる事も多いんじゃないかなって


感じているの


たとえば能力の高い方の中で過ごしていると


「私ってなんでみんなのようにできないんだろう」って


落ち込んだり自分を過小評価してしまう事があるけれど


いつもの自分のスペースとは違う方たちが過ごすスペースに


たまたま出会うと


そうではない事に気づかされたり・・・


その事で思いもよらぬ言葉をもらう事もあると思うの


人にはそれぞれ当たり前と思う価値基準を持っていて


それがまるで異文化交流のように


楽しい事もあると思うの


そして自分と価値基準が違う方との出会いによって


自分がどう感じるのか?


自分にとって何が大切なのか?


今何を許せないのか?など


気の合う仲間の中では気づけない


自分に出会えるきっかけとして考えて見ると


ただ不快になったり心曇らせてしまうのは


もったいないようにも思うの


大抵心地よく感じない出来事の中に


深くしまわれていた自分を知るきっかけが眠っていると思うの


私自身も心が広い方ではないので


このような出来事がよくあって


ある日いつも足を運ぶフィットネスクラブで


いつものように受けたいプログラムのために


スタジオに入り座って待っていると


60代くらいの女性が


「そこは私の場所なんだけど・・・」と伝えてきて


「あ!そうなんですか」とつぶやき


私は別のスペースへ移動するのだけれど


そのたび心の中で


「ここってみんなの場所なのに・・・」とか


「なんなの!自分の家と勘違いしているんじゃないの!」と


運動する前から心の中がすっきりしない


怒りが生まれいたの


そして違う日にも別の女性が同じように


私に伝えてきた事がって


「もう!なんなの!前空いているんだから前にいってよ!」と


心の中で怒りが広がり


心地よくなるために過ごしている空間が


いつも不快に思う事が重なり


めずらしく数日お休みしてしまったの


その時おうちで静かな夜の中で


水晶にサポートしてもらい瞑想をしたの


初めはその方たちへの怒りや行動に対しての


言葉が溢れてきたのだけれど


静寂に包まれリラックスしている事もあって


水晶とのコンタクトが深く私の心と繋がり


私の心に問いかける事がはっきりと感じとれたの


その時「その方たちの理不尽な行動に


怒りを感じているけれど


あなたもその人たちと同じで


その場所にこだわりがあるからぶつかるのでは?」と


問いかけられたので私は


「だってその場所は目立たない場所なのに


インストラクターがよく見えていいの」と答えると


「じゃーその方たちもあなたと同じで


自分の運動能力にまだ自信が持てないから


その場所を求めているのよ


あなたの怒りはその方たちに向けたものではなく


もっとできればどこでも空いているのに


そうできない自分への怒りなんじゃない?」と伝えられ


その通りだなって感じたの


その事を感じてからは


そういう方たちが望むスペースではない場所で


目立ってとっても恥ずかしいけれど行っているの


その事で今まで正しいと思っていたフォームが


違う事もインストラクターの方に気づいてもらえるおかげで


フォームを直していただいたり


アドバイスをしていただけて


これはこれでよかったかなって思っているの


その話を友人にしたら友人は


「健康を目的に通っている方は後ろで


自分のペースでやりたいものだと思うから


上達を望む人はできなくっても


前の方でやったほうがいいんだから


気にしないで楽しんだ方がいいよ」と伝えてくれ


今回の出来事は決して


私を怒らすために与えられた事でも


人を批評し自分の正しさを証明するために


与えられた事でもなく


私にとって大きな一歩を踏み出すために


ちょっぴり強引な形ではあるけれど


与えられた事だったんじゃないかなって感じてるの


目の前に届けられた事実は変えられなくっても


その出来事をどうとらえるかで


出来事自体の答えは


大きく変える事はできるんじゃないかなって感じているの


怒りはすべてを見えなくしてしまうので


寛大ではない私はいつも


意識して心の静寂を作るように


心がけているの(笑)









昔・病の痛みと共に暮らしていた私は


今以上に心の余裕やゆとりがなかった事もあって


その痛みの発する波動にあうように


どんな事柄もネガティブに受け止め


答えを出していた事があったのだけれど


同じ出来事でも


今の私が見つめて見ると


まるで違った角度から見つめ解釈している事に


時々気づくの


たとえば病の痛みと共に過ごしていた時には


特に何もなくっても


見る人見る人ただ健康的に歩いているだけで


うらやましく思う気持ちがベースになって


すべてはその上に重なってゆくので


どんな小さな事であってもうらやむ気持ちや妬む気持ちが


生まれやすい事もあって


仲が良い友人や知り合いの喜びでさえも


その方の姿がまぶしすぎて


心の瞳を開けられないでいたの


でも今思うと


喜び事やちょっと自慢に聞こえてしまう事も


人は相手を選び判断し


表現するものだと思うの


聞いてくれる相手をもしも憐れんだり


かわいそうな人だと思えば


人は思いやりから


自分の喜び事やちょっぴり自慢に聞こえてしまう事は控え


自分の恵まれない出来事や


謙遜のような形で


笑顔で表現する事はしないように思うの


そして聞いてくれる相手が


自分と同じように幸せに満たされ


心にたくさんゆとりがあると感じるから


ストレートに喜び事や


ちょっぴり自慢に聞こえてしまうような事柄を


表現できるんじゃないかなって思うの


そう思うと


その頃は気づかなかったけれど


自分が考えるほどかわいそうには映っていなかったのかなって


嬉しい気持ちとありがたい気持ちに


包まれているの


人には誰の中にも妬みのような感情が秘められていて


その秘められた感情は


あくまでも自分の心の動きや


自分がしたい事に気づかせてくれる


一つのサインなのだけれど


ついその部分から瞳をそらすために


色々と正当な理由をつけて


表現した方の言動や行動への非難によって


心を癒そうとしてしまう事もあると思うの


でも表現している方の多くは


聞いてくれる相手を心豊かで


共に喜び楽しんでくれると思い


表現している事も多いと思うの


決して僻みや妬みを引き出そうと


そうしているわけではないんじゃないかなって


感じているの


ただ中には価値観の違いのよって


勝ち誇る気分を味わいたくて


どんな事であっても自慢される方もいるけれど


そういう方は少数だと思うの


私たちは無意識に話す内容によって


伝えたい相手を判断しているように


色々な場面で神が姿を変えて


自分に必要なメッセージを与えてくれる人を


直感的に選んで過ごしていると思うの


時に冷静さを保てず


いつものように判断できない時


自分には不必要なメッセージや


傷つくような言葉を与える人を選び


益々状況を見えなくしてしまう事もあると思うの


心を静めて考えて見ると


自分が辛い時つい電話をしてしまう相手や


嬉しい事があると伝えたくなる相手


寂しい時や暇だと思う時気軽に話を聞いてくれる相手


その時々お互いの大切な人生の時間を


繋ぎ合い


お互い聞こえる言葉とは違う


心の言葉を交換し合い人生を豊かにしていると思うの


時々私は誰かが喜び事や


ちょっぴり自慢に聞こえてしまう報告をしてくれた時


その内容を問題にするのではなく


自慢されたと感じ嫌な気持ちが広がった時には


自分が気づいていないけれど


今満たされていないのか?とか


うらやましく思う自分は何を必要としているのか?って


自分に問うようにしているの


そうする事でどんな出来事も


問題が問題ではなく


自分を知るために与えられた


贈り物にできるように感じているの









怒りはあまりよくない感情のように


表現される事が多いのだけれど


人によっては大きな力となって


今まで超えられなかった壁を乗り越える力となる事も


あるんじゃないかなって感じているの


たとえば誰かに負けたくないという気持ちは


一見相手を向けたように感じているけれど


本当は自分に負けたくない気持ちを


わかりやすく瞳に映し目標にしやすくする


人間の工夫の一つで


穏やかな気持ちよりも怒りに近い感覚だと思うの


その気持ちが前へ前へと進む原動力になっていたり・・・


ただスタートは怒りであっても


ある部分までその力によって辿りついた後


そのエネルギーをチェンジできなければ


怒りはすべてを焼き尽くし


何も残らない事もあるんじゃないかなって感じているの


たとえば同じ目標を持ち競い合い


相手には負けたくないという気持ちからスタートし


自分一人で頑張るよりも


力が湧きあがりモチベーションも保たれ


思っていた以上に早く目標に近づけた時


それが自分の視界に


相手がいたおかげでいつも目標がはっきりし


力をいつも持続できた現実に気づき


相手に感謝が生まれた時


怒りに似たパワーはもっと上の感謝のパワーが重なって


大きな力となって行くように思うの


よく色々な分野でライバルと表現されるペアが


必ず作られていて


互いに意識し合い努力を重ね


時にはあの人だけには負けたくないと


心で強く思われる事もあるかもしれないけれど


月日がたつと


あの人がいたから今の自分がいると


大きな感謝を表現される方がいるけれど


そういう方たちは


人間が秘めている喜怒哀楽


すべてのエネルギーを無意識に上手に


その時々バネにして


ジャンプアップしてきたんじゃないかなって


感じているの


あまりにかけ離れた相手では自分を重ねる事は出来ず


近すぎても共感はできても


越えようとお互いに心にスイッチが入らないから


ある意味でライバルと思いあえる存在と出会えるのも


人生を大きく見つめると


大きな幸運なんじゃないかなって感じるの


人間は時に


自分自身に都合の良い事は


全てメリットと感じ


不都合な事は全てデメリットとして分類してしまう事があるけれど


不都合なことほど


自分をジャンプアップさせてくれる事も多いと思うの


私のパートナーがよく表現する事なのだけれど


仕事や人間関係で


簡単に終える事ができる事は


あえて自分でなくっても誰でもできることだと感じていて


大変なことや難しい事などに出会うたび


これは自分じゃなければできない事だから


この事が解決したらきっと今よりも


自分の人生が向上すると考えているそうなの


そう思うとパートナーにとっては


不都合でデメリットと感じるはずの事が


自分の人生を次のステージへと導いてくれる


タイミングになっていると思うの


そしてパートナーにもライバルがいて


お互いに性格的にも表現的にも違うように映る二人なのだけれど


お互いに仕事ができて同じ年齢で


容姿も似ている事もあって


意識し合いよい意味でお互いに


相手には負けたくない思いを秘めているみたいなの


でも年々話を聞いていると


相手の仕事への姿勢や


お互いに違う性格なのにうらやましいと思っている事を


表現していて認め合っているの


自分自身に都合の良い事は


全てメリットと感じ


不都合な事は全てデメリットとして分類してしまう事が


誰にでもあるけれど


心静かに自分の人生を見つめて見ると


また誰にでも不都合でデメリットなはずの事が


自分の生きる意味や糧となっていたり


人生を保つ一つになっていたり・・・


少しお話は違うかもしれないけれど


私自身


幼いころから太りやすい体質と言う事もあって


いつも仲良くなる友人が


いくら食べても太らない事がうらやましく


時には「何で私だけ・・・不公平」って


思う事もよくあったのだけれど


そう思っても何も変わらないし


私は人よりも努力をしなければ


すべてにおいて人並みを維持できないんだって


ある意味であきらめ


意識的に運動をしたり


気持ち程度の食事制限を心がけてきたの


でもある時友人が病になって


気づかされた事もいっぱいあったの


友人はいくら何を食べてもスタイルが良く


その事もあって食事も運動も気にせず


年を重ねていたのだけれど


病になってお医者様に


身体がとってもダメージを受けている事を伝えられたの


その後友人は自分の歩みを色々と後悔していたの


そして私に


「さーちゃんは昔から太りやすいからって


身体にいいものとか食べたり


めんどくさくっても運動していたから


今があるんだよね


私も気をつけなければならない何かがあったら


もっと早くから気をつけて


こんなに苦しまなくってもよかったのに・・・」って表現したの


その時私にとってデメリットな事が


本当は大きく見つめるとメリットとなる働きをしていた事を


彼女から教えられた気がしたの


よく最近は人生でメリット・デメリットに分けて表現される事が多く


結婚・子供を持つ事・人間関係etc


その中でデメリットと表現される事の多くが


経済的なことなのだけれど


本当にそのデメリットが大きく感じ


メリットと思う事が小さく感じたりするのならば


多くの方は結婚も子供を持つ事も人と繋がる事も


しなくなると思うの


でも多くの方は無意識にデメリットと感じる事から生まれている


大きな幸せに気づいているから


不平不満を表現しながらも


誰かと寄り添い歩んでいるのだと思うの


人生は頭で考えた通りのものばかりではなく


逆に思いもしなかった喜びに出会う事も多いと思うの


私の弟は独身の頃


結婚した後のデメリット・子供を持つ事で生まれるデメリットを


よく表現していて


女性に告白されてもすべて断り


そんな姿を見つめながら


両親はよく心配していたの


そして私も特に意味はないのだけれど


誰かとお付き合いしても結婚だけはしたくない思いがあって


弟と二人でよく老後の協力できる事のプランを話していたり・・・


でも出会いは突然訪れて


あれほど結婚したくないと思っていた私が


経済的にも年齢的にも下の男性と


数カ月で結婚し


弟も私とパートナーの姿を見て


「人によっては結婚もいいかもね」と表現するくらいにまで変わり


ある時会社の方が主催する合コンに誘われ


女性たちと話したそうなのだけれど


弟はその場で「俺は付き合うとかめんどくさいから


つきあってすぐ結婚したいんだよね」と表現したらしく


その時タイミング的に


とても結婚したいと思っていた女性が


積極的にアプローチをしてきて


お付き合いが始まったの


でも急には性格すべてに変化があるわけではないから


深い部分ではやはり結婚をためらっていた弟も


積極的な女性の行動の重なりで結婚にたどり着いたの


それでも昔から考えていた結婚のデメリットばかりを


日々の中で見つけては不満を表現していたの


弟の奥さんは子供を強く望んでいたのだけれど


数年授かる事がなく


奥さんは気にされていたようなのだけれど


弟は性格的に強くは望んでいなかったから


それはそれで良いと思っていた時に


やっと奥さんのおなかに天使が宿ったの


それでも特に喜ぶ事もなかった弟が


現実に天使が目の前に誕生した時には


本当にうれしかったのか


生まれて数分たった時私の所に電話をもらい


第一声が


「ねぇちゃん・生まれた!


愛があれば何でも越えられるよ!」って言葉だったの


それから以降は


あんなに人生をメリット・デメリットで計算し


色々な事を選択し選び取ってきた弟が


今では照れながら


「ぱっとしないけどこれが人生なのさ」といいながら


幸せそうに毎日を暮らしているの


その姿からも


弟がデメリットと思っていた事は


実際には人生にとって大きな意味と喜びをもたらしてくれた


メリットで


何でも思うように運ぶ事だけがメリットではない事を


弟は感じているようだったの


私の両親もよく表現するのだけれど


「若い頃はお前たちには申し訳ないけど


子供さえいなかったら自由だし


子供いない友達がうらやましい時もあったけど


今思えば俺は元々計画性ある方じゃないから


子供がいなかったら家を持とうとも思わなかっただろうし


仕事も続けられていたかどうかと思うと


自分の力以上に頑張れたのは


お前たちがいたからだと思ってるよ」と伝えられる事があるの


その時いつも感じるのだけれど


自分を過小評価し


自分には思っている以上の底力がある事に


気づかず過ごしている方は


ある時負荷をかけられる事で


思わぬ力を発揮してゆけるから


自分が望む望まないに関わらず


神々が人生に負荷をかけて


その人それぞれの力が発揮できるように


されているのかなって感じていたの


どんな物事にもメリットとデメリットが存在するけれど


私たち自身が意識しているデメリットとメリットは


意外と逆の場合も多く


感情が宿された人間ならば特に


見えない心の部分ははっきりと計れないから


人生全てを


計算できないんじゃないかなって感じているの










人は自分への評価が


他者の誰よりも厳しく


それが時に角度を変えて


自分を誤解し


過小評価されている方も


多いんじゃないかなって感じているの


特に日本人は何もしない時間や


娯楽の時間を心から楽しむのに


少し戸惑いがあって


ゆっくりしている自分に意味なく漠然とした


罪悪感や焦りを


深く刷り込まれている部分があると思うの


それゆえにたとえ心身が疲労していて


何もしない一日を過ごしたとしても


それをそのまま休息としては感じず


そんな時自分への評価は


何て私は自分に甘いんだろうって


また無意識に自分に厳しく


心でささやいてしまうと思うの


でも本当に自分に甘いのならば


ゆっくりと何もしない事に


何も感じるはずもなく


自分に甘いという評価はしないんじゃないかなって


感じているの


他者からの批判や意見される以上に


自分への否定を無意識に何度も何度も繰り返す事で


自分への価値基準もゆがみ


自分が自分を認める事が出来なくなってしまうと


一番簡単でわかりやすく


瞳に映す事のできる


他者からの評価を


自分の価値基準にしてしまう事もあると思うの


気がつくと自分の意見や思いよりも


どんな時でも相手が望む事を悟り


相手から評価されようと行動してしまうと思うの


でもその価値基準は


とっても不安定で


相手の心のお天気によって変わるものだと思うの


私自身


自分では気づかない部分で常識と言われている事が


わからず


社会生活などの経験もない事もあって


幼いころから今まで


よく「こうするのが普通でしょ」とか


「それはおかしいよ」と伝えられてきた事が


多かった事もあって


逆に相手にとっては些細なことでも気にしてしまい


気がつくとここではこうしようって


相手の流れを見つめながら


その人たちに馴染むように過ごしてきたの


それでもちょっとした部分で


違和感を感じた方は


また「それはおかしいよ」と伝えられ


そこで相手は言葉を抑えているけれど


そのあと言葉にしない


言葉を何となく


感じる事さえあったの


そして少しずつ自分の中で様々な変化があって


理想と現実を見つめる機会があって


たとえば


私は理想としている自分のライフスタイルの中に


たくさんの友人たちがいて・・・って思ってたとして


現実はそうではなく


溜息をついたとしても


今すぐに理想と思う事が実現されたらどうかって


想像して見ると


実際にはそんなに友人が多くっても


今の私には付き合う時間を作る事も難しく


そう思うと今の状態がベストだと気づいたの


そうやってひとつずつ


思う事をで叶えられていない事を紐解くと


私はただ時間が何となくあると


今の自分と違う自分を


空想していただけで


それには深い意味や願いもない事を感じていたの


そんな時間を過ごすうちに


心が無理をしなければ繋がる事が出来ない相手から


卒業していったの


少しお話は違うかもしれないけれど


この間とっても嬉しい事があって


20年近く親友の友人がいるのだけれど


昔から彼女に


「自分がすごくエネルギーがある時じゃないと


さーちゃんと会うと疲れる」というメッセージを


何気ない会話の中で話していて


私はそのメッセージがとっても気になっていて


できるだけ彼女だけではなく


他のだれと会う時にも


自分から無意識に溢れだすエネルギーをセーブし


存在を消すくらいのイメージで会っていたの


そうする事で


他の誰とも調和できると感じそうしていて


私の中では言葉では上手に表現できないのだけれど


まるでエネルギーの滞りというのを感じ


心身が不調和から


次の日には一日中お布団から出られないくらいの


疲労感に包まれる事があったのだけれど


私の親友は昨年からフィットネスクラブへ通い


高まる自分を満たすために


次々とレースに出場したり


エネルギッシュに過ごすようになっていて


ある時彼女の声に強いエネルギーを感じて


私も今まで抑えていたエネルギーを


そのまま溢れるままに話してみたの


そうしたら以前のように


「自分がすごくエネルギーがある時じゃないと


さーちゃんと会うと疲れる」というメッセージは


表現しなかったの


それでこの間会った時に


「前に言ってたけど私といると疲れる?」と尋ねると


彼女は


「全然そんなことないよ


さーちゃんが悪いんじゃなくって


自分の問題だったと思うよ


だって今私が親にそう言われるもん(笑)」って


伝えてくれたの


そして優しい友人は


私が思ってもいない小さな事で


傷ついてしまう時がある事を知って


驚きながらも


私が納められるサイズに修正した言葉を


いつも手渡してくれるの


誰でもそうかもしれないけれど


表現した方は忘れているような言葉を


受け取った方は


真剣に気にしている事ってあって


相手が気にしている事を知る機会は少ないから


無意識に私も誰かの秘めている


資質を傷つけてしまっているかもって


反省していたの


でも今回友人が伝えてくれた事なのだけれど


意識してひどい事を表現しない限り


後は受け取る相手の心の状態だから


そこまでは気にする必要はないとの事だったの


確かにそうだなって思っていたの


日々目の前に意識しているもの以外にも


たくさんの事柄が届けられてくるけれど


こだわりとどめる時間がないから


記憶に残っていないけれど


そんな時は


自分の心は健康な状態で


その心の健康が保たれないと


どんな小さな出来事で自分で変えられない事であっても


こだわり続け


自ら嫌な気持ちを大きくしてしまうと思うの


でも本当はその出来事の前に


心のコンディションを保てずにいて


それには特に理由がない場合


心を整理するために明確なターゲットとなる


嫌な事を見つけ気を紛らわせているのだと思うの


人間はとっても賢く頭が良いから


子供のようにストレートには受け止め表現しない


技を身につけていて


時にそれで自分自身でも


そう装っている事に気づけなくなっていると思うの


そんな時は誰に話す必要もないのだから


自分の心に正直になって


認めたくない自分を見つめてしまうかもしれないけれど


見つけた瞬間に


まるでシューティングゲームのように


消えてなくなってしまうと思うの


いつも感じている事なのだけれど


自分の人生を楽しんで生きている方に出会うと


インスピレーションやエネルギーなど


相手は意識していないけれど


出会う方すべてに手渡していて


無意識な奉仕をされているような


感覚に似ているようにさえ感じる事があるの


エネルギーは知らず知らずの内に


自分が意識していなくっても循環しているものだから


自分の心のコンディションはとっても


大切だと思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


そう思うと


自分だけのために何かするのは・・・とか


優しさから躊躇するのは


自分のためにならないばかりではなく


明日から出会うすべての人のためにも


ならないんじゃないかなって感じているの









いつも足を運んでいるサロンで


初めてパワーストーンを使った


施術を受けたの


その時今ではスピリチュアルな意識が


働いている場所以外でも


石の働きや効果が様々な分野で認められ


受け入れられているんだなって


感じていたの


私は時々心身のメンテナンスのために


様々なサロンへ足を運ぶのだけれど


昨年足を運んだところには


壁一面にアメジストや水晶が施された岩盤浴があったり


バンテ―ジの線維にトルマリンが施されたものを


使用されているサロンがあったり


パワーストンが大好きな私にとっては


とても興味深い場所が多いの


この間サロンで伝えてくれたのは


身体にはつぼを繋ぐ経絡というものがあって


その流れが滞っていたり切れていると


身体がゆがみ


その歪みを自分が無意識に微調整しようと


本来ながらつかない場所に筋肉や脂肪がついたり


慢性的にくせとなるフォームが作られてゆくそうで


施術などをされた方は


その部分の経絡が途切れているそうなの


ちょっぴり疑り深い私は


確かにそういう知識はあることとしては


受け止めながらも


そんなに期待はしていなかったのだけれど


パワーストーンが配合したクリームで


かなり強いマッサージを受け


パワーストンが繊維に施されたバンテ―ジで


補正されてゆくううちに


外へ開いていた身体が内側へ戻ろうとしているのを


何となく感じ


笑ってしまうのだけれど


こんなところでもパワーストーンとコンタクトしている自分に


おかしくなっていたの(笑)


そうしてすべてを終えて立ち上がると


運動をしている事もあって


慢性的な膝の痛みがあったのだけれど


驚くくらいに痛みは消え


足首が元々幼い頃に無意識にねんざしたらしく


それをかばうように


外側に沿っていたのが元の状態になっていて


本当に驚いていたの


ただ本来は何度も施さなければ


維持されないそうなの


そしてお話を伺いながら


興味深いお話も多かったの


経絡の流れを自分で整えるのは


なかなか難しいけれど


その方が話されていたのは


鎖骨と鎖骨の間のくぼみの部分に


宝石・パワーストーンがくるように


ネックレスをされたり


その部分にパワーストーンを置くだけでも


石が持つ波動で経絡が整うそうなの


その話を伺いながら


そういえば昔多くの女性が無意識に


チェーンの短いネックレスをされていて


ちゃんと鎖骨と鎖骨のくぼみの部分に


宝石が収まるようにつけていたのを思い出し


その方に伝えると


その方は「今は目に見えた事だけにとらわれ


環境に合わせて過ごしているけれど


人間本来の本能が求めているものが


やはり自然のもので


みんな無意識に気がつくとそういうブームに


繋がっているんでしょうね」と表現していたの


その方はスピリチュアルな知識も興味も


特にない方なのに


仕事柄・美容や健康のために


パワーストーンが持つ効能に惹かれ


石との縁が結ばれているようだったの


別のサロンでは


私がパワーストーンのブレスレットをしている事に気づき


自分も大好きで・・・と話がはずむ中で


急に「今度私のブレスレットを持ってくるので


見てくれませんか?」という流れになり


次に会った時に受け取り


おうちでゆっくりコンタクトをしながら


何か伝えられたらいいなって思っていたのだけれど


その日受け取った瞬間


そのブレスレットのほとんどが名もないような石に


上手に模様や着色を施されたものだと


すぐにわかるようなものだったので


量販店などで購入したのもかなって思い尋ねるとそうだったそうで


とても残念がっていたの


でもその方が伝えてくれたのは


自分で購入したこのブレスレットは


色などもとっても気に入り購入したのに


気がつくとお友達が作ってくれたブレスレットばかりつけていて


自分で購入したブレスレットは


ついつけ忘れる事が多かったようで


それもきっと無意識のなせる


識別能力なんじゃないかなって感じていたの


ただ私が感じているのは


自然というフレ―ズは何となく


素敵な印象を受けるけれど


そうとばかりではなく


人工だからこそ作り上げられる美しさもあると思うの


たとえばダイヤモンドだって


自然のままならば誰も気づかない石のかけらだけれど


研磨し形を変えるから


理想的な輝きが生まれたり


人間でもそうだけれど


自然の摂理のまま何もしなければ


今のように年齢よりも輝き元気な方たちは


少なくなると思うの


一生懸命に自然との縁も大切にしながら


人工的なものに溢れる


社会の中で上手にバランスをった持ちながら


私たちは命を輝かせているんじゃないかなって


感じているの


今の時代はナチュラルに映る食品であっても


裏の表示を見ると


自分の知らないカタカナが並んでいて


自然そのままのもの自体


自ら作らなければ難しいくらいの中で過ごしているのだから


すべてを自然のもので統一するのは難しいと思うの


でもそんな中で人間が無意識に


人間本来の資質を守ろうとして


本物の自然を感じるものを求め


人によってはオーガニック系に意識が流れる方や


パワーストーンなどの自然が生み出したものを持つ事で


自然が発している波動を吸収しようとしている方など


小さなブームが広がっているのかなって


感じていたの









価値観や意識


あらゆる嗜好が


何かのきっかけで急に変わる事ってあって


私も私の周りも最近よく


その様な話になる事が多いの


たとえば私は昔から和菓子などに使われる餡が


好きではなかったのに


今では大好きで


和菓子を見かけるたび楽しんでいたり


友人は昔


父親が登山を趣味としていた事もあって


親孝行をしようと思い


一緒に登山をしたのだけれど


そのたびに「もう二度と嫌だ」って語るくらい


陸上のスポーツが好きではなかったのに


今ではロードレースや登山・水泳など


陸上の運動以外にも大好きで楽しんでいたり


あり知り合いは


男性で理屈っぽく色々と語る方が好きになれないと


表現していたのに


今ではそういう方と出会うと瞳を輝かせ


「あ~ゆう人と話すと勉強になるし


何も知らない人よりも知的で好き」って


良く表現しているの


そう思うと人はその時々


物事を断言して決めつけてはいけないんじゃないかなって


感じていたの


すべては「今の私は・・・」というだけで


時間が進むと自分でも驚くような


変化を遂げる事があると思うの


日本では何となく一度表現した事や


一度決めた事が変わる事を


どんな些細なことでも信念がないとか


変わりやすいと


あまりよい印象を持たない方も多いけれど


本来人間は


少しずつ少しずつ変化をして


今の時代にフィットして生きているのだから


嗜好だけではなく


考え方や価値観が変わったからといって


それが信念がないとか


敗北感を持つのは違うんじゃないかなって


感じているの


たとえばある人がある人を好きではないと


表現したとして


周りもその様に思っていた時


そう表現していた方の気持ちが変わり


その人と仲良くなっている姿を見た時


周りはあれ?って思うのと同時に


「あれほどあの人の事を嫌だと言っていたのに・・・


ちょっと相手が優しかったりすると許して


あの人は単純だよね」と


ささやく事があるけれど


冷静に考えれば仲良くなる事


許し合う事が出来てよかったはずなのに


そのように受け止められないのは


嫌いだと表現した方が


相手を誤解して強く相手を非難し


その語りの中で無意識に


自分の価値観で様々な事を表現していて


その価値観は信念のように


時に映る事もあって


周りがこの人はこういう人なんだって


受け止めていたのにそうではないかもしれないという


受け止めた方の中で生み出される不安定感から


ささやかれる思いなんじゃないかなって


感じているの


100年くらい前日本へ来日した方が書かれた書物に


日本人は世界中で最も


心の狭い人種という記述があるのだけれど


それは私たちが受け止める


心が狭いという受け止め方ではなく


物事を決めたり判断するスペースが


驚くほど狭いという事らしいの


今ではそんな事もだんだんとなくなり


広がっているとは思うのだけれど


やはり時代は変わっても


誰でもそうかもしれないけれど


自分の体験や見聞きした中から


無意識にすべての選択肢を探し


その枠の中に答えがなければ


何となく人生が始まらないような感覚を


持たれている方もいると思うの


私事ではあるのだけれど


私自身


学暦も職歴もなく


毎日毎日ありがたい事に


自分が色々な体験をしたいと思うと


その手助けをしてくださる方との出会いによって


誰よりもたくさんの自由な時間を使い


様々な体験をさせてもらったと思うのだけれど


ある時


結婚し出産し


女性としてのスタンダードな歩みの中で


その後仕事をしようとたくさん面接を受けたのだけれど


独身の頃と同じ条件では難しく


悩んでいた時


単純で社会経験がない私は


「学暦だってあるし今まで働いた事があるから


大丈夫なんじゃないの?」と伝えると


「そんなの意味ないよ


自分よりももっといい条件で若い人はいるし・・・


さーちゃんよく今まで幸せに生きてきたよね


もし私がさーちゃんなら


生きてられなかったかもしれない」って伝えられた時


私の状況ってそんなに深刻なの?って


その時急に今更ながら不安になった事があったの


考えて見ると書類審査がある場合


その次のステップまで辿りつく事はありえないから


面接だけのお仕事ならばいいとすると


仕事は限られ


しかも彼女が表現したように


若さがポイントとすると今はもう難しいので


彼女が表現しているように


社会の中で生きて行くのは大変なのだと思うの


ただ私は頭があまりよくなかったのか


親戚・両親の多くがフリーランスで仕事をしていたり


自分で会社をしている方ばかりだったので


多くの方が当たり前に選択肢の中にある


就職するというイメージを持っていなかったので


あまり今まで大きく後悔する事はなかったの


今もそうなのだけれど


時間が自由な私は


知り合いなどが時間がなくできない事を頼まれする事で


ちょっとしたアルバイトになっていたりして


自分のペースにはとてもあっているの


そして自分の中で今の自分で良かったと思える


一番のポイントは


多くの人を心から尊敬できる気持ちだと思っているの


人は自分よりも優れた方へ


尊敬の気持ちを持つけれど


そう思って見つめて見ると


私よりも学暦がある方の方が


今の時代は多いし


学暦関係なくしても


どんなスタイルであっても


社会で働かれている方はもっと多い事を思うと


私はそれだけでも


強く深い尊敬を感じているの


すべての事に継続するという事が出来ない私にとっては


日々決まった事をやり遂げている方に尊敬があって


友人やパートナー・知り合いと話すたびに


相手は何気ない事を話しているだけなのに


「すごいな~」って思うの


みんながストレスとなっている事や


不満に思う事の多くは人間関係などで


そのもっと手前の継続にストレスやフラストレーションを感じる事なく


そこを超えて次の問題に進んでいる姿に


小さなおうちの池に暮らす私と


大きな海で泳ぐ人たちの違いを感じるの


でもそこで劣等感を感じずに済んだのは


周りの方たちが


その様な比較をせず


別の角度から私と付き合ってくれていたからだと思うの


私は世の中の基準では規定外な所もあるけれど


これからも自分が感じた感覚を大切に


過ごしていきたいなって思っているの