2011年8月





7月中とっても不思議な事が多かったの


たとえばインターネットニュースで


スポーツの結果を目にして


パートナーに電話をかけて


「日本が優勝したね」とか「あの学校が決まったね」などと


パートナーに伝えると


パートナーは「その試合まだ始まっていないよ」いわれ


私は「だってインターネットのニュースで見たよ


○○と対戦して勝ったって見たもん」というと


パートナーは笑いながら


「そういう流れになったらおもしろいね」って


そんな私を否定することなく話を終えるの


そして数週間後


私が見たインターネットのニュースの結果通りになったの


パートナーや友人はその結果に驚いていたけれど


私は違う不安を感じていたの


本当にインターネットのニュースで見た感覚はあるのだけれど


もし違うのならば


夢と現実が区別がつかなくなってしまったのかなって


自分が心配になっているの(笑)


ここ数カ月自分一人で過ごす時間が多く


ある部分で自分の感じたままに行動する時間が多かった事で


無意識に使う気を注ぐ事もなく


よい意味で考えて行動する事がなかったからなのか


勘が自分が思っている以上に高まったのかなって


何となく感じているの


この間はパートナーが見たいといっていた催しがあったのだけれど


私はあまり心惹かれなかったのだけれど


日々頑張っている彼に時には付き合わなければって思い


彼が予約を進めていたのだけれど


なぜだか何度行っても予約がうまく運ばず


彼がイライラしていたので


いつものように私は


「うまくいかない時にはもう少し待ってみた方がいいよ」と伝えると


「そうだな。あとからもっといい方向に行く時もあるし」と


腑に落ちたようでその事を忘れていたのだけれど


数日後会社の方から


自分たちがいけなくなったからと


彼が行きたかったチケットを頂ける事になったの


思わず私は「この流れ!」って心がときめいていたの


独身の頃の私は


このような流れが当たり前のようにあったのだけれど


結婚してから日々の暮らしの中で


本来の自分ならば出会わない個性を持った方や


こだわりを持った形と


彼から繋がるご縁で出会ううちに


私が周りから否定されるたびに


彼にまでその影響が及んでしまうのではないのかと


今までの私らしくない行動や考えで


自分をコントロールしてきた時間が長かった事もあって


いつしか私のとって当たり前になっていた


宇宙の流れと一体になった感覚は消え去り


すべてをコントロールして


たとえ常識的である表現や行動を


自分が思ってもいないのに続ける事で


私は宇宙の流れの軌道から外れて


ある部分では人に受け入れられた形にはなってきたけれど


宇宙からはまるで見放されたような感じで


いつも心には余裕がなく


いつも気がつくと「はやく○○しなくっちゃ」って


意味なく焦っている日々だったように思うの


そして今思うと一番つらく苦しいのは


周りからの否定や中傷ではなく


自分が自分を否定し愛せなくなっていた事だったと思うの


常識的にふるまう事で


ある程度人と足並みをそろえる事が出来ても


私自身が何か違うっていつも感じていたように思うの


その何かが違うという感覚は


自分の内なる宇宙から繋がる


天に存在している宇宙からの


コンタクトだったんじゃないかなって思うの


そしてそのコンタクトはありがたい事に


何度も何度もあきらめる事なく


時折届けられていたと思うの


私はそのコンタクトを受け入れる勇気がなかなか持てなくなっていて


長い月日無難をキーワードに


過ごしてきたように思うの


でも昨年の手術を決意した時から


私はある意味で生まれ変わるというよりも


元の自分に戻れた気がするの


子宮を手放す事によって消えた未来の選択と共に


その事で私の病よりも痛い心の痛みを抱える事になる両家の両親への思いも


もう叶えてあげられない罪悪感も


あらゆる現実を受け入れ行動した事は


私にとってはとっても大きな事で


人生で初めて覚悟と言うものを体験させてもらった


出来事だったように思うの


それからは


どんな出来事も自分の人生は人に代わってもらう事もできないし


逆にどんなに大切に思う人の人生も


代わってあげる事は出来ないのだからと


良い意味で自分の人生に心注ぐ事が


できるようになったの


そしてとってもとっても不思議なのだけれど


今まで毎日鏡を見ていたはずなのに


現実の自分が見えていなかったようで


最近になってから


「何で私こんな風になっているの?」って


思う事があるの


急に変わったわけではないのに・・・


その驚きをパートナに話してみると


パートナーは


「あの頃毎日病気の痛みで辛かったから


それ以上辛い事が増えると耐えられないから


脳が他の現実を見えないようにしていたんじゃないの


現実がはっきり見えるという事は


もう心身が健康になった証拠だよ」と伝えてくれて


私もそうかもって感じているの


でもでも不思議なの(笑)


今までは身体のコンディションがすべてで


心のままに過ごす事が出来なかった分


思いつきのように行動できる喜びを


感じる日々なの


そのような日々への感謝と


日々続けているヨガのおかげで


何かが高まっているこの感覚を


様々な事に生かしてゆけるように


もうちょっと色々と勉強しなくっちゃって思っているの








音楽や香りは


いつも記憶と重なり


心に納められていて


何気なく耳にした音楽で


急に遠い昔の思い出がよみがえってきて


その頃の気持ちや感情までも疑似体験しながら


それと共に今の自分を感じられる事ってあると思うの


この間短い短い高校生活の記憶が


ある曲によって蘇り


楽しかった記憶と小さな後悔と大きな反省も


感じていたの


その頃の世代の周りも私も


まだ地球に誕生して年数も重ねていない事もあって


思いと言葉が上手に表現できず


伝わりきれていない事も多かったけれど


それでも天界から地球に舞い降りて間もない事もあってなのか


言葉にこだわる事よりも


魂で感じる能力が高かったのか


みんな損得などよりも


大切なものをよくわかっていたように思うの


それと同時に大人のように上手に装う事が出来ない分


ある部分ではとっても残酷な部分もあったり・・・


その頃の自分は今思うと


いつも目の前に届けられる事に懸命だった気がするの


そしてそのすべてが裏目に裏目に出ていて


今以上に人生の大変さを感じていて


いつ自分の命が消えてもいいとさえ思っていたの


でもその時々


自分の事を真剣に大切に思ってくれている人がいて


そのわずかな人のおかげで


今日まで辿りついたように感じているの


私はよく赤ちゃんのまま大人になったと表現されるくらい


当たり前にみんなが知っている常識を知らなかったり


もう少し考えた方がいいんじゃない?って


伝えられるくらい何も考えず


心のままに計算せずに行動する事も多いのだけれど


そんな私でも昔の自分と重ねると


少しずつだけれど大人っぽいずるさもあって


あの頃の純粋さは小さくなっていると感じていたの


でもそれがある意味で大人になっているという事なのかなって


感じているの


そして人はみんな無意識に時代にあった価値観や考え方へと


ゆっくりと移行しながら


時代を作る一人ひとりになっていたり・・・


最近は震災後から


魂の開花を迎え新たな価値観を生み出されている方も多く


自分が考えるという意識ではなく


魂が正しいと思う事を


恐れずに行う方も多くなってきてういるように感じているの


私の周りでも仕事を長期休暇をとり


被災地へ足を運ぶ方や


ブログなどで恐れずに自分の気持ちを表現する方も増えていて


すごいなっていつも感じているの


長期休暇を取った方も


その後職場でのポジションの心配もあるとは思うのだけれど


それよりも自分にとって大切な事を優先したり


インターネットでまるで使命感を感じているかのように


メディアでは伝えてくれない情報や思いを


自分が感じたままに表現する方も


その後の事を考えると


何もしない方が良いと思いがちなのに


そうする事はとっても大きな勇気が必要だったと思うの


戦時中まだ若かった方が戦後すぐに


今まで当たり前に伝えれていた価値観や正しいと言われていた事が


まるで180度変わった体験をした時の衝撃と同じくらいに


今回の大地の変動は


人間にも大きな影響を与えたと思うの


唯一地球上の生物の中で


いつかは自分がこの地球上からいなくなる日が


来る事を知りながら生きている


知能レベルの高い生物だけれど


実感として感じている方は少なく


限られた時間しかないのに


なんとなく無難に何もせずできるだけ変化がない歩みを


幸せだと思っていて


年を重ね


若い時のように行動した事で後悔するのではなく


ある時「あれもしておけばよかった」「あそこに行きたかった」など


しなかった事で後悔する事が多くなってしまうと思うの


私たち人間が地球上の暮らしの中で恐れている事は


大きく分けると病や経済的な事で


その理由はどちらも命に関わっているからで


命にはスペアがない事を知っていて


時に過剰に守る事に執着しすぎて


それだけで人生の大半を過ごしてしまう事もあると思うの


でもどんなに守り通していても


運命は誰にもわからないのだから


魂が求める事に気づかれている方は


それを実行した方が良いと思うの


自分の内から溢れるものは


ある意味で天から自分に与えられた事で


無視し続けてしまうと


時の流れと共に自分の中で


心がいつも曇り


何より自分が自分を愛せなくなってしまうと思うの


社会の中では色々な生き方価値観の方が存在するから


否定的な意見もあるかもしれないけれど


その逆に応援してくれている方も同じくらいいると思うの


ただあまり好ましくない事は早くに届き


良い知らせはたいてい遅くになってから


伝わると言われているから


その時の流れのスピードの違いだけで


自分に嘘をつかず納得した生き方が


大切なんじゃないかなって感じているの


そのために神様は同じ人を


この広い世界に作らなかったのだから・・・











お盆は毎年のように


色々な方との出会いや


お話を伺う機会があって


自分が過ごしている中で感じる事のない


新たな知識や世界を感じる事が多いの


ある方は自分で自家用飛行機を持ち


週末にはまるで近所に出かけるように


様々な土地へ向い


その土地の人たちとの交流やその土地のおいしいものを


いつも食べている話をされていて


そういう暮らしを普通にされている方がいる事を知ったり・・・


かと思うと


私の母のように子育てを終え


長い間望んでいた自由を受け取ったはずなのに


何でも思い通りになる毎日を上手に過ごせず


文句を言いながらも


新たに孫という存在によって


また第二の子育てをしながら


生き生きと過ごす人もいたり・・・


人間は長い間をかけて


環境に適応しようと無意識に過ごせる存在だから


初めはいつもの自分と違う感覚に


独身の頃の自由を奪った人や環境が


すべての問題のように感じていたとは思うのだけれど


人はとてもすごい能力を持っていて


どんな環境であっても


そのスペースに合う自分に自然になっていて


気がつくと


今度は望んでいたはずの自由溢れる時間を与えられても


人と寄り添う時間を長く過ごすうちに


それがある部分で当たり前になっていて


自然になっているから


自由を与えられても


どう過ごしてよいのかわからなくなっているのだと思うの


そんな時孫がいつもいる事によって


また新たに自分が必要とされる


いつもの感覚が戻ってきて


母は母なりに生きている意味や


明日への活力を生み出しているんじゃないかなって


感じていたの


ただ気持ちは昔の子育てのように幸せに


包まれるのだけれど


昔と違うのは年齢で


身体と心がフィットしないようで


時々私が足を運んだ時にはサポートを頼まれ


私も本来ならば体験する事のない


母親ごっこをさせてもらっているの


その中で子供たちと接していると


日頃自分の過ごす中では考える事のない事に


気づかされたりしながら


貴重な体験をさせてもらっているの


よく類友の法則というものがあって


自分と似たような方と出会うと伝えられているのだけれど


私の場合はなぜか


まるで違うライフスタイルの方ばかりで


友人や知り合いでも同じような過ごし方の方が


一人も重なっていないので


何が基準なのか計れないので


またある意味で


断言して決めつけて語る事が出来ないので


多くの方から柔軟でいる事を


助けてもらっている気がするの


仲が良い親友は何でも一人で楽しめる人なので


山登りも旅行も飲食も


何でも自分の心のままに足を運ぶのだけれど


そのたびに周りは不思議そうにしていたり


寂しいんじゃないかと表現するのだけれど


友人は


人の足手まといのなるのも


人のペースに合わせて思ったように行動できないのも


好まないので


いつも一人で行動しているようなの


その友人の行動には見習う部分が多く


本当の意味での自立ってこういう感じかなって


感じる事が多いの


私は自分の中では自立していると思っているのだけれど


何かスムーズに進まないと


つい誰かのせいにしてしまったりする事があって


友人にはそういう部分はなく


人が自分の思ったように行動してくれない事は


逆に当たり前という前提で


人と関わっているからなのか


人を当てにした予定は立てず


自分でできる範囲で行動していて


人が送り迎えしてくれるといった時にも


自分で自転車に乗ってきていたりして


相手の予定がどのようになっても大丈夫ようにしているの


そうする事でたとえ相手がどんな選択をしても


何なの!!プンプンって怒る事もなくなるし


ただ会えた楽しい時間を感じながら


過ごせているようなの


そんな友人を見つめていると


自立しあう人たちの関係は


相手への不平不満がないんだなって感じていたの


私などは自立したつもりでいても


本当の意味で自立していないから


すぐに人との関わりの中で心が曇ったり


あれこれと正当な理由を考え


「あの人がさっきこういったから私はこうしたのに!」って


怒りに包まれてしまったり・・・


今はパートナーが数週間の休みをとって帰ってきていて


待ち遠しかった気持ちは数時間で満たされ


そのあとはすぐに


今度はいつもと違う流れに


イライラしてしまったり・・・かと思うと


元々は怠け者の私は何かと理由をつけて


何もしなくなっていたり・・・・


そのたびに私はやはりまだまだだなって感じているの


一人の時には


心身が自分の思ったように保て


高まった感覚に包まれるけれど


本当の意味で精神性の高まりは


人との関わりの中でも


心身が保てるかどうかなのだと思うの


私は誰がといると自分の人生を生きる事を


つい後回しにしてしまい


それを思いやりだと長い間


誤解しながら生きてきた事もあって


その軌道修正は


自分が思っている以上に難しいの


だからといってそういう風にしたからといって


思いやりとして相手には伝わっていない事も多く


そのたび本当の思いやりではないからなのかなって


感じてみたり・・・


もし自分が相手だったら


相手が自分の思った事を表現しなかったり


自分の生き方を後回しにしてまで


自分に合わせていた事を知ったら


喜べず


逆に気を使ってしまうかもって思ったり


自分のせいでできなかったと自分を責めたり


心地の良い気持ちではいられないと思うの


私の周りは過ごしている環境がまるで違う方ばかりなので


こうしていたら無難って思うスタイルが探せず


みんなに好感を持たれる方法もなく


いつも自分でいるほかない状況が多い事もあって


よい意味で半強制的に


自分でいる訓練をさせてもらっているの


いつも感じているのは上下は関係なく


自分の人生に納得している方は


自分に足りないと思うものを持つ人と過ごしていても


その部分に感じる妬みや嫉妬を


あれこれと正当な理由をつけてジャッジしたりせず


まるで本を読むかのように


自分の知らない世界に好奇心を持って


楽しそうに聞いていたり


逆に自分よりも色々と満たされていない方と出会っても


そこで優越感を感じたり同情をするのではなく


自分にはないたくましさを感じたり


自分にできる事はないかと考えたりできるのだと思うの


人から見つめて幸せそうに映る方であっても


自分の人生に納得していない方は


いつも自分の沈んだ気持ちを


周りの誰かと比較する事でシーソーのように


アップダウンさせながら


幸せを計る事でしか


自分の幸せを感じられなかったり・・・


だから自分よりも幸せそうな方を見ると


それだけで気持ちが沈んでしまったり・・・


でも幸せそうに映る方であっても


本当はその方の人生の瞬間を見ただけで


すべての方それぞれに


その方に合ったサイズの抱えきれないほどの


問題や悩み・不安があるものだと思うの


私自身もとってもとってもうらやましいくらいに


すべてに恵まれ過ごされている方が


知り合いにいるのだけれど


私はその方に会うたびに


感じる必要のない劣等感をよく感じていて


そのたびに日頃は思いもしない


自分に与えられた環境などに悲しくなる事さえあったの


その方とこの間1年くらいぶりに会って話していた時に


何となく元気がないので


疲れているのかなって思い尋ねてみると


数年前に出産した時


何かの神経の作用によって


心身が優れず


物忘れもひどくその事で疲労している事を


伝えてくれたの


今まではきっちりとした方だけに


人を頼る事もなく自分にも周りにも厳しい方だったので


物事を忘れてしまう自分に耐えられず


時には


人に頭を下げて物事を頼む事も多く


人生で初めて味わう感覚に


辛そうだったの


でも私は彼女を見つめがら


彼女が思うのとは逆に


この事で彼女の人生が広がってきているのを感じていたの


今までは何でも満たされている方だから


苦悩している方に心寄り添う事はなかった事もあって


誰に対しても見下す部分があって


その事が人との関係を広げるストッパーになっていたのだけれど


今では自分に与えられた弱さや困難が出来た事で


自分一人ではできない事も生まれ


よい意味で人に寄り添わなければならず


今まで知ることのなかった人のあたたかさにふれ


日々人への感謝によって


色々な人にサポートされ過ごしているようだったの


その事で周りとの人間関係や


夫婦の関係もあたたかいものになっているようで


昔とは違う張りつめた空気感はなく


心身の疲労とは別に大きな安心感に


包まれているのを感じていたの


人は面白いもので自分にとって自分が思う誇れる素晴らしさを


そのまま素晴らしいと思い受け止めるとは限らず


意外と自分が一番自分の中で好きになれない部分を


愛してくれていたり


個性として認識してくれていたりするものだと感じたの


その中で今までは見下して以前は


その方のおおらかさを無神経と


表現していたりしていた事もあったのだけれど


今では


「子供を預けるたびに嫌な顔する事もなく


一人も二人も同じだからいに気にしないでって言ってくれて


助かっているの


あの人から学んだのは


母親は許す事の積み重ねなんだなって思ったの


あのおおらかさに救われる人も


多いだろうなって思っているの」と


数年前の価値観がまるで180度変わっていたの


その方の話を聞きながら


本当の意味での強さが育まれているのを感じていたの


本当に強い人間は人を許せたり


人の良さに瞳を向けられると思うから・・・


きっとこれからは誰かの望むサンプル通りの生き方ではなく


昔よりも強く人間として輝きながら


自分スタイルの素敵なお母さんになってゆくんじゃないかなって


感じていたの










毎年お盆には足を運ぶ場所へ今年も行って


毎年与えられる不思議な体験の中


瞳には映らない存在を


この時期改めて感じ


いつもこれで良いんだってって


勇気をもらっているの


祖父や祖母・伯父などはもうその土地にはいないので


ただお墓参りのためだけに


車で5時間くらいかけて行くのだけれど


そのたびに通常ではない体験が多いの


そのたびにもしも祖父や祖母・伯父が生きていたら


「よくきたな」って笑顔で迎えてくれて


様々な御馳走を用意してくれたり


色々な場所へ案内してくれると思うのだけれど


それを表現する肉体がないから


いつも私たちが偶然足を運ぶ場所で


その時々誰かの肉体を借りて


私たちにもてなしをしてくれているんじゃないかと感じるような


出来事が多いの


そして必要以上に無意識にパートナーに


会った記憶のない祖父や祖母の事を話したり


伯父との思いで話しをしている自分に驚くの


そしていつもお墓参りの時に気がかりなのは


昔から


その場所にはなぜか蜂が多く怖い私は


晴天だとまた蜂がいてゆっくりできないと


パートナーに話すのだけれど


そのたびにパートナーは「大丈夫だよ


いつもお墓につく時いつも濡れない程度の


霧雨が降ってきてお墓参りできるように


またしてくれるから」と答えてくれるほど


毎年ありがたいくらい


数分の霧雨が私たちを包んでくれて


蜂が羽を休めている間に


ゆっくりと心の対話ができているの


きっと多くの方にも寄り添うように先祖がいて


悩んでいる時には「お前の思うようにしたらいい」て


肩に手を置き励ましていたり


落ち込んでいる時には「お前なら大丈夫」って


背中を押してくれていたり・・・


ただ私たちははっきりと瞳に映す事が出来ないだけで


多くの存在に力を与えてもらっているんじゃないかなって思うの


ただ肉体が存在しない事もあって


生きている人間のように強くはっきりとした


影響を与えられないけれど


様々な方法でそれぞれの方の先祖は


導き助けているんじゃないかなって思うの


ある時には誰かの肉体を借りて


元気づけたり


誰かの声を借りて伝えたい思いを伝えたり・・・


私たちはいつも目の前にいる方が


すべて感じたままにそうしていると思ってしまうけれど


意識して過ごしてみると


時々通常この方はこんな事を表現しない人なのに・・・って


思う瞬間を見つけられると思うの


そんな時にはきっと先祖がその方の肉体を借りて


大切な大切な子孫に


メッセージを与えているんじゃないかなって思うの


そのような感受性が育まれると


実際には瞳に映らない存在のぬくもりを感じられたりして


人間界で過ごす中で様々なこだわりに縛られ


自分らしくいられない時にも


大きな勇気を内から生み出す事が


できるんじゃないかと思うの










最近なぜか子育て中の友人と話す機会が多く


心ふれあう時間の中で


色々と感じる事がったの


友人はまじめでしっかりとした素敵な人で


若い頃から色々な情報を集め


人生設計をしてきて


ずっと自分が描くイメージに近い時間を受け取り


歩んでいたのだけれど


母親になってからはまるで迷路に迷い込んだように


いつも気持ちが落ち込む事が増えたそうなの


理由は色々とあるようだったのだけれど


話を聞いていると


同じように子育てをされている方が見たり読んだりする


メディアの影響なのか


子育てを楽しめない私って変なのかなって思っていたり


母親でも母親に見えないほどおしゃれに


毎日を楽しんでいる人が多いのに


私って・・・って感じているみたいだったの


その言葉を聞いて私は時代の変化を少し感じていたの


私の母親世代は子育ては大変なもので


経済的にも時間的にも余裕がなくって当たり前だという


それもメディアからの影響だったのかもしれないけれど


そういう意識があったから


色々と満たされない部分が多かったとは思うのだけれど


自分がみじめに感じる事も少なく


子育てをしてきたと思うのだけれど


最近はその逆で子育ては豊かで


楽しくある事が当たり前のように


様々な著名人が語る事も多く


それを見つめている同じような世代の方たちは


同じような歩みが出来ていないと不安になったり


結婚自体がよくなかったのかなってさえ


感じてしまうのだと思うの


人間関係でもそうだけれど


メディアに登場する方たちは


そのこと自体がお仕事なので


そこにはイメージもあるだろうし


時にはタイアップしている商品に繋がる会話もあったりして


本当の日常をすべて表現しているわけではないのだから


その方たちが基準ではないように思うの


ただ昔と違うのは


よい意味でもそうではない意味でも


見たいものを選択できる事によって


見たくないものを知る事なく過ごせるので


その事が時に未来に心を支えてくれるあらゆる言葉や情報・知恵を


知る事がないまま


何となく同じ世代の輝く方の生き方を基準に歩み


その方と比較しながら


自分の位置を図ったりしてしまうのかなって


感じていたの


でも本当は一人ひとりに与えられた


使命や目的も違っていて


その使命や目的を達成するために与えられた環境も違うのだから


基準にはならないんじゃないかなって思うの


よい意味でもそうではない意味でも


自分で多くの事が選択できる時代になって


その事で人間関係も自分にフィットしない方の


人生に関わる事もなくなり


心煩う事が少なくなったけれど


ある意味で色々な生き方をしている方の人生を


知る機会もなくなった事で


迷いも生まれているのかなって感じていたの


多くの方が表面的には何となく満たされ


暮らしているように映る社会では


何か満たされていないものがひとつでもあるとそれだけで


不安が大きくなったりしてしまうのかなって思うの


でも本当は何も問題を抱えていない人は


どこにもいなくって


形や大きさ・数は違うけれど


その方に合わせた荷物を抱えながら


人に見えていない場所では時々荷物を下ろし


休み休み人生を歩いているのだと思うの


私自身子育ての経験がないから


心重ねても共感できる言葉を手渡す事は


出来ないかもしれないけれど


子供にとってはどんなに時代が変わろうとも


親から受け取った言葉や体験は


ひとつ残らずその子供の人生の栄養となり


その子供がやがて大人になり


何かを悩んで出口を見つめられなくなった時


遠い昔にしまわれた記憶の中から


出口を変えるカギとなるものを見つけるのだと思うの


それは優しさというのぬくもりによっての場合もあるし


その逆で厳しく言われてきた言葉によってだったり


その方それぞれだとは思うのだけれど


私が感じているのはよく子供の前では喧嘩をしてはいけないと


大人の間では表現される事もあるけれど


私自身


両親が若い事もあってよく喧嘩もしていたけれど


その分そのあとの仲直りもよく見ていたからなのか


今でも知り合いや友人関係の中で


何かぶつかりあったりしても


それで縁が切れる事は少なく


そのあと仲直りできるものだと感じているせいか


周りから見るとあんな事を言われたのに?とか


あんなひどい事を言ってよく仲良くできるねって


表現されることもあるくらいなの


でもそれもきっと両親の影響もあるのかなって感じているの


人は正直に心を表現したならば


どんなに相性の良い方であっても


合わない部分あって


お互いに相手に理解してもらいたい


この人ならば理解してくれるという思いがあるからこそ


あきらめずに伝えあうからぶつかるのであって


最終的にはその思いを時間と共に


理解できる相手同士だった場合


どちらからともなく歩み寄って


縁がつながれてゆくのだと私は思っているの


そしてその様な事を重ねてゆくと


一つの表現で何を表現したいのかが


わかりあえるので今では理解も深まってゆくための


更新の機会だとさえ感じる事もあるの


私とは逆に素晴らしくきちんとされた


両親に育てられた方の中には


両親がけんかしたところを見た事がなく


人と喧嘩したりぶつかり合う事はよくない事だと


考えられている方もいるとは思うのだけれど


そのような方の中には


仲が良い友人であっても恋人・夫婦であっても


自分の本当の思いを表現できず


表現する時には縁が終わる時だったり


一回でもぶつかりあってしまうと


もう縁がなくなるという方もいると思うの


それくらいに両親の事を好きかどうかだけではなく


大きく影響を受けて


子供たちは未来へと歩んでゆくように感じているの


両親はできるだけ大切な子供には


美しく素晴らしいものだけを瞳に映し


手渡したいと思ってはいるとは思うのだけれど


ある意味で両親が正直に人間としてあるがままの姿で


過ごす事が


子供にとっての大きな学びとなってゆくんじゃないかなって


私は感じているの


子供は意外と冷静に


よい部分とそうではない部分を判断し


反面教師としての学びもあったり・・・


少しお話は違うのだけれど


この間実家で弟の元に授かった天使たちと話していた時


「さーちゃん箸の持ち方がへんだよ」とか


「なんでさーちゃんは子供産まないの?」とか


私に対する疑問を次々と素直に表現してきたの


その時隣で聞いていた母が天使たちに


「社会の中には自分と違う人もたくさんいるの


でもそう人と出会ったら見ないふりしてあげるのも


優しさなんだよ


その人それぞれ事情や考えがあってそうなってるんだから」と


大人に表現するような言葉で表現したのだけれど


小さな天使たちは何かを感じたのか


「さっきはごめんね」て私にささやいたの


天使たちの疑問は間違ったことではないけれど


大人になると正しい事が必ずしも正しいとは限らず


そのすべての答えは優しさというものに包まれて


生まれてくる答えも多いと思うの


箸の持ち方は両親に幼いころから教えられてはきたのだけれど


なぜか私には身につかず


そのせいで親戚には親の育て方が悪いと表現されたり


ある時大人になって箸を持つ場面があった時


食事を終えてから


「育ちが悪いのでは?」とささやかれていた事を知り


それ以来人と食事をする時には


箸を持たずに済む食事を選んできたのだけれど


この間医療関係の知り合いと会った時


つい気を抜き箸で食するものを選んでしまい食べていると


やはり気づかれてしまいあ!っと思ったのだけれど


その瞬間知り合いは


「器用な持ち方するんだね。うらやましいな


今医療では小さな傷口から器具を使って


手術をする事が多いから


利き手だけではなくって


両方使えるように訓練していたり


持ち方も練習しているの


だから私は毎日左で食べたり


持ち方も変えたりしてるの」って伝えてくれて


生まれて初めてお箸を持ちながら


ほっとした瞬間だったの(笑)


もちろん私は職種が違うから


ただのマナーがなっていないだけなのだけれど(笑)


そんな風に色々な環境の方と出会う事で


救われる事もあるんじゃないかなって


感じていたの








私はよく瞳に映らない


様々なものが持つエネルギーを感じたくって


色々と試みながら


改めて小さな神秘を感じているの


たとえばよく風水などでは


微妙な位置や変化で


運が変化すると伝えられているのだけれど


私の場合


専門家ではないのできちんとした



計り方などがわからない事もあって


引っ越した後


自分の直感・インスピレーションで


様々なものを配置した後


数日たつと何となく気になる場所や物を感じたら


その場所を毎日毎日清めたり


気になるものを移動させて見たりしながら


数日後に届けられる出来事で


ここは人間関係を司る場所なのねっとか


この場所は何かをガードするために


ここに石を配置した方がいいのねって


感覚的に教えてもらっているの


今回も数年ぶりに運気を動かしてみよと


安定していた場所から物を移動させてみたの


そうしたらやはり驚くくらいに


色々な方から連絡を頂いたり・・・


ただその場所はランダムに縁を繋ぐスペースだったのか


よい縁ではなく考えさせられる事ばかりを


運んでくる方との縁ばかりだったので


またすぐに今までの安定しているスペースへと戻しながら


改めてこんな小さなスペースなのに


配置する物やスペースの大切さと怖さを感じていたの


そう思うとあまり風水に詳しくない方の場合は


できるだけすっきりと必要以外のものは置かず


過ごされた方が


本来自分に与えられている運にサポートされながら


スムーズに過ごせるんじゃないかなって


感じていたの


よく心の現れがお部屋の状態と表現されているけれど


私の知り合いの中には


お部屋に人を招く事ができないくらいに


なっている方がいるのだけれど


その方自身を見つめていると


毎日忙しく充実していて


ただ忙しくってお掃除できないだけで


心に何も問題がないように感じていたの


でも本当の充実って


心と体のバランスが保たれていて


実現していることだと思うのだけれど


彼女は身体の不具合を感じながらも


次々と予定を入れ過ごしているの


私はいつも心配でつい当たり前のアドバイスを


何度もしてしまう事があるのだけれど


彼女の顔から笑顔が消えるのを感じ


今は何も伝えないようにしているけれど


そのたびに彼女の心の充実は本当の充実ではなく


抱えきれないほどの予定を入れる事で


時には自分のを追い込み


そうする事で自分と向き合う時間がなくなり


ある心の問題を考えずに済むための


行動なのかなってふっと感じていたの


だから一人でゆっくり過ごしたりする時間を


無意識ではあるけれど持たず


忙しく過ごす事で今は救われている部分もあるのかなって


感じていたの


私も今思えば若い頃そんな時を過ごしていて


毎日毎日何かをしている事で


精神の安定を受け取っていた時があって


一人になる時は眠る時くらいで


今では笑い話になるくらい


お部屋は歩く場所がないほどだったの


でも日々忙しく楽しく時を過ごしていたように


その時は思っていたのだけれど


今の私が過去の自分を見つめて見ると


自分の人生に向き合う時を


先延ばしにしていただけだった気がするの


でもその時はそうする事でしか前に進めず


流れに乗るというよりは流されて過ごしていたの


でも必ず誰でも自分の人生と向き合う時は


遅かれ早かれやってきて


年を重ねるように解決しなければならない


心の問題と出会い


認めたくない自分の行いや受け入れられない過去が


次々と溢れだしたの


そして初めは落ち込んだり反省したり


時には「だってあれはあの人が・・・」と


誰かのせいにする自分が現れたりするのだけれど


冷静に考えると


私の心の思いや表現は


誰かに伝えたり聞かせるものではないのだから


自分に正直に向き合わなければ


わざわざ自らこの心曇る時間を作った


意味がないんじゃないかなって思い


水晶にサポートしてもらいながら


一つずつ問題を自分で感じられるように


表に出し


ゆっくりと自分が納得し消化できるよう


答えを見つけていったの


そうしたらここで表現するのは


とっても恥ずかしい事なのだけれど


人との関係を楽しめなかったほとんどが


相手への嫉妬や妬みで


私自身はその思いを認めたくないから


あれこれと形を変え


相手を好ましく思わない正当な理由をあれこれと考え


自分の心を隠していた事を感じたの


そしてそうしてゆくうちに


まるで塵やゴミがまとわりついたように


初めのストレートよりも重くなり


心た思いは見えなくなり


そしてその事を考えるだけでも耐えられなくなって


奥へ奥へとしまいこんでいたけれど


消えてしまうものではないのだから


気がつくと綿ぼこりのようなものが大きくなって


心を覆い同じようなものを引き寄せていた


時期もあったように思うの


でも私の場合は病と共に過ごす時間が長かった事もあって


その時身体のアクションが心まで支配するようになって


とっても明るく深く物を考えられない私でも


日々痛みの中で後ろ向きになる事で


一気に今までの人生を振り返る機会が与えられ


耐えられないほどの心の痛みと身体に痛みに


包まれていたの


もしもその時私が一人ぼっちだったならば


今こうして過ごしていなかったと思うのだけれど


ありがたい事にインターネットで繋がる


多くの方からあたたかい言葉をもらい


人生で初めて感じる人と繋がる喜びに支えられ


自分の心をゆっくりとほどく事が出来た気がするの


そんな風に人にはそれぞれ


何かきっかけがなければ


一番近くで寄り添い歩む自分の事は


わからないまま過ごしてしまうんじゃないかなって


感じているの


気を紛らわし過ごす事も


時には大切だけれど


もしも心の体力を感じられるのならば


まずは小さな心の問題をピックアップしてあげて


自分に正直に自分が納得できる答えを


心に伝えてあげるだけでも


何かが変わる気がするの


人には心が授けられていて


心が人生のすべての物の見方や方向性まで


定めるほど大きな力を持っているのだから


心と向き合う事は


人生のすべてを変えるくらい


大切なことだと思うの











誤解を恐れず


自己表現の大切さを改めて感じる事が


久しぶりにあったの


友人は何となく自分の思いを


わざわざ特に繋がりのない方に


表現したり伝えることで


色々と分析されたり意見される事を好まない事もあって


世間一般的に求められているであろうと思う


意見や思いを自分も抱いているように


表現してきたのだけれど


その事でもっと問題を招いている事に気づいたそうなの


ある時独身の友人は


幸せに暮らしているのだけれど


何となく周りからこの年代の人は


結婚をしたいと誰もが思っていて


そういう答えを望んでいるのを感じ


その事を望んでいるかのような表現や


逆に結婚を望んでいないと表現すると


できないからそう言っているとか


いろいろと分析されたり意見されるのが好ましくない事もあって


結婚をしたいけどなかなか・・・と答えていたの


そうすると親切な方たちは


次々と相手を紹介してくださり


今度はその事で断らなければならず


問題が大きくなる事さえあったようなの


そのお話を聞いて改めて


人の縁の繋がりと広さと深さを知り


上手に言葉では表現できないのだけれど


自分の思いがどんなものであっても


表現する事で


どこでどんな縁が運ばれてくるかわからないんじゃ


ないかなって感じていたの


たとえ少し人と違った望みや理想を語るのであっても


聞いた方は聞いた事を


意識のどこかにしまわれていて


そのキーワードと一致する話題や人を見つけると


それを表現してくれた人に伝えてくれたり


縁を運んでくれると思うの


私自身も以前若い頃


華やかさや未知の世界へのあこがれで


真剣ではないのだけれど


メディアで仕事をしたいと思った時があったのだけれど


そんな思いも自分自身忘れ過ごし


数年がたった頃


たまたま偶然のように出会ったご縁で


繋がりあう友人が出来た時


その様な思いがあった事を何気なく話したら


数日後


その方が知り合いとその話をしていた時


その知り合いが偶然のようにお友達数人が


モデルクラブに所属していたそうで


紹介してくださるという話をしてくれたの


私自身が話した思いではあるのだけれど


それほど真剣に考えてはいなく


それ相応の努力もしていない私は


その事が現実になってしまう事への喜びよりも


自信のなさからありがたい思いだけを受け取り


お断りした事があったの


人って様々な思いを秘めている生き物ではあるけれど


根本的な深い所では


人のために何かをしたいという


深い愛情を持っていて


相手が望む事が何であれ


相手の表現した事や思いを聞いた時


自分の生活圏の中で


そのキーワードに繋がるものを見つけると


何か力になりたいと


働きかけてくれるものだという事を


その時感じたの


そう思うと誤解や否定を恐れずどんな事柄でも


正直に自分が思う事を表現する事で


自分以外の人が力になってくれる事も多いんじゃ


ないかなって感じていたの


友人も今回の自己表現によって届けられた体験から


誤解や否定を怖れず自己表現する事で


本来ならば自分で何でも負担しなければならない事が


多くの縁を経由して


色々なことを可能にしているのを見つめながら


改めて自分が自分らしくいる事の大切さと


必要性を感じていたの


自分の理想や望む事を表現する事は


少し恥ずかしい時もあるけれど


言葉は力を持っていて


受け取った方たちがその言葉に魂を宿し


言霊となって動き出すものだと思うの


ある人は軽い気持ちで


将来自分の趣味の本を出版できたらなって


表現していて


本人はそんなに真剣に思ってはいなかったのに


数年後には結婚した人の友人が


たまたまの偶然のように出版関係の方がいて


出版できるように働きかけてくれて


夢が一つかなったそうなの


そのような話を聞いた時


自分の出来事ではないのだけれど


このようなお話が私の元に届けられる意味を


自分なりに考えたの


そうして感じたのは


言霊は表現した本人が思う以上に力を持っている事と


人間が秘めている


深い愛情の存在だったの


よく人のために何ができた時


人の笑顔を瞳に映した時


心が嬉しさで満たされる事があるけれど


それは人間に備わっている本能で


その本能が満たされる事は


この上ない喜びとなり


自分が存在している意味と使命を


自分自身が肯定できるからなんじゃないかなって


感じているの


だからこそ人は相手からの直接の見返りがなくっても


親切で愛情深い行為を


続けられるんじゃないかなって感じているの


そしてすべての人が自分の意思とは別に


深い部分で繋がりあい


時代を創造しているのだから


考え方や価値観がたとえ違っていても


どこでどんな縁で未来への幸福に繋がる


カギを手渡してくれるかわからないと思うの