2011年7月





最近日々フィットネスクラブで過ごしているのだけれど


そのたびに


今まででは出会う事のない世代や


ライフスタイルの方との出会いも多く


気づかせていただく事も多いの


この間はヨガのレッスンの時


とても親切なインストラクターの方で


ポーズを作るたびに


ステージから降りてきて


微妙に違っているポーズを修正してくださったりしてくれて


何となく嬉しく過ごしていたの


その時後ろ側から


「もういいですから」と強い口調の言葉が聞こえてきて


振り向いてみると


50代半ばくらいの女性が


「私はただ運動のために出ているだけで


真剣にやっているわけではないんだから


ほっといてほしい」と


インストラクターの方に伝えていたの


そう伝えられたインストラクターは


「そうだったんですね


ただヨガは少しでも正しくやった方が


効果があると思ったものですから・・・」と


表情を曇らせ元気がなくなっていたの


私が通う時間帯は年齢を重ねられた方が多く


アドバイスをされる事を好ましく感じない方も多く


私から感じる親切なインストラクターの方は


あまりよい評価を受けない事があるの


年齢を重ねた世代はできない事


スムースにできない事を


遊びの時間であっても


必要以上に恥ずかしいと感じられる方が多いのか


何気ない時間でも


きっとプレッシャーを感じてしまうんじゃないかなって


感じていたの


この間はたまたま隣に60代くらいの女性と


レッスンを待ているとその女性が


色々と不安なのか


「私は何にも出来なくって毎回恥ずかしいの


あなたはできるんでしょ?」と尋ねられたので


「私もまだ何回も出ていないから


ついてゆくのがやっとで


いつも憶えた頃に終わってしまうの(笑)


上手にできなくってもいいんだと思いますよ


そんなに上手ならこちらではなく


教える方に行った方がいいと思いながら


開き直って毎回出ているの(笑)」と伝えると


その方が急に明るい笑顔で


「そうだよね


できないから


月謝払って習いに来ているんだもんね


はぁ~なんか楽になったわ(笑)


ただ楽しいから出ているってだけでいいんだよね」と答えられて


それ以来毎回その方が笑顔で参加しているのを


瞳に映しながら


その方は自分の気持ちをまっすぐに見つめ感じとるままに


そこにいるから


すぐに心の小さな問題を解決してくれる相手を見極め


ヒントをくれる相手から


いつも心を軽くできる歩みで


過ごしているように感じたの


そして


日本人ならではのまじめさが


失敗を必要以上に恐れ


行動範囲を狭めてしまう感覚をなんとなく感じていたの


私はまだまだその方たちよりも若いから


今はそんなに知らない事があっても


できない事があっても


恥ずかしという感覚が強くはないけれど


もしかしたら年齢を重ねると


同じように感じてしまう瞬間もあるのかなって感じていたの


同じ世代の方たちは


何となく同じような時代や歩みの中で過ごしてきた事もあって


これは知っているのが当たり前


これが出来て当たり前と言う前提で


人を見たり自分を評価したりしてしまう事もあって


簡単に知らない・できないと


表現しにくい時もあるのかなって思ったの


世代が違うとぜんぜん気にならない事でも


同じような世代間の中では


そういう感覚が生まれやすいのかなって


感じていたの


そして年齢を重ねると優しさの形や深さも違っていて


中には本当は色々な事を知っているのに


語る人を立てる思いやりとして


先回りして「それはね~・・・」と自分の知識を表現せず


自分よりも若い世代が新たに気づいた事や発見を


何も知らなかったように聞いてあげていたり・・・


それとは真逆にすべての人に情を重ねてしまうからなのか


自分なりに真剣に受け答えしすぎて


あまり好印象を受けない方もいたり・・・


その方にとっては人事だから何でも「いいんじゃない」と


調子のよい表現に愛情を感じない事から


何気ない事であっても


自分で思う良き方向に進んでほしいという思いから


強く表現してしまい


時に相手が望む事とは違いすぎて


その優しさが伝わらないままになってしまったり・・・


すべての事に言えることだけれど


これが絶対正しいサンプルはなく


手渡す方と受け取る方の相性やフィーリングなどもあったり


その時々の気分もあったりして


コントロールできない部分もあると思うの


多くの方が正しいと思う事であっても


ある人にはとっても心曇らせ重い事もあったり


かと思うと本来ならば違うんじゃないのかなって思う事でも


表現する方との相性と受け取る方の相性がフィットするならば


その言葉以上のものを見つけられたり


笑顔になれたりするものだと思うの


時には表現している相手が


あまり心のコンディションがよくなかったとしても


受け取る側が幸せに満たされている時期ならば


自然に相手の心を変えてしまうくらいの


受け答えができていて


気がつくと相手も楽しそうな笑顔になる事もあると思うの


人間関係は人生の中の大きなスペースを持っていて


色々な事に気づかせてくれたり


自分がどう感じるのか


どう選択してゆくのかなど


一人では感じられない心の体験の中で


自分と言うものを知る機会なだけだと思うの


よくある人に何かを言われた事について


どうしても心穏やかになれない事があるけれど


その様な時には


相手の良くない部分にスポットを当てて


この体験を終わらせてしまうのではなく


なぜ?自分はこんなにも心が揺れているのか?


どの言葉のフレーズにこだわっているのか?


その言葉から何を自分は感じ取っているのか?など


自分の心にスポットを当てて見ると


相手が原因なのではなく


過去の何かが原因tなっていて


その言葉を聞きたくない自分や


そのような価値観を持っている人といると


自分でも気づいていないトラウマを呼び起こす事に気づいたり・・・


もしもそのようにすべての体験から


自分を知る機会として受け止められるようになると


素晴らしい機会に自分でチェンジできると思うの


出会う人はすべて


自分の人生でお互いに何かを感じあうために


クロスして出会うだけで


上下を決めたり正しいかどうかジャッジしあうために


出会っているわけではないように思うの


先ほど書いたできなくてインストラクターのアドバイスを


必要としない方も


理由はあれこれと表現していたけれど


ただできない自分が恥ずかしい気持ちが強すぎる事に


自分で気づけていたならば


その気持ちに瞳をそらし


インストラクターの優しさを否定する事もなく


レッスンが終わってからも


自分の思いを正当化するために


他の方々にまでそのインストラクターの事を


好ましくない表現はしなかったと思うの


どんな出来事も


自分を知る機会として与えられていることだと思えるようになれば


どのような出来事に出会っても


必ず出口を見つけられるし


解決ができる選択をできると思うの


でも一番簡単なのは誰かがこういったからこうしたとか


あの人にこうされてから私は・・・と答えを出す方が簡単で早く


自分を解放できるし


自分の見たくない部分を見る事もなく済ませられるから


そのような流れへと流されやすいのだと思うの


でもその様な解決方法は


一瞬その問題が見えなくなっただけで


また機会が整えば同じような問題が届けられると思うの


今の自分の人生には必要な課題・宿題は


自分がどんなに望まなくっても


自分にとっての正しい解決ができるまで


何度でも繰り返し与えられると思うの


人には表情や言葉で嘘をつけるけれど


自分の心の問題集は正直に感じた答えしか


◎まるをもらえないものなんじゃないかなって感じているの


心の答えは必ずしも


人に表現しなければならない事ではないのだから


どんなに感じたくない心の声を感じても


知りたくなかった自分の考えに気づいても


気づくという最も高度な事をできた


自分を褒めてあげてほしいの


その気づきによって


知らず知らずに次のステージへと


自分が招かれてゆくと思うの









自分らしさに気づき


自分らしい表現をするには大きな勇気が必要なのは


日本だけではなく


世界中で同じなんだなって


時々感じているの


今自分には特に個性がないと感じている人でさえ


本当は人とは違う部分を持っているけれど


その自分にしかない個性をあえて抑えて


過ごしているうちに


人との違いが良くないこととして


見えなくしてしまっているだけの方も多いと思うの


そして唯一自分の個性に気づき


自分らしさを表現する勇気を持った方だけが


その個性をベースに


多くの方の瞳に映る輝きとなっているように思うの


もちろん多くの瞳に映る機会が多ければ多いほど


色々な評価もあるけれど


その事も受け取る覚悟がある方だけが


人生を広く旅してゆけるんじゃないかなって


感じていたの


人からの評価と言うものには


幾つもの分野や枠がたくさんあって


何気ない会話の中でも出てくるのだけれど


たとえ人の自分の事でなくっても


自分の価値観や理想と重ね合わせて


「私はあんな風にはなりたくない」と表現する事があって


私自身も今にして思えば母に


その様な表現を何度もしてきて


言葉では表現できない気持ちになっているの


私が望む理想とは遥かに違う母の生き方を


聞かれてもいないのに


幼い私は否定していたのだけれど


単純に父のような人と結婚する母を理解できない気持ちと


自分の意志で物事を決めたり


行動できない母に対して好ましく思っていなかったのだけれど


今思えば父と母は


私から見れば親だけれど


父と母は恋愛から始まり繋がりあったカップルなのだから


私とは感じ方で当たり前のなのだと思うの


恋愛の事で悩んでいる時


何となく不安を消し去ろうと周りの人や


友人などに相談する事ってあると思うのだけれど


恋愛相談は多くの場合


心を軽くしてくれる事は少なく


益々重くなってしまう事も多いように思うの


なぜならば不安に感じているという事を


相談する時に相手に


その不安に感じている事をあれこれと説明する時


無意識に彼の良くない部分や


不安要素を語るわけだから


聞いた相手は予想や想像


そして自分の好みや価値観を重ねて答えると思うから・・・


恋愛の事は本人が一番良い部分もそうではない部分も


本当はわかっていて


もしもその恋愛が成就した場合には


共に暮らし共に歩んでゆくのは自分なのだから


たとえ周りの評価が好ましくなかったとしても


自分が良ければそれがとっても幸せなことだと思うの


私の知り合いの中には


パートナーがおうちで仕事をされている方で


彼女はそのお手伝いをしながら毎日暮らしていて


時々みんなで話す機会があるのだけれど


ある人は「彼がもっと外で働いてくれた方が


生活が楽になるんじゃないの?


そんなひとやめたら」と伝える人や


「一緒にいすぎるのも疲れそう


将来の保証もないし


ちゃんとした会社員の人と付き合ったら」と


相手を思ってのアドバイスだと思うのだけれど


それを聞いた彼女は


「私はずっと親がいなくって育ったから


みんなみたいに嫌になるほど人といてみたいと思っていた時


今の相手と知り合ったんだけど


全然嫌にならないし


保証は生まれた時から私の場合ないから


今の幸せを大事にしたいの」って話していたの


それを聞きながら


その人それぞれの歩みの中で一番大事なものがあって


それは深く心ふれ合わなければ知る事が出来ず


表面的な判断で


人は人の事を判断してしまう事もあると思うの


彼女は彼との事を周りから何となく


反対されていたけれど


自分の気持ちに気づき


自分らしさを表現してゆく強さの中で


彼女は彼と共にカナダにゆき


彼とは結婚して今幸せに暮らしているそうなの


私自身も昔


今のパートナーの話を何気なくした時


年下と言うだけで


その方それぞれの中にある価値観や固定観念を


刺激したのか


「年下で大丈夫?」とか「年下なら手がかかるんじゃない」など


色々と伝えられた事もあったけれど


私の中では迷いがなかったから


今の幸せがあると思っているの


少しお話が違うのだけれど


世の中には法律的にはいけないと伝えられている事でも


あきらかに違反している事でも


それが当たり前になっている事も多くあるように


表面的には規律のために正しい事と


そうではない事を決めているけれど


その事を深く突き詰めて見ると


なぜ?いけないのかわからない事で


溢れていると思うの


誤解をされてしまうかもしれない表現なのだけれど


結婚している人は絶対にその相手以外とは


交際してはいけないというのが


正しい判断なのだけれど


それはとっても強い理性で心を抑えるか


とっても深い愛情によってそうできる事であって


人間として考えて見ると


生物的には3年くらいで体内のホルモンの状態が変わり


相手に対して異性としての魅力を感じなくなってくるそうだから


もしも自然に任せたならば


3年というスパンでいつも恋愛が終わる事になってしまい


そうなってしまうと子孫を残し育ててゆく事が難しくなるから


きっとある時から法律のようなもので定め決めたり


法律だけではなく宗教的にも


そのような事を正しいと教えの中に加える事で


どんなに深く愛しあっていたとしても


婚姻している相手との関係は大きな罪となり


社会的にも心的にも


ダメージを受けるようになったのだと思うの


冷静に見つめたならば


出会うタイミングが早いか遅いかだけで


まるで違う恋愛になってしまうのだけれど


立場が違うと感じ方思い方も違ってきて


私自身もまだ結婚していない頃には


人を愛するのは自然なことなのだし止める事が出来ないって


思っていたけれど


結婚したとたん妻というポジションの安定を感じ始めてなのか


結婚しているのに他の人を好きになるなんて・・・と


自分のポジションが揺らぐ事を


排除する表現になっていったの


でも冷静に自分を見つめると


恋人同士だった頃のようなときめきは


自分自身にももうなくなっているのに


相手にはその気持ちを持ってもらう事を


要求するのはどうなのかなって思ったり・・・


ただ思いはときめきとは違うけれど


とっても大事に思う人になっていて


相手もその思いは同じだと思うの


だから人は恋愛のようなときめきだけでは


簡単に終わる事なく


家族という形になり思いを続けらていると思うの


容姿の美しさや魅力では


敵わない人はたくさんいるけれど


恋愛の時とは違いそれだけでは


多くの宝物となる時間や人を共有しあっている相手を


お互いに手放せなくなっているのだと思うの


だからこそ見ただけでは判断できない


深い繋がりによって


家族という形で続いているのだと思うの


私の独身の友人はよく


「周りを見ているとあんな人でも結婚できているのに


何で私は結婚できないんだろうって


時々あの人たちよりも自分が劣るのかなって


悲しくなっちゃうよ」と表現する事があるのだけれど


容姿だけでいったら


きっと結婚生活を長く続けている方とそうではない方では


すべての時間が自分のために使える豊かさが


たくさんある方の方が美しいかもしれないけれど


結婚はそれだけではない部分が多くあるから


人からはわからない事も多いと思うの


そしてあくまでも私の考えなのだけれど


恋愛はいくつも自由に許されているけれど


結婚は前世の頃から自らが決め望み


もしくは前世で返せなかったカルマを返すために


巡り会って結ばれているから


何度も別れを思っても


無意識に添い遂げようとするもう一人の自分がいたりするから


恋愛の頃のように自分の思いだけでは簡単には


離れる事はないような方も多いように思うの


そう思うと婚姻している相手を愛してしまった場合


愛する喜びよりも


時間と共に苦しさや辛さ


そして自分や相手を責める思いに


心がいっぱいになってしまうと思うの


恋愛って本来楽しくって幸せで


色々な事を乗り越える力さえ与えてくれる輝きがあるのだから


その感覚を与えてくれる人と


巡り合い縁を深めていく方を今は辛くっても選んだほうが


自分の心の痛みがやわらいぐ日が必ず訪れ


幸せな時間の中で


過去の恋に胸をキュンとさせられる日が


くるんじゃないかなって感じているの



自分らしくいられる時間は


すぐに戻ってくるのだから・・・










年々私とパートナーは


自分らしいスタイルを程よい感じで


理解できるようになってきたように思うの


今までならばお互い譲れない事が多かったり


逆に相手に譲りすぎるために


フラストレーションが


満ちてきたりする事がったのだけれど


最近はどちらが我慢するという感覚もなくなり


良い意味で一緒にいる事にこだわらず


別々の楽しい時間を過ごし


お互いに会話を持ち寄りあう感覚になっているの


そんな私たちを見て


一緒にいつもいないなら結婚した意味がないんじゃない?って


表現される方もいるのだけれど


私自身大切な友人であっても


いつも一緒にいるからわかりあえるわけでも


仲の良さが計れるとは思ってはいなく


旅行に一緒に行ったとしても


お互いに行きたい場所があって


時間に限りがある時などは


どちらかが自分の行きたいところをあきらめて


相手に合わせあう事をを望まない事もあって


お互いにある時間になったら会えるように


待ち合わせをして


お互いに見てきた感動を伝えあうのもいいかなって思い


お互いの自由が許しあえる事が


私には心地が良いの


もちろん同じものを見て同じ感覚を


共有し合う事も幸せだけれど


仲が良ければよいほど


相手の好みや相手の考えがわかる事もあるから


できる信頼の形なのかなっとは思うの


私の周りは個性が強く良い意味で自立していて


一見思いやりがないように映る感じの方が多いのだけれど


私にとってはわかりやすい思いやりではないのだけれど


互いに負担にならず


とっても大切に思う部分をたとえ理解できなくっても


自分が好きな人が大切にしている感覚を


変に分析したりする事なく


大切に思えるこの思いは


いつもありがたい気持ちでいっぱいなの


でもそう思える出会いってなかなかなくって


縁が深まる前に疎遠になる事も多いの


少し前までは


そのような事があるたびに


自分の何が問題だったのだろう?とか


相手の性格的な事をあれこれ考えて


心曇る事もあったのだけれど


縁を深めるために努力や無理を重ねなければ


深まらない縁なのならば


早かれ遅かれ何かきっかけがあれば


終わってしまう縁なのだから・・・って


気にならなくなったの


このような思いを周りに相談するたびに周りの方は


「人と違うのっていいんじゃないの


何で皆と同じになろうと変な努力をするの?」と


伝えられるのだけれど


そのたびに私は無意識に深く刻まれている


トラウマのすごさを感じているの


私の周りは自分の個性を良い事として


周りが笑顔で一緒にいてくれた事から


人と違う事は「個性」として刻まれているようなのだけれど


私の場合は真逆で


自分ではそんなに変な事をしているつもりはなくっても


いつもいつも大人から叱られたり


好感をもたれない事が多く


同じ年代のグループの中でも


いつも心が重なる事がなく


こういう時にはこうするものとして


見よう見まねで自分を出さないように


ある部分で訓練をしていたの


それでも否定される事が多く


理由を相手に尋ねると幼い頃はみんな思った事を


素直に表現するので


自分が思ってもいなかったみんなの瞳に映る私を


知る事が多かったの


そんな心の孤独期間が長かった時


ある方から


「そんなに人に合わせる事を要求するほど


周りって優れているの?


合わせなければ付き合わないって言うんだったら


あなたじゃなくってもいいってことなんじゃないの?


孤独を怖れてはだめ!


自分の進む道には必要のない人たちなんだよ


回り道ばかりに時間を使わないで


早く自分の道に戻った方がいいよ」と伝えてくれて


その時精神世界系の本を貸してくれたの


でもまだ私にはその本に書かれている事を


受け取るベースが出来ていなかったからなのか


目次を読んで本を閉じたまま


数週間後その方に返したの


でも不思議なものでその本に書かれていた事が


私に読む必要があったのか


数年後別の人からプレゼントしてもらい


その時には受け取るベースが出来ていたのか


面白いほどに読み進み


次々と精神世界の知識を得るために


本を読むようになったの


精神世界の本たちとの出会いは


今まで疑問に感じていた事や


孤独を感じていた心を満たしてくれたの


今でもそうなのだけれど周りの人から


欲しい答えを受け取るのは難しいと感じた時や


意味なく不安を感じたり


歩みのヒントが欲しい時には


直感でランダムに本を選び


ランダムに思いついた部分のぺ―シを


まるでおみくじを引くように開いて


その部分を読むの


そうするとやはり不思議なもので


今の自分に重なる疑問や答えが書かれていて


無言のサポートがいつも存在してくれているのを感じているの



この間お部屋を掃除していたら


昔毎日のように思いつく事を書いていたノートが見つかって


そのほとんどが自分が望むものやことで


書いた当時はこんな事ありえないよとか


こんなによいものを手にできないだろうなって思いながらも


何となく漠然と書いていたのだけれど


今の私が見つめると


そこに書かれていたすべての事を叶えている事を知って


幸せの中で感謝が少なくなっていた自分に


反省と小さな奇跡が叶えられている事に


大きな喜びを感じていたの


今回の事で感じたのは


その時には無理だと思う事も


あくまでも今の自分の視野から見れる範囲で決めている事で


無理かどうかはわからないんじゃないかなって


感じたの


言葉では上手に表現できないのだけれど


最も私が感じたのは


漠然とノートに書いたことだけれど


その書かれた事を自分自身は忘れていても


潜在意識が一度表に表現された事には変わりはなく


勝手に動きだしているように感じたの


書いたからそうなったのではなく


書いた事によって


自分の意識とは別にその思いを叶えようと


日常の様々な選択を重ね


歩みのバイオリズムに重なるように


多くの枝分かれを作って


自分がノートに書いた事をかなえられるように


導かれていったんじゃないかなって感じているの


たとえばそのノートに書かれていた事の一つに


心から理解し長く信頼できる友人を


望んでいる事が書かれていたのだけれど


私の場合社会生活もなく何か習いに通う事もなく


出会い自体が自分でも想像できなかったのだけれど


書いた自分が忘れてはいたのだけれど


それから数カ月後知り合いのお店に人が足りないとの事で


期日を決めて働く事になって


そこで何となく仲良くなった3人がいて


仕事以外でも良く会い仲が良くなったの


そして仕事をやめてから


何となく2人は疎遠になったのだけれど


気がつくと今では親友になっている友人が1人できているの


その事もそうだけれど


パートナーの事も同じで


理想とする男性について具体的に細かく書いていて


書きながらもそんな人はいないかもっていうほど


自分の都合で書いていたのだけれど


今共に暮らすパートナーは


そこに書いたままそのものだった時にも


驚いたの


ただ一般的に大切と思われる経済力を求めた事は


書いてはいなかったので


ある部分で叶いやすかったのかなっとは思っているの(笑)


潜在意識って日頃意識できない事が多く


理性や常識によってカギがかかってしまっているけれど


理性や常識というカギを開き失敗というものも忘れ


ただ漠然と絶対に失敗しないという前提で


してみたい事・ほしいもの・望む出来事を書く事で


自分の潜在意識にしまわれているものに


気づけるんじゃないかなって


感じているの


ただ一度潜在意識にしまわれているものを


表に書き出す事で


今歩んでいる歩みでは


その望みを叶えるのは難しいと判断されると


軌道修正が行われる事もあって


とってもとっても大きな苦難や予想を超えた道を


歩む時も出てくると思うので


欲とかではなく純粋に自分が望む事を


書き出してみるといいんんじゃないかなって思うの


言葉では上手に表現できないのだけれど


望む事を書くこと自体欲と感じるかもしれないけれど


そうではなく欲の部分と言うのは


ある部分で常識的な幸せにこだわった形のものが多く


それは考えて書いたことだと思うの


私が伝えたいのはそうではなく


損得とかで測れないものの中に


本当に自分がしたい事だったりするんじゃないかなって


思うの


そしてその自分がしたいけれど躊躇していた事が


一つ叶えられる事で


そこから今の自分が予想できない出会いや


経済的な豊かさも重なってゆくと思うの


精神世界の中ではお金について


様々な方向から語られているのだけれど


私が感じているのはすべてのバランスが整った時


経済も上に重なってくるように感じているの


よく自己啓発的な本などには


引き寄せの事が書かれていて


いつもイメージしていると成功できるような表現が書かれているけれど


その言葉はあくまでもベースとなる何かがあって


あとひとつ何かが不足している方には


効果的だと思うのだけれど


自分では何もせずただイメージしているだけで


叶うというものではないように思うの


私の知り合いで


自分には運がないながらも努力を重ねられている方がいて


あとは運の花を開くきっかけと


タイミングだけが必要な感じだったの


その頃精神世界や自己啓発の本などを読むようになって


心が折れそうになるたびに自分を励ましていたの


そしていつもメモなどに1年こうなっていたいというふうに


10年後位を書いていたそうなの


そんなある日その方の会社が倒産し


心折れそうになっていたそうなのだけれど


数日後


その方は新たな会社へ招かれる事になり


今までの報酬・ポストが自分では考えられないほど


ジャンプアップしたそうなの


招いてくれた会社の歓迎会の時


なぜ自分を読んでくれたのかを尋ねると


「他の人はみんな与えられた事だけしかしていないのに


報酬への不満や会社への不満をよくしていたのに


君は一社員でしかないのに


会社が存続してゆけるように


縁のあった会社の人たちに気配りをし


自分の役割以上の事をしていたから


信頼できると思って呼んだんだよ」と伝えられたそうなの


でもその知り合いはほかの方と意識が違っていて


会社のためにしていたわけではなく


自分のためにそうしていたそうなの


みんなは楽な仕事を選び楽に仕事をしていたけれど


一見同じ報酬ならばそちらの方が得のように映るけれど


その方の考えは


楽な仕事は誰にでもできる事で


これから時代が進んでくると誰でもできる仕事は


もっと安い報酬でまかなえるようになって


自分じゃないくってもよいという風に


そうなった時の事を考えて


自分のためにあえて大変な仕事をしていたそうなの


そしてその思いが結果会社のためにもなっていて


評価をされたそうなの


その方も潜在意識に秘められた事を


何気なくメモに書き出し


自分の瞳に映し脳に送る事で


結果成し遂げられているという感じなんじゃないかなって


お話を聞きながら感じていたの










ここ数カ月


ヨガやフィットネスを行うようになってからなのか


自分を見つめる機会が多く


それも今までのように自己否定につながるものではなく


受け入れるという作業がしやすいように


瞳には映らないものたちが整えてから


手渡してくれているのを感じているの


そして最近気づいた事なのだけれど


最近その週・その週でテーマのようなお題が用意されているのを


感じていたの


この間は「イメージ」というお題だったのか


トレーニングをしている時


笑顔でそばにきたインストラクターの方が


どこに効いているのか鍛えられているのかを


イメージして行う事の効果などを教えてくださり


実際に行っている事は同じでも


効果か違ってくるそうなの


その言葉を聞きながら


数十年前ならば「イメージ」という考えや言葉は


精神世界的な学びを持つ方が大切にされている事で


一般的にはどちらかというと


思い過ごしの部類に入るような感覚で


受け止められていたのに


今ではイメージが持つ力が証明され


何気ない毎日の中にも浸透しているんだなって感じていたの


その数日後私が足を運ぶサロンでも


同じようなことを伝えられ


何となく今週は「イメージ」がテーマとなっているんだなって


感じていたの


施術を行ってくださる方が表現していたのは


施術を受けているとリラックスして眠られる方もいるけれど


本当は起きたまま


今どの部分に作用しているのかをイメージする事で


結果に大きな違いがあるという事だったの


イメージというものは


人間だけに与えられた素晴らしい能力で


イメージは直接脳の中で行われ


そのイメージが遥かな時間を超えた時には


面白いもので


イメージした事だったのか


実際にあった事なのか記憶も判断できない場所に


しまわれる事さえあるくらい


イメージと言うものは現実ではないはずなのに


感情まで揺り動かし


時には身体にまで反応があったり・・・


イメージは日々無意識に人間が行っていて


その多くは自分を守るため


危機管理からイメージしたものだと思うのだけれど


気がつくと否定的なイメージに繋がっていたり・・・


そうなると心まで沈んだり怒りが溢れたり


身体も緊張し冷たくなってきたり・・・


この間友人と話していたのだけれど


たまたま小さなフラストレーションが


たまってしまた友人は


ガス抜きのつもりで


仲が良い友人との関係について


ちょっぴり不満を語っていたの


でも私の友人は私がどのように


受け答えするのかをよくわかっていて


私に伝えているんだろうなって


長い付き合いなので感じたので


たとえば友人が「私は人から


大切に思われていないんだと思う」と


表現した時には


私が「その友達も悪気はなくって


ただその時あなたを喜ばせたくって


できない約束をしてしまって


忘れてしまったんじゃないかな」とか


「当日になってやっぱりゆっくりしたいからって


キャンセルするのも


あなただから家族のように


甘えてしまうんだろうね」など話していると


友人はその言葉の中から


気持ちを切り替えるきっかけを見つけ出し


気がつくと「そうだよね


人って約束したから本当は行きたくなくっても行くけど


その友達は正直なんだよね」と


受け止め方を自分のために変えながら消化していたの


始まりは小さな事実なのだけれど


そこから色々とイメージしてゆくうちに


自分は・・・とか相手は・・・と確認しないまま


イメージをしているうちに相手はそう思っていると


決めつけて自分を苦しめてしまう事もあるんじゃないかなって


感じていたの


そして相手がどのように考えていたとしても


自分の心身にとって良い状態を保つために


いいように考える事も


時には大切なんじゃないかなって感じているの


悪意に思えば何でもそう受け止められる事も多く


逆に相手が自分に好意的にしてくれたことだと思えば


何でもその様に映るようになると思うの


もうお付き合いを続けないのならば


気持ちを切り替える材料として


事実を分析する事も大切だけれど


今後も繋がりを持つ相手ならば


自分の気持ちを変える方が


楽で心地が良い時間を作れると思うの


人間は一度これはこうと決めると


その様にしか見えなくなる不思議な能力を持っていて


たとえ違った感覚にふれても


最初から最後まで矛盾がなく同じ考えや態度を


とり続けようとする部分を持っていて


それがある部分で自分と思っている部分を作っているのだけれど


自分の思いと違った時


簡単に違っていたんだって軌道修正が難しいところもあるから


よい事もそうではない事も


自分が判断した事を思い続けようとしてしまうと思うの


でも柔軟にいつも心のストレッチをしていたならば


自分が思ったのとは違っていても


人より少し早く軌道修正し


自分を楽で心地の良い時間に運んであげられると思うの


私の友人は元々柔軟な心の人で


ただいつも軌道修正するきっかけやキーワードが必要なだけで


本来は思いやり深い人だから


私がアドバイスしなくっても


時間と共にいつもの自分に戻れる人だと思うの


私自身も気になる事があると


ついその事ばかり考えて何もできなくなってしまう部分があるのだけれど


そんな気持ちの時に


あれこれと考えたりイメージしたり分析しても


よい事は考えられないのだからと


最近では考えるという事は心身に余裕があるという事だからと


あえてちょっと強度の高い運動をしたりするの


そうすると運動についてゆくだけでいっぱいになって


何も考えられなくなり


ある部分では瞑想のように無になれるので


そうしているの


そうすると不思議なもので


そのあとには問題がクリアに見えてきて


シンプルな答えを生み出す事が出来るの


人間はあらゆる部分で余裕を求めるけれど


本当はゆとりいっぱいで余裕に包まれていると思うの


悩みも選択肢が豊富だからこそ悩む事が出来て


考えてしまうのもある部分で


心にゆとりがあるから体験できる事だと思うの


ちょっぴり心がいっぱい・いっぱいの時には


問題にスポットライトを当てる事から少し離れて


角度を変えて自分を見つめて見ると


苦しいはずの事が幸せに見えてくるんじゃないかなって


感じているの











私たちはいつも


物事がうまくいったかどうかだけで


瞬間的に成功と失敗に分けて判断する事があるけれど


私がいつも感じているのは


完璧な神様が想像した人間は


ある意味で完璧で


私たち人間にはわからない形で


自分らしい人生を送れるために


あらゆる場面で方向転換をしているだけで


大きく長く見つめる事が出来たならば


失敗と思っている事も


本当は最も大切なターニングポイントになっていたり・・・


精神世界では良く受け入れるという事の大切さが


語られていて


その教えに思いを重ねて見ると


葛藤する事は何となく未熟な人間だからという


感じがするかもしれないけれど


私はそうではないように感じているの


もしも葛藤もなくすべてを受け入れ過ごされているように


映る方がいたとしても


それは表に表現しないよう意識されてそう映っていたり


葛藤と言う重く固い鉄のような塊が


心の中で痛いくらいに心の壁に何度もぶつかり


時間と共に心を広げ


何でも受け入れられるくらいのスペースが出来ただけだったり・・・


心揺れる事なく


何でも受け入れられるように人間は創造されてはいないように思うの


そのかわり葛藤という重くて固い塊が


時間をかけて心を広げてくれるのだから


悩んだり考えたり思い煩ったりするのは


ある意味で心のスペースを作っている印のように感じているの


精神世界では完成された状態に近づいた状態の


教えが語られていたりする事が多いけれど


その状態にたどり着くまでには


見つめられるまでに必要な時間や


心整うまでに通らなければならない


心の体験もあるんじゃないかなって感じているの


悩みや考え思い煩う機会が多い方は


それだけ心のスペースを作ろうと心の中で


働いているからだと思うの


何となく考える・悩むという表現は


前向きではないように感じるかもしれないけれど


私が感じる本当の意味での前向きは


見たくないものを見る強さと勇気を持つことだと思うの


悩む事や考える事は


もうその作業がスタートしている証拠だと思うの


一見前向きだと映る方の多くは


嫌なものは後回しにし避けられる所まで避けて


解決しなければならない問題が山積みになっている方も多く


いつも何かに依存しで気を紛らわせ過ごされているように思うの


でもいつわりの前向きにも


変化は避けて通れず


半強制的に受け入れるまでの時間がやってきて


本当の自分に出会う時が訪れるんじゃないかなって


感じているの


人にはそれぞれに与えられた課題や使命があって


その事に気づかない方や


何となく感じていても受け入れるのに


時間が必要な方もいるけれど


必ずその部分は時期が来たら


果たすための時が訪れるように感じているの


それも人それぞれ形やタイミングが違っていて


自分の意識ではわからない事も多いと思うの


多くの場合


自分ではうまくいっていないと感じる時だったり


わけもなく漠然と不安を感じている時に


その時が訪れている事が多いんじゃないかなって


感じているの


この間何気なく読んだ本に書かれていたエピソードなのだけれど


ある男性が40代になり健康にために


マラソンを始めたそうで


初めは少し走るだけでも息が上がり


10分走る事から始めて


気がつくと何時間も走れるようになり


運動が楽しくなり


自分の中に夢が生まれ


海外でのレースにいつかは出場したいという


目標を持ったの


でもそこで生まれた思いは


2か月もの間会社を休む事は不可能だという思いだったの


そんな思いの中数カ月後に


不況のためにその方が働いていた営業所がなくなる事になり


その方はリストラになったの


本来ならばこれからの未来の事が不安になるはずなのに


自分でも驚いたらしいのだけれど


その瞬間レースに出られる!って思ったそうなの


そして家に帰ってリストラになった事をパートナーに伝えると


パートナーも不思議とこれからの不安がなかったのか


「よかったね!これであなたの夢だったレースに出られるじゃない」と


伝えてくれて


本来ならば今後の事を考えてストックしておかなければならない


退職金全額を使いレースに出場する事になったの


そしてその方は日本人ではトップで3位という


成績を収めたの


そのレースのスポンサーは偶然にも


日本の企業で日本人が上位で走っていた事に感動し


彼にあってみたいと時間を作り


話をする機会があって


その時色々と尋ねられる中で


彼が仕事をしていない事を知って


スポンサーだった会社の社長が


自分の会社にぜひと迎え入れてくれて


次の年からは気兼ねすることなく


マラソン大会に出場し費用も会社が持ってくれるようになっていったの


彼はそれだけでは物足りなさを感じたのか


数年後には会社を退職し


会社を立ち上げマラソン大会を主催するまでになった事が


書かれていて


そのエピソードの中にいくつもある奇跡と


教えを感じていたの


彼はきっと素直に自分が心惹かれる事に出会い


イメージと思いと行動を重ねた事で


自分にとっての近道へと導かれていったのかなって


思うの


脳科学でも好むものでその人の


すべてが理解できると表現されていたり


精神世界では自分が損得を考えずに


心惹かれる事が人生の生きる意味だったり使命だのひとつだと


伝えられているけれど


多くの場合その事に気づかず


なんとなく流してしまうけれど


その部分に光を注ぐ事が出来たならば


今あるいている道よりも近道があって


余裕を持って自分が今の人生に果たしたいと願い


生まれてきた意味が消化できるんじゃないかなって


感じていたの


奇跡に映る瞬間って


誰にでもあるけれど


本当は奇跡というものではなく


瞳に映らない存在が「OK!OK!その調子!」って


自分にとってっ正しい歩みが出来ている事を


教えてくれているサインの一つなんじゃないかなって


思うの


私たちは変化を避けられない事を


魂レベルではわかっているけれど


意識では恐れていて


変化の時がきていても


意識の方が強lく働き


なかなかスムーズに一歩が


踏み出せない事もあるけれど


焦る事はなく


人生と限られた時間の中でクリアにできるまで


何度も練習をすればよいのだし


聖なる者たちはいつまででも


待っていてくれるのだから・・・










私たちは何か目標や


こうなりたいと思い描くたびに


その思いを遮断する出来事や問題を


同時に思い描いてしまう事があるんじゃないかなって思うの


そして気がつくとそれを理由に


なりたい自分になれない理由にしてしまう事が


あると思うの


とっても小さな事なのだけれど


私自身ダイエットをスタートし数日が過ぎたころ


友人からのお誘いがなぜだか多くなり


社交を考えて一時的にダイエットをお休みしているうちに


そのままになってしまったり


逆に強い意志の導きによって


周りにその事を伝える事にって


思わぬ返事が返ってきたりする事もあるの


私の周りはお酒が大好きな事もあって


会う時には遅い時間にお酒を飲みながら話す事が多いので


この部分をどうにかしなければって思い


周りに伝えると「じゃーあんまり会えないね」と


言葉が返ってきたりすると


複雑な気持ちに包まれる事があるの


でも冷静に考えたならば


最も大切なのは


私にとっては相手に会うという事が大きな目的で


その場所がどんな場所であってもよいので


お酒を飲まないで会う事もできるんじゃないかと


提案した事もあったのだけれど


気がつくと何人かは数カ月話す事もないままになっているの


初めはとってもさびしい気持ちに包まれたのだけれど


どんなん理由であっても


自分の都合に合わないと思って離れてゆく人はいるのだから


相手を繋ぎとめておくために


自分の人生を後回しにする事はやめたの


その思いが実を結んだのか日に日に


病になる前の私の姿に戻りつつある中


これでよかったんだって納得できるようになったの


自分の人生は自分でしか変える事が出来ないのだから・・・


ただその様な思いになれたのはある方がきっかけだったの


その方は職場でもよい意味で浮いていて


それでも初めは周りに好感を持ってもらいたいと


合わせていたようで


仕事以上にその事で毎日疲労していて


自分が使いたくない事にもみんなに合わせて


時間と経済を注ぎ


自分にとって大切な時間に使う時間も経済もなくなっていったの


そんな時素敵な本に出会ったそうで


そこに書かれていた知恵に気がつくと


うなずいていて


人に囲まれていても孤独で満たされない思いが


満たされてゆくのを感じたそうなの


そしてその知恵を実行してゆこうと決めたの


そう思い行動してゆくと


初めに出会うのは相手が望んでいる事をわかっていても


自分の思いを優先してゆくという


何気ない困難で


思いやり溢れる方や人からの評価を意識して過ごしてきた方には


とっても大変な作業だったと思うの


その部分をクリアすると自然と今まで無理を重ねなければ


繋がりあう事が出来なかった方たちが離れ


一瞬孤独感を感じてしまう時なのだけれど


予想していた事で


その方はそれもゲーム感覚で楽しんでいたようなの


一人になる事で得られるメリットにいつも目を向けていたようで


その中でも一番感じたメリットは


予定通りに自分が過ごせる事だったようで


その方は次々と手帳になりたい自分に近づくために


必要なことを書き留め


あとはそれに必要な出会いやタイミングを待っていたようなの


そうしてゆくうちに自分の未来を思い描く時


その自分に必要な事を初め


気がつくと類友なのか


今まで出会う事がないような素晴らしい人たちと出会い


会うたびに学ぶ事が多いと喜んでいるの


その方は私よりも断る事が苦手で


自分の思いを後回しにして


相手の思いをいつも優先してしまう方だったので


その変化にとっても驚いた同時に


尊敬と私もちょっぴり勇気を持てば


できるか持って思い実行してみたの


よーく考えて見るとたとえたくさんの人に囲まれていたとしても


本当の自分ではない自分を評価され


愛されていても


それはそれで孤独で


別の角度から見つめるとひとりの孤独よりも


孤独なようにも感じるの


私自身親友は一人しかいなく


後は知り合いレベルだと感じるくらいの人なのだけれど


親友は私の良いとことそうではない部分を


優しさから語らないけれどわかっていて


それでも関係が続いているのは


相手が大きな愛で許す気持ちを持っていてくれるからだと思うの


私はどこか出会う人すべてが


優れていてという勝手な前提を持っている事もあって


言葉足らずでも相手は理解してくれているだろうと


勝手に思い込んでいて


よく誤解を生み出していたり


私の気づかない場面で傷つけてしまっていたりするようなの


私自身事言葉では上手に表現できないのだけれど


人は言葉と言うものだけではない


深く感じとる能力が備わっているものなのだけれど


その部分もだんだん退化してきている方も多く


それがよく伝えられるニュースに現れているように思うの


ニュースなどを見るたびに


著名な方が仕事を失う原因の多くは言葉で


その言葉を見つめると確かにきつい印象を受ける事もあるけれど


冷静に見つめたならば


何を言いたかったのかがわかるような事が多く


ただ言葉の流れが心地よくないというだけで


その部分にピックアップし能力がある方が


社会から消えてゆくのはどうなのかなって


よく感じる事があるの


そして昔から事件などの加害者は言葉の使い方が上手な方が多く


その言葉の音色から信頼し


被害者が生まれる事などは昔からよくある事だと思うの


人間性って言葉だけでは測れなくって


生まれ育ち・土地柄など様々な要因で


その言葉を表現してしまうだけだったり


無口な方でも心温かく優しい方もたくさんいるのだけれど


感じとれない事が


今の社会なのかなって感じているの


私は北海道という事もあって海に囲まれているので


親しくしている方が海に関わる仕事をしている方もいて


言葉の音色を聞いただけだと


怒っているのかなって思うような感じなのだけれど


言葉ではなく行動を見つめていると


とっても優しく親切な人が多いの


そして都会のように空気を読んで


できない約束をしたり合わせるのではなく


空気が壊れる事を怖れず


できないものはできない・今はまだ分からないなど


はっきりと自分の思いを伝えてくれるので


私の中では信頼は深まってゆくの


私自身も信頼してもらえる人にないたい思いと


信頼できる人たちと繋がりあいたい気持ちもあって


言葉尻にばかりこだわり本質を


見ようとしない方との縁は


望んでいないので


言葉足らずでもあまり自分を責めずに


自分らしく進んで行けたらいいかなって


思っているの













人間の人生について時々考えるのだけれど


楽しい事も辛い事も続く事はなく


そして人生は一見矛盾している事に溢れているけれど


とっても辛くて大変な時の中でも


モチベーションを保ち続けられる時


その次のステージで大きな幸福と喜び


そして運さえも味方になってくれるんじゃないかなって


感じているの


目標や希望はわりと簡単に見つけられ


短い間ならば高める事ができるけれど


気持ちを保ちながら


毎日思い続ける事はとっても大変だと思うの


私自身毎日のようにフィットネスクラブで


心身のケアをしているのだけれど


楽しい事の一つにもなっている事でさえ


自分の性格的ななまけ心がいつも私に


「今日は天気が良くないからやすめば」とか


「そういえば少し足が痛いから休めた方がいいんじゃない」と


休む理由を次から次と


私にささやきかけてくるの


運動モードになった後には小さな達成感を感じ


やっぱり行って良かったって思うのだけれど


私の中には元々何もせずのんびりしたい思いがあるようで


そのささやきよりも


モチベーションの高めて


日々過ごす事が驚くほどに大変な時があるの


そしてそのモチベーションの高まりに今役立っているのは


結果なの


足を運べば必ずわずかでも昨日よりも


よい感覚を感じられるため続けられていると思うの


初めは若い時の感覚で自分を計っていたのだけれど


実際には驚くほど身体の柔軟性もなくなっていて


簡単そうに見える事でさえできなかったり


運動後の疲労も何日も続いたり


体重も簡単には落ちなくなっていたり・・・


スタートしたとたんから思ったようにはならず


落ち込んでしまったのだけれど


パートナーやインストラクターの方たちから


「2ヶ月はがんばって!



絶対に効果は現れるから」と励まされたのだけれど


心に毒いっぱいの私は


「2ヶ月頑張って何も成果がなかったら違う意味で後悔しちゃう」って答えるたびに


パートナーやインストラクターの方たちからは


「何もしなかった人とした人で違いがないわけがないよ」など


幼稚園児をあやすように


いつもいつも心を支えてもらったの


そして実際に2カ月を過ぎたころから


サイズを計らなくっても自分でも感じられるようになり


身体の柔軟性も高まってきたのか


ヨガなどでもふらふらしてしまう事も少なくなってきたの


人間には大なり小なり面倒な事よりも


楽な事へ流れやすい部分があって


面倒になると何でも面倒に感じるけれど


それが確実に自分のためになると感じられると


いつもの何気ない行動にも変化が表れてくるんじゃないかなって


感じているの


私のパートナーは驚くくらいに行動的で


人との付き合いの時でも


めんどくさがる事なく何でもこないしているの


そんな時私が「めんどうじゃないの?」と尋ねると


「めんどうだよ。でもすべて自分のためになっているからいいんだ


人の用事を済ませてあげるのも


行った事のないところへ行けて場所を覚えられるし


エスカレ―タ―使わないで階段登ると運動量が増えて


身体鍛えられるし・・・etc」と答えるの


そのパートナーの考えが日々の何気ない日常が


すべて自分を高めてくれるものだと思っているからなのか


不平不満やストレスがほとんどなく


日々進化しているのをいつも感じているの


私はそんなパートナーを尊敬していて


マネしようとはするのだけれど


なかなか難しくって(笑)


日々モチベーションを保ちながら


努力を重ねる事の大変さを感じているの


少しお話は違うかもしれないけれど


この間女子サッカーが世界1になったけれど


あの輝くステージへ登りつめるまでには


きっと言葉では語りつくせないほどの


辛い事・そしてやめてしまいたいと思う気持ちは


何度も湧きあがる事はあったとは思うの


女性だから一般的な女性が考える未来についても


思いを巡らせて


サッカーが順調な時でさえ


これでいいのかなってふっと考えてしまったり・・・


それでもモチベーションを大切に保ち


たゆまぬ努力を重ねて


多くの日本人の心に様々なものを


与えられるまでになったように感じているの


そして今回の試合ではよくアナウンサーの方が「奇跡」という


フレーズを何度も言葉にされる場面が多かったのだけれど


その言葉を聞くたびに初めてちょっぴり


違和感を感じていたの


私自身は


奇跡という響きに輝きを感じたり


天からの贈り物のような感覚で


使ってはいたのだけれど


努力を重ね実力が備わっている方に対しては


奇跡と言う言葉は


人によっては失礼になる事もあるのかなって


ちょっぴり感じていたの


奇跡というものは時に「まぐれ」と同じような


ニュアンスで日本では使う事があるからなのかなって思ったの


今回の試合は奇跡やまぐれではなく


間違いなく今の彼女たちの実力だったように感じているの


そして昔から運も実力のうちという言葉があるように


運のように映る事さえ実力が備わってくると


絶妙なタイミングで瞬間瞬間自分でも意識できないレベルで


直感にも似た感覚で自動的に身体が動き


そして今回的確にプレーをしてきたからこそ


そのような輝く結果になったように思うの


この間の優勝から公園などでは


サッカーボールで遊んでいる子供や少女たちをよく見かけ


改めて人は繋がりあいよい事も


そうではない事も影響を受けあいながら


同じ時代の中で過ごしているんだなって


感じていたの


言葉では上手に表現できないのだけれど


人生はバランスがあって


楽しむばかりではなく


面倒だなって思っても


自分の未来に必要なケアもとっても大切んなんじゃないかなって


感じていたの









最近友人が楽しい時間を過ごしているようで


たくさんの奇跡的なシンクロについて


話してくれるの


ある時には数ヶ月前からこうしたいと話していた事が


たまたま足を運んだ知り合いの家で


急にその事に関わる話になり


その方も同じような趣味で


参加する事を進められ


気がつくと参加する事になったり・・・


その様なことがよく重なるようになり


友人は「ずっとちゃんと計画的に考えて行動してきたけど


最近はやっぱり自分の勘を大切にした方が


いいのかなって思って行動しているの


その方が後になるとやっぱり楽しかったって


思える事が多いし」と考え方にも


変化があるようだったの


彼女の話を聞きながら


改めて人生の神秘を感じていたの


そして彼女の友人には多くの努力家の方がいるそうで


その努力の形や結果なども話してくれて


考える機会もあったの


何かの結果が思うような形にならない時


努力が足りないという思いにすぐに結びつけるけれど


私が感じているのは


形や方向性は違っていても


生きているというだけでみんな努力はしているけれど


みんなが同じ結果にはならないだけだと思うの


そんな時一番簡単な「努力が足りない」という


答えと結びついけるだけだと思うの


そして逆に「努力が足りない」ではなく


「運がない」という答えを出してしまうと


どうする事も出来ない事で計られてしまうと


そう表現された方はどうする事も出来ない思いになる事もあって


ある人にとっては「努力が足りない」と表現するのは


思いやりだったり・・・


でも運は一生変化がないものではなく


その時は運が整っていないだけで


ちょっとした事ですぐに好転するものなのだけれど


人の表現や感じ方によっても微妙すぎる事もあって


誰にでもわかりやすい努力と言う言葉を表現するのかなって


感じているの


意識の上では成功者の歩みをまねれば


同じような結果を得られるという教えもあるけれど


私はそうは思っていないの


ある人は社交的な部分で好感をもたれ成功したからといって


同じようにまねても


同じ結果になるとは限らず


その人それぞれの個性や表現にフィットするものがあって


無口でも人からに信頼厚い人もいると思うの


私の母は私が幼い時から様々な仕事をいて


ある時には試食販売をしていて


ある日売り上げトップの方と同じ店舗で仕事をすることになって


その時母はその方から色々と学ぼうと


その方の売り方を見ていたそうなの


そうしたら特に一生懸命に声をかけるでもなく


ただ黙々と試食販売の商品を並べたり


お客さんに自分から話しかける事もなかったそうなの


それで母も同じようにしたのだけれど


結果はいつもよりも落ちてしまい


家に帰ってきてからその話をしながら


うまくいっている人と同じ事をしたからって


自分も同じような結果にはならない事を話していて


人にはそれぞれの個性を生かしたやり方があり


その自分の個性にいち早く気づく事が


大切だと話していたの


人は成功者から様々な事を学ぼうと思い


自分と違う場所は一番見つけやすい事もあって


その部分に注目するけれど


必ずしもその部分が成功の要因ではなく


私が感じているのは人には見えない


日常や習慣の中に成功の要因があるんじゃないかなって


感じているの


特に手作りのものにはその日常的な感情や思いが


重なっている事も多いと思うの


私の友人の知り合いの中には


職人的にこだわり商品・作品を生みだされている方が多く


その商品や作品を見つめるだけで


感じるものがあるの


ある方は自分のインスピレーションが湧きあがった時にだけ


月に3日くらいしかお仕事をせずにいるのだけれど


それ以外の時間は自然に囲まれた中で


ゆったりと過ごしているの


でもその心に見合った報酬なのか


次々と新たな展開へと発展していて


周りからもうらやましがられてると思うの


そしてまたある方は


同じように一生懸命に商品にこだわり


日々制作しているのだけれど


学ぼうとする気持ちが強く勉強家なのだけれど


気持ちにスペースがない事もあって


気がつくといつも誰かのマネをしていて


独自性が生まれないようで


思ったような結果に結び付かないようなの


この方たちと仲が良い友人に聞くと


後者の方はいつも社交的で気遣いも素晴らしく


努力家のようなのだけれど


いつも誰かへの不満や悪口を


その人がいなくなると表現しているようで


友人も仲良くはしているけれど


ちょっと心配になる事があるようなの


その話を聞いて改めて見えない部分の大切さを


感じていたの


人は退化したとはいえ


自分の意識を超えて何かを感じる能力は


秘めていると思うの


そしてよく高価で美しいものが世の中にはあるけれど


その作品たちが評価されるのも


作り手の思いや日常の姿が重なり


ものという物質の価値に付加価値がついて


それを理解される方が手にされているのだと思うの


よく経済的な事が問題で


多くの方の購買意欲がなくなっているように


伝えられているけれど


私が感じているのはそればかりではなく


ストレートに物からストーリーを感じられる


心に響くものが少なくなった事が


その様な現象になっているように感じているの


昔と違い今は似たようなものは


いくらでもお安いものを見つけようと思えば見つかるけれど


特にほしいと思わない事が多いと思うの


その多くは私の勝手な想像なのだけれど


発展途上国で仕方なく仕事をし


不平不満を語りながら制作されたものばかりで


その思いと技術が重なり


受け取った方も同じような思いになったり・・・


見ていて幸せな気持ちにならない事もあると思うの


昔はブランド品は専属の職人さんが


大切に製造していてその部分に価値を感じ


高価な価格でも手にする価値を感じていた方たちも


多くいたけれど


今では多くのブランドも発展途上国で製造していて


その事を知らない方であっても


自然にブランドに魅力を感じなくなり


無名でも気に入ったものを探して


おしゃれをしているのを見かけるたびに


精神世界やスピリチュアルな事を信じない方であっても


日常の中ではその流れの中で


過ごされているんだなって感じているの


そして人間はどんなに計画的に計算しても


その通りにならない神秘が織りなされているから


人生は面白いのだと思うの


人は自分が思う以上に


色々な可能性を秘めていても


自分にフィットした場所や時期に気づけずに


自分を漠然と過小評価したり


自己批判ををしている方もいるけれど


ちゃんと自分にフィットしたスペースに気づけたならば


とってもとっても大きな能力が自分にある事に


驚く事さえあると思うの


上手に言葉では表現できないのだけれど


私が感じているのは


誰かがこのスタイルは幸せと表現している事を


自分の幸せだと思い込み


マネをしながらその部分に努力を重ねるのではなく


自分で感じながら


損得や計算などではなく


自分は何をしている時幸せを感じるのか?


ちょっぴり感じてみるだけで


自分の可能性の一部が見えてくると思うの


そして可能性と表現すると


すぐにビジネスや成功というキーワードと結び付けて


考えてしまうかもしれないけれど


昔から芸は身を助けるという言葉があるように


その好きなことが


自分の人生の扉を開いてくれる人との


ご縁を結んでくれる事もあると思うの


結果のイメージは大切だけれど


そこまで辿りつくまでのイメージは逆に道を狭めてしまうから


経過は神様にお任せして


自分が心地よくいられる事に


努力を重ねる事は


とっても大切だと感じているの


そうする事で同じ波動の出来事を


招き寄せる事ができるんじゃないかなって


感じているの












私の親友は


多くの友人に愛されていて


一人ひとりがとっても長いお付き合いなので


私はいつもうらやましく感じているの


私の母はよく彼女について話す時に


「あんたと長い間友達だっていう事だけで


かなり変わった子だと思うよ」と表現する事があって


その事を友人に伝えると


「私もそう思う」って笑っているの


私が感じているのは


彼女が色んな出会いを長く続けられているのは


「許す」という大きな深い愛情のある人だから


なんじゃないかなって感じているの


人はそれぞれ育った環境や生き方・価値観を積み重ね


ある場面で縁が運ばれてくるけれど


その時々のタイミングによっては


フィットしない部分もあるけれど


彼女のように深い愛情で許す事をしていると


初めは合わないなって思う時期であっても


時の流れと共に


相手も自分も別の体験や経験の中で


価値観や生き方が変化してきて


フィットする事もあったり


フィットしなくっても


長くお付き合いがあると


相手の良い部分もそうではない部分もわかりあえてくる事も


あるのかなって感じているの


彼女の価値観は多くの方とは違うようなのだけれど


私も彼女と同じ価値観の事が多く


たとえば希少価値だから大切と言う価値観はなく


今心惹かれる事やものが


その時一番大切でいつもそういう選択をしているの


振り返ってみると


私が仲が良かった友人には


そういう人が多かった気がするの


ある友人は誕生日のプレゼントに


明日つけていくマニキュアがほしいと希望してきたり(笑)


私自身も旅先から「何が欲しい?」って尋ねてくれる友人に


「その場所からはがきを送ってほしいな」って答える事が多く


そのたび「???」って感じなのだけれど


いつもその絵ハガキなどが嬉しくって


今でも大切にしているの


ずっと私は変わっているという事が


コンプレックスで


人が気遣って言わないようにしているような事には


あまり傷つかないのに


みんなが何にも感じないような場面で傷ついたりして


自分でも驚く事があるの


そんな時母と話しをしている時に


「どうしてみんなは何にも感じない事に


こんなに泣きそうになっちゃうんだろう?」とか


「何で私はみんなみたいに強くなれないんだろう?」って聞いてみると


母は


「本当はみんなもあんたと何にも変わらないんじゃないの


私だって外見はもう年だけど


心は20歳くらいの時から何にも変わっていないから


本当は泣きたい時もあるんだよ


母親らしく妻らしくその年齢らしく


ふるまっているだけで


素の自分になったらいつも色んな事に傷ついているし


話したい事もいつもとは違うし


や~めたって何にもしたくない時だってあるよ


あんたが変わっているんじゃなく


ほんとはみんなも自分ってものがあるんだから


その部分はそれぞれ変わってると思うよ


でもそれを出せない環境の中にいるから


みんな女優になっているだけなんじゃない(笑)


気にするんじゃない」って


伝えてくれたの


確かに誰もが年齢と共に


経験も重ね


何が起きても心が揺るがないように


瞳には映るけれど


本当はそんなことはなく


大人だから心の傷を見えないように


装う事が上手なだけで


人間である以上何も感じないってことはないんじゃないかなって


感じていたの


そして経験からなのか


傷の癒し方も上手になってきて


ある人は違う何かを行う事で気にとめないようにしているうちに


癒される方や


自分が納得するまでその傷にふれ


途中でその事にさえあきて忘れる方もいたり・・・


そして人に対する見方や価値観も変化がって


知らず知らずのうちに


多くの方が愛情深く成長してゆくのかなって


感じているの


私自身も年齢を重ねてゆくうちに


よい意味でこだわりを持つ部分が少なくなってきていて


その理由は単純に


歩んできた年数よりも


これから歩む年数の方がきっと少ないと思うと


ひとつの事にこだわる事が


何だかもったいないような気がしてきたからなの


頭では人生は時間が限られているという事は


わかっていたけれど


その事を何となく実感として感じられた時


人よりも思いやりの少ない私でも


人に対する感覚が変わってきたの


でもそれもある意味ではエゴなのかもしれないけれど


相手を許す事も


自分のためにしているのかなっとも思うの


どんなに正当な理由があっても


相手を許さないってがんばる事は


自分の心身にも人生にも大きなダメージがあるから


その感情からすぐに解放されたい思いがあって


そのようになっていっているのかなってとも思っているの


ただ私もまだまだ未熟な人間だから


すぐには切り替えられないけれど


私なりに勝手に「あの人は人から愛情を受け取っていないから


表現の仕方がわからないだけなのかも」とか


自分の中で答えを生み出しながら


許すという形へと自分の心を運んでいるの


私の友人はもっと高度な方法で


人を許すという流れを持っていて


何か嫌な出会いがあるたびに


「私って幸せだなっていつも思うよ」の一言で


すべてを癒せているようなの


言葉では上手に表現できないのだけれど


その一言には色んな意味があって


相手のわがままで嫌な思いをしたとしても


「私はわがままという形で自己表現しなくっても


周りがいつも自分の言葉に耳を傾けてくれたもん」って思えたり


人に過小評価されたとしても


「私をちゃんと知っていて愛してくれる人がいるから」って


思っているのか


具体的には表現しないけれど


「私って幸せだなっていつも思うよ」の一言には


色々な思いや意味が込められている気がしているの


彼女のような許しは


誰を裁く事もなく


何よりも自分の人生を心地の良い状態に保てているように思ったの


誰かに確認しなければ


自分が幸せかどうかわからない方も多い中で


自分が自分で「私は幸せ」って思えるのは


この上ない幸せだと思うの


そしてその思いが人間関係の中でも広がっていて


どんな人と出会っても


自分の人生に影を作る事はなく


まるで自分の内なる宇宙を作っている神のように


なっているんじゃないかなって感じていたの


人間は柔軟ゆえに


様々に形を変えられる事もあって


よい事もそうではない事でも


周りからの影響を受けてしまい


時には自分の人生なのに


自分の望まない形になっている事を感じる事もあるけれど


元々柔軟なのだから


気づいたらすぐにでも形を整え直す事はできると思うの