2011年5月




今回のゴールデンウィークは色々なきっかけを与えてくださる


出来事があって


ほんの少し目の前の世界を広げる機会となったの


その中でももっとも嬉しかったのは


今までよく同じ石なのにふれあうと


違う波動や個性を感じたり


様々な本に書かれている効能とは違うものを感じ


なぜ?なのだろうって


ただただ疑問に思っていたの


それが今回ある石を使ったシークレットオーダーを


ご指定いただき


信頼している宝石屋さんにその事を伝えると


「う~んその産地のものは希少で高価だから


小さな宝石として加工が多いんだよね


一般的に流通しているものは別の石でとっても似ているものなんだよ


見た目には見分けが難しいくらい同じだけど


求めている人がちゃんと調べて望んでいるんだから


さ~ちゃんも責任もって判断できるようにした方がいいのかもね」と


伝えてもらい


宝石鑑定に必要な知識が書かれたものを貸してくださり


心惹かれて何度も何度も読んでいたの


そうしたら自分が今まで伝えられ思っていた石のネーミングと


実際の石が違う事を知ったり


逆に姿形が同じなのに


一般の方たちがわかる名前へと変化させられ


その石の持つ別の個性が消されている事を感じ


その石に心重ねながら


別の形の愛情が溢れていたの


よく見かけるのは淡いピンクカラーだと


多くの場合ローズクォーツとして流通しているのだけれど


よーく見つめて見るとピンクジェードとかピンクカルセドニ-という


本当の名前を持つ石だったり


ライトブルージェード(天然クォーツァイト)は


アクアマリンや別に他の石としても流通していたり


ブルームーンストーンやレインボームーンストーンとして


流通しているもののほとんどが


ホワイトラブラドライトやペリステライトだったり・・・


数えきれないほどあったの


本当の名前があるけれど


判別の難しさや一般的に多くの方が知っているネイミングに加わることで


今度は偽物のような受け取られ方になっていて


石の思いに心を重ねると


少し悲しい気持ちになっていたの


そして水晶などの丸玉はお手頃な価格でとの届き


私たちは持てるのも


練という形である一定分量を満たした


水晶の量が配合され加工されているから


多くの方が持てるようになって


もしも本当の水晶から曇りヒビ一つない加工したならば


小さな一粒であっても


リーズナブルな車が購入できるくらいの価格になったり・・・


逆に100%水晶でリーズナブルなものになると


自然に近いヒビや曇りが多くなってしまったり・・・


そう思うとお野菜などでも


多くの方が美しいと思う基準値に近づけ


リーズナブルにしようとすると


身体にはあまりよくないと伝えられているものを


使ったりしてしまう事もあると思うの


もしもそのままの曲がった形や姿でも本物を望む場合には


リーズナブルに手にでき


身体が喜ぶものを食せたりするのに


とっても似た感覚のように思うの


今回宝石屋さんのご厚意で色々なお話を聞かせていただき


色々な疑問が晴れたと同時に


有名ではないけれど本当の名前でも


多くの方に愛される石たちを見つけ


紹介できたらうれしいかなって


感じているの


今地球では無限にあると思われていた


資源の限りが見えてきている分野も多く


石たちの分野でも年々鉱山が閉鎖していたりしている事もあって


益々別のネーミングで似たような石が


流通してゆくように思うの


ただ宝石として楽しまれるのならば


カラーや輝きに心満たされるのだから


問題は何もないとは思うのだけれど


効能や効果をより重視し大切に思われる方には


伝わる効果が違っていたりして


心が小さなパニックを無意識下で感じる事も


多くなるんじゃないかなって感じていたの


私自身パワーストーンは瞳に映る美しさも大切なのだけれど


何よりも大事なのは


自分にプラスしてくれるパワーやエネルギーなので


これからもっともっとお勉強して


自分が感じる感覚的なものもプラスして


自然界からの贈り物となる石と人の


縁結びをして行けたらいいなって


思っているの












ゴールデンウィークは


ずっと離れて過ごしていた


パートナーが帰ってきて


会えない時お互いが話したかった事を話したり


互いの実家に足を運んで過ごしていたの


私の実家へ足を運んだ時


弟夫婦の元に舞い降りた天使3人が遊びに来ていたの


まだ生まれて数か月の下の子は


瞳を開き私と会うのは初めてだったのだけれど


一番上の天使が抱いて何度も私の元に下の子を連れてきて


紹介してくれていたの


その姿を見つめながら


数年前まだ上の子が3歳くらいの幼い時


言葉もまだはっきりと話せない時に


私の元から生まれようと思っていたのに


私のおなかからは生まれる事が出来ず


弟夫婦の元に行く事にした話をしてくれた事を思い出し


胸が熱くなっていたの


下の子は私から離れずずっと抱いていたのだけれど


その時初めて


自分は手術と言う選択をしたけれど


本当にこれで良かったのかなって思っていたの


その様な感情は今まで感じた事がなかったので


そんな自分の気持ちに戸惑い


パートナーにその思いを表現すると


パートナーは


「そう思えるようになったのは今が幸せだからだよ


痛みからも解放されて・・・


もし今辛かったら変に必死に子供を見ないようにしたり


子供いる人の幸せを否定するものだと思うよ


でも今のさーちゃんは幸せだから


自分にない幸せをまっすぐに見ていいなって言えるんだよ


元気になってよかった・よかった」と伝えてくれたの


確かにパートナーが伝えてくれるように


まだ自分の思いや意志がきちんと形にならない頃には


揺らぐ自分の思いをコントロールしてあげなければならない事もあって


ある部分で否定する事で抵抗したりしながら


過ごす事もあるけれど


自分の思いや意志がはっきりと形になり


受け取れる未来が見えてきて


受け入れられる自分が整ってくると


自分とは違う幸せの形を見ても


素直にいいな~って思ったり


共感などがない事であっても


批判や否定などで抵抗する感情は


生まれてこないのかもって感じていたの


今回子供たちとふれあい魂の繋がりでは親子の私たちは


無言で色々感じていたの


人間は瞳に映る事だけではない


別次元の繋がりを持って


繋がりあっている人も多く


日頃は気づけないけれど


どちらかが望んで近くに生まれたり出会う事を望んで


当たり前のように過ごされている方も


きっと多いんじゃないかなって


感じていたの


私の場合はたまたま子供から聞く事が出来て


その事を知ったけれど


大人は別の世界よりもこの世界で過ごす年数を重ね


その時に少しずつその感覚が消えているから


意識はできないかもしれないけれど


自分の周りにいるすべての人が


きっと望んでまた繋がりあっているんじゃないかなって


感じているの







今日友人からテレビなどで活躍されている


若い方が自らこの世を去られた事が伝えられ


改めて感じる事が多かったの


人は人を判断する時に


育ってきた歩みや選び取る言葉で


その方を勝手にすべてをわかったように


決め付けてしまったりすることがあるけれど


誰でも人には


その方にしかわからない繊細な部分を秘めているのを


感じていたの


そしてこのような形になると必ず


何でも話せる人がいなかったのかなかわいそうと


表現される方も多いのだけれど


私が感じているのは


友人と表現している人が多くいても


何でも話しているとは限らない気がしているの


それは大切な家族であっても同じで


あまりに深刻な事は言葉にできなかったり・・・


人には深く大きな愛情が宿っていて


どんなに自分が辛くっても


相手への気遣いを持たれる方も多く


ただただ楽しい時間を過ごそうとされる事もあると思うの


上手に言葉で表現できないのだけれど


相談したり心を打ち明ける事で


伝えられた方が自分だけの意見以外にも


周りに求めて


自分の知らない所で


自分の事が話題になる事が予想できる事も多く


女性の場合はそんな状況から


広がっても問題のない事以外は


なかなか話さないように思うの


女性の場合多くは


スタンダードな人生の選択の中で過ごしていて


その中で大きなポイントとなっている


結婚・出産・パートナーの収入やポジションで


優越感を感じたりしながら


心を支えている方もいると思うの


そしてその事が女性の絶対的な幸せとして


世の中で長い月日をかけて広がり浸透している事もあって


この大きなポイントとなるものを手にしていない方は


どんなに今幸せな笑顔で過ごしていても


日本人ならではの感性もあって


「私って本当は幸せじゃないのかな」とか


みんなと違うという事に不安を感じてしまう事も


あるんじゃないかなって感じているの


でも本当は女性の中にも


この大きなポイントとなるものを手にしていても


後悔されている方や時にはすべてを手放し


もう一度スタートしたい思いを抱えて


過ごされている方もいるとは思うの


でもそんな心の小さなささやきを


相談したり心を打ち明ける事で


伝えられた方が


周りに話す事によって


自分の知らない所で


自分の事が自分が伝えたかった思いとは違った形で


話題になる事が予想できると


心にしまったまま幸せ芝居を


続けられてている方もいるとは思うの


人は誰でも選び取らなかった人生を


時々思い描いては


ため息をついてしまう事もあるかもしれないけれど


そんな時はほとんどの場合


今の自分が受け入れられず


今の人生しか自分には用意されていたわけではなく


他にもたくさんの輝いた人生があったと


その時々今の人生を選択へと導いた誰かのせいにしながら


良い意味で自分も多くの方たちと同じように


恵まれた選択をたくさん用意されていた事を感じるために


形は違うけれど


後ろ向きから始まる前向きな方法によって


心の避難場所を作られたりしながら


ゆっくりとみんな自分の人生を


受け入れながら過ごしているように感じているの


私自身も女性にしかできない


女性にしか受け取れない


母親になるという選択肢が消えかかっていた頃


私の場合は


自分の心を整え別の道を選ぶことよりも


周りから与えられる敗北感や不安感


そして両親への思いの方が辛く


なかなか前に進めず


時には身体と心の痛みから


自らこの世を去りたいとさえ思う日々があったのだけれど


そのたびにHPで繋がってくださる方たちがいるという事だけで


この痛みただ辛いこととせずに


その事から生まれてくる心の体験を綴らせていただき


過ごす事ができた事で


すべて意味のある体験にできた事によって


私は自らこの世を去る選択をせずに


今生きているように感じているの


手術を終えて実家へ足を運んだ時


母が弟の元に授かった天使たちの写真や


話をしていたのだけれど


私は痛みから解放された喜びに


包まれていた事もあって


以前よりも素直に子供への愛しさを表現していて


帰り道パートナーと二人になった時


パートナーは私が手術を終えたばかりなのに


子供の話をするデリカシーのなさに


小さな怒りと不思議さを感じていたの


パートナーはとっても優しい人だから


私の思いを思いやりそう感じたのだとは思うのだけれど


私の中では手術を決意した時から


一時的な心の避難で避け続けられない選択をするのだから


あらゆることは覚悟しなければならない事を


10年くらいの月日をかけてやっと辿りついた事もあって


その様なことでは心曇る事はなかったの


痛みのスタート時期には


自分の心を曇らせてしまう事をただただ見ないように


感じないように過ごしてきたのだけれど


大きく長いベースで見つめると


その様な過ごし方は


どんな場所へ引っ越そうと


必ず出会う事で


自分の心の価値観を変えない限り


永遠に続いてゆく事なのだから・・・と思った瞬間に


自分にないものを持ち幸せに過ごされている方を


無理に見ようとする事を受け入れる事と誤解していた私は


そうではなく人が伝えている


スタンダードな女性の幸せを手にしていないけれど


別の幸せの中で輝いている方を探してみようと思ってみると


次々とそのような輝く女性たちの


エピソードが書かれた雑誌だったり


人と出会う機会に恵まれ


改めて自分の心の視野の狭さに気づかされるという


喜びに包まれていたの


私は今まで世の中の価値観を押し付けてくる方に対し


視野の狭さを感じ否定していた事もあったのだけれど


よーく考えて見ると私自身も同じで


自分の狭い価値観だけで決めつけていたから


周りから与えられる不安に同調し


心が曇っていたんじゃないかなって感じていたの


もしも私自身が本当に心の視野が広かったならば


周りがどんなに様々な不安や敗北感や優越感を


表現し与えても


その感覚自体に良い意味で共感できなかったと思うの


今ならばどんな事であっても


人それぞれと思えるようになってきているの


だってテレビショッピングなどでもあるように


どんなに素晴らしいと表現されている方が多くいいても


必ず下の画面に小さく本人の証言個人差がありますと


書かれているでしょ(笑)


何を選び取っても幸せと重なるように真逆の事もあって


人はそれぞれ


幸せとそうではないものを


心の思い方によってバランスを整えながら


自分を納得させて


毎日を過ごしていると思うの


すべてに恵まれているように映る方もいるけれど


その方の本当の悲しみ辛さを


私たちは知らないからそう感じるのであって


人間は誰でも形が違うだけで


喜び・幸せ・愛そしてその真逆のものを秘めていると思うの


幸せを感じるのは


大きな幸せが運ばれてきたから感じる事ではなく


感謝できるという心の種が発芽して


感じる感覚なんじゃないかなって


感じているの


時々知り合いに学歴もなく職歴もなく


豊かに生きられている私を不思議に感じている事を


伝えられる事があるのだけれど


それはきっと良い意味で


自分がここまでしてきたというほどの素晴らしい資質がないから


私はこうなれた・私はこうあるべき的な思いがない分


小さな恵みにありがたいという気持ちが


先にあるんじゃないかなって思ったの


そして自分のだめさをいっぱい知っているし


幼いころから周りに伝えられてきたから


逆に人が出来て当たり前の事であっても


できない私は


できた時素直に自分に「よくがんばったね」って


嬉しくなったり・・・


自分の人生は自分のような人間には


受け取れる以上の幸せに満たされていると


よく思う事があるの


きっと幸せ設定のハードルが低い事もあって


そう感じるのかなって思うの


ただ人と比べるときっとうらやましがられるほどの


幸せには映らないとは思うのだけれど・・・


でもこういう人生を選び取ったのには


きっと意味があるようにも思っているの


完璧な神様が作った人間は


私たちがたとえ理解できなかったとしても


見方を変え見る事が出来たならば


その方にとって意味のある完璧なプログラムを秘めて


この世に生み出されていると思うの


良くパートナに伝えられる事なのだけれど


「自分たちの子供を作れなくっても


世界中の人が自分の子供を育ててくれると思うと


ありがたいと思わない?


そう思うとすべての子供が大事に感じるでしょ


そして子供が笑顔になるためには


その親が幸せにならないとならないから


さーちゃんはさーちゃんで


その親の心が少しでも満たされるように


協力できる話題や情報を伝えてあげたらいいんじゃない」と


私にも生きる意味となるあたたかい言葉をくれるの


パートナーのおうちが宗教家のも


意味があって出会っているのかなって


時々感じているの











私たちは時々


エネルギーが低下してくると


無意識に人と比較し


自分以外の人すべてが輝いて見える事があると思うの


そしてその様な事をして


益々エネルギーを低下させてしまう事が


あるんじゃないかなって感じているの


もちろんそんな事をする必要も意味もない事は


頭の中ではわかっているけれど・・・


人はエネルギーが低下してゆくと


低下してゆく流れの中にいる事もあって


無意識にその渦の中で


頭では理解している事とは別の


行動や思考をしてしまう事もあると思うの


そんな時には私たち日本人が昔から


色々な事を教えられ学んできた


自然から何かを受け取るとよいと思うの


今とっても桜が美しく咲き誇っていて


今の季節一番輝いていているけれど


その間他の多くの花たちは


メインになれずにいるけれど


そのほかの花たちがどんなに桜を羨んでも


違う性質のお花たちは


今の季節咲く事が出来ないのに


もしも桜のようになりたいとがんばっても


そうはなれないと思うの


でも桜が咲き誇る春が過ぎると


今度はほかの花たちがメインになる季節がめぐってきて


あんなに美しく咲き誇っていた桜は


花だけではなく緑の葉も消え


何の木かわからないくらいの姿になり


また次に訪れる季節をぞっとまって過ごしていると思うの


私たち人間も自然に咲き誇る花のように


それぞれがそれぞれのタイミングで


咲き誇れる存在なのに


まったく別の性質を持つ花のタイミングを見ては


咲かない間羨んでいるだけだと思うの


私たち人間はすべての人と繋がりあっている事もあって


無意識な共鳴作用を持っているから


頭では別の人間だとわかっていても


別のスペースでは近づきたいと思ってしまう


本能的な部分を秘めているから


エネルギーが低下して


ある部分で自分という思考がメインじゃなくなると


園本能的な部分が強く感じられるんじゃないかなって


思うの


自分の周りで何をしてもスムーズに進み


大きな笑顔の花を咲かせ過ごしている人を見ると


なぜ?自分は・・・と思ってしまったり


私って運がないのかなって思われる事もあるかもしれないけれど


たまたま自分がその方を見た時


その方の開花時期だっただけで


人生通して見つめる事が出来たならば


その方だけがすべてに恵まれている事もなく


自分にも開花時期はあると思うの


そして人それぞれに花の色や形も違い


種を大地にふりまき


次の時代にバトンタッチできる花もあれば


そうではない花もあったり・・・


すべて違う個性を持っているのに


別のものになろうとする事で


エネルギーを持つものたちは


輝きを失ってしまうんじゃないかなって


感じていたの


言葉では上手に表現できないのだけれど


人間社会の中では


原因と結果と言う流れの中で


ある部分安心を得るような流れがあって


そのため絶対的ではないのだけれど


原因と思われる要因をあげて


こうするとこうなるという結果に結び付ける事が多く


その原因と伝えられる事に


自分が入っていないと安心したり


入っていると不安になったりする事があるけれど


ここ数年は安心を得ようと


あまりにも多くの原因といわれるものが表現されていて


原因にはいらない方の方が


少ないのではないかと思う事もあるの


たとえばコミニケーション能力がとても求められていて


陽気で明るく空気を読み気遣いができる人は


幸福な人生を歩む確率が高く


その逆の方はそうではないような表現があって


幸福になりたいと願う人たちは


自分がそうではない性質を持っていても


無理を重ね幸福の確率が高いと表現されている方へと


自分を演出し


心身が疲労してしまっていて


もう頑張れないと思うまではがんばっても


無理だと思った時には


社会と断絶したり・・・


周りから見つめるとあまりにも極端な選択に映るけれど


本人は限界まで頑張り


もう説明してわかってもらいたい気持ちも


通り越してしまう事もあると思うの


社会に伝えられている確率的な事や平均などは


数学者などが良く表現しているように


すべての人に尋ねたりすべてのデーターから出る答えではなく


たとえば収入の平均を表す時には


その年代の方すべての収入を足し


その年代の方の数で割るので


本当の平均ではなく


本当の平均とは一人ひとりに調査し


一番多かった収入額を平均とするのだけれど


良く伝えられているデーターを見ては


自分は平均よりも下だと感じ落ち込んだり


不安になられる方もいるようなのだけれど


実際には年代だけではなく


職種や地域にもよって違ったりするのだけれど


あいまいなデーターや確率によって


安心だけではなく不安感も広がってしまい


多くの方が持つ必要のない劣等感を


生み出してしまっている時代だと思うの


今の時代は自分でも気づいていない心身の病の方も多く


通院されている社会人の方も多くいると思うのだけれど


そのほとんどは


仕事以外の別の大きなフラストレーションによるもののように


私は感じているの


たとえばその仕事がうまく進まない時


周りからも自分自身でも


人格まで否定してしまう事があるけれど


冷静に考えたならば


その仕事に向いていなかったり


たまたま体調が整わずうまくいかなかっただけかもしれないのに


自分自身すべてを否定してしまい


そんな時周りからも自分で痛感している以上に


強くアドバイスを受ける事があると


だんだんと委縮してゆき


ある方は本や誰かを見ながら色々な知識を得たり


まねたりしながら向上しようと努力を重ねるのだけれど


ある一定までは同じようにでき


同じようなリターンも受け取れるけれど


それ以降は


やはりその方それぞれの個性と性質によって


誰もが同じような結果へと結びついては行かないと思うの


それなのに同じ結果にならないと


周りも自分も


自分を責めてしまうのは少し違うんじゃないかなって感じているの


私の知り合いには何をやってもスムーズに


思っている以上の結果に結びつく方がいて


見ていると本当にうらやましく思うのだけれど


その逆の知り合いもいて


その逆の知り合いは一生懸命彼女のように努力を重ね


時には彼女以上に努力を重ねていたのだけれど


あまり思った結果に結びつかず


周りからも比べられていて


いつも悲しそうな顔をしていたの


そんな時その友人と何気なく話している時友人が


「私の何がいけないと思う?こんなに頑張っているのに・・・」と


私に訪ねてきたので私は何気なく


「向いていないんじゃない・ただそれだけだよ


こんなに努力しているのにって感じるのは


私の場合だと


意味のない事をしている時に感じるの


本当に楽しかったり意味があると思う方向に進んでいる時には


努力をしていてもそんなにつらい意識がないものだと思うよ」と


伝えたの


その時はあまり心晴れた表情にはならなかったのだけれど


次の月に会った時にはとても晴れた表情になっていて


その理由を尋ねてみると


転職したらしく転職してからいい事が続き


自分でも思っている以上の展開になるようで


楽しいと嬉しそうに語っていたの


そして前の職場では自分はだめな人間だと


周りからも自分でも思っていたのに


今の職場では尊敬されるような言葉を


手渡してくれる方までいるそうで


その姿を見つめながら


改めて人には進むべき方向性へと進んでいる時には


追い風が吹き


手助けしてくれる人まで現れ


これでよいんだって感じさせてくれるんじゃないかなって


思ったの


世の中では我慢する事が仕事と表現される事も多いけれど


それはわがままというものを抑えるという事であって


何でも我慢し自分という存在を


消してゆく事とはまた別だと思うの


我慢してもそれに見合う知識や収入など


受け取るものがあると感じるのであれば


我慢も我慢ではなく修行のように感じるとは


思うのだけれど


我慢を重ねても失うものが多いと感じるのであれば


それはただ辛く悲しいだけだと思うの


私たち日本人は耐える忍耐力がとてもあって


だからこそ日本以外の地図ではわからないほど小さな国が


諸外国と対等に付き合ってもらえているとは思うのだけれど


それと引き換えに


個人の人生は大切にされてこなかった事もあると思うの


それぞれが違う個性を秘めているのに


私たち日本人は平均というキーワードによって


平均的な幸せと言う形も作ってきたけれど


本当は誰もが人と違った個性を持っていて


とっても幸せだと感じる瞬間も


人と違う部分もあるのに


人と違うと思われたりすることで


人が不安を抱いてしまわないように


同じ考えで同じ行動をしているように


ふるまっている部分もあると思うの


今の時代


一人で過ごす人を見ては


上の世代は不思議に思いアドバイスされているけれど


自分の個性を消して人と付き合う時間にも


タイムリミットがあって


それ以上は無理だと感じるから


できるだけ人とのエネルギーを遮断した時間を


作られている方もいるんじゃないかなって


感じているの


私たち友人や知り合いの中では


なぜだか一人でどこかへ行った話をすると


「すごーい」「素敵」って表現が多く


孤独というものとは結びつかないの


それはたぶん自立した人間として過ごしている姿に


尊敬に近い感覚を持つからなんじゃないかなって思っているの


そして私たちの間で共通している感覚があって


友人関係で無理をして合わせても合わせなくっても


付き合いが終わるものは時期が来れば終わるし


続く必要のあるものは続くのだから


無理はしない


そしていない人のあまりよくない話はしないという事なの


たまたま誰かがいない人のあまりよくない話題をした時


何気なく他の友人が


「あなた最近疲れてるんじゃない?」と言葉をかけたの


そうするとその話は中断され


その方個人の話になった事があって


この何気ない技に感動した事がったの


そこで正義感から「そういう事言うのはよくないよ」とか


「もっと前向きに考えたら」とアドバイスする事で


言葉とは逆にきっといやな空気が広がってしまうと思うの


でも何気なく誰かを否定する事もなく


空気を変えてしまう優しさって


とっても素敵だなって感じたの


私の周りは独身で働いている人もいれば


子育て中の方もいたり


私のように専業主婦もいたり


離婚してこれからっていう方もいたり


比較のしようがない方ばかりなので


決めつけた会話がまるでなく


共通する話題は性別くらいで


趣味も違っていて


お互いが自分にないものを持っていて


とても学ぶ事が多いの


会わない間それぞれが違う行動の中で


受け取った様々な知識や感情を話し合うのだけれど


答えは一つではなく


人数分あるの


その事がまた楽しいの


数年前までは私もどこかで統計や確率的なデーターから


表現されている


友人がいるかいないか多いか少ないかで


その人が人から愛されている目安になるというような表現を


気にするあまり


無理を重ねてまで付き合いを


続けていた友人がたくさんいたのだけれど


その様な関係はよいものを生み出さず


逆に自分がその方がいない場所で


その方のに言えない良くない言葉を生み出していたりして


自分にとっても相手にとっても


良い関係ではなかったように思うの


今ではユーモアを持って


「私は友達少ないよ


嫌われ者だから


つきあっていてわかるでしょ(笑)」と


笑えるくらいになっているの


相田みつをさんの言葉の中に


みんなほんものという題の言葉があって


トマトがねえ トマトのままでいれば ほんものなんだよ


トマトをメロンにみせようとするから


にせものになるんだよ



みんなそれぞれにほんものなのに


骨を折ってにせものになりたがる
という言葉があって


私たちはそれぞれにその方にしかない


資質や個性を持っているのに


わざわざ平凡で平均的な器の中に


自分で収まろうと違う努力をしていて


自分が望む事のための努力でもないのに


落胆したりしている事があると思うの


人にはそれぞれのタイミングで咲く花を持ち


それぞれの喜びがあって


誰とも違っていても良いんだと思うの


この時代この地球上に


自分と同じ人を作らなかった神様が


それを証明していると思うの








この間着物の着付け教室に足を運んだ時


その空間で様々な事を感じていたの


たまたま着付けの先生が


若い生徒さんに「衣紋掛けをとってもらえる?」と伝えると


「???」と不思議そうな顔をした時


先生が指をさし教えると


「もしかしてハンガーの事ですか?」と尋ね


先生が「そうそう」と答えると笑いだし


「古すぎる(笑)」と笑いだしたの


その出来事の数時間前にも


たまたま足を運んだショッピングセンターで


年齢を重ねた方が「乳母車はどうする?」と話していて


相手の方は「ベビーカーでしょ」と話していたのを思い出していたの


その様な出来事に出会うたび


言葉が古いのではなく日本語では今でも正しく


古いというのは違うんじゃないかなって


とても気になっていたの


そんな時いつも日本語がだんだん日本人自体が忘れていて


言葉では表現できない思いに包まれる事が


多かったのだけれど


今日フィットネスへ足を運んだ時


楽しげに笑顔の初老の方たちが話していて


ある女性が「最近毎日フリーなの?」と尋ねると


尋ねられた初老の男性は笑顔で


「そうなんだよね」と答えられていたの


その時日本語よりも雰囲気で使い


何となく理解している英語の単語の方がやわらかでよいのかもしれないなって


感じていたの


もしも日本語で具体的に尋ねるとしたならば


「最近毎日ひまなの?」とか「毎日仕事ないの?」など


日本人だからこそ日本語を理解しているから


具体的すぎてきつく感じてしまうと事も


あるんじゃないかなって感じたの


日本語でも美しい表現はたくさんあるけれど


親しい関係の中では


美しい日本語は時によそよそしく感じたりしてしまう事もあって


表現が難しい事もあると思うの


そんな時何気なく無意識に雰囲気だけで表現する英語の単語は


今では便利な言葉の一つなんじゃないかなって


感じていたの


どんな事でもそうだけれど


正しいかそうではないのかにこだわる事よりも


人がそれぞれに心豊かな思いになれるのならば


形にこだわらない事もあっていいように感じていたの











最近はフィットネスのプログラムで


参加した事のないものばかりにチャレンジし


体験しているのだけれど


初めに参加したプログラムは


私と同じように慣れていなく


あまり上手ではない方が多かった事もあって


私自身恥ずかしい思いをせずに楽しめたのだけれど


その分周りの方にもつられてしまい


まるで形となっていないまま時が過ぎてしまい


それ以降そのプラグラムは何度か参加しているのだけれど


憶えられない事が多いの


そして次に参加したプログラムは逆で


私以外はみんな上手な方たちばかりで


ずれている私はとっても目立ってしまい


恥ずかしい思いに包まれていたのだけれど


後半には良い意味でつられて


気がつくと一度の参加でとっても難しいポーズもできていたり・・・


その時


人生も同じなんじゃないかなって感じていたの


初めは背伸びしなければできない事や人とのお付き合いは


慣れ親しんできたものとは違い


自分の劣等感やできない事ばかりが見えてしまい


楽しめない事もあるけれど


ある時久しぶりに親しい方たちと会うと


周りも自分も良い意味での変化を


感じとったりできるようになっている事って


あるんじゃないかなって思うの


人間は意識とは別にすべての人と繋がりあった回線を秘めているから


気がつかない間に


共に過ごす場所や人から影響を受けていたりしていて


それが長い時間であればある程


人生にも大きな影響となるように思うの


よく私自身フィットネスへ足を運ぶたびに


自分の小さな目の前の世界での常識や話題と違う


瞳には映らないエネルギーを感じていて


仲良く話す方たちに年齢を尋ねられた事もないし


結婚・出産の経験も尋ねられるような会話の流れはなく


仲良くなってからも


それぞれの方がまるで自分を取り巻く環境を


おうちに置いてきて


一個人として興味のある話題などを話しているの


その時には年齢も関係ないから


あらゆるデータは必要なく


ただ目の前にいる方を自分の価値観で感じ取り


繋がりあっているから


気にしていないのかなって感じるの


いつも


化粧品の話やファッション・運動で得られた効果自慢を


まるで女子高生のように


ワイワイと話しているの


その姿を見つめながら


改めて人は精神だけでもなく肉体とのバランスが整っていると


その状態にふさわしい考え方や見え方になっていて


気がつくと


輝いてゆくんじゃないかなって感じているの


たとえば


年齢を重ねた女性で毎日毎日する事がないからと


近くのスーパーマーケットに足を運ばれ


有り余る自由をどう過ごしたらよいのかわからずにいる方であっても


本来の自分になれる時間を見つけられたならば


多くの場合瞳に輝きが戻り


今度は時間が足りないと感じるようにさえなるようになると思うの


でもそのような時の過ごし方から別の過ごし方を


選択するという事は


想像しただけでもわかるように


ちょっぴりの努力やちょっぴりの劣等感など


慣れ親しんだ所では感じずに済む事を


時に感じる事もあって


労力を考えただけで本当は満足していない


同じ時間の過ごし方をしてしまうんじゃないかなって


感じているの


フィットネスクラブにとってもとっても大きな女性がいて


その女性自身も自分の体形が恥ずかしいのか


体系が隠れるウェアをよく着ていたのだけれど


最近では身体にフィットしたカラフルなウェアを着て


運動されているの


その方はそれ以前のフィットネスに通う事を


決断されるまでには大きな勇気は必要だったと思うの


そして通ううちに


本当に自分を見つめる勇気によって


新たな輝く未来へのスタートラインに立つ事が出来たのだと思うの


望んでいた結果がもしも思ったようなスピードで


果たす事が出来なかったとしても


もっとも難しい


ありのままの自分を受け入れ見つめる事が出来たのだから


それだけで自分の人生を


自分で選び取れるという自信と確信を


手にできたと思うの


誰もが同じように幸せになる義務と権利を持っているけれど


最終的に選び取るのは自分だと思うの


そして私たちが無意識に選び取った選択の中に


必ず今の自分に必要なメッセージがあったり・・・


なので結果がどうなったのかにこだわらず


時々慣れ親しんだ空間から離れて


心地の良い緊張感の中で心が研ぎ澄まされるのを


感じて見るのもいいんじゃないかなって感じているの


その様な状態の中では今まで受け取る事のなかった


気づきも多くあると思うの









この間久しぶりに地下鉄に乗った時


ちょっと通常とは違った感じで


からんでくるような態度の方がいたのだけれど


その方がなぜか私が気になってしまったようで


ずっと私にアクションを送り続けていて


とっても怖く


何となく周りに助けを求め見つめたのだけれど


多くの方が瞳を伏せていたの


その時私はとっても人に対する信頼が消えてゆくと共に


私自身に恐怖を感じていたの


その恐怖とはあまりの不安から


相手に過剰に反応し


自分が何かけがでもさせてしまうかも


しれないという事だったの


その場で自分しかこの問題を対処できないと思った時


過剰に反応してしまう自分が何となく怖くなって


必要以上にそこにいる事を頑張る事をやめ


本当は降りる必要のない場所に降りてしまったの


よく人が多い場所を通ると安心とか


明るい場所を通ると安心などと語られるけれど


必ずしも何かあった時に


手を差し伸べてもらえるとは限らない事を感じた時


人の数や明るさなどは関係なく


その場に正義感を秘めた人がいるかどうかで


大きく違ってくるんじゃないかなって


感じていたの


誰でも自分自身の人生は大切なのだから


自分と関係のない事で


問題に入り込む必要はないのだし


その義務もないのだから


瞳を伏せた方たちを責める思いはないのだけれど


もしも自分が


同じ状態で別の立場で出会った場合を考えて見ると


言葉では上手に表現できないのだけれど


私には変な思い込みが昔からあって


自分の瞳に映る出来事はすべて


自分に問いただされているような感覚を持ってしまう事もあって


そのまま瞳を伏せて過ぎてしまう事は


きっとできないかなって感じていたの


それはある部分では正義感からばかりではなく


あくまでも私の思い込みなのだけれど


そうする自分がきっと許せないくなって


あとからそれ以上に長い間


自分の心が表現しがたい思いに包まれ


自分が自分を信頼できなくなってしまうからなのだと思うの


どんな出来事も


自分が今どう感じているのかを知る機会となっていたり


どれだけ自分の思いに近い行動ができるのかを


試す機会となっているように感じているの


自分の中での正しいと思う事と違う事に出会うと人は


時々世の中に絶望したり


悲しみや不安に包まれるけれど


この世の中には正しいと思う価値観も多くあって


必ずしも自分の考えが正しいとは限らないけれど


自分と同じような価値観の人と出会うと


なんだかほっとしたりして・・・


よく日本人はだまされやすいと表現されるくらいに


人との繋がりの始まりに


人を信用する事から始めるスタンスを持っていて


私はその部分がもっとも


日本人特有の素晴らしさだと感じていて


誰もがだまそうと思えばそうできる事をわかっていても


そうすることなく誠実に繋がりあおうとする


最も美しい魂の資質だと思っているの


でも世の中には残念だけれど


その美しい魂の資質をそう受け止めない方もいて


悲しくなる事もあるの


そんな時HPで繋がりあってくださる方や


友人などとふれあうたびに


世の中に希望が生まれるの


その思いはちょっぴり恥ずかしくって相手には伝えられないのだけれど


その人が存在してくれている事が


私の希望になっているの


この間私が震災について自然災害ではないのではないかと


感じたままに書きてしまった事で


その事で思いやり溢れる方からメッセージを頂き


多くの方は自然災害だと思っているからこそ


ありのままに受け止めがんばろうと思っているのに


意図的に誰かが起こしたことだとしたならば


大きな悲しみと怒りを生み出してしまうというような


表現のメッセージを頂き


書かせていただいた時は


私の中ではただただ具体的には書けない中で


数年前からその分野に携わる方からの


違和感が伝えられていて


その事を


自分にとって大切な人たちに色々伝えたい思いがあって


それが自分の中では良いこのように思い違いをしていたのだけれど


よーく考えて見ると


メッセージを下さった方の伝えてくれる通りだと


反省していたの


私は浅い思いやりしか持っていなく


深く考え優しやさ思いやりを生み出す力に


欠けていたのを感じていたの


その事を友人に話してみると


「確かにそうだよね


どっちが本当であったとしても


そんなことが問題なんじゃないよね


でもさーちゃんもその人の伝える思いやりで


反省できたならば


それはそれで大きな学びが出来てよかったんじゃない」と


伝えてくれたの


人にはそれぞれの立ち位置や経験などから


思いやりや優しさの表現や価値観はあるけれど


少しずつでも


自分の知らない優しさや思いやりの形を感じ


理解できるように


自分を深めて行けたらいいなって感じていたの











よく知り合いに


パートナーと離れ離れで寂しくないの?とか


どうして一緒いついてゆかないの?と


尋ねられる事があるのだけれど


私自身深く考えた事はないのだけれど


色々見つめなおしてみると


寂しいのはもちろん寂しく感じるし


私は無意識だったけれど


何もかもパートナーに頼り切っていて


何気ない事であっても


パートナーがいる時には


何一つ自分ではせず(できず)にいたので


離れて暮らすのは修行に近いくらいに


初めてする事も多く


色々気づかされたり・・・


そして毎日電話で話すたびに


お互いが違う場所で違った体験から


感じた事を報告しあう事で


まるで自分まで情報や経験が豊富になったような


楽しさがあって


離れているからお互いが良い意味で他人だという意識が持てて


パートナーだから妻だからという期待を手放し


優しくなれたり応援できたりして


一人で寂しいと感じる事もあるけれど


それ以上にこれはこれで良いのかなって感じ


今のライフスタイルを送っているの


結婚して10年以上たつけれど


1年に数日しか会わない私たちは


会った時には夫婦では考えられないほど緊張したり


ちょっとした事で恥ずかしくなって赤面したりしていまうくらいなの


でもずっと一緒にいた頃は


やはりそうではなく


お互いが無意識に相手に期待していた部分もあったり


甘えている部分があって


小さな事でイライラしたり


私自身は病の痛みやホルモン剤などによる体系の変化で


おしゃれもせず


毎日暗い瞳で過ごしていた時があって


そんな時パートナーに


「外に出かける時にはおしゃれするのに


家ではどうでもよい服を着てるのはなんで?


独身の頃は好きな人に会う時にはおしゃれしたでしょ


今は外に出かける時におしゃれしても


誰に見せるわけでもないし


好きな人は家にいるんだから


家でもおしゃれしてほしいな」と伝えられて


確かにそうだなって思って


ちょっぴりかわいい装いをしてみると


とてもうれしそうにしてくれていたの


近くにいると何となく家族的になってきて


それが良い部分ももちろんあるのだけれど


一個人としての感覚は薄れてしまい


お互いにエゴが強くなってしまったりした時期もあったの


だからなのかここ数年


離れて暮らす機会が与えられて


お互いに見つめ直す事が出来たように感じているの


私にとっては離れて過ごしている時の方が


心は近くもっとも自分の味方になってくれている


大切な存在だと感じられているの


人にはぞれぞれのスタイルがあって


私たち夫婦の場合は


お互いに人よりも一人で過ごしたい時間が必要な事もあって


この距離感が心地が良いの








毎日フィットネスクラブに通いながら


自分と向き合う時間が与えられているの


言葉や知識は表現の仕方で


高く表現できたり


利口に見せる事が出来たりするけれど


運動の場合は


その方それぞれのレベルでしかできない事が


はっきりしていて


恥ずかしいくらいについてゆけない私は


毎日毎日初心者として


過ごしているの


よく年だから・・・と表現しすべて年齢が問題のように


表現される事もあるけれど


私が出会う年を重ねた方たちを見つめていると


その言葉の表現に疑問を持つくらいに


エネルギーが溢れていて


時には私などよりもパワーがあったり柔軟性があったりするの


そのたびに年の重ね方も人それぞれだと感じているの


半年前に手術を受けて入院した時


手術を受けた当日は


人間はこんなにもエネルギーが消えてしまうのかと言うほど


衰弱しこのまま回復できるのかと


自分自身不安に感じていたのに


日に日に身体が驚く速さで回復していった経験から


健康で過ごしている毎日では


特に変化を感じられなくっても


人間の体は何かをする事で


日に日に微妙に変化していて


その小さな変化がやがて


大きな変化へと繋がっているんじゃないかなって


感じているの


私が出会う年齢を重ねた方たちも


様々な経験や困難を乗り越えて


ここにいるのを見てわかる方や


話す何気ない表現で感じる方など様々なのだけれど


毎日未来の自分への投資をされているのだと思うの


プールスペースに行くと


多くの場合足の具合が良くない方も多く


それでもただその事で色々な楽しみなどをあきらめる選択をせず


現状維持やもしくは今よりも健やかに過ごせるよう


日々努力をされているの


その姿を見つめるたびに


私はいっぱい元気をもらっているの


未来の投資をイメージすると


多くの場合経済的な事に意識が向けられるかもしれないけれど


未来の投資には様々な形があって


健康という投資もあると思うの


健康が保たれる事で


様々な体験を受け取れるし


心と体が一致してこそ楽しさや喜びを育んでゆけると思うの


ただ努力だけではどうする事もできない


宿命として組み込まれている病もあるから


その場合にはその病とどのように


折り合いをつけながら過ごせるのか考えて


行動するのも


未来の自分への贈り物を


今から用意してあげることだと思うの


私は若い時期に病と出会い過ごした事で


どれくらい心が耐えられなくなるのかも知ったので


できるだけ心と身体が一致し


過ごせるように保ちながら過ごせるように


自分をしてあげたいなって思っているの