2010年9月





ここ1カ月くらいの間



北海道でも猛暑が続いていて



あれほど憧れていた



長い夏なのに



それどころではなくなっているの



北海道は夏が短く



暑い夏を



長く過ごした事がない方も多く



数年前には



「寒いよりは暑いなら



どんなに暑くってもいいな」って



言葉にされる方も



いたのだけれど



実際に今年のような暑さを



長く体験すると



私などは



その体験に耐えられる



心身が整っていない事を知り



自分の意識とは別に



憧れはあこがれでいいのかもしれないなって



感じていたの



それは人生でも同じで



憧れや夢が突然叶ったとしても



その準備が整っていなければ



憧れや夢を喜びで満たす事も難しく



わざわざ自分を追い込み



体験な体験として



通り過ぎてしまう事もあるんじゃ



ないかなって感じていたの



私は生まれた時から



北海道に暮らしている事もあって



本州の暑さを天気予報で見るたび



想像が出来なかったのだけれど



今年初めて



夜暑さで眠れない方の



気持ちがわかったの



人生でもそうだけれど



自分でも自分の事の



適した環境や選択を



わかったつもりでいても



実際に体験するのと



想像では違う事も




多いように感じているの



時には周りでいつも一緒にいてくれる



友人や家族の方が



自分の事をよく知っていて



アドバイスをいただく事があるけれど



アドバイスをいただい時には



そうかなって?って



思う事もあるけれど



実際にその体験をしてみると



友人や家族が



アドバイスしてくれた通りだったこともあるの



ただ私の場合は



どうしてなのか



何でも自分が体験し



心で体感しなければ



自分自身が納得できない歩みを



持っているために



時には遠回りをしてしまう事も



あるのだけれど



それでも自分が感じ



導きだす答えでなければ



人間的に弱い私は



何かのきっかけで



自分が線楽した事なのに



ある人がこう言っていたと



誰かのせいにしてしまいそうなので・・・



話は少し違うのだけれど



旅行などでもそうで



地元の方は親切から



「あそこは



わざわざ行くほどではないよ



つまらないよ」と



教えてくださる事も



あるのだけれど



友人も私も



教えてくださった方は



そう感じたかもしれないけれど



自分たちにとっては



わからないから行こうとなって



行ってみると



本当だねってと思う事もあれば



とっても楽しい来てよかったという時もあるの



どちらを感じても



自分の感覚や



感性を確認できる良い機会として



受け止めながら過ごしているの



ただ時間と費用が



重なりすぎる時には



日頃から同じような



感性を持った方が



先に体験している場合には



感想などを尋ねたりはしているの



どんな事でも



見るのと聞くのでは違う事も多く



どんなに小さな体験であっても



それぞれが体験した事は



どんな大きなトップニュースよりも



基調で素晴らしい記憶に残る



体験になる事もあると思うの



画面上で様々な景色を見つめ



行ったような気分を体験はできても



実際にその場所に立つと



風や空気感・香り



自然界の音・存在感など



五感を満たし



言葉を超えたものが



心の琴線にふれて



表現でききない



繊細なものまでも



自分の中では受け取っている事が



あると思うの



そのような事が



日常の中に溢れていて



好ましくない体験であったとしても



共感と言う深いつながりによって



人生の扉を開いてくださる方と



巡り合うカギとなってくれたり・・・



私自身もよく母に



「あんたは自分しか愛せない人だよね(笑)」と



表現されるくらい



人との共感能力がなかったのだけれど



それは私にとって悪気はなく



ただ人と同じ体験が



あまりなかったことと



スピリチュアルな知恵を



意識して過ごしていた事もあって



周りから見つめると



他の方とはずれているように



映っていたのだとは思うのだけれど



女性の人生にとっての



大切な選択肢のひとつに存在している



自分から未来へ繋がってゆく



家族を宿す事が



自分の人生では



難しい事を知った時の絶望感や



その事が選択肢から消える



感覚を体験し



日頃そんなにも



意識していなかった私でさえ



実際に見つめる機会を与えられると



言葉では表現できない



複雑な思いで



時には痛みと重なり



このまま眠ったまま



消えてしまいたいとさえ



思ったこともあったり・・・



振り返ってみても



人生の中で1番ではないけれど



それくらいに辛い心身の体験をした事で



初めて人の痛みを気遣う事が



自然にできるようになった気がするの



その事を友人や



パートナーに話すといつも



「え~今頃人の痛みがわかったの



そんなの小学生くらいに



分かることだけどね(笑」と



表現されるの



きっと私は視界0の中を



いつも自分の感覚だけで



羽ばたいていて



周りが見えなかったのだと思うの



でも今は小さな事であっても



嬉しく感じたり



ありがたく感じてしまうせいなのか



すぐにウルウルしてしまい恥ずかしいの



今も手術に向けて病院へ足を運び



準備が整ってきている中



弱虫な私は



毎日不安と期待で揺れ



動いているのだけれど



そのたび



友人もパートナーも看護師さんも



「これから楽になるね」って



私が選びとった事を



応援してくれているの



そして検査を重ねている時



毎月体内の3分の1は



流れている血液の事を考えると



貧血がある可能性もあったのだけれど



ありがたい事に



血液の状態は良いようで



その時にも両親に感謝が溢れていたの



ただ不思議な事に病院へ行くたびに



まるで神様が手術を選択した私に



後悔という思いが



生まれないよう予防線として



ありとあらゆる形で



手術を選択した後



不安になる要素を



改めて私の目の前に



運んできているのを感じるの



たとえばある時には



年を重ねた初老の女性が車いすに座り



娘さんが押しながら



あれこれと付き添い



手続きをしている中



その初老の女性の御主人は



おろおろとしていたの



その姿を見つめながら



この方たちは



しっかりとした娘さんがいるから



時代と共にわからない事や



体力的に難しくなったことも



代わりに行ってくれる



安心感があるけれど



私はこのように頼る存在は



いなくなるのだなって



改めて感じたり・・・



ある時には



病院のロビーで泣いている



60代の女性がいて



看護師さんと話しながら動揺し



気持ちが言葉としてきちんと



表現できないようだったの



その原因は



何気ない検査で



余命を伝えられるほどの



病が見つかり



持ちが動揺しどうしてよいのか



わからない状態の時だったようなの



聞こえてくるお話では



お子さんはいないようで



二人仲良くずっと寄り添い



過ごしてきたようで



親族にも反対され



だれともお付き合いがないとの事だったの



そのお話を聞きながら



昔はきっと子供を宿せないと



女性は家族として



受け入れてもらえない事も













多かったと聞くので



きっとその様なことなのかなって



感じながら



私も同じ状況になったならば



一人で決めてゆかなければならないんだなって



改めて想像していたの



このようなバーチャル体験がいくつも



手術を決めてから届けられていて



まるで無言で



「こういうこともあるかもしれないけれど



それでもいいんだね」って



問われているようにさえ感じることもあるの



心が100%納得する事は



どちらを選んでもきっとないとは思うの



でもありがたい事に



私の場合は



命の関わる事ではなかった事もあって



たくさん泣いてたくさん悩んで



たくさん痛みに耐えて



長い間過ごす事で



時間と共に



納得できない部分は溶かされ



受け入れ歩む事が



できるようになったんじゃないのかなって



感じているの



先ほども書かせていただいたことだけれど



自分が望む事が



必ずしも自分に



フィットしているかどうかは



その時実際に



体験しなければわからない事も



多いのだから



消えた選択肢は



きっと神様が私には



必要がないと判断し



そうなったのだから



自分に必要なものをこれから見つけ



大切にしてゆけばいいのかなって



感じているの













今メディアで著名人が病の事を



お話してくださる機会が多く



そのたびに



影響力を持たれる方たちが持つ



間接的ではあるけれど



大きな力を感じる事が多いの



昔はイメージの問題などがあって



人間らしさよりも



他の誰とも違う



パワーやオーラを持つ事を



演出しなければならない事もあって



人間らしい部分を



表現しないようにしていたけれど



今の時代は



良い意味で同じ時代を生きる



人間として



メッセンジャーとしても役割を感じ



発信されている方もいて



私自身も



私の周りも救われる事があるの



私の友人は自分が誕生して数カ月で



母親が自らこの世を去って



その事に対する現実から姉妹から



「あんたが生まれたからお母さんが死んだんだよ」と



深い理由もないまま



伝えられていた事もあって



友人は長い間



自分が生まれて



お母さんは子育てが大変で



その様な道を選んだのではないかと



長い間自分を責めたり



心の深い部分では



自分が生きていてもよいのかという



自問自答もあって



よく精神的なバランスが



保てない事も多かったのだけれど



最近になってやっと



大きな原因があるわけではなくっても



出産によって一時的に



ホルモン数値が下がり



バランスが保てず



鬱状態のような時がある事もあって



本来ならば幸せな体験をの中



本当に幸せなのだけれど



自分の意思ではコントロールできず



悲しい選択へと



すすまれる方がいる事が



メディアなどで伝えられた事で



やっと友人は自分が原因で母親が



その様な選択をしたのではない事を知って



ほっとしたのか嬉しかったか



涙を流しながら話してくれたの



ある友人は性同一性障害によって



物心ついたころから



自分が自分らしくすると



周りが悲しむ事を感じ



ずっと何物かを演じ過ごしてきたの



そしてカミングアウトした時には



父親からは



家を出る事を伝えられ



母親は母親で



周りからも様々な心ない事を言われ



自分の育て方が悪かったのかと悩み



この世を去ろうとした事もあったり・・・


その頃は



その様な方がメディアに映る時には



面白おかしい事を



話す役割をしていたけれど



今ではそのような個性以外にも



本当に普通の女性として



生きたいと願う方もいたり・・・



様々な形で伝えられるようになって



医学的知識もプラスされ



育て方が原因ではなく



母親の胎内に宿った時から



様々なホルモンの影響で



そのような事がある事を伝えてくれる



医学に携わる方も現れてきて



テレビをよく見る



年を重ねた世代も



その知識が広がり



思い込んでいた思考が変わり



このような個性は



だれのせいでもない事を



互いに知る事で和解し



今では母親は



「男の子は一緒に歩いてくれないけど



あんたが女の子で良かった」って



伝えられるまでになったそうなの



私自身も



子宮の病は見てわかる病でもなく



命にかかわる病ではないので



なかなか理解してもらえない事も



あったりして



少し大変な時期もあったのだけれど



今は私の思いを代弁してくれるように



様々な方がどれほど



日常生活が大変なのかや



精神的な辛さなどを



語ってくださる機会も多く



最近ではありがたいくらに



周りの方が優しく



包んでくださるので



今まで痛みで



涙があふれていたのに



今度は嬉しくって



涙があふれる事が多いの



私の両親も



私の選択ならばと言いながらも



長い間言葉とは違う



悲しい気持ちが



伝わる事もあって



なかなか痛みを消し去る方向へと



歩めなかったのだけれど



この頃は本当にすっきりとした思いで



私の未来を祝福してくれているのを



感じているの



数日前には



「あんたの病気って本当に大変なんだね



これから楽になるんだねよかったしょ



あんたは親に



心配かけたくないからって



病院教えないみたいだけど



私はあんたの母親なんだから



自分の子供ががんばって選んだ事を



見届ける権利と義務があるの



それにあんたが思うほど



私は弱くないし



もう心配なんてしてないよ



だから病院と手術の日教えてよ



私は行くからね」って



伝えてくれたの



親の深い愛にふれて



一瞬泣き出してしまいそうになったの



私は親と言う体験はないのだけれど



親と言うのは



子供の私が考えられないほど



様々な方向から



子供が幸せになる事を願い



たとえ自分の許容範囲を



超えていたりしても



なんとか理解しようとしてくれていたり・・・



親ってつくずくありがたい存在だなって



感じていたの



そしてその両親を笑顔にしてくれている



天使を授けてくれた弟夫婦にも



ありがたい気持ちがあふれていたの



今の時代は様々なスタイルの生き方が



されている時代と言う事もあって



ある意味で



思い込みを手放す時期が来ていると思うの



そしてそれと変わる



新たな表現や価値観を



受け入れるタイミングだと思うの



無知から来る思いこみで



人を傷つけてしまう事も



だんだんと少なくなり



みんなが笑顔になれるよう



時代は流れているように思うの



この間は何気ない会話の中で父に



「これからの時代は年齢だけで奥さんとか



お母さんと言う表現は



しないほうがいいよ



だってその人が結婚しているのか



お子さんがいるのかわからない時代なんだから



その人の名前が



わかるなら名前で



表現した方がいいよ」って



伝えていて



たまたま父が務める会社で



新たに働きに来ていた方がいて



みんなは奥さんと



その方を読んでいたそうなのだけれど



父は私に伝えられた言葉が



残っていたようで



その方の名字で呼んでいたそうなの



そうしたらある日



その方が自分が独身でどこへいっても



奥さんと伝えられる事が



本当は苦痛ででも



独身だと伝えると



またあれこれと



詮索される事もいやなので



いつもできるだけ



気にしないようにしていた事を



聞いたそうなの



初めて既婚だと決めつけられない個人として



受け入れられた気がして嬉しかったと



父に表現したようで



父もその事が嬉しかったみたいで私に



「お前の言ったのはほんとだった



人によっては



気にするもんなんだな


俺も少し言葉を気をつけなきゃな」って



伝えてくれたの



私の両親や両親からの上の世代は



何となくみんな同じカラーを持っていて



違った生き方をする方の方が



少数派だったから



思い込みや決めつけを表現しても



みんなが同じ価値観を



持っている感覚があったので



問題はなく過ごしてきたとは



思うのだけれど



今の時代は多様化していて



どんな分野であっても



良いと表現されていた事も変わり



自分自身が柔軟に変わる方が



幸せだと気づかれているの



勝ち負けや



本当は意味のない



プライドにこだわる事で



周りも自分も笑顔になれないよりも



素晴らしい生き方がある事を



感じているのだと思うの



ただそれは



自分が思った以上に努力が必要で



人間の脳は



自分が歩んできた



すべての事を統一する事で



自分が何者なのかや



自分の価値観を形成しているから



自分と違った生き方や



価値観を受け入れてしまうと



時には自分の歩みを



否定してしまう形になってしまうので



無意識に拒否反応から



頭では理解していても



受け入れるには



とっても努力が必要になると思うの



でも一度受け入れられるようになると



自分の脳の中で



受け入れたからといって



自分の人生を否定しているのではなく



視野が広がっただけだと



脳は解釈して



次々と柔軟に自分と違う生き方や価値観でも



受け入れられるようになり



せいぜい抵抗と言うのは



好きかそうではないかと言う



小さな分類で終えられるようになると思うの



今の時代は多くの方が



良い意味で



今までの体験から得た



小さな事実にこだわらず



そして自分の体験が



すべてではない事を悟り



新たに自分の内なる宇宙の



スペースを広げる



時期には入っているように


感じているの













運も実力のうちという言葉が



昔から表現されているけれど



年々様々な方の生き方を見つめ



そう感じる事があるの



昔は運というものは



風のように



突然もたらされるものだという



感覚があって



運に恵まれる方を



うらやましく思ったりもしたのだけれど



瞬間的にもたらされる運は確かに



誰にでも平等に突然与えられるけれど



その様な運の場合はやはり風のように



わからないうちに



消えてしまうものだけれど



運も実力のうちと表現されるような



長いスパーンで



運が留まっている方の場合には



親しくなってライフスタイルを



見つめてみると



やっぱりなって思う事を



発見する事もあるの



たとえば良く最近伝えられているような



おトイレを毎日お掃除をしたならば



金運アップに良いと知っても



多くの方はこの単純な事さえも



数日しか続けられないものだと思うの



そして目に見えた



よごれがないのだからと



やめるきっかけを



探してしまう事も



あるとはおもうのだけれど



私が知っている方は



毎朝お仕事に出かける前に



毎日お掃除をしてから出かけるそうなの



そうしたら不思議なくらいに



運がついていると思う出来事が



何となく増えて



今ではアルバイトだった職場で



正社員にあらないかという



言葉をを受けて



安定した毎日を過ごしながら



その職場で愛する方とも出会い



幸せそうなの



でもその方の運を導くための努力は



人には映らないから



ただ運が良い人というイメージが



あるとは思うのだけれど



運を導き次々と



幸せを受け取っている方は



幸運が居心地の良い



スペースや心の状態を



保たれているんじゃないかなって



感じているの



誰にでも運はもたらされるものだけれど



多くの場合



その運を受け入れる準備が



整っていない場合が多く



運に見放されていると



思い込んでいる方も



本当は運を



無意識に避けているという事も



あるんじゃないかなって思うの



そして運と運命を



誤解しているところもあって



どんなに努力を重ねても



自分が望む方向へ形が



整わない方を見つめ



何をしてもだめな人はだめなのだと



思い込んでいる方も



いるかもしれないけれど



私が感じているのは



運命が強く働いている時には



そちらのエネルギーによって



消化しなければならない事を



消化する時期なだけであって



決して恵まれない方でも



運のない方でもないと思うの



その消化時期も誰にも



平等に与えられるのだけれど



それがどのタイミングで



訪れるのかだけの違いであって



変わりはないと思うの



そしてそのような消化時期には



まるでダイエットの時期と似ていて



努力が実を結び



実感できる日々を過ごしている時には



しく続けられるけれど



一時的に停滞期のように



映る時期を迎えると



こんな事をしても意味がないと



投げやりになってしまう事も



あるとは思うの



でもその停滞期の努力は



無意味でも無駄でもなく



毎秒ちゃんと刻まれていて



停滞期が終わると



一気に花咲く事があると思うの



なのでその様な時でも



いつ運がもたらされてもよいように



過ごされている方が



運のある方だと思うの



なので運とは自分が貯金してきた



瞳には映らない



貯金のようなものなんじゃ



ないかなって感じているの



そのような努力を重ねても



時には



自分が望む形の幸運がもたらされるとは



限らなけれど



その時には



自分がまだ知らない幸せの形もあって



時間の流れと共に



望む幸せの形も変化してゆくので



最終的に



幸せならばいいんじゃないかなって



思うの











今現在



人生に何となく不足感を感じたり



漠然と何かを変えたいとか



スタートしたいと思われている方も



いるとは思うのだけれど



いつも気がつくと想定内の範囲で



生きている事に



原因があるように感じているの



自分の人生を振り返ってみると



多くの場合は



その時々与えられる出来事に対して



ベストだと思う選択をし



その重なりの結果が



今日という日なのだと思うの



その時々



もっともベストだと思うものを



選択したはずなのに



もしも不足感や



不安などが広がっているのならば



自分の価値観にこだわりすぎて



見えなかった選択肢も



あったかもしれないんじゃないかなって



思うの



でも自分が好ましく思う形がある以上



別の選択肢を



見つけたり受け入れたり



出会ったりする事は



とっても難しいと思うの



私事だけれど



私はずっと



美しいデザインにこだわるあまり



いつも窮屈な自分に合わない



靴を履いて過ごしていて



そのたび



サイズが合わなかったんだわって思い



縦幅など



合うものを手にするのだけれど



それでもいつも体中が痛くなったり



疲れがとても大きく



だんだんと歩く事さえ



苦痛に感じていたの



そんな時知り合いに教えていただいた



靴屋さんで



初めて足を診断してもらうと



両足とも



おうとつ一つない



偏平足だと初めて知ったの



そして私の足に



最もフィットする靴を作ってもらうため



サイズ以外に



デザインなども話し合っていたの



私が描くデザインを伝えるたびに



その職人さんは



私が提案するデザインだと



今までの既製の靴と変わらない事を



きちんと教えてくれているのに



どうしても職人さんが提案する



デザインが好ましくなく



何度も足を運び話し合った結果



歩く苦痛から解放されたい私は



最終的に職人さんが



伝えてくれているデザインで



おまかせしたの



そして出来上がった



靴を受け取りに行くと



思っていた以上に



悲しくなるというか



幸せな気持ちになれないカラーと



デザインだったのだけれど



半分あきらめの気持ちで履いてみると



私の中では人生で初めて出会った



良い履き心地だったの



それでもしばらくは履いて



外へ出かけるたびに



美しいデザインや



カラーではないプレーンな靴に



違和感があったのだけれど



日に日に歩く距離が長くなり



気がつくと自分から好んで様々な場所へ



足を運んでいる自分を感じ



ふっと私はいつも望んでいた開放感を



自分の選択で



あえて選びとれなかった事に



気がついたの



そして改めて



自分という存在の持つ個性を知り



受け入れるきっかけを



まるで違う価値観の方のおかげで



受け取れた気がしたの



今ではそのプレーンな靴を



どんなお洋服の時にも



履きたくなるほど心地よく大好きなの



人生も同じで



勇気を持って



新たな風を受け入れてみると



分の中の絶対的価値観以外にも



広がる何かを感じられると思うの



自分の幸せを望みながらも



幸せにしてあげられていない原因にも



気づけるように思うの



私の知り合いで



カラ―コ-ディネ-タ-の



仕事をしている人がいて



今は企業とかに



アドバイスをしているのだけれど



ほとんどの場合



自分が好きな色と似合う色は違っていて



伝えるたびに



困惑するそうなのだけれど



会社では印象が



大切なこともあって



好ましくないカラ―が



似合う色と言われた以上仕方なく



多くの方が



お洋服の一部に



使用し過ごされるそうなのだけれど



半年後くらいに会うと



好きな色とは違う似合う色を



好きになっている方が



多いそうなの



その理由は



周りから褒められる機会が多くなり



その事が喜びを育み



気づくと



そのカラーのものばかりに



なっていゆくそうなの



企業でも



自分たちが正しいと思う価値観で



長い間運営してきたけれど



新たな飛躍を望む時



どうしても自分たちでは



思いつかない事を



改善するために



自分の価値観とは違った




プロの知識を求められる



会社が増えているそうなの



今繁栄しているビジネスを見つめるたびに



私は繁栄している要因さえ



わからない事もあるのだけれど



そのたび



柔軟さをもっと持ちたいなって



感じる事があるの



もっと柔軟さが私にあったならば



きっと共感はできないけれど



理解はできるようになると思うの



今の私は共感できない



イコール理解もできないと



すべての視野を



閉ざしてしまう事が多いから・・・



どんな出来事であっても



理解できると表現すると



なぜか同じ感性を



持っていると誤解されてしまう事が多く



その事を怖れて



すべて閉ざしてしまうけれど



頭で考えたならば



理解はできるけれど



共感が出来ない事は



いっぱい溢れていると思うの



話は少し違うけれど



今回手術を考え



病院を探す事になったのも



ある方の助言で



「今まで自分の価値観で進んできて



納得できなかったなら


今度は真逆の所に



行ってみたらいいよ」って



アドバイスを受けて



あえて今まで通っていたような



病院とは違った



機械的であたたかみがないと



よく表現されるような



大きな病院に足を運んでみたの



いつもの自分とは違った価値観で



病院を選んでみると



確かにいつも通っていた病院のように



何気ないあたたかな会話もなく



要件事項だけの



たんたんとしたものではあったけれど



そのたびに



私が私を誤解していた事にも



気づかせてもらった気がしたの



私は弱い人間だから



甘えられると思うと



どうしてもその弱さが広がり



前に進めなくなってしまう所があったようで



今の病院のように



機械的にたんたんと進められるたびに



私はこの病院に



何を求めてきているのか?と



何度も問い直し



今までならば



検査のたびに涙あふれることが



多かったのに



今の病院に通うようになってからは



自分も良い意味で



たんたんと必要を満たすために



がんばれている事に



自分が自分に驚いているの



そして私が病院に究極に求めているのは



技術であって他の事までは



求めていないの



もちろん人間的にも



あたたかく素晴らしい方であったならば



とってもありがたいことだけれど



私が出会った先生方の中は



どちらかをもっているけれど



両方ある方との



巡り合いはほとんどなかったので



どうしても究極の選択になると



お医者様に求めているのは



技術だったの



気持ちを支えてくれるのは



ありがたい事に



私の心の中には



何人も思い浮かぶほどいるので



お医者様にはその部分を



求めていないの



最近様々な体験をしている中で



感じたのは



今の自分に不足感や



漠然と新たな事を人生の中に



望まれている時には



いったん・自分の価値観を



お休みさせてみるのも



良い方法のように感じているの



もちろん



今とても満足している方ならば



そのまま自分の価値観を大切に



すべての世界を見つめ



過ごされるとよいと思うのだけれど



今日の自分が



過去自分がベストだと思うものを



選び取ってきた結果だと思うと



そのベストなはずの事に



満足感や幸せを感じていないのならば



自分の選択以外の事に



もっと自分が望むものが



ある事もあると思うの



自分が見えないベストなものを



望まれる時には



軌道変更してくださる方との



出会いによって



きっかけが必要な時もあると思うの



軌道修正はいつからでも



どこからでもできるのだから



時の流れに身をゆだねてみるのも



長い人生の中では



良いんじゃないかなって



感じているの



そしてその事とは逆に



人がこれは幸せとか



将来を考えて



伝えてくれる歩みの通り



歩んでいるはずなのに



なぜかいつも



自分になりきれない自分を感じ



生きている実感に満たされない感覚を



感じる方の場合は



勇気を持って自分の人生には自分に



責任がある事を受け止めて



どんな形であっても



自分が笑顔になれる事を



選び取とってみるといと思うの



どんなに自分以外の人が



幸せを提示してくれても



その事が幸せに



感じられないのならば



いつも誰かが求める幸せを



演じているだけで



心から幸せを



感じられないものだと思うの



それでは



この世に誕生してきた



使命を果たせないと思うの



なので自分の人生のドラマを制作する



プロデュ―サーとしてのお役目を



放棄してはいけないように思うの



正直に生きる事に



誇りを持って歩んでほしいの






あっという間に



暑さが和らぎ



いつもの北海道らしい



肌寒い風が広がっているの



そしてここ一週間くらいの間



改めて北海道の広さを感じるくらいに



様々な地域に足を運んで



そのたびに気温も様々で



自分の暮らす街から



3時間くらい離れた場所では



驚くほど涼しく



帰る頃には



くしゃみばかりがでたりして・・・



でも今年は全国的に猛暑で



私の周りでも



生まれて初めて



軽い熱中症の症状を体験された方や



私自身も生まれて初めて



夏バテと言うものを体験したの



初めはよくわからず



もしかしたら



他に身体に悪いところが



あるんじゃないかなって



思うほど不安になったくらいなの



なぜならば



どんなに体調が優れない時でも



食欲がない事を



体験した事がなかったので・・・



その事を友人などに話すと



「それは夏バテっていうやつだよ」って



教えてもらい



とってもほっとしたの



そして年齢的なものなのか



身体のコンディションで



今まで体験がない事を



体験する機会がよくあって



そのたび年上の友人や知り合い



母親などとの何気ない会話の中で



話していると



私よりも先を



歩んでいる人たちなので



多くの場合



私の年齢の頃に同じような事を



体験した事を教えてくれたりして



そのたびに



先人の知恵の恩恵を受け取っている



特に母親の場合は



母親の細胞・DNAを分け与えられて



誕生している事もあって



病歴的なものが



同じような年齢であったりすることも多く



体調面での不安がある時に



相談するとほとんどが一致するので



母が乗り越えた方法などを



参考にさせてもらったり



これから体験しそうな体調面の事も



意識しながら過ごしているの



昔何かの本に



書かれていた事なのだけれど



両親と子供の間では



医学的なレベルを超えた



不思議なものがあるそうで



特に親は自分のDNAを分け与える形で



一人の人間を誕生させるのだけれど



それは医学的な事で



親の分子レベルの中では



(本人の自覚はなく)



まるで自分の一部を



外の世界に分けたような



意識があるようで



子供に何かがあると連絡がなくっても



子供の心の状態と同じ体験が



急にやってきて



それを胸騒ぎと感じたり



ある時には身体の一部が痛み



それが無意識レベルで



自分が生み出している



痛みではない事を感じ



子供に連絡すると



何かあった事を伝えられる事が



多いそうなの



そしてよく親が子供を



天国へ送り出す時



大きな悲しみに暮れる理由を



あれこれと理由を語られるけれど



自分では自覚のできない



深いレベルでは



自分の一部がなくなったのと同じ感覚が



心身に感じられるからだそうなの



子供の方も



親は自分よりも



いずれ早くに天国へ旅立つ事を



知っていても



言葉では説明のできない思いと



悲しみが広がるそうなのだけれど



それもやはり同じように



DNAレベルで繋がりあう



家族ならではの



意識を超えた心身の感覚のようなの



その様に思い様々な事を



見つめてみると



理解のできなかった事も



ほんの少しわかる



気がしてきたの



最近ニュースでよく自暴自棄になり



人を巻き込むニュースが多く



その中でも子供が親を・・・という



ケースが良くあって



自らこの世を去りたかったと



表現される方が



なぜか親を・・・という流れに



理解できなかったのだけれど



それもきっと



DNAレベルで考えてみると



自分の人生に自暴自棄が訪れると



二つの選択があると思うのだけれど



自分を責めて



時を過ごし次に流れてゆくタイプと



自分がこんな人生しか



歩めないのは親のせいと思いこんだり



そうは思わなくっても



自分がこの世に



誕生した事自体を否定してゆくと



その様な流れも



あるのかなって思ったり・・・



家族だけではなく



人類すべてのスタートは



ミトコンドリアイブだと



伝えられている事を思うと



人類すべてが



遠い親戚的に



細胞レベルで繋がっているから



あらゆる事で



多数決が



成り立っているんじゃないかなって



感じていたの



そう思うと



犯罪などに繋がるケースにまでは



結びつかなくっても



この地球で暮らす方の



波動レベルに合わせたように



ニュースが届けられている事も



あるんじゃないかなって



感じていたの



時々感じる事なのだけれど



イライラや怒りを持った方が近くにいると



無意識に



何かのきっかけで自分も同じように



イライラしたり怒りを



生み出してしまう事があるのだけれど



それとは逆の笑顔や喜び・感謝も



やはり良い意味で



伝染してゆくものだと思うの



その伝染が



初めは数人だったものが



伝染した方が



次に会う方や足を運ぶ場所で



同じような思いを



無意識に手渡してしまうものだと思うの



良い波動を保たれている方が



この地球に多く広がれば



初めは大河の一滴にしか



ならないと思っていた事であっても



何気ない言葉と



思い表現していた言葉であっても



その言葉で救われる方もいたり・・・



そしてその言葉を受け取った方は



もしかしたら



生きる希望が生まれる



きっかけとなったり



それまであまりよくない思いに



包まれていたかもしれない方でも




思いなおしたりできたり・・・



私たちは



時々人のために何かをしたいと



考えた時



つい大きな事しか思いつかず



スタートする前から



何もせずに



過ごしてしまう事もあるけれど



本当は多くの方は



自分が日々何気なく



人に元気を与えていたり



無意識に人のために



何かをしている事が



あると思うの



実はそのほうが



意識して施した事よりも



尊く徳のある行為のように



感じているの



だから人は何かにいつも守られ



平凡なくらい単調な毎日を



過ごす事が出来ているんじゃ



ないかなって感じているの



人が求めている事って



本当にささやかな事であって



専門的なアドバイスが出来なくっても



ただただ



お話に耳を傾けてあげるだけで



まるで詰まっていた通り道が



貫通したかのように



生き生きされたり・・・



こんなささやかな事であっても



幸せの種を



手渡した方がたった一人であっても



その方が出会う人や



足を運ばれる場所で



無意識に自分が



受け取った幸せの種を



また手渡してゆくものだと思うの



その様な広がりが生まれてゆくと



すべての人類は



細胞レベルで繋がりあっているのだから



無意識に集合意識が働き



幸せへ向けた意識が



働くようになるんじゃないかなって


感じているの









よく若いころは



霊的な現象を体験される方が多く



その事を表現すると



心が純粋だからと伝えられるけれど



私が感じているのは



まだこの世から



誕生してまだまもなく



あの世の世界で過ごした年数の方が長く



現実に肉体を持って



この世に誕生する時に



記憶は消されているけれど



心身の深い部分では



あの世への意識の方が



強く働いているから



世代的には若い世代の頃の方が



霊感のようなものとの



周波数がフィットしやすく



不思議な現象と出会いやすいんじゃ



ないかなって感じていたの



それがやがて



肉体をもった社会での暮らしの中で



様々な体験を重ねてゆくうちに



心とはまるで違う



言動や行動などが



必要とされてゆくうちに



空気を読み



心を表現する事が



少なくなってゆくうちに



ある意味で人間らしい生活の中で



霊感のようなものは



日常的なものから



特別な体験の時にしか



感じなくなってゆくんじゃ



ないかなって感じているの



お話は少し違うのだけれど



不義理な私は



親戚などの葬儀などには



足を運ぶ事がないのだけれど



この間幼いころから



何度も思い出に登場するくらい



よく会っていた親戚の方が



天国へ旅立つ事となり



なんとなくその空間へ行く事にしたの



そうすると



昔懐かしい人たちが



笑顔で迎えてくれたのだけれど



手を握りながら



相手は喜んで歓迎してくれているのに



伝わってくるものは



まるで違うもので



例えるならば雑音の多い



ラジオのような感じで



脳に伝わってきていて



すーっとスムーズに



聞き取れない感じだったの



歓迎を演出してくれていたその方が



ふっと気をぬき素の状態になると



その雑音のようなものを感じず



クリアにその方が




思っているままの事が



伝わってきたの



その様な現象が多くの方と



あいさつするたびに体験してゆくうちに



ここ数年体験した事のないほど疲労し



最終的に疲労が



一つもなく過ごせる人は



知的障害という



個性を持つ親戚だったの



なので無意識に



その方の横に座り



昔話をしていたの



そうしたら悪気はないとは



思うのだけれど



昔から何かと



言葉の表現に



問題がある方たちが



私の元にやってきて



「何で子供作らないの!



まだ若いから大丈夫だよ!



今はいいけど子供いないと



将来歩けなくなった時困るよ



だんなだっていなくなったらどうするの



誰も面倒見てくれる人



いないんだから」と



表現していたの



私にとっては



このような言葉は



予想範囲内だったので



あいさつとして



受け止めようと思っていた時



知的障害と表現される



個性をもった方が急に



「サーちゃんは美人だから



何回も結婚できるから



子供いなくっても大丈夫だよね(笑)」と



優しく表現してくれたの



その瞬間



他の方とは違い



ラジオのような雑音は何もなく



とってもクリアに



私に伝わったこともあって



この心からの優しさが



とっても嬉しかったの



他の方も同じような事を



幾人もあいさつとして



私の元に訪れては



表現してゆくのだけれど



その様な現象にだんだんと



知的障害と表現される個性をもった方は



不思議に感じてきたようで



その方たちの前でいきなり



「何でみんな同じ事しか言わないの?



さっきから僕が何回も言っているのに・・・



さーちゃんは心配ないって!


みんなわかった!」って



大きな声を出して伝えてくれたの



みんなは驚いてしまい



「そうだね・そうだね」って



口々に表現し



もうその挨拶は終わったの



疲労している私に父は



「疲れたのか?



でもこれが社会と言うものなんだから



いちいち気にするな」と



表現していたの



親戚は日頃から



同じ年代の方と



話す機会がないからなのか



好きかどうかではなく



人と話す機会を求めているように



私には映っていたの



今回の体験の中では



ずっと体験のない事が



一気に訪れて



私自身もおうちに帰ってきてから



ひとつ・ひとつ



その意味のようなものを考え



消化するのに大変だったの



久しぶりに会う方の中には



大好きだった人もいて



その方がぜひにと誘ってくれるので



家族で家の中でお茶をいただき



話す事になったのだけれど



母も私も入ってすぐに



体調が何となく優れなくなり



すぐに帰る事ばかり



考えていたのだけれど



その大好きな親戚は



まだまだ話したい雰囲気で



また次回会う約束をして



家を出たのだけれど



母はそれから



肩から頭にかけて辛いようで



自宅に帰ってきてすぐに横になり



母が私に



「あんたあの家どう思う?



それとその前に行った家も



何だか息苦しいと思わない?」と



尋ねてきたので



私も何となくそうは



感じていた事を伝え



でもそれは母が思うような



霊現象などではなく



空間的なつくりだと何となく感じた事を



伝えたの



その私の大好きな親戚の家庭では



子供が暴力をふるうようなのだけれど



その事は



本人から聞いたわけではないので



相手が言わない事を表現する事は・・・と



思っていたのだけれど



その事を悩まれた事が



全身から感じられていたので



何か力になれないかとは



思っていたのだけれど



相手がどうしたら良いのか



尋ねてきてもないないのに



あれこれとはいえないので



母も私もただ我慢していたの



母は家に帰ってきてから



「あのうちに暮らしていたら



これからもっと大変な事になってゆくよ」と



表現していて



私もそう思っていたの



霊現象ではないのは



感じていたのだけれど



私が感じていたのは



人間が持つ空間認識的な感覚で



無意識にイライラを誘ったり



気がしずむなどが重なり



そのことがきっかけとなって



様々な事が



外の世界に表現されて



ゆくんじゃないかなって



感じているの



でもその空間認識は無意識だから



その事が原因だとは



なかなか気づけないし



持ち家の場合は



その事を認めてしまうと



大変な行動が予測できてしまうので



改善しようとは



働かないんじゃないかなって



感じていたの



でも今は風水などの知恵が



誰にでも簡単に



知る事が出来るのだから



ちょっとした事で



今よりも良くはなると思うの



今回様々な方のおうちに



足を運んだのだけれど



様々な問題を持たれている親戚には



共通点がいくつもあって



その中で一番感じたのは



お部屋に日差しが入らず



そしてどこのおうちも



窓を開けていないの



なので空気が止まったような空間で



真夏なのになぜか寒いの



ある方の家は



マンションで窓のそばを見てみると



すべての窓が



隣のマンションの壁になっていたり



ある方の家は



一戸建てなのだけれど



窓の外には



信じられないくらいに伸びた



雑草や葦のようなもので



窓がふさがれていたの



その瞬間



自分にとっては普通の事が



普通ではない事や



改めて住まいの大切さを感じ



今の住まいに感謝が生まれたの



どんなに素晴らしい資質を持っていても



どんなに努力を重ねても



人はそれだけで



スムーズに歩めるわけではなく




様々なものの影響を無意識に受けながら



過ごしているんじゃないかなって



感じていたの



そして今回は



自分の過ごしている位置を知る



良い機会だったように感じているの



私はありがたい事に8割の



強い思いこみや決めつけの枠の中に



過ごしている方たちではなく



2割の言葉を超えた感性と



豊かな心をもった方としか



日々繋がりあっていない事を



改めて気づかされ



そのようなスペースを



学びの場として与えてくれた



神様に感謝と



そして広い世界で



私を見つけてくださった方たちに



ありがとうの上の



この世に存在していない



声にできない



言葉を贈りたい気持ちで



いっぱいになっていたの











母は人が天国へ旅立つ日が



近づいている人や



天使が宿る方に対して



驚くほどの的中で



今回も親戚が天国へ旅立つ余命を



お医者様から聞いた時から



その余命まで持たない事を



感じていたようで



私は何度も



今週中に喪服などの用意をするよう



母から伝えられていたの



今回火葬場までゆくバスの中



急に母が



ある女性の名前が



何度も頭の中に浮かぶらしく



もしかしたら天国へ旅立った



親戚の方が深いつながりのある人で



知っている人ではないかと



感じたようなのだけれど



こんなときに



問題が起きてはいけないと思い



親戚の息子さんに



そっとその名前を告げて



会社とか何かで



知っている人かもしれないしと



遠まわしに尋ねてみると



その名前の女性はこの間



自ら天国へと旅立った



親戚の息子さんのお嫁さんだったの



それを聞いた母は



まだ心の傷がいえない方に



なんて事を尋ねてしまったのだろうと



思ったようなのだけれど



無口なその方は



嬉しそうにしていたの



私はまた母の霊感に怖くなっていたの



母は



人の命に関わる感覚的なものを



強く受けとめるタイプのようで



いつも冠婚葬祭は



あらかじめ準備が整っているの



私の場合は



母のような感性は持ってはいなくって



見てしまうという感覚で



意味もわからず



ただ怖いだけなので



あまり役立ってはいのだけれど



母の場合は



様々な方面で役立っていて



私と会った時など



急に私の友人の住まいが見えるのか



「最近○○ちゃん引っ越ししたの?



あの部屋はよくないよ



病気になるよ



なんでこんな所に冷蔵庫置いてるの?



階段の所に冷蔵庫ある?



よくないな~



なんでこんなところにあるのかな」と



告げられたので



友人にはあまりよくない事を伝えて



その事が気になってはいけないと思い



伝えないでいると



母が伝えてくれたように時間と共に



心の病になってしまい



仕事も続けられなくなり



経済的にも心身的にも



今までにないくらいに状態になったの



そんな中



友人は私に見に来てほしいと



伝えられたので



その時母が表現していた事を伝え



すぐに引っ越す事になったの



ただ初めは経済的なっ事もあって



迷いもあったのだけれど



引っ越してすぐに



昔働いていた職場の方から連絡があり



社員として迎え入れられ



それ以来



順調に過ごしていて



今でも時々友人と会うと



「あの時はなんだったんだろうね」と



笑えるくらいになっているの



今私の家系では



母と私と弟の元に舞い降りた



一番上の子が霊感的なものがあって



二人は私よりも強く感じたり見えたりするようで



まだ幼い一番上の子と母は



良く話していて



私の実家の私の部屋に



いつもふたりの年を重ねた



男女がいるらしく



でも怖くないようで



その容姿や話しかけてきたことなどを



母に伝えているの



そうしたら母の両親で



私のとっては祖父母だとわかったの



確かに私が暮らしている時に一度



私も見た事があって



私が人生で初めて



自ら天国へ行こうと思っていた時だったの



その時夢と現実がわからない状態の中



二人は私の目の前に出てきて



「そんなにつらいなら連れて行ってやる」と



声や言葉ではない



心と心で会話していたの



その瞬間私は



あれほど自ら天国へ旅立とうと



思っていたはずなのに



「またがんばってみる



人生がつまらなくなったら



迎えに来て」と伝えると



押し入れの中へスーッと



消えていったの



それ以来



つまらないと言葉にしたり



極力表現しないようになったの



じゃないと迎えに



来ちゃいそうだから(笑)



祖父母が今私の部屋に



来ているのはきっと



ひ孫にあたる子供たちの姿を



見に来ているのかなって



感じていたの



霊感は母と弟の元に舞い降りた



一番上の子と私以外



まるで何も感じないので



どうしても結果が



出るまでの時間差があるので



その間は誰も信じてくれなかったり



大丈夫かなって変な心配されてしまうの



母の場合は目にとっても力があって



いかにも霊感が



宿っているという感じで



話している時にも



顔を見ているようでその奥に見えているものを



見ているのを時々感じるの



母は今から次の展開を感じているようで



ある方の魂が抜けているのを



感じているらしく



父に会いに行くよう諭していたの



人には自分でも気づいていない



能力が誰にでも宿っていて



それを無意識すぎるくらいに



使っているので



あまり感じないかもしれないけれど



毎日小さな選択によって



良い意味で時間のずれなどによって



退屈なほど無事に過ごせているのも



無意識な直感で



行動しているからだと思うの



そして誰もが持っている



徳の種類もあって



ある人は本当に困って



もうだめかもしれないと思った時



誰かに手を差し伸べられ



助けられるという徳を持っていたり



困難な道は避けられなくっても



その事を克服したそのあと



その大変なことと同じくらいの



大きな喜びが



必ず届けられ



努力が報われるという



徳を持っていたり・・・



物事がスムーズな時



つい自分が努力したからだと



思いがちだけれど



悲しい事に努力が



報われる方ばかりではなく



実力以外に運やタイミングなど



自分ではコントロールできないことの



重なりがなければ



果たせない事で



その時の女神が



ほほ笑んでもらえる徳があるからこそ



その様に整ってゆくと思うの



人には自分が気付いていない



能力が必ずあって



無意識にその能力と



徳を生かしているから



同じような毎日を



過ごせているんじゃないかなって



感じているの



能力や徳の場合



時として自分が好んでいない事や



悲観してしまうような事の中に



宿っている事も多く



たとえば社交的ではなく



言葉がスムーズに出てこない



自分が好きになれない方は



無意識に内なる会話が多く



そして言葉で流し



物事が見えなくなってしまう事がないので



よく人の事を分析したり



自分の事も冷静にわかっているので



人を瞬間的に見抜く能力があったり・・・



人は無意識に誰からも愛されたい



好感を持ってもらいたい思いがあって



その事が自分らしさを表現しにくくし



能力を閉じ込めてしまいやすいと



思うのだけれど



必ずしも



みんなに好かれなくっても



いいのだと思うの



なぜならば多くの場合



人が好感を持ったり



良い人と表現される方は



その方の思い通りに行動したり



表現する方をさす表現であって



たとえ人間的に良い方であっても



自分の思うように行動し



表現しない方出会った場合



あまりよい印象は持てないものなのだから



全体的な基準で



表現しているわけではないと思うの



世界には様々な個性があって



色鮮やかに輝き



良いバランスを



保てているんじゃないかなって思うの



そして人から称賛されるような目に見えた



個性や能力がないからといって



個性や能力がないわけではなく



本人も周りも気づいていないだけなんじゃ



ないかなって思うの



言葉では上手に表現できないのだけれど



空気を読み周りに合わせる事に



エネルギーを多く注いでいる行動は



無意識ではあるとは思うのだけれど



個性や能力を



自ら消そうと働きかけているのと



同じだと思うの



空気を読み周りに合わせようとする行動に



努力をしているという事は



別の角度から見つめてみると



本能的に持つ個性や



能力が宿っているのを感じているから



その事に努力が



必要になるんじゃないかなって思うの



本当に個性や



能力が宿っていないのならば



空気を読む事も周りに合わせる事も



自然にできると思うの



多くの方が自分らしく



過ごせる時間を育む事が



出来るようになると



私が感じているのは



もっとそれぞれが持つ



個性や能力で補い合い



様々なものを乗り越えて



行けるような気がするの









年を重ねてきて



よく感じている事なのだけれど



常識をよく語り



正しく生きているはずの方の多くは



なぜだかみんな笑顔が少なく



心身のコンディションが



あまりよくないのを見るたびに



それって本当に



正しい生き方なのかなって



感じる事があるの



私は本が大好きで



毎週のように図書館で



何冊も本を借りて



読んでいるのだけれど



おもしろいもので



図書館になる本は



年代物の本から



最新のものまで揃っていて



同じテーマでも



時代によって



常識と言われている事もまるで違い



でもその本には



それぞれ説得力を生み出す検証結果や



デ―タ―などが載っていて



知れば知るほど



迷いが生まれてしまうと思うの



少しお話は違うのだけれど



私の母が子育てをしていた頃は



母乳が一番



子供にとって良いと言われていて



母乳が出なかった母は



周りからその考えを



正しいものとして表現されるたびに



子供に申し訳ない思いと



周りからの心ない言葉で



肩身の狭い思いをしたそうなのだけれど



それから数年もたつと



今度は母乳よりも



粉ミルクの方が



栄養バランスが優れていて



逆に母乳よりも良いという話や



データ―などが出てきて



ついこの間まで



母乳が出ない母親は・・・と



表現していた人まで



自分が表現していた事を



忘れているかのように



自分の子供に粉ミルクを



飲ませているのを見て



母は人のいう事に



惑わされてはいけない



どんな時も



自分が良いと思った事を



選んでゆこうと思ったそうなの



そして今はまた



母乳が見直されていたり・・・



それ以来



良い意味でもそうじゃない意味でも



母は自分が納得する道を



歩んでいるようなの



確かに人は時によかれと思い



知っている情報を正しいものと信じ



アドバイスとして



伝えてくる事があるけれど



その情報の多くは



深く調べた事ではなく



見出しのように



インパクトのある事だけを覚えていて



あとは自分の知識や考え・想いを重ね



表現してくることも多いから



あまり役立たない事もあると思うの



私自身も最近



少し驚いているというのか



戸惑っている事があって困っているの



年齢を重ねた方たちから



励ましのつもりだとは思うのだけれど



私に子供がいないと知ると



今の時代は



50代でも子供を産めるのだから



子供を生む事を



がんばりなさい的な言葉を



表現される方が



最近多くなってきているのを感じているの



少し前までは



人それぞれの人生だからいいのよと



優しさ溢れた表現をされる方が



多かったので



不思議に思い



テレビなどをあまり見ない私は



ニュースデーターを調べてみると



医学の発達によって



高齢出産も増えていて



その事を伝えられる



コメンテーターたちも



その事を応援されているような



表現が多く



納得したの



もちろん子供を望み



努力を重ねている方たちにとっては



希望になっているのかもしれないので



判断はできないのだけれど



良い意味でもそうではない意味でも



集合意識が働き



その時々の流れや空気感を読み



多数の方へが流れて



いっているであろうと思われる方向へ



流れてゆく国民性を持っているので



その様な流れは



いつの時にもあったように思うの



でも今の時代は



表面的な情報に惑わされない方もいて



その様な方たちからお話を聞くと



社会の動きを知る機会もあるの



私の知り合いに



投資を仕事としている方がいて



その方はある情報が流れるたびに



色々な角度で調べてみると



次の流れを意図的に



誰かが作っているのを感じ



みんなの意識が向かうまでの間



そこへ投資をし



多くの方が意識を向けた頃には



株価が上がり・・・という背景があったり



スポンサーの関係でメディアは



特定の商品に良い印象を持つよう



それに関連したコメントを



されたりするそうなの



国民は長い間



自分を持つ事を



よくない事のように



伝えられてきた事もあって



いつも誰かが表現していた事



誰かが調べた事を



自分のものとして



受け入れてきたように思うの



でもその根拠のない思い込みを



すべて取り払ったならば



本当は誰もが素直で



よい人ばかりだと思うの



常識などはその時・その時代に



多くの方が集まった多数決であって



必ずしも正しいというものではなく



多くの方が何かしらの影響もあって



そう思っているという事でしかなく



また数年も時間が流れてゆくと



真逆の事を



支持していたりするものだとおもうの



そう思うといつでも



その時



ちゃんと自分の中で自分と相談しながら



自分にとって笑顔になれたり



正しいと思える事を



選び取ってゆく事が



大切なんじゃないかなって思うの










人間の体は



日々更新と再生と後退を



繰り返しているそうで



使わない神経細胞は後退し



その時々必要に応じて



使用している神経細胞は



次々とシナプスを生み出し



その部分が向上してゆくそうなの



脳の中の配置の中で



悩みや不安を受け取る位置と



運動などで身体を動かしている事を



受け取る位置が



隣同志という事もあって



身体を動かすと



その部分の神経細胞が



強く働く事もあって



不安や悩みが軽減されたり



心の部分では



楽しい事を考えると真逆の事が



考えられなくなるという



作用もあるようなの



それはすべて神経細胞が



脳へ信号を送る時には



一番はっきりと感じるものしか



送る事が出来ないからだそうなの



その事を知った私は



よく病院で注射などをする時



見えないように



太ももに強い圧力と痛みを自ら作り



その方向へ意識が向かうようにし



注射を受けるようにしているの



そうすると神経細胞が



太ももに集中しているので



痛みがやわらぎ



我慢が出来るの



それは心や記憶でも同じなようで



どんなに次日が流れた記憶であっても



悲しい記憶や思いだしたくないような



記憶であっても



今すぐにリアルに思いだしてみたならば



心までその頃の感情がよみがえり



身体にも



様々な影響を感じられると



思うの



それはきっとその頃



体験した記憶と共に



心や体で感じた



すべてのものと一緒に重ねて



深い部分に納めているからだと思うの



そしてその過去の記憶を



何度も思い出してしまうと



使わずに退化していたシナプスが蘇り



再び終わったはずの事なのに



まるでつい最近のように



体感してしまうのだと思うの



そしてそれに伴って



今現在特に問題があるわけでもないのに



今現在の心と結び付いて



その頃のような状況を



無意識に再現してしまう事もあるんじゃ



ないかなって感じていたの



その逆もあって



今現在あまりよい状態ではなかったとしても



自分の人生の中で



もっとも楽しかったと思える記憶を



思い出してみると



初めは懐かしさだけなのに



その事を思い出し



話している自分が笑顔になっている事に



気づかされる事があると思うの



そのあとにはなぜか



晴れやかな気持ちになっていて



現状があまりスムースに



なっていなかったとしても



自分なりに納得できる意味を見つけられたり



流れに乗るような形で



「どうにかなるさ」って



いったん・不安や悩みを断ち切る事が



出来るようになると思うの



人間が誰でも



持つ個性を知る事によって



良い意味で



自分を幸せに導いてあげる事が



出来るように思うの



そして人間は誰しもが



幸せに包まれたいと思っていて



たとえ今現在怒りや



不満を表現している人でさえ



笑う機会を



待っていたりするものだと思うの



それは笑う事で



心身の治療ができる事を



本能的に知っているから・・・



この間がんばりやの



知り合いがいつもにように



日頃のフラストレーションを



手放すくせとして



誰かの快くない話になったのだけれど



いつもの私は



ただ聞いて時にはよくわからないのに



「そうかもしれないね」と



話しの流れをこわさないように



過ごしていたり



時には正論から



「自分たちにも



そういう所があるんじゃない」と表現し



帰る時にあると



相手も私も言葉では



表現できない疲労感があって



何のために時間を



過ごしていたのだろうと感じる事が



よくあったので



今日は違う形で勉強してみようと思い



相手の話を



いつものように聞いていたの



知り合いはいつものように



相手の生活・振る舞いetc・・・



様々な事を表現していて



その時私は少し笑いながら



「よく見てるね~(笑)すごい観察力だね



調査員とか探偵の仕事したら



絶対にトップになれるのに~(笑)」と



表現していると



相手初めは



自分の持っている波動のまま



話を続けようとしても



その笑いの波動で気がつくと



「何それ~私って子供のころから



そういうとこあったんだよね



知りたがりで」と



楽しい記憶の方に移行してゆき



ターゲットとしていた人の事を忘れ



自分の幼かった話になって



よく近所に人を観察していた事や



最終的には



TVを見ながら最近感じていた



不満についての話に流れてゆき



「あの人嫌いとかいいながら



私もその人の事良く知ってるよね



それだけ見てるってことかもね



そう思うと



芸能人って嫌われていても



私みたいのがいる限り



仕事になるんだね(爆笑)」と



自ら私を笑わせてくれる



会話へと繋がっていったの



人間の神経細胞は強く



働く事の信号を一つしか



送れない事もあって



悩みながら楽しい気持ちになれないように



どちらかしか感じる事が出来ないのならば



誰でも楽しい方が良いはずなのだから



あとは気持ちの切り替えを



できるだけ早くできるようになれたならば



いつも幸せなんじゃないかなって



感じていたの


あらゆるものは



考える時間が長いからといって



必ずしも良い答えが



生み出せるものではなく



たとえば



最近では経済学者という



経済のスペシャリストでさえ



思うようにならず驚きと



落胆に包まれている方も多いのだから



それだけ一つの事を学び考えてきた人でも



思ったようにはならないのだから



人生は計算式通りには



ならないものだと思うの



話は違うのだけれど



最近遺伝ばかりが病と



繋がるわけではない環境に暮らす私たちは



遺伝とは関係なく病を体験されている方と



出会う機会も多いと思うのだけれど



私の周りにもがんになった方が二人いて



一人はとってもおとなしくおだやかで



笑ったり話しているのを



見た事がないような方で



もう一人はいつもイライラしていて



細かい事に気がつくせいか



その思いを人に押し付けて



過ごされていた方がいたの



もちろんどちらも



心は優しく良い人ではあるのだけれど



同じような時期に病になり



同じ時期に手術や



治療などをしてたんだけれど



その頃から



おとなしくおだやかだった方は



驚くほどの変化をしていたの



数年ぶりになったのだけれど



特に意味のない事でも



声を出して笑い



笑顔でとっても楽しそうだったの



その変化に驚いた私は



近くによって尋ねてみると



「いろんな本を読んだら笑う事が免疫をあげて



病気を治すって書いてあったから



そういう努力をしている最中なんだ」って



教えてくれたの



その事によってその方自身



初めはその違和感ある努力に



疲れたらしいのだけれど



それが習慣化してゆくと



意味もなく楽しい気分になってゆき



よく出かけるようになったり



人と会う事が楽しく



感じられるようになって



昔の自分がうそのように



感じているそうなの



そうしてもう一人の



いつもイライラしていた方は



悲しい事に



一足先に天国へと旅立ってしまったの



その方の場合は



元気だった自分に自信があったのに



やはり病という事が大きな落胆と不安を生み



元々の細かい事にまで



気がつく性格が重なり



精神的に辛かったようなの



そして周りが気分転換できたらと思い



様々な楽しい事を手渡しても



素直に受け取る事が出来ず



だんだんと人に会う事も



少なくなっていったそうなの



その事を知った時



もちろん人に



授けられた寿命というものもあるので



決めつける事は出来ないけれど



心の作用が大きく



働いていたんじゃないかなって



感じていたの



よく同じ出来事であっても



楽観視できる方は



医学的にも治りが早いと



伝えられているので



改めて気持ちって



大切だなって感じていたの



数年前知り合った女医の方と



よく時間を作っていただき



話す機会が与えられた時



痛みどめをあまり飲まない方が



良いのではないかと思った私が



お薬について



質問した事があるのだけれど



その時その方は



痛みを我慢する事でストレスがかかり



別の部分にも負担がかかり



痛みが広がってくるような事を



表現していて



確かに痛みをが何する事で



現実的に何もできなくなったり



人と話す時にも



おだやかではいられない事もあって



その方との関係で後にまで残る



表現をしてしむ事もあるだろうし



身体の事でも



初めはピンポイントで



痛みを感じていたはずなのに



どこが痛いのか



わからないほど痛みが広がり



気がつくとまるで関係のない足までも



神経の関係なのか



痛みが広がってゆくのを感じ



それ以来きちんと



痛み止めを使うようになったの



でもある本などには



痛み止めの使用は



胃潰瘍に繋がるので



あまりよくないと書かれていたり・・・



ただ私の場合は



1カ月に二日間くらいなので



私は女医さんの意見を受け入れたの



それからは



今まで毎月来る



痛みの恐怖に包まれる事なく



前向きに



これからの事を考えられるようになったの



その時も



神経細胞は



その痛みの強い信号を脳に伝え



その痛みに反応するように



悲観的にしか



物事をうけとめられなくなったりして



どんなに周りや



あたたかく大きな愛情を注いでくれても



「どうせ人事だもんね」とか



「あなたには私の苦しみはわからない」と



自分だけが



世界中で一番



つらく悲しいと思い込むほどだったの



でも痛みの信号を止める事によって



いつもの自分がまた目覚め



ちょっと無理しそうなぐらいに元気になって



そうなると



よいヴィジョンばかりが浮かび



毎日何気ない事に



奇跡的な感情が生まれ



感謝が溢れるようになってゆくの



私が感じている感覚なのだけれど



人は食事や入浴をしている時って



心も体もほぐれてゆくせいなのか



イライラや不安と



きりはなされ過ごせると思うの



悩みや不安を受け取る位置と



運動などで身体を動かしている事を



受け取る位置が



隣同志という事もあって



身体を動かすと不安や



悩みが軽減されたりするのは



血流も関係していて



不安やイライラなどについて



心が向いている時って



不思議と手足の先が冷たく



あたたかい時ではないように



感じているの



気分が沈んでいる時に



身体を動かす気持ちには



なかなかなれないものだと思うので



心が晴れやかになれない時には



手足をあたためてから考えたりするのも



よいんじゃないかなって



感じているの



私たち人間は



魂の一時的な乗り物として



この肉体を与えられ



その肉体と魂が連動しながら



様々な事を成し遂げてゆけるよう



この地球に存在しているのだから



頭で学ぶことも大切だけれど



魂の乗り物としての



肉体の個性を知る事も



この世に持ち込んでいた



様々な使命を果たすのには



大切なんじゃないかなって



感じていたの







どんなに頭で理解し



様々な知恵を知っていても



他者が自分らしく自由でいる事を許したり



それと同じくらいに



自分自身が



ありのままの自分でいる事を許す事は



本当に難しい事なんじゃないかなって



感じているの



あり方は正義感と言う形で



人の行動や発言を



抑えつけてしまったり



人によっては



穏やかな形で誰でもが秘めている



罪悪感に働きかけて



自由に選び取る事をさせなかったり・・・



このような表現をしてしまう時



瞬間的には



主導権が自分にもたらされたように



感じる事があるけれど



時間が流れてゆくと今度は



自分が表現した



行動や発言によって



自分自身の自由を



奪ってしまってゆくように感じているの



誰でも脳の中では



すべての事を統一し



自分と重ねてゆく



作業が行われるので



自分が他者に表現した



言葉や行動を



自分の価値観として



受け入れているのと同じなので



今度は自分がその行動や言葉に



制限されてゆくような



気がするの



何かに対して評論する時なども



「あんなふうになるのはみじめよね」とか



「あの人は本当に



人に気持ちのわからない人だよね」など



何気なく表現している



言葉であっても



その言葉が無意識に



自分の行動や言葉に制限を



作るようになると思うの



無意識に心のどこかで



自分はこう言ってしまったのだから



ちゃんとしなければって・・・



そしてもしも



自分が表現した言葉や



行動と違う事をしてしまった時には



無意識の意識が自然に働いて



相手にも自分にもいいわけを表現したり・・・



その様な事を重ねていると



そんな自分を愛せなくなって



他者にありのままの自分を



表現する事を怖れるように



なるんじゃないかなって



感じているの



私自身数年前の驚くほどの



波動が高かった頃は



他者からの評価を怖れる事なく



相手がどのように自分を評価しようとも



その自由を許し



それと共に自分がありのままの姿で



この地球に存在している事が嬉しくって



幸せを感じていたのだけれど



病と言う最も



人間らしい次元まで下がった時



初めて人間らしい感情を体験し



言葉では表現できない



複雑な感情を体験したの



たとえば友人などから



愛されたい思いと



ありのままの自分では



受け入れてもらえないと思う気持ちから



必要以上に無理をして



思いやりから嘘をたくさんついたり



相手が自分の思うように



周りを操作しているのを



そのまま受け入れたりしてゆくうちに



自分の存在もそして相手の存在も



愛する事が出来なくなったの



相手の人は正義感と



常識という盾によって



他者をコントロールしようと



無意識にしてしまう方だったのだけれど



今思うとその方自身が一番



自分らしく過ごせて



いなかったんじゃないかなって



感じているの



本当はとてもおおらかで



小さな事を気にしない



人だったと思うのだけれど



姉妹間や親との間で



「あんたは何も知らないんだね



だからこうなるのよ」と



よく表現されているのを見て



きっとそれから自分を守るために



非の打ちどころがないような



表現をするようになったように思うの



そしてその様に



自分の実を守る事が普通になった頃



自分を守るために囲った柵から



自分が出られなくなってしまったように思うの



私も形は違うけれど



ありのままの自分を



受け入れてもらえないのではないかという



怖れを持っていて



お互いが違う形でガードし



そのガードした柵から



出られなくなっていたように思うの



少し話は違うのだけれど



私の母は私が幼いころは



とってもまじめに



母親として子育てをしようとしていて



その思いがやがて



自分の思い通りに



すべてを納めないと納得できなくなり



ある時には



怒りで子供たちに



恐怖という形で支配したり



ある時には罪悪感という感情で



子供の心を操作していたのだけれど



私が中学生の時



母の中では受け入れがたいくらい



私がある意味で自己の目覚めによって



アウトロー的な歩みを初め



誰の言葉も聞き入れず



時には自分が選択した友人によって



法的に問題がある事に



巻き込まれてしまったりする私に



絶望と自分自身を責める毎日で



何かを悟ったようで



それ以来



心広くどんな生き方の方を見ても



その人の事を



評論したりはしなくなったの



それから母の周りには



人がよく集まるようになり



時には母の知り合いが



「何であんな人と付き合うの?」と



伝えてきても



「あの人はあの人でそれで精一杯なんだから



私たちがとやかく言う事は



ないんだって」と返したり



ある方が誰かを見て



「あの人は恩知らずだよね」と表現すると



母は



「恩は感じていて返したいと思っていても



返せない時もあるんじゃない



それにいつまで



恩を返していかなければ



ならないんだろうね



その人にも



人生があるんだから」と表現するの



たぶんその言葉は



母が自分自身に伝えている



言葉のように感じているの



母も私のせいで



たくさん恥ずかしい思いもし



周りからも様々に言われてきたと思うの



その時



言われる人の気持ちを知ったり



それと同時に



その頃の自分自身を



無意識に癒しているんじゃ



ないかなって感じているの



そうする事で



自分自身をありのままに自由にいる事を許し



その思いがやがて



他者がそのままの自分らしくいる事も許す



流れを辿りついたんじゃないかなって



感じているの



なので今では何も恐れず



その場の空気が



どんなものであったとしても



自分が感じている正しい事を



表現しているの



その姿にふれて



すべてはまず



自分から始まってゆくのであって



自分を許し愛せないのに



相手を許し愛したふりをしても



それは一時的なもので



本当の意味での愛とは



遠いものだと感じたの



何となく他者の自由を許してしまうと



自分が主導権を持てず



無意識な敗北感に包まれたり



都合よく



コントロールされてしまうのではないかと



考えがちだけれど



そのような行動に移る前に



ほとんどの場合



もう自分自身が



ありのままでいる事を許し



そんな自分を愛せているから



相手にも同じような許しと



自由を与えられる



気持ちになっているので



その時になったならば



ユーモアのあるよい言葉や



行動が思いついたり



縁がないか持って思えば



今までのように



自分の思いを表現せずに



受け入れてもらう事に



意味のないな努力をせずに



その関係を卒業する



勇気は持っていると思うの



子供がいつもエネルギーが溢れ



前向きなのは



いつでもありのままの姿で



いるからだと思うの



幼子は自分らしくいる事が当たり前で



何もののマネもまだできないから



その姿が美しく



輝いて映るんじゃないかなって



感じているの



大人になっても誰でも



損得もな利害もなく



ただ自分が好きな事を



している時には



時間を忘れ輝く瞳で



心身のコンディションもよく



自然に良い表情や表現が



溢れていると思うの



でも大人になって



義務から与えられた



時間が長くなると



自分の人生が



自分で思うようにできない不平不満が



正当だと受け止められる形で



発散する機会を作り



そのターゲットとなった方は



エネルギーを奪われ



今度はそのエネルギーを



奪われた方は



奪われたエネルギーを



誰かから取り戻そうと



様々な形で誰かを支配したり・・・



その様な流れで社会の中では



意味があるようでないような



権力からの説得と



その事をどうにか正当化し納得させ



心を支配するという形で



溢れていると思うの



でもそのすべての始まりは



自分がそのままの自分を



受け入れられない



自分のすべてを許せていない事から



始まっているように感じているの



周りの評価よりも本当は



自分が自分に一番厳しく



様々な事に存在する理想的な自分に



今の自分を重ね



許せない厳しいジャッジを



繰り返している方も



多いように感じているの



私の友人の中には



ふくよかな方を見るたびに



とても強く否定するのだけれど



その自分が表現する言葉によって



自分にも制限が作られたのか



久しぶりに会うと



スマートになっていたのだけれど



何か情緒が不安定なのを感じ



どうしたのだろうと思っていた時



ふっと手を見つめると



人差し指の付け根あたりにたこができていて



そのたこが



すぐに吐きだこというものである事を



感じたの



とてもその事は



心配になったのだけれど



尋ねたところで



本当の事を伝えてくれるとは



思えなかった私は



遠まわしに



自分の病の事と重ねながら



健康の大切さを会うたびに語り



時には



堅実的な友人には



効き目があるかもと思い



病になったならば



どれだけの経済があっても



一瞬にしてすぐに大変になってしまうと



少しおどかしてみたの(笑)



そうしてゆくうちに手を見つめてみると



吐きだこは薄ってきていて



食事中におトイレに行く事もなくなったの



人はだれでも



相手に表現している言葉が



自分の耳から脳に伝わり



自分が聞いているという事を



意識しながら



表現しないと



その言葉によって



自分が自分らしくいる事を



許し愛する事を



難しくしてしまうんじゃないかなって



感じているの




相手にダメージを



与えようと表現した言葉も



相手をコントロールしようと



言葉にした事も



すべて自分に与えてしまうのだから・・・



だからこそ周りにも自分にも



そのままの姿を許す



優しさや愛情が



大切なんじゃないかなって



感じているの











人生って不思議なもので



自分の意思で選びとったものだけで



成長するだけではなく



その時々



偶然のように与えられたものを



一生懸命に消化するために



働きかけていただけで



後になってみると



何かのきっかけでその体験から得た事が



人の役に立つ情報を



手渡す事が出来ていたり・・・



そして無意識に



成長をさせてくれていたり・・・



人はそれぞれに



自分にとって



未知なる体験をしているもので



その時は



自分だけの体験に



すぎないかもしれないけれど



その体験が意味をなす時が必ず訪れて



人生すべての体験は意味のあるもので



必然的に与えられている事に



気がつかれる方もいると思うの



私自身11月7日に



手術を受ける事になり



その準備のために採血など



初めての事が



いくつもあって不安と共に



決心した事に納得するために



心の調整をしているのだけれど



そのたびに



手術や入院体験を多くの方が語ってくれて



ありがたい事に



私の不安を和らげてくれる表現が多く



あとはその後の



シュミレーションなどをして



過ごしているの



予測ができる心が揺れる場面を想定し



心に予防線を張りながら



後悔しないよう



何度も何度も繰り返しているの



そのせいなのか夢にまで



リアルに二つの選択を迫られ



時には幼子を抱く白い光が



「本当に後悔しないのですね」と



何度も現れ



そのたびに目が覚め



本能と現実の中で



自分が思っている以上に



考えているのかなって



感じているの



言葉では



上手に表現できないのだけれど



現実的に将来


今と変わらずこのままであったとしても



それは可能性を持ったまま



そのようになったという



時の流れなので



現実を悲しむ事も



迷う事も特にないとは思うのだけれど



人生の中で



可能性が0%となった出来事が



恵まれていたのか



今まで体験がなく・・・といっても



冷静に見つめたならば



可能性がない事でも



自分が行動しないだけで



やればできるのよって



自分の人生をすべて肯定し



正当化できる気持ちがあっただけで



本当は可能性0%の事も



あるとは思うのだけれど



はっきりとスタンダードな人生の選択肢が



一つ消えてしまう事に



戸惑いがあるんじゃないかなって



感じているの



そう思うと改めて



自分はおめでたい



性格だったんだなって



感じる事があるの



今は医療の発達によって



形にこだわらなければ



たとえ子宮がなくっても



何歳になっても



母親になれる時代ではあるけれど



私自身はトライするつもりはないの



ただ言葉では



上手に表現できないのだけれど



すべての事に



可能性0%体験がないと思い



過ごしてきた事もあって



その事で



辛く感じたり不安や



後悔を広げてしまうのであれば



現実には行わないと思う事でも



その事を選択肢としてある事を



思い過ごすだけでも



気が楽になるのであれば



それはそれでよいかなって思うの



友人にその様な話をした時に



友人は独身で



結婚したい気持ちは



持っていないそうなのだけれど



一人で生きてゆかなければって



思ってしまうと



急に不安や恐怖に



押しつぶされそうになるけれど



結婚しようと思えば



いつでもできると思っているだけで



気が楽になり



でもきっと



一人で生きてゆくだろうとわかっていても



選択肢があるだけで



今を楽しんで生きられると伝えてくれて



形は違うけれど



その共感が嬉しかったの



そして改めて選択肢があるからこそ



悩める余裕がある幸せに



ありがたく感じているの



これから初めての体験が次々と



目の前に運ばれてくるけれど



私のこの体験がいつの日か



誰かの心を癒し



力としてゆけるかもって思うだけで



この体験はただ悲しみや不安だけが



与えられる体験ではなく



意味のある素晴らしい体験と



なってくれると思うの



過去の様々な体験がそうなったように・・・



私には命のバトンを手渡す存在を



宿す事はできないけれど



出会うすべての子供を自分の子どもと思えば



様々な場面で補助として



関わりあう事も出来るんじゃないかなって



感じているの



今回は毎月訪れる生理の痛みも



あと1回と思うだけで



嬉しくって



迷いや不安はあるものの



やっぱりこの痛みからの



解放を待ち望んでいる



自分にも気づかされているの



今自分が望み選択した事が将来に



どんな影響をもたらしたとしても



今この瞬間望んでいる事に素直に



選択した自分を忘れることなく



これでよかったんだって



思えるようになるためには



これからの生き方過ごし方が



大切なんじゃないかなって



感じているの








神様は



時々いつもと違う形で



様々な事に



気づかせてくれる機会が



あるように感じているの



つい数日前生まれて初めて



足に大きなやけどを体験して



二日間くらい歩く事も制限され



その傷跡を見るたびに



泣きそうになっていたの



でも表現は少しおかしいのだけれど



そのおかげといっては



なんなのだけれど



その事に意識が集中している事で



良い意味で何も考えられず



数日後には



何となく頭の中が整理されて



すっきりしているのを感じたの



自分では無意識なのだけれど



きっと毎日手術の事やその後の事などで



きっといっぱいでそのため夢にでも



何度もシュミレーションが



行われるくらいなのだから・・・



そして不思議なのは



以前は右側ばかりが



様々な痛みを持ってて



身体のサインが右側に



感じていたのだけれど



レイキ的なものを感じる事のできる



整体の先生に相談したら



私が感じているものとは真逆で



本当は左に問題が多く



その部分を補うために



右側に反応が出ていて



その補っている事をで感じる痛みを



右側が感じていると



伝えられた事があったの



そして本当の問題は左にあるのだけれど



良い状態からそうではない状態が



慢性的になっていると



痛みなどを



感じなくなっているような事を



以前伝えられていたの



今年はなぜだか



左ばかりに様々な事が多く



年齢の事もあるのだけれど



左肩から痛みがあって



腕が上がらなくなったり



今回のやけども左側で・・・



その事が意味している事を瞑想の中で



伝えてもらおうと瞑想してみると



今まで自分の意識で



頑張って張りつめていた気持ちが



手術という形の解放を前に



「もうがんばらなくっていいんだ」って



思いが



張りつめていた思いを手放し



身体が素直に表現した形だと



伝えられたの



そして神様は時として



人間には理解できない形で



運の調整を行っていて



これから受け取る幸せが大きい事を



伝えてくれたの



そのために



今までの器のようなものが形をなくし



新たな大きさの器を



作らなければならず



その事を人間から見ると



苦痛や苦労と



感じているそうなの



そう思うと



一見神様に見放されたのかなって



思うような出来事を体験した後



時間が経過すると



今までには感じられない



幸せが増えていたり・・・



人間は穏やか過ぎる



時間を過ごしていると



それがすべて



当たり前として感じていて



時には退屈だと



不満さえ表現してしまう事があるけれど



その当たり前の事やものが



当たり前ではなくなった時



初めて人から見つめると



小さな何気ない事であっても



幸せを感じられる心の豊かさが



育まれる事があるんじゃないかなって



感じているの



今回私は日頃足を運ぶ機会がない



皮膚科に足を運び



驚くほど皮膚の事で悩まれている方が



こんなにも多い事を知って



考えさせられたの



私はありがたい事に



会う方あう方に年齢がわかると



必ずお肌の事を褒められるのだけれど



そのたび私にとっては



当たり前にいつも手渡される言葉なので



心のコンディションが



あまりよくない時には



心の中で



他に褒めるところがないから



褒めてくださっているのかなって



思う事もあったのだけれど



今回足に赤く深く



痕があるのを見つめるたびに



とても気になって



お医者様に相談したら



「お肌がきれだから足でも気になるわよね」って



何気なく伝えられた言葉で



私が当たり前のように思っていた事も



そうではなく



与えられた宝物だった事を感じ



DNAで繋がりあう母や祖母たちに



感謝が溢れてきたの



それと同時に



特にお肌が良いからとって



その事に喜びを感じる事は



なかったのだけれど



今与えられた



一見幸福ではない体験のおかげで



足の皮膚が癒されてゆく過程が



喜びと感謝のひとつに



加えられたように感じているの



私が時々感じている事なのだけれど



人から見つめて何もかも満たされ



幸せそうな方ほど



ある意味では不安が溢れ



感謝が生まれにくい事が



多いの



言葉では上手に表現できないのだけれど



すべてが当たり前に



感じているくらい恵まれているのだけれど



その当たり前な退屈から



いつも必要以上に



上のラインを求めている事もあって



周りは



「十分幸せなのでは?」と



思っていても



本人にとっては



そうではない事も多いと思うの



そして真逆のタイプで



様々な事が毎日届けられ



時間に追われ



何でこんなにいろんな事が



あるのっていうくらい



ひとつ終えれば



またひとつという感じで



まるで永遠におだやかな日が



訪れないのではないかと思うくらいの



体験を重ね



ゆっくりしたい・あんな綺麗なものが欲しい・



こんなところで過ごしたいetc・・・



心を満たしたいもので



いっぱいなのだけれど



その様な方はある部分で



望んではいないけれど



このようなライフスタイルが当たり前だと



心身が感じて過ごされているので



その予想と違う形のものが届けられると



どんな些細な小さな幸せであっても



敏感に感じ取り



嬉しさと感謝が育まれる心が



整っているように感じる事があるの



日本に暮らす方は



自分が意識してはいないけれど



本当は恵まれ満たされていて



あらゆるものが



当たり前になっている事で



それ以上の幸せを求めなければ



幸せを感じられないという所に



喜びを感じにくく



しているような気がするの



その事に気づかせてくれるのが



時々手渡される



アンラッキーと感じる事であったり



アクシデントのように感じているの



決して運に見放されたのではなく



さらなる飛躍のために与えられた



気づきの時間と



幸せを納める器の調整時間なんじゃ



ないかなって感じているの



今の時代はポジティブというものが



とても良い事で



それに伴う知恵の中には事実であっても



楽しいと感じた事とは真逆の事を



表現したり・聴く事も



あまりよくない事のように伝えられていて



誰もが幸せ芝居をして過ごす事を



何となく求められている時代のように



感じるのだけれど



その事で人間の歩みに



誰もが体験する事の



気持ちの共有が出来なくなっていて



時にはまるで



自分だけが幸せではないんじゃないかと



思いこんでしまったり



逆に極端に幸せではない方を



メディアで見つめながら



優越感を感じたり



未来の不安を



広げられたりしているように



感じているの



他者はあくまでも



人生にある様々なパターンの歩みを



見せてくれているだけであって



自分が同じ歩みをするとは



限らないし



別の角度から見つめると



みんながこれが幸せですよって



見せてくれているものであっても



それを手にした自分が



笑顔になるとは限らないと思うの



他者や社会はあくまでも



すべての目安であって



これからの未来すべてを



予言するものではないように



感じているの



数年前心身共に



自分が世界中で一番



悲しみに包まれているのではないかと



思いこんでしまうほど



辛い時間を過ごしていた頃



私はよく結婚という一つをクリアすると



挨拶の一つとして



家族計画を尋ねられるたび



将来に備えてアドバイスされたり



時には言葉ではないのだけれど



となく私の事を子供を持てなくって



かわいそうな人という



無言の感情が伝わる方などがいて



その時ありのままに素直に



「私はわがままだし



自分が思うような形や



スタイルにこだわりを持ちずぎているから



結婚しなだろうなって思っていたから



自分を理解してくれる人と



出会えただけでも



幸せだと思っているの」と



答えた事があって



それを聞いた方が急に無言になって



無言の優越感を



持たれていた方の表情が変わり



「そうだよね



初めはみんなそういう気持ちで



相手を見ていたのに



だんだん幸せになっているはずが



期待と欲で次々求めてばかりで



自分が自分で



不幸にしているのかもしれないね



うちの人も



本当はいい人だから結婚したのに・・・



感謝を忘れてはだめだね」って



伝えてくれて



その後ご家族とお買い物中に



偶然会った時には



以前とは違い



その方のパートナーも



子供たちも笑顔だったの



女性が家庭で求められている事って



いっぱいあるけれど



やはり女性は太陽のような存在で



女性が楽しく笑顔で過ごしていると



周りはその光に照らされて



あたたかく安心した気持に



なれると思うの



その方のように



本当は幸せに包まれ過ごしているのに



自分に必要がない



別の世界の輝きを見つめ



気づけない事も多く



その事が今持っている



幸せを見えなくしている事も



あると思うの



私は若いころよく



「退屈だな~なんかいい事がないかな」って



表現するたび父に



「お前は幸せだな



退屈だと感じる時が



人間一番幸せな時なんだ」って



伝えられていて



年々その言葉の意味が



わかってきた気がするの





人はみんな誰でも



形は違うけれど



今よりも幸せになりたいと願い



時には無理をして頑張って



時を過ごしていると思うの



でも時々



息切れをするそんな時



同じ同性の人と比べ



お互いに不足しているもので



優越感を感じたり



敗北感を感じたりしてしまう事って



あると思うの



女性の場合は



どうしても小さな社会で



過ごしている事もあって



目安となるパターンが少なく



どうしても



同じような時間の



過ごし方の方との出会いが多く



その事もあって



似たようなライフスタイルだからこそ



無意識に比べてしまう事が



あると思うの



子育て中の方だと



ある方は



両親などのサポートがあって



比較的自由に



経済的にも負担が少ない方もいたり



逆にお里が遠く



両親のサポートを受けられなく



自分で頑張って



毎日を送っている方



そして子供の育てたい



価値観も様々で・・・



その時期を過ぎると今度は



女性個人としての比較が始まり



年齢の割には綺麗・若いとか



仕事をしている・していないなど・・・



女性の場合は



永遠にその様な感覚に包まれる事が



あるんじゃないかなって



感じているの



それは女性特有の



美意識や



向上心から来るものだと思うの



人と比べる時



多くの場合は



心地よくなる事は少なく感じるのは



女性は前向きで



自分よりも



下に感じるクラスの方よりも



上の方のクラスを



見つめてしまうからだと思うの



でもその上のクラスと



思われている方にも



多くの問題があり



逆に下に映るクラスの方を見つめて



心からうらやましく感じている方も



本当は多いように



感じているの



結局女性は良い意味でも



そうではない意味でも



欲張りで



完璧に整う事はないと



わかっていても



それに近づきたい気持ちを



常に持っていて



その厳しさが



人への評価にもつながっているように



感じているの



たとえ自分が果たせなくっても



誰かと自分を重ねて



ここをこうしたら良いのに・・・など



そして人との比較は女性にとって



自分を確かめ



今までの歩みを肯定し



統一する時間でもあるように



感じているの



たとえば自由に恋愛し



仕事も楽しんでいる方がいた時



言葉ではうらやましいわって



表現していても



数時間たつと



今度は違う方と話す時には



「信じられないよね



今はいいけどこれから



大変なんじゃない」と



幸せな結末は許さないというような



表現をされていたり・・・



その多くは自分は



その様に生きてはこなかった



でもそれは正しいと感じたいために



否定しているだけで



特に深い意味を持っていないと



思うの



他にも結婚されている方は



独身の方が



すべての時間



自分のために自由に過ごせる事を



いいよねと表現しながら



また別の時間には



「今はいいけど



将来どうするのかしら」と



心配を表に現しながらも



違う角度から見つめると



私は相手がいるから



将来心配ないのって



自分に無意識に言い聞かせる



機会になっていたり・・・



そのすべては悪気はなく



女性の場合は



出会う人が限られている事もあって



その小さな社会で



自分を整えるために



無意識に生み出した方法のように



感じているの



その感覚は特定された事ばかりではなく



小さな小さな事であっても



無意識に行っている事も多く



なかなかわからないと思うの



なぜなら意識して



悪意を持ってそうしているわけでも



その相手を



嫌いなわけでもないのだから・・・



ただ自分の人生を肯定し



明日を迎えるための儀式に



近い感覚なのだから・・・



自分とまるで違うのならば違う方が



比べる基準がない分



そのような事には



進みにくいとは思うのだけれど



ほんの少しの違いで



そう変わらない人との出会いは



その小さな違いが気になるものなんじゃ



ないかなって感じているの



この間友人から聞いた



お話なのだけれど



友人の友人は今子育て中で



毎日公園で会うママ友達が数人いて



みんな約束したわけではないのだけれど



おやつを持ちより



食べるらしいのだけれど



あるママ友だけは



毎日何も持ってこなく



その事が



友人の友人は気になっているようで



友人に



そのストレスを表現していたようなの



その時友人は



「お菓子ってそんなにしないんでしょ



だったら分けてあげたら



それでいいんじゃないの」と



伝えたようなのだけれど



その方はそういう表現は



求めていなかったらしく



永遠とその人の常識のなさと



様々な想像から



どんどん話が発展してゆき



その人のパートナは



あまりよい仕事ではないのだろうとか



独身の友人にとっては



興味のない話が続き疲れたまま



その疲労を解消するために



その足で私の元にきて教えてくれたの



その時



友人の友人は



確かに間違ってはいないと



思うのだけれど



その事も本人にとって



本当は重要なことではなく



主婦というのは



働いている方とは違い



経済で評価されるという



ストレートなわかりやすい基準がない分



何かの機会に



自分が自分を評価し



肯定してゆかなければ



心身が保てない事もあると思うの



なので誰にでもわかる



正当な理由を語りながら



無意識に



自分を立て直す機会に



なっている事もあると思うの



語っていた友人の友人にとっては



悪口だとは思ってはいないので



その事で



心が晴れてくる事も多いように思うの



同じ女性でも今過ごす場所によって



見える景色が違うので



理解できない事も



多くあるとは思うのだけれど



女性は本来みんな慈悲深く



がんばりやで



瞳には映らないけれど



大きな翼をもって



この世に送る出された存在だと思うの



だからこそ幾億年も続くこの地球に



人間という存在が



生きて行けていると思うの



男尊女卑を語る男性も



社会で女性にはできない事を



成し遂げた男性も



すべて間違いなく



女性から産まれてているのだから・・・



女性が与えた様々なものが



この大きな世界を



包みこんでいるように感じているの



大きな翼をもって



この世に送る出された女性は



本来万能で



脳科学でも証明されているように



様々な事を同時に行えるけれど



男性にはそれはできず



女性は何も存在しない所に



命だけではなく



様々なものを



誕生させられる



素晴らしい能力を秘めていると思うの



時代は移り変わり



動物の社会でもトップが



メスになっていtる群れも多く



その群れになってからは争いが消え



子供たちが争いに巻き込まれる事なく



過ごせるようになっているそうなの



その事を聞いた時ふっと感じたのは



男性には申し訳ないのだけれど



その様に見つめてみると



男性の活躍の場は



与えなければ



自然に生まれるものではない事もあって



ある時



男性社会を作ってあげなければと



思われた方が



今に続く形の社会を作られたんじゃ



ないかなって感じたの



昔ならば



力仕事は



女性にはできない分野ではあったけれど



今は機械の発達もあって



力は不要になり



そうなると



女性が進出できない分野と言うと戦争など



一部の事だけになってしまうように



思うの



少しお話は違うかもしれないけれど



昔は男性が成人するまで育つ事が少なく



その事もあって大切に育てられ



何かあるたび



「男らしくしなさい」「あなたは男なんだから」と



男性が伝えられ続けてきたのも



意識していなければ



もしかすると男性の方が



デリケートなゆえに



心が支えられないからなんじゃ



ないかなって感じていたの



今の社会は



男性が過ごせるスペースを作るために



多くの女性は一羽根・一羽根ずつ



羽根を自ら抜いたり



周りから抜かれて



飛べないようになっているだけで



どんなふうにでも



生きられるのが



女性なんじゃないかなって



感じているの



そして幾つになっても



何でもできるパワーと



何でも受け入れてゆける柔軟性を



ベースに持っているように



感じているの



そして今の時代は



作られた男性社会に



辛いと正直に表現する男性や



女性の優れた部分を



素直に表現される男性も多くなり



昔ならば役割分担が



決められていた事も



そうではなくなり



周りがどのように評価しようとも



幸せは自分たちで



作るものという意識を



持たれている方も多く



おうちの事をお手伝いする男性や



時には収入面を冷静に判断し



社会の批判に打ち勝ち



女性が働き



男性がおうちの事をこなすというサポートで



幸せに過ごされている方もいたり・・・



性別ではなく



向き不向きなど



一人ひとりの個性に合わせて



今ライフスタイルは



広がっていると思うの



これから社会は



男性社会を保つために



女性が社会進出しないでも



よいと思ってくれるために



助成などがあったけれど



この分野も支えられなくなってきていて



いずれはなくなるように



感じているの



今の時代は男性社会を保つために



働きかける余力が少なくなっていて



ゆるやかな形で女性にサポートを



働きかけれいる



時代だと思うの



なので静かに



正しい常識の価値観が



静かに変わっているのを



感じてるの



ある意味で男女が平等になる事もあって



女性だからという事で



保護される制度に



甘んじて過ごされていた方にとっては



大変な時代が訪れると思うの



ただきっかけがあれば



何か始めたいと思っていた方たちにとっては



社会や世界が後押ししてくれるので



今まで感じた事のない



幸せを受け取れるんじゃないかなって



感じているの



私も無意識に



パートナーや社会に



寄りかかりすぎているので



ちゃんと自立したスタイルで



歩んでゆけるよう



努力が必要だなって感じているの