2010年3月




人には様々な能力の形が



備わっていても



自分で気づいていないものや



まだ開花されていないものが



多くあるように感じているの



何となく能力というと透視や予言的なものを



連想してしまうけれど



肉体を通して受け取っている霊感であったり



音を通して受け取っている



霊感などもあると思うの



私の母は誰かがなくなる前には



吐き気や頭痛が続き



その現象がなくなる方を察知するものだと



知っている母は



特定の人物が浮かぶまで



何も考えないようにしていると



ふっとある人物が浮かぶそうなの



音を通して霊感を受け取っている方の中には



空耳かなとか



あまりにも瞬間的な音だったりして



感じたり



一瞬特定の人の声に似た声を聞いたように感じたり・・・



その様な場合は



相手が送っている思いをキャッチしていたり・・・



鼻腔を通して受け取る霊感もあって



急にお香の香りがしたり



お花の甘い香りがしたり



もっと高まるとなつかしい香りが



心繋がりある過去の記憶を



呼び起こしたり・・・


その事で過去の中にあるものの中に



ヒントがある事を



教えてくれていたり・・・



私たち人間は



安全な生活が営めるようになってから



退化したとはいえ



能力が



消えてしまったわけではないので



自分にはどんな形の霊感キャッチ方法が



備わっているのかを



知ることも大切だと思うの



日頃は意識という



今の自分が目覚めていて



あらゆる選択をしているのだけれど



危機的な時や



答えを導き出せないくらいに



パニックになっている時には



思考が停止し



本来自分という存在を支えている魂が



前に出てくるのを感じているの



そういう時には



いつもの自分とは違う行動や



選択をしていたり・・・



でも後にあると



それが良い結果に結び付いていて



それでも何となく不思議な自分は



「なんであんなことしたんだろう」と



考えてしまう事もあると思うの



そして数年前にも



お伝えした事なのだけれど



波動の入れ替わりの時には



意識がゆっくりと低下してゆくので



寝ても寝ても眠い時期が訪れて



そんな時



どこか良くないのかなとか



怠けていてはだめだと



無理をしようとしたりしてしまう事も



あるかもしれないけれど



その様なときは思考が低下しているので



あまる頑張らず



波動入れ替えが整うまで



ゆっくりされる事が大切だと思うの



この波動入れ替えは



通常は2年くらい間隔で



訪れる方が多いのだけれど



最近はとっても速いスピードで



入れ替わりが訪れる方もいて



半年に一回の方もいるみたいなの



良くあることなのだけれど



前向きに自分の人生プランを立てたそばから



披露しているのか



眠ってばかりになったりして



やっぱり私ってダメ人間なのかな・・・と



その繰り返しを経験された方もいると



思うのだけれど



それは前向きに上昇しようとした思いに



魂・肉体をもフィットさせるために



波動を入れ替えしなければならず



意欲とは別に



ほかのものがついてこないのは



本当は不思議な事ではないのだから



自分を責めてしまったりせず



波動が上昇してゆくのが整うのを



楽しんでいればいいんじゃないかなって



感じているの



医学的には人間の肉体の細胞は



数か月で入れ替わるけれど



私たち自身は



ゆっくりと入れ替わっているので



時に変化を感じないけれど



1年跡になれば



すべて新たなものになっているのを考えると



私たちの心も魂も



ゆっくりではあるけれど



様々な学びに合わせて



波動を入れ替えて



今立っている場所にふさわしいものにしてくれて



いるんじゃないかなって思うの









人はだれでも



過去のたくさんの経験から



刻んでしまった怖れというものを秘めて



いるんじゃないかなって



感じているの



そしてその多くは



もう二度と自分を傷つけないための



防衛本能として



日々無意識に



表現されていると思うの



でも時には過剰反応していて



本当の真実が見えなくしてしまっていたり・・・



私の知り合いがこの間



親友として何十年もつきあいをしている方と



何気なく話している時に



「あなたは何もできないから



ご主人がなくなったらとうするの?」と



尋ねられたそうなの



その言葉を受け取って



私の知り合いは



何か大きなショックを受けたようで



心静めるために



私に電話をくれたようだったの



私は少し無神経な部分があるので



彼女がなぜその何気ない言葉に



大きなショックをういけたのかが



あまり分からなかったのだけれど



彼女がショックだったのは



その言葉に秘められた思いを



感じ取ったからだったようなの



私の知り合いはその親友とは



本当に心深く繋がり



自分の姉妹や両親よりも



信頼を持っていたようで



親友が何か困っている時には



手助けできる事はしていたりしていたり・・・



話を聞いていると



その親友は今ご主人が入院中で



いつ命が終わりを迎えるかわからない状態だったそうで



入院中は何かと大変なのではないかと思い



子供のいない私の知り合いが



お子さんを預かっていたりと



家族のように過ごしていたようなの



私はそこまでお話を聞いた時



単純にその方の今怖れている事を



少しでも自分で軽くするために



良いかどうかは別にして



無意識に辛いのは自分だけではなく



リスクはみんな同じようにあるという方向で



心を軽くしているのではないかと


感じそう伝えたの


そうするとその知り合いも初めは



自分が大変だからかなって



思っていたのだけれど



必要以上に不安をあおり



共にその辛さを共有しなければ



話が終わらない空気になっていたようで



どうしても共有したくなかった知り合いは



別の話題に変えようとした時



急に「あなたのところはいいわよね」と



今までの過去の出来事の



話になっていたようなの



知り合いは大好きな親友だからこそ



ショックも大きく



近すぎて見えない中で



私に愛の導きを



待っているように感じたの



私自身



数年前に心身のダメージを整える事に



いっぱい・いっぱいで



そんな時パートナーが浮気をして



あまりのショックに



無意識に友人に



「私のパートナーほどまじめな人はいないと



思っていたのに



こんな事があると



世界中の男性も



同じ事をしているように感じちゃう」というような



表現をした事があり



後になって友人たちが



自分の夫婦間の事を



不安に思い




「うちは大丈夫かな」など



尋ねてくる人もいたり・・・



「あんな事をいうと友達なくすよ」と



アドバイスを受けたのだけれど



私自身はそんなつもりで表現したのではなく



あまりのショックに



その様な感覚だと



表現しただけだったのだけれど



嫌な思いをさせた友人には



反省と共に



逆に私の心の痛みを



ほんの少しでもわかってくれるかなって



思っていた私には



違う形でショックが重なり



その友人たちとは



時間と共に疎遠になった経験があったので



その事を知り合いに伝え



そして人間が誰かを



うらやましいと思う気持ち



妬みなどは



誰にでもあって



幸せな時には



その思いは深い部分に収められているけれど



本当につらくなってしまった時には



抑えられない場所まで



上がってきてしまうものだと思うの



そしてそんな醜い認めたくない思いに



さらに苦しんでいるのは




その人なのだから




そういう時には




幸せなほうが許してあげなければ




ならないんじゃないかなって伝えたの




そうしたら知り合いは泣きだし




「私だっていろいろ大変な事があるのに・・・」と




言葉が返ってきたの




それで何となく納得したのは




どちらかが本当に幸せな心の状態ならば




相手の気持ちを納めるだけのスペースを




作ってあげられるけれど




心の深い場所で




いっぱい・いっぱいだと




ちょっとしたきっかけで



溢れ出てしまうものだと思うの




なので今回の出来事から感じたのは




私の知り合いは




自分もいっぱい・いっぱいだった中で




精一杯色々と手助けをし



ありがとうという感謝限定のものしか




納められないスペースしか残っていなく




それ以外の大きなものが



与えられた事に



今までのものが溢れ出てしまったのかなって



感じていたの



誰にでもその様な事は




人生の節目節目に



まるで自分の心の成長テストのように



与えられる体験なんじゃ



ないかなって



感じているの















日本では自己責任と表現しながら



連帯責任というものもあって



いつの時も



自分を責めてしまう事があるのだけれど



私自身



数年前ピークに心身のダメージによって



「生まれてこなければよかった」とさえ



思う事が続いた時



初めて両親に



本当の気持ちをぶつけた事があったの



私自身そんなに良い子ではなかったので



何でも表現しているように



両親には映っていたとは思うのだけれど



私自身は



こうしたいというものがいつもあって



でも間接的に



両親の状態などを見つめ



まるで自分で選択してきたように答えを出してきたの



それはきっと



私は両親から



必要以上に愛を確信し



過ごしていたかったからだと思うの



でも結婚し



次は孫を望んでいたのだけれど



私の体調が



その様には整わず



治療によっての副作用などで



心までダメージを受けている中



ちょうど弟夫婦に待望の天使からの予約が入り



そんな時母に



「あ~よかったあんたが先に子供出来ていたら



お嫁さんに気を使うから



あんたに子供がいなくってよかった」と表現したの



その時母は



当たり前に次は



私に天使の予約が入るものと思い



軽い気持ちで



表現しただけだったのに



急に私の中で日々溢れそうになる思いを



抑えていたものが



すべて溢れてしまったの



もう戻らない過去の亊から



今に至るまでのすべてを・・・



人のせいにする事は



良い事だとは思わないけれど



その時は



そうしなければ生きてゆけないほど



辛かったのかなって今は感じているの



幼い時ずっと仕事と遊びで家ないいない両親を責め



最終的には



このような病は母と同じ病だという事は



母の責任なのに・・・と



大声で泣きながら両親に訴えていたの



母も途中で鳴きながら



自分を責めていたの



このような事が何も解決してはくれない事を



知っていた私でも



抑えられなかったの



でも正しいかどうかは別にして



その日以来



私の中で心に風が通る空間が作られた気がしているの



そして両親は両親で



何か話し合ったみたいで



何かあるごとに



「どんなに遠くに行っても



会えなくなっても



生きていてくえれたらそれだけでいいんだか」と



胸がいっぱいになるくらい



あたたかい言葉を手渡してくれるの



日本人の良さでもあり



そうではない部分でもある



言わなくってもわかるという想いも



時には言葉にしてみなければ



しっかりと



心深くまで届かない事もあると思うの



そして私の場合は



何より相手が私を誤解していたというよりは



私が演じてい性格を



そのままそうだと思っていただけで



誤解させていた私に責任はあったと思うの



私はこの経験の中で



初めは自分を責めていて



そのあと人のせいにしてみたけれど



その結果



自分の人生は幼子ではないかぎり



自分で選択して



歩んでゆくしかないのだから



誰のせいでもないんだなって感じたの











私の中で



心の波動を高く保ってくれ



導いてくれると思っている



行いがあって



ひとつは感謝する亊



そして自分以外の人の幸せを願う事なの



感謝は数年前にも



お伝えさせていただいたように



眠る前にベットの中で



一日を思い出し



感謝できる事を探し



「ありがとう」と心の中で唱え



指で数えてゆくの



私の中では感謝できる事が



多ければ多いほど良いと感じているので



一日を振り返っても



もう感謝する事が見つからなくなると



今度は自分の腕をさすり



「今日は本を支えめくってくれてありがとう」とか



「重たい荷物を持ってくれてありがとう」など



身体的なものに対して



感謝を唱えているの



そしてさらに高度な



分以外の人の幸せを願うという行いも



初めは身近な方を思い出し



その人が望む幸せの形を願うのだけれど



それも思いつかなくなると



道を歩いていた時



偶然瞳に映る方を見つめ



「あの方が今日一日楽しい思いで過ごせますように」とか



「あの方が家族と笑いあい過ごせますように」など



様々な形で



数を重ねているの



そうした行いをしていると



時には



何かを感じて振り返られる方もいたりして



思いがちゃんと届いているのを感じると



とっても嬉しい気持ちになるの



私は心の力をとても信頼しているので



昔友人に頼まれナイトクラブで



社会勉強をした時



とっても圧力を感じる



性格的にきつい女性がいて



多くの方が苦手としていた方がいたのだけれど



その方は仕事がとてもできる方で



多くの方がその方のサポートとして



働かなければならず



そのたび多くの方たちは大変そうだったの



私はその頃精神世界の本に夢中で



知識を生かしてみたい気持ちもあったので



心の力を使って



まるで自己催眠のように



「私は○○さんが好き」「○○さんを尊敬している」と



心の中で何度も唱えていたの



そうしてその方の席に着くと



その方は私にはとても好意的で



それ以来その方の席では




その方の御好意で指名してくださり



大きな努力をしたわけでもないのに



多くの報酬を頂いていた事があったの



その頃



心の力を確信し



心で思う事を言葉にしなくっても



無意識にオーラに映され



繋がりあう人間たちは



自分に好意的な人とそうではない人を感じたり



危機的なものを感じ取ったりしながら



人は人生を安全に歩んできたんじゃ



ないかなって感じたの



人間の能力は日々無意識に働いていて



ちゃんと自分を守ってくれていると思うの



心で何を思うかが



人生を彩り



聖なる者たちが姿を変えて



アイデアを与えてくれたり



素敵な出会いを導いてくれたり



するんじゃないかなって感じているの











自分を許す方法や



人を許す勇気ときっかけを



見つける事が出来ると



本当に人生が光で満たされてゆくのを



感じられると思うの



ただそれは頭で理解しても



実際に心から感じられるまでには



とっても難しく



時には人を許すという事は



負けなのではないかと勘違いしたり



自分を許すのは



自分に甘いのではないのかと



思い違いなども生まれたり



様々な心の体験をする過程を



通らなければならない事もあると思うの



許すという事は決して



我慢して相手に合わせ付き合いを続けるのではなく



たとえ付き合いがなくなっても



心の中で重いものを感じずに至れるのならば



それは許していることだと思うの



自分を許す事も



とっても難しく



何より24時間



この世に誕生してから



この世での学びが終わる日まで



誰よりも厳しく



自分をジャッジし



だからこそ自分の行動や容姿・仕事etc



あらゆることで



もつ必要のない罪悪感や劣等感を感じるのは



それだけ自分へのジャッジが厳しいから



感じる思いだと思うの



一番心を深く傷つけるのは



誰かの心ない言葉でも



批判でもなく



自分が自分を認め



愛せない亊から生まれる思いが



自分の心を深く傷つけてしまうのだと思うの



もしも自分が自分を許し



認め・愛す事ができたならば



たとえ外から傷つけられても



自分の心の力が



速いスピードで修復してくれるものだと思うの



反省する事は大切な事だけれど



自分を許さないというのは



違うんじゃないかなって思うの



ずーっと一緒にいる自分だからこそ



良いところもそうではない所も知っているのだから



自分を見つめる時間を作ってみると良いと思うの



たとえば



すぐに落ち込むところが好きになれないとしたならば



それはまっすぐに落ち込む原因を見つめられる



冷静さを持っている事なのだから



それは長所だったり



自分に自信がないところが好きになれないとしたら



自身がないからこそ謙虚に



相手を尊敬できる心のスペースがあったり



とっても素敵な長所だと思うの



そんな風に



自分が好きになれないと思っている欠点が



本当は表現の違いで



長所だという事に気づくと思うの



よく学校のお勉強でもあるように



見て・読んで・書いてみると


深く記憶されるので


一回神に自分が好きになれない欠点を



書き出してみて



その欠点をがんばって前向きな言葉に



置き換えて



最後に声に出してみると



自分の中の細胞が喜んでいるのを感じ



少しずつ自分の良さに目覚めてくると思うの











私たちは時々



無意識に自ら



自由という豊かさを



心から追い出してしまう事が



あるんじゃないかなって感じていたの



人と会話する時



たまたま同じような意見にならず



共感し合えなかった時



ついどちらかが



自分の意見の正しさを



わかってもらおうと



長い時間注ぎ



それが良い意味での議論だと



思いこんでいたりもする事があるけれど



多くの場合



言葉を手渡す側が



言葉を手渡す前に



無意識に帰ってくる言葉を制限していて



それ以外の言葉がもしも



手渡されても



修めるスペースが心の中にはなくって



そうなると



無意識に相手を自分の求めている言葉へと



変換してくれるまで



言葉を変えて



説得してしまうのだと思うの



私たちは自分は自由を求めているけれど



時々ふっと



自分が求めている自由を



相手にも許しているかなって



考える事があるの



付き合いが長い関係の方たちの場合



話すリズムが似ていたり



共感する部分が多かったり



自然になっている事もあるのだけれど



以前お付き合いのあった知り合いは



とっても仲が良いご夫婦で



それがある時



急に別れる事になった事があったの



その後よーく話を尋ねてみると



ご主人がまるで違う人のようになってしまって



その方に不満などを



伝えるようになったようなの



確かに仲が良かったけれど



ほとんど彼女に意見を合わせ



自分の意見は表現せずにて



彼女もその様な状態が心地よく



過ごしていたとは思うのだけれど



ご主人の方は



小さな事であっても



喧嘩したりしないように



自分の心の自由を抑え込み



相手の心の自由を満たしていたと思うの



それが何かのきっかけで



自分の意見を表現するようになったようなの



よく結婚すると



お付き合いの頃と



相手が変わったと感じることも



あるかもしれないけれど



人はいくつもの自分を持っているから



家族となった時



本来の自分が表にあらわれてくるだけだと思うの



変わるというよりも



本来の自分を表現しているだけなんじゃ



ないかなって思うの



私自身もパートナーがあまりにも優しく



温厚で



何も良くない部分がない所に



逆に不安を感じていた頃



時間と共に



彼の良くない部分が



わかるたびに



この場合はこんな感じなんだって



安心した事があったの



それは知り合いの御夫婦のように



私たち夫婦も



いつも意見が違う事がなくいたと思っていたけれど



本当は私が



心に収められる器の小ささから



自分の思う言葉しか



納められない事を



パートナーは知っているから



自分の自由意見をただ表現しなかっただけで



誰だって



自分らし意見や思いは持っているものだと思うの



私たち人間は



自分の自由意見が



許してもらえない事には



とっても大きな悲しみを感じるけれど



相手が表現する言葉には



とっても強い制限を



無意識に心の中に持っているんじゃ



ないかなって感じたの



何か言葉を交わし



その言葉を受け取った方が



本当はどのように心で感じ



表現したり



修めようとも



本当は自由なのだと思うの



まっすぐにその言葉を受け取られる方もいれば



言葉ではない言葉の中にある



エネルギーで感じ取る方もいたり・・・



中には自分の経験を重ね



何かを感じる方もいたり・・・



皆が同じ方向



同じ意見なのは



小さな空間では心地が良いことだけれど



大きな世界になると



そのような形は



とっても怖い気がするの



本当は一人・一人



個性的で特別な人たちなのに



あえて浮いてしまわないように



ひそやかに



存在を消したように



過ごされている方もいるけれど



どんなに皆と同じようにしていても



個性は消えないものだと思うの



何気なく言葉にした事で



快くない事を



自分がいない場で表現される怖れなどを



イメージしてしまうと



頭の中で無難な表現を探して



何となく人とかかわりあっている方も



多いと思うの



でもすべての根源は



内なる自分がベースとなって



判断し



自分の人生を創造しているのだから



とっても難しいことだけれど



自分の内から



相手の自由を許してあげる事を



ゆっくりと



スタートするだけで



すべてが変わってくるんじゃ



ないかなって感じているの



相手の自由を許せるようになると



自然に自分の自由も



許し認められるようになると思うの



良くあることなのだけれど



とっても親切で



いつも人の事を思いやり



何事においても



相手を優先し行動される方に限って



相手の自由を許せないという



矛盾を持った方もいると思うの



それは心の深い部分で



「私はこれだけ我慢しているのに」



「私はいつも相手に合わせているのに」と



自分が自分の自由を制限して



過ごしているのだから



相手にそれを求めてしまうのは



とっても自然な事だと思うの



そして相手は



何となくそのエネルギーを感じ



自由に自分の意見を表現できなくなり



気がつくと



疲労感だけが残っていたり・・・



なのでその逆もあると思うの



すべては自分の内で奏でるエネルギーが



相手を通して



自分のもとに届き



様々な心の体験をしているだけなんじゃ



ないかなって感じているの









自分が人にどう接してもらいたいか



考えた時



たとえば尊敬・愛情・信頼などの



思いを持って



時間を重ねたいと思ったとしたならば



自分はその思いを



相手に求める前に



自分に行っているのかを



考えてみると



いいんじゃないかなって思うの



私は数年前



親しくしていた友人との間で



様々な学びを与えてもらったのだけれど



その中でいつも私は



とっても気ままな彼女に



いつも振り回されている事を



感じるようになったの



そんな中で私は大切に思ってもらいたいと



強く思うようになったの



そんな時瞑想の中で



自分の深い部分と繋がりながら



届けられたメッセージは



「あなたは自分を大切にしていますか?



あなたが自分を扱うように



相手が扱っているだけなのだから



相手が悪いのではない」という言葉だったの



その時急に涙がこみ上げてきて



私は過去の人間関係の中でも



いつも都合よく扱われていると



感じる場面があって



それでも自分に自信がない私は



自分を大切にする事よりも



相手の都合に合わせるだけだった気がしたの



もちろん自分を大切にしていても



そのように接してくれる人ばかりでは



ないかもしれないけれど



そういう時は



エゴの強い人と共にいる必要から



自分を解放してあげれば良いだけだと思うの



人は誰でも



甘えられる人には



つい甘えすぎて



それが当たり前になってしまう事もあって



こちらが感謝を感じているかなって



思うほど



相手は感じていないこともあると思うの



それも自分の心を大切にせずにきてしまった



果と繋がるんじゃないかなって思うの



人とのご縁は



その時の自分が学びにふさわしい相手として



目の前に存在しているだけで



多くの場合は



自分が正しい答えを導き出す事が出来ると



ご縁が遠くなったり



逆にご縁が深くなったりして



魂の結びつきが



はっきりとわかってくるものだと思うの



逆にどんなに合わせても



それだけで過ごしてしまうと



学びが得られず



魂が満たされないので



魂が心の不満な思いを働きかけて



心のストレスという形で



何かを感じるようになると思うの



私たちは心・魂・肉体が備わっているから



一見心で感じていると思っている事も



本当は魂の導きの場合も多いと思うの



多くの場合考えたら迷う事でも



衝動的に行動していたり



思いつき映る出来事の中には



魂からのお届けものの場合もあると思うの



魂はその方それぞれにとって



必要な場所や必要なものがある所へと



導こうと



いつも引っ張っている状態で



心はその導きを



心の経験の中で考え



ブレーキの役割を持っているように感じているの



心はあくまでも



今の自分一代(数十年)のデーターから



自分なりに考える事なのだけれど



魂は自分の意識を超えた



多くの時代を知っているものだと



感じているので



時々その心と魂が不一致して



折り合いをつけることに



大変な方もいると思うの



人には魂の導きがあって



その波動とあう人たちは



どんな形であっても



巡り合うようになっていて



同じ時代・同じ時間であっても



互いにそれぞれ学びを学習し



この世を去る日までに



自分らしさを完成させてゆくものなんじゃ



ないかなって



感じているの










私が暮らす北海道は



季節感がはっきりとしていて



春が近づいてくると



強い風が吹き



春のサインを感じる事が多くなるの



一見また冬に舞い戻ってしまうのでは?と



思ってしまうほど



冷たく強い風なのだけれど



北海道に暮らし何度も



春のサインを感じてきた人たちには



その強く冷たい風さえも



次に訪れる春の訪れを



感じる


歓びになっている方も多いの



それはまるで



私たちの人生にも似たところが



あるんじゃないかなって



感じているの



私たちは今目の前にある現状が



とっても大変で



歓びを感じられないほど



問題があると



何となくこの瞬間だけを受け取り



目の前が暗くなったり



心が曇ってしまう事があるけれど



それはそのあとに待っている



幸せのための準備だと



知らないからだと思うの



もしもこの大変な時が



幸せが訪れるサインだと



確信できていたならば



たとえ今目の前にあるすべての問題や



困難が



春を迎えるための準備として



知る事が出来ていたならば



心がパニックになったり



しなくてもよい発言や行動によって



後になって後悔してしまう事も



少なく済むんじゃないかなって



感じているの



私たちの人生は未来へと進み



かこへ



後戻りできないようになっているから



データーを重ねる事は



難しいかもしれないけれど



ほんの些細な事であってもよいから



過去の失敗を



一度思い出してみるとよいと思うの



そうすると



必ずその失敗があったから



今の自分がある事を感じられたり



見つめる角度を変えてみると



今の自分から過去の自分を見つめると



恥ずかしくなるような事が



いっぱい見つかる事もあると思うのだけれど



それはすべて



過去の自分よりも




今の自分が進化したから



感じられる思いだと思うの



でも恥じる必要はなく



その時はその時の精一杯の全力で



導きだした答えと寄り添い



次の飛躍まで



過ごしただけなのだから・・・



時々



昔から自分を知る人などに



過去の事や過去の発言について



「昔はこう言っていたのに・・・」とか



「昔はこうだったのに・・・」と



まるで変化してゆく事が



あまる良い事ではないように



表現されることもあるかもしれないけれど



世界中変わらないものは何一つなく



変わった事や変化した事に



気づかないだけで



そう表現される方であっても



ゆっくりと変化しちぇいるものだと思うの



よく名店と言われる



何百年も歴史を持つ料理屋さんなどでは



変わらない味を提供し



愛されていると



評価を受けているけれど



お店の方たちは



変わった事を感じないくらいに



その時代・季節など



様々な変化に違和感なく



変えてきていると



伝えられているように



変わる事は信念がないのではないかと



誤解を持たれる方もいるかもしれないけれど



その時代などによって



人は美しいと思う感覚も



優しいと感じる言葉も



様々なものが



様々に変化しているものだと思うの



それはすべて



その時々



自分が幸せな場所に身を置くための



ひとつの方法なんじゃないかなって



感じているの











今日友人とランチをしている時に



共通の友人の話になり



懐かしさに包まれていたの



友人は昔の友達と会う機会が良く



あるようなのだけれど



その時いつも昔話になり



今現在の話題が少なく



つまらないというような表現をしていたの



友人はとっても前向きな人で



いつも今現在に



いきいきと過ごしている人なので



なつかしむことで




心癒す必要がない事もあって



そう感じたのだと思うの



私も昔は


過去を懐かしむ気持ちは



なっとなく後ろ向きというのか



あまり素敵な事だとは思っていなかったのだけれど



年齢を重ねてきて



初めて感じたことなのだけれど



過去を思い起こしたくなるというのは



思いだせるだけの時間と経験



そして幸せを受け取ってきた記憶があるからで



別の角度から見つめると



自分では感じていないかもしれないけれど


今現在


心のゆとりというスペースがあるから



できることだと思うの



過去の好ましくなかった記憶さえ



無意識に書き換え・癒す事ができるから



過去を思い出したり



ある部分では



現在の自分に疑似体験として



若く輝き



楽しかった自分を



脳に体験させる事でも



あるんじゃないかなって感じているの



年齢を重ねた方たちが



自分の思い出話をするとき



なぜかみんな曇っていた表情が晴れて



ほんの少し自慢話を重ねながら



元気になってゆくのは



脳の中で



もう一度幸せな体験をしているような



感じなのかなって時々感じているの



よく記憶を紐解くときに



その時代に流れていた音楽などを聞くと



記憶と共に心身までも



その時代に戻ったような感覚になるのは



日頃忘れている記憶の引き出しを



その音楽がカギとなり



開かれたからだと思うの



15年くらい前に



親しくなった方がいて



その当時スピリチュアルな体験で



溢れていた私に



知識として知らない事を



いっぱい教えてくれていて



そんな中で



私は無意識に心の深い部分に



しまったままになっていたものが



意識できるようになって



その中で



あるクラシックの音楽が浮かび



そのクラッシックの曲は



私が幼いころ思い出したくない記憶が




作られた時代にいつも流れていて



ただ曲名がわからない事を



そのお話をその方にすると



「じゃー一緒に探そう」と言ってくれて



CDショップへ足を運び



クラッシックコーナーにいた



店員さんに



とっても恥ずかしかったのだけれど



メロディーを口づさみ伝えると



店員さんが



「あ~!わかりました」と言って聞かせてくれたの



そうしてそのCDを購入しおうちへ帰ったの



CDショップでの見つけられた感動は



もう消えていて



なぜだか一人で聞く勇気がなく



数日が過ぎたころ



親しくしているその方から



「聞いた?」と尋ねられ



聞けない事を伝えると



「じゃー一緒に聞こうよ」と言ってくれて



その方のおうちで聞く事になったの



聞いていると



自分の心の準備がないまま



記憶が溢れ出てきてしまって



その方に



自分の幼かったころの話などを



無意識にしていたの



途中その方も



私もほんの少し瞳がうるんできたの



その時その方も



記憶がひも解かれていったようで



自分の幼いころの記憶を



話してくれたの



その様な時間を数時間過ごした後



なぜだか私たちは



とっても晴れやかな気持ちになり



その後同じ曲を聞いても



心曇る事も




悲しくなる事もなく




気がつくとまるで素晴らしかった思い出のように




「あんな事もあったよね」と



表現している自分たちに驚いていたの



その体験から



過去を思い出したり



振り返る事は決して



ネガティブな事ばかりではなく



深い場所に押し込んでいる感情を



時々少しずつ



解放してあげることも



良い事なんじゃないかなって



感じたの



ただ無理に想い出を整理しようと



心曇り悲しむ事がわかっている記憶を



思いだす事は



今の自分のとっても好ましくない



影響を与えてしまう事もあるから



ほんの少しずつ



楽しい過去の記憶から始められるとよいと思うの



誰にでも忘れてしまいたい記憶や



その当時抱えきれなかった体験を



秘めていて



そのまま封印しているものがあると思うの



でも今の自分ならば



その過去を癒してあげられる事も多いと思うの



私の場合は


幼かったころの寂しさや辛い事の多くは



今の年齢ならば



すべて良き流れの答えを



手渡せると感じ



ゆっくりと時々瞑想しながら



癒しの時間を作っているの



たとえば



幼いころ両親が働き



ほとんど自分の楽しい記憶の中には



両親がいなく



その事がずっと長い間の



不安癖やわけもなくさびしい気持ちに



包まれている事を感じた時には



「両親も人生を創造するのに忙しかったのね」とか



「一人の時間が多かったからこそ



自分の考えがしっかりと作られた



素晴らしい時間だったのね」など



すべて良き事のために与えられた時間として



自分の内に眠るこくたちに



答えを手渡してあげると



自分で思い答えた事であっても



ほっとした幸せを感じ



すべての過去に



良い意味を生んでくれると思うの



今に時代は



無理に仮想的自分を作り上げ



無意識に演じている自分で



人とふれあったり



繋がりあったりしている方も多く



その姿を



ずっと愛し維持できるならば



それはそれで良いのだけれど



ある時ふっと



本当の自分を表現する事を怖れ



自分自身が本当の自分を愛せなくなると



それはまるでロボットのように



形はあるけれど



自分という存在が内にはなくなり



「自分って何なんだろう」という疑問が広がり



人とふれあう時には



できるだけ自己表現を抑え



周りからも自分からも



何を考え



どのように歩みたいのかが



わからなくなってしまうと思うの



そのようにならないためにも



きっと過去が良い意味で



ストッパーになっていて



自分らしさを



思い出させてくれているんじゃないかなって



感じているの










人間ってとても繊細で



複雑にすべての細胞・魂・心を



働かせている事もあって



ストレートに



動けない事があるんじゃないかなって感じているの



人はだれでも



自分の幸せを願い



そして自分が大切に思う人の



笑顔が花咲く事を願い



そして自分が幸せに感じる方法を



本当は知っていても



願いとは別に



自分が幸せになる事を



許してあげていないことも多いと思うの



たとえば何か心満たしてくれる時間を



思い描いたときに



経済的な事を考えたり



様々な労力を考えたり



パートナーがいる方はパートナーの事を考え



気がつくと



穏やかだけれど



幸せや喜びを感じない時間を



過ごしてしまっていたり・・・



でも本当は様々な問題と思う事が



原因ではなくって



自分が幸せになる事を許していないのだと思うの



そして無意識の部分では



自分の価値を認めず



敬う心を



ちょっとした誤解で



忘れてしまっていると思うの



私の知り合いで



長い間希望的な夢を



語ってくれる方がいるのだけれど



その夢に近づこうとしない理由として



言葉にされるのが


経済的な事やパートナーの事なのだけれど



その方のライフスタイルを見つめると



その夢はいつからでも始められるはずなのに・・・って



私はいつも感じているのだけれど



本人も気づいてはいないと思うのだけれど



自ら困難で自分を囲み過ごしているの



その方のライフスタイルは



身近に一人で行える



スモーキング・ギャンブルなどで



ストレスを解放するという行動なの



それは



たぶんその方は



私の知らないところで



小さな気遣いを重ね



人とお付き合いされているから



人に気を使わず



自分一人ですぐにできる



ストレス解消法を



自分なりに作ったのかなって感じているの



ただその解放法は



本当の意味での解放にはならず



自分の喜びから



遠ざけていることだと思うの



その方が夢に近づけない



経済問題・パートナーの事は



少し離れた場所から見つめると



本当はこちらの方が問題だと思うの



どちらが先かはわからないけれど



パートナーに気づかいしていても



その気づかいを



パートナーにとっては



望まない形のものだと思うの



私自身



その方の姿から



様々なことを自分にも問い



私も自分が幸せになる事を



許していない部分がある事を知ったの



時々まるで遠くにある夢を



眺めながら



その事を語る事があるのだけれど



本当はいつからでも



その事は始められるし



体験できる事を感じたの



結婚されている方の場合は



どんなにパートナーが快く



背中を押してくれたとしても



心に微妙な気遣いや罪悪感が生まれたり



無意識に自分の今いる正しいと思っている



姿勢というのか



ポジションが変わり



今までのように相手に対して



正す言葉が言えないと感じたり



様々な複雑な思いもあるかもしれないけれど



その思いは



別の角度から見つめると



自分の幸せも許していないけれど



相手が幸せになる事も



同じように許していないという事だと



思うの



よく結婚されて



年数を重ねてくると



互いに瞳に輝きが消え



共にいても心通わない感覚に包まれていても



社会的な事や



生活ベースなどの事を考え



なんとなく月日が流れるのを



見送られている方もいるけれど



出会ったころは



誰よりも輝き



尊敬できたり



心からサポートしてあげたいと思い



結ばれていった人だと思うの



だからその光は



互いに自分らしく生きる事を認め



互いが幸せになる事を



許しさえすれば



また素敵な存在として



高めあえる関係になるんじゃないかなって



感じているの



初めはどちらかが先に



自分が幸せになる事を許し



輝いてゆくので



どちらかが



ちょっと驚きと嫉妬などの



複雑な思いも生まれるかもしれないけれど



人生には



与えられたタイムリミットがいつもある事を



思いだし



逆に心に刺激を感じられる人と



一緒にいられる事に



歓びを受け取ってみると



自分の人生がどれだけ豊かなものかを



感じられるんじゃないかなって思うの











人との出会いって



とっても神秘的で



瞬間的に繋がりあいたいと感じたり



その逆もあったり・・・



様々な瞳には映らない情報を



瞬間に交換し合い



縁をつないでゆくものだと思うの



そんな時には



言葉を超えて



自分の意識ではなく



魂が何か説明のできないものを



感じあうのだと思うの



私たちはそんな時



何となく気が合うとか



様々な理由を探すけれど



逆にどんなに話し合っても



気が合う事もなく



特に意識的なつながりを求めていなくっても



繋がりあう関係もあったり・・・



人との繋がりは



きっと



魂が求めるあらゆるものを



与えてくれる人を



無意識に引き寄せていて



その時その時



自分が受け取る必要のある学びや気づき



そして心の栄養とできる



自分のサイズに合わせながら



出会って



自然に会わなくなる人もいたり・・・



時には



体験したくない心の体験もあるけれど



その体験も



もっと時間を進めてみると



やっぱり執拗なものだったり・・・



受け取るものは



人ぞれぞれで



周りが計る事は出来ず



その方が一番理解できる形で



体験するので



時には歓迎される出会いばかりではなかったり・・・



でも自分を包む



すべての出来事や出会いは



自分がベストな答えを受け取るために



どうしても必要で



与えられている事も多いと思うの



中には認めたくない自分の気持ちを知るという



機会だったりもするけれど



その事を人に話すわけではないのだから



素直に正直に



もしも自分の気持ちを知る事が出来たならば



恥じることもないし



認め受け取った



自分を褒めてあげてほしいの



私自身もそのような心の体験を



何度も体験した事があったの



たとえばとっても恥ずかしい事なのだけれど



たまたまチャンスに恵まれ



飛躍できそうな友人がいて



一生懸命に努力を重ねている友人にさえ



言葉では歓びを表現しながらも



心のどこかで



寂しい気持ちとそして嫉妬などの思いがあったのか



心が晴れず



時間と共に自分が同じように恵まれていない事や



自分の良くない部分を嘆き



そのあとには



友人に対して快くないような表現をしてしまったり・・・



その時無意識に



自分の心を隠そうと



「要領がいい人がうらやましい」とか



「彼女のように人と付き合う時には



計算しなければだめだよね」など



何気ない会話の中で表現していたの



そのたびに



「私葉嫉妬したり



妬んだりそんな事を感じていない」と



否定していた事があったのだけれど



同じような体験を人や



タイミングを変えて



何度も届けられるうちに



素直に自分の心の声を聞き



受け入れてみたの



そうすると不思議なほど



すがすがしい気持ちに包まれ



その思いを誰にも話していないのに



気がつくと



その様な体験がなくなり



同じような心の体験をしている方までも



許せるようになったの



上手に生きている人を



ついうらやましい思いから



私の場合は



心揺れる事があるのだけれど



その人それぞれに



努力をして



自分を幸せな場所へ運ぼうとしているだけなのだから・・・



逆にそんなにうらやましいのならば



自分もそうすればよいのに



本当はできない・したくない自分がいるのだから



比べられない事を感じたの



人は自分以外の方の恵まれている部分だけを



見つめて



様々な事を思うけれど



今笑顔を咲かせて過ごされている方は



言葉には表現していないけれど



自分を幸せにする努力を重ねて



それが日々の栄養となり



花が咲いているのだと思うの



人の感情は自然に溢れるものだから



あまり好ましくない感情であっても



誰にでも備わった心の動きで



良いものかそうではないものかだけで



抑え込んでしまうのではなく



好ましくないと思う感情にも



光を照らせば



影は薄くなり



やがては影も消え



その好ましくない感情も



人間らしさとして



修めておけるようになると思うの



だから様々な感情に出会っても



自分を否定してしまったりせず



逆に自分にもいきいきとした



感情の動きがある事を



楽しんでみるのも良いと思うの











精神世界というのは



自分を知る事からスタートし



自分に必要なものがわかってきたりして



楽しさを多く体験できると思うの



自分と長く寄り添い過ごしていても



まだまだ知らない事も多く



周りに教えられることも多いの



私は自分に自信がなく



小さな決断であっても


すぐに一緒にいる人に委ねるところが



あるのだけれど



周りからは



自分が思う自分と同じように映ってはいないようで



とっても自信溢れた人に



映っているようなの



そのギャップは昔からあって



なぜ?なのだろうと



いつも考えているの



もしかするとたまたま



悩み事や相談がある時に



私に会いに来てくれる友人が多いから



その時手渡す言葉が



どうしても精神世界に繋がる言葉が多いから



そう感じているのかなって感じたり・・・



それとも容姿がなのかなって思ったり・・・



よく友人が友達を合わせてくれるのだけれど



一緒に来た方の多くは



私が何をしている人か



想像ができないとか



中には占い師?と



尋ねてくる方も多いので



自分の瞳には映らない



自分を周りが感じられているのかなって



感じているの



この間はある方と話している時



突然話の流れが変わり



「あなたは戦争時代かなり偉い人だったから



いまだにあなたを頼り



土地土地で待っている人がいる」と伝えられ



その話をよく一緒に行く友人に話したら



急に友人が寒気がすると何度も表現し



なぜだかとっても動揺していたの



その友人とは何度も前世で一緒だったのを



お互いに感じていて



心のタイミングがいつも一緒なので



そのタイミングで旅行へ行ったり



様々なものを見たり



多くの体験を共にしているので



その言葉に友人の魂が何かを感じたのかなって



思っていたの



そして友人に試しに



足を運びたくない場所を



同時に言葉にしてみようと



同時に言葉にすると



ある方から前世で自分が天国へ旅立った場所だと



伝えられている場所だったの



それが友人も同じだった事に



またまた驚き



友人と共に改めて



魂の深い結びつきを感じていたの



きっとまら来世も



姿や環境は違うかもしれないけれど



この友人とちゃんと巡り合うんだろうなって思うと



とっても愛しい気持ちに包まれていたの



そして2~3世紀くらい間をおいて



巡り合ったパートナーも



やはり不思議なほど



私の友人とは仲がよく



昔からの知り合いのようなの



生まれ変わる時



どのようにして



出会う人が決められるのかはわからないけれど



時々夢という形で



姿は今とは違うのだけれど




不思議と誰かという事がわかり



その中には母もいて



母親とのつながりって



一般的にとっても深く強いものだと思っていたのだけれど



私の場合は



こかの国の露店のような場所で



籠を売っている人で



そこをたまたま通りかかった私に



勇気づけてくれる言葉を



何気なく与えてくれた



ただそれだけの繋がりだったの



その後もしかしたら



生まれ変わる時に



その記憶や思いが



私の母親として



この人生の登場したのかなって



思ったり・・・



前世ってはっきりとした意識で



感じる事は難しいけれど



理由もないのに好きな事や



説明できないけれど



気になる場所や



心惹かれる事の中に



前世のヒントが多くあるんじゃないかなって



感じているの



私自身15世紀くらいに



趣味として音楽をしていたらしく



長い間ハープに心惹かれていたり



繋がりあう出会いの中には



音楽を仕事とされている方や



趣味で楽器を奏でる方などが多く



すべて自分の意識を超えた



出会いだと感じているの



なぜなら



今の私には音楽と接点がないのに



その様な方との出会いが多いから・・・



あとは大昔ヨーロッパなどでは



宗教的な繋がりのあった



パン職人の方も多かったり・・・



そんな風に自分の周りを見渡してみると



前世のかけらが



見つかるんじゃないかなって



思うの








私はいつも



やらなければいけない事と



やりたいことに溢れていて



そんな時



ちょっぴりまじめを秘めた部分が



強く働いてしまうと



ご立派な自分が



やらなければいけない事



(心惹かれない事)を



すべて先に終えるために



多くのエネルギーを注ぎ



その後心が晴れて



すっきりするのは数時間で



今度はその反動で



元々の自分が



自ら問題を作ってしまう事があるの



私の場合は



計算通り物事を運んでも



心の比重が



人生に大きなスペースを持っているので



どうしてなのか



それ以上に様々な問題を



作ってしまう事を



やっとこの年齢になって



知り・受け入れる事が出来たの



なので



どんなに小さな事であっても



自分の歩幅を優先し



物事を進め過ごしているの



この間も友人と話していた時



話すたびに



私が通っている歯医者さんの話が登場するので



友人は不思議になり




「もう何年も通っているよね?



どのくらいのペースで通ってるの?」と



尋ねられ



月に一度と答えると



「それじゃー終わらないから



もっと予約入れたら」と



アドバイスしてくれたのだけれど



私にとって歯医者さんは



あまり好きな場所ではないので



その好きではないけれど



必要な事に対しては



心に負担とならないペースで通うようにしているの



その事によって



まるでエステに行って



綺麗にしてもらう喜びに似た感覚を



自然に生み出しているの



そうすると



好きではないけれど



自分に必要な事も



スムーズに行えて



強迫観念のような



の負担を感じずに済むの



他にもたくさんあって



元々なまけもので



自分にきっと良い流れになる事を



わかっている事であっても



なかなか行動できない私は



そんな風に



マラソンに似た感覚で



自己タイム内にゴールできたらいいかなって



感じで思っているの



元々スピーディーで行動的な事が



とっても素敵と思い



その様に過ごしてきた自分にとっては



スローな歩みに



初めは馴染めなく



何もできない自分を責めたりしていた事も



あったのだけれど



やはり病というパートナーのおかげで



どんなに頑張っても



走れない時がある事を知り



走れない自分を認められるように



少しずつなれたから



今のペースがあるのかなって



感じているの



そして今の自分にできる亊



今の自分ができるペースを見つめてみると



逆に今まで以上に



多くの事を体験できる事を



感じられるようになったの



たとえば週一回ペースで考えると



難しいかなってあきらめてしまう事であっても



月に一回ならば大丈夫だったり・・・



少しお話は違うけれど




昔ショッピングに行くと



よく放送などで



「早い者勝ち」とか



「早く買わないと売り切れてしまう」というような



心煽る言葉が流れてくると



その言葉に反応して



自分に問い直すことなく




手にしていた事があったけれど




ここ数年は逆に



その様な言葉に



あまる心地の良いものを感じず



もしも行ってなかったなかったで



縁がないものなのだからと



自分に用事を優先できるようになったの



そしてもしもその商品がなかったとしても



縁がないものだったのだからと



特に心揺れ動く事もなく



過ごしていると



不思議なもので



次に何気なく見かけた場所で



本当に自分に必要なものに出会えたり・・・



世界は忙しく速いスピードで



動いているから



その動きからずれてしまう事なく



何となく行動的に



過ごされている方が輝き



素敵だなって映る事も多いけれど



それは20年前の価値観のように



何となく感じているの



今の時代は



わけもなく焦り



本当はないゴールに急ぐ生き方から解放され



一人ひとりが



自分の内を旅し



たとえ人から称賛されなくっても



大好きな事や


生きがいのようなものを軸に



様々な体験を楽しむ



時代になっていると思うの



昔の良さを語られる方も多いけれど



癒しの言葉の中にもあるけれど



過去と未来は素晴らしく輝き



現在が最も辛く



良く映らないものだから



そう感じているだけだと思うの


昔は今よりも人情に溢れていたような



記憶を持たれている方も多いかもしれないけれど



私はそうは思っていないの



上手に言葉にできないのだけれど



昔は一人ひとりが楽しみを持つ事が少なく



そんなこともあって



小さな世界で起こる出来事に



好奇心などから



自分の価値観を押し付けてこられる方が



多かったように



私は感じているの



そのような事もあって



都会ではない場所では



周りの目を怖れ



過ごされていた方も多かったように思うの



男性は男性らしく



女性は女性らしくという



社会が伝える価値観と違う自分を



秘められている方には



とても良い時代とは感じなかったように思うの



都会育ちではなかった母に



私はよく幼いころ



「あんたは田舎に住めないよ」と



様々な出来事やその土地の価値観などを



教えてもらった事があり



そのたびに



良い土地・良い時代に



自分を体験できたことに



感謝していたの



私は今時々



様々な習い事を講師の方の御好意で



他の方よりも少ない回数で



リーズナブルな価格で



足を運ばせてもらう事が多いのだけれど



その中には男性もいるのだけれど



昔ならば女性が好む趣味の中に



男性がいるというだけで



何となく違和感を持ち



快くない言葉を表現される方も



いるかもしれないけれど



私が通っているスペースでは



性別の違和感はなく



みんな笑顔で過ごされているの



そう思うと



今に時代の価値観が多くの方に



受け取られているからこそ



広がる幸せが



昔よりも多いんじゃないかなって



感じているの