2010年11月







毎日思いは今までできなかった事や


したかった事が


やっと自由にできる喜びで満たされているのだけれど


肉体はそれとは真逆で


呼吸は浅く


まるで緊張状態が長い時間続いているような


不思議な感覚に包まれているの


そんな時偶然にも


昔霊能者として過ごされていて


やめて十年以上たつ方と再会したの


その方はたまたまお買い物に来ていたそうなのだけれど


私はその時


何かアドバイスをいただけるタイミングを


聖なる者たちが与えてくれたのだと感じたの


そしてその場所から近いご自宅へ向かい


お話をさせていただいたの


その方に今の状態を伝え


心と身体がまるで違うメッセージを送ってきていて


違和感がある事を伝えると


「それがあなたを病にしたのよ」と告げられたの


具体的に尋ねてみると


精神や心の力や念が強く


その部分だけが大きく前に進み向上してしまった事で


肉体の進化がついてゆけず


あまりの不一致に肉体を必要としないくらいまで


意識は進んでいいるそうなの


そして地球の波動に合わせ暮らすという事は


精神に肉体が宿っているのではなく


肉体に精神が宿っているという事らしく


退屈を感じても


肉体の進化のペースに合わせてあげなければ


地球で過ごす事は辛くなるそうなの


そしてその方が最近の地球の動きのような事を語られていて


魂や心・精神が早いスピードで進化した事で


その思いと肉体や現実がフィットせず


せっかく魂や精神・心が向上したのに


生きている事に喜びを感じられなかったり


時には漠然と今よりももっと安心できる場所があるような


不思議な感覚を感じている人も増えてきているそうなの


地球に生きるという事は


肉体を持ち魂の表現ができるようになっているから


素晴らしい知恵を受け取る事も大切だけれど


そのスペースはもう多くの方が満たされているから


次は肉体と共に


実体験という形で


体験するという事が与えられていて


その時肉体と精神と・心と魂が


すべて一致するようになるそうなの


そして私の場合は思いや念を強く働かせ


様々なものを招き寄せ・導かれてきたけれど


思いが強すぎる事で


すべてのパワーがそこに集中し


肉体が疲労していたりしても


気づかず


思いを遂げるところがあるらしく


肉体と精神・心・魂が切り離されていたらしいの


それが病になり


自分の思いをいったんお休みせざる終えなくなり


病のご機嫌を伺わなければならない


月日を過ごす事で


はっきりと身体からのサインを受け取り


精神・心・魂の元へ肉体が歩み寄れる所まで


近づいてきたそうなの


それで最後にアドバイスされたのは


心は満たされ幸せでも


もしも身体に違和感や不調を感じたならば


その部分に心を合わせてあげてって


伝えられたの


その時私は「病は気からというから


体調が良くなくっても


心の力で導く事が大切だと思っていた」と表現すと


それは私とは逆に


思いや念がを強く働かせ過ごしていなく


逆に肉体的な進化が進んでいる人の場合であって


その場合は精神・心・魂を今度は進化させるために


働かせる事が大切らしいの


そのお話を聞いて


改めて地球で暮らすのには


バランスが大切なんだなって


感じたの









やっと・やっと自分の思いを実現し


今日おうちにたどり着いたの


まだまだおなかの痛みや


検診などは重ねなければならないのだけれど


5日間の入院で帰る事が出来て


周りも自分も幸せな驚きに包まれているの


この短い間には偶然と言う形で


いくつもの人生ドラマを見せていただいたり


私自身も不思議な体験が


予想通りにたくさん届けられたの


私の予定手術時間は2時間だったのだけれど


思った以上に大変な状態だったようで


7時間後に目覚めることとなり


その間何も分からない私は麻酔の中


美しく輝くお花畑が広がっていて


その光景を見つめ感動していたの


ただ通常あの世と表現されるお花畑とは違い


死者などではなく


パートナーや親友・あとは


何となく親しくさせていただいている感覚はあるのだけれど


顔がはっきりと見えない方が数名いて


「わ~綺麗みんな見た?すごいね」と


私がはしゃいでいると急に空が割れて


その割れた空から現実の世界に繋がり


うとうとと目を開けると


お医者様や看護師さんがいたの


私が入院したお部屋は比較的心身が軽症の方が


集まっている産科という事もあってか


以前入院体験の苦労を教えてくれた方の印象もあって


色々と覚悟をしていたのだけれど


イメージとはまるで違いとても快適で


一番心配だった消灯後の過ごし方も問題なく


電気をつけて眠る事が出来たの


今回


おなかに少しでも圧力が加わってしまうと


強い痛みがあるので


小さな出来事にも敏感に意識している事もあってなのか


感じた事が多くあったの


私のパートナーは日頃からあまり面白い事を表現したり


話したりする人ではないと思っていたのだけれど


それは私の思い違いで


爆笑こそしてはいないけれど


何となくいつも楽しく感じていたのか


いつもと変わらないパートナーとの会話なのに


腹筋が何度も震え


そのたびおなかが痛くなっていたの(笑)


そして私自身あまり爆笑するという事がない事もあって


勝手に一般的な方は


そんなに楽しい会話をしないものだと思い込んでいたのだけれど


本当はそんな事はなく


いつもとさほど変わらない会話なのに


誰と話していても


腹筋が震えおなかが痛くなっている私に驚いていたの


そしてそんな私を見つめ


看護師さんに「なんかとっても人生楽しんでいますよね」と


伝えられたの


私自身そんなに日頃おなかに意識を


集中する機会がなかった事もあって


気づかなかったのだけれど


今回小さな揺れが大きな痛みになるほど


おなかが敏感になっているおかげで


実は私は小さな事にも結構


人生楽しんで過ごしていたんだって


認識できたの


そして今までならばある部分でクールに


通り過ぎる事の出来た方たちとの間でも


すぐに腹筋が反応し痛みが広がってしまう事もあって


何も感じていないクールな感じに通り過ぎる事が出来ず


ついおなかを押さえ


「ちょっと待って!面白すぎるようでおなかが痛い!」と


伝えてしまう事もあって


相手もそんな反応をする私を見て


笑顔を見る機会が多くなっていたり


他にも以前ならば少し印象が好ましくない方だと


その印象が全てとなってしまう事が多かったのに


通常ならば受け入れられないタイプの方であっても


どこかユニークに映るところがピックアップされ


おなかを押さえながら聞かないようにするのが


大変だったり(笑)


自分の中で何かが大きく変化しているのを


漠然と感じているの


もうずっと長い間病の痛みによって忘れていたけれど


元々私は少し迷惑なくらい


テンションが高く人生が楽しくって楽しくって


幸せに過ごしていた事を


ほんのり思い出していたの


大きな問題をこんな頼りない私が乗り越えられた事に


自分が自分に嬉しくって


その喜びによって自信と勇気が育まれ


その喜びも重なってなのか


痛みや不自由な感覚はまだはあっても幸せを


感じているのかなって思うの


手術の後すぐはまるで幼子に戻ってしまったように


呼吸を整える事から始まり


寝返りを練習し


歩く練習を重ね


人間として当たり前に行っていた事を


ひとつ・ひとつ意識しながら


当たり前という意識を手放し


一つできるたびに喜び


また時間と共にできる事が増えてゆくと


自信と感謝が増えてゆく毎日だったの


そんな中


私の病棟の妊婦さんたちが


毎日のように新たな命をこの世に送り出していて


その光景を瞳に映すたび


どんなに人間的に問題があると表現される人であっても


初めのスタートはみんなこんな風に


喜ばれ祝福され


みんなに待ち望まれてこの世に誕生していたんだろうなって


感じていたの


そして人の命を守りつないでゆくには


大変な時間と努力が必要だけれど


命の灯を消してしまうのは一瞬でできてしまうのだと思うと


儚く繊細だからこそ


感情的に命を終わらせてはいけないように


改めて


感じていたの


今回の体験は言葉にできない


心と心で繋がり手渡したい体験なかりで


心から溢れる言葉を


今すぐに言葉に訳す事はちょっと難しいのだけれど


もう少し心身が整ってきてから


ゆっくりとシェアしていただけたら


幸せかなって感じているの


今回私のことを案じ


生まれ変わっても祝福し受け入れてくださる


メッセージを手渡してくださった方たちには


言葉を超えた愛を瞳に映し見る事ができた気がします


こんなに幸せな時間を


与えてくださったすべての方に


感謝・感謝









入院中から


みゃーと鳴く娘のみゅうの事が心配で


パートナーに毎日情報をもらっていたのだけれど


みゅうが私のおおうちの家族になってから


こんなに長く離れて過ごす事がなかった事もあって


みゅうは食事もおトイレもできなくなっていたりを


教えてもらうたび


早くおうちに帰らなければという思いが


モチベーションを高めてくれた一つとなっていたように


感じているの


私の過ごしたお部屋の方は


お子さんを誰かに見ていただき


離れて入院しているのか


看護師さんなどに「いつ退院できるのか?」を


何度も尋ねていたり


お子さんが面会に訪れ


面会時間になろうとする時の離れる感覚が


お子さんもお母さんも寂しい気持ちになるのか


泣いているお子さんに「すぐに帰りからね」って


伝えられている姿を見つめながら


母性というものが時に


自分以上の力を与えてくれて


色々な事を乗り越えてゆけるよう働いてくれるのかなって


感じていたの










今回いつもの私らしくないというのか


もしかしたらこれが本当の私?と思うような事が


たくさん感じる機会があったの


私は姿は大人なのに


注射などが苦手で


そのたびありがたい事に


上手にできる方と出会ってきた事もあって


瞬間的な痛みを我慢できたのだけれど


今回入院しごあいさつに来ていただいた


看護師さんの中に


どうしても理由はわからないのだけれど


好意的な何かを感じられない人がいたのだけれど


この感覚が自分の思い込みなのか


直感的なものなのかは


判断できないまま


点滴をしていただくため


その方にしていただく事になったのだけれど


血管が見つけられないようだったので


「見やすいところでいいですよ」と精一杯の努力をし


伝えたの


そうすると最も痛みを感じる場所を選択し


「見えない場所で何度も失敗するよりは


一回で成功した方がいいと思うので」と伝えられ


覚悟を決めて行っていただいたのだけれど


瞬間的痛みで終わるはずなのに


ずっと痛みが広がってきて


つい「早く抜いて!痛すぎる!違う人に代わって!」と


思うままにストレートに表現してしまったの


今までの私ならば


相手の立場を考えすぎて


自分の思いを抑え我慢する事が多かったのに


あまりにもストレートに表現している自分に驚いたの


その後違う方が来てくださったのだけれど


皮膚の青紫色が広がったままになっていて


見つめるたびに


今もその痛みの感覚が蘇ってきてしまうのと同時に


言葉では上手に表現できないのだけれど


今まで人に依存し


代わってもらえる事は誰かに代わってもらうという


時の流れを過ごしてきた弱虫な私が


今回は様々な選択も決断も結果も


すべてが自分のために


自分にしかできない選択を受け入れ


そのためにここにいるという意識が


強く働いていた事もあって


自分が自分を信じて進む事を選んだ以上


小さな妥協が後悔に繋がってしまう事を


良い意味で許せなくなっていたように思うの


そのおかげもあってなのか


その後看護師さんには恵まれ


幸せな入院生活を過ごす事が出来たの


私がどうしても好ましく感じなかった方は


たぶんいつもこのような流れの中で過ごされているようで


私の隣に手術を終えた方が運ばれてきたのだけれど


その看護師さんが担当していたのか


気づいた時には血圧は下がりすぎ


ずっと吐きながら過ごされていて


その看護師さんはその方のそばで「大丈夫ですか?」と


声を掛けられていたのだけれど


その対応に具合の悪い患者さんは


「見たらわかるでしょ。意識がなくなりそう」と


言葉にしながら


ナースコールを押し意識が遠のいていったようで


その後何人ものお医者様や看護師さんが集まり


輸血の準備を整えお部屋も移っていったの


私は隣のベットでずっとその方の回復を祈りながら


もしかしたら私もあのように大変だったとしても


不思議ではなかったのかもって思いながら


小さな事だけれど


自分の思いを信じて伝える事の大切さも感じたの


自分の中で正しいと思う選択をした時


もしも相手が傷つき


好意的なお付き合いができなくなるような事があっても


それは仕方がない事のように感じているの


人によって必要に思う事も


大切に思う事も違うのだから


妥協できることとできない事も


分野によって違っていたり・・・


ある部分では心が広いなって思う事を感じる時もあれば


こんな事にこだわりがあるのか~と思う瞬間もあるし・・・


すべてがフィットする存在は


家族や恋人・友人であっても


それは難しいものだと思うの


友人関係などでは相手の事が少しでもわかっているから


今日は相手の思いを受け取り譲ろうと思ったりしながら


楽しく繋がりあえている部分もあるけれど


今回の体験は


私がなぜここにいるのかという強い意識の元で


与えられた体験だと思っていたので


ストレートに思いを表現する勇気が生まれたのかなって


感じたの


日本人の多くは自分が辛くっても


たとえ思うような流れにならなくっても


相手の思いを想い


自分の思いを伝えないまま結果妥協したはずなのに


納得できない結果になった時


周りからは自己責任と表現される事も多いと思うの


この独特な流れのフラストレーションは


日本人に宿る思いやりから生まれた


流れのひとつだと思うの


でもどんな場面でも


人間には守護し導いてくれる存在が


寄り添っている事もあって


何かしらの形で


直感的に自分の感覚の正しさを


伝えてくれているものなのだから


判断は難しいけれど


たとえ思い込みであったとしても


回数を重ねてゆくうちに


自分独自の直感と思い込みの違いが


わかるようになると思うの


誰もが自分の幸せのために


この世で生かされているのだから


エゴではない


自分の幸せのために様々な事を選択するのは


権利であり許される選択なのだと思うの


人は罪悪感という心の愛のバロメーターが備わっているけれど


その愛のバロメーターも


幼いころから微調整が必要になったまま


判断がちゃんとできなく


罪悪感ばかりを感じてしまう事もあるんじゃないかなって


感じているの


人は罪悪感というもので


相手をコントロールしようとする知識を持っていて


その部分を上手に使い


自分の思うままに動かそうとする方もいるのだから


愛のバロメーターの基準がちゃんと


自分の軸で動いているのかを


調整する事も大切なんじゃないかなって


感じたの









幸せって必ずしも苦労がない事でも


大変な事がない事でもなく


目の前に届けられた出来事の中に


幸せを見つけられる感覚的なもので


絶対的な比較対象がないのも


感覚的なものだからなんじゃないかなって


ふっと感じたの


今何気なく街を歩く方の中には


特に大きな喜びや感動を感じられないというだけで


退屈だ・毎日幸せを感じないと思い


過ごされている方もいるかもしれないけれど


そんな風に思っている時が本当は


最も安定した幸せな時の中にいるように思うの


今の私は術後という事もあって


今まで当たり前にできた事ができず


ひとつひとつ意識しながら過ごす中で


それだけを見つめると


前よりも大変で幸せに映らないかもしれないけれど


私自身は以前よりも


大きな幸せを感じ過ごしているの


なぜならば


当たり前に歩く事も呼吸を整え


がんばって歩くということで


今まで知ることのなかった当たり前が


どんなにありがたく


そして今日は出来なかった事が


明日にはできるようになってゆく「時間薬」という


瞳には映らない感覚的な


この体験があったからこそ


感じられる幸せのように思うの


私たち人間は時々維持されている事を


当たり前に感じ


後退せず微妙に進化し維持されている事を感じる事なく


今与えられている幸せや


無意識に頑張って過ごしている自分に対して


優しさを注いでいないところがあるんじゃ


ないかなって感じているの


人間は無意識に今よりも進歩してゆくという


向上心がモチベーションとなって


前に進んでゆく歩みを秘めているけれど


時には今自分に与えられている


当たり前だと感じている事にも意識を注ぎ


感謝してみると


何気ない毎日が


とっても輝いてくるように思うの



「時間薬」というものは


心などでも同じく



どうする事も出来ないほど悩み


思い煩うという体験の中で手渡されるもので


時間がすべてを癒し


問題を解決してくれる


何よりものお薬になる事があると思うのだけれど


つい焦りから


問題をそのままにできない思いから


必要以上に考えすぎ


問題を大きくしてしまう事もあると思うの


術後という事もあって


当たり前のことなのだけれど


思いがすぐに行動と繋がらない事もあって


気持ちは焦る事もあるのだけれど


焦る気持ちが生まれているという事は


無意識に日に日に回復してきているからなのかなって


感じているの


そして弱虫な私は術後まだ一度も


傷口を瞳に映してはいなく


その部分にふれる事も出来ていないのだけれど


日に日に癒されていると信じて


毎日こうして生かされている事に


感謝して過ごしているの








元々毎日夢を見て


ちゃんと覚えている方なのだけれど


最近はその夢を眠りながら言葉に表現しているようで


目覚めるたびに


パートナーに「今日のはなに?」と


具体的に尋ねられるの


タンインしたその日の夜には


「水1・5リットル・海藻50g・・・etc」と語っていて


私自身も目覚めてから憶えていて


いつものように夢からのアドバイスだなって


感じていたのだけれど


今まで寝言を表現した事のない私に


驚いているの


次の日には「寝返りをうつたびにポイントが上がるの」と


表現していたようで


パートナーは私が目覚めてから


大笑いしながら伝えてくれるの


確かに今まで寝言を表現する事はなかったけれど


いつも夢の中で伝えられた事を


昔からノートに書き写している事もあって


今回は肉体的な回復のために


自分のハイヤーセルフを通して


聖なる者たちがアドバイスをしてくれているんじゃ


ないかなって


感じているの


多くの方は夢を目覚めてから忘れてしまっているだけで


きっとこんな風に夢を通して


潜在意識が顕在意識に伝えていて


無意識に日々の危機回避や


何かを選び取る手助けをしているんじゃないかなって


感じているの


人間は存在自体が奇跡を形にした存在で


頭で考えたり計算したりでは出せない


超常的な能力を秘めているのに


後から人間が作り出したルールや常識によって


わざわざ遠回りしている事もあるんじゃ


ないかなって思う事があるの


世の中に伝えられているあらゆる幸せの法則のようなものを


自分の幸せだと思いこみ


その方向で努力を重ねているのに


なぜか形のならなかったりして


自分は幸せではないんじゃないかと


思いこんでしまっている事もあると思うの


でももっと内に深く宿る自分のささやきに


耳を傾ける事が出来たならば


世の中に伝えられているあらゆる幸せの法則のようなものが


たとえ手にできたとしても


幸せではない自分に気づかされる事も多いと思うの


人間の幸せって究極的には


お金で手にできない何かに大きな価値と


幸せを感じる方が多いように思うの


なのでどんなに素晴らしいおうちに暮らしても


嬉しいのは数年で


あとは慣れと経済的な事が


重く感じるようになったりして


本来の意味が何だったのかわからない状態になるくらい


大切な家族との不調和が生まれてしまったり・・・


一人で生きている方は


社会が伝える幸せの形とは違う自分に


意味なく不幸せなのかなって


自由を謳歌し楽しい本来の自分と


周りから手渡される価値観に


スッキリできない思いに包まれる事も


あるかもしれないけれど


人間が頭で考え思い描く幸せと


個人個人が感じ


見つける幸せは違うものなんじゃないかなって


感じているの


私の周りにはまるで違うライフスタイルを


送っている方ばかりなのだけれど


誰もが幸せで


誰もがある方よりも何かが不足していて


誰もが大切にしたい何かを持っているの


年々繋がりあう人たちが


類友の法則なのか


個性がはっきりとした人が多く


だからといってぶつかりあう事もなく


互いに相手を面白がりながら


お付き合いができる関係の人で


集まるようになってきているの


たとえば今回入院という体験をしたけれど


一般的な常識から考えたならば


お見舞いに行ったりきたりという


流れがあると思うのだけれど


友人たちはそれぞれにメールなどで


「お見舞いに行こうと思ったけど天気が悪いから


元気になった会おう」とか


「退院したらその門出を祝おう」など伝えてくれたの


そのたび私はほっとする自分に気づいたの


一般的には優しさが足りないとか


常識が・・・と


受け止められる方もいるかもしれないけれど


5日くらいの入院という事もあるのだけれど


疲労し寝返りも難しい時期に


会いにきてもらっても・・・という思いや


心のどこかで元気のない姿を


みられる事があまり好ましくないと思っている私は


いつも通りの友人たちのメッセージの方が


とてもありがたかったの


以前ならばこのありがたい関係に


気づけずにいた事もあったのだけれど


数年前にとっても常識的と


表現される方たちとのお付き合いがあって


何かあるたびに


「友達だったら助け合うのが当然じゃない?」とか


「普通こういう時はこうするものでしょ」と


表現する方がいて


そのたび常識のない私は一生懸命に


その方が表現する常識の枠にはまろうと


がんばったのだけれど


時間と共に冷静に見つめてみると


結局自分にとって都合よく相手を変え動かそうとしているだけで


相手の本質を全否定しているように感じ


それは常識や友達とはまるで違うもののように感じ


付き合いは卒業したの


それからはとても自由な関係の方たちと繋がり


今はとっても気楽で


楽しい時間を共有し合っているの


大きく見つめるとまるで違う生き方なのだけれど


互いに最も大切に思う価値観が共通していて


その価値観が深く結びついていて


会うたびにほっとできるの


言葉で上手に表現できないのだけれど


たとえば小さな事なのだけれど


道端でお財布を拾った時


私たちは必ず交番に届けるのだけれど


その理由は小さな得をえようとする事で


見えない徳の貯金が減る気がするからという価値観で


たとえ持ち主が現れなく


おまわりさんがもらっちゃったとしても


それはわたしたちとはもう関係のない事で


自分たちがした行動が大切だと考えているの


この事がどのように働いているのかは


わからないのだけれど


よくお財布などを落としても絶対に出てこないよと


聞く事が多いのだけれど


私たちの中では必ず交番に届いていて


数時間後には手元に戻っている事がほとんどで


そして届けたお財布の持ち主も


ほとんど見つかっていて


数日後に連絡いただきお礼を伝えられる事が多いの


今の時代は交番に届けると


何割か受け取れる権利を伝えられ


受け取るか?放棄するかを伝えられるのだけれど


元々自分のものではないし


その方から頂かなくっても


違う形で自分に何かがもたらされると思っているの


それが私たちの大切に思う価値観で


その価値観が生き方すべてに現れていて


信頼しあえる縁になっているように思うの


人間は本来素直な部分を多く秘めている事もあって


周りから影響を受けて


本当は自分が作り出したわけでもない


悩みや不安のようなものを感じている事もあると思うの


よく女性一人で生きている方をターゲットに


孤独死の寂しさや不安を表現する情報があるけれど


冷静に見つめたならば


たとえ家族に恵まれ多くの方と暮らしていても


24時間ずっと共に過ごすいているわけではないのだから


天国に行くタイミングは


一人で生きている方も


家族に恵まれている方も同じだし


時には発見が遅れ・・・という表現もあるけれど


魂が肉体から離れた後の事は


もう考える事でもないように思うの


女性のライフステージはいくつかの段階があるけれど


その節目節目で比べたりして


優越感を感じたり敗北感を感じたりという


感覚的な事がよく表現される事があるけれど


女性の人生のリスクは


一人で生きていても


家族に恵まれていても


本当はそう変わらない部分も多いように感じているの


すべては生きているからこその体験なのだから


めいいっぱい楽しんで生きられたならば


それで十分なんじゃないかなって


感じているの











最近改めて自分の視野の狭さや


自分のペースのこだわりによって


見えなかったものが


まだまだたくさんある事に


気づいたの


この間友人と話していて


いつものように正義感の強い友人は


世の中で出会う


変えたい出来事について話していたの


その中に


電車に乗っていた時


明らかに健康的で若い人が


目の前にいる初老の方に席を譲らず座っていた事を


怒りと共に愛の表現もしていたの


その時以前ならば


私の友人と同じような気持ちになり


心重ねていたと思うのだけれど


その時ふっと自分の事が思い出され


初めて別の意見が生まれたの


この間術後まだまだ体調が万全ではない中


電車に乗って一人で病院へ行き


帰りにいつもならば座る事のなかった座席が恋しく


空いていた席に座ったの


そのあと次の駅から


年配の方が乗ってきて荷物もたくさん持っていらして


気になりながらも


私は席を譲り立つ事が出来なかったの


きっと周りから見つめると


私は明らかに若く健康的なのに


席を立たない不親切な人に映ったと思うの


もしも私が同じ状況を見たならば


そう思ったと思うの


今回自分が体調がまだ万全ではなく


とっても元気だとは表現できない状況だったとしても


それは周りからは見えなく


誰でも瞳に映る印象から


判断してしまうものだと思うの


そのような事もあって


友人との会話の中で


その事を伝えたの


そうしたら友人が


「私たちはまだまだ自分の思い込みから


何でも見ていて気づいていない事が


いっぱいあるんだね」と


私の意見を受け取ってくれたの


私も友人も悪気はないのだけれど


自分のペースにこだわるあまり


時にはスローな流れに出会ってしまうと


イライラしてしまったりして


「なんなのあの人」とその方の事を何も分からないのに


否定したような表現をしてしまっている事さえあるの


でもその方はもしかしたら


何かの病で思うように身体を


動かせないのかもしれないのに・・・


驚くほど愛のないエゴに


改めて最近気づかされる事も多いの


でもその愛のないエゴが自分の中にある事に


気づかせてくれたのは


もしかしたら


その真逆の感情が広がり生まれてきたから


別の波動をもつ感情が邪魔になって


気づけたのかなって


良い様に解釈しているの


時々人は自分の中に


認めたくない感情に気づく事があるけれど


その感情を責めてしまったり


否定してしまうのは


自分の存在をも否定してしまったり


今度はユーモア一つ持つ事も


良い事のように思えなくなってしまうと思うの


そして自分が持つ理想に完璧にならないことへの


フラストレーションまで生み出してしまうように思うの


人間はこの世に生まれ変わりを繰り返すのは


その時々前の人生で気づけなかった事に気づき


学び


前の人生よりも人間的に豊かになるためなのだから


どんな感情や行動に出会っても


気づくという事が


最も人生の中で大切な事のように感じているの








今の日本はあらゆる分野で


とても格差が
大きいように表現されているけれど


本当にそうなのかなって


ふっと感じる事があるの


恋愛でも結婚できない男女というような表現で


できる人とできない人という


分け方がされていたりするけれど


本当はしたい人・したいと特思っていない人というのも多く


したいのにできない方は幸せではないかもしれないけれど


特にしたいと望んでいない方も


今の時代は多くいるだけなんじゃないかなって感じているの


昔はその様な自由を認められなかったり


その様に歩めなかっただけで


自分の価値観を大切に歩める時代に


なっただけのように感じているの


他の事でも行う必要のない見栄に


大切な経済を注ぎ


その事が自分の幸せとは違っていても


そうすることで色々な社会でのバランスを


保っていた方も多かったけれど


今の時代はストレートに


自分の幸せに気づき


大切にしたいものを大切にしているだけなんじゃ


ないかなって感じているの


この事は言葉で受け取ると


当たり前のことのように思うけれど


今までの日本社会ではとっても難しい事で


たとえば家族は最も大切なものだと思っていても


昔はその大切な人たちに最も辛く当り


逆に外の人には優しく接していた部分もあったと思うの


それは勝手に家族は自分をすべて理解してくれる


理解しているという思い込みがあって


外の方は自分をわからない分


良い部分をアピールしてゆかなければという


思いがあったのか


その様な流れを持つ家庭が多かったように思うの


そんな時代の中で


多くの方たちは


ゆっくりと「自分は恵まれているけれど


幸せではない」という感覚や


人の輪からはみ出さぬよう


自分が欲しいものではないものを揃えているけれど


こんな事をするために生まれてきたんじゃないという


無意識の感情の中


今までとは違った価値観を生み出していったように思うの


その変化に気づかない方たちからすると


昔のような統一感のない事に


違和感を感じているんじゃないかなって


感じているの


私の知り合いの中には


お里が遠くお正月などに帰るたびに


多くの経済が必要で


実家に帰った後


今度はお年玉など多くの経済が必要で


苦痛にさえ感じるようになっていったそうなの


でもお金がもったいないからと表現するのは


格好が悪いし


経済的に順調ではないように思われる事が


恥ずかしかったらしく続けていたのだけどれ


何か吹っ切れたようで両親に


その事を伝え違う季節に実家へ変える事を


伝えたそうなの


その頃友人はめったに乗らない車を手放した事もって


経済的に大変なのかなって思ったらしく


スムーズに話が整ったそうなの


その友人は今も経済的には


数年前と何も変わらない豊かさではあるのだけど


使うスペースが変化しているだけなの


車もめったに乗らないけれど


手放したとなると経済的に大変なのではと


思われる事がネックになって


ずっと維持していたようなのだけれど


ある時


自分が本当にしたい事をしたいと思った時に


そこに注ぐ経済がなかった事があったそうで


自分は色々なものに恵まれているけれど


自分自身は幸せを感じていない事を感じ


色々と考えてみたそうなの


そうすると多くの場面で


人に自慢できるからとか


人にかっこ悪いと思われたくないとか


人よりも経済的に下に思われたくないとか


すべてが自分発信ではなく


周りからの印象や評価が気になって


特別必要でもないものや行動のために


大切な経済を注いできた事を感じたようなの


そして初めに車を手放した時


やはり周りからは経済的に心配されたりして


中にはかわいそうというような表現もあったようなのだけれど


かわいそうに映っていても


本人は大きな重荷から解放され


今では必要な時にレンタカーを借りて


何の不便もなく過ごしているの


そのお話を聞きながら


私たちよりも上の世代は


なんとなくこの年代にはこれを持っていて当たり前という


刷り込みがあって


時にはあの年齢で賃貸なの?とか


あの年齢で結婚していないの?など


あらゆることでそろっている事が当たり前で


それが幸せだと表現する方も多いのだけれど


本当に心から幸せを実感しているかどうかは


また別のお話のように思うの


社会の中では表立って表現できない


事実と言うものがたくさんあって


表で表現し伝えてくれるメディアも


スポンサーの関係など様々事情があるから


伝えられている事がすべて正しい事実とは限らないんじゃ


ないかなって思うの


その事を感とってる方たちは


ゆっくりと自分の幸せってなんだろうとか


無意識に常識のように語られている事とは違う


自分の深い心のささやきを


受け取っているんじゃないかなって思うの


そして人との関わりが薄れたとよく語られるけれど


昔はそうしなければ生きられないような社会で


必ずしも付き合いがある人すべてが


長くお付き合いしたい方でもなければ


好きな相手でもなく


その方がいなくなれば


快くない言葉を表現していたように思うの


でも今の時代は


すべてにおいて


自分の人生は自分で選び


創造できる事を多くの方が知り


良い意味で人との距離を作れるようになっているように思うの


なので友達の数を自慢する事もなく


大切に思う人を大切に思い


小さな社会と丁寧に大切に繋がっているように思うの


今まで広げすぎた様々なものが


良い意味でコンパクトになってきていて


自分と向き合う機会が


多くの方に与えられいるんじゃないかなって


感じているの


この間も友人3人と食事をした時


女性ならではの相手の持ちものを見つめならが


「これいいね。どこで売っているの」など話しいたのだけれど


昔ならば聞くまでもなく


見ただけでどこかのブランドのものだったりたのだけれど


今はあえて運で自分で見つけた


それぞれが大好きなものを持っていて


ある友人はすべてそれぞれの分野で


個人の方が制作しているものを好んでいるようで


とても個性的なものばかり持っていて


それがすべてまるでその友人のために作られたかのように


ぴったりと似合っていたの


その友人はとても自分の事をわかっているんだなって


感心する事が多いの


私はまだまだ自分を


客観的にわかっていない事もあって


統一性がなく


長い間愛せるものになかなか出会えないの


ファッションでも生活に必要なものでも


すべてはその方それぞれに自分を楽しませてくれるために


この世に生み出されているものなのだから


自分が楽しい気持ちになれたならば


それでいいんじゃないかなって感じているの


美しいと思うものも


好きな香りも


好きな色も違っていても


持つ人が幸せを感じられたならば


その存在の意味があるように


人も周りからの評価ではなく


自分の思いや心のささやきに気がつき


日々笑顔になれたならば


それだけで生きている意味が


ひとつ果たせているように思うの









誰にでも

何をやってもスムーズに望む事が形となる時と


逆に何をやっても形にならない時と


いうことがあるけれど


それは人間に定期的に与えられる


徳を積む時と徳を使う時の違いなだけのように


感じているの


どんなに良いという事を行っても


運が何も変化しない時には


その事が意味のない事のように感じ


なげやりになったり


もういいやって思った後


なぜか運が変わり良き流れになった時


人によっては良いと伝えられる行いをすることが


運を整えてくれるものだと感じられず


あまりよくない習慣が条件反射のように


刻み込まれてしまう方もいると思うの


でも私が感じているのは


運があまりよい流れだと感じない時は


徳を積む時で


その方それぞれの一定数ノルマのように


決まった数値が整うと


その流れは変わり


なげやりになったり


もういいやって思った時


たまたま徳を積む時期が


終了しただけのように思っているの


そして徳を積むノルマのような一定数は


人によって様々で


できる人・必要な人・学び悟られている人ほど


ノルマの一定数が大きく与えられているように感じているの


一見不公平に映るかもしれないけれど


人によって容易いと感じる事が違うように


その人それぞれが持つことのできる範囲で


与えられている事なので


大変さや幸せ感は


変わらないことだと思うの


この徳を積む時と徳を使う時は


自分では調整できないもので


その時期に入っている時には


今はどの時期かなって感じ取り


運の流れに逆らう事なく


その時期を過ごす事がとっても大切なように


感じているの


一般的にはついている・ついていないと表現するけれど


ある時期をパーツ・パーツ見つめたならば


誰でもついていて・誰でもついていないものだと思うの


私が感じているのは


一生を通してついているひともついていない人もなく


その方がどの時期を思い出すかによって


人生がついていた・ついていないと


判断しているだけで


人間の歩みはそう変わらないと思うの


その様に表現するとならば今輝くように成功している方と


そうではない方には大きな違いがあるように


映ると思うのだけれど


成功しているように映る方は


その事を望みその場所にたどり着くよう歩んだだけで


そうではない方が


同じ事を望み歩んだかと言えば


多くの場合そうではないんじゃないかなって思うの


輝くように映る方を瞬間的にうらやましいと


ある部分を見つめて感じる事があっても


そうならなかった方たちは


冷静に心に尋ねてみたならばきっと


そのような形を望んではないないと思うの


私自身も過去に自分が徳を積む時期だと思うのだけれど


何を行ってもスムーズに形にならず


たまたまタイミング的に


周りはその逆で徳を使う時期だったと思うのだけれど


毎日輝く笑顔で楽しく幸せそうで


そして豊かさそうで


そんな時「私の何がいけないんだろう」って


何度も考えたりした事がったのだけれど


特にぴったりな答えもなく


ただただ周りがうらやましかった事があったの


でも冷静に自分の周りの事を考えた時


その方にとっては望む幸せを受け取り


幸せそうに過ごしていたけれど


じゃー私が同じものを手にしたからといって


幸せかどうかと考えてみると


それは違っていて


もっと深く見つめてみると時には


周りが幸せを感じていた事は


もう私は持っていたのに


それが私の幸せではないから


気づかなかっただけの事もあったり・・・


逆にまるで違う形の幸せを受け取り過ごす人の事を


うらやんだりした事もあったけれど


じゃーその方と人生を入れ替える事が


できるとしても


やはり色々考えても


自分の人生が一番自分にはフィットしているのを


改めて感じたり・・・


人間は時に欲張りで


たとえ今幸せであっても


自分に不足している部分に瞳が注がれる事があって


こんな私でもうらやましいと思い


見つめている人がいる事を知った事もあったの


ある人は子育てが大変で


夫婦でいつも寄り添い過ごす私たちがうらやましいと


伝えてくださった方や


一人でも心開いて何でも話せる友人がいる事が


うらやましいと表現してくれた人もいたの


だからといって伝えてくださった方たちが


幸せではないという事ではなく


その時は幸せを感じずらい時期で


たぶんその様な時は


徳を積む時期だったから


思うように物事が進まず


小さな落胆から一時的に感じたことだと思うの


人は無意識に自分の深い部分で望んでいる方向へと歩み


今の自分の姿があると思うの


ただその事に気づくのは


心が平安に包まれた中で人生を見つめられる時だけだと思うの


なので心が不安や悩みなどがある時には


すべてがゆがみ映ってしまう事もあって


冷静に判断ができないんじゃ


ないかなって感じているの


私自身


病と10年くらい付き合っていた時には


その病のご機嫌が全てで


時の流れと共に


自分の思いや考えが維持できないほど


辛い時期があって


その時には自分が認めたくないほどの


醜い感情や考えなどが頻繁に現れ


誰もがうらやましく


あらゆるものを恨み


時には体調の悪い母を見つめ


母のように病を持つ人が子供を望んだから


私が苦しむのよって


心の中で思ったり・・・


時には何気なく街を歩く人たちを見つめながら


みんなどこも痛くないんだろうなって思い


泣き出しそうになったりもしたの


でもそんな私に私と繋がってくれている人たちは


いくつもいくつも


愛情という瞳には映らないものを


手渡してくれていたの


それでもゆっくりと病によって心のゆがみが進んでいた私は


感謝する事もなく


どうせ人事だもんねとか


人にやさしくできる自分って気分が良いだろうなって


そんな風にしか感じられない時期もあったの


でも私にとってはとっても長い苦しみだったけれど


その間今まで見えなかったものや感じなかったもの


そしてそんな中でもわずかずつでも


徳を積むことが望まれていたように思うの


その徳の積み方


提示されていないけれど


その時々自分の中で正しいと感じるサインを信じて


そうしてきたの


色々と病が治るよう心身共に健やかに過ごし


私の中で信じていた


「届けられる問題にちゃんと正解を出す事が出来たならば


その問題はもう二度と届けられる事はなく


消化してゆく」という思いがあったのだけれど


長い月日をかけても治る事はなかったの


でも


今にして思えば


私の意識はその様に治る事を望んでいたけれど


私の意識を超えた深い部分では


その様な形が


私の幸せとは結びついていない事を知っていて


そうしたように感じているの


今回手術を乗り越えて


私自身もこんなに自分が笑い上戸だったのかなって思うほど


毎日シワを心配しながら笑い(笑)


そして何より周りの方の変化に驚く事が多いの


私の病を知ってはいたけれど


そんなに大変だとは思わず


よかれと思い母親になる事を進めてくれていた人たちも


手術を終えた事を知って


「こんなに悪いとは知らなかったの


本当にごめんね


見てわからない病気だから


つい若い女の人に子供を作ったらって


いっていたけど


どれだけ人を傷つけてきたかわかんないよね


あなたの事で私も良い勉強をさせてもらったよ」って


年を重ねた方たち数人に伝えられたの


言葉では上手に表現できないのだけれど


その時私の体験という小さな事なのだけれど


その事から何かを感じ取り


新たな優しさを生み出された方が広がってくると


私の行動が今後傷つく人を


ほんの少しでも減らしていたりできていたならば


私の行動は私のためだけにあったのではなく


繋がりあう


会った事もない誰かのためのひとつだったのかなって


思うの


私が今幸せに暮らせているのは


色々な要素が織りなされていて


今の社会が整うまでに


自分の事で戦い表現していた方が必ずいて


その方も自分が望む事を


ただ表現し戦いっていたかもしれないけれど


時間と共にその事が多くの方のために


なっている事もあると思うの


私の知り合いに周りの空気を読む事なく


自分が正しいと思う事を表現される方がいるのだけれど


そのたびに空気が変わり


時にはどうなのかなって思う事もあったのだけれど


月日が流れてその事が何となく常識になってきた頃


だれもがその方がまだ一般的ではない事を


必要で正しい事だと表現していた事を


忘れているけれど


その方のような方がいてくれたからこそ


ゆっくりと時代に変化が生まれ


今私たちが当たり前だと感じる事を


与えてくれたように思うの


私たち一人一人は


自分のために人生を歩んでいて


時には人のために何かしたいとさえ思うほど


愛情に溢れていて


人のためにどのような形で良い事をしたら


良いのかなって考える事もあるけれど


私が感じているのは


その方それぞれが自分の人生を


自分が思う正しさで整え


自分らしく過ごすだけで十分なように感じているの


それがやがて人の琴線にふれながら広がり


会った事もない


誰かがその価値観や思いに救われてゆくと思うの


特に今の時代はインターネットというものがあって


自分の体験を表現されている方が多く


一見ただ自分の思う事や体験を書かれていて


書かれている本人も


自分の記録を載せているだけだと思って過ごしているけれど


多くの方がその体験や思う事から


色々な事が学べたり


新たな価値観が生まれたりして


その何気ない事が十分人のためになっているように感じているの


何かを人に教えようとあえてする事はないと思うの


人はそれぞれに自分に必要なものを探し出し


教えられたと感じたりしながら


学んでゆくものなのだから・・・


よく私の周りではブログなどに書く事がなくなり


何かないかなってって尋ねられる事があるのだけれど


それはきっと与えられた空間で


意味のある事を表現したい・しなくっちゃっていう


思いがあるからだと思うの


でも私が感じているのは


この世界中にこれだけの人が存在しているのに


自分と同じ人がいないという事に


重要な意味がもうすでにあって


神様は一人ひとりの違いを


この世界に表現してくれる事を望んでいて


そうされているように思うの


なのでたとえ日常的な小さな出来事であっても


そこで感じた自分の心を表現するだけで


与えられた空間は満たされ


意味のあるものとなってゆくように思うの


私j自身も病になってから


同じ病の方の日常が書かれたブログや


手術体験など細やかに描かれたものを


良く見つめていて


とても救われた事があったの


専門書などには書かれていない心や感情が溢れているのが


個人のブログやホームページの良さだと思うの


書かれている本人は


自分の体験をただただ記録しているだけだと


思っていると思うのだけれど


それがある意味で人に与える無意識で無償の愛情となっていて


大きな徳を積んでいるように思うの


自分が良い事をしたと意識せずに行う事の中には


計り知れない愛情や徳があって


私たちは無意識に自分の存在が


誰かのための行動や言動と


なっている事もあるんじゃ


ないかなって感じているの