2010年1月


2010年を迎え



今年はどんな年になるのかなって



瞑想しながら



過ごしていたの



昨年は「過去」がキーワードとなっていて



多くの方が



過去に忘れてきた思いや



時間が止まったまま



過去に置き忘れてきたものが



現在と繋がり



心の体験をする年だったのだけれど



今年は等身大の自分を



体験する年なのではないかなって



感じていたの



それは人によって



感じ方が二つに分かれるようで



今までバイオリズムや



様々な方たちの支えによって



自分の力以上にスムーズに



進んでいた方たちには



初めて自分と向き合う年なので



その方にとっては



もしかしたら



自分らしくない流れなので



戸惑われる方も多いとは思うのだけれど



その体験は



自分を知る事で未来への計画表を



作る大切な時期となり



エネルギーが柔らかくなる事で



人への感謝という



徳を積む事が出来る時期だと思うの



なのでスムースに進まない事を



焦ることなく



この年の流れを意識しながら



次に進んでゆく準備を



されるとよいんじゃないかなって



感じているの



逆に今年は等身大の自分を



体験する年なので



今まで実力があったのに



何となくタイミングが整わなかったりして



世の流れを悲観したりされていた方たちは



何度もチャンスが訪れる年なので



人生の喜び・楽しさを



体験できる年となるんじゃ



ないかなって感じているの



なので今まであたためていた



様々な事を実現できる年なので



いつもよりも



ほんの少し前に踏み出す勇気を



生み出される努力が



求められることも多くなると思うの



世の流れの中では



前に進む事ばかりが



進化と進歩と思われていた流れが



今年は少し変化し



「この人にこんな才能があったんだ~」と感じたり



「こんなに良いものがあったんだ~」と



改めて知る機会も多く



復活してくる人や物質も多く



その逆にそして交代・後退も多く



「等身大」「現在」「今」というものが



キーワードとなるように



感じているの



人との繋がりの中でも



今まで好きになれなかった方の



素晴らしい資質に気づかされたりして



自分の価値観にも



新たな気づきの多い



年になるんじゃないかなって



感じているの



そしてその逆もあったり・・・



今年は今までとは流れが少し違い



戸惑われるかもしれないけれど



自分の本質を知り



未来予想図を



作り上げる年なので



たとえ自分の中に見つかった



あまり好ましくない部分に出会っても



「発見できた自分ってえらい!」とか



自分をダウンさせてる事なく



褒めてあげながら



進んでゆくとよいんじゃないかなって



思っているの



人はそんなに秘めたものには変わりはないので



自分の中に好ましくない部分を見つけても



気づくか気づかないかの違いだと思うの



でもいったん気づきを受け入れられた方は



その瞬間から



不思議なほど



内なる自分が



自分の意識とは別に



消化活動してくれて



新たなものを納められる



スペースを作ってくれるので



その時の原動力ともなる



心の力をダウンさせてしまわない事が



大切なんじゃないかなって



感じているの















昨年は多くの方と出会い



そして多くの方に支えられた



素晴らしい年になり



いつものように



新たな年を迎えられた事に



今安らかない気持ちで



過ごしているの



年末年始は



毎年大切な家族と



過ごしているのだけれど



そのたびに



心揺れる出来事が



私には届けられ



その後


自分を見つめる機会が



与えられているの



今年はパートナー家族の中で



とっても親孝行で



色々な事に頑張っていた兄弟が



何気ない話の中で



私について



まるで



お説教に似た言葉で



私の人生の良くないと思われる部分や



不足しているであろうと



思い込んでいる事を



語りだしたの



私は少し驚きながらも



その話を止める勇気がなく



「そうかもしれないね」と



話を流していたのだけれど



私の中で落ち込んでゆく自分に気がつき



その場から立ち去り



私の実家へ



少し早めに向かったの



私の実家では



弟たちのもとに授かった



二人のかわいい天使たちが



私を待ちわびてくれていたようで



とても歓迎してくれていたの



でもその少し前に



心揺れる出来事があり



その事を自分の中で



消化しきれていない私は



母に



「私ってそんなに自分の人生を



嘆いているように見える?」とか



私ってエネルギーが強すぎて疲れちゃう?」



「私って人に好かれない人なのかな?」など



伝えられた事をすべて尋ねていったの



そうしたら母は



「そういった人を許してあげなさい



その人がどんなに優れた人であったとしても



あんたより今幸せじゃないんだよ」と



私に伝え



母がいつも様々な本を読んだ時



印象に残る言葉をメモしてある



ノートを手渡し



そこに書かれていた言葉を読んでみたの



そこには


「僕は今まで説教されて



改心した事が



まだいちどもない



お説教している人を



偉いなあと思った事も



まだ一度もない



お説教なんて



自己陶酔だ



わがままな気取りだ



本当に偉い人は



ただ微笑してこちらの失敗を



見ているものだ太宰治」と



書かれていたの



その言葉を読みながら



何か言葉では表現できないものが



心の中をクリアにしてくれたのを



感じていたの



私の心を揺らした彼は



元々強いコンプレックスを持っている事は



知っていたのだけれど



そのコンプレックスをひとつずつ解消し



すごいなって



私は感じパートナーとよく話していたので



今回少し驚いてしまったの



彼が表現した言葉を



冷静にひとつずつ思い出してみると



すべて彼は自分が心の体験から



想像で私もそうだと思い



伝えていた事を感じていたの



誰からも見える形のコンプレックスを



解消していただけで



見えない



心の影まではわかっていなかったので



今回私にお説教的な言葉を



表現していたけれど



そのすべては



自分を無意識に



映しだしていたのかもしれないなって



感じていたの



そして私がとても印象に残ったのは



私は学歴がないから



色々なものから逃げて・・・という



言葉だったのだけれど



同じものを見つめてもそれぞれの表現や



感じ方があるけれど



私自身



一つの事を続けこだわる事も



信念としては素敵な時もあるけれど



その信念が



自分を追い込み



出口を見つけられなくしてしまう事もあって



自分を追い込んでしまう事の



こわさを何となく感じているので



ちょっとこれは違うかもと思ったり



今は心身のコンディションが整わないので



取り組めるタイミングが来たら



取り組むという



スタイルもあってよいと思っているの



なのでもしかしたら



方向転換する生き方が



逃げとして映ったのかなとも思ったの



日本人のDNAの中には



一度スタートした事を



途中で方向転換する事を



すべて逃げという表現をされる方も



多いのだけれど



早い段階で違う道を見つけられるのも



その方の生きる力で



素晴らし勇気だと思っていて



私が彼に表現された



学歴がないから・・・という事への



コンプレックスは彼が言うほど



自分の中にはなく



それはきっとありがたい事に



出会う方すべてが



私よりも頭がよく



多くの事を知っている方たちだったので



教えてもらう事や学ぶことも多かったのと



それ以上に優れた方たちだったので



寛大な心で繋がりあってくれていたので



その部分で困ったことも



後悔も少なく



過ごせてきたのかなって



感じていたの



今回は一つの与えられた問題から



色々な事を学べたのかなって



新年早々



自分を褒めてあげたいなって



思っているの















は少し前まで



自分の見つめ方が変わると



すべてが変わり



幸せになれるという意味を



そのまま受け取りながら



それは単純に



事実を見つめるのではなく



見方を変える努力によって



自分の心が変わり



幸せを感じやすくなると



思っていて



言葉では上手に表現できないのだけれど



それはただ単に



思い込みを強化させる事なのかなって



思っていたのだけれど



本当はそうではなく



自分の見つめ方や考え方を変化させ



初めは思い込みにとても近いかもしれないけれど



その心のささやきを



脳がキャッチして



心身が自分の意志とは別に働き



そう思える環境へと導いてくれていたり



その思いが必要としているものを



招き寄せてくれるんじゃないかなって


感じているの



私たち人間は時々



とっても不思議な偶然の一致に出会い



感動することもあるけれど



その奇跡さえ実は



自分の内なる働きによって



外の世界に表現されているように



感じてるの



私たち人間は一点を見つめていても



本当は横などの広い範囲に



様々なものがある事を知っていても



すべてを認識してしまうと



あまりにも膨大な量のスペースが



必要になってしまうので



とくに意識を向けたり



自分の意識の中の記憶には



刻まれていないと処理していると思うの



でもひとたび



何かを望んだり



なのかをイメージしたりした時



そのささやきを脳がキャッチして



過去の



今まで流れるように見つめてきたものや



今まで何気なく瞳に映ったものの中から



重なるものを見つけ



それとフィットする環境や



物質が用意されている場所へと



連れて行ってくれているんじゃないかなって



感じているの



私たちの脳はまだまだ解明されていない分野も多く



とても大きな可能性を秘めていると



伝えられているので



奇跡は外からもたらされていると



思っている事も



本当は自分の脳がセンサーのような働きによって



私たちを動かしているんじゃないかなって



思っているの



よくあることなのだけれど



本来の目的があって



ある場所へと向かい



過ごしている時



本来の目的の場所へ向かう途中で



瞳の中に流れるように映る映像があっても



意識には残さず



過ごしているのだけれど



ひとたび何かが必要になったりしたとき



ふっと「あ!あの通りにあったような気が・・・」と



思い出せるのも



意識とは別に



まるでそれは



宇宙や人類の過去から未来までの歴史全てが



データバンク的に記されているという



アカシックレコードのように



すべて記憶されているデーターがあるからなんじゃ



ないかなって感じているの



なので人それぞれに



好んで



瞳に映してきたものや



足を運んだ場所・



耳にしてきた言葉が違うので



同じ体験の中でも



答えが違ったり



求めるものが違うのは



当たり前なのかなって感じているの



私今ここを見つめてくださている方たちの多くは



同じ時代・そして似たようなライフの中



歩んできた方が多いと思うので



大きなベースは何となく



似たものを築いてきているので



理解できる事・共感できる事もあるとは思うのだけれど



以前何かの映像で



発展途上国を豊かにするために



知恵と技術を伝えるものが流れていて



その中で



牧場をされている方がいて



いつも外から牛を購入し



育てて出荷するという



サイクルを繰り返されていたのだけれど



そのサイクルを見つめ



途上国の人が豊かになれるヒントを見つけたの



それは外からいつも購入するのではなく



自分の牧場で繁殖をし



出荷するという



今の私たちの社会の中では



そんなに珍しい事ではないのだけれど



その事を伝えると



オスはリーズナブルな価格だけれど



メスはオスを数頭購入できるだけの価格で



そんな事をしたら



今よりも貧しくなってしまうと



途上国の方の意見をなかなか



受け入れられず



途上国の人たちは



オスを数頭購入しなくても



メスとオスがいたならば



それだけで良い事を伝えたのだけれど



理解ができないようで



結局今までのサイクルのままになってしまったのを



見つめながら



事柄は違っていても



私たち途上国の人であっても



見たことも聞いたこともない亊は



自分の内なるものが



事実とは違うと判断し



後になってそれがたとえ正しかったとしても



受け入れられない事もあると思うの



そう思うと



すべては自分の中に蓄積している



すべてのものが



自分の人生を創造しているんじゃ



ないかなって感じているの



なので良い思いも



そうではない思いも



すぐに心が脳へと指令を出しているので



好ましくない思いをイメージしたり



話してしまった後には



まるで重ね塗りするように



自分一人の時にでも



「さっき○○と言ったけれど本当は大好き」とか



「さっき○○と思ったけれど



自分に必要がない事だったから消去」など



心がついてゆかなかったとしても



言霊の力を借りて



修正してあげるのも



良いんじゃないかなって



感じているの



どうしても怒りや不安などが大きすぎて



具体的に言葉が浮かばないのならば



「ありがとう」や「ありがたい」を



ターゲットがなくっても



数十回唱えるだけでも



自分の中に良い変化をもたらすので



行ってみると



良いと思うの



その言葉が「ありがとう」を表現したくなるものを



導き



「ありがたい」と思いたくなる出来事を



招き寄せてくれると思うの














人間はみんな愛というものが



自分の意識とは別に備わっていて



その愛が時には



人を傷つけてしまったり



自分を追い詰めてしまったり・・・



そして愛が思い描く形にならなければ



人から責められるよりも



つらい



自分が自分を責めてしまう事もあったり・・・



そのような時間を過ごしていると



自分がこの世にいる事の



存在価値ってあるのかなって



思いだしてしまったり・・・



私はあまりTVを見ないのだけれど



たまたまスイッチを入れた時



とても心惹かれる言葉が



耳に流れてきたの



それは心癒す本の紹介を



されているようだったのだけれど



その中で貧乏神が



自分の存在価値を悩むお話だそうで



貧乏神は人を経済的に



貧しくし



人を困らせたり



悲しませたりする事しかできない自分が



なぜ自分が鬼ではなく神なのかと



悩み大神様に相談するの



うしたら自分と同じ神で



上も下もなく同じ神だと伝えるの



そうして貧乏神は人間に



謙虚に質素に暮らす事の大切さを



教えてくれる神様だと



伝えていたの



そのように見つめてみると



神と名のつくものなのに



確かにあまり好ましくないイメージで



しかも神さまのグループなのかなって



少し疑問に思っていたので



何か言葉では表現できない



心だけが感じられる



感動があったの



そうして人を困らせたり



悲しませたりする事しかできないと



思い込んでいる人であっても



直接的な方だけではなく



間接的にも



人に何かを教えていたり



気づきを与えていたりして



やっぱり必要のない人はいないんだなって



改めて感じていたの



貧乏神の事で言うと



私自身



パートナーと一緒にいたいだけで


結婚した時



今思えばきっと貧乏神も同居していて



お部屋が3つあっても



ライトがあるお部屋はひとつで



そのおかげなのか



パートナーと私はいつも隣に寄り添い



互いに好きな時間を過ごし



食事も毎日もやしのお世話になるくらいだったの



でもその頃



今以上に人の心の温かさに触れる機会も多く



知り合いが



「失礼かなとは思ったんだけど



もしよかったら使って」と



私を気遣い中古だといいながら



本当は使用していないものを



プレゼントしてくれた亊



今でもありがたくって



瞳に虹がかかるくらいなの



経済的にはゆとりはなかったのだけれど



心はいつも人から注がれている愛情に気づける



やわらかな心で



あのころはあの頃で



豊かだったと感じているの



きっと貧乏神さまは



その当時嘆く事もなく



質素を楽しみ



心豊かに暮らしているので



学び終了と思い



自然とどこかへ旅に行かれたのかなって



感じているの



貧乏神さまはきっと



謙虚と質素に暮らす事の大切さを



知る事によって



心の豊かさがもたらされる事に



気がつく



必要な方のもとに



ふらっと寄り添うのかなって



感じていたの











よく自分の心が傷ついた時には



とっても敏感に



感じ取れるけれど



その逆の感覚には



気がつかない事って



あるんじゃないかなって感じていたの



意識的に傷つけようと思わず



逆に元気を与えようとして



言葉や行動を手渡しても



受け取る方にとっては



とっても大きな負担になってしまったり



上から憐れまれているような



みじめな気持ちを与えてしまったり・・・



私たちは自分が傷つくこともあるけれど



きっと同じくらい



無意識に



自分の言動・行動・生き方etc



様々なもので



間接的にであっても



人を傷つけてしまっている事もあると思うの



私はよくお話をする事が大好きで



ただただその空間が楽しく



笑顔があふれる事が



自分自身幸せを感じる事もあって



言葉数が溢れるように多いの



なので私のパートナーは



無口な人なので



いつも見守るように



楽しい空間の中で過ごしているの



私はつい無意識に



すべての人が笑顔でなければ



気になってしまい



時にはおしつけがましく



パートナーに話す事を



強要していたのだけれど



ある時パートナーから



「さーちゃんは人と話すのが大好きで



人よりも言葉を交わす数が



多いんだから



サービス精神が先行して



色々話しているうちに



無意識に人を傷つける言葉も



結構言っているよ



ただ信頼関係がある



仲のいい人同士だからいいけど



俺は人を傷つけるが嫌だから



あれこれ考えていると



言葉が出てこないんだよね



さっき子供たちに



自分の手を褒められた時



子供たちに



「いいパートナーと結婚すると



お姫様みたいな手でいられるから



苦労の少ない相手と結婚してね」って



いってたけど



その言葉も聞く人が聞いたら



苦労して生きている人を



全否定しているように



受け取られるんじゃないかな



たまたまサーちゃんと仲良い人たちでの



会話だから



本当だよ~って盛り上がっていたけど



そういう会話が感に障る人もいると思うよ」って



伝えられて



ハッとさせられたの



とっても恥ずかしいのだけれど



自分が思いやりを前面に



無意識にアピールしていたけれど



本当は無口なパートナーの方が



深い思いやり



溢れる人だったんだなって



感じたの



それと同時に



人間には様々な心の受け止め方があって



そのすべてを満たしてゆく事は



難しいのだから



改めて



やはり私は私でしかいられないのだから



私らしくいようと



強く感じたの



どんなに心使いをしても



人には受け取る形やサイズなど



様々あるのだから・・・



日本人の価値観の中で



共感し合う



思いやりの形というのは



自分の軸を大切にする事よりも



周りの方の心の動きを



受け取り



それに合わせて



接することという形が大きく



時にはその感覚が



一人で過ごす時でさえあって



自分の人生をまっすぐに見つめる時間よりも



周りで起こっている出来事や



周りの方の動きの方に



意識が向かい



問い直す事のない流れが



少なからずあると思うの



それが強くなりすぎると



気がつくと



自分からあふれる言葉が



いつも誰かの話題であったり・・・



その様な過ごし方の癖を持ってしまうと



毎日せっかく届けられる



聖なる者たちからの贈り物ともよべる



シンクロに気づけず



時々訪れる自分自身の出来事に



迷いが増えてしまったりして



時には自分が



すべてのものと切りはなされた感覚に



包まれてしまうと思うの



私の友人は



会社の中でどうしても



フラストレーションがたまってしまい



その意識を



仕事から解放された後であっても



ずっと残っていて



あれこれと自分以外の人の事を考え



あれこれとどうする事も出来ない事を



分析してしまっている自分に



疲れてしまい



その思いをどうにか解放できないかと



自分なりに考えたそうなの



その結果



友人は



どうしても心重ねられない相手との仕事の場合



以前ならば



「なぜこのひとは・・・」と



怒りがあふれてきたそうなのだけれど



今はその時その時



「この人は人間になり損ねたくまちゃんなんだわ」と思ったり



あるときには



「この人は人間にあこがれている御団子なんだわ」と



思うようにしたようなの



一見表現は



相手をあまりばかにした表現のようなのだけれど



彼女がそれで心が軽くなり



笑いが生まれるのならば



それも一つの対処法だと思うの



もしも彼女が



相手を理解しようという思いやりの形を続けたならば



きっと彼女の心身が



大きなダメージを受けてしまい



直接的に関わる方にも迷惑がかかってしまうし



何より



自分自身を大切にできない自分を



自分が愛せなくなってしまうと思うの



人にはそれぞれフィットした対処法があると思うの



私の場合は



社会生活のスペースが小さいので



届けられる出来事も



決まっている事が多いので



友人ほどフラストレーションが生まれる事はないのだけれど



私のフラストレーションが生まれる



特徴の多くは



私の生き方について



あれこれと快くない言葉を



伝えられる事が多いので



そんな時には



伝えられた言葉がとは逆に



「私ってそんなに幸せそうなのかな」と思ったり



「そんなに私の事がうらやましいのかな」など



自分も相手も



できるだけ責めない対処法で



流すようにしているの



それは昔両親から教わった事で



その頃



何も問題がないことであっても



すぐに特定の特徴を持つ方から



バッシングされるという事に悩み



父に話した時



父が



「人は自分よりも劣る人間には



余裕を持って優しくできるけど



もしかしたら自分を超えるかもしれないと



感じた相手には



いじめたりして



自分の位置を守ろうとするもんなんだ



だから



言われる人間はそれだけ



勝っているという事なんだから



自分に自信を持て」と伝えられ



それからその言葉が



私の中で進化していったの



人はやさしくされて



それだけで幸せだし嬉しいけれど



それ以外の場面に出会った時



落ち込まずにいる



私の対処法の一つになっているの



昔は話し合えば必ず



わかりあえるという思いがあって



その思いが



自分を苦しめていて



そこからなかなか



出口を見つけられなかった事があったのだけれど



今は



どんなに長い間お付き合いを重ねても



相手も自分も



わかりあえないものは



わかりあえない事実に気が付き



私の場合は逆にその事で



ホッとして



心が解放されたの



誰でもそうだと思うのだけれど



人間は自分が愛するものを聖なるものと感じ



どんなに言葉足らずであっても



時には傷つくような言動や行動があっても



必ず愛で見つめ包み



「あの人はきっと優しさからそうしたんだ」って



答えに繋がる流れを



自分で生み出してゆくけれど



その逆の場合は



初めから好意的ではない場合



何でも良く受け取れない自分がいて



せっかく相手がしてくれた好意であっても



なにかと



良くない受け止め方をしてしまうと思うの



中には好きかそうではないかの



判断をしていない相手であっても



その時の心身のコンディションによっては



良くない対処をしてしまったり・・・



人は毎分心が何かに影響を受け



変化しているので



周りの方の心の動きで



自分を見失わず



自分が自分らしく過ごせるよう



人に注ぐ思いやりや愛情の何倍も



自分の注いであげる事が



最終的には



自分とふれあうすべての人に



無意識にあたたかい何かを



手渡してゆけるんじゃないかなって



感じているの









ここ数年



多くの方が迷いながらも



自分らしさを発見し



歩んでいるのをとても感じているの


昔は



自分という個性よりも



周りと足並みをそろえる事に



一生懸命で


その代わり



今の時代よりも迷いもなく



流されて生きていた方が多かったけれど



今の時代は



様々な個性の形が許されている



優しい時代が



広がってきているので



逆に流されて生きてきた方たちは



どこにピントを合わせたらよいのか



わからず



大衆意見というものも



多様化しているので



どっちにしても



自分という個性を見つめる機会が



訪れ



良い意味でも



自分という個性に気づき



自分らしく歩む方法を



探しやすい時代だと思うの



初めは戸惑われるかもしれないけれど



今はインターネットなどがあって



小さな世界だけでは測れなかった



価値観を見つけられたりして



正しいと思っていた事も



そうではないと思っていた事も



必ず共感し合える人の存在を



感じられる時代なので



ある意味で心支えてくれる



存在と遠くにいても



繋がっている安心感や



幸せを感じられると思うの



私自身



自分にとってはほんの些細なことであっても



「それは違うよ」とか



「それはおかしいよ」などの



言葉を手渡される事が多かったので



いつもできるだけ



自分のカラーを出さないように



人とお付き合いしてきたの



その中には



幼いころからのトラウマで



本当に仲が良くない方とは



お箸を使って食事をしないという事が



私の中にはあるの



それは幼いころ



親戚が集まる席で



私のお箸の持ち方が違うという事で



私以上に



母親のしつけが良くないと



母が責められていて



私はそれから



見よう見まねで



皆と同じお箸の持ち方をしながら



誰かと食事をするときには



気をつけてはいたのだけれど



どうしても違和感からなのか



食べ物を挟む事が出来ず



本来の食事よりも



お箸のも力に意識が注がれ



私にとっては



人と食事をする事が



苦痛になってしまったの



大人になってからも



できるだけナイフやフォークを使う



食事を選び



人と食事をしていたの



そんな時



今の私の精神世界の入り口を



作ってくれた友人と



食事をするときに



その友人が大切に思っている方の



お店に私を招待したいという



お話があって



いつもどおり



正しいお箸の持ち方をしたのは



良いのだけれど



お料理が進まない私を見て友人が



「あまり好きじゃなかった?」と



尋ねてきたので



その友人には



正しいお箸の持ち方では



食事ができない事を伝えると



「どんなふうに持つの?」と



尋ねられたので



いつもの私の持ち方をすると



「芸術家みたいだね」と



優しく面白がってくれて



「私の前ではおいしく食べられる持ち方でいんだよ



チャーチルとか有名な人たちは



左利きを親に直されて



それが原因で



脳の連携に時間がかかるようになって



スムーズに言葉に直す亊に



時間がかかってしまって



本人はとっても悩んだみたいだよ



持って生まれたものを



無理に直してしまう事が



必ずしも良いわけではないから」と



伝えてくれたの



その時初めて



言葉では説明のできない



大きな優しさに包まれ



自分が自分でいていんだって嬉しかったの



でもこの間



家族で食事をしている時



弟のもとに授かった天使に



あ!さーちゃんお箸の持ち方違うよ」と



指摘を受けて



持ち方をアドバイスされたの



その時父は



「この人は別の星から来た人だから



仕方がないんだよ(笑)」と



表現し



弟は



「さーちゃんのマネをしちゃダメなんだよ」と



伝えていたの



そのどちらの言葉も



私にとっては



自分の存在意味を



表現してくれている言葉に感じていたの



父は父で思いやりを表現し



弟は弟で



どんな生き方をしていても



間接的に教訓を



与えている事を



無意識ではあるけれど



私の教えてくれていた気がするの



人間はどうしても



自分と違うものを



否定したり排除しようとしてしまうけれど



どんな人からも



学びや気づきを



与えてもらっている事を改めて感じていたの



社会というのは



色々な人がいて



なりたていると思うの



たとえばみんながみんな



自分で何でもできるのならば



こんなにも社会の中に



職業はないだろうし・・・



良く友人とも話すのだけれど



友人は疲労のために



カイロやマッサージに通うのだけれど



そのたびに



昔ならば


「あ~またお金がかかっちゃうよ」とか



「なんで私の体って忍耐力がないのかな」など



エネルギーが浪費してしまう



言葉を表現していたのだけれど



最近では



カイロやマッサージに足を運ぶ時には



「そろそろ先生の所に還元しようかな」とか



プラスエネルギーが溢れる



言葉を表現しているの



そのせいなのか



つも施術時間以上に



与えてもらう様々な知識や



まったく違う仕事なのに



繋がっている共通の人がいる事を知って



紹介していただき



そこから



友人の仕事の幅が広がり



驚く展開で



夢が今広がっているの



そんな友人を見つめながら



改めて思いが変わるだけで



同じ場所や時間が



別のつながりを生み出してくれる



奇跡を感じていたの



人はみんな共通の繋がりあうものが



備わっているから



言葉に表現しなくっても



溢れるエネルギーに合わせた



贈り物を



それぞれが手渡し合うものなんじゃ



ないかなって感じているの



私の知り合いの中には



とっても頭が良く



損得勘定が



無意識に備わっていて



感情に流される事なく



誰とでもお付き合いしている方がいるのだけれど



それも不思議なもので



損得勘定を



しっかりと計算し動いているはずなのに



結果いつも



損とも思われるような結果になっているの



あるとき


その知り合いの友人と私との



三人で会う事になって



楽しい時間を過ごしていたのだけれど



自分が誘ったにもかかわらず



必要以上に時間やガソリンを



使いたくないと感じる知り合いは



知り合いでもない



私と知り合いの友人を残し



帰ってしまったの



でも私もその方も



その方がいつもそのような行動を



選択する方だと知っていたので



特に不満を表現することなく



二人でその後も



話がはずみ過ごしていると



偶然



その方に知り合いが通りかかり



その方も加わり話していると



その方は最近エステサロンを



始めたようで



何万円分ものサロンの招待状を



プレゼントしてくださり



さらには過ごしていたレストランの



オーナーと知り合いだったようで



ディナーまでごちそうになり



最後は



車で来ているようで



送ってくださったの



後日その話を知り合いにすると



とても残念がっていたの



その知り合いは



損得勘定が無意識に働き



すべての事柄を



いつも計算してしまうようなのだけれど



なんとなく



思ったような得をえられないようなの



その逆のパターンもあって



自分の気持ちが何よりも



優先順位の友人がいて



自分がしたいと思った事を



損得は関係なく



行動しているのだけれど



結果



大きなものを手にしているの



おしいものを見つけると



他の友人にも



感動させたいと



届けてくれたり



良い情報があるとすぐに伝えてくれて



いつも友人には


感謝でいっぱいなのだけれど



その友人は



誰に対してもそのように



お付き合いしている事もあって



通常ならば



経済的に大変だと思うのだけれど



それが不思議な力が働いているのか



々なご縁を紹介してもらったり



人からの感謝の恩恵を受けて



いつも潤っているの



その二人を見つめていると



その方の個性が



その方の人生を



創造しているのをとっても感じているの









私の友人は



独身の人が多い事もあって



一人で過ごす時間を上手に



楽しんでいて



その過ごし方を聞くだけでも



参考になったりして楽しいの



私も年の半分は



パートナーと離れて過ごす時間が多く



半分は独身のような時間があって



そんな時



ふっと無意識に



パートナーに甘えている自分に気づかされるの



友人の多くは



一人で足を運べるバーがあったり



自分が過ごせる場所を持っていて



そんなお話を聞くたびに



かっこいいなって感じているの



友人たちは職業を持っていて



その大変な時間のリセットに



お酒を飲むという習慣があるようなの



この間母と友人と話していた時



会話の中で



友人は独身で



私は子供と共に過ごせていない



人生を歩んでいて



人から見つめると



もしかしたらかわいそうと



思われてしまうかもしれないけれど



幸せって人には見せられらるものではないけれど



何よりも自由を満喫していて



それはそれで幸せなのと



表現していた時



母は急に大きなアクションで



「そうなの!自由ほど素晴らしいものはないの!」と



力説してきたの(笑)



私の母は


元々結婚というものに幸せを感じていない人なので



世の中に伝えられている



幸せについては



疑問を持っている人なの



その様な事もあって



年齢を重ね



常識的な世代の方とは違う事もあって



友人たちは



私の母とは何でも素直に話せるようなの



ただ母の価値観の中では



親になるという素晴らしさだけが



自分の人生の大きな意味を持っているようで



最終的には



「どんな形であっても



子供は産めるならば産んだ方がいいよ」と



必ずプラスしていたの



その時友人が



「でも大変なことも多いし



色々迷惑を変えられても・・・」と



話していると母は



「親になるとどんな事でも受け止められるようになるし



子供が力を与えてくれて



親にしてくれるから大丈夫よ」と



表現していて



その言葉を聞くたびに



私の中では複雑に二つの自分がいるの



この母のもとに生まれて



こんなにも愛され



この世に誕生した事を祝福されている喜びと



その逆に



すべてに否定的な母を変えるほどの



素晴らしい体験をできない自分に対して



言葉では上手に表現できない



心の動きを感じていたの



私の友人で



家庭環境が複雑で



大変な幼い時代を過ごしてきた友人がいるのだけれど



その友人は



とってもあたたかい人で



でも親に対しては



深い恨みを持っていたの



でもその友人が結婚し



親になり



その深い恨みは時間と共にうすれていったの



その理由を尋ねてみると



親になって初めて



世の中にこんなに大切なものがある事を知って



その大切なものに対して



ストレートに優しくすることも



甘えさせてあげる事は簡単だし



親として子供に好かれたい気持ちはあるけど



長いベースでその子供の事を考えた時



親が選択してきた事の多くが



自分のためであった事を



感じるようになって



許せるようになり



感謝があふれてくるようになったそうなの



親という漢字は



木の上から立ってみると書くように



親の愛は



その瞬間だけではなく



長いベースで



子供の幸せを考え



親が良いと感じた価値観によって



選択し



子供はその時には



なかなか感じ取る事は



難しいのかもしれないなって感じていたの



そして今の時代の優しい親と



昔の親の接し方を重ね



新たに不満を



生み出される方もいるかもしれないけれど



それは時代によって



正しい事の価値観や



良いとされていた価値観も違い



比べる事は出来ないように感じているの



でもひとつだけ言えるのは



その方がどんな環境であっても



歩みであっても



今人から愛されている事を感じていたり



たった一人でも友人と呼べる人が



もしもいるのならば



どんな形であっても



その親と過ごしてきたから



今のあなたががいるように感じるの



そしてとっても困難な中でも



素晴らしい答えを生み出し



前に進んできたあなたに



素晴らしい力を称えてあげる事を



忘れてはいけないように感じているの



必ず人生には



意味があって



多くの出来事は



届けられるのだから・・・