2009年8月





この時期になると


いつも以上に


DNAで繋がれた


先祖の事を強く思い事が多いの


昨年実家に足を運んだ時


母がいつものように


霊感の強い


弟のもとに授かった天使に


私の事を尋ねているようで


その中で少し不思議だったのが


私の中では


あまり意識をしたことのない


母方の祖母が


私を強く守っているようで


それを聞いた私は


こちらからあまり意識していない方からの


守護もあるんだなって


嬉しくなっていたの


それはきっと私の母が一番


無意識に心の思う私の事を


受け取った


母の母は


自分の子供の心配ごとを


少しでも軽くしてあげようと


間接的に私を守護する形に


なっているのかなって


感じていたの


よく伝えられていることだけれど


生前多くの方から愛され


天国へ旅立った後も


多くの方が思い出したり


お参りに足を運ばれたりされる方は


天国での霊的に高くなり


自分の意志で


先祖を守護したり


危機的状況を変えられる力を持つと


伝えられているから


もしかしたら


母方の祖母は霊的に高い位置にいて


他の先祖がしたいと思っても


できないことを


してくれているのかなって


感じていたの


少し話は違うのだけれど


私の親友は


いつでも私に何でも伝えてくれて


お互いに知らないことはないんじゃないかなって


思うほど


自分の事を語り合っているのだけれど


この間初めて


聴いたお話があったの


友人はこの世に誕生して


すぐに母親が様々な理由から


自らこの世を去って


22歳まで


母親は病気でこの世を去ったと聞いていたの


そして生まれて間もない友人を


父方のお姉さんが引き取り


今までずっと大切に育てられていたの


友人もその愛情を受けて


思いやり溢れる人へと


なったの


ただこの間初めてきいたお話は


幼いころ数回母のお墓参りに


行った事があったようなのけれど


そのたびにお墓に手を合わせる気持ちになれず


ずっと幼い友人は


誰もいないときに


「何で死んじゃったんだよ」とつぶやきながら


お墓をけっていたそうなの


そのお話を聞いた時


何か説明のできない


胸一杯になる思いがしたの


友人自身何も不満もなく


幸せに過ごしていたのだけれど


何か深い部分に


消化しきれない思いを


幼いころから抱いていたのかなって


感じたの


友人が病でこの世を去ったのではないことを知ったのは


とても偶然で


たまたま私の友人が経営するナイトクラブで


私と友人が頼まれて行っていた時


友人がお話をさせていただいたお客さんが


強い霊感の持つ方のようで


突然友人の母について語り


最後に


きっとこの事を聞くために今日友人が


ここにいる事や


そのことを親戚に尋ねるよう


伝えてくれたらしいの


それを聞いた友人はとてもあわてた様子で


私のもとへ来て


伝えられたことについて


私の意見を求めてきたので


私の緯線から何となく


そう感じたことを


伝えたら


瞳から涙が溢れ


そのままおうちに帰ったの


そしてそのまま自分を育ててくれた


父方のお姉さんに電話をし


尋ねると答えを出す前に何度も


「何でわかったの?」と


動揺されていたそうなの


私が感じたのは


友人は自分の意識では


わかっていなかったかもしれないけれど


自分の意識とは別のスペースで


何かを感じていて


それがずっと消化しきれない思いとなって


続いていたんじゃないかなって


思ったの


その後友人は


誰でも辿る


問題を消化するための流れへと


進んでいったの


初めは母親に何があったのだろう?とか


親戚に訪ねると


「あなたと同じでやさしい性格だったから・・・」と


聴くたびに


無意識に自分も同じような方向へ


進んでしまうのではないかと


不安とともに


様々な抵抗が溢れたり・・・


それから何十年かぶりに


お墓参りを一人で行くときにも


つい答えが出せない疑問を


お墓に向かって


訪ねていたようあの


その頃は


とても不安定な時期を過ごして


でもそれが吹っ切れたのは


母親がこの世を去った


年齢になった頃だったと思うの


もちろん友人は気づいてはいないのだけれど


そばで見つめていた私は


そう感じているの


そのころから


話の中に「お母さんも色々あったんだろうな」って


自分が年齢を重ねて


共感できるところまで辿りつき


今まで自分も母親と同じような方向へ・・・という


不安や迷いではなく


逆に


「生きたくても生きられない人もいるんだから


私は人に何を言われても


人生をたのしんでやる!」って


まるで人が入れ替わったように


変化していったの


今ではきっと人よりも倍速で


様々な事をエンジョイしているの


友人は私なんかよりも


実感として生命の尊さと


その生命には限りがあって


輝いていることを


知っているんじゃないかなって


感じていたの







この季節


毎年原爆のことや戦争についての歴史を


瞳に映す機会多く


そのたび思いが


良い意味で変化しているのを


感じているの


よくアンケート結果やデータとして


世界のリーダーといわれる国は


自分のしてきた事を正当化し


日本人はいつまでも


昔の事にこだわっているというような


データーが伝えられるけれど


いつも感じているのは


どのような方にアンケートを受けて


どのようなことを


メディアは伝えたいんだろうって


思うの


昔はそれぞれの国が


自分の国にとって都合のよい方法で


まだ何も先入観の持たない


生徒たちに


学校などで勉強として学ばせ


まじめであればあるほど


教科書に書かれていることを


記憶し


何の疑いもなく吸収してきたけれど


最近では学んだことを


改めて自分で確認したいと思う方も多く


自分の目で様々な国の方を知り


思っていた以上に


それぞれの国の方が


心近い事を


それぞれの国の人との交流や


情報として知ることで


多くの国の歴史が少し違うことを


言葉では表現しないけれど


感じている方も


多いと思うの


世界のリーダーと伝えられる国の人は


多くの事を正当化すると伝えられているけれど


そうではない人も多く


直接自分が歴史に


かかわっていなかったにも関わらず


日本に対して


やさしいまなざしを向け


手を合わせられる方も多いと思うの


逆に日本人でも


無言の美を理解できず


驚くほど心ない人もいるのだし・・・


ただ私たちは今まで


世界を知る機会は


メディアが伝える情報や


教科書などからしか


知ることができなかったこともあって


本当のことよりも


伝えたい人の意図を


そのまま受け取っていただけだと思うの


でも今の時代はインターネットなどで


思っていたよりも


世界が近くに感じられる時代で


先入観をひとつひとつ


新たなものに書き換えてくれる体験も多く


国というよりは


個人個人の繋がりで


深い部分では


平和実現の種が撒かれているんじゃ


ないかなって


感じているの


どの国も国民を意のままにしやすいように


トップの方たちは


あらゆる宗教や良い教えの言葉を


引用し


もっともらしく私たちに


与えてきていて


その言葉自体はとても良い教えなので


スムーズに受け取るのだけれど


よーく見つめてみると


矛盾も多かったり・・・


たとえば日本では


人を疑うことはあまり良くないという


教えがあって


それをどんな場面でも


守らなければという思いが働き


自分の直感が違うものを感じても


そう思ってしまう自分を責めたり


様々な問題となている事も


あると思うの


この言葉は愛する人


自分が信頼を寄せている人


親しくしている人に対して


重ねる言葉なのに


まったく関係のないことにも


引用されていたり・・・


日本では疑問を持つ事


自分で考えて答えを出すこと自体


好ましく思われない方もいたり・・・


日本人はとても忍耐強いのに


とてもめんどくさがりやな所があるので


その部分にスポットをあてて


国のトップたちは


様々な事を勝手にきめてしまうんじゃないかなって


感じているの


そして何より日本人は


本来の自分を認め受け入れることよりも


自分を過小評価されている方が多く


自分一人ががんばっても・・・とか


何となく思っていて


そんなに大きな影響力を持っていないと


誤解しているけれど


どんな方も


知らず知らずに


ふれあう方の心ふるわせる


影響力を持っていると思うの


そして必ず共感してくれる人はいると思うの


誰もが否定される事を怖れて


言葉にしないだけで


感じていることは


そんなに変わらないんじゃないかなって


感じているの


私の母の世代は


やさしさという形が


私の世代とは違うこともあって


私はよく冷たいと表現されることがあるの


母の世代は


メディアが伝えたい意図通り


そのまま受け止めてしまうので


そういう会話になった時


よく冷たいと表現されていたのだけれど


今は血縁関係だけではない


新たな家族として


弟のパートナーや


私のパートナーもいるので


母が思う価値観にも


少しずつ良い意味で変化があるの


そんなときにも感じるのは


なぜ昔の人たちは


一番近い関係の人よりも


少し距離のある方の言葉を


信頼するんだろうって


思う事があるの


そして良く感じる事なんだけれど


近い人に対しては


勝手に自分の気持ちは表現しなくっても


わかっているという


思い込みがあって


あまり愛情を表現しないのだけれど


少し距離がある方には


過剰なほど親切だったり・・・


上手に言葉に表現できないのだけれど


そのようなことから


何かを学び


月日を重ねてゆくうちに


気がつくと


人と人とが距離を持ちずぎていて


孤独を感じる人が多い


日本になっていったんじゃないかなって


感じているの


だって誰でもふれあう人にやさしく


接してもらいたいと願っているのだから・・・


でも不思議なもので


今度は表面的やさしさにふれていても


心にぬくもりが伝わらず


寂しくなったり・・・


人間ってとても繊細な生きものだから


計算通り選択しても


それが必ずしも心地が良いものとは


感じられなかったり・・・


でも何より大切なのは


頭で考えて終わりにするのではなく


あれこれと自分でチャレンジして


答えを出してゆく


その姿勢なんじゃないかなって


感じているの








私たち人間は


自分が予測できること


予測できる動きに


安心する所があって


それはほんの少しでも


予想と違っただけで


パニックに包まれるほど


繊細な存在だと思うの


でもよーく過去を見つめてみると


多くの幸せや喜びは


予想とは違う


予想を超えたことから生まれていて


無意識に


ベストな方向へ動き出していたことが


わかると思うの


私たち人間は


その時その時


生まれる願いをいつも持っていて


その願いが叶ったか


そうではないかで


落ち込んだり


自分の運のなさを嘆いたりすることがあるけれど


本当にその感情が正しいかどうかは


もう少し時間を早送りしなければ


わからないと思うの


もしかすると未来では


叶わなくってよかった事に


感謝している自分がいたり・・・


自分の心の視野は


人によって月日を重ねてゆく事で


心の視野が広がり


様々な世界が見えるようになって


幸福の大きさや形も変わってきたり・・・


自分の事って


自分が一番知っている部分もあるけれど


近すぎて見えない部分もあると思うの


そして時々感じる事なのだけれど


今一番心に広がっている事に


集中することで


他の心曇らせている事を


覆い隠し


一時的な心の避難ができていたり


することもあると思うの


人間は繊細な存在だから


どうしても直面できないことはあるから


そのどうしても直面できない部分は


見る必要がないから


あえて他の問題を


深刻に受け止めるよう


心が働いていたり・・・


人間の防衛本能は


とっても優れていて


何層にも自分を守るために


防衛・修復を繰り返し


再生し


今こうして過ごしていると思うの


もしも一番叶えたいと願う事が


どうしても形とならないのならば


きっとその思いと同じくらい


大きな幸福が


形を変えて受け取れるのだと思うの


瞬間・瞬間で測る損得では判断できない


大きな視野で見つめると


人生は帳尻があうように


調整されているのだから







この間友人が何かのメディアで


原爆に関するものを見たようで


その中で


やさしく心のきれいな友人は


怒りを感じる事がったようなの


原爆を投下した方のインタビューらしく


詫びる気持ちも後悔もなく


聖とかする言葉ばかりが


語られていたようで


友人は怒りと悲しみで


涙が溢れて


やりきれない思いに包まれたようなの


それでその気持ちを消化しきれず


私に伝え尋ねてきたの


「何であんなひどいことをした人が


のうのうと生きているの?


精神世界とかあるというけど


あんなのみちゃうとどうなのかなって


思っちゃう」と


表現していたの


確かに友人の伝えていくれる気持ちと


私も同じだけれど


ただ人間が判断する基準では


測れない


精算もあるんじゃないかなって


感じているの


言葉では上手に表現できないのだけれど


この世での学びを瞬時に


奪われた方ももちろん


とても悲しい亊だけれど


その辛さ悲しみは


周りの方が感じる事で


逆に見つめれば


生きている事自体が


苦しいことも多いと思うの


原爆投下した方が正当化し


謝罪をしないのではなく


正しいと思わなければ


自分自身生きてゆけない思いと


時代が変わるごとに


周りの意識も変わり


責められる事に怯え


決して幸福を感じて


過ごしているかどうかは


わからないと思うの


毎年原爆慰霊祭に


アメリカ軍を退官された方が


足を運んでいて


後悔と謝罪の思いで


祈られている方も多いのを見つめると


周りに正当化論を表現してきていたけれど


個人レベルでは


罪の重さに耐えられなくなり


罪を受け入れられている方もいるの


私たち日本人でも


問題や立場は違っていても


思っている思いを


ストレートに表現できないこともあって


周りが納得する事を


まるで自分の思いとして


語ることもあると思うの


人の心は見えないから


本当のところは


わからないと思うの


世界中で過去の大きな悲しみを


思い出す事も


言葉とすることも


ずっと辛すぎてできなかったけれど


だんだんと年齢を重ね


残りわずかな時間を


どのように過ごそうかと


考えた結果


その痛みを乗り越え


ご自分の体験・思いを


世界中の方たちが


伝えられるような動きになっていて


改めて本当の事を


知る機会も多いと思うの


あのような大変な中


国同士は敵だけれど


個人レベルでは


助け合っていた方もいたり・・・


私たち日本人は


自分を責めても


相手を責める事があまり良くないこととして


教育されてきているので


まるで日本人だけがあの当時


よくないことをしてきたように


受け入れているけれど


どの国も


問題のある方はいるし


そのようない方と出会った方の体験だけが


その当時のすべての判断カラーでは


ないように感じているの


私の父の世代は幼いころ


食物がない時代だった事もあって


よく米兵の方から


食べ物をもらいよい印象だったり


かと思うと


表にはあまり語られないことだけれど


女性一人で歩けない時代だったと


語られる方もいたり・・・


そういう様々な意見を耳にするたび


国という大きく見つめて判断しても

答えを出せないことも多いんじゃ

ないかなって


感じているの


私は戦争体験をしていないのに


アメリカのテロがあった時


不謹慎だと思うのだけれど


メディアが伝えるような


大きな悲しみが湧かなかったのは


無意識のDNAの中に


まだ消化されない


アメリカへの思いがあったからだと思ったの


両親に「愛してる」と


何度も伝えたり


尋ねたりしないのと同じように


自分の中では無意識に


当たり前に


日本を思う想いがあって


表現しないけれど


大切に感じているものだと思うの


今は核を持つ国と


持たない国では


交渉などの力関係を作ってしまい


難しい問題になっているけれど


そのたびに


世界中の宗教や素晴らしい教えを


実行することが


どれほど難しいのかを


改めて感じているの


世界の中で宗教を持たない方が多い


日本人が


最も宗教の教えを実行している


矛盾を時々感じるの


良い言葉や教えは


教本を読めば


だれでも語れるけれど


それを実行する事は


本当に難しい事だから・・・









お盆にはいつも足を運ぶ


お墓参りに


今年も行ったのだけれど


その時不思議な偶然の一致が重なり


パートナーと共に


その不思議な偶然の一致に


言葉を超えた幸せな守護を


感じていたの


今年はなぜか


自分たちの意志とは別に


道に迷い


その時なぜか


大好きだった伯父の話を


急にしたくなった私は


伯父との思いでを語っていたの


そんなやわらかな愛の思い出に包まれている時


パートナーが急に


せき込むように泣き出し


「その時の気持ちを思うと・・・」と


何度もせき込みながら


言葉を続けていて


私は初め


彼は私の話に感動してくれたのかなって


感じていたのだけれど


だんだんとそうではなく


まるで伯父の立場のような言葉を


語られていたの


その時ふっと景色を見つめてみると


伯父が仕事通に亡くなった場所に


迷い込んでいた事に


気付いたの


本当ならばこわい気持ちが


生まれてもおかしくはないのだけれど


その時は不思議とそのような気持ちではなく


何か私に無言の歓迎と


お墓参りに対しての感謝が


このように自分の存在を


伝えてくれているのかなって


感じていたの


その後も様々な偶然の一致と


信じられない形での幸せが


いくつも繋がり届けられ


改めて


瞳には映らない存在の愛を


感じていたの


私の実家の方でも


素敵な事があったようで


その幸せを教えてくれていたの


お盆の早朝に


ベランダの窓ガラスを


コンコンとつつく音に


両親がカーテンを開けると


そこには


今まで見たこともないような


大きくて真っ白な鳥がいて


驚く同時に


両親はすぐにその鳥が


この間なくなった叔母だと感じたようで


やさしく話しかけたようなの


話しかけても逃げずに


ずっといる鳥に


両親は何か大きな感動を感じたようで


二人で泣いた話を


伝えてくれたの


日本人は昔から


特別な宗教ではなく


自然崇拝という


虫の知らせや


魂が姿を変えて


自然の中に宿るものに


重なっている事などに


敏感に判断できる能力が備わっているので


そう感じたのかなって


思っていたの


最近では


日本人の素晴らしい能力のひとつの


自然から感じ取る


瞳に映らないメッセージも


なかなか受け取る事が出来ない


心身の忙しい方も増えてきているので


孤独を感じられている方もいるけれど


本当はいつも何かに姿を変えて


守護している存在が


何かしらのメッセージを


いつも伝えていると思うの








今日は偶然に心惹かれたカフェバーで


パートナーと


ワインを頂き食事をしていたの


その時そばにいた方と何かのきっかけで


話す事になって


話していると


次にそばに座った方も加わり


気がつくと10人くらいの輪ができていて


楽しい話で笑い声が


まるでBGMのように


私たちを包み


とても楽しい時間を


過ごす機会を


与えてもらったの


その中でとても感じたのは


感性豊かな方たちが多かったこともあって


直接的に年齢や職業など


その方のベースについて


尋ねる方はいなく


でも感性で話される内容から


お仕事や年齢などを感じ取り


テーマとなる話題の中心も


まるで決めていたかのように


みんなが楽しめ参加できる話題だったの


楽しい時間が終わりに近づいてきた時


名刺がある方は名刺や


アドレスがある方はアドレスや


電話などなどメモし伝えあったの


そしてみんな負担にならず


時間が開けられる時期を決め


年に2回


このお店で会う事を


約束しあったの


お話の中でとても不思議な巡り合わせを感じたのは


その地域に毎年


私たちと同じように


お墓参りのために訪れているようで


今回は私も含め


いつもと違った過ごし方をしていて


このお店に入ったようだったの


その時何かとても素敵な出会いを感じあいながら


また伯父や祖母の存在を感じ


感謝していたの


おうちに帰ってから


頂いた名刺やメモを見てみると


様々な職種の方ばかりで


アナウンサー・ライター・ミュージシャン


音楽家etcなど


華やかな職業の方が多かったの


そこで感じたのは


ここ数年「音」をキーワードに


出会いが多く


その事が意味しているものを


とても知りたい気持ちが


広がっているの


私はいつも職業を尋ねられると


ふざけたように


「地球警備隊かな」って


伝えていて


そのたび笑うかなって思って


表現しているのだけれど


なぜだか多くの方は


「あ!そうなんだ」って


へんな納得をしてくださるの(笑)


それはきっと


感性豊かな方たちだから


ユーモアとしてストレートに受け止めたり


逆にその言葉から


聴いてほしくないのかなと


深い思いやりから


受け止められる方もいたりするのかなって


感じているの


以前数年前に知り合った方が


リサイタルをされる事になって


ありがたい事に


その方が着る衣装に合わせて


アクセサリーをいくつも


制作させていただき


後日発売されることになった


DVDを頂き


何度も観ながら


嬉しくって


周りの方に伝えたい気持ちになった事が


あったのだけれど


そんなときに偶然に


知り合った方がいて


その方が


たまたま著名な方と知り合い


お仕事を一緒にされた事を


喜びと自慢を重ね


周りに


伝えられている時に


なぜかあまり良い感情になれなかった事もあったり


別の角度から見つめると


自分を信頼して著名な方は


何でも話してくれているのに


自分を大きく見せるために


その方の名前を表現することは


どうなのかなって思い


私の場合は心の中の喜びとして


大切にさせていただくことにしたの


それもそのような方がいなければ


気付けなかった事だから


その方には感謝しているの


そのこともあって


長くお付き合いしてくださる方もいて


私の心の中だけでひそかに


幸せになれる時間が


増えているの









日本人は


優しさ溢れた方が多く


自分らしさを表現するよりも


周りの方への心配りや


人によっては


周りの空気を読むことを


周りからも求められるので


人と過ごす時間よりも


一人の時間に充実感を


感じられる方もいるんじゃないかなって


感じているの


でもゆっくり見つめてみると


世界中に自分は自分にしかいないのは


自分のままでいる事を


神々は求め


そして自分らしさを表現することに


何かしらの意味があるからだと思うの


よくある事だと思うのだけれど


自分の思いをできるだけ抑え


相手の希望する通りにしていても


受け入れて盛られるかどうかは別で


自分らしさ・自分の思いを


時にはわがままかなっておもうほど


表現しても


人によっては


その方に個性を感じて


好感をもたれる事も多いと思うの


人には相性があって


好ましく思えない方に対しては


どのように繋がりあっても


ひとつ直しても


また好ましくないところが生まれ


その事に対応している方が


ただただ疲れてしまうだけだと思うの


私自身


自分では気づいていなかったのだけれど


人と会い会話を交わす事が


とても嬉しいようで


テンションやエネルギーが高まりすぎて


人への心配りを


忘れてしまい


何かを望み待つタイプの方にとっては


不快に感じてしまう所が


あるようなの


その事に気付いたのは


数年前まで仲が良かった方との出会いだったの


その方は


本当に驚くほど


周りへの心配り


気遣いがある方で


みんなが食事中


飲み物が無くなるとすぐにオーダーし


空いたお皿もすぐにかたづけ


行動的にされる方で


その事にあまり気付かなかった


私を含めた友人たちは


数時間後やっと気づき


「かたづけはいいよ


ゆっくり話そうよ」というと


急に怒り出して


「誰もやらないから!」と


私たちに伝えたの


それ以来


他の友人も


その方がいるときには


そことに意識が向かい


ゆっくり話すよりも


お手伝いしたり


「ありがとう」「助かるよ」と


気遣いするようになったの


でもその方は


何か満たされていないようで


いつも違う意味での自己アピールをされていて


だんだんと


楽しめないことを感じた私たちは


その方と会う回数が減っていったの


そのお話をすると


その方が神経質に映る方もいれば


当たり前の心配りと


感じる方もいるように


自分とのフィーリングで


受けとめ方も


様々だと思うの


その方はしっかりと教育を受け


きちんとした生き方をされているのであって


逆に私たち友人が


あまりにも気付かないだけだとは思うの


でも


どちらがあっているかそうではないのかではなく


心地が良い人といると


自然にみんなが自分らしく


自分の心の器を満たし


素晴らしい時間が過ごせるけれど


そうではない場合


どんなによいセッティングがあっても


楽しめないものだと思うの


そのような話をこの間


友人たちとしていた時


「それってよく自分を守護してくれている


先祖のフィーリングが合わないと


そういう事があるみたいだよ」って聞いて


話が広がっていったの


よく恋愛であることだけれど


お互いに愛し合っていても


結ばれない人たちや


逆に特に大好きというわけではなかったけれど


自然な形で祝福されて結婚される方などがいて


そのような場合自分の意識とは別に


子孫を思う先祖が


適した人を選んでいるそうなの


そのことを聞いて


確かに恋愛だけではなく


初めて会ったばかりでも


まるで昔から知っているように


会話が弾んだり


安心感を感じたりする出会いって


あるなって感じていたの


そしてもしも輪廻というものがあるとしたら


瞳に映したり


会話を交わしたりした方としか


来世でも巡り合わないというから


そう思うと


来世でも巡りあいたい人と


大切な時間を過ごしたほうが


来世で小さな思い煩う事が

少なく済むんじゃないかなって

感じていたの








女性が女性として


誇りを持つ一つの言葉として


「どんなに頑張っても


男性には子供を産む事が出来ない」という


言葉が広がっていて


とても素直なTV好きな方たちの中には


特に深い意味はないけれど


自分の言葉として


自然に表現されるのだけれど


そのたびに


私のような特に何もできない


何もしてない存在としては


女性としても誇りを持てず


男性のように仕事ができるわけでもない


私って


社会的には


存在価値がないのかなって


いつも心が曇り


私って生きている価値があるのかなって


考えさせられるの


そしてパートナーにも


私の存在が重いのではないのかと


深く深く考えすぎてしまって


そんな時パートナーに


その思いを何気なく


表現した時


パートナーは笑いながら


「俺はさーちゃんが


楽しんで生きられるように


支える事を喜びとしているんだから


いいんじゃないの?


もしかしたらMなのかな


名前にもMがつくし(笑)」と


言葉を返しと


笑いに変えてくれたの


何度も表現させてただいている事なのだけれど


今年という年は


過去がキーワードとなっている年なので


過去を見つめる機会が


私にも何度もあって


そのたびに後悔はないけれど


何も築いてきたものがない事に


瞬間的に


心が空洞になる事があるの


そのたびにパートナーと話していると


パートナーから


「さーちゃんは自分に自信がないと


思い込んでいるけど


本当は逆なんじゃない?


どこかで自信があるから


目標設定高すぎて


そこにたどり着けると思っているのに


辿りつけない自分が


落ち込みを作っているんじゃないのかな」と


伝えられて


今まで見つめた事がない


方向から

アドバイスをもらい


ハッとさせられたの


もしも本当に自分に期待せず


過ごしていたならば


たとえ思った通りに流れなくっても


やっぱりかって


落ち込んだり


心が曇ることなく


流せるものだと思うの


落ち込んだり


心が曇るのは


無意識に自分にかけていた期待の大きさと


比例するのかなって


感じていたの


ここ数年は


自分を知るために


自分のバイオリズムをチェックしていると


とても思い知り一致に


気付かされるの


たとえば自分の心が曇った言葉や


傷ついた言葉にも


その言葉に傷つくというよりかは


過去に置き忘れた


消化しきれていない感情に気づかされたり


ある特定の人であったり


季節によって


自分の心が揺れやすくなっている事を


知ったり・・・


自分を知ると対処法が


見つけやすくなるので


落ち込みスイッチを押すことなく


楽しい時間が


いつもよりも長く過ごせるように


なるの


今の私にとっては両親に会う事が


自分が思っている以上に


心を重くしている事を


感じて


数年前からは


よい距離感を保ちながら


互いに大切な関係を


保っているの


母と会うと母は


親しくしている方が


日頃いないこともあって


合わない間たまっていた


様々な想いを表現するのだけれど


そのたび必要以上に


母を甘えさせてしまう


空気を無意識に持っている私は


逆に母の矛盾を溢れさせ


母にとっても


聴いている周りの人にも


大きな疲労を広げてしまう事が多く


最終的には


母は母自身・そして周りの方を


責めたり


傷つけてしまったりして


収拾がつかないこともあったの


でも私自身は


そのような母をずっとこの世に誕生した時から


見つめてきたので


特に何にも思わなかったのだけれど


結婚という形で


私のパートナーや弟のパートナーなど


新たな家族が加わり


新たな風が入ってくる事になって


初めて気付かされたことも多かったの


私が母のサポートをしていて


優しい娘だと


自分の事を


心のどこかで思っていたのだけれど


本当は自分自身が


そんな母を必要としていたんじゃないかなって事を


感じる事があったの


私は幼いころから


両親には大切にされてきたのかもしれないのだけれど


それは両親が考える形や大きさで


私が求める大きさや形ではなく


大人になった時に


その満たされなかった愛情を


受けとりたい気持ちと


優しさを見つけ


自分自身を納得させたかったのだと思うの


でもそれは人間という個性がある以上


ベストタイミングで


受け取る事は難しいし


母個人が満たされない幼子のような気持が


深い部分で求める方向にあるのだから


その事をくみとり


私自身にも無理のないような


付き合いがベストかなって思い


今はそうしているの







日本人は空気を読む事を


何となく誰もが求められていて


自分が思っていないことであっても


ここではそのように表現した方がいいかなって


言葉としたり


行動を共にしたりする事があるけれど


そのような時間が


長くなれば長くなるほど


自分が何を考え


自分がどうしたいのか


自分の事がわからなくなってしまうと思うの


よく感じている事なのだけれど


事件となるニュースが伝えられる時


近くに暮らしている方などに


証言をしてもら事があるけれど


そのたびに驚くのは


よく見ているな~と思ったり


良く知っているな~と思うほどの


証言を語られていて


そのように多くのエネルギーが


他者に注がれているのだから


自分を見つめる機会も少なく


自分に興味を持つことよりも


周りの動きに


意識が向けられ


何かのきっかけで


自分の事を考えなければならないときに


パニックになってしまう方も


多いんじゃないかなって


感じていたの


この間友人が友人を連れてきてくれて


3人で話していた時


私の友人は


自分がしたい事やプランを


何となく話していたの


その時もう一人の方は


したい事はない事もないけど


親が・・・とか友達が・・・とか仕事が・・・とか


自分の話を尋ねられているのに


自分から何も発信せずにいたの


その時友人が


「そういう話し方って人受けいいかもしれないけど


どうしたいのか


わけわかんなくって


付き合いづらいかも」って


表現したの


私の友人は自分の経験から


相手をを思いやって


表現していたのだと思うの


友人自身10代後半から20代後半までは


その方のように迷い迷い


自分の思いを表現できず


自分が何をしたいのかも


わからないほどだったの


友人はその時期を真夜中の時期と


呼んでいるのだけれど


その頃心療内科にも足を運んだりしていて


すべてが低迷していたの


その頃私もよくわからず

「何で自分の事聞かれているのに


わからないの?」と


よく尋ねていた事があったの


今にして思えば


あれこれと頭の中で回想し


自分の言葉で人を傷つけてしまわないか


自分の言葉を否定されてしまわないかと


考えているうちに


よくわからなくなり


気がつくと


自分を傷つけ


自分がささやく内なる声も


聞こえなくなってしまったんじゃないかなって


感じているの


今回一緒に来た友人は


自分以外の誰かの事はよく知っていて


評論されていたので


無意識にそれが自分を守る


スタイルになってしまっているのかなって


感じていたの


ただ私の友人は


様々な事を克服し


今ではどんなに小さな自分の心のささやきでも


自分が叶えてあげるために


どんな場所でも時間でも


一緒に行く相手がいなければ


一人で足を運び


充実した毎日を過ごしているので


今回一緒に来た友人に


昔の自分を重ね


良い方向へ導きたい思いで


少し厳しい言葉を


伝えていたの


私の友人を私はずっと見つめてきたので


本や書物などで


色々と良い言葉を受け取って


頭ではわかっていたけれど


本当に人はいつからでも


新しく生まれ変われることを


友人を見つめながら


大きな勇気として


感じさせてもらっているの


よく性格というのは変わらないというけれど


辞書などでは


行動のしかたの現れや


その人の固有の感情・意志の傾向と


書かれているので


物事の見方・受け止め方が変われば


性格も変わるものなんじゃ


ないかなって感じているの


習慣も同じで


習慣だから変えられないと


よく表現する事があるけれど

習慣は生まれた時からあるものではなく


きっと何かのきっかけで


何度か重ねて行った後


習慣として自分が作ったものなのだから


新たな習慣は


また自分で作れるものなんじゃないかなって


思うの


ただ不思議なのは


良いといわれる習慣は


なぜか続けられないのに


そうではない習慣は


無意識なほど馴染んでいるんですよね(笑)








私の友人の中には


性同一障害によって


男性から女性になった友人が二人いて


彼女たちと話すたびに


たくさんの学びや気づきがあるの


私が時々

心が曇り心の思いを


表現するたびに


すっきりと答えを出してくれるの


たとえば


私が手術する事で


両親が孫を見れない事や


パートナーに申し訳ないというような事を


思い煩っていた時にも


「いいよね~


そんなことで悩めるんだもんね」とか

自分の容姿のコンプレックスについて

表現していた時には


「表面だけが悩みなのは


幸せよね」など


驚くほどはっきりと言葉にし


そのたびに


「自分の幸せに気づきなさい」と


言われているような気がしているの


一人の友人は


数年同棲し


結婚マジかになった時


初めて相手に性同一障害であった事を


想いっ切って告白したの


そうしたら


相手から驚くほど傷つく言葉と


暴力を受け


大変な時期があったの


それでも自分を愛してくれた人には


絶対にきちんと告白し


受け入れてもらいたいい気持ちがあって


その後も何度も何度も


傷ついてきたの


もう一人は


もうすぐ結婚することが決まり


相手には何も言わないで


結婚されるそうなの


ただ相手の方が子供を望んでいるので


できないと感じた時に


自分から離れてしまうのではないかと


悩んでいるの


私は彼女たちが一番苦しめている


性別的な一致がフィットしている上で


あれこれと悩んでいたりして


彼女たちにとっては


その悩み自体が


幸せに感じるといつも伝えられ


自分の感謝のなさを


教えられることも多いの


私がホルモン治療で


心身のコンディションが優れない時期にも


共感してくれていて


とても心強かったの


今までは性同一障害というものが


あまり知られていないころには


生きる場所がいつも


コミカルなものを


求められ


本当に心が女性の方にとっては


とても心地の良いものではなかったけれど


今の時代は理解してくれる方もいたり


逆に理解できない方でも


戸籍上女性として生きられるので


その方が告白しなければ


わからないくらいの時代になっているので


縁があることもあると思うの


究極的には


人類はだんだんと性別を超えた愛の形を


実現できるところまで


きているんじゃないかなって


感じているの







人生にとって


とても大切なものの中に


成功体験というものがあって


その成功体験が


たとえどんなに小さなものであっても


今後未来へと歩んでゆく

自分にとっては

大きな支えとなる事があると思うの


成功体験というと


とても大きく


誰からも称賛される事のように


受け取られる方も多いかもしれないけれど


本当はそうではなく


自分から発信するものが


自分の描くものと一致することだと思うの


私自身


人に誇れるものは何もないけれど


そんな私が自分の中で


受け取った成功体験と


感じている出来事の中には


過去に多くの方に反対されたことであっても


どうしても自分がそうしたいという事があって


行動を起こしたの


結果は周りから見つめると


成功といえるものではないかもしれないけれど


未来まで進んだ今


自分の事を振り返っても


後悔していないという事は


私にとっては成功体験で


その時


自分の事をよく知っているのは自分


その自分が選びとった事なのだから


それは周りの判断とは別に


自分にとっては正しい選択だったと


思えたの


その小さな体験が


その後もやはり自分の心の支えになっていて


自分の判断に


自信が持てるようになったの


時にはあれ?って思うような


後悔の影が見えそうになった時には


後悔しないように


微調整したりして・・・(笑)


その事もあって


少し」柔軟さにかけてしまう事もあるのだけれど・・・


今回手術に対しても


決めるまでは


「一度取ってしまったら元には戻らないのよ」とか


「あるものがなくなると体調が・・・」など


私を心配してくださる方たちから


言葉をいただくのだけれど


一度決めてしまうと


心身がそのような方向でしか


見つめられなくなるようで


「でも男性は元々ないけれど


元気にみんな生きているんだから


大丈夫じゃない(笑)」など


まったく違った方向から


答えてしまうくらい


思考がチェンジし


前に進もうと


自分の中に秘めた何かが


がんばろうとしているのを


感じているの


世界中にいる方たちが


すべて違うように


自分にはきっと意味あって


そのようになっているのだとしたら


あとは自分の判断だけだと思うから・・・


ただありがたいくらいに


私の事を気遣い


病院への再検査を早く受ける事を


進めてくれている友人は


あまりにものんきな私に


会うたびに「早く行きなよ」って


言葉をかけてくれているの






よく友人の定義をついて


なにげない会話の中に


出てくるのだけれど


そのたびに


互いに自分勝手な自分に


気付かされるの


親友・友人というものを考えた時


悩みを親身に聞いてくれる


病気などになった時駆けつけてくれる


急な電話でも優しく対応してくれる


困った時には手を差し伸べてくれるなど


様々な思いが溢れだすのだけれど


どれもこれも


自分がやってほしい事ばかりで


じゃ~自分がそれくらい


相手にしているかというと


そうでもなかったり・・・


見る角度を変えると


自分にとって都合がよく


まるで親のような存在を


親友・友人と感じているのを


友人たちと反省していたの


求めすぎるから


落胆する事も多く


時には


自分がしてあげたことと


同じ形のものが返ってこないと


相手は自分の事を


それほど思っていないのでは・・・と


寂しい気持ちになったり


することもあるかもしれないけれど


人生の中で出会う人すべては


その時々


お互いにとって


あるピースを埋めるために


繋がりあっているだけで


すべてを共有しあう


存在ではないんじゃないかなって


感じているの


私自身とても恥ずかしい事なのだけれど


昔仲が良かった友人との関係の中で


いつも私は友人の相談に乗り


彼女が落ち込んでいると思えば

すぐに駆けつけ


元気になった彼女を見ては


嬉しかった事があったの


そしてそんな中


たまたまあまり落ち込まない私にも


落ち込むような出来事があって


友人に電話をかけたら


ちょうど友人が忙しい時だったようで


その後連絡もなく


そんな中私は


心のどこかで


「私はこれだけ今までしてきたのに・・・」とか


「私は都合よくストックされているだけなんだ」など


あらゆるネガティブな事を


考えていたの


そのような考えをすべて出し切った後


とても冷静になり


「私がしたくてしたこと」


「本当は自分が必要とされていた事が


心地よく嬉しかっただけだったんじゃないか」など


心との対話が始まり


最終的には


私が相手に依存し


求めすぎているけれど


私は与える事で


自分の中にパワーを大きくしている事に気づき


その助けとなっているのが


いつも相談してくれていた


友人だったと気づき


それ以来


自分には自分の適したポジションがあって


そこでステップアップしているのだと


思えるようになったの


それから驚くほど


友人と感じられる人たちが増えて


それぞれの体験から学んだ事や


様々な知恵を


一層受け取りやすくなったの


ただ今でも大切にしているのは


自分にとっても


相手にとっても心地が良いかどうかという


判断はしているの







この間友人との会話の中で


誰にでも瞳は映らないけれど


守護してくれる存在がいる


お話になって


友人の場合は


究極に自分ではもうどうする事も出来ないときに


周りから救いの手があるたび


その存在を感じると表現し


感謝していたの


その時その友人が


私の過去にあった


少しこわい守護体験を思い出したようで


そのお話になり


私も忘れていた過去を思い出していたの


学生時代


グループで仲が良かったはずの女の子たちから


ある日突然


仲間はずれされることになって


心が保てなくなった私は


学校へ足を運ぶ回数が減り


毎日朝を迎える事が怖く


言葉では説明ができないほど


人生の痛みを体験していたの


そんなある日


そのグループの中の女の子が


私のおうちを尋ねてきて


急変している自分の周りに


恐怖を感じ


私に助けを求めてきたの


それはそのグループの女子たちが


事故などによって


この世を去り


その事をもしかしたら・・・と


思ったグループの女の子が


私に謝りに来たの


でも私は特に何かをしたわけではなかったので


私ではないのではとは


思ったのだけれど


その女の子が必要以上に怯えていたので


毎日私のおうちに泊めてあげていたの


それでその恐怖心が収まり


最終的にはその女の子は


無事に今では幸せに暮らしているの


ただそれ以来


自分でも意識するようになってからは


自分を過剰なまでに守護しようとする存在がいて


時には強く働き


瞳に映らない存在を


認めざる終えない体験も多くなったの


独身の頃


お付き合いしていた男性が


とても真面目手まっすぐな性格だったために


そのスペースに合わせようと


努力を重ねていた私は


急に心身が不調になり


仲が良かった友人からも


心配されるほど


私が私ではないくらいになっていたようなの


あるとき


私は人生で初めて


言葉が出ないという体験をし


友人から電話がかかってきても


涙と言葉にならない音しかでない


私を心配し


そのまますぐに友人が着てくれて


彼とは別れる事にしたの


それからしばらくは話す事もできず


今の自分に戻るまでには


時間が必要で


周りのありがたいくらい理解してくれて


私を見守っていてくれたの


それから2カ月くらいたったある日


その彼から電話がかかってきて


不思議な話を始めたの


彼は毎日自転車で40分くらいかけて


会社へ行っていたのだけれど


その日もいつもと同じように


自電車で会社に向かっていたのだけれど


いつまでたっても会社にたどり着けず


気がつくと見たこともない風景の中を


ぐるぐると走っていて


何かの拍子に転んだようで


そのまま意識を失い


救急車で運ばれ


眼を覚ますと病院で


顔半分が傷ですごい状態で


瞳を開ける事も出来ない状態だったようなの


それで彼はそのような不思議な体験は信じる事もなく


体験したこともなかったので


答えを出せない初めての体験に


とても動揺していたの


でも私の方は


特に心動く事もなく


どのような状態なのかが心配だったので


彼と共通の友人に


様子を見に行ってもらうことにしたの


そうしたらとても怯えていて


しきりに私に許してもらう方法を


その友人に尋ねていたようなの


友人が感じたのは


彼が私が何かしたと思っているという事だったの


確かに彼に対しては


良い感情はないけれど


深く恨むようなこともなくいたけれど


心のどこかでは


私のスペースから離れていってほしいとは思ってはいたの

彼は退院してから


会社を去る事を求められ


地方都市に行ってしまったらしく


今はどうしているのか


わからないの


そのような事が重なるようになってから


私がどうこうというよりも


私の場合偶然に


すぐにわかる形で


メッセージが届けられているだけで


因果応報という形で


それぞれが与えられている事なんじゃ


ないのかなって


感じているの


少しお話の角度が違うかもしれないけれど


このような必要以上の守護がある事を


知った私は


パートナーが浮気をした時


何よりも心配したのは


私の過去の人たちみたいなことに


なってしまったらと思い


腹立たしく悲しい思いの中でも


「私は彼を許します


これからも一緒にいたい人だから」と


何度も何度も毎日のように


唱えていたの


私の友人の中には


自分では気づいていないようなのだけれど


エネルギーを受け取る


体質の友人がいて


何かを感じるたびに


私に連絡をくれるの


そのたびに


私はドキッとするような


お話が多く


いつも心の広くない私は


反省する事が多いの


何気なく友人とのトラブルがあった時


あまり好ましくない感情が生まれ


その感情が友人のもとに届いてしまっていた事を


感じ


改めて言葉に出さず


思うだけでも


本当は空気や風のように


相手のもとに届いているんだなって


体感したの


その逆もあって


友人たちの中で良い事があると


もしかして祈ってくれていた?と


感謝されることも多く


思いや祈りは


どんな場所にも形や時空を超えて


届けられるんだなって


感じているの







このひとつ前に


私を守護してくれているんじゃ


ないかなって思う


存在について


書かせていただいたのだけれど


その事で


ずっと忘れていた存在を思い出した事によって


それが嬉しかったのか


ずっとなかった現象が


ふたたび届けられているの


たとえばカフェなどに行くと


私と友人二人しかいないのに


私の所には


ふたつお水を用意してくださったり・・・


それで運んできてくださった方に


「二人なので一つ多いですよ」と


伝えると


はっとした表情をし


あまり納得していない表情で


下げてくれて


そのたびに友人と


こういうの久しぶりだねって


笑っていたの


そして今度は家に帰ったら


パートナーから電話があって


不思議なお話をしてくれたの


パートナーは仕事のため


遠い土地でホテル暮らしが長く


そんな中


今回初めて眠れない


出来事があったようなの


いつもエレベーターが開く音がした後


必ずどこかの部屋のドアが


開く音がしていたのに


その日は


エレベーターが開き


足音だけが


廊下を何度も何度も


迷うように聞こえ


それが何十分と続くので


気になってドアを開けたのだけれど


誰もいなくって


気のせいかなって思い


ドアを閉めたのだけれど


部屋の中の空気が


変わっている気がして


寒気が止まらず


眠れなかったようなの


そしてパートナーが職場の方に


何気なくその話をしたら


「奥さん確か霊感強かったよね


霊感強い人といつもいると


自分も知らない間に霊感強くなるらしいよ」と


アドバイスを受けたようで


確かに


中学生のころ


仲が良かった友人たちは


私と一緒にいるときだけ


色々な現象があると


言っていた事を


思いだしたの


そして今の親友も


元々霊感というものがないといっていたのに


今では直感という形で


色々な事を感じるようになったと言っていたので


そのようなエネルギーは


伝染するのかなって


感じていたの


っていうよりは


私が思うのは


元々退化してしまっただけで


備わっているエネルギーが


何かのきっかけで


目覚めたのだと感じているの


言葉では上手に説明できないのだけれど


100あったら見えたり感じたりするとしたら


その時の体調によって


私が60としたら


相手がちょうど40だと


あわせて100なので


そういうような現象があったり・・・


これが多すぎても


少なすぎても


見えない存在と周波数がフィットしないので


見たり感じたりする事は


ないんじゃないかなって


感じているの


私自身体験はたくさんあっても


知識が不足していることもあって


よくベストなタイミングで


メッセージを受け取る機会も多く


この間は


いつも足を運ぶサロンで


何気ない会話をしていた時


その方がちょっぴり

スピリチュアルな話をされていて


その時私の中で


この方とは通じ合えそうだと感じ


いつも人と出会うたび


変だと思われるかもという


怖れを手放し

心を解放し話す事が出来たの

その方とは今でも

足を運んだ日には

サロンの営業時間がすぎても

話すほど今では

様々なアドバイスを頂く

大切な存在となっているの


その方のおうちは


代々家系的に


イタコのような霊能者家系で


その方は


霊感的なものがあまり強くなかった事で


イタコのような職業にはならなかったそうで


姉妹や叔母など


ほとんどがイタコのような職業なので


ずっと見聞きした知識が豊富で


私が疑問に感じている体験について


アドバイスを求める


的確にアドバイスしてくださるの


この間は


私が見てしまうこの世に存在しない人たちと


現実の人間の区別がつかず


気になって振り返ったりすると


いなかったりして


ハッと気づかされる事がよくあって


その事がずっと疑問だったのだけれど


その方が教えてくれたのは


変に分析し


その事を考えると意識を


その存在に向けてしまい


何かしてくれる人と認識されたりするから


わからないままでいいんだよって


教えていただいたり


肉体を持たない彼らは


様々な体験をリアルにするために


誰かの体に入って


それをリアルに体験するのだけれど


人によっては瞬間的に入られたりしても


すぐに出て行ったり


逆にずっと憑依されたまま


その方の人格とも重なり


自分の意識よりも


入った存在の人格が強くなり


わずかに残る自分の思いと


入った存在が導く行動の不一致に


心身がt持たれず


良く伝えられる心の病に


なってしまう方も多いそうなの


ただ志高く


やり遂げたい事に思いを残し


この世を去った


瞳には映らない存在が


入ってきた場合は


逆に


自分が自分じゃない感覚はありながらも


素晴らしい能力がまるで


備わったかのように


エネルギッシュで


すべてが二つ備わった感覚らしいの


ただその存在が長く入っているかどうかは


その方との波調だとおもうのだけれど


誰でも瞬間的に


良いエネルギーのものが


入る事はあるらしいの


ただ自分の思いを満たしてくれそうにないと


感じると離れてゆくので


瞬間的に大きな幸運に


恵まれたと感じた時には


そのような存在が


与えてくれている恩恵なのだそうなの


通常はそのような存在が


思いを遂げ満たしてくれそうだと


感じる人がなかなかいなく


一時的な感覚で終るのだけれど


霊的存在が長く憑依するようになると


その難点は


無意識な疲労を解消しようと


無意識に


食事量が2倍になったり


瞳には映らない存在が


その方の体を借りて


食事を楽しまれていたり・・・


ただそれが良い霊なのか


そうではないのかは


その人が感じる感覚でしかなく


なかなか分かりづらいようなの


ただその方が言っていたのは


すべてに対して飢えている感覚の霊が


憑依する事が多く


その中には食べ物が自由に


おなかいっぱい食べたい思いが強い霊も多く


つねに憑依されている


優れた霊能者には


少しぽっちゃりされた方が多いのも


そういう理由があるそうなの


本人の意思や意識だけではないものとの


二つの人生があるので


そのような方が多いそうなの


その方とお話していると


私の心惹かれる話題が多い事もあって


今ではお話を伺いたくって


足を運んでいるの








何気なく友人が


子供を映画に連れて行かなきゃならない


お話しや


遠い実家へ子供を


連れていかなければならない亊を表現していて


予定外の予算が必要な事に


心曇っていたの


その時他の友人と共に


はっと


今の時代を感じていたの


私や友人たちの幼いころは


経済的な豊かさはなかったけれど


社会が安全で


親たちも安心して


子供の自立の機会を


与えてあげられていたと思うの


私の場合も


幼いころ


遠い親戚のおうちへ


列車に乗るのだけれど


駅まで親が一緒に来てくれて


そこにいる駅長さんなどに


子供が行く場所を伝え


よろしくお願いしますとお願いし


あとは親が返ってしまい


幼い私は初めての事で


とっても不安いっぱいだったのだけれど


初めて自分で切符を買い


駅長さんが導いてくれるまま


席に座り


相席になった方たちに


私の事をお願いしてくれたり・・・


そうして初めての一人旅の不安も


周りの方の優しい方たちのおかげで


いつのまにか消えて


幼い私は楽しむくらいまで


気持ちが満たされていったの


道中


ずっと幼い私に


話しかけてくださる方や


お菓子などを下さる方など


本当に優しい方のおかげで


幼い私が


小さな成功体験ともなる


勇気をもらったと思うの


私の友人たちも同じような体験があって


懐かしそうに


思いだしていたの


ただ今の時代は


親が子供と離れて過ごす不安が


社会の中にも多くあって


一緒に行動しなければならない時代なので


子供を持つ友人が


何気なく話す言葉に


時代ね変化を


他の友人と感じ


寂しくなっていたの


いつからこのようになってしまったのか?と


考えてみると


急にそのようになったわけではなく


私が幼いころも


ちょっと・・・と思う大人も多くいたの


ただそれ以上に


正義感が強い方も多く


人にかかわる恐れよりも


見て見ぬふりをしてしまう


自分が許せない人が多く


その方たちのカラーが


安心できる社会だったように感じているの


でもある時から


人とかかわる事で


何もなかった所に


問題を運んでしまうようなニュースを


良く聴くようになって


だんだんと


人が人とかかわる事で生まれる問題を


わざわざ自分から


作ってしまわないよう


過ごすようになってしまったと思うの


そして関わる方たちの中にも


許しを忘れて


正当な理由が見つかると


無意識に日頃のフラストレーションを乗せて


相手を責めたりする方もいるので


寂しいけれど


人と距離が作られていったように感じているの


身近なお話でよく


聴くお話なのだけれど


ご主人の親御さんが


お嫁さんの大変さを思い


お孫さんを預かってあげたのだけれど


感謝されるどころか


あれこれと注文が多く


時には子供が遊んでいて


転んでしまい


小さな傷が足などについてしまった時


直接お嫁さんが


御主人の親御さんに何かを


伝えるのではなく


御主人が親御さんに


とてもきつくしかる事があって


そのたびに親御さんたちは


大きな悲しみと


すべての責任を持てない事から


良いと思っておこなったサポートも


苦痛になっている方も多く


そのような事で


心重くなっている方も多いようなの


私の両親にも同じような事があって


弟が


「なんでずっと見ていなかったんだ!」というと


奥さんの方は


「どうしよう・どうしよう」と


言葉とは違い


弟にもっと両親に忠告するよう


進めているような事があって


私は今まで


人には人それぞれの考え・行動


そして関わらない人が


お話に入ってしまうと


問題が大きくなってしまうと思い


いつもは何も伝えずにいたのだけれど


その時は


母は目を真っ赤にして


自分を責めながら謝っているし


父も今まで見た事がないような


どうしてよいのか分からない


不安そうな表情で謝っているを見つめ


ここは私がいやな役をしても


伝えようと思い


初めて両親の思いを


代弁させていただいたの


その時弟は


「まあ確かに子供だから


誰が見ていても


けがをすることもあるしね」と


表現してくれたのだけれど


腑に落ちないお嫁さんは


弟を責めだしたの


その時私も両親も


この状態が読めた事もあって


今まで何も表現しなかったのだと


改めて感じたの


間に入って一番つらいのは


弟だから・・・


ただお嫁さんは


私たち家族が大切に思う


弟を愛してくれた人なので


話せばわかってくれる人だという事を


知っていた私は


立場とかではなく


同じ世代の繋がりとして


話をさせてもらったの


両親や弟は


私があまりにも強い口調なので


昔の暴れん坊だった私に戻ってしまうのではと


はらはらしながら


見つめていたの(笑)


でも時間と共に


お嫁さんは納得してくれたようで


今では本当の娘のように


リラックスして


自分の思う事は自分で発言し


弟を通して


思いを伝えることはなくなり


両親も二重に傷つく事はなくなったの


長く付き合う相手には


少々ぶつかってしまう事があっても


お互いに思いを伝えあわないと


お互いが良いと思ってしていることも


良い結果にはならないのだから・・・


ただ今回良い流れになれたのは


どちらも人を思っての事だったからだと思うの


ここでどちらが正しくって


どちらが間違っているという


エゴだけにこだわっていたならば


良い結果にはならなかったんじゃ


ないかなって思うの


今の時代は


様々な個性や考え方などが


認められる時代になって


急にこの国が変わったように感じている方


もいるかもしれないけれど


人間の本質的に秘めた思いやりや愛情は


大小や表現の違いがあっても


変わらず誰もが秘めているものだと思うの