2009年4月





ここ最近


とってもとっても驚くほど


速いスピードで答えが届き


改めて自分が


無意識に飛ばしていた


疑問や問いと


照らし合わせているの


私自身いつまでたっても


未熟で生徒としてもポジションにいるのに


時々無意識に


教える立場になっている事もあって


不快な思いをさせてしまったことも


あったかなって反省したり・・


精神世界をスタートした頃に


よくあることなのだけれど


今まで知ることのなかった


世界の見方や幸せの知恵を


受け取った瞬間


その受け取ったものを


自分のライフスタイルに組み込みながら


今までにない軽くなる心身を体験してゆくうちに


自分にとって大切な人にも


この同じ幸福を体験してもらいたいと


伝えたりしてしまうのだけれど


自分の伝え方の未熟さや


相手が受け取る準備が整っていなかったり


もしくは相手の良いものを・・・という


テーマではあるけれどどこかで


自分の優れた部分の


アピールのスペースとして


無意識に押し付けてしまっていたりして


伝えたい本質とは別の方向へと


いってしまうことが


よくあったの


そのたびに受け取る準備の整わない


相手を攻めてしまったり


自分の表現力の足りなさに


反省と落ち込みがあったりしたのだけれど


年々頭では理解していたことを


逆の立場などを体験という形で


体感してゆくうちに


また様々なことを学んでいるの


自分では気づかずにいたのだけれど


受け取る準備が整っている方は

受け取るタイミングを


何かしらのアクションでシグナルを送ってきて

伝える方も


そのシグナルを感じたとき


伝えることが


お互いにとってベストな


タイミングなんじゃないかなって


感じたの


無意識なのだけれど


自分が様々なことを学ぶと


学んだことを自分の人生に生かすだけでは


何か満たせず


時間と共に伝えたい・教えたい気持ちに溢れ


生徒として吸収してゆくことよりも


ほんの少し上の立場から


物事を見つめすぎて


自分が見えなくなってしまうことがあるんじゃ


ないかなって


感じているの


それは様々な場所やテーマの中でもあって


たとえば


年齢の上下だけで


ポジションが決められていて


年齢が上の方は


年齢が下の方から


何かを学び教えられる事が


あまり心地よく感じられなかったり・・・


でも教える事は大好きで


相手が望んでいないことまで


あれこれと経験という大きなテーマから


アドバイスや忠告などをされるけれど


受けの方が望んでいないタイミングと


テーマだとしたならば


教えていると思っている方にとっては


心地が良いかもしれないけれど


教えられている方にとっては


その思いとは別に


その方の回想を聞いてあげているだけという


まるで違う思いの中で


時が流れていると思うの


私自身母とそのようなことがよくあって


母自身は私の付き合って


話しを聞いてあげていると思っているところが


よく感じられることもあるのだけれど


私自身はその時々


学び取りたいことや心の


マイブームになっている事が


不一致してして


申し訳ないのだけれど


早くこの時間が過ぎないかなって


思うこともよくあったの


そしてその時間の終わりには


母がいつも


「あんたの話にいつまでも


付き合っていられないから


じゃー私は○○をするわ」などと


その時間の終了が伝えられるの(笑)


そのたびに


年齢や経験・知識etc


様々なことで


相手よりも優れていると思っていたり


優位な立場になれると思っているものが

あると


無意識なのだけれど


立場やポジションを


初めから設定してしまい


気がつくとせっかく


何かを気づいたり学んだりする機会を


ただ教えることの心地よさに


時間を注いでしまい


学ぶことを忘れてしまうことって


あるんじゃないかなって


時々感じているの


少し方向は違うけれど


たとえば美容室でお仕事されている方は


みんな同じ資格を持っているけれど


その資格を取得した時代に


取得した事だけで


学ぶことをしなければ


一般の方にない資格を持っていたとしても


その事を求めてこられる方も


少なくなってきて


そして時間と共に


周りの方や時代などのせいにしながら


過ごしてしまう事もある思うの


でも同じような時代に技術を取得した後も


自分よりも若い世代に


自分の教えを伝えることと同じように


生徒として学びを受けることを


人生の中の大切なこととして


過ごされている方は


どんなに時代が流れていっても


教えられることと


学ぶ準備の両方を持っているので


ライフスタイルがいつも


輝きましていると思うの


また少しお話が違うのだけれど


よくメディアでは


年齢を重ね孤独に過ごされている方が


紹介されているけれど


そのたびに


私はなぜ?年齢を重ねた方が


孤独になってゆくのだろうと


考えるようになっていったの


それにはもちろん様々な事情や問題も


あるかもしれないけれど


若い世代の頃の楽しく輝いていた頃との


大きな違いは


肉体的なことや


容姿などの瞳に映るものだけではなく


言葉に語弊があるかもしれないのだけれど


様々な経験を経てきているからこそ


ついつい相手が求めていないことまで


アドバイスのつもりで


あれこれと伝えることも多く


それを聞く下の世代は


無意識に距離を置いてしまううちに


生徒となる人がいない


時間になってしまうんじゃないかなって


時々感じているの


様々な経験を経てきた方からすると


このような場面では


こうしたらよいのでは?と思う場面が


自分の体験から見える事もあるとは思うのだけれど


年齢を重ねた方も


その時々失敗から


多くを学び熟成した人生を


自ら作ってきたように


若い世代も


転ぶときには転んでみて


自分で起き上がる機会を


あたえてあげるのも


教えだと思うの


そしてどうしても起き上がれないときには


手を差し伸べてあげたり


本人が自分で起き上がれる方法を


伝えてあげられたら


きっと世代を超えた


尊敬と感謝が生まれて


孤独なお年よりも


存在しなくなってゆくんじゃ


ないかなって


感じているの

ここ数年若い世代の方たちの


ライフスタイルに


スポットがあたっていて


問題となるものも多くなっていて


そのたびに


私自身のことを


見つめる機会も多いの


私から見つめて


今の若い世代は


非の打ち所もないと思うような方が


私よりも


多いように感じているの


色々な意見はあるとは思うのだけれど


これまでの日本に対して


問い直す機会として


この世代が存在しているように


いつも感じているの


私が若い頃は


親世代が


「お前は努力が足りないんだ!


何で根性がないんだ!


悔しいと思わないのか!


これからそんなんでどうるんだ!」と


よく伝えられていたのだけれど


そのたびに「別に」とか


表現し


その当時社会の中では


しらけ世代と表現されていた世代のようなのだけれど


面白いもので


今度は自分が親世代になると


あれほど好まなかった嫌から伝えられた言葉を


今度は若い世代に


同じように重ねている自分に


気がつかされるときがあるの


たとえば今問題になっている仕事スタイルについて


報道されているのを見つめながら


やはり同じような言葉を


無意識に表現していたり・・・


かと思うと


今の若い世代の中には


消費をとにかく控え


将来に備えて


今の楽しみを後回しにする方もいたり・・・


上手に言葉として表現できないのだけれど


それぞれ問題は違っていても


私たち日本人の中に秘めていて気づかない事を


表面化したもののように


感じているの


私が感じているのは


消費を抑えて暮らす


若い世代も私のさらに前の世代が


ずっとずっと唱えてきた言葉で


私が若い頃いつも


人生を謳歌している中で


親から


「お金をためなさい」という言葉を


様々な不安イメージと重ねて


伝えられてきて


それでも学ばない私は


お金をストックすることよりも


その時々その時でなければ


楽しめない体験を


大切にしていたの


でも今の世代は


私の親が伝えていた事を


きちんと実践し過ごしていると思うの


でも今度はそうなると


「若いんだからもっとおしゃれしたり


楽しまなきゃ」と


表現したり・・・


若い世代は今までの世代とは違い


世代間の中で生まれる


新たな文化や時代を生み出さない代わりに


今まで日本人が様々な時代を超えて


伝えてきたことを


ただ行っているだけのように


感じているの


消費を抑え今の楽しみよりも


将来の不安に備え暮らす人たちを


本来日本人は美徳としてきた部分も大きく


もう少し前ならば


褒めてもらえるスタイルだったと思うの


1970年代生まれの方たち世代からは


幼い頃には


家庭用ゲームが登場していて


その世代を否定する


大人世代もたくさんいるけれど


私が感じているのは


それを与える事によって


親の目の届かない場所で過ごす


子供への心配が


軽減された事もあって


親世代に貢献したアイテムでもあったと思うの


ある時代から


子供たち・若い世代が変わったと


表現されるけれど


私が感じているのは


いつの時代も子供たちは


その時代の親を


そのまま映す鏡として


生きているだけだと感じているの


私たちの世代は


校内暴力などが問題となっていた時代で


その頃の大人社会は


今よりも景気がよく


働けば働いただけ


報酬が受け取れる時代という事もあって


大人たちはその事に


楽しさと自信を持って


過ごしていた時代だったと思うの


そして無意識に


経済力がその人の力を表現するものとして


父親たちは自分と違う意見を


表現する家族には


「誰は養っていると思っているんだ!」などと


しりとりの「ん」を意味するような


言葉を伝え


家族はその後の言葉が続かないような


時間の流れだったと思うの


そこで子供たちは無意識に


父親のように威嚇的態度を


表現し


何でも思い通りにしようとする


その時代の大人を映していたと思うの


そのように


子供たちは敏感に


そして無意識に時代を映す鏡のように


過ごしていただけだと思うの


いつの時代でも


どんなファッションの方たちでも


話すとやはり人間らしく


私自身が恥ずかしくなるほど


正直で綺麗な心を持った方が


多いのを感じているの


逆に大人になると偽ることが上手になっていて


偽っているうちに


何が本当の自分なのかわからなくなるほど


周りからから求められる立場などに


流されてしまうこともあると思うの


でも若い世代とその上の世代


どちらもみんな一人一人見つめたならば


迷いながら立ち止まりながら


時には何かのせいにしながら


深呼吸できる時間を作ったり・・・


同じ経験を重ねながら


ほんの小さな幸せを重ねながら


生きているんじゃないかなって


思うの


同じ時代に存在していることの意味を


探すことがもしも出来たならば


きっと繋がりあえる


何かキーワードがあると思っているの

日本では


様々な出来事の中に


精神性を重んじる部分があって


素敵だなって


思うことが多いのだけれど


時には??って思うことも


あるの


この間知り合いの方が


20年以上様々な思い出と寄り添い


つきあってきたタバコから


自分を解放してあげたいと


禁煙外来へと足を運び


思っていた以上にスムーズに


クリーンな時間を


作る事ができたのだけれど


ある時その知り合いの方が


自分にとって無理だと思っていた


禁煙が成功できた喜びを


周りの方と話していたとき


そこにいた一人の方が


「私は何も使わず成功したよ


何か使わなければ成功できないなんて


意外と意志が弱かったんだね


それは本当の成功ではないよね」と


表現されたの


その時喜び溢れていた


知り合いの顔が


少し曇ったの


私は場面の中で


過去に


出来事は違ったけれど


心に感じた事のある


感覚を思い起こしていたの


数年前に


友人や知り合いと楽しく話しているときに


出産のお話になって


ある方は無痛分娩で出産されていて


ある方は痛みに耐える形の普通分娩で


出産されていたようで


様々な会話の流れの中で


痛みに耐えて出産された方が


「痛みに耐えて産むからこそ


子供に愛情がわくものだと


私は思っているんだよね」と


何気なく言葉にしたとき


その逆の出産をされた方の表情が


少し雲って


無言になっていたのを


思い出したの


精神性とは様々な角度から


見つめると形も様々なのだけれど


日本では痛みに耐える


苦労をすることが


なんとなく美徳として語られていて


本質的な部分が


伝えられていない部分も多いように感じているの


痛みに耐えることや


苦労をすることが良いのではなく


そのような大変な経験をされているのに


人にやさしくできたり


愛情から心の痛みに耐える


その姿が美しいのであって


痛みや苦労を重ねることが


良いのではないと感じているの


これは私の偏見ではあるけれど


あまりに苦労が多く


幸せを体験できなかった方は


無意識ではあるけれど


物事をまっすぐに見つめる事が困難になって


つい周りの方にも


自分と同じ痛みや苦労を


求めてしまう方も多く


出会ってきたので


その体験から何を学び


経験として受け取ってゆくかが


大切だと思うの


最近では医学的にも


日本人ならではの症状を


見つけ


治療方法も広がってきているようなの


昔から身体の中で


どこかが痛いときでも


本当に耐えられなくなるまで


顔をゆがめ


行動が出来なくなっても


限界まで鎮痛剤を飲まず


耐えられる方も多くいたのだけれど


それは薬の副作用を


意識して我慢していたと思うのだけれど


その副作用を気にするあまり


鎮痛剤を飲まずに過ごしているうちに


その痛みから広がる活性酸素が


ストレスと重なって


本来痛くなかった場所が痛み出したり


時々痛かった場所が


いつの間にか慢性的な痛みへと形を変えて


ゆくらしいの


私自身もその事を知って


無意識に我慢していた痛みを


我慢することがなくなったの


その事で快適に


そしてふれあう人たちと


楽しい時間が過ごせるようになったの


偶然に入ったカフェで


雑誌を読んでいるとき


ふっと瞳に映った「断る力」という言葉が


とても気になって


読んでみると


私にとっても


とても大切な人生のテーマだなって


感じ


その後とても考えさせられたの


断るという行動は


日本人にとってとても難しいことで


どんなにスムーズに行ったとしても


受け取る方の感性によっては


断った方が


とても立場的にわがままに映ったり


思いやりがないと映ったりしてしまうこともあって


本当に難しいなって


感じているの


そのページの中で


断れないということは


考えるのを放棄しているということとあって


本当にそうなだって


実感していたの


誰でも何でも受け入れる方が


寛大でおおらかで


愛情溢れ


大きな人のように


自分が自分を感じられるけれど


意外と相手の方は


そんな風には受け取っていないことも


多いと思うの


そして物事を行うよりも


断るということに


ストレスを感じる


精神性を持っている日本人には


つい自分が出来るか?という事を


考える前に


簡単にYESと伝え


受け取ってから悩むという


前後が逆の流れを持っている方も


多いんじゃないかなって


感じているの


私の知り合いで


とても上手に断ることができる方がいて


自分のライフスタイルを


大切にされている方がいて


その方の誕生日に


友人や知り合いが何か贈り物を


手渡し


その場で開きながら


お礼と感謝を伝えていたのだけれど


すべてにお礼と感謝を伝えた後


「私このバタークリーム苦手だから


もらったばかりで悪いのだけれど


誰かもっていく?」とか


「私のうちに同じものがあるから


使う人がいたら


もっていく?」と


みんなに表現していたの


その時私はえ!!って


何かスムーズに受けとてない


感情が湧き上がってきたの


でも冷静に見つめたならば


その方が受け取ったものなのだから


あとはどのようにしても良いのだし


好きでもないものを無理に食して


自分の身体を大切にしないことが


本当に良いのかと


考えてみると


良いかそうではないかだけでは


決められないように感じていたの


私自身この方とは逆で


きっと無意識ではあるけれど


みんなに愛されたい


その場の空気を壊したくないと


必要以上に思ってしまっている部分があるようで


誰かと一緒のとき


「これからランチしようか」と


その時提案されると


おなかがすいていなくって


私の基準は


食べたいではなく


食べられる(入る)というもので


そのように断ること(考えること)を


いつもやめて


過ごしていたこともあって


気がつくと


自分が望んで食事をする時間よりも


まるで長い時間の大食い選手権のように


過ごしていたの(笑)


その結果


自分が望まない姿が


鏡に映り


周りからはダイエットを進められたり・・・


そのたびに


無意識ではあるけれど


心のどこかで


「私はこれだけしてきたのに」という思いが


溢れてきて


断れない自分の弱さとは別に


気がつくと誰かのせいにして


過ごしていたこともあったの


誰かに強制されたわけでもなく


最終的には


自分の判断で行ったことなのに・・・


そう思うと


先ほど伝えた知り合いの方は


その場ではえ!!って思うほど


自分の思いをまっすぐに表現していて


驚いてしまうけれど


どんな場合も


誰かのせいにすることもなく


その時々その方との関係を


卒業されていく方もいるかもしれないけれど


自分を信じ


自分を大切にする姿勢を


互いに認め合えないのならば


それでよいという


自分のスタイルも持つことも


私にはちょっと


分けてもらいたい


部分かなって感じていたの


今年は前に進むだけの前向き思考から


歩んできた道を良い意味で振り返り


まっすぐに自分を見つめる


機会を多くの方が


体感する年だと感じているの


なのでまだその事を


知らずに今まで通り努力を重ねている方の中には


スムーズに前に進まないことに


違和感や不安


そして自分の努力が足りないのでは・・・と


思い込み


強制的に立ち止まる機会を


与えられている方もいると思うの


私自身は


元々2日に1度眠る睡眠サイクルだったのに


今年に入ってから


自分でもコントロールできないほど

睡眠時間が長く


毎日一日の半分は眠りながら


夢の世界で過ごしているくらいなの


そしてとっても不思議なのだけれど


急に自分でも理解できない習慣や


癖のようなものが生まれているようで


根拠はないのだけれど


それが前世からの習慣や癖のように


感じていて


眠る前や眠りの中でも


自分の中に刻まれている


資質を教えてもらっているように感じる


毎日なの


たとえば今までならばなかった事なのだけれど


眠る前に


頭に程よい重さを感じなければ


安心して眠れない自分を感じるようになって


今ではタオルケットを折りたたみ


ターバンのように


頭を包み眠っていたり・・・


かと思うと


今までパジャマを眠るときに着ていたのに


それだと何度も目を覚まし


眠れないなって思っていると


急にひらめくように


近くにあったスカーフのようなフリーカバーを


インドのサリーのように身にまとい


眠ると


心地よく安心したり・・・


初めはこの不思議な流れに


戸惑っていたのだけれど


この時期はきっと良い意味で


自分が歩んできた過去から


学ぶ時期なのだからと


受け入れているの


ただ今の自分よりもさかのぼられても


そこで変えられるものや


次のステージに必要なものがあるのかは


わからないの(笑)


私が感じていたのは


あくまでも今の肉体を持つ自分の体験を


振り返る時期だと今年を受け取り


世界中で

そのような動きを感じていただけで


ここまでさかのぼるとは


不思議すぎて


笑ってしまうの


今年は今までの時代では


体験することのなかった


良い意味での清算時期だから


この時期の過ごし方で


過ぎに進むステージが


変わってくるようにも感じているの


言葉では上手に説明できないのだけれど


たとえるならば


一人一人がまるで


自分を囲むように小さな箱で


周りと遮断されていて


外にエネルギーが溢れてしまわないように


自分だけの世界のような・・・


何か思いが今までとは違って


伝わっていないような


繋がっていないような


不思議な感覚を感じられている方も


いるんじゃないかなって


感じているの


そしてそのような体験は今まで


地球上ではなかったエネルギーなので


どうしてよいのかも


わからない不安が


初めには運ばれてくるかもしれないけれど


まったく心配はなく


自分の内にあるものを


はっきりと明確にしてくれる


大切な時期なので


この流れの中で


与えられるものに感謝して


過ごすだけで


よいんじゃないかなって


感じているの


今までの流れと違う波が訪れると


誰でも初めは戸惑うかもしれないけれど


この時期も


今年いっぱいのことなので


今の時期に


過去の歩みを良い意味で振り返り


手放したいもの


自分から解放したいもの


自分にとって最も大切なものを


明確にして


次のステージへと歩む日まで


整えることが


大切なんじゃないかなって


感じているの

今私はありがたいくらいに


毎日幸せな気持ちで


過ごしているの


でも理由は語ることができないほど


こうだから幸せというものがないの


そのような幸せの感じ方は


何となくずっと昔


幼い頃から


忘れていた感覚のように感じているの


年を重ねてゆくことで


こうだから幸せ


こうなったから幸せと


自分なりの形があって


その形にフィットしたものが


与えられたときだけを


無意識に


幸せと認識するように


なっていたように感じるの


でも幼い頃は


お出かけするとき


太陽が微笑んでいるだけで


幸運な思いを感じたり


ただ野原を走り回っているとき


理由もなく幸せだったり・・・


大人になると知恵や経験が


自分の中で成長してゆくことで


自分を幸せにしない


成長を育んでしまうことも


あるんじゃないかなって


感じているの


そして


幼い頃はよい意味で


自分の事だけに


意識を向け


日々エネルギーを注いでいるけれど


大人になると


必要な情報以外のものも多く


受け取り手渡し


一番大切で必要なものが


見えない状態の方も


いると思うの


私自身もちょっぴり


そのような部分があって


何気ない会話の中で


友人や母などと


自分にとってふれあう機会のない方の


結婚・離婚や


その事を憶測で語り合う時間が長いこと・・・(笑)


もちろんその事がいけないわけではないのだけれど


私たちは


無意識に自分の幸せについて


意識を向けるよりも


多くの時間を


誰かの人生の歩みに向けていて


大切な時間を


浪費してしまっている事もあると思うの


本当は知ったから


何か自分にとって得られるものがあるわけでもなく


知らないからといって


困ることではないのだけれど


私たちは無意識に


橋休めのように


過ごす時間が


味わう時間よりも


長すぎてしまっていることも


あるんじゃないかなって


感じているの


そして人は共感という


心がもっとも近づき


幸せを感じる体験を


一番簡単にできそうな


多くの方が知っていて


そしてあまり快くない発言をしてしまっても


問題のない人を


ターゲットに


会話が弾むという


好ましくない習慣を


秘めていると思うの


そしてそのことすべてを


理解し受け止め


多くの報酬を受け取っているのが


誰もが瞳に映す有名人だと思うの


このような会話は


年代を超えて


瞳に映していることだから


自分の思いや考えを話すよりも


問題がなく


すぐに話がつなりやすいので


ついつい


そのような流れになってしまうと思うの


もちろん意識を集めることで


仕事として成り立つ方たちも多いので


そのことは問題ではないのだけれど


私たち個人個人を考えてみると


自分がこの世界に一人しかいない意味を


見つめることをやめてしまうことは


多くの与えられた時間や出来事を


輝かせる機会を


置き忘れてしまうんじゃないかなって


感じているの


今の時代は


ほんの少し月日が流れると


同じような出来事があって


話題の追いつくことも難しいくらいなのだけれど


本当は多くを知っていたから


自分の人生に生かせるものではないし


逆に知りすぎて


自分の人生をシンプルに見つめ


選択してゆくことを


迷わせてしまうこともあるんじゃ


ないかなって


感じているの


そしてどんな時も


その人が体験して出した答えと


自分が同じ体験をし


同じ答えを出すとは


限らないのだから


いつでも自分の中にある


大切なものがふれないように


すべてのものと


ふれあってゆけたら


いいんじゃないかなって


感じているの


人は時に


自分でも感じていない感情や思いを


別の形として


他者に無意識に


表現し伝えていることって


あるんじゃないかなって


感じているの


私には


一人の時間を優雅にそして


自由に謳歌している友人が多くいて


その中には時々


私への不満を形を変えて


伝えてくる方もいるのだけれど


そのほとんどが


私に友人が電話をした時


いつもいない・でないことであったり


メールを送っても


すぐに返信がないことなどが多く


大きなストレスを感じているようなの


そのことを伝えられるたび私は


心の中で


「あなたにも都合があるように


私にも都合がある」と思ったり


時にはほとんどがそんな重要なことではなく


急用を求める内容でもないのに・・・と


相手のエゴと


説明の出来ない思いとで


もやもやした思いに包まれた事があったの


そしてある時


それぞれが違うライフスタイルを持った


友人たちと集まったときに


またその友人は


電話をした時


いつもいない・でないことや


メールを送っても


すぐに返信がないことなどが


話題になったの


その時結婚し


子育て中の友人が


ストレートに


「あなたがなぜ恋人も結婚も出来ないのか


わかる気がする」と


言葉にしたの


その時独身の友人が


「私は自由に自分の時間を過ごしたいから


一人でいるんだよね


それが何かいけないの?」と返し


その場の空気が止まったようになっていたの


その時子育て中の友人が


「一人の時間が好きで


自由でいたいんだよね


なら何でそんなに周りに


繋がっているかの確認を必要とするの?


それは自分勝手なだけだよ


もっというとそんなに楽しくもない


人の生活の話は


同じ環境の人か家族くらいしか


興味を持って聞いてくれないよ」と


伝えたの


その時私が同じ事を伝えられたならば


内心認め泣いてしまうだろうなって


思っていたのだけれど


その友人は


「ふ~ん」といって


帰ってしまったの


その友人はとても心が強く


自分というものをしっかりと持った人で


同じ女性から見ていても


がんばっているなって


尊敬してしまうことも多い人なのだけれど


自分と真逆のライフスタイルを送っている人には


驚くほど厳しい部分があって


私もよく


「あなたはいいよね


ゆっくりした時間が楽しいとか


草花がどうしたとか・・・


そんな気持ちでいられるのも


自分に何の力がなくっても


だんながいるから


そうしていられるんだよね」と


彼女の機嫌が良くないときに


表現されるの


ただ言葉だけでは表現できない


彼女のよさを感じている方も多いから


彼女と共に時間を過ごすのだけれど


ふっと色々なことに気づかされることもあるの


彼女は今仕事という


ライフスタイルを支える軸が


強く保たれ


そして体調も整い


ほどよく自分が必要なときに


人と会える環境が整っている中で


一人が好きと思って過ごしているのだけれど


これから年齢を重ねてゆくことで


もしも仕事スタイルも変わり


変化する


様々な時間が訪れたときには


きっと人の素晴らしさや


人が自分といてくれる


ぬくもり・ありがたさを


実感してゆくんじゃないかなって


感じているの


昨年父方の叔母が天国へと旅立ったのだけれど


若い頃は周りに多くの人がいたのだけれど


年々孤独になって


気がつくと周りは家族を作って


その時間を大切に過ごしていたり


友人たちも


それぞれあって


一人で過ごす時間が増えていったの


叔母にも子供はいるのだけれど


わずらわしさとエゴから


自分の思い通りに過ごしていたので


子供たちも自立できるまでは我慢していたのだけれど


みんな遠くはなれてゆき


気がつくと


年を重ねた叔母は


すべてと遮断されていて


自分が足を運ばなければ


何ヶ月も人に会わない


生活スタイルの中で過ごしていたの


そして寂しくなるたびに


様々な方のお家へと足を運ぶのだけれど


信じられないスピードと


溢れて止まることのない言葉に


周りが疲労して


それ以来様々な理由をつけて


叔母とは誰も会わなくなったの


元々叔母は人とのコミ二ケーションという形ではなく


自分の要求をベースに


人と繋がり


付き合ってきたので


何が問題で何が人に愛されるのかも


わからないままだったように思うの


なので会話は相手の意見や言葉を必要とはせず


ずっと話し続けてしまうの


それもきっと数ヶ月人と話す機会がない


寂しさがあったからなんじゃ


ないかなって感じているの


もしも叔母が


もう少し自分の認めたくない弱さや


寂しさを周りに伝えたならば


ふれあう人たちは


あたたかく繋がってくれていたと思うの


自分にとって弱さだと思っているところや


時には欠点と思っていることも


周りから見つめると


その部分が自分で良いと思っている部分よりも


愛されるポイントとなっていたりもすると思うの


私自身も今過去を振り返ると


幼い10代の頃には


まだまだ人の気持ちや思いを


感じるゆとりがもてなかったこともあって


まったく悪気はなく


多くの人たちを傷つけ


迷惑をかけていたと思うの


そして自分のタイミングにフィットしない人への


配慮もなく


まるで自分が正しいかのように


表現していた事もあったように思うの


でもその年代・年齢・経験によって


たとえ共感できないことでも


理解が出来たり


心の視界がちょっぴりずつ広がり


周りにも自分にも


らくな繋がり方が


出来るようになってきていると思うの


人は誰でも


自分のことよりも人のことには


敏感に的確に


見つめ


こうしたらよいのにって


生きるヒントを見つけられるけれど


自分の事って


なかなか見ることはむずかしいから


昔から日本に伝わることばで


「人のふり見て我がふり直せ」という


教えを

いつも意識しながら


すべての時間を意味のある

自分を成長させられる時間へと


変えられるようになれたら


素敵だなって


この出来事の中で


感じていたの


私たち人間は


自分の力だけで物事を考え


考えた通りに


様々なものを受けとり


歩んでいるんじゃないかなって


ふっと感じたの


この間いつも仲良くしている知り合いから


急にどうしても会いたいといってもらい


喜んでその場所へといったの


そうしたらその知り合いは


何か宝くじのようなもので


数百万円当たったらしく


なぜか私への感謝として


高級レストランでフルコースを


ごちそうしてくれたの


その時ふっと


その知り合いにとっても


私のとっても


自分が考えたストーリーとは違う方向から


望みが叶っていることに


気がついたの


私自身はつい数日前


何気なく見つめていた雑誌に紹介されていた


お店の美しい料理や内装に


うっとりしながら


こういうところに行きたいなって


いけるかどうかという意識は組み込まず


素直にそう思っていたの


そして楽しい気分に満たされ


その事を考えた自分を


忘れ過ごしていたの


知り合いは知り合いで


今まで自分の仕事(自分が考える


正当な報酬)だけから


収入を得ることしか


今まで頭になかったのだけれど


たまたまTVで見た車にうっとりしながら


急にひらめいたように


そういえばこの車


家の近くで見たかもって思い


何気なく外からその車を見に


足を運んだら


試乗できることを知って


乗ってみたら


思った以上に最高だったらしく


その時いつものように


「どうせ私には縁がない」とか


思う暇もないくらい


乗れたことが嬉しく


その日幸せを感じ


その足で遊び半分でくじを購入したらしいの


そしてそのくじが当たり


これから知り合いは


その車を自分で毎日運転できることになったの


私も知り合いも


その時よく伝えられている


引き寄せや類友など


様々な方法が伝えられているけれど


きっとこのようなことを


伝えているんじゃないかなって


頭ではなく


体感していたの


私たちはもしかすると


様々なものが流れるパイプを持っていると思うの


でも私たちは


つい確実かなって思う


毎月の報酬ですべてを計り


受け取れるものとそうではないもの


受け取りたいものと


好まないけれどこれくらいかなって


自分が思いこんでいるちょうど良いものだけを


視野に受け入れ


過ごしていると思うの


でも自分の状態が整っていて


素直に望む事ができたならば


それは様々な方法を通って


自分の元へと


運ばれてくるんじゃないかなって


感じているの


私自身過去を振り返ってみると


TVなどモニター系のものは


今まで購入した事がなく


グットタイミングで


周りの方が引越しや買い替えで


必要ないからといただき


こちらは感謝いっぱいなのだけれど


今の時代は処分にも費用がかかってしまうこともあって


くださった方も


喜ぶという形で


整っていたの


私たちは購入する事やお金を得ることばかりに


意識を向けるけれど


豊かさのパイプは


自分が気づいていないだけで


たくさん自分からつながり広がっているんじゃ


ないかなって感じているの


ただその中でとても大事なのは


豊かさを受け取るには


豊かな思いがなければ


どんなに想像・イメージなどをしても


それはただの妄想で


終わってしまうと思うの


そして自分の中で何かをイメージしたならば


その事が運ばれてくる道筋を決めたりして


ストーリーを限定しないことが


大切なんじゃないかなって


感じているの


そうすることで当たり前に毎月報酬が


運ばれてくるパイプだけに


頼りすぎて


自分の人生を小さく考えたりするくせもなくなり


他の豊かさと繋がるパイプのコックが


いくつも開かれ


理屈はわからないけれど


気がつくと


豊かになっているという事も


多くなってくると思うの


様々な幸せに近づく法則が


誰にでも手にできるようになっているけれど


同じものを読んでも


面白いくらいに理解の仕方もいっぱいあって


どのタイプのものが


自分にフィットするのか


試してみるのも良いと思うの


昔は波動の法則や引き寄せ的な本が


流行したとき


口々にえ!!って思うような事を


言葉にする人たちが


私の周りに現れていたの


ただ私はきっと今の流行的なものの中から


良いと感じたものを受け入れたんだなって


見つめていたのだけれど


周りの友人の中には


精神世界的なものから


距離がある友人もいて


???って感じで


どうしちゃったんだろうって


心配していたの(笑)


そして


口々にえ!!って思うような事を


言葉にする人たちの多くは


ただの妄想家として


何もなかったように今は過ごし


その中にも夢を実現し


幸せに暮らしている人もいたり・・・


その違いは


夢や思い付きを語りながらも


どこか不安があったり


自分にそんな人生が送れるわけがないと思っていたから


なんじゃないかなって


感じているの


夢をかなえた人たちは


夢を語ることの大切さだけではなく


それ以上に自分のコンディションに


心を配り


良い状態を保つ中で


その良い状態をセンサーとして


導かれるものや場所・人と出会い


本来ならばありえないと思えるような


世界へと羽ばたいていったのだと思うの

私たちは本当は心さえ開き


愛や喜びをセンサーとし


過ごすことが出来たならば


不可能はないくらいの状態まで


自分を高めてゆけるものなんじゃ


ないかなって感じていたの


夢とか表現すると


とても大きく遠くに感じたり


今のライフスタイルに特に不満はないし・・・と


とても大きな事をイメージしてしまうけれど


この実現は毎日毎日


小さなものの重なりだと思うの


最近私が行っていることなのだけれど


パートナーとドライブ中に


何か食べようかという話になると


意識して何を表現しても


「無理」「そんなのない」という


キーワードは表現せずに


思いをそのまま表現するようにしているの


たとえばパートナーはうどんが食べたいといい


私はラーメンが食べたいと伝え


価格はいくらまでしか出したくないと


自分たちの意識を表に出すの


その時お互いが


「無理」「そんなのない」という思いは持たず


最後に「あればいいね」っていいながら


車で走っている


笑ってしまうのだけれど


偶然のようにそのようなものが見つかるの


そして価格も今日から3日間


オープン記念で通常の半額だったり・・・


これはそんなに大きな出来事ではない


かもしれないけれど


私とパートナーはこの小さな奇跡に


勇気と自信をもらえるの


そしてそのような自分から発しているものが


何なのかを知ってゆくことで


自分が考えて行うよりも


もっとスムーズにそしてスピーディーに


自分が望むことが


運ばれてくることを実感できて


人生の素晴らしさと神秘を


楽しんで毎朝目覚めることが


出来るんじゃないかなって


感じているの


今日はどこからともなく


感謝が湧き上がってきたの


私が何かを望むとき


そこには人間関係というものが


いつも自然にあって


いつも自分のタイミングで


スムーズに物事を運べていたのは


もしかすると


私は気づかず


自分の運の力や実力的な勘違いで


気に留めることもなかった事も


本当は多くの方の無言の協力があってこそ


乗れた流れなんじゃないかなって


とてもありがたい気持ちになっていたの


人は発言や表現をしてくる人の言葉や


行動だけに


多くのエネルギーを向けるから


その事が大きく感じる事もあるけれど


静かにそっと見守り


時には生きる糧となる


エネルギーを手渡してくれたり・・・


そのような静かに注がれるエネルギーは


自分自身も平和で穏やかな


静寂を持たなければ


感じられない感覚なんじゃないかなって


感じたの


そしていつも感じている


世界中の誰もが


絶対に同じコピーがいない


オリジナルなのには


広く世界・地球を進化させる一員として


必要だから


存在させていると思うの


という事は


私は私でいる事が


逆に神々から義務つけられている


ひとつなのだから


自分の中から生まれてくる思いや


体験は


どんなに小さくっても


ちゃんと存在価値を満たしているんじゃ


ないかなって思ったら


なんだか


とっても幸せを感じていたの


世界中に暮らすすべての人の価値観や


ライフスタイルなど


すべてが違っているから


良いこともそうではないことも生まれるけれど


その中で人類は進化したり


個人個人


好まないものと出会い


自分が愛すものを知るように


光と影は


どんな場面でもペアに


作られているだけだと思うの





友人と何気ない会話の中で


友人が


何か説明の出来ない


違和感というかスムースに流れない


感覚を


ここ1ヶ月の間感じていたようで


それも何が原因かはわからないのだけれど


そんなに大きな原因ではない


小さな変化で


まるで運がせき止められたように


感じていることを


伝えてくれたの


その時私の中でピン!とくる記憶が


よみがえって来たの


私自身も友人と同じような


体験をした事があって


その原因はわからなくっても


何か小さな変化でそのようになったのは


感じていて


ただそれが何の変化で


そうなったのかがわからず


悩んでいたの


その時運がスムーズに流れない


ここ1ヶ月の間に


自分が足を運んだ場所や


お部屋の模様替えなど


様々なことを思い出していたの


そして自分なりに


直感のようなものが働いたの


それは出来るだけシンプルに


すっきりとしたお部屋にしようと


あるものを押入れにしまいこんでいたの


私の中できっとこれだ!って


思う感覚があって


パートナーに伝えると


「そんな小さな事なのかな」って


半信半疑のようだったのだけれど


そのものを元の位置に戻したら


うそのように数時間後から


運が好転してきたの


今でもとっても不思議なのだけれど


本格的風水などは


わからないのだけれど


たまたまそのものの配置が


ベストな場所にあったのを


移動させてしまったのかなって


感じていたの


その体験もあったので


友人にその事を伝え


ここ1ヶ月の間に


今までと違った行動やもの移動などを


思い出すといいよって


伝えたの


そうしたら友人はその日帰った後


いっぱい考えていたらしく


その中でやっぱりピンと来るものを


思い出したようなの


それは数年前に天国へと旅立った


お父様から頂いた時計だったらしく


友人は特に気にする事もなく


お部屋を掃除しているときに


ベルトの修理もめんどうで


お父様から頂いた時計を


箱に納めそのうち直す時に・・・って


他のものと一緒に物置にしまったようなの


その事以外気にかかることは


なかったようで


元あった場所に置いたらしいの


そうしたら


やはり私の時と同じように


運が好転していったようなの


その事を友人と電話で話しながら


ものとか場所って何かあるのかなって


不思議な気持ちに包まれていたの


今もしも何か大きな原因があるわけではないのに


何か歩む道がせき止められたように


感じている方の中には


私たちと同じような


本当は簡単にせき止めていたものを


自分で移動させ


スムーズにできることもあると思うの


なのでもしも


運気がここ最近ちょっと違和感がある方は


自分の行動などを


思い起こしてみるのも


いいんじゃないかなって


感じているの


私と友人には


少し変わった趣味があって


長い時間がお互いに作れそうなときには


いつも不動産物件を


観て歩くのが


大好きなの


特に購入予定やお引越し予定が


鳴くってもなの


そんな事もあって


その物件から伝わってくるエネルギーなどにも


敏感で


健をたくさんの物件を見て廻った後に


友人と意見を重ねながら


自分が求めているものに気づき


再確認しあったり・・・


家にまつわる不思議なお話しを


私も友人もいっぱい


周りから聞いていたり


自分も体験しているので


自分が暮らす空間というものに対しては


とても大きな意味を持っていて


大切に考えているの


友人の場合は昔同じ職場にいた同僚が


引っ越して今まで元気だったすぐに


両親が病になり天国へと旅立ち


その本人も難病になり


職場をやめたお話があったり


友人自身も


若い頃とても個性的な住まいに引越し


その後すぐに


様々なことが友人の人生に影響を与えたようで


心の病になったり


職場で様々なトラブルがあって


転職し


転職先でもいろいろあって


悩んでいたことがあったの


それでその頃心配になった私は


何かと霊感の働く母に


友人のことを相談してみると


「そのうちには地下室がある?


何か刑務所のような冷たい壁に囲まれている


気がするんだけど・・・


こんなところに暮らしていたら


病気になるよ


早く引っ越しなさいといいなさい」と


伝えられたの


確かに友人のおうちは


メゾネットでリビングから地下にお部屋があって


地下はその当時流行の


コンクリート打ちっぱなしの


おしゃれな内装だったの


それが友人には


あまり良くないのかなって思い


友人に伝えると


友人は私の母の言葉を信頼し


すぐに引越しを決めたの


それから


引越し先のエネルギーを大切に


暮らすようになって


驚くほど仕事でキャリアを重ね


今は世界に瞳を向けるほどになっているの


私自身も


友人や周りの方の影響もあって


住まいをエネルギーを育む保育器のように


受け止めるようになってから


暮らすスペースを


大切に思うようになったの


以前暮らしていた場所から


引越しを決めたときにも


近くに大きなビルが建ってから


何か説明の出来ない

体調不良が続き

もしかしたら

私にとっては健康のパイプを

このビルが建ったことで

ふさいでしまっているのかもって

感じていたの

そんな中周りからもシンクロするように


そのような会話が届けられることが多くなり


引越しを決めたの

風水に対して

専門知識はないのだけれど

きっと「この場所に空き地があるから良い」とか

「この場所に山が見えるから良い」とか

きっと何か

良いことにも意味があったと思うの


そしてその逆もまたあったり・・・


都会ではとてもエネルギーが整っている場所でも

数年の間に


街が開発され


エネルギーの変化も早いから


それまでよくなかった場所が


あるものが建ってよくなったり


その逆もあったり・・・


私の友人が今仕事の関係で


どうしても行かなければならない店舗があって


そのたびわけもなく気が重くなり


その事を私に伝えてくれていたの


その場所が気になった私は


今の時代ならではの便利なインターネットで


何か情報がないかと調べてみると


歴史の中で


少し問題があった場所だったようなの


友人にその事を伝えたら


「やっぱり!」って


何か感じていたものがあったようなの


そして友人がお守り代わりに


私が製作させていただいたブレスレットを毎日


スーツの下に見えないように


身につけていたようなのだけれど


家に帰ってはずそうと思ったら


なくなっていたようなの


ジャストフィットでゴムで


製作させていただいたので


フィット感をずっと感じていて


外れるはずもないし


切れたならもちろん気づくはずなのに・・・と


友人は残念な気持ちと


不思議な思いで


ちょっぴりこわがっていたの


それで仕事でどうしてもその店舗へ


行かなければならないので


何もつけないよりは良いかなって思ったらしく


お守りとして製作したものではなく


数年前におしゃれ用として製作させていただいた


ブレスレットをつけて


仕事をしていることを


伝えてくれたの


それで今急遽お急ぎで


友人にフィットする天珠をセレクトして


ブレスレットを考えているの


でもその店舗で働く数名の方は


何も感じる事無く


何年も働いている方もいたり


逆に友人のように


何か説明の出来ない不調を感じ


早い段階でやめられるかたも多く


人が定着しないようなの


人間ってすごいセンサーを持っていて


説明の出来ない何かを感じたり


瞳には映らない何かを


いつも感じているのだと思うの


でもその部分を見つめたり


気づいてしまうことで


色々な変化を求めてしまうことを恐れたり


大変さを想像してしまい


気づかないように


過ごす知恵もあるけれど


気づかないようにしていたことも


時間と共に


その事が無意識に


人生の流れを止めていることに


気がつき


清算する機会をあたえられることも


あるんじゃないかなって


感じているの


私たちは忘れていると思いこんでいたり


気づかないふりをしながら


すごしている部分って


多いんじゃないかなって


感じているの


私たちの記憶はまるで


宇宙の歩みをすべて刻んでいると伝えられる


アカシックレコードのように


多くのことを刻んでいて


知っているのだと思うの


たとえば本当は泣きたくなるような悲しい時でも


傷ついていないふりをして


時間の中へ流した記憶も


人に与えた思いやり深い自分の優しさも・・・


そしてもっと半径数十メートルで見つめてみても


あの場所が汚れていることも・・・(笑)


私たちはそんな小さな・小さな事すべてを


いっぱい・いっぱいに


自分の中にしまいこんでいて


毎日届けられる新たなものを


受け取るスペースを


作ることだけで


忙しい気持ちになっている事もあると思うの


新たに届けられたことが


本当は数十分で済ませられることだったとしても


入るスペースがないと


無意識に感じている自分にとっては


その1つだけを見つめるのではなく


他にも気になっていることや


後回しにしたままの事も重ねて


見つめてしまうので


毎日がいっぱい・いっぱいになってしまうんじゃ


ないかなって


感じているの


これは心の問題だけれど


もっとライフスタイルに近い問題で見つめてみると


たとえば新たに


何か目標を決めて経済をストックしようと


決めたとするでしょ


そうしたら本来は無駄をなくし


手元から経済が離れてゆかないように


行動をするということを思い浮かべるけれど


その決意とは別に


フラストレーションが重なり


逆の行動に流れてゆくことって


あると思うの


たとえば自炊をする事が


経済的ってわかっていても


忙しさとストレスで


精神的なゆとりを持てず


つい自炊が出来ず


いつもよりも不経済になってしまったり・・・


そして真面目な方は


自分の計画を実行できなかった事に


自分を責めてしまったりして


益々志と行動が半比例してしまったり・・・


上手に言葉では


表現できないのだけれど


それは今まで忘れていると


思い込んでいたことや


気づかないふりをしていたことに


新たな決意を重ねただけでなので


忘れていると思い込んでいたことや


気づかないふりをしていたことを


整理整頓しなければ


新たなスタートをできる


心のゆとりを生み出すことは


ちょっぴり難しいと思うの


私たちは自分の事であっても


表面的に表現する自分を


自分だと思い込んでいる事もあるけれど


本当は自分が思っている以上に繊細で


傷つきやすく


その傷を癒す時間をもつ事よりも


つい誰かの傷を癒す


優しさを優先していたり・・・


そんな自分のよさを見つめてあげる時間も


そして疲労した自分の心身を


癒す時間も持たず


時代を追いかけるような


忙しい生き方は


人間から人間らしさを


消してしまうことって


多いんじゃないかなって


感じているの


そしていつも新たに何かを知り


受け取ることばかりに


意識を向けてしまうけれど


元々ストックしてきたものを


思い出し


見つめ


整理整頓することが


今この時代には


大切なんじゃないかなって


感じているの


そして整理整頓した後


たくさん作ったスペースに


新たなものを綺麗に納めてゆけばいいんじゃ


ないかなって


感じているの


傷ついたまま本当は忘れていない記憶にも


今の未来の自分から


あたたかい言葉で包んであげて


過去を過去として終わらせてあげたり・・・


過去の自分よりも進化した


未来の自分だから癒してあげられると思うの


そして人の記憶というものは


良い意味で曖昧なので


本当にあった記憶と


その時々自分が想像したこと憶測や


感情も重なり


記憶は鮮明に刻印されてゆくものだから


自分にとって心地の良い形に


記憶を整えてあげるのも


未来の自分へのプレゼントになると思うの





いつもお引越し先を決めるときには


私の感覚を信頼してくれている


友人と共に


友人があらかじめ絞り込んだ物件を


見せてもらったの


その中で


信じられないくらいに


エネルギーが高まり


パワーが充電されてゆくのを


感じる物件があったの


その時思わず


引越し予定がない私でも


「このマンションの中にもう少し


広いお部屋はないのかな


もしあったら引っ越したい」って


伝えたほどだったの


ただ残念なことに


私の希望するタイプはなかったの


友人もこのマンションに


心惹かれているようだったのだけれど


お引越しに必要な金額が


予想をはるかに超えていて


少し難しいかなっていうこともあって


他の方向でよいものを探していたのだけれど


その時私は


「無理だと思うと


イメージとして周りに伝えてしまうから


自分が必要で


ここに暮らし楽しく


過ごしているイメージをしたほうがいいよ


そして自分が思っている以上に


自分にはそれだけの受け取る器が


あったならば


かならず今の自分でも暮らせるよう


説明の出来ない奇跡的ではあると思うけど


暮らせるように整うから」って


伝えていたの


上手に言葉では表現できないのだけれど


私たちはつい自分のお財布と相談したりしながら


受け取れるか


そうではないか


物事を判断したりするけれど


過去を振り返ると


多くの方が自分の収入以上の体験と


物質的な喜びを


体験してきたと思うの


それは何気ない小さな偶然である事が多く


つい流してしまっているけれど・・・


たとえば日々の中でも


偶然に欲しいものが割引になっていたり


偶然通りかかった場所で


様々な情報やお話しを聞けたりするのも


もしも価格におきなおしたならば


とても大きな豊かさだと思うの


そして私たちは


あまりにも自分の力だけに


頼りすぎてしまっているけれど


もう少しゆっくりと


何か瞳には映らないものの守護を


感じ取る事ができたならば


信じられないくらいに


自分が望む流れを整えてくれる


奇跡を体験してゆけるんじゃないかなって


感じているの


私の友人は最近私の伝える精神世界に

興味を持ち


様々な知恵が書かれた本などを


読んでいたので


具体的に説明を重ねなくっても


私が伝えたい思いを受け取ってくれたようで


その後


エネルギー溢れるそのマンションで


暮らせることになったの


それも本当に信じられない形で・・・


当初伝えられていた金額の半分だけで


なぜかOKになり


それも様々な偶然の重なりで・・・


そしてその喜びをカフェで話していた時


突然友人が


瞳を潤ませ


「思い出した!!」と


大きな声をあげ


「私あのマンションの迎え側にある美容室で


大学時代髪をカットしにきた事があったの


その時なにげなく外を見ながら


こんなマンションに暮らす人って


すごいな


一度でいいから住んでみたいって


その時思ってたの」といい


その後は胸いっぱいの友人の思いが伝わり


私も瞳うるうるになっていたの


友人が伝えたかったのは


きっと


精神世界で伝え表現されている知恵を


自分が受けとることで


気がつけば


夢をかなえていた


自分の人生に感動していたんじゃ


ないかなって


感じていたの


私も今回友人の人生の寄り添い


たくさんの勇気と


新たに歩んでゆく道に


多くの明かりが灯されたような


幸せを感じていたの






昔ならば


一般の方々とは違う輝きと


夢を与える事を仕事とされていた方が


あえて一般の方々と同じ悩みや


ライフスタイルを過ごされていることが


表現されていて


その中でも賛否両論があるようなのだけれど


私自身としては


とてもありがたい感覚を


体験しているの


私が不妊治療と共に心身の痛みがあって


とても表現できない苦しみを


体験しているとき


今までならば誰からも愛されたい


弱い私は


多少の無理を重ねても


相手の希望をかなえることが


相手に対しても自分に対しても


心地の良いものだと思って


無理を重ねられたのだけれど


病になってからは


心が身体をコントロールしていたのだけれど


それが逆になり


どんなに心ではこうしたいと思っても


身体の痛みなどで


相手の希望にも


自分の希望にも添えないようになっていったの


その頃


始めて自分の思いを表現し伝えるという


普通の方が当たり前に出来ることを


私の場合は


とても困難で難しい課題として


体験していたの


その時自分の説明のしかたも


上手じゃなかったことも


あったのかもしれないのだけれど


体調が整わないから・・・と


約束が出来ないことを伝えると


「いつも具合悪いんだね


そんなに動かないから太ってくるんじゃない!」と


ホルモン治療の知識がない


知り合い方伝えられたり


ある時には


パートナーが私のタイミングに合わせて


病院へ向かうため


会社を休むと


仲間の方からパートナーに電話がかかってきて


「奥さん死ぬ病気じゃないんだろ


具合が悪いっていつになたら直るの?


お前も大変だな

子供だって奥さんのせいでできないんだろう


だったら別れちゃえば」と


電話口から溢れてくる言葉に


消えてなくなりたい気持ちになって


病院の待合室のいすに座り


泣いた事もあったの


そして近い関係の人たちは


良かれと思って


私が不妊治療をやめずに


続けることを応援してくれていたのだけれど


心身が辛くって


不妊治療を再開する気持ちにはなれい事を


伝えてもなかなか理解してもらえず


「楽ばかりしていると


将来寂しい思いをするよ」と


伝えられたり・・・


そんなあるとき


メディアなどで


夢を与える事を仕事とされていた方たちが


一般の方々と同じ悩みや


ライフスタイルを過ごされていることが


表現されるようになって


その中には不妊治療の辛さを語られる方もいて


今までは知ることもなかった方たちにも


ダイレクトに情報が伝わるようになって


ありがたいくらいに


周りにいる方


ふれあう方たちが


やさしくあたたかい瞳と思いで


包んでくれるようになったの


それからは不妊治療を続けないことに


否定的な表現を伝えてきた方も


「二人が良かったらそれでいいと思うよ」と


言ってくれたり


パートナーの会社の方たちも


「奥さん大丈夫か?


病院付き添うときは言ってくれれば


調整するから


いつでも言ってくれ!」と


伝えてくれるようになったの


それもきっと私だけのわがままと


知識を持たない方は


感じていたのだけれど


本当はそうではなく


そういう病によって心身が辛く


大変な人もたくさんいるのだということを


みんなが知っている著名人が語ることによって


ストレートに伝わったのかなって


とても感じているの


最近は介護などについての情報が

伝えられていて


事柄は違っていても


私のように周りの理解が広がり


温かい瞳と思いを向けてもらえるようになって


ありがたく感じている方も多いと思うの


今世の中は


精神的・経済的にフラストレーションが


溜まった方が多いせいもあって


正当な理由を見つけては


バッシングするターゲットを探す人も多くなってきていて


病や悩みなど


様々な事を表現される著名人に対して


快くない言葉を


表現される方もいるかもしれないけれど


その方の生き方や表現に


救われている人も多くいると思うの


この間有名な俳優さん語夫婦の介護が


メディアに伝えられていて


友人や知り合いと会ったときにも


話題になったのだけれど


ある知り合いは


「輝かしい頃のイメージが壊れるよね


奥さんの介護を売り物にしてまで


お金欲しいのかな」と表現する人もいれば


「そうはいってもお金は必要だよね


私の姉もだんなの親を介護しているけど


周りはもっともらしく


あれこれと


介護の仕方に口は出すけど


その言っている人たちは


お金と労力は惜しんで出さないよね


だから何もしない周りが


あれこれ言うものではないと思うよ」とか


「あの夫婦がうらやましい


アルツハイマーとか記憶障害になると


繕っていた自分が無くなって


素の自分に戻るって言われているけど


私がそうなったとき


あんな風にかわいい人間でいられるか心配」など


様々な意見が流れていたの


人は同じものを見つめても


自分の心のコンディションや


様々な体験から受け取ったものによって


様々な意見があって


それを聞きながら


私自身の心がどう感じているのかの


バロメーターになっているの





人の人生とは


とても不思議なもので


同じ形の歩みではなくっても


同じ心の体験を


与えられるんじゃないかなって


感じていたの


私自身少女期には


自分でもどのように説明したらよいのかわからないほど


人生に必要な体験が


一気に訪れた事もあり


自分の思いと周りの思いと


与えられている環境・状況によって


今では思い出すことの出来ない


記憶もたくさんあるの


そんな時


大人になった今だから受け取れる体験の中で


昔自分が人に与えてきた思いや


それについて反省する事も多くあるの


よく子供を生み育て


親になった時


親の気持ちがわかると伝えられているけれど


私自身は子供と共に過ごす人生を


歩んでいないので


独身の頃とそんなに変化せずに


暮らしているのだけれど


そんな私でも


違う形ではっとするほど


過去に自分が与えてしまった


親への悲しみなどに


気づかされることもあるの


自分のとって大切な人のために


周りへ謝罪する時


もしかしたら親も私のために


たくさん恥をかき


そして心配と悲しみ


そして大切な人がどうしてそのような


行動してしまったのだろうと


理解しようとする優しさなど・・・


子供がいない私の場合は


このような形で


親への理解と感謝するよう


神々が与えていることなのかなって


感じることがあるの


たとえば頭で考えたら困難な事を


避けようとすることは


誰でも当たり前に選択することではあるけれど


人の人生って


こうしなかったならば・・・とか


こうしておけば・・・と思うことがあるけれど


たとえどちらを選択していても


払う代償・受け取る報酬は


そんなに大きく変わらず


形は違っていても


理解しなければならない学びは


ちゃんとタイミングを合わせて


届けられると思うの


私の友人の中には


過去のトラウマから


頭ですべてを考え人生設計を整え


無駄だと思う事はすべて


避けて歩んでいたの


その中には結婚も含まれていて


結婚から得られるメリットより


デメリットの方が多いと考えた友人は


一人で人生を歩んでゆけるよう


準備も整え


特に大きな不安もなく


楽しく毎日をエンジョイしていたの


そんな友人が様々なハプニングが重なり


犬を飼うことになったの


以前の友人ならば


自分に目に見えた何かを与えてくれることなく


与えるばかりの生き物には


心惹かれる事もなく


このハプニングにとても困っていたの


でも数ヶ月犬との暮らしの中で


まるで


彼女の中の大きな氷が溶かされてゆくように


大きな変化が


私にも伝わるほどだったの


昔ならば誰かが悩みなどを話していたりすると


確かにその通りの正論なのだけれど


「初めから考えたらわかるんじゃない」の一言で


周りが言葉を続けられないくらい


ピ~ンとした人だったの


でも最近では話題の中で


「わかる!わかる!ついやっちゃうんだよね」など


頭で考える世界ではない

感情の世界の中で過ごすようになっているの


深く彼女から話を聞くと


やはり犬という存在が


無言の教師のように


色々気づかせてくれるようで


何かあるたびに


「私もこんなに面倒を周りにかけてきたのかなって


思ったり・・・」


「自分の中にこんなにも何かを愛する気持ちが


あることに毎日驚いているよ」と表現したり


「こんなに何かに愛された事がなかったから


毎日幸せなの」って


何か話すたびに伝えてくれるの


その変化にとても素敵なものを感じていた数ヵ月後


彼女は職場の男性と恋人として


お付き合いが始まったの


きっと彼女が犬と共に暮らさなければ


人生を理論的に見つめ


メリット・デメリットだけで判断して


歩んでいたと思うの


だから特に不便なことも


大きな問題もなく過ごしてはいたと


思うのだけれど


でも人間は本来ロボットや


アンドロイドではないのだから


感情というものが重なり


すべての時間を過ごしているから


そこに説明の出来ない


問題がいつもあったと思うの


彼女自身


様々なものを回避し避けて


上手に人生を生きてきたと思うのだけれど


それでも人として必要な学びや


感情の精算などは


形を変えて届けられるんだなって


感じていたの


それからは人との係わり合いにも


メリット・デメリットではない


愛という繋がりの中で


おおらかにいつも笑顔で過ごしているの


たとえば結婚1つを見つめても


したから幸せ・しないから不幸せというのもなく


したからこそ良いことそうではないこと


しないからこそ良いこと・そうではないことが


どちらを選んでもあると思うの


私の母がよく結婚生活の中で


何度も


この人と別れたらもっとこうなるかも・・・


こんなこともできるし・・・など


父の存在がすべての陰になっていると考えたり


大切な子供だけれど


結婚していない友人や


子供がいない友人を見ては


自分の選択を後悔することもあったようなの


ただその事を言葉にしてしまうと


傷つけてしまう人もいるし


誰かに相談すると問題が大きくなるので


あくまでも心の中で思っていたようなの


でもある時


表現はあまり良いものではないかもしれないけれど


ふっと


父を夫と考えず同居人またはペットと暮らしていると


思い込もうと思ったようなの


そう思うとよい面がいっぱい見えてきて


夫婦と思うとやはり立場や役割など


期待と義務で


必要以上に求めてしまったり


押し付けてしまうけれど


同居人と思うと


周りの人よりも自分のことを心配してくれるし


手を貸してくれるいい人と思えるようになったらしいの


そしてペットだと考えると


自分が与えなければ


生きてゆけない存在なのだから


何かをこの人から受け取れる存在とは


思わなくなったようなの


表現としては父には


少し失礼な表現かもしれないけれど


そのように思うことで


母は父との関係を良い形へと整えていったようなの


それは母の中で


ずっと両親との約束となっていた


結婚生活をやめないという事を守るために


考え出した


自分なりの自分を納得させる方法だったと思うの


誰でも自分が選び取らなかった人生を持っている人を


うらやましく思ったり


自分の選択を時には後悔したりする事も


あるかもしれないけれど


結局どの選択をしたとしても


心の体験は形やタイミングを変えて


届けられるだけなのだから


転ぶことを怖れず


今の自分が歩んでゆきたいように


歩んでいったらいいんじゃないかなって


感じているの


自分の感情を抑え


転ばないように転ばないように歩んでも


転ぶときには転ぶのだから


ならば転ぶことを前提に


時には走ってみるのもいいんじゃないかなって思うの


転ぶことを前提にするのは


ネガティブだと感じる方もいるかもしれないけれど


逆の発想で


前向きになれるのならば


それもひとつのよい方法だと思うの


自信を持つという事と


驕り高ぶるということは


何となく表面に映るものは似ていても


とても違っていて


驕り高ぶると無意識に自分を上の位置におき


周りをの人や物事を判断したりして


本来の自分が見えず


時には


私ならば


スムーズに進むものという確信が強いために


その歩みがスムーズにならなかった時の


失望や不満も大きくなってしまうと思うの


でも良い意味でちょっぴり自信が足りないかなって


思うくらいの時のほうが


小さな事でもスムーズに運べばラッキーって


喜びも増してきたり


すべての場面で力が入り過ぎなくって


よいこともあると思うの


人にはそれぞれ人生を楽にできる方法が


必ずあるから


自分にフィットする言霊や人・方法を


見つけたらよいんじゃないかなって


感じているの