2008年8月



ここ数日


以前読んで取得した知恵が


書かれた本を思い出すように


読んでいるの


自分でも無意識だったけれど


一気に波動レベルを上げて


まるで一回取得した知恵や


感覚は永遠に保たれていると


思い違いしていた部分もあったのを


本を読みながら感じていたの


その当時は一文字・一文字


わくわくする感動と


「わかる・わかる」って本と繋がり


時を忘れて読んでいたのだけれど


どんどん高い知恵や知識を求めて


様々なタイプの本を読んで


そのうちに


知恵を知り


知識を重ねてゆくことに


無意識に意識が移っていったの


でもある時


たくさんの知識や知恵を知っていても


ライフスタイルに


取り入れながら過ごす


楽しさを


忘れているんじゃないかなって


思うことが多くなったの


上手に言葉では表現きないのだけれど


知識や知恵が広がったのに


現実の行動や考え方が


ほんの少し


小さくなったような・・・


大人になると考え方が


柔軟ではなくなるとよく表現されるけれど


知らなければ知らないで


「そういうものなのかな」って


やわらかく受け止めていたことも


様々なことを知ってゆくと


「こういうもの」って


無意識に断言に近い


考え方になっている部分があって


自分自身の歩みも


周りの人にも


息くるしい時間を


作っていたんじゃないかなって感じていたの


そんな時に毎日迎える朝に


ふっと目を覚ますと


私のみゃーと鳴く娘のみゅうが


私の顔に寄り添い


隣にはパートナーの寝息が聞こえて


なぜだか


とっても幸せな気持ちになって


その時に


知識や知恵ではなく


私に必要なのは


体感する事なのだと改めて感じたの


私の友人にも


何もかもがうまく進んでいて


特に仕事と寄り添う時間が多く


充実しているように思っていたのだけれど


友人は


「最近なぜか何をしても楽しくないんだよね


前はあんなに毎日感動していたのに・・・


本を読んでは感動・おいしいものに出会って感動


気持ちがいい風が吹いただけで


幸せを感じたり・・・」と表現していたの


人は誰でもそんな部分があると思うのだけれど


何かを得られるスペースで


長く過ごしていると


初めは感謝や喜びがあると思うの


でも


人間は本来


ひとつしか学びのスペースや


気づきのスペースが


ないわけではないから


瞳に映る


何かを得られる現実とは別に


他に一人一人が次に進む時間が


どこかで待っていて


繋がりあうアンテナが


その事を言葉では説明したり


確信ができなくっても


イライラしたり


その場所に魅力を感じられなくなってきたりするものなんじゃ


ないかなって思うの


そのスペースで何かを得られる間は


直感的に何か思いが生まれたり


導くガイドのような出会いがあっても


自分から変化するような行動はせず


このスペースでだめになったら


動けばいいかなって


それが一番いいのだと


自分に言い聞かせて


初めはその時間を冷静に


見つめ距離を置いていたのだけれど


いつの間にか


その時間に無意識に依存視していまい


自分の思いが優先順位の一番大切なものから


何かを得られるはずだった時間や


スペースが主導権を持ち


心身が疲労してしまうんじゃないかなって


感じているの


ただ友人の場合は


自分の何気ない変化に


気づくという高度な感覚を


持っているので


きっともう少し時間が流れたとき


新たな感動が待つ場所へと


たどり着けるとは思っているの


私の中での精神世界や


スピリチュアルな世界では


「気づく」「感謝する」事が


もっとも精神的な成長や


魂レベルをステップアップしてくれる


魔法だと思っているの


ひとことで「気づく」といっても


気づくということを実行すると


その中には


あるのままの自分を認め


受け入れたりする機会が訪れるので


人によっては


今まで感じたことがないほど


落ち込んでしまったり


希望をもてなくなったりする時間を通らなければ


光に辿りつけない方もいるので


自分を見つめ気づきを続けるよりも


誰かの行動や言動に


意識を向けて


もっともな評論をして


自分の利口さや素晴らしい人間だと


アピールしている方が心地が良いので


ついそのような時間を長く


過ごしてしまったりしてしまう事もあると思うの


私を含め


多くの方は一番長く共に過ごし


一番愛しているはずの自分の事を


誰よりも知らなかったり・・・


それは良い部分もそうではない部分も・・・


多くの方は夢見る事は


叶えられる可能性があるから


その部分にスポットを当てられるのに・・・


よく知らなかったことが


数年たって心惹かれる事があるけれど


その多くは


無意識レベルで


自分には可能だと


内なるスペースで感じているから


その事にこだわったり


心惹かれて


何度も見つめたりするんじゃないかなって思うの


少し判断が難しいのだけれど


「あこがれ」や「興味」という感覚は


ほんの少し瞳に映して


意識的に


自分の歩みとは別だけれど


感じながら表現するもので


「可能性」というものは


困難かなって予測がつく事でも


一回は頭の中でシュミレーションまで


できることなんじゃないかなって感じているの


自分の自分への評価は


小さくっても


もしも自分がイメージできることは


すべて可能なことなのだと思うの


深い部分では無理だと


感じているならば


初めから選択肢には入れないし


悩むこともないから・・・


どんな出来事が運ばれてきても


悩む・考える・不安・イライラなど


感情が揺れる体験は


自分では確信をもてなかったとしても


可能性の扉を開く


鍵を持っているから


開こうか・どうしようか


内なる自分が


表面意識の自分の体験や知識と


相談しているのだと思うの


そして多くの場合は


現実として体験から得た知識や


出会ってきた方たちの歩みなどを


重ねて


内なるささやきよりも


瞳に映る現実に


選択を委ねてしまうのだと思うの


自分にとって


正しい道を歩んでいても


すべてが輝くものばかりではなく


時にはイライラや焦り・不安は


進行している証として


届けられる事もあると思うの


そして進んでいたことが


ストップして


立ち止まらなければならないときには


多くの場合


次にステップアップしてゆく


高さがそのこにあって


そのステップの高さを越えるためには


人によっては


羽根となってくれる言葉を受け取り


一瞬で羽ばたき越えられる方


何度も何度もチャレンジているうちに


スプリングを自ら生み出し


次々現れるステップの高さを


超えられるようになる方など様々だと思うの


すべてが輝くように


スムーズな流れの時には


誰でも心穏やかで


ハイヤーセルフと繋がり


精神世界の教えを何も知らなくっても


無意識に実行し


自信に溢れ


人生の素晴らしさを体験できるけれど


本質があらわれ


深い部分にある


自分の価値観や真実に


気づく機会になるのは


立ち止まった時なんじゃないかなって思うの


私自身も立ち止まる時間が


長い時には


自分でも驚くほど


ネガティブであれこれと幼い頃


大人たちが表現していて


日頃は


考えた事もないような


世の中への不満や


絶望感などを表現し


自分でもはっと


そんな自分にびっくりする事があるの


そんなときには


私の深い部分には


光の当たらないスペースがあって


風通しし


光を望んでいる部分があって


心の状態と同じように


暗くグチグチになっているんだなって


思うようにして


無理に「こんな風に思ってはいけない」と


ふたをする事はせずに


受け入れているの


そうすると不思議と


反作用で回復しようと


細胞が働くのか


急に前向きな気持ちが生まれてきたり・・・


どんな状況でも


気づくということはすべての通じていて


見たくない部分も


見つめているうちになれてきて


ユーモアを持って


自分を許す知恵が生まれ


過去の過ち・言動・行動etc


すべてが


今の自分には恥ずかしいことであっても


今の自分には必要だった


心・魂に必要な栄養となっていて


そのエネルギーが


やがて周りの方の事も許せたりする


力になっていることにも


あるんじゃないかなって思うの


よく表現の中で


占い師やカウンセラーの方に


ご苦労をされてきた方が多く


その方たちを見つめて


そんなに人の事がわかるならば


なぜ自分を幸せにできないんだろうって


疑問をもたれる方も


いるとは思うのだけれど


私が思うには


ご苦労されたからこそ


人への力づけや


共感という大きな心のお薬を


手渡せるのだと思うの


だからこそ


その職業へ導かれるまでの間


多くの体験を重ねて


過ごされてきたのだと思うの


どんな事でも教科書やマニュアルにはない


体験というものから得た


心の体験は


出会う人によっては


その方の


命を救うほどの力となる事もあったり・・・


時間を進めたならば


人生の体験のほとんどが


無駄はなく


大きな意味があったことだと


知る事ができると思うの


だから瞬時に


自分の人生を決め付ける事なく


自分が持っている鍵で


開くことができる扉を


探すことが


大切なんじゃないかなって思うの















いつもこの季節は


毎日高校野球に


胸が熱くなっているの


精神世界の知恵を


目の前で教えられているような・・・


よく思いが同じものを


引き寄せてしまうと


伝えられているけれど


ミスをしてしまったとき


心が揺れて


その心を切り替えられなければ


また望まない形に流れができてしまったり・・・


今では精神世界の知恵を


知らない方でも


何となくそのような事を


感じている方も多く


ミスをしても


すぐに気持ちが切り替えられるように


周りの方も


笑顔で


次に気持ちを持ってゆけるよう


支えてあげたり・・・


高校野球って


一試合・一試合


短い時間なのに


流れが何かをきっかけに


急に変わったりして


瞬間・瞬間


自分を信じる事を繰り返し繰り返し


試されているような


時が流れていると思うの


そしていつも感じているのは


勝負だから


勝った方がもちろん嬉しいけれど


高校野球は勝っても負けても


涙が溢れるほど感動し


試合する選手たちも


努力をしたからこそ


涙を」流すことができる


素晴らしい体験を


されているんじゃないかなって感じながら


見つめているの


友人ともよく話すのだけれど


輝きの中にいるときには


その事に気づかないのが青春で


過ぎて初めて


あの頃の私たちは


きっとその時できるすべての力で


懸命に輝いていたんだろうねって


気づかされるの


ただその後


人生80年といわれている


今の時代からすると


まだまだ少女の私たちは


未来から見つめたならば


今も青春なのだから


自分たちが納得できる


輝く時間を重ねてゆこうねって


話しているの





















今日は広島にスポットがあたり


改めて平和に感謝し


平和の大切さを


感じさせていただける日なのだけれど


以前も書かせていただいたことなのだけれど


今日もやはり


偶然のように友人から


メールや電話があったの


その友人は無意識なのだけれど


どんなに忙しくって


会う機会がなかったりしても


長崎にとって大切な日と


広島にとって大切な日には


連絡があったり


会う機会が作られるの


私と友人は


なぜだか戦争などで


過去に大変だったところに


無意識に旅行プランを立てて


実際にホテルに着くと


ホテル側のミスで確保されていなくって


不思議な形で


ハイグレードのお部屋へサービスとして


泊まる事が多かったの


そして原爆記念館などでは


別々に行動をするのだけれど


友人は語り部の方と


向き合い涙を流しながら


二人でお話していることがあって


その頃からもしかしたら


友人も私も戦争体験が


生まれ変わりの中で体験していて


慰霊の旅をしているのかなって


感じるようになったの


つい数年前までは


小笠原諸島の周りにある


島々に


急に心惹かれていて


その後すぐに映画が公開され


友人と「やっぱり」って


不思議な一致を感じていたの


以前ある方に


私は何も話していないのに


「あなたは戦争でえらい立場にあった人みたいね


それであなたの指揮を待って


呼んでいる人がいるみたい


あなた旅行とかで


行きたい場所はないの?」って尋ねられて


その頃はもう何度も


同じ場所に足を運んでいて


友人も私も


そんなに以前のような


急いだ感覚はないけれど


周りからはサイパンへ誘われていたり


知り合いが広島に引越しをして


遊びにきてって誘われているので


自分の意思とは別に


まだまだ友人と私は


今の自分とは別の深い部分に眠る


誰かのために


旅に導かれてゆくのかなって


感じているの


そして何よりも一番心配だったのは


戦争などでえらい立場の方の多くは


理不尽なことを重ね・・・っていう事が


伝えられているので


私もそうだったら・・・って不安になって


その方に尋ねると


「大丈夫よ


そんな人なら誰も待ってはいないでしょ


あなたはみんなの心が


打ち砕かれないように


希望を持たせ


同じ立場の人間を欺いても


下のものに優しくしたみたいよ


それで死んだことにして何人もかくまっていたり・・・」と


教えていただき


このことが本当ならば


とても嬉しいなって感じていたの


そしてその頃の部下が


今の時代の中でも


何人も繋がっていると言われ


もしかしたら


HPで繋がってくださっている方の中にも


昔からご縁があって


出会っている方もいるんじゃないのかなって


時代を超えたロマンを感じていたの


そう思うと


確かに顔をあわせて


お話した事がない方にも


強く喜びや感謝を


会っている友人と同じように


感じること自体も不思議だなって


時々感じているの


よく前世の繋がりが会った方が


現世でも出会い


前世で果たせなかったことを


現世で帳尻を調整すると伝えられているので


今私が繋がりあっている方たちは


やっぱり」現世でも会いたいほど


強い導きによって


出会えたのかなって思うの


私が生まれた時から


自分の意思とは別に


キリスト教系の幼稚園や学校に通い


偶然に通っていた病院や


ご近所で優しくしてくれた


思い出す人たちが


偶然にも


お家に伺うと


ロザリオやマリア像があったり・・・


そのような事も今思うと


前世の繋がりが導きあっていたのだと思うの


ただ現世と前世では


性別や年代なども違うことも多いから


はっきりと関係がわからないけれど


中には幼い子供が


前世では


自分の人生に登場していた


おばあさんだったり・・・


そう思うと


言葉では上手に表現できないのだけれど


目の前にある損・得だけを見つめ


幸・不幸を測るのではなく


いつまでも続く輪廻の中で


出会う方たちと共に


それぞれの方が人生に与えられた


使命を一緒に消化してゆく事が


できたら


とっても素敵だなって


感じているの

















この間


私の親友のところに


昔とても親しかった友人から


数年ぶりに


メールが届いたの


その友人はつい最近


パートナーと別れたようで


また新たな道を


歩みだしたことが書かれていたの


その友人はとってもまじめで


もしかすると私の両親よりも


人生とはこうあるべきというような


考えを持っていて


時には


周りの方たちにも


その思いを


押し付けていたところもあったの


結婚してすぐの頃には


その思いが強く表現され


独身の友人たちに


人生について


あれこれと最もな事を伝えていたの


確かに彼女の表現することは


正しいのかもしれないけれど


やはり考え方や


幸せの価値観は


人それぞれだから


正しいというだけでは


測れないんじゃないかなって


いつも感じていたの


でもその当時は


そんなお母さん的な彼女の持つ感性に


自分たちにはないものを


楽しみながら


繋がりあっていたの


ある時彼女は


昔から住みたいといっていた街で


暮らすことになって


それ以来


なかなか会う機会がなくなっていたの


そして今回


彼女にとってはもしかしたら初めて


自分が考える正しい人生が


少し形を変えたことで


自信を失っていたようだけれど

メールの文字から


以前にはなかった


あたたかい優しいエネルギーが溢れていて


言葉では上手に表現できないのだけれど


自分にとって


少しかっこ悪いと


思っている事が必ずしも


周りにも同じようには映らず


逆に素敵とさえ


感じられることも多いんじゃないかなって


感じていたの


彼女は誰もが見つめて


正しいことをいつも選択してきたけれど


自分がどうしたら


幸せになれるのか?


自分は何を望んでいるのかという


選択をしてこなかったんじゃないかなって


感じていたの


そして今回


結婚というスペースの中で


きっと正しいことが


必ずしも


人を幸せにしてくれるものではないことに気づき


無意識にふれあう人々にも


優しいまなざしを


向けられるようになったのかなって感じていたの


人は誰でも


自分が計画した事が形とならなかったとき


大きなショックによって


ダメージを受けたり


心傷つくこともあるけれど


本当は心が傷ついているのではなく


新たに生まれている


自分を表面に誕生させるために


上にある殻を


破っている作業なんじゃ


ないかなって感じていたの


今までの自分を保てないことで


周りからはどう映るだろうって


恥ずかしい気持ちになるかもしれないけれど


逆に考えてみると


どんなに正しく整えていても


何か心無い事を表現する人はするし


しない方はしないものなのだから


周りのことよりも


自分自身が幸せを感じられることを


受け取ってゆくことが


人生では大切なんじゃないかなって感じていたの


彼女はこの出来事によって


正しいことだけに


こだわる思いから解放されて


今生き生きと次の未来へと


心の瞳を向けているようだったの


私も彼女の歩みを


見つめながら


正しくあろうと必要以上に


無理をして


そのスペースに収まろうと


意味のない事をしていた過去を


思い出していたの


だからその頃は


多くの方に囲まれていても


いつも心の中では


孤独感がいっぱいで


逆に一人で過ごしていた方が


やすらいで幸せだったの


でも今は自分が自分らしくいることで


自然にふれあう方たちが


判断して


私とはちょっと・・・って思われる方は


自然に距離が生まれてくるし


私の事を愛してくれる方は


無意識に深まりあって


互いの人生に


影響を与え合いながら


出会えた喜びを


自然に感じられるから


複雑に考えて


付き合う人を選ぶという


恐れを持つ必要がなくなったの


瞬間的には


様々な方との出会いはあるけれど


長い繋がりを互いに持ちたいと思うのは


縁というコントロールできない


神秘もあるけれど


多くは類友の法則で


深い部分に秘めている価値観が


フィットした方たちが引き合って


時を共に


過ごすものだと思うの


異性との関係でも同じで


ときめきなどから始まった出会いも


時間と共に


心惹かれるものや


大切に思うものにも変化が現れたり


時には自分でも驚くほど


憎しみや怒り・悲しみという


心の体験も重ねながら


それでも


その時々


相手を人間として素敵だと思えたり


サポートしたいと思ったり


ありがたい気持ちが生まれたりしながら


恋人から夫婦そして家族へと


シフトチェンジしているんじゃないかなって


感じているの


よく「誰も私の事をわかってくれない」って


思った時期もあったのだけれど


静かに自分の心と対話してみると


「誰も私の事をわかってくれない」と思っているけれど


じゃー私は


ふれあう人の事をちゃんと理解しているかなって


考えてみると


私だって大切に思う人の事であっても


理解してあげていない部分も


多いことに気がつき


自分でも自分の事が


わからないことも多いのだから


わからないくっても


当たり前というスタンスから


表現しあうと


押し付ける形での表現ではなく


素直に


「私はそう考えている」「私はそう思う」という


表現に変わり


相手の同意がいつも必要な


言動がなくなったの


出会いはそれぞれの人生に


必要なキーワードを持っていて


そのキーワードは


その時々意味があって


つきあいがなくなったからといって


自分に問題があるわけでも


相手に問題があるわけでもなく


自分では気づかない


その方から受け取る必要なものは


もう受け取り終了したから


次へと


互いにコマを進め


別の道を歩む事もあると思うの


人生のプランは


自分の予想を超えた形で


作品となってゆくものだから


正しいか間違っているかだけでは


測れない


体験も多く重ねてゆくものだと思うの


ただどんな時も


その時の自分がベストだと思う


選択を重ねていたならば


どんな形の作品になっても


自分が納得し


愛することができるんじゃないかなって思うの















最近


改めて自分の人生は


自分にしか作れないことを感じ


行動へと導かれることが多いの


ほんのささいな事なのだけれど


たとえば


どこかへ足を運んだときに


みんなが向こうへと歩いていて


もしかしたら


あっちの方がいいのかなって


思った時


直感的には反対側だったのだけれど


迷いが生まれて


そんな時友人が


「さーちゃんはどう思う?」って


尋ねてくれて


「私は反対側だと思うんだけど


でも誰も反対側にいかないねどうしよう」って答えると


友人は私の直感通り行こうと行ってくれて


そんな時


もし違っていたらと


小さな責任を感じてしまうのだけれど


結果的に


自分が感じる方へと向かうと


整理券が私たちで終わりになって


間に合ったり・・・


このような出来事って


ほんの小さな事のように映るけれど


私たちはこのような


小さな事の積み重ねで


日々過ごしているんじゃないかなって


感じているの


そしてその小さな事が


自分の人生や思い出


奇跡を


作ってゆくと思うの


私たちは毎日小さな事の選択を


朝目覚めた時から


与えられていて


「朝食どうしようかな?」から始まり


「どっちを着てゆこうかな?」とか・・・


その小さな選択によって


ドラマが始まったり


何もなく穏やかに何もなかったり・・・


特に年齢を重ねてくると


神様が今まで歩んできた


ご褒美として


今までの選択の途中経過を


少しずつ神様が教えてくれるせいか


ある部分では後悔したり


ある部分では自分の選択のい正しさを


感じたりする事があるの


ただ私の場合は


精神的に思いが溢れてくると


眠ることを忘れて


身体に無理を重ねさせてしまったことには


後悔を感じるけれど


それ以外の事では


その時々精一杯の思いで


選んできたことだと思っているから


未来の私が


過去の自分を責める思いはないの


自分では過去の小さな苦労を


忘れている事も多いのだけれど


この間

親友に「さーちゃんは学校も卒業していないから


10代の頃


すごく大変だったと思うよ


私が同じような感じだったら


そう思うもん


だからこの間10代で


学校をやめてしまった子を


採用してみようと思って決めたんだよ」って伝えてもらって


急に胸があたたかくなって


瞳もウルウルしてしまったの


それはきっと


私自身も忘れていたけれど


10代の頃は


誰でもそうだと思うのだけれど


いっぱい・いっぱい


初めての経験が溢れていて


たまたま私の場合は


みんなのように数年単位で


安定する機会がなく


(もちろん自分で選択したことだけれど)


幼い私は


何もわからず自分の思いと


自分の未来を信じて


精一杯過ごしていたことを


思い出して


言葉では表現できない


思いに包まれていたの


10代の頃は今思い出しても


不思議なほど


出会いが多く


その出会いがすべて


大きなハプニングの連続で


少し誤解されてしまう事も多く


ある時には


その当時仲が良かった人に


「ここで待っていて」って言われて


待っている間


ウトウトしてしまい眠っていると


肩をたたく人がいて


ふっと目を覚ますと


警察官で


その当時仲が良かった人が


誰かのバイクをぬすみ


その時私を待たせていることを伝えたようで


私は知らない間に


共犯になっていたの


そして私の両親が呼ばれ


説明を受けていたの


その当時仲が良かった人は


誰も迎えには来なくって


私の両親が責任を持つという事になって


お家まで送っていったの


そして母は


次の日にバイクの持ち主の所に


お詫びに行こうと


私に何度も伝えたのだけれど


私は「何もしていないのに


なぜ謝らなければいけないの!」といって


何度も言葉を交わしていたのだけれど


母が


「自分が友達としていいと思っていた子と


一緒にいてこうなったんだから


自分にも責任があるんだよ」って


伝えられて


何となく腑に落ちた私は


母と謝りに伺ったの


バイクの持ち主の方も


とても優しい方で


「おたくは何もしていないことは


警察の方に聞いていたので


謝罪に来てくれただけで


本当に嬉しいのだから気にしないで」って


伝えていただき


母と私は


とてもあたたかい思いになったの


そしてその後


母が伝えてくれた言葉が


気になっていて


またその時も


自分を信じる気持ちというか


信じたい気持ちから


自分と出会う人は


きっとそんな悪い人ではないとの思いから


なぜその当時仲が良かった友人が


心で考えて


行動することができなくなってしまったのだろうって


幼い私は


毎日考えて


出した結論は


いつ帰ってもおうちに誰もいなく


寂しい気持ちと


彼女の思いを聞いて


理解してくれる人が


いないからなんじゃないかなって思い


それから毎日


私のお家に招くことにしたの


そしてそのたびに


私の父が自分の若い頃の誇れない過ちや


楽しかったことなどを語り


母は食事を用意してくれたの


そのような時間を


多く過ごすようになって


いつの間にか


あまり笑顔にならなかった友人が


笑い声と共に笑顔になることが

ふれていって


何でも話してくれるようになったの


そしてある時


「私もここのうちの子で生まれたかったな」って


表現してくれて


私の両親はあまりの嬉しさに


涙が溢れていたの


私の父は幼い頃から


あまりにも苦労を重ねてきた事もあって


若い頃報われない人生に


絶望して


アウトローな方たちと同じような


生き方をしていて


昼間は社会で働き


夜はアウトローの方たちが


必要とするお店で


過ごしていたようなの


だから友人のような


どうしようもない思いが


とってもわかるようで


自分ができることをしようと


思っていたようなの


父の場合も母と出会い


道が開かれたように


人にはきっかけと


ぬくもりがなによりも


大切だと


感じていたんじゃないかなって思うの


その友人はその後すぐに


社会で働き出し


あたたかな家族を作って


今でも幸せに過ごしているの


私自身もその友人との出会いから


その瞬間のその方の姿だけで


人格を決め付けてしまないようになったの


そして人は満たされない思いを


形は様々だけれど


まぎらわせようと


本来の自分が求める方向とは別の事を


してしまう事もあると思うの


人はロボットとは違って


心があって感情があるから


そのスペースが満たされないと


心の羅針盤が安定して


進む方向を指してはくれないと思うの


だから益々迷い


心がパニックになって


判断ができなくなるんじゃ


ないかなって思うの


人生には山とか谷があると


表現されるけれど


今思うと


私の場合は10代の時には


谷ばかりで


広く景色を楽しむ余裕がなかったように思うの


そして社会的に問題が多く


上手に生きられない人との出会いが多く


そのたびにその当時から


私が持っている


常識とは別の


精神世界的な知恵を語っていたの


それは今のベースとなる事を


確信へと導いてくれる


時間だったと思うの


そしてどこかで見つけた綺麗な石を


ひろってきては


思いや念が入ると信じている私は手に握り


友人が幸せになれるように願い


友人にプレゼントしていたの


友人たちはどこにお出かけするときにも


ポケットに入れていてくれて


とっても嬉しかったの


今思うと


きっと私の今を作ってくれた


第一章だったのかなって思うの


人は誰でも生まれた時は


秘めた本能的価値観は


キラキラと輝き


心身が愛のパワーが満タンだけれど


時を重ねるごとに


今度はチャージが必要で


その時々出会う人から


チャージしてもらったり


自らチャージできるよう


心に充電器を備えるような


知恵を生み出したりしながら


歩んでいるのだと思うの


どんな場合でも


どんなに外からノックしても


人生のドアは


内側から鍵を


自分であけなければ


ひらかないと思うの


その時大きな後押しとなるのは


やはり


自分を信頼する気持ちなんじゃないかなって思うの














自分には子供はいないのだけれど


私はありがたいことに


弟の元に授かった


天使たちと交流できる機会が


多く与えられて


様々なことに


はっと気づかされることも多いの


大人になると


自分の本能的なものを


深い部分にしまいこんで


忘れていることも


子供はそのままに


人間が誰でも持っている


本能的なものを


ありのままに表現し


そして表現することを許されているから


ふれあうたびに


心理学的な学びが多いの


子供って人の視線が


自分からはなれると


すぐに「見て!見て」って呼んで見つめると


特に何かアピールがなくっても


安心して


お絵かきしたり


穏やかな気持ちで過ごしているのを見て


本能的には


大人もみんな


同じなんじゃないかなって感じていたの


視線や言葉には


きっと瞳には映らない


パワーがあって


自分が誰かに見守られていると感じると


大きな力になって


自分の力以上のパワーが


前に進めるようにしてくれたり・・・


人間はすべての人と繋がる


何かアンテナのようなものが


内蔵されていて


愛が配合された言葉や


視線に敏感で何気ない事でも


元気をもらったりしながら


生かし・生かされあっているんじゃないかなって


感じているの


そして何も繋がりが


感じられないときには


自暴自棄になったり


逆にもっとアピールするために


本来の自分とは違った


人に不快を与える形でも


無理に視線や言葉を受け取ろうと

働く方もいたり・・・


よく伝えられているのは


人からの批判なども


とってもつらい心の体験だけれど


一番辛いのは


何も周りが反応してくれず


無視されることだといわれているから


やっぱり


私たちは意識とは別に


何か繋がりを感じていなければ


生きてゆけない


高機能な生き物なんじゃないかなって思うの


私自身過去の恋愛では


相手をいつも困らせてばかりで


その困る顔を


瞳に映すたびに


今私の事が頭の中にいっぱいなんだって


感じられるたびに


愛を試すように


いつもそんな寂しい愛の確認をしていたことがあったの


そしてその頃の私は


自分が相手を


大好きだと思われる事よりも


相手が私を大好きなのだと


意味もなく周りにアピールしていたの


なぜそのようなことをしていたのか


今でもよくわからないのだけれど


きっと自分に自信がなく


そして傷つくのがこわくって


予防線を


初めから用意していたんじゃないかなって思うの


でも年を重ねて


ある意味で本当に心のままに


恋愛を楽しもうという思いの方が


私にとって大切な価値観になっていて


その頃パートナーと出会って


結果を求めずに


経過を楽しむことで


逆に自分でも考えていない


幸せな結果へと結びついたの


パートナーと出会う前は


あれこれと条件や規制を


自分が傷つかないために


そして意味もなく人に自慢できる


相手を選択して


とっても狭いスペースで


縁を探していたの


でもすべての規制が


ある時


ふっとあまり意味のないものに感じて


それから


急に自分の心のスペースが広がり


様々な方たちとの出会いが


あって


今とても幸せを感じているの


そしてその頃


私にとっては大きな


覚醒だったのだけれど


「許すということは


自分を知っているからできること」って


思いが生まれて


とっても恥ずかしいのだけれど


私はその頃


自分を知らなさ過ぎて


相手へ求める条件を


あれこれと生み出していたのだと思うの


自分にないものを


すべて相手に満たしてもらおうと


いつも思っていたのだと思うの


でも初めて


パートナーと出会って


「自分にできる事」について


はじめて考えたり


何もできないと思っていたことが


多くの方の支えの元


できたときの喜びが


社会経験がない私にも


ほんの少し成長させてくれた


時間になったと思うの


そして今も


たくさん美しいHPがある中でも


大切な人生の時間を使って


私のHPにきてくださる方のおかげで


このスペースを続けられて


言葉では表現できないほど


感謝でいっぱいなの


私自身


物事を続けてゆくほど


心惹かれる時間が


今までなかったこともあって


すぐに結果に結びつかないと


やめていたので


いつも


「私って根気がなくって


本当にだめなんだな」って


すっと思いながら過ごしてきたのに


多くの方のおかげで


私の中でのネガティブなジンクスを


消すことができたの


もうHP6年目になるから


私にとっては


とっても長く重ねられた


初めてのことなの


こんな感じで


繋がりあってくださっている方たちと


共にずっと


年を重ねていけたら


どんなに幸せだろうって


時々ふっと考えるの


ずっと繋がってくださる方


しばらく離れていて


数年ぶりに探してくれて


また訪れてくださる方


どんな時にも存在している


心のふるさとのようなHpにしてゆけたらって


勝手に


妄想して幸せになっているの(笑)















今私の暮らす


北海道は


大地が育んだ食物がいっぱい実り


私にとっては


心身の浄化&充電時期になっているの


多くの農家の方は


自分のおうちで大切に育てたお野菜や果物を


お家の前で販売されていて


長くお付き合いのある農家の方だと


その場でほしいものを伝えると


畑から収穫してきてくださって


本当に新鮮なおいしい


大地の実りを


いつもいただいているの


昔はできあがった流通でしか


経済的なものを


生み出せないと思いこんで


過ごされてきた農業をされている方も


多かったけれど


今は敷地内に


小さなカフェスペースを作り


自分の畑で作ったもので


スィーツを作られていたり


レストラン感覚で


食事を食べられるところもあったり・・・


いつも感じるのは


どんな職種の方でも


そうだと思うのだけれど


初めの志よりも


続けてゆくことに


心身が向いて


ふっと気がつくと


苦労ばかりを感じ


楽しんでいない事に気づかれ


本来やりたかった事を


人生のほんの小さな時間で


始められている方が


多いんじゃないかなって感じているの


農業の方の多くは


苦労をする事は


初めから理解して


始められた方が多いと思うから


求められることに対して


対応しようという苦労は


苦労ではなく


自分が本来したいこととは別の方向へ


注ぐ努力が


辛く感じているんじゅないかなって思うの


たとえば無農薬で安全な野菜を


自信持って作ることを


望んでいても


高騰することで


購入してもらえるのかへの不安や


どれだけの人が理解して


そして味をわかってくれるのかなど


大きな不安と


それに伴う畑のすべてを


チェンジする身体的な大変を考えると


つい大きな不満があっても


今までの流通にのせて


ただただ作っていた方がって


思われている方もいると思うの


でもそんな方たちの中にも


自分の楽しみ・喜びのために


小さなスペースで


自分が本来作りたかったものを大切につくり


自信持って購入しにきた方に表現していて


何度も足を運ぶ方には


「ここのお野菜おいしかったから


また今年も買いに来たんだよ」って


喜びの言葉を送られていたり・・・


だんだんとどの職種も


資本主義社会だからと


自分を納得させながら


ごく一部の富裕層を支える社会構造に


疑問を持つ時代になってきて


自分を納得させながら


無理を重ねる生き方ではなく


自分が納得しながら


生きてゆきたい思いを持つ方が


とっても多くなってきているんじゃ


ないかなって感じているの


それがたとえ大きな経済に


結びつかなかったとしても


生活に無理がなく


人に喜んでもらえて


そして自分も誇りを持って


毎日過ごせたら


それでいいって思う方も


ふえてきていると思うの


今まで日本では


海外とはまた別に


職業が限られている部分もあったけれど


これから数年


海外のように


様々な職種が生まれてくると思うの


過去のすべての人を満たすために


すべての会社が大きく


展開してきたけれど


これからの時代は行き渡り


満たされた後


選択する時代に入ったので


小さく生まれた会社が


大切に製作した様々なものを


人々が求めてゆく


時代になってゆくと思うの


そしてすべてのものに宿る


ストーリーと一緒に


心身に吸収してゆくんじゃないかなって思うの


なのでしばらくの間は


大量消費をベースに歩んできた


大きな会社は淘汰されて行くと思うの


そして多くの方にも


チャンスと希望が


生まれてくる時代なんじゃないかなって感じているの


しばらくのあいだ


社会がシフトチェンジしてゆくので


今までの流れとは違う


不安も生まれてくるかもしれないけれど


すべては


多くの方が生きている意味と


幸せを受け取るための


準備だと思うの


よく表現されるように


夜明け前が一番くらいものだと思うから・・・


















周りから「結婚しないの?」


「結婚しないと・・・」など


ずっとあいさつのように


伝えられていた友人がいて


本人はあまり気にしていないよう


だったのだけれど


この間友人が


「そのようなことを言われたときに


言う言葉を考えたんだ


結婚をリタイヤします~って言うことにしたの」って


解放されたような笑顔で


伝えてくれて


その言葉を聞いたとき


友人の解放された笑顔とは


逆に


私は胸がとってもいたく


友人を愛しい気持ちに


包まれていたの


大人になると表現する言葉と


寄り添うように別の言葉や思いが


ある事が多いから・・・


友人にとってはきっと


その言葉が


自分が考えている以上に


持つ必要のない錘のような


重い影となっていたんじゃないかなって感じていたの


私自身も結婚して


数年たって


周りから家族計画について


尋ねられることが多くなって


自分が思っていた以上に


女性の人生で


必要として与えられた宿命というか


使命のようなものを感じたの


そしてそのパーツがもてない事が


自分にとってではなく


周りとの関係で


何か完成された女性ではないような形に


映る瞳を


持たれている方も多く


数年は自分でも驚くほどに


初めて感じる


心の体験が多く


その問題から解放されたい私は


パートナーと別れたら


子供は?って聞かれなくなるでは?と思ったり


私の病が誰からもわかる


もっと命に関わる病ならば・・・って


今では驚くような


答えしか導き出すことができないほど


追い込まれていた事があったの


そんな時


勇気を持って


できるだけ人と会わずに


自分の心の収納箱を


いっぺんにひっくり返して


整理整頓することにしたの


そうしたら


いらないものばかりがいっぱいで


その中には


数個の大切な宝物が見つかったの


それは


自分が自分の大好きな所を表現し


自分が自分を認められた時間だったり


社会のルールとは別に


自分が選んできた


小さな小さな輝く歩みだったり


そしてどんな時にも


私の今を受け入れ


私の未来を信じて


寄り添ってくれている人たちだったり・・・


私のとっては


このような小さな輝く宝石だけで


十分なんだって感じたの


そして


たとえ人が持つことのできる


宝石を私がもてなかったとしても


他の宝石のように輝く


自分らしい


宝石をコレクションできたら


それでいいんじゃないかなって


感じるようになれたの


そして周りの方から


完璧に整った大人に映らなかったとしても


それが私なのだと思えたの


いつも表現させてもらっているけれど


神様って完璧な存在で


その神様が創造した人間は


何か意味があって


そのように創造していると思うから・・・


それ以来


私が周りから


家族計画について


尋ねられるたびに


「きっと神様が決めたことだから」って


表現するようになったの


そうすると不思議と笑顔で「ほんとだね」って


時間が曇ることもなく


逆に


「人生楽しんだほうがいいよ」って


あたたかいメッセージを


手渡してくれる方も多いの


きっと日本人は


瞳には映らない存在を


誰もが心に宿し


自然崇拝していた頃のDNAが


何気ない言葉一つから


深く魂と魂で理解できる


素敵なベースが整っているから


なんじゃないかなって感じているの


自分の人生を振り返ると


本来何の心配もしなくっても良かった


学生時代よりも


今が一番幸せなの


学生時代は大人の社会よりも


すべてがストレートで


心が鍛えられる時期だったのか


傷つくことが多く


無理に自分を


周りの色にカメレオンのように


変化させながら


わたしにとっては無理が多く


楽しめなかったの


でも今は


自分が描くことを


すぐに現実化できるかもって思うような


自由な空間が


いつもなんとなく用意されていて


毎年人よりも小さな歩幅だけれど


進化してゆく自分が楽しみなの


そして毎年その時々


親しくなる方の年齢層も広がり


年を重ねても


まだまだ知らないこと


自分にできることが


いっぱいあることを


出会う方たちに教えられているの


友人も結婚について


特に深く考えていなかったけれど


周りが心配から表現する


不安な未来が


どこかで秘めている不安と結びついて


周りの方が表現する言葉も


そうはならないと強く思うこともできず


何度も跳ね返そうと


心がいたかったんじゃないかなって思うの


でも問題が何であっても


不安がない問題ってないんじゃないかなって思うの


ただその問題が


時間と共に不安という形で


答えを出して終わらせてしまうのか


時間の流れの中で


不安が半分


自分の思いが半分になって


最終的に


自分の思いの方の


割合が多くなったりしながら


人生の色付けが始まるんじゃないかなって思うの


未来は計画であって


そのように進んでゆくかは


誰にもわからないから


人生にあきることなく


真剣に向き合うことが


できるんじゃないかなって思うの