雪の数  雪のサイズ  雪の速度  雪の揺れ  風(+右)
 雪質(0:そのまま 1:透明 2:軌跡 3:Glow 4:影1 5:影2 6:波
 フィルター関係色(雪質 3,4,5の時使用)


2008年12月




私の友人は遠い街から


進学のために北海道へと来て


それ以来


就職も北海道でし


暮らしている事もあって


家族とは年に数回しか会えず


時々会うから余計に


家族が年を重ね


漠然といつかこの世を去る日


感じ


寂しい気持ちになっていたの


そして家族も


「あなたに後何回会えるかな」って


ささやいたようで


とても友人は家族への思いと


もっとできるだけ


会いに行こうという気持ちが


強く心の中に広がっているの


そのお話を聞いていたあと


そのお話は忘れていたのだけれど


私がたまたま実家へと足を運んだときに


弟が遊びに来ていて


弟のパートナーの両親の話になって


弟は年老いたパートナーの両親が


ささやいていた言葉を伝えてくれたの


その言葉も


この間私が友人から聞いていた言葉と


とても重なっていたの


「後何回孫と会えるかな」って


ささやいていたようで


弟はその言葉を聞き


私の友人と同じように


できるだけで足を運び


会わせてあげようと


考えていたようなの


私たちは頭の中で


様々な流れや言葉を理解し


過ごしているけれど


年齢を重ねることでしか実感


する事のできない


命の尊さや


こぼれおちるように過ぎてゆく時間の


大切さ名残惜しさが


あるんじゃないかなって


感じていたの


そして日本人の多くの方は


はずかしさやテレから


丁寧に言葉で


思いを表現しないけれど


多くの方が


誰かから会えることを望まれ


その時間を宝石のように


大切に思ってくれる人が


存在してくれているんじゃないかなって


感じていたの


私たち人間は


瞳には映らない愛に支えられて


今日まで人生を歩いてきて


その事を時々感じられなくなったとき


ねたみやひがみ・自己否定などの


感情が広がり


自分という存在が


本当に小さく意味のない存在のように


感じるかもしれないけれど


存在しているだけで


価値があることを


誰かがこの世界の中で


感じてくれているので


現実には一人で過ごしていても


もしも瞳に映らないエネルギーを


見つめる事ができたならば


多くのエネルギーのリボンが


絡まるほどに自分を包み


そのリボンの先には


見慣れた方の笑顔が会ったり


忘れていた誰かの記憶と繋がっていたりして


きっととても美しいアートのような


世界が広がっているんじゃ


ないかなって感じているの














人は時々


笑顔になりたい


喜びを広げたいと望みながら


その逆のことを


してしまう事があると思うの


たとえば誰かと共に


今よりも喜びを重ねようと


プランを考え


そのことを自分が思い描くストーリーの流れを


作ろうと懸命になっている時


誰かが自分が思い描くストーリーの流れ通りに


行動してくれなかったり


表現してくれず


その方との関係が深く信頼で


繋がれていていればいるほど


そのままに伝え


無意識に相手の行動・言動を


受け取る大切さを忘れ


自分の中で生み出した


エゴに近い幸福論を


相手に伝え形にしようと


口論になってしまう事もあると思うの


関係に距離のある間柄では


相手にも思いやタイミングetc様々なものが


あることは理解できるのだけれど


近ければ近いほど


つい自分の事を理解してくれているという


思い込みから


言葉も無意識に省略していたりして


本来の自分が望む


愛が伝わらないこともあるんじゃないかなって


思うの


そして気がつくと


愛からそばにいる方たちと共に


幸せな笑顔を輝かせたいと


望み始めた事が


現実には怒り溢れた表情が


その場所に広がっていたり・・・


そんな時もしもほんの少しでも


頭の中にスペースが残っているのならば


「私は今どうしたいと思っているのだろう?」と


心に問いかけてみるといいと思うの


そうすると


ゆっくりと自分がただ自分の正しさや


愛の深さを証明しようと


がんばっていることに


気づいてゆくと思うの


でも本来の目的は


正しいかそうではないのかを


ここでジャッジするために


話し合っているのではなく


自分の流れにこだわり


その重くかたい思いが


重くかたい口論へとなって


同じ波動の空気を


引き寄せてしまっていることを


感じると思うの


私たちはどんな問題でも


自分が何を望み


どうしたかったのかを


忘れ


つい自分の意見の正しさにこだわり


本来の美しい思いを


消してしまうことも


多いんじゃないかなって


思うの


こだわりは信念の様に


美しく感じることもあるかもしれないけれど


多くの場合は


人生を生きにくくし


多くの手渡される愛をも跳ね返す


心の塀になってしまうことも


あると思うの


特に日本では一度表現したことや


考えが変化することは


あまり良いことではないように


受け止められてしまうこともあるので


柔軟に変わる自分を


受け入れられなかったり


相手を受け入れられないこともあるようだけれど


自分が正しいと思っていたことも


その時の自分の中での知識の中では


そう思っていたことも


様々な出会いの中で知識も広がってくると


正しいものへの判断にも変化があったりすることは


逆に素晴らしい進化だと思うの


それは負けではなく


人間的器や心のスペースを


自ら広げた


逆に素晴らしい体験さだと思うの


そう思って


自分の行動を見つめてあげると


もっと優しさや愛が


外へと伝わってゆくんじゃ


ないかなって感じているの











私は週に数回


地球からのエネルギーの吸収と


心身の浄化のために


温泉へと足を運ぶのだけれど


今日はとても


素敵なハプニングに出会ったの


私が温泉に入っていると


従業員の方が呼びにきて


私が使っているロッカーを


その前に使っていた方が


指輪を忘れていないか


確認して欲しいということだったの


ロッカーはいったんお洋服を着て


出て行かなければならないこともあって


心の中で


「もしかしたら今日はツイていない日?」って


思っていたの


そしてお洋服を着て


ロッカーの前に行くと


眼を赤くし不安そうにしている


10代の女性が立っていて


何度も謝ってくださったの


そして鍵をかけた時


物をよけることをしなくっても


すぐに目の前に指輪が見つかったの


そして私が思わず


「あった!!」って表現する


今にも泣きそうな10代の女性は


とても喜び


その指輪を大切そうに見につけられたの


その笑顔を見たとたん


さっきまで感じていた思いは溶かされ


今日は素晴らしい日だと感じたの


その指輪は価格価値だけで


見つめたならば


きっと数百円あったら購入できるような


ものではあったけれど


彼女にとっては物質的価値ではなく


きっとこの指輪を贈ってくれた人への愛の価値が


その指輪を美しく


大切なものにしてくれているんだろうなって


人の持つ


心の美しさに


とても感動したの


そしてきっとその指輪には


彼女と贈られた方にしかわからない


ストーリーが重なっていて


また同じものを購入したらよいという


ものではないんじゃないかなって


感じたの


人は誰でも価値を感じるものを


何かしら持っているけれど


自分以外の方が見つめたならば


ただのガラクタでも


その方にとっては


幸せな記憶を紐解く


鍵のように大切なものであったり・・・


昔繋がりの会った友人で


まったく違う2人がいて


その友人がちょうど同じ月にお誕生日で


それぞれ恋人から予算を決めて


プレゼントを購入しにいったの


一人の友人は予算よりもとても少ない


今欲しいものを購入したの


それは遠慮などではなく


彼女はいつでも


今欲しいもの・心惹かれるものがすべてで


それ以外のものには


興味がわかない人なの


そしてもう一人の友人は


せっかくだから


出来るだけ予算いっぱいに購入しなければって


心惹かれるものというよりは


自分の中のデーターで


あれこれと導き出し


何度も迷いながら


購入するタイプなの


この二人は人間の中にある


ふたつのものを見せてくれていると感じたの


少女のように


今欲しいものが何よりも輝いていて


それが高価なものでなくっても


自分の価値基準を大切にする部分と


逆に今必要なものがなくっても


今受け取らなければ!という損得と


自分の価値基準ではなく


社会的な価値基準で


出来るだけ変わらない価値のものを


選ぶお利巧な価値観。


私たちの中には


時と場合でこのふたつを


無意識に働かせているんじゃ


ないかなって感じているの


でも最終的には


多くの方が心の価値観に


大きく動かされて


愛の空間を


創造し


ふっと自分の周りを見渡すと


テイストがたとえ合わなくっても


贈ってくれた友人の気持ちが嬉しくって


飾っているものや


取ってあるもの・・・


もっと広く見渡してみると


生まれた時から与えられた


宿命の家族だけではなく


自分の愛の価値基準で


繋がりあう恋人や家族など


すべて損得だけでは図りきれない


愛を大切に過ごしていると思うの


私自身多くの方と出会ってきたけれど


ご本人は無意識だけれど


すべての基準が


損得だけで計り


生きている方は


たった一人しか出会わなかったの


その方は恋愛関係・結婚・出産など


すべての経験をされているけれど


その時々自分にとって得があると思い


そうしてきたようなの


恋愛関係のときにも


人を好きになって


ドキドキしたり


寂しくなったり


嬉しくってわくわくしたりなどの


感情体験をした事はなく


「私って人を好きになったことがないんだよね


どうしたらそんなに


人を好きになれるか不思議」って


伝えられて


そのことに驚いたことがったの


そのような彼女なので


逆に私にとっては


うらやましい部分もあって


いつも何より自分を優先し


大切にすることを


スムーズに行えて


周りがどう思うかなどに


惑わされないの


でも時々不思議だったのは


人間が持っているすべて働かせ


導き出し


得だけをえようと行動されているのに


二度手間


三度手間となることで


いつも追い立てられるように行動し


損だと思うようなことに囲まれていたの


その時人間が考えて行動することは


ほんの少しの側面だけであって


そこから広がる物語は


神様が手を添えて


共に描いてゆくのが


やはり人生なんじゃないかなって


感じていたの


私たち人間はいつも様々な出来事がって


すべてを覚えていることは


難しいので


瞬間瞬間だけを覚えていて


自分が何かしたことを思い出すとき


それに見合った同じものが


返ってきたかを


無意識に考えてる事があるかもしれないけれど


おもしろいもので


与えた人からばかり


それに見合ったものが


手渡されるのを期待するけれど


ほとんどの場合


時間・時間の中に


形や場所・人すべてを超越して


神様から


与えたものと同じ大きさの


喜びを受け取っていると思うの


私たちは時々


平凡な何もない事を


当たり前だと感じていて


ハプニングがあるほうが


非日常だと思っているけれど


本当は降りかかる様々なもの


もしかしたら望まないことに


巻き込まれる可能性を


すべて自分が人に手渡すことで


与えられている


大きな愛の傘で


防がれていることだってあるんじゃ


ないかなって思うの


今世界的に資本主義社会が


揺れているけれど


その資本主義を守り広げてきた方たちの多くは


世界的に優秀な


お金や損得についての知識も豊富で


プロと表現される方たちなのに


思った通りにはならないことを


私たちに教えてくれていると思うの


宇宙や科学が


すべて解明できず


ある部分は解明され


理解できると


また次々と問題が与えられ


矛盾をなくすために


いつの時代も研究され続けるように


私たちの人生も


ある部分は理解できると


別の部分で矛盾が届けられ


矛盾をなくそうと計算し行動しても


やはり同じ答えには辿るつけず


解明できないのは


誰もが神様や守護天使と共に


ストーリーを描いているからだと思うの















今年になって


全国的に高知県での白バイ事故が


問題となって広がっていて


そのたびに


警察への怒りや悲しみ以上に


人間の持つ思いの強さと


秘められた神が住むスペースを


再確認しているの


心があっても


関わることを怖れてしまう思いや


認めてしまえば


すぐに済むという光に


心が負けてしまう事があっても


不思議ではないのに


誰もが力になろうと


多くの労力と愛を注ぎ


すべての人が自分の事のように


受け止められている姿に


胸がいっぱいになるの


このような事が広がると


多くの方が不安になるかもしれないけれど


逆にやっと


多くの方が知る機会と


そして裁判に一般の方も


参加できるまでになっているのは


昔とは違って


力の大きさで隠すことができず


良い時代の流れになってきていると思うの


それもすべて


人の中に眠っている


人間力が目覚めている時代だからなんじゃ


ないかなって感じているの


昔はメディアを使い


あるクラスの方たちが描く世界にとって


都合が良いように


一人一人をマインドコントロールしたり


私たちが知らない出来事も多くあったと思うの


でも今の時代はインターネットという


それぞれの方が持つチャンネルで


とても身近な感覚で


様々なことを伝えてくれる時代なので


その中で受け取った方たちが


ゆっくりと自分の価値観を重ね


判断が出来る時代だと思うの


そして多くの方の中にも


共通する愛の価値観があって


地球上が


新たに再生してきているのを


感じているの














私たちは今日まで


様々な体験を重ね


その中には


忘れいたいと思い


その強い思いから


思い出すことの出来ない


記憶もあるんじゃないかなって


思っているの


そして新たな記憶のその上に重ね


忘れているけれど


私たちが体験したことは


どんなに小さなことであっても


心の刻まれていて


今のすべての行動・感情・選択に


大きな影響を与えていると


感じているの


そしてその多くが自分を傷つけた出来事・人


そして自分が自分を許せない思いだと


思うの


医学的にも人の記憶は


時間が立てば立つほど


強化していて


昨日の出来事よりも


数十年も前の出来事の方が


具体的に覚えていると伝えられているけれど


その記憶も微妙に


自分で書き換えている事もあるらしいの


私自身母と話しているときに


母が私と共有している記憶の話になって


耳を傾けていると


それは違うって思う記憶があって


私が具体的に伝えたとき


とても大きなショックを受けていたことがあったの


母は自分がいつも被害者的な


まなざしですべてを記憶していたようで


その時私が母からされた事


そして受け取った愛について


母の記憶と重ねながら


何度も伝えたの


今まで母に伝えることで


大きなショックを受けてしまうと思い


その事について事実を


伝えなかったのだけれど


私が思っていた以上に


良い意味で大きなショックによって


被害者的まなざしが消えて


方向転換されたことによって


新たに届けられる


様々な出会いや出来事も


被害者的まなざしから見つめて


記憶にとどめる事が


少なくなってきたの


人は誰でも


記憶がすべてのデーターとなっていて


私は何者で


何を考え・・・などの基準を作っていると思うの


そして何かのきっかけで


自分の向きが変わって


自分でも信じられないほど


前向きに考えるようになったり


その逆もあったり・・・


記憶って実はあいまいで


数パーセントの事実に


自分が思う物語を重ね


記憶している事も多いと思うの


そして多くは相手がいることでも


相手に確認する機会もなく


自分の負い目になっていたり


逆に相手に対する


好ましくない思いが


いつまでも記憶のスペースで


影となっていて


新たな幸せな記憶を


受け取れなくしていたり・・・


私が感じているのは


いつでもいつからでも


記憶は自分のために


書き換えることが出来ると


思っているの


医学的にも実証されているけれど


想像するだけでも


心身に様々な影響が


もたらされるのだから・・・


想像と現実は


脳の中では一緒で


記憶というスペースでは


同じように納められるんじゃないかなって


思うの


私たちは現実に届けられた出来事を


そのまままっすぐに見つめるだけではなく


そこに自分が感じた思いを


どんどん膨らませ


時には事実さえも変えてしまう事が


あるんじゃないかなって思うの


私たちは過去の似たような出来事を元に


すべてを判断してしまう事があるから


データーベース自体を


チェンジしなければ


どんなに素晴らしい出来事が届けられたとしても


ただ素直に喜び


感謝することさえも


難しくなるんじゃないかなって


感じているの


私たちの歩みの中で


たった一度


好ましくない人や言葉を


手渡した方がいただけでも


その事をデーターベースとして


のびのびと


自己表現できなくなっていたり


本当に自分を愛し


思ってくれている人がいても


その愛を喜びよりも


重く負担にさえ感じるようになったり・・・


日々自分が考えていること


見つめるすべてのものは


過去からのすべてが影響していて


見たいように見つめている事も多く


もしもその事に気づくことが出来る方ならば


すぐにでも


自分が自分を幸せにして上げられると思うの


私がよく行うのは


眠りにつく前に


お布団の中で心身をリラックスさせ


ゆっくりと記憶を紐解いてゆくの


初めから思い出したくない


影となっている記憶には


辿りつけないから


初めは楽しかった記憶を


思い出してゆくの


そして数日間になれてくると


少しずつ様々な記憶が


紐解かれてきて


時には感情的に耐えられない事まで


たどり着けると思うの


そしてついいつものように


記憶を遮断しようと思ってしまうけれど


ゆっくりと少しずつ


感情が溢れるときに


声に出して


「大丈夫だよ」と表現し


現実の出来事として声と記憶を重ね


「私は私の行動を許します」と伝えたり


誰か対象がいる場合には


「私は寛大な大きな愛であなたを許します」と


表現しながら


なってほしかった流れを想像し


やわらかな愛で


記憶を書き換えているの


私の場合はその言葉が


大きく記憶に反応するようで


涙が溢れ記憶が


洗い流されるの


でも初めはそのようにスムーズではなく


とても恥ずかしいのだけれど


しまわれていた言葉や思いを


その記憶と共に自然に任せて


溢れさせて


そうしたら


人には見られたくないほど


多くのみにくい思いに


自分でも驚くほどだったの


でもその事で


自分の中に蓄積していたものすべてが


解毒されたようで


それからはスムーズに


様々な記憶を愛で解毒できるようになったの


日本人の多くは


優しく愛溢れる方が多いので


我慢されたり


逆に自分が悪いのではないかと


自分を責めてしまわれる方も多いので


良い方であればあるほど


解毒が必要なくらいに


様々な思いを溜め込んでしまっていると思うの


そして解放することのない記憶に


この世を去るまで


しばられていたり・・・


この世に誕生してきた目的は


様々な宗教やスピリチュアルな考えによって


違うけれど


私が感じているのは


大きく見つめたならば


自分の思う限界まで


チャレンジすることが


大きな目的のひとつなんじゃないかなって


感じているの


自分が思う限界も


数年前よりも広がりあがる事もあるから


具体的な限界というものは


決められないのだけれど


自分の知識が広がることで


世界が大きくなることもあったり


人との出会いの中で


これが私って決め付けていた限界が


取り除かれて


もっと色々なものが見えるようになってきたり・・・


その事を楽しむために


人生はあるんじゃないかなって


感じているの


私たちが考える常識も


世界や時代


年代が違えば


常識ではないのだから・・・


その事で自分を苦しめてしまうことはないんじゃ


ないかなって感じているの


そしてもっともっと


自分をやさしいまなざしで見つめてあげて


過去の様々な思いから


解放させてあげることが


大切なんじゃないかなって


感じているの

















人はそれぞれに


心大きく揺らすキーワードを持っているんじゃ


ないかなって


時々感じているの


それはどんなに大きな心を持つ方でも・・・


そのキーワードは人によって様々で


数も人によって違うので


そのキーワードが多い方を


一般的には短気と表現するけれど


大なる小なり


心に埋められた地雷のような言葉が


あるんじゃないかなって思うの


私自身も


ここ数年自分の事をできるだけ


冷静に見つめることを


心がけるようになってから


あるキーワードがある事に


気づかされたの


私の場合は


「みんなそういいているよ」とか


「常識だよ」とかいうような


ニュアンスの言葉に強く


感情が反応して


その反応を隠そうと


別の方向から


相手に言動で


自分の正しさや知識溢れる人間だと


必要以上に表現し


その部分に多くのエネルギーを注ぐ


癖があることを感じたの


元々私自身


常識という普遍的なものに


こだわりもなく


一般的な常識を持っていないことを


知っているはずなのに


それでも周りには


そう思われたくない自分が


無意識に抵抗している事に


最近では


おもしろがっているの


人は自分が知っていることでも


言葉として誰かから


表現されることで


強く反応しても


大人になるとその思いをストレートに表現することを


おさえ


時間が立ってから


様々なひにくという形で


誰かに発散したり


意味もなくその思いを引きずって


一日を台無しにしてしてしまう事も


あると思うの


そして私たちの多くは


普遍的に変化してゆく


すべてのものに漠然とした恐れを抱いていて


その恐れを少しでも解放したいと


一番近くにいる人たちを


無意識に自分の思い通りに運ぶことで


コントロールできると


安心感を得ることもあるんじゃないかなって


感じているの


自分を含めて


人は様々な方向へと心惹かれ


その時々


行動が変わるから


自分自身でさえすべてを把握できない事を


知っていても


つい人の行動や言動など


様々なことを


コントロールしてしまっている事もあると思うの


そしてその事を


自分でも心配という思いからだと


思い表現しているけれど


もしももっと深く見つめる事ができたならば


心配なのは相手のことだけではなく


自分が孤独になることを


怖れていたり


すべてを知っていなければ安心できない


相手への信頼が少なかったりするんじゃ


ないかなって思うの


私たち夫婦は


週末の一日は


お互いにひとりでお出かけしたり


好きなように時間を過ごすようにしていて


両親にはその事を心配され


「なんで一緒にいないの?


眼を離してて大丈夫なの?」など


表現されるのだけれど


私の思いの中では


彼は毎日仕事というスペースで


多くのエネルギーを注ぎ


やっとお休みになって


今度は私とどこでも一緒に


いなければならないというのは


休日の役目を果たせないのではないのかなって


思って


そうするようになったの


そして両親が心配するような事が


もしも展開されたとしても


それはずっと一緒にいないからではなく


たとえ一緒にいても


そうしようと思えばできることだから


特にその事に


思いを向けてはいないの


どんなに深くつながれた間であっても


私が思うには


距離が保たれているからこそ


優しさや思いやりを


再確認できたりすると思っているから


友人関係であっても


会う回数が友情の深さを測るものでは


ないと思っているの


元々人は一人一人自立した


個性を持った存在だから


あまり多くの時間を共有しすぎると


バチッバチッとオーラが


ふれあいすぎて


一人になりたいと思う時間が


友人であっても夫婦や家族であっても


思うことが多くなると思うの


それは相手を思わないということでも


愛していないというわけでもなく


それぞれが生き生きと


人生を創造して行くのに


とても必要な時間だと思うの


私たちは時々「義務」と「責任」を


同じように考えている事があるけれど


本当は違うもので


「義務」は自分に対するものではなく


周りの求めに対して行うことで


「責任」とは自分の人生に対して


自分が選択し行動したことなどに


対するものだと思うの


だから「義務」を自分の人生から出来るだけ


少なくする事で


心身が軽くなり


あらゆる周りから与えられたしばりから


解放され


やがてその自分が体験した知恵を


自然な形で


人へも実現してゆく事ができると思うの


「義務」というものは


多くの場合相手の思う常識や


考えから与えられるものが多く


相手の利益から行動することを


与えられる事が多いから


「義務」をこなしてゆくだけでは


自分への「責任」は果たせないんじゃないかなって


感じているの


多くの方は自分と過ごしている方が


笑顔にならなければ


その事が自分に責任があると思い


持つ必要のない罪悪感さえ


もたれるけれど


すべての人は誰の人生の責任を持つ必要もなく


逆に持つ事もできないのだから


自分の人生の責任を


果たすことにエネルギーを注いでゆけば


それでいいのだと思うの


そして直感的に


このことはお力になれると感じたときや


何かを瞳に映したとき


そのものを見つめたとき


相手の笑顔が想像できたならば


共に素敵な時間を共有してゆけば


繋がりあう人すべてが


様々な常識や概念という重さではない


愛だけを


受け取り・手渡しあうことが出来るんじゃないかなって


感じているの













私たちは時々


自分という存在がわからず


人と交流しながら


自分という存在に出会うことがあると思うの


人と人は瞳には映らないリボンのような


意識で繋がりあっていて


ある意味すべての人が


霊能者のように相手の思いを


無意識に受け取り


言葉として表現させられていることもあるんじゃ


ないかなって思うの


相手が心を表現していなくっても


無意識にその方が話しやすい話題を


自分の思いとは別に選択し


相手は楽しげにあまり好ましくない話題に


心解放されていたり・・・


そしてその話を初めに出した


自分が驚くほどに疲労し


何しに来たのだろうって


何度もそのような感情の体験をされた方も


多いんじゃないかなって


感じているの


直観力が優れた方に多いことなのだけれど


無意識に対象となる相手と


波長を同調させてしまう事もあって


相手は楽しめても


自分はとても疲労されたり


本当に話したかったことを


話せないまま時間が過ぎてしまったり・・・


そのような直観力が優れた方は


会う方を会う前にイメージして


そのイメージがあたたかく楽しいものならば


よいけれど


そうではないのならば


できるだけ会う回数を少なくする


必要があるんじゃないかなって


感じているの


ある方と会うとついお金の話ばかりしてしまうとか


ある方と会うと人間関係での


ぐちばかりを表現してしまうなど


本来自分を見つめたならば


そんなに深刻に悩む問題がないのに


そのような言葉が溢れていたり


対象となる方とわかれた後


わけもなく人生の事に不安が広がったり・・・


そのような行動は


現実には自分がしている事なのだけれど


本来の自分とは違う


優れた直観力が招く


同調力から来るものだと思うの


もちろん相手がすべて問題があるという事ではなく


影響を受けてしまいやすい


体質を持っていることを


自覚できる方は


意識しながら人とのふれあいを


人生の中で過ごさなければ


無意識に自分という存在が


何を考え・どうしたいのかさえ


わからなくなって


気がつくといつも誰かの表現していた言葉や


考えを表現し


自分の人生に「責任」をもてなくなってしまうと思うの


自分の中でほんの少し


心の中にスペースを残しておいて


自分がしたい発言なのか?


相手の心の中に同調している言葉なのか?を


確認しながら


楽しい会話をされたらよいんじゃ


ないかなって思うの


直観力が優れた方は


様々に飛び交う意識や思いを


無意識に集めて反応してしまうから


その優れた能力と自分を守ってあげるためにも


自分の瞳に映るものや


ふれあう人たちにも


ちょっとした分析も


大切なんじゃないかなって


感じるの




















私たち人間は漠然と


努力をすると報われるという


思いを抱いていて


努力をすることで受け取るものすべてに


当たり前という思いから


感謝を感じることが


少ないんじゃないかなって


感じることがあるの


たとえば何かを望んでいるときに


その望みに近づこうと


自分が考えられる努力を重ね


望む形になった時


よかった・嬉しいという思いはあっても


心の深い部分では


努力をしたのだから当たり前と


思ってしまったり・・・


確かにある程度は


人が考える努力によって


方向が決まり


近づく事があるけれど


それが決して当たり前ではなく


そこまで努力を重ねる事ができる


エネルギーがかれることなく


そして障害となるものがなかったり


もしくはあっても超えられたりするのも


何か瞳には映らない


存在のお力添えがあって


そのようになっているんじゃないかなって


思うの


悲しいことだけれど


人間が生きている世界では


必ずしも努力が報われるばかりではなく


多くの場合


望む形に近づくまでの間に


様々な出来事があって


そこでしか学べないものがあって


その贈り物を受け取り


結果まではたどり着けないことも


多いと思うの


たとえばお仕事をされていて


会社で毎月決まった給料を受け取り


その事が当たり前だと


思われている方も多いと思うのだけれど


その安定したものを得るために


努力を重ねていても


会社の状況によっては


努力が報われない事だって


あると思うの


上手に言葉に表現できないのだけれど


他にも何か欲しいものがあった時


自分が努力して得たものだからと


自分のお金を


使えることに対して


当たり前だと感じている事もあるけれど


当たり前というのは


本当は存在していなくって


努力が報われているということは


意識していないだけで


とても大きな幸運なんじゃないかなって


思うの


よく必要なものは与えられると


スピリチュアルな世界では


伝えられていて


その事をなかなか実感できず


不満を広げられている方もいるかもしれないけれど


実は欲しいものは


ちゃんと与えられていると思うの


広い宇宙では


よいものといそうではないものの区別はなく


自分がいつも表現する言葉を


願いいていること


祈りとしてとらえ


そのことをかなえているだけだと思うの


意外と自分でも願っていること以上に


不満やこうなって欲しくないと思っていることを


考え想像してしまう時間が長いと


そちらの方が強く伝わり


気がつくとそうなっている事って


あると思うの


私たちは感謝という大きなパワーを持っていて


いつでもそこから


自分の人生を方向転換し


望む自分の世界が創造できるのに


ついその大きなパワーよりも


誰かから手渡される確実だと思い込んでいる


現実的な


エネルギーに依存してしまっていると思うの


その中でついエネルギーの奪いから


互いにエネルギーを生み出す事をやめ


相手からエネルギーを満たしてもらうことばかりに


意識を向けてしまうと思うの


そしていつでも自分が描いた期待と


注いだ時間と努力を


どうにか取り戻そうと


多くの時間をさらに費やし


その結果形となると


当たり前として受け止め


また感謝という大きなパワーを


生み出す機会をなくしてしまうことって


あるんじゃないかなって


思うの


私たちの多くは普通に歩いてどこかへゆこうと


思ったとき


「あ~めんどくさい」と言葉にしながら


その場所へと歩いてゆけることを


当たり前だと思っているけれど


当たり前ではない方も多くいて


もしもその方たちが同じ行動を出来るとしたならば


喜びと感謝と幸せを


感じながら自分の意思で歩いてゆける事を


きっと感じられる出来事だと思うの


私たちの多くは


せっかく喜びに変えられることにさえも


当たり前という概念から


すべてに感謝することを


忘れてしまっているんじゃ


ないかなって感じたの


私自身も時々


様々なことで心煩うことに対して


「あ~めんどくさいな」とか「いやだな」って


思いを持つ事があるけれど


その多くは選択できるからこそ


悩んだり思い煩うことを


体験できるのであって


もしもすべてに選択する余地がなければ


それしかないのだから


逆に悩んだろ心煩うという


ワンクッションを体験できないと


思ったの


ワンクッションあるというのは


本当はゆとりであったり


自分がどういうふうにでも


選べるよって


伝えられているんじゃないかなって


感じているの


もしも明日からたったひとつのパンしかないとしたら


誰も文句など言わず


そのパンをただ食べるけれど


他にも選べるだけあるからこそ


「これは嫌」とか「ほかにないのか」という


思うが生まれるのと


とても似ていると思うの


私たち人間は神秘そのものを


形とした存在だから


もう少しゆっくりと毎日流れる時間を


見つめる事ができたらならば


みんなに


幸運のたねは手渡されていて


ちゃんと発芽していると思うの


その発芽を開花させるのには


いつも感謝という心の太陽のぬくもりで


幸運の種を


照らしてあげる事が


大切なんじゃないかなって


感じているの














今月は年末という事もあって


知り合いの方や友人たちと


今年もつながりあえたことに感謝と


来年もよろしくねっていう思いから


会ってお話をしたりする機会が多いの

ある友人が


数年前にドンペリという有名な


シャンパンを持ってきてくれて


みんなで飲んで


その時が集まった友人たちの多くは


そのシャンパンを飲む事が初めてで


今でも何かのきっかけがあるたびに


「あの時・・・」と友人が持ってきてくれた事と


想い出を重ねて話すの


そのたびに価格だけを見つめたならば


リカーショップで購入したならば


手が届く価格ではあるけれど


自分だけで飲むのに購入するには・・・との


思いから


みんな何となく心惹かれても


手にする機会がなかったと思うの


それはまるで花束の購入にも


似ているんじゃないかなって思うの


お花は誰でも好きで


価格的には


無理する事なく購入できるものではあるけれど


自分のためにあまり購入する機会が少なく


でも大切な方へと贈るときには


笑顔と共にその方の記憶に残る


素敵なプレゼントだと思うの


私の友人はそれ以来


みんながそれぞれに


日頃は購入をためらってしまうものを


12月にみんなで集まるときに


持ち寄って


同じ初めて体験と想い出を


シェアしているの


大人になると様々な経験と体験を


重ねているから


あえてちょっぴり背伸びしたものならば


経験がないかなって


みんなが選択しているの


このことがとても楽しくって


改めてお金って


こうしてみんなが笑顔になるための


アイテムの大きなエネルギーなんだなって


感じているの


初めての体験が同じ記憶って


考えてみると


とても素敵で


少しおおげさかもしれないけれど


この記憶はずっとどんなに


様々な体験を重ねても


変わらず心に刻まれてゆくと思うと


高価なものであっても


それ以上に


付加価値がついて


物質では計れない


価値を与えてくれていると思うの


もちろん高価といっても


ほんの少し背伸びをして届くくらいだけれど・・・(笑)


ものに関わらず


私たち人間は物質じたいに


それぞれが別の付加価値をつけて


幸せを感じることも


多いと思うの


私自身も小学生の頃


母が一生懸命に働いて


私にプレゼントしてくれた


ミッキーマウスの腕時計を


今でも大切に持っているの


腕のサイズが小学生のままになっていて


布なのでボロボロだから


今のサイズに革で作り直したならば


使用できるのだけれど


なぜかあえて


そのままがいいなって思って


小学生の頃から毎日


ネジだけは巻いて


今でも時を刻んでいるの


他の方から見つめたならば


きっと数百円くらいの価値もあるかなって


ものではあるけれど


私と母だけの同じ思い出が


そのものには宿っているから


私のとっては


きっとずっと宝物になっていると思うの


想い出って


時の流れと共に


遠くへと流されてゆくように感じるけれど


人にはそれぞれ


何度も思い出しては


楽しかった気持ちがよみがえる方や


今生きている力になる記憶もあったり・・・


未来は今の過ごし方が


重なって作り上げているものだから


できるかぎり


自分を思い出したときに


幸せな気持ちが


よみがえってくる人になりたいなって


とても感じたの

















今の時代は様々な国に


様々な人種の方も暮らしていて


日本に暮らす日本人の私には気づかない事に


差別を感じたりする方もいて


ここ数年とても速いスピードで


その改善がされているようなの


昔から当たり前に使用していた言葉も


今は放送などでは


使用できなくなっていたり・・・


八百屋さん(青果店)やペンキ屋さん(塗装業)という言葉も


使用することが


好ましくないことを耳にして


なぜなのかはわからないけれど


誰かが不快に感じるのならば


不快に感じない言葉に置き換えることは


良いことだとは感じているの


その中に


大人の世界ではなく


子供たちの中でも


同じような流れが広がっていて


地域の学校に


日本に暮らす


外国人の方のお子さんも多くなり


その中で


私たちが昔から当たり前に表現する


「肌色」という色に対して


問題が生まれているようなの


確かにそういわれてみると


日本に暮らす日本人は


自分たちを基準として


「肌色」と表現しているけれど


私たちも他の国に暮らしたならば


肌色も変わってくるんじゃないかなって


感じていたの


海外ではイエロー系の肌と


日本人は表現されるけれど


眼の色素の違いで


感じ方が違うからかもしれないけれど


私自身はイエロー?って


思うこともあるの


今ぺんてるのくれよんでは


「ペールオレンジ」と改名されたようで


すべてのものが


差別を感じる事が少なくなるよう


改善されているようなの


でもいつも感じているのだけれど


今の日本は


本当に山深い少数の人たちが暮らす場所以外では


どこの国よりも差別意識は


とても低いんじゃないかなって


感じているの


ただセクハラと同じように


定義がはっきりしていないので


その方がそう感じたならば


そうなるのだとは思うけれど


小さな国とはいえ


様々な方が暮らしているので


出会った方の意識だけで


日本という素晴らしい国を


誤解して欲しくないなって


思っているの











今日友人と久しぶりに会って


楽しい会話の中で


少し気になる会話があったの

それは友人の職場の男性が


本当は年末に実家へ帰り


みんなで話したりしたいのだけれど


親戚が多く


お年玉も多く用意が必要で


その方にはとても無理で


違う理由をつけて


今年は年越しを


実家でされないということだったの


このことを聞いて


様々なことを感じられる方も


いるとは思うのだけれど


私はその方の事を聞いて


形にこだわりすぎる


日本人ならではの


孤独や本来の目的希望を


果たせなくしている


1つの形をとても感じていたの


数十年前から


多くの方が


年越しなどを


血縁関係がある方たちと


過ごさなくなってきたけれど


それももしかしたら


言葉としてはっきりと表現しない


日本人ならではの


メッセージなのではないかなって


感じていたの


私のおうちでも


独身の母方の叔父が


年末みんな出会えるのをを楽しみに


日々


朝早い寒い中で


アルバイトとして牧場で働き


本当はきっと


大変な中で過ごされているのだと


思うのだけれど


年末にはとっても笑顔で


来ていたの


そして叔父なりに


何かを持っていかなければっていう


思いから


家の中にあっただろうとおもわれる


様々なものを手みやげに


来ていたの


叔父は自分の兄弟が


年々孫が授かるたびに


足を運べる場所が少なくなったのか


ここ数年は


私の実家だけにくるようになり


自分の実家のように過ごしていたのだけれど


弟の元に天使が二人授かり


お祝いとして


叔父にとってはきっと大金だとおもうのだけれど


そのお金を


母に手渡してから


それ以来こなくなったの


それももしかしたら


友人の職場の方が表現したような


理由もあるのではないかなって


感じていたの


それで私は


両親にその思いを伝えたのだけれど


父に


「わずかなものまでケチるようではだめだな」って


言葉がかえってきたの


父が伝えている思いは


子供たちが楽しみにしている


イベントの1つで


その金額は


父にとってはそんなに負担になる額ではなく


直接の孫という大切な存在だから


感じないのかもしれないけれど


今は昔と違って


様々なライフスタイルがあって


してあげたい気持ちがあっても


出来ない人もいるんじゃないかなって


感じていたの


そして私が感じているのは


年末という長いお休みが与えられている


本来の意味が


満たされていないようにも感じていたの


たとえ今何かを分け与えられなくっても


いつも忙しくなかかな会えない人たちが


大切に思う人たちと


笑顔で集まり


会わなかった間


どのように過ごしていたのか?


元気で過ごしているのか?を


懐かしい食事とお酒などを飲みながら


語り


自分を気にかけてくれている人を


それぞれが確認し


日々の孤独感を癒し


次の年への活力や元気を


蓄えるときとだと思うの


でもその形がストッパーとなって


会いたい人に会えなかったりすることが


もしあったならば


私にはとても寂しいの


私自身は数年前から


何となくそのようなことを


感じる人たちと出会い


年末になると気になる方がいたので


常識がないとか様々なことを


表現されてもいいやって思い


駄菓子が入っていた大きな入れ物に


¥1¥10¥100¥50などを入れて


子供たちにそれぞれ


つかみ取りのような形で


お年玉を受け取ってもらっていたの


それが思っていた以上に


子供たちに好評で


それ以来


大人たちみんなで数千円を


小銭に替えて


誰がいくらくれたとか


判断できないようにしたの


それから気が付くと


年末にはあまり知らない


パートナーの親戚も加わり


共に過ごすようになったの


日本人は


どこかでよい意味でも


そうではない意味でも


見栄と同じくらいに


みんなと同じようにしなければという


角度の違う調和を


重んじてきたから


その事で


本来の楽しみが


苦痛にさえ感じられていることを


ほんの少しでも


改善できたらなって思って


今年もそんな風にしてあげようと


感じているの


上手に言葉として


表現できないのだけれど


気持ちがあっても


本当に出来ない人には


「あなたの笑顔だけでも見たいから


ぜひ来て!待っているから」って


みんなが言ってあげられる


良い意味で


新たな習慣が生まれてくれたら


きっともっと優しくあたたかい国になるのになって


とても感じていたの

















私の友人の中には


実家が遠く


年末年始は帰れない友人や


販売業なので


年末年始もお仕事の知り合いも多く


その友人や知り合いも


忙しく過ごしているので


そんなに年末年始を気にかけて


いるとは感じていなかったのだけれど


何気ない会話の中で


何となく一年で一番淋しさを感じる日だと


表現していて


改めて私はそのような事を


感じる事なく


過ごせてきたことに


感謝と共に


人の繊細な思いを理解してあげられていないことに


気がついたの


それで今年は


時間を上手に組み立てながら


年末年始を


みんなで過ごすことにしたの


ありがたいことに


パートナーも私の友人を


喜んで迎えてくれる人なので


今からみんなで持ち寄るものなどを


話し合っているの


もしもこんな風に


月日をずっと重ねて行けたならば


やがては


友人や知り合いにとっての


実家として


そして私にとっても


宿命で定められた家族だけではない


自分の心が繋ぎあった


新たな家族となれたら


嬉しいなって感じているの


今の時代は


過去に膨張しすぎた


経済活動や家族形成が


これからの時代にとって


フィットした形へと整える


時期を迎えているので


自分が望む・望まないに限らず


無意識に個人として


自分を体験する時期になっているから


新たに様々な


多くのものが生まれてきているので


その新たな形に進まれている方にとっては


過去から繋がる


縁がもう心地が良いものでは


なくなってきている方も


多いと思うの


それはすべてのことでも


ゆっくり見つめてみると


感じられると思うの


数年前には大切だと思っていたものも

今見つめてみると


逆に「何でこんなに好きだったのだろう」って


感じたり


数年前には


「私にとってきっとこれが


人生の中で一番のものだわ」って


思っていたことも


無意識に様々な知識の広がりを


日々吸収しているので


自分の中での一番が


一番ではなくなり


もっと素晴らしいことやものに出会い


笑ってしまうことさえあると思うの


でもそれも


自分自身がこだわりという


重い鎧を


1つずつはずしていったから


感じられることなんじゃないかなって


感じているの


私たち人間は


社会が提示するすべてのものに


自分を合わせようと


無意識な努力を重ねているけれど


本当は一人一人


意味があって


この時代に誕生しているのだから・・・


ここ数年とても気になっているのは


様々なニュースを拝見するたびに


いつも自分以外の誰かの責任という


思いが深くもたれている方たちの


出来事が多く


そのたびに


ニュースに登場する主人公たちの


まじめさや自分を持つ事なく


その時々誰かが提示したことに


沿いながら生きていたんじゃないかなって


とても感じているの


その時代・時代


正しいと伝えられたことを行ない


歩んできたけれど


今現在何一つとして思い通りにならないとき


人生の歩みを提示してくれた親に


責任転換したり


付き合いのある方すべてが


原因のように考え


問題となっているように感じているの


でももっと心にスペースが保たれていたならば


すべてをその時


選択したのは自分だと感じ


また別の扉が開かれてゆくものだと思うの


そしてここ数年の間


すべてのものが二極化していて


想像力や直感・インスピレーションが


育まれている方と


その逆の方が


はっきりと分かれてきているのを


感じているの


昔アメリカでは


その当時の日本人では


驚くような裁判も多く


中にはペットを洗い乾かそうと


電子レンジに入れたニュースがあって


ペットの飼い主が電気メーカーに


勝訴した事があったけれど


今の日本では


この時に感じた


思いに近い驚きを感じる


出来事も多いように感じているの


私たちは幼い頃から


その時々想像力を育み


危機を生み出さずに


歩む事ができたけれど


今の日本ではたとえ表示がされていても


その商品で何か問題が


2~3軒でも届けがあったならば


その商品は販売されないこととなったり


逆に使用目的を


別の形で使われる方が現れてしまうと


その商品を使う方の問題は問われず


商品に問題があるという


流れになってしまうけれど


そのたびに


日本人の二極化を


とても感じているの


日本人は本来


海外の方にとっては雑音にしか聞こえない


鳥のさえずりや川の流れる音なども


情緒豊かに


安らぎのひとつとして


吸収できるほど


自然と一体となった


想像力を持っていたと思うの


その想像力が


月日をかけて


たとえ言葉が少しらんぼうな方と


であっても


その方が伝えたい思いや


あたたかさを受け取れる


想像力を育んできたと思うの


今の時代は言葉一つ一つに


こだわりすぎてしまって


伝えたい思いを


受け取ることが出来ない方も


多くなってきていると思うの


想像力は人間が神々から授かった


素晴らしい宝石で


どの角度からも輝く


大切なものだと思うの


想像力は時には


不安を大きくしてしまうこともあるけれど


神々の希望される


想像力の本来の目的は


私たち人間が地球という星の中で


自分という存在を


どこまで高め


どこまでのことを実現できるのかを


その時・その時


自分が選び取れるために


与えてくれたもの何じゃないのかなって


思っているの

















自分の事を


知っているようで


まだまだ知らない事がいっぱいあって


その多くは


誰かの姿や言動の中から


感じ取る事が多いの


この間深夜遅くに


足を運んだ温泉の中で


お二人の女性がいて


一人の方が


大きな声で話されていて


自然に耳に響いていて

言葉一つひとつをを聞いていると


今流行のスピリチュアルな知恵を


めいいっぱい表現し


相手に伝え


そしてそばにいる私にも


演説のように聞こえるように


表現されていたの


そして一緒にいる女性は


きっと何か悩みを相談されたようで


元気を与えようと


言葉にしていたのだと思うのだけれど


相談された方は


あまりの勢いの強さに


エネルギーが満たされるよりも


エネルギーが奪われているようだったの


その姿を見つめながら


私ももしかしたら


スピリチュアルな知恵をとてもよいことなのだからと


その時ときを過ごす方の


タイミングや形を考えてあげる事なく


「これはよいもの」という軸だけで


逆に相手に


不快感や


ほんの少し自分の持つ知恵を自慢のような


表現がったのかもしれないなって


反省していたの


でもすぐにそう思えたほど


人間できているわけではない私は


初めのうちは


「うるさいな~」って思ったり


「どうしてこんな時間に・・・」など


リラックスするために足を運んだ場所で


その逆の思いに包まれていたの


そしてお風呂から上がり


パートナーにその様子を話し


無意識に私のいつもの癖で


正義というな思いを傘に


自分のフラストレーションを


パートナーに表現していたの


そうしたらパートナーに


「さーちゃん今きっとその人と


同じ波動になっているんじゃないかな?


さーちゃんはその人の話を聞きながら


何か学ぶことがあったんじゃないの?


俺が思うには


相手のだめなところを探して


安心する人は三流で


自分の方が相手よりも優れていると思う人は


二流で


一流の人はすべての事から


何かを学ぶ人だと思うよ」って


伝えられて


はっと自分の心に立ち返る事ができたの


私は若い頃


何でも白黒はっきり判断し


表現することが


とても素敵で


時には正義や正しいという


大きな傘の下で


自分の秘めているフラストレーションを表現してきたの


でも本当は


世界は広く自分の知識の範囲で


良いこととそうではないことに


わけていただけで


世界をまっすぐに見えなくしていたと思うの


本当はとっても簡単な方法で


自分も大切な人も幸せになれるのに


人の心は繊細で


良くないとはわかっていても


本当に弱く愛の泉が枯れてしまうと


周りの光の輝きに照らされて


自分の姿が見えなくなってしまうような感覚から


無意識ではあるけれど


親しい方たちの悲しみや悩みを


心配しているように自分でも思いこみ


そして表現するけれど


心のどこかで安心感を感じたり・・・


そのような自分でも認めたくない


思いを体験された方もいると思うの


でももしも体験したと感じられた方は


その瞬間から


とても大変な自分の思いを


受け入れられたのだから


もうそのような認めたくない思いは


生まれてくることはないのだと思うの


人生では


様々な形で


私たちそれぞれが気づき


受け入れられる形で


受け入れるまで


同じようなことが届けられているのだから・・・


気づかないことは


受け入れるタイミングが整わないので


いつまでも怒りという形で


受け入れのタイミングを流してしまったり


不安という形で


問題をフェイドアウトしてしまうと思うの


そして人それぞれに


物事が届けられたときの癖を持っていて


本人にはなかなか


気づくことが難しいと思うの


私のパートナーは


日頃はとても優しく冷静だけれど


「これはこうした方がよかったんじゃないの?」という


表現をすると必ず


何かスイッチが入る暗号のようになっているようで


「だってさっきそっちが・・・」など


急に冷静さを失い


自分以外の誰かのせいにできることを


探し表現するの


そしてそのたび


私が「またよくない癖が出ているよ


あなたを責めているわけじゃないんだよ」って


伝えるとすぐに


いつもの彼に戻るの


それは彼がきっと幼い頃から


兄弟が多く


自分を守る方法の癖として


無意識に溢れてくるものだと


感じているの


そして私自身も


正当な理由をつけては


人を非難してし合う部分があったり・・・


自分の事を愛したい


愛そうという思いから


気づかないようにしている部分や


受け入れたくない


見つめたくない思いはあるけれど


あるものをないものとして


過ごす方が


不自然なのだから


ほんの少しの勇気をもてたならば


もっと自然体で


幸せを感じられるようになると思うの
















今年ものこりわずかになってきたけれど


今年を振り返ってみると


頭では知っていたことを


実感として


心で感じる機会を


多くの方に与えていただいた


年だった気がするの


そして年齢を重ねると


多くを学び


何でも知っているように


思い込んでいたけれど


まだまだ学ぶこと


気づくことが用意されていることを


とても感じたの


このHPで繋がれた人たちからも


とても多くの愛の学びを


与えていただき


目の前に届けられる出来事にも


たくさんいかされているの


それは本では学べない


心に響く愛の言葉も多く


とてもあたたかい言葉は


私の中にストックし


私の友人にも機会があるときには


手渡しているの


私はこのHpを始める前には


あまり人間の持つ素晴らしさを


知る機会も


感じることも少なく


ごく少数の大切な心ふれあう友人だけが


この国に暮らす


素晴らしい人たちだとさえ


勘違いしている部分もあったと思うの


その多くは幼い頃から


少し人とは異なった自分の個性によって


その個性を表現することで


おかしな子とかあぶないかもって


誤解を受けることが多く


本来ならば瞳に映らないものが


見えてしまったりすることも


ごく一部の方にしか表現できず


ひとりでこわがっていたり・・・


でもこのHpを初め


繋がる方たちに


自然体の自分を表現させていただく


機会を与えていただき


様々なものが開かれてきて


ありがたいくらい


幸せを感じる毎日なの


そして面白いことなのだけれど


すべては伝染すると伝えられているけれど


ここ数ヶ月


急に今まで霊感などが


まるでなかった友人の


秘めている才能も開花してきたようで


信じられないくらい


勘が冴え渡っているの


人にはまだまだ気づいていない


才能・能力が秘められているのだけれど


その開花が


何かのきっかけで花開くのは


そばで見つめていても


楽しいの


私の母は何かを見ることはないのだけれど


死者の思いを感じ取ったり


これからお迎えが来ている人が


とてもはっきりとわかる能力があるの


なので母の場合は介護職なので


仕事を始めた頃は


お家に帰ってきては


「あの人いい人なのに


きっと1週間の間にはなくなってしまうの


私はどうすることもできない」って


表現しながら


泣いていたの


私はそのような事はまるでわからないの


私の場合は見てしまう事と


自分の思いが強く働くようで


自分の思いをコントロールすることに


幼い頃から


意識して過ごしてきたの


そして出会いの中で友人たちから


やさしく自然な流れで


スピリチュアルな知恵を受け取る事となったの


言葉では押し付けになると思った友人は


本というワンクッションをおいて


私に知恵を伝えてくれて


好ましく思っていなかった


自分の個性を


方向を変えたならば


素晴らしいと思える事を


教えてもらったの


それからごく一部の友人や知り合いに


イメージや思いを重ねて


アクセサリーを製作させていただいたり


ふれあう方が笑顔で


楽しそうに過ごしているところを


イメージするように


意識を変えてみたの


そうしたら感性豊かな方は


私が祈りに近い思いを


持っていたことを感じてくださり


「もしかしてさーちゃん


私の事を祈ってくれた?」って


幸せな報告をしてくれるようになったの


でも私は優れた人間ではないから


いつも意識をしていなければ


すぐに好ましくないものへと


意識を向けてしまうので


気をつけなくっちゃって


思っているの


ただこの能力・個性は


誰にでも秘められていて


私の場合は少し人よりも


強いだけだと思うの


昨年知り合った方がいて


先月会ったとき


「今まで霊感とかなかったんだけど


最近急に直感的に


頭の中に入ってくるというか・・・」と


伝えてくれて


その方の場合は


話される方の状況が想像ではなく


鮮明に映像として頭の中に急に


入ってくるようで


私と話しているときにも


「お姫様みたいな真っ白いインテリアで


花がいっぱい飾っている


素敵なお部屋に住んでいるんだね」って


伝えられて


本当に驚いたの


それでなんだか


楽しくなった私は


「私の事見えること何でも教えて!」っていって


色々尋ねていたの


その時にやはり霊感のある方たちが


表現するように


「私のぎりぎりのところまで


エネルギーが押し寄せてくるのを


いつも感じているんだけど


なぜ?


何か能力があるの?」と


伝えられ


とても不思議な空間になっていたの


ただ私はまだ自分の事は


何も表現していないの


でもきっと彼女の霊感が


様々なものを感じ


お互いにスピリチュアルな話が


出来る日が近いんじゃないかなって


感じているの


あと友人の友人が


人を必要以上に


癒す力があるようで


彼女と共に過ごしていると


強い睡魔に包まれ


おきて話していることが難しい能力が


ある事を友人から聞いて


またまたおもしろいなって


会う日を今から


楽しみにしているの


ただ本人はその事に気づいてはいないようで


ふれあう人々が


自分の話を詰まらなさそうに聞いていると


感じ落ち込んでいるようなの


その話を聞きながら


人とに付き合いの仲で


共通する反応を


すべて自分の性格的問題と


受け止めてし合うことがあるけれど


そうではなく能力や個性が


そのように作用していることも


あるんじゃないかなって


感じているの


スピリチュアルな能力は


様々な形で人の中に宿っていて


気づいていないだけだったり


好ましくないと思い


避けている事のなかに


発見できることもあると思うの


無意識に人の思いを悟る能力がある方は


人に何かと相談されたり


様々な問題に


参加させられたりして


自分の人生を複雑にさせられることも


あると思うの


そして


避けても避けても


そのような流れがいつも運ばれてきたり・・・


それは人の気持ちを悟り


理解が深いことを


自分では気づいていないけれど


ふれあう方たちは感じ取るから


引き寄せてしまっていたり・・・


上手に言葉では表現できないのだけれど


それは波動の法則とは少し違い


私が感じているのは


人のエネルギーが100とすると


自分が80で相手も80だと


エネルギーが強すぎて


トラブルやイライラなど


様々なものが放電. 感電するように


フィットしないから


大切に思う軸は


同じものではあっても


面白いことに夫婦や友人など


大きく見つめると


まるで違うタイプの方たちのほうが


深く仲良く


お付き合いが続くことがあると思うの


そして初めは自分が80で


相手が20でフィットしていた形が


過ごすときを重ねてくるうちに


相手が50にまで引きあがり


能力が高まり


能力開花の助けとなり


互いに高めあってゆけるように


なるんじゃないかなって


感じているの


自分が80から50になるのは


エネルギーが下がったように


感じるかもしれないけれど


そうではなく


正常値に落ち着いたということなのだと思うの


エネルギーも電気と同じようなものだから


ワット数が大きければ大きいほど良いものではなく


ワット数が大きすぎれば


周りに強い光を照らしすぎて


瞳を開けていられなかったり


エネルギーが大きすぎれば


どんな電球も割れてしまうのだから・・


そうなればあたたかく周りを照らすという


素晴らしい道具も


お役目を果たせないと思うの


私の場合はエネルギーの強さを


まわりが感じることもあるので


何気ない言葉を表現しても


その言葉がとてもきつく感じたり


強く感じることも多い事があることを


知ってからは


何気ない言葉でも


押し付けに感じたり


相手に圧迫感となる事もあるかもしれないから


できるだけ


言葉をストレートに


表現しないように意識するようになったの