2008年11月






この間


パートナーと何気なく


ドライブに出かけ


とある小さな町に着いたとき


以前から行きたいと思っていた所が


この町にあることを思いだして


ちょうど良い場所に交番があったので


道を尋ねようと


交番へ入ったの


入った瞬間


まるで何十年も


誰も住んでいないような


説明の出来ない香りが広がっていて


そのせいか


呼吸が浅く苦しくなったの


そして入ってすぐのところに


デスクがあって


私が入ってきたのに


少しも動かないおまわりさんが


無音の中で座っていたの


その方はまるで蝋人形のように


表情がなく


肌の質感も


人間のぬくもりを感じられないような


今までにはお会いしたことのない


感じの方だったの


それでも私は


道を尋ねるために入ったので


パートナーと二人で道を尋ねたの


そうしたら地図を広げ


機械の様に淡々と説明されたの


その間も目を合わせる事もなく


重苦しい空気の中で


過ごしていたの


説明が終わり


「わかりました・ありがとうございます」と


私が告げているのに


その方は無意識に


まるで帰したくない・助けて欲しいと


わずかな自分というものが


がんばっているかのように


何度も何度も


同じ事をほんの少し言葉を変えて


表現していたの


そんな時急に私の背中が痛くなり


呼吸も苦しくなった瞬間


その方が今までとはまるで違った方のような


笑顔で話し出し


ジョークまでいい


ほがらかに笑い声まで


溢れていたの


その後すぐに交番を出た時



パートナーが


「あの人急に別人のように


明るくなったよね


人と話して楽しくなったのかな」って


表現したので


私は


「背中が痛くって重いの


呼吸も苦しいし


お家に帰ろう」と伝えたの


そうしたら


パートナーが


「もしかしてあの人に入ってた何かが


さーちゃんに入ったのかな」って

パートナーも


何かを感じたようだったの


ただ私は


今まで様々な通常瞳には


映らないものを


見てはきたけれど


自分の中に入ったりする体験はないので


どうなのかなって


感じていたので


そんなに深刻には


考えてはいなかったので


その日はすぐに眠ったの


その日は今まで見たことのない夢を


いくつものストーリとして


見たの


とても光栄な場面のようで


華族といわれる方たちと


過ごしているようで


何となく今も


何かも機会で見た方などもいたの


そしてすぐに場面が変わり


なぜか次の場面では


ころされていたの


その夢はその人の瞳を通して


見ている夢なので


リアルすぎて


とてもこわかったの


その後目覚めて


背中が痛く重い私は


自分の作ったアクセサリーを身につけたり


ソルトバスなどで


身体を清めようと思っていたのに


まるで邪魔をするように


信じられないくらいのスピードで


睡魔が何度も訪れ


また眠ったの


そんな事を繰り返している間に


数日が過ぎ


パートナーも心配になったようで


塩水を作り


うがいするようにと


連れて行ってくれたのだけれ


咳き込んでうがいも出来ず


このままでは


私が私として


過ごせなくなってしまうと思い


睡魔の中でも


私の中にいるであろう人と


対話を始めたの


以前誰かに

何かが頼ってきそうになったならば


「私は何もしてあげられない!」と


つよく念じると良いと


言われていたので


そのように伝えたのだけれど


そのように伝えると

背中にまるで電気が走ったように


痛みが広がるので


もう入ってしまっているのだから


自分のスタイルで


対話をしてみようと思い


静かに対話を始めたの


「私は何も出来ないし


力も知識もないから


何も力にはなれないけれど


それで納得するのならば


いつまでもいてもかわないよ」と


伝えたの


そうしたら痛みが治まり始めたの


そして次に


「これからきっと


私の中は居心地がよくないと


感じられることばかりだと思うよ


だって私はあなたと同じような


気持ちになる事がないから


あなたの憎しみや悲しみを


晴らす道具には


ならないと思うよ


そしてあなた自身


私の家は辛いでしょ


あなたと波動が違うものに


溢れているから


それが痛みとなっているのでしょ


私がもっと知識や力があったならば


心鎮めてあげられるけれど


私には何も出来ないから・・・


それでも良いのならば


いつまでもいてもかわないよ」と告げ


そのまま眠ってしまったの


目覚めたとき


驚くほど身体が軽くなっていて

直感的に

私の中からいなくなったのを感じ


ほっとしたの


今回の体験は


私にとって初めてのことで


改めて


よく霊が憑くと表現されることが


本当にあるんだなって


感じる貴重な体験になったの


そしてその始まりとなった


交番のおまわりさんのように


本来は明るく楽しかったかもしれない人まで


変えてしまう力があるなんて


本当に怖いなって



感じたの


そう思うと誰でも


ある時から急に


自分が自分ではないものに


支配され


人生まで変えられてしまう事が


あるんじゃないかなって


感じたの


ただそのような霊も自分の思いを晴らすに


ふさわしい人や場所を探し


長く住み着けるかどうかを


試しながらいるので


同調する機会が少なければ


そんなに大きな事には


ならないんじゃないかなって


感じているの


誰の心の中にも


認めたくない影のような部分を秘めていて


彼らはその部分から


きっと入ってくるから


そのスペースを広げず


彼らが心地よく感じない時間や


スペースを持っていたならば


瞬間的に入ったとしても


通り過ぎてゆくと思うの


今回のことはあまり分析せずに


ただ1つの体験として


今後の私に必要な


何か宿題のように感じているの


上手に表現できないのだけれど


もともとこのような事に


結びついてゆくんだろうなって


昔から感じ


なんとなく避けてきたけれど


以前知り合いの方に


「避けずに受け入れたら


きっと病気も治るよ


これから避けられない


きっかけとなるなにかがあって


そういう方向に導かれるかもね」って


伝えられたことがあったので


もしも自分の中で100%


霊界と人間界の助けになれると


思ったならば


受け入れるかもって


思っているの


でも今の状態では


私の中では直感に近い感覚でしかないので


まだ先だと感じているの


あとはよく霊能者の方が表現するように


スイッチをONとOFFには


私は出来ず


急に本来見えないものを見てしまうと


今でも


驚きこわくなってしまうので


体質的には向いていても


性格的には向いていないんじゃ


ないかなって感じているの


少し違う話だけれど


誰でもそういうところってあって


体格的には向いている職業でも


性格的には向いていないとか


逆に性格的には向いていても


体質的には向いていなかったり・・・


そう考えると二つがフィットするものって


とっても難しいなって


感じていたの


やればできるけれど


やりたいと思わないって事が


誰にでもあるけれど


それが体質的には向いていても


性格的には向いていないって事なのかなって


思うの


少し違うお話だけれど


私がいつも何気なく


くせのようにしている事があって


日常の中でも直感を育む方法なのだけれど


小さな事でも


直感に働きかけるの


たとえば本を開く前に書いてある言葉を


連想してみたり


テレビのスイッチを入れたときに


男性・女性のどちらが始めに映るか


判断してからつけてみたり


家族がいる方は


家族が何時に帰ってくるのかを


当ててみるのもいいと思うの


そのような小さな事でも


回を重ねてゆくうちに


適当に当たっていたり


外れていたのが


不思議と判断どおりに


なって直感が育まれているのを


感じることが出来ると思うの


今の時代は


内に秘めている能力を


誰もが発揮し


歩んでゆくことを


必要とされているから


その能力の1つの


直感・虫の知らせに


気づいてゆくことも


大切なんじゃないかなって


感じているの




2000年からは


本当に心の時代が


訪れているんだなって


日々感じることが多いの


昔は


どんなに心・愛・志があっても


生産性が低く


手にする経済が


その人を計るところも多く


たとえどんな優れているものを


製作していても


認められない流れもあったけれど


今の時代は心の時代で


その方それぞれに


この世に誕生してからの


経験・体験を重ね


心・魂をふるわずものに


価値観を認め


選び取る機会も


多くなってきていると思うの


私自身よく母などには


「良いものがあっても


私はあんたのように


買う力がないから」って


私が新たなものを購入するたびに


表現するけれど


私が母を見つめていると


私よりも浪費しているのだけれど


その事が意識・心に残るほど


満たすものではないことも合って


いつも自分は


物質的に満たされない


豊かではない人生だと


思い込んでいるの


私も10代・20代の初めの頃までは


母と同じように


本当に欲しいのかではなく


何か満たされない空間を埋めるように


リーズナブルかどうかだけで


手にしていたの


今考えると


リーズナブルなものの多くは


発展途上国で様々な思いを抱え


ひとつひとつに心込めて作る


余裕も与えられない環境で


製作されたものも多いと思うから


やはり無意識ではあるけれど


その残像を


自分も受け取ってきたんじゃ


ないかなて感じているの


それから私は出来る限り


多くの人の手を渡る事なく


受け取れるものを


探すようになったの


そうしてみると


ただの物質だったものが


物質ではなく


そこに感謝や喜びも


感じられるようになったの


そして多くの方の手をわたってこない分


とてもよい物をリーズナブルに


私の元へと届けられて


何度も何度も


喜びが重なるの


この間友人と近くのレストランで


ささやかな飲み会をした時


その友人から依頼を受けていた


アクセサリーを手渡したとき


「さーちゃんにアクセサリーを


作ってもらいたい人が


いっぱいいるのもわかるよ」って


伝えられて


瞬間涙が溢れて


こぼれそうになったの


友人は生産効率の良くない


私の製作をよく知っているからなの


設計図がない


私のアクセサリーは


頭の中にインスピレーションとして


届けられた形と


それに必要な石で


一度形として製作し


一日~2日水晶の上に飾り


何度も何度も見つめ


また新たに届けられるインスピレーションと


重ねながら


違うか持って思ったら


すべてまた作り直して・・・という事を


何度か繰り返して


完成するものなので


中にはそんな私の効率性がよくない


行動を心配して


様々なアドバイスをくださる方や


「誰もわからないのだから・・・」と


経済的に豊かになるよう


アドバイスをくださる方もいるのだけれど


そういう部分では


柔軟性がない私は


自分が納得した形で


この時間を大切にしているの


それもきっと


母方の祖父が小さな村の神社を


一人で守り


生産性・効率性ではなく


志があって


そのように生きてきたDNAが


私の中にも秘められていて


祖父がある部分では


本来私が知るはずのない


知恵や言葉を


バックアップしてくれているんじゃないかなって


感じているの





私自身元々


瞳には映らないエネルギーや


知恵などに


心惹かれてはいたけれど


やっぱり病になってから


その意識が強くなって


様々な角度から


良いこともそうではないことも


自分に影響を与えているものを


知りたくって


私流に研究しているの


ある気功の本に


書かれていたことなのだけれど


病になるには


もちろん


遺伝的なものもあるけれど


それが病として意識として


現れる方とそうではない方がいて


病には人それぞれに


原因やきっかけとなる形があって


それを知るには


病からのささやきを


聞くことのようなの


たとえば痛みというものが


広がったとき


人によっては


痛みをただただ


我慢して身体を小さくし


痛みが治まるまで


耐える方や


暴言・恨みつらみなどを


表現する方など


様々だと思うのだけれど


その表現自体が


実は病になったきっかけ


原因だと書かれていたの


たとえば痛みが通り過ぎるまで


ただただひたすらに我慢される方は


長い間


人間関係や自分の思いを


誰かのためにおさえて


我慢を重ね


周りの方から見つめると


良い人に映る方で


周りを大切にすることと同じように


自分を大切にしてあげなかった事で


病になる形で


暴言や恨みつらみを


表現される方は


周りに対して愛が足りず


その厳しさを自分にも


無意識に重ねられているけれど


それをできない自分を悔やみ


自分に対しても周りに対しても


厳しい方が病になった


きっかけ・原因の形らしいの


確かにそう思うと


私自身とてもなんでも表現し


好きなように人生を生きているように


両親には映っていたようだけれど


本当の気持ちや思いは


両親には表現せず


こうしたら両親が喜ぶだろうとか


両親が望んでいることを


いつも連想して


そのように表現してきて・・・


でもそれも長い年月になると


そんなに無理をしているという自覚もなく


過ごせていたのだけれど


病になってから


そのように表現するたびに


痛みが広がり


耐えられなくなった私は


勇気を持って自分の思いを


表現しようと


少しずつ自分らしく時間を


重ねていったの


でも初めの頃は


変わった私を病のせいだと


ある意味寛大に


見つめてくれていた両親なのだけれど


本当は病だからではなく


今まで私が私らしくいられなかった時間が


この病の原因になっていたのを


私自身が気づいたの


それから何でも両親に対してYESだった事も


NOという努力をしていったの


もちろんすべてが両親のせいではなく


そのつど自分という存在を


表現してこなかったのだから


両親が本当の私を知る


きっかけを作ってこなかった


私が原因だと思うの


今では


「たとえ外国の遠くに住んだとしても

この世にあんたが元気で


生きていてくれたらそれで十分だよ」って


よく伝えてくれるようになったの


そのたびにここ数年


心が解放されている私は


何だが溢れることを


おさえることができず


ぽろぽろ泣いてしまって


両親も驚いているの


本来人間は


みんなそのままの気持ちはあたたかく


愛溢れているけれど

立場や環境・心のお天気によって


その時々


心を隠す表現をしてしまうけれど


心を開いたならば


逆に人間の素晴らしい


光が溢れてくるんじゃないかなって


感じていたの







人は命のバトンを


次の世代に手渡すたびに


その世代が


今よりもより進化したものを


自分の中に生み出し


時代や社会を


作っているんだろうなって


とっても感じているの


私自身は年齢的にも


中間の位置にいることもあって

進化した人たちと


昔からの価値観を守られている方の


良い部分と少し疑問に思うものを


とても感じているの


年齢を重ね歩み始めている方たちは


素晴らしい思いや価値観があっても


まだ言葉のストックが


自分のうちにある辞典には少ないから


その素晴らしい思いを


言葉ではなかなか表現することが難しく


誤解をされる事もあるけれど


私が若い頃よりも


冷静でよく物事を見つめられている方が


多いと思うの


ただまだまだ


自分という存在を確認する


体験が溢れている世代なので


迷いも多く


自分を追い込んでしまわれる方も


多いと思うの


本来ならばそのような心の体験は


あと10~20年先に


誰でも与えられる事なのだけれど


今は時間の流れも速く


そしてその時の流れの中で誕生した


若い世代は


すべての体験も早くに訪れているんじゃ


ないかなって


感じているの


そして年齢を重ねてきた方たちは


優しさ思いやりの形に少し


強迫観念をもたれている方も多く


本当はこうしたいっていう


自分の思いがあっても


共同体としての意識が強く


こうあるべき・こうするのが人として正しいという


強い価値観をもたれているので


過度に優しさや思いやりの形にこだわられ


自分の思いを後回しにされるのだけれど


その抑えた思いを上手に手放せず


とても近くにいる家族に


形を変えて発散していると思うの


そしてその重い思いを受け取られる


家族は優しさから


受け止めてあげるのだけれど


その溢れる思いがあまりにも重く


少しずつ家族が


無意識に距離を置かれ


その事で年齢を重ねた方は


「私はこれだけしてあげたのに・・・」という


被害者意識が広がって


益々人生に光を


受け入れられない状況を


作られている方も


多いように感じているの


私はありがたいことに


両親世代や10代の方とのつながりも多く


学ばせていただく機会が多いのだけれど


そのたびに


その世代の持つ愛の形や


もっともフラストレーションに感じるものを知って


どちらの表現されることも


「うん・うんわかる」って


思うことが多いの


ただとても大きな進化の違いを感じるの


私の母の世代は


形にこだわりを持っている方が多いので


この形は優しさ・この形は思いやりなど


決まった形があるので


その優しさや思いやりの形を手渡したのに


相手が思うような形で


納めてくれないと相手に対して


不満が溢れ


相手を非常識だとか


私はこんなにしてあげたのに・・・と


受けとめてしまい


本当はどんな思いで


この行動をしたのかや


自分の形以外は


おかしい・変わっているなどという事で


流してしまうので


せっかくの気づきの機会を


受け入れる事なく


過ごされている方も


まだまだ多いように感じているの


もちろん年代だけでは計れず


私の父は


いつも無意識ではあるけれど


私たち世代や孫世代から


見聞きしたことを


自分の中でゆっくりとサイズ変更し


今の時代でも違和感ない価値観を育み



毎日をなんとなく楽しげに過ごしているの


魂の進化や成長は


人それぞれのスピードがあるから


計る基準は決まってはいないけれど


一番大切なのは


本当に心から


自分を幸せにしてあげたいと思ったら


他者の行動言動に意識を向け


興味を持つのと同じくらいに


自分自身に意識を向け


自分という存在に興味を持って


見つめてあげることなんじゃないかなって


感じているの


そしてそんな中で


本当に自分が誰かのために


何かをしてあげたい


してあげられると


思ったときに


手を差し伸べてあげるのが


本当に思いやり優しさなんじゃないかなって


感じているの


人間としてこの世に生まれてきたとき


誰の心の中にも


あたたかい愛を育むスペースが


備えられていて


そのスペースは


その方の体験やふれ合う人々によって


愛の量が増したり


少なくなったりして


それぞれのサイズに


整えられているから


必ずしも自分の手渡す愛のサイズと


ジャストフィットするとは


限らないものだと


初めから知っているとよいんじゃ


ないかなって思うの


そして愛のサイズが合わなかったとしても


相手に問題があるわけでも


自分を責める必要もなく


深く自分の中には納めず


ひとつの体験として


手放してしまえばよいんじゃ


ないかなって思うの


人は同じ体験をしても


同じ答えを生み出すとは限らず


え!?って思うような方向から


見つめ答えを生み出される方も


いると思うの


そして自分とは違う角度から見つめ


答えを生み出される方と


個人的に縁を深めなくっても


時代や社会の中では


そのような方の意見が


必要な場面も多いのだから・・・


ただ自分の中で


「私とは少し違う」って思って


深く分析する事なく


距離をもたれたら良いと思うの


何となく何でも受け入れられる方は


愛溢れ


素晴らしく映るので


そうありたいと思い


直感的に私とは・・・と思っても


無理をしてしまう事があると思うの


でも自分の人生に必要な縁は


どんな形でも


つながれるものだから


わざわざ自分をパニックになる


環境の中に


導く必要はないと思うの


私がいつも感じているのは


誰かのために何か助けになる


愛を手渡すには


まず自分自身が


愛を製造するパワーが


必要だと思うの


そうする事ができるのならば


どんなに他者に愛を手渡しても


愛が枯れる事なく


見返りを求めたりする


グチなども溢れないと思うの













ここ数年


私の中で


人生の整理整頓が


マイブームになっていて


とってもとっても困難な


心の中に秘めたままの


自分のみにくい感情や思いを


見つめ


その感情や思いを


手放すために


様々な本などを読んで


参考にさせていただいたのだけれど


理解できても


なかなか


実行できるかどうかはまた別で


時には邪道であっても


結果的に


クリアにできたならば


それの形が


私にはフィットしているんじゃないかなって


思って


自分に合う心の処方箋を


作り出すことが出来たり


その後


よく昔から表現されているけれど


自分の心の現われが


ライフスタイルを


作っているといわれているけれど


自然な形で


今度は瞳に映るものの


整理整頓が始まったの


でも始めて感じたことなのだけれど


今の私にサイズが合わず


過去も未来にも


まったく必要としないものなのに


手放すという決断が


なかなかできず


新たなものが納められないほど


スペースを使っていたの


そんな時


友人が私のおうちに遊びに来た時


何気ない会話の中で


「欲しいものがあるけれど


なかなか購入できないんだよね」というような


言葉が溢れ


私は


その言葉に急に


無言で反応し


クローゼットを開き


タグが付いたままになったお洋服や


数回しか使用していない


過去の華やかな時間を作ってくれた


様々なアイテムなどを広げたの


初めは「欲しいものを持っていって」って


伝えようかとも思ったのだけれど


そのように表現すると


遠慮していくつかだけしか


選ばないんじゃないかなって思ったので


「クローゼットの中にあるすべてのものを


もって行ってくれるとありがたいな


もしいらなければ


捨ててくれていいから」って


伝えたの


友人は思っていた以上に喜んでくれたの


時々友人と会うと


おしゃれだなって思って


「素敵だね」って


伝えると友人は


「これさーちゃんからもらったものだよ」って


表現し


そのたびに


自分の記憶にもなく


ただ自分のエゴで


溜め込んで


それぞれのものたちが持つ素晴らしい


エネルギーの表現場所を


奪っていたんだなって


改めて感じているの


その時捨てることへの罪悪感と思っていた感情は


もしかしたら


しまいこみ・出番を作ってあげられなかった


ものたちへの罪悪感だったのかなって


感じたの


それからは


自分の中でイメージとあうものが


見つかるたびに


それそれの友人などに


手渡しているの


そうすると不思議なもので


手放したものよりも良いものが


届けられ間スペースに


納められるようになったの


上手に言葉で表現できないのだけれど


心も同じで


意味もなくこれからも必要としない


したくない感情や思いを


何かの切り札のように


ずっと持っていて


何かあるたびに


自分の思考・意見


行動の正しさを証明するためだけに


秘めていて


その切り札が逆に


人生を生きにくくしていることも


あるんじゃないかなって


感じているの


よく何気ない会話の中で


人と意見がフィットしないときに


「でも私の経験上絶対にそうだって!」とか


「あなたはまだ経験が浅いから


わからないのよ」などと


表現される方がいるけれど


どんなに多くの経験を重ねても


同じ体験から必ずしも


同じ答えを導き出すわけでもなく


同じような経験だから


同じような流れになるとは限らないので


その切り札は


本当は意味はなく


逆に人との縁や思いを繋ぐ


心の糸を切ってしまうものになることも


あると思うの


人から見つめたならば


どんなに小さな経験であっても


その方にとっては


とっても大きな意味のある体験で


その逆もあると思うの


だから比べることは出来ないと思うの


幼子がすぐに


誰とでも仲良くなれたり


そしてけんかしても


すぐに笑顔になれるという


人としての輝く才能を


表現しているけれど


私たち誰もが


スタートした頃は幼子のような


輝く才能を表現し


世界を見つめていたのだから


その輝く才能は誰もが持っているものだと思うの


年を重ねるごとに


自分の中で経験したものから


影のような答えを


膨らませ


見えなくなっているだけで・・・


私たちは時をただ重ねているだけではなく


心のも生活スペースにも


持ちきれないほどの


荷物を持って


歩いてきたんじゃないかなって


思うの


その事がひとつ動くたびに


大きな疲労を生み出し


今必要なものを探す労力もなくなり


流されるように


ただ呼吸をして


大きな不満もないけれど


だからといって幸せではないという


思いに包まれている方が


この世界には


広がっているんじゃないかなって


感じているの


そして心の整理整頓を始めると


自分の事がはっきりと


わかってくることもあって


自分を包む


人間関係も変わってくるので


今まで仲がが良いと思っていた方との関係にも


変化が現れ


非難・否定的思いなども


自分からも相手からも


感じられるようになったりも


すると思うの


人によって様々だけれど


それまで人との調和を


人に合わせ


自分の思いを優先しない形が


思いやりであり調和で愛だと


思い込んでいた方が


やっと自分の本当の思いに気づき


寂しかったからという感情や


仲間はずれになりたくない思いから


自分を苦しめていた事に


気づいて


ほんの少しずつではあっても


自分の意見を表現する機会が


増えてゆくので


変化を自分も周りも


感じてゆくと思うの


でもそのありのままの自分を


良いと思ってくれる人は


ちゃんとこの世界には


存在しているので


安心してよいと思うの


私自身もこのような体験を


重ねて


今の自分らしさを勇気を持って


表現できるようになったけれど


それまでは


変わって行く私に


「わがままだよね」とか「冷たいよね」とか


今まで伝えられたことのないような


言葉をその当時の友人に


伝えられたけれど


冷静に見つめてみると


今まで友人は自分が思う通りに動き


答え


付き合ってくれる私を愛してくれていたので


当然だと思うの


その頃の私は


孤独を怖れ


友人の前では心広く


何でも受け入れる人を演じていたのだと思うの


でもお家に帰ってから


友人に言えない


溢れる不満やストレスを


パートナーにぶつけ


その繰り返しの中


私の場合は痛みという形の病を持っていたので


痛みが大きくなり


心身の限界を感じ


彼女との関係を


卒業したの


その時は寂しさもあったけれど


心身が癒されてゆく中で


本当に大切にしなければならない人や


大切に思っている人が


やっとわかってきて


心豊かな時間を過ごしているの


人生って不思議で


大きな何かを手放せば


また同じサイズの喜びごとが運ばれてきたり・・・


だから落胆することはないと思うの


その繰り返しを重ね


様々なものと共に


成長し進化してゆくんじゃないかなって


思うの














人の人生って


本当の様々で問題に思うことも


喜びを感じることも


人の数ほどあると思うの


その中で一番強く感じるのは


運ばれた問題が


大きければ大きいほど


その方自身では気づいては


いないかもしれないけれど


それだけの問題と向き合って


いるんじゃないかなって感じるの


たとえばよく何百億円の負債などと


メディアで聞く言葉だけれど


それだけの経済を借りようと


たとえ思っても


通常ではなかなか難しく


それだけの信用と人脈がなければ


それだけの負債を


逆に生み出せないと思うの


それと同じように


たとえば恋愛で


人を信頼できないほど


大きく傷つき


先がまるで見えなくなっている方も


逆の角度から見つめたならば


それだけ人を愛する


大きな愛情があったからこそ


深く人を愛し


傷つくことが出来たのだと思うの


逆に傷つくことのない方法は


ただひとつ


誰も愛さず


ひとりでいることだけれど


その殻を破り


愛の道を歩んだのだから


結果悲しく辛い形となったとしても


勇気を持って


人を愛した事に誇りを持って


自分を褒めてあげて欲しいの


よく周りが「こうなるとおもったよ」とか


様々な憶測予言を


表現することもあるけれど


人と人とのご縁は


神様以外


選び取れるものではなく


意味があって運ばれてきた


ご縁を


傷ついた方は


ただただ大切にしてきただけなのだから・・・


自分を責める事もないと思うの


どんな方と出会っても


その出会いが良いものなのか


そうではないものなのかは


縁が深まらなければわからないものだし


逆にわかったときにも


情が深く育まれていたら


そう簡単には


頭で考えたようには


できないこともあると思うの


この世に誕生してから


すべての人が縁というものに


人生が大きく影響を受け


その時々


魂・心を成長させているけれど


成長の方向性も様々だと思うの


だから本来


誰一人として


人生は比べられるものでは


ないんじゃないかなって


感じているの


そして人が計る幸せ基準が


必ずしも


幸福とは限らず


「あの人かわいそうだよね」とか


同情したように


表現されている方も


もしかしたら本人に尋ねたら


「とっても幸せ」って答えられるくらい


幸せを感じ


感謝して過ごされているかもしれないし・・・


私は幼い頃


両親は目的があって


お金をためていたようで


住まいも今では珍しいくらいに


レトロなアパートで


その頃の友人たちは


私のお家の前を通るたびに


「貧乏でかわいそうだね」って


表現していたの


幼い私はまだ自分というものが


確立されていないこともあって


人からささやかれる言葉がとてもいやだったけれど


私自身幼いながらも


貧乏ではないと感じていたの


なぜならば


その頃父が青果店にいたので


あきるほど毎日


様々な高級フルーツやお野菜などを


食べていたり


洋服も母が帽子とバック・洋服を


すべてお揃いで作ってくれていたので


豊かささえ感じてたの


でも周りの方からは


大きく映るものでしか


人を判断できないから


きっと上から下に見下ろすような感じで


私たちを見つめていたのだと思うの


豊かさはその本人が感じなければ


どんなに多くのものを持っていても


感じられないし


逆に何もなくっても


小さな事に感動し


幸せだと感じられる方もいるから


人がジャッジするものではないと思うの


人間って時々悲しい


自分が満たされなくなると


自分よりも満たされていない人を


無意識に探し


そのことにも気づかず


日々安定剤のようにしてしまう事があると思うの


でもそれでは時間を重ねたびに


空しさが大きく


益々満たされないようになってしまうんじゃ


ないかなって思うの


幸福について考えてみると


思いやり溢れる優しい人は


「私だけがしあわせになっていいのかな」って


ふっと持つ必要のない罪悪感を感じたり


かと思うと


多くの方がみんな幸せに見えて


「なぜ私だけが・・・」って思ったり・・・


でもどちらも違うのだと思うの


幸せは届けられても


気づけない人もいたり


もっと違う形の幸せを望む方もいるのだから


それが幸せって感じたのならば


感謝して受け取り


至福の体験をされたら良いのだと思うの


そして自分だけが・・・って思う事は


自分だけではなく


大なり小なり場面場面で


誰もが体験した感情で


心身が弱まっているときには


思考がそのような波動になっているから


映るものも


そのような波動フィルターを通してしまうから


そう映るけれど


もしもひとりひとりに尋ねることが出来たとしたならば


何かしら心曇らす出来事や問題が


あったりするものだと思うの


大きさはその方が感じるものだから


人から見て


どんなに小さく簡単なことに見えても


本人にとっては


重要なことだったり・・・


もしもあまり良い方向に物事を


考えたれないときには


心身の疲労から


そのような流れの中にいることが多いから


自分のためにも


周りのためにも


自分を休ませてあげることが


大切なんじゃないかなって


感じているの