2007年6月







この季節は


毎年ベランダを自分がイメージする


天界を表現するために


たくさんのお花を植えて


毎日見つめているの


そのお花を眺めながら


この地球に人間と共によりそうために


誕生させてくれた花は


瞳から喜び・慰めを受け取り


やわらかな癒しを


与えてくれるために


神様が


人間の誕生に


添えてくださったものなのだと


改めて感じ感謝が溢れてくるの


今の季節北海道では


冬に抱かれ育まれた


山菜たちが山に溢れているようで


知り合いの方たちが

いつも

私のお家に


森のパワーいっぱいの


山菜を持ってきてくれて


毎日いただいているの


山のパワーいっぱいの


山菜を頂きながら


きっと


旬のものを


神様が山に用意してくれたのは


地球の生き物として


生きている人間も


他の動物たちよりも進化を果たしてきて


冬眠という部分を


必要としなくはなったけれど


4つのシーズンの中でも


冬は

心身の代謝が



ゆっくりになって


溜まってしまったものを


外へと排出する事を助けてくれる


自然の贈り物として


春の旬のものを頂くことも


大切なのかなって感じていたの


山はやわらかな優しい包むようなパワーがあるので


日常の中で疲れを重ねてしまった方は


ほんの少し


お仕事で疲れてしまった方などには


山に包まれ過ごしたり


山へ行くことが


少し難しい場合は


遠くからでも


山を見つめるだけでも


何か満たされような変化を感じられると思うの


そして


人間関係での疲れによって


ネガティブな思いを


重なってしまっている時や


都会の生活の中で


体内リズムを整えることが


難しくなっている時などには


海を見つめて過ごしたりするだけでも


体の疲れを浄化し


知らず知らずに重ねてしまった


受け入れられない思いを浄化しながら


自分にフィットする形で


吸収できるよう助けてくれると思うの


ただ強い疲労がある方の場合は


海のパワーが強すぎて


浄化のあとのパワー充電が


スムーズに吸収できず


疲労が広がってしまうことも多いので


自分の心身のコンディションに


あわせて短い時間から


トライしてみるといいんじゃないかなって思うの


よーく見つめてみると


私たちの周りには


必ず神様が必要に応じて


癒し・パワー充電


できるものや


場所を用意してくださっているから


直感的に


そんな素敵な贈り物を


まるで


宝探しのように


探してみるのも


楽しいんじゃないかなって感じているの














最近以前よりも


実家へ足を運ぶことが


多い中父に突然


「俺がしんで墓参りしたり


先祖供養をしなくていいから


今生きている間に


会いに来てくれる事の方が


大切だから・・・」と伝えられたの


私はその言葉を


伝えられて


ふっと様々な思いを感じていたの


先祖というと


何となく遠い繋がりの方の


イメージがあったけれど


よーく考えてみると


両親は私にとって


一つ前の先祖になるのだから


生きている間に心満たす


時間を与えてあげることが


大切なのかなって感じていたの


両親は


私が幼い頃とは違い


あらゆるプレッシャーや


見栄という荷物をおろし


まるでお地蔵様のように


優しい笑顔で


迎えてくれることが多くなってきているの


昔から


周りの方から見つめたならば


きっと優しく包容力のある人たちに


映っていたとは思うのだけれど


その頃は


自分の力以上の事でも


人に頼まれると自分を良い人・大きな人と


思われたい気持ちから


無理を重ね


そのたびに


近くにいる人々には迷惑をかけ


少しはなれた人には


とても


頼りになる人として過ごしてきたの


でも今は


自分が心から


できる範囲でしてあげたいと思う


大きな愛から


ふれあう人々に愛を手渡しているの


この間も書かせていただいた


命の灯火が


あとわずかの叔母がいつも遠い街から


私の実家へ遊びにくるようで


母はいつも


優しく叔母のしたいように


自由に過ごす姿を優しく見つめているの



叔母は私が幼い頃から


あらゆる場所で


幸せな家族を見つめると


無意識に


問題が起こるようにあることないことを表現し


初めはみんな叔母の性格を


知らないので


多くの方が


もめたりしていたのだけれど


そのような性格だとわかると


みんなはなれてゆき



今ではだれも


話をすることさえなくなっているの


今回叔母の命の灯火が


あと数ヶ月だと


知っても


誰も足を運ぶ方もいない中


ずっと10年くらい


疎遠になっていた


叔母の子供たちと


私の両親だけが叔母に会いに行ったの


言葉では上手に


説明できないのだけれど


表情・言動様々なものが


今まで


人生を歩んできても


出会ったことのないほど


独特なエネルギーが溢れている方で


母も心から叔母の事が


好きなわけではないのだけれど


叔母の生き方を


ずっと何十年も見つめてきて


そのようにしか


生きられなかった叔母に慈悲の思いで


残りの人生を少しでも


心豊かになる瞬間を


与えてあげたいと感じているようなの


そのようなふれあいの中でも


やはり


変わらない方は


変わらないのだと改めて感じることも多いの


年齢や経験を重ねてくると


その時々の経験によって


気づきという


素晴らしい神様からの


贈り物が届けられるのだけれど


叔母の場合は


幼少期の体験からの体験から


学び・気づいてきたものが


違う方向のものだったんじゃないかなって感じているの


たとえば


出会った相手が優しい方だとした時


その方との付き合い方も


二通りに分かれると思うの


その方と同じ優しい波動で


ふれあってゆこうと感じる方と


利用しようと考える人が


いると思うのもし叔母が


その優しい気持ち溢れていた幼い頃


誰かに裏切られたり


利用されたりされてきた


経験を持っていて


そこから


もしも学んだものが


今の人格を作っていたならば


虚勢を張らなければ


また自分が傷つけられるという


感覚なんじゃないかなって感じていたの


もちろん


どんなに人間関係で


傷つき・辛い体験を


されたからといって


ずっと優しさ溢れている方も


多いのだから・・・とも思うけれど


人によっては同じ体験でも


答えの導き方は様々で


内なる自分に問いかける方


外に問いかける方がいると思うの


叔母はいつも


外に答えを求め


言動とは違い


本当はみんなに


すがっていたんじゃないかなって感じているの


どんな形でもいいから


自分に振り向いて欲しいほど


寂しかったんじゃないかなって・・・


人は誰でも


子供の頃とは違い


たとえ素敵な事であっても


素直に表現することが


恥ずかしかったりして


形を変えて


エネルギーを向けようと言葉を


表現する事があると思うの


人の命の灯火が


消える時期をはっきりとした形で


伝えられた方と過ぎせる時間は


私にとってもたくさんの事を


教えてくれる時間となっているの

















最近オーダーアクセサリーをお作りさせていただく


機会を多く与えていただいて


そのたびに


オーダーいただいた方の


意識と繋がり


その意識を具体的にするために


森林や海


お花が咲き誇る場所などに


足を運ぶのだけれど


そのたびに


その場所にいる


精霊や自然霊の存在を感じ


心・魂の中にメッセージを伝えてくれるの


でもその場所で過ごした感動によって


メッセージをつい


忘れてし合う事があるので


最近は写真に写して


その写真を見つめながら


アクセサリーを製作させていただいているの


そのたびに写真の中に


精霊の存在


自然霊の存在が


オーブと表現されているような


球体となって


映っている事が多いの


この間


自分が求める


自然のある場所を求めて


あてもなく


ドライブしながら


景色を見つめている時に


急に左の手首が


痛くなってきて直感的に


私に何かが


存在を伝えいるのかなって感じ


パートナーに


「この近くで何かあるみたい


なんだろう?」って伝えると


パートナーは周りを


見渡しながら


「あ!あそこにお地蔵様が祀ってあるよ」と教えてくれたの


その現象が


何を伝えているのかとか


具体的には


私にはわからないけれど


最近エネルギーの動きや


空気の変わる境目に


敏感に反応しているみたいなの


言葉で上手に


表現できないのだけれど


強い悲しみやうらみのような


エネルギーが漂い


長い間


吸収している土地は


瞳には映らないけれど


まるで線が引かれているかのように


急に空気が変わるの


そのたび


怖がりな私はその場所から帰りたいのに


なぜか


そのエネルギーが湧き出す


場所へ行かなければ


ならないような導きを受けて


「こわい・こわい」と思いながらも


スムーズにその場所に着いてしまうの


そのたびに


手を合わせながら


「私は何もできないのごめんなさい」と


いつも伝えているの


その瞬間


その近くにある木々が


風もないのに急にざわざわと


答えてくれたり


どこからともなく


石がころがってきたり


私にわかる形で答えを返してくれるの


多くの場合は


そのような場所は


国道などの大きな道から離れた


人に気づかれない場所が多く


足を運ぶ方も少ないので


足を運ぶたびに


優しくまるで


「私の声に気づいてくれただけで


嬉しかったありがとう」と


ささやいているかのように


私の心身に言葉が広がるの


そのような出来事が


訪れるたびに


いつも何もしてあげられない


私の中途半端なエネルギーに


落ち込む事もあるのだけれど


最近は


私がもっと心開いて


すべてを受け入れる準備が


整ったならば今よりも


もっと何か手助けができる方法が


身につけられるんじゃないかなって


自分に優しく


すべての体験に


プレッシャーを感じないように過ごしているの


自然の中に静かに存在している木々の中にも


時々


何気なく背中をもたれていると


急に意味のわからない


イメージが


私の中に広がってきて


その場所で見つめてきたものを


私に伝えてくれているのかなって感じることもあるの


このような出来事をつい


誰かに伝えたくなる


私は


幼い頃から


表現するたび


少し私へ向ける瞳が


変わるのを感じて表現することを


控えてきたのだけれど


今は


このHpを見つめてくださる方や


パートナー・友人


すべての方が


私の伝えたい感動をそのままに


受け取ってくださるので


つい嬉しくって偏見を恐れず


伝えさせてもらっているの


幼い頃は


花たちが毎日


私に伝えてくれていることを表現する


私に心配のあまり病院へ行くことを進めてくる方や


私の母に


そのようなことを表現することを


やめさせるように


忠告してくださる方も


いたのだけれど


母だけは


おもしろがって


「それから・

それからどうなったの?」って


尋ねてくれていたの


そしてまだ幼い私は言葉で上手に


表現できないので


絵に描いて説明をしていたと


大人になってから


母に教えてもらって


そのたびに


たった一人でも私の事を信頼し


真剣に耳を傾けてくれる人が


いることの心強さを知ったの


大人になった今でも


ベランダで


たくさんのお花を植えて見つめている時に


心で対話をしていると


Yes・Noによって


ゆれる動きを変える事を


家族の前でお話していたら


母と弟は


笑顔で真剣に


聞いてくれていたのだけれど


父は


「お前はずっと夢の国に


住んでいるんだな


それよりももう大人なんだから


もっとやる事があるだろう」って


まるで私を


小さな女の子のように


注意しながら


笑顔で


違う心配をしているの


でも説明のできない


不思議な出来事が多く体験してからは


昔よりは


私の言葉に


真剣に耳を傾けてくれるようになったの


独身の頃


その時々


おつきあいしていた男性と


ドライブをかねて


私が暮らす街から


車で4時間くらいかかる場所にある


先祖のお墓参りに行く事が


なぜか多かったのだけれど


そのたびに


すぐにお付き合いが終わって


私の中での


ジンクスのようになってしまっていたから


長くお付き合いしたい相手が


できるとできるだけ


その場所へ行かないようにしていたのだけれど


まるで


つれておいでと


言われているように


その場所へ行く運びになってしまうの


そしていつものジンクスが


実現されて


寂しくなっていたの


それから


今のパートナーと出会った頃


その話を伝えたの


そうしたら


「おじいちゃんやおばあちゃんが


見極めてくれているんだから


それはいいことなんじゃないのかな


逆に


縁があったらうまくいく様に守ってくれるよ」といって


その場所へ足を運んだの


そうして


ジンクスは消え


今の優しい時間が与えられたの


その話の流れを見つめていた父も


ゆっくりと


不思議なことが


この世界にはある事を


感じるようになったみたいなの


数年前には


いつも以上にどうしてもその日に


お墓参りに行きたくなって


パートナーに


お休みを作ってもらって


足を運び


お墓参りの後に


すぐ近くに建っている空き家になったままの


祖父や祖母


そして母が暮らしていた


家があるのだけれど


その家にも必ず立ち寄っていたの


その時も同じようにその空き家の中で


私の内祝いの写真や


のしなどが飾ってあって


その頃


自分が祝福されていた事を教えられ


改めて自分を大切に


しなければって


気持ちにさせてもらっていた場所だったの


でもその日はいつもと違い


必要以上に長く


くつろいで過ごしていたの


そうしたら


外からお家を壊そうと


そのような専用車にのって


操作している方が瞳に映り


驚いて外へ出てお話を伺ったら


もうこの土地はその方のものになっていて


今日取り壊しの日


だったことを伝えてくれたの


もちろん


そのことを邪魔する


気はないので


すぐに立ち去ったのだけれど


あれから数年たった


今でもその家はそのままになっているの


きっと相手の方も


その日に限って


家から血縁関係のある


孫にあたる人間が出てくるとは思わず


何となく良い気がせず


自然に家が


形をなくすのを


待つことにされたのかなって感じていたの


都会とは違い


土地が豊富に


広がっているので焦る事もないようだから・・・


そのような説明のできない


不思議な出来事を


説明する私に


父も理解はできなくっても


真実として


見つめてきた経過があって


最近では少しずつ


信心深くなってきているの


誰の中にも


眠っている感覚ってあって


その方それぞれに


一番理解しやすいもの


一番キャッチしやすいものが


あるんじゃないかなって感じているの


その形を


知る事ができたならば


世界中で伝えられる


超能力や超常現象も


当たり前に起こることだと


感じられる日がくるんじゃ


ないかなって思っているの
















社会生活の経験・体験が


ほとんどない私は


今の時代の流れを


友人たちの会話から教えられる事が多く


この間


とても心揺れる事があったの


友人は今多くの方たちを


導く立場にいて


採用や売り上げなど


様々な事を


管理しているのだけれど


つい最近採用した方が


とても優しく


そのために必要以上に


ひとりひとりを


大切にしてしまうために


時間がかかり


困っているというお話しをしていたの


その方はお年寄りには特に親切で


足場が悪いところなどがあると


ついていって手を差し伸べる方のようなの


でも友人の会社は


スピードが要求される職場で


数字が求められるので


親切なのは


とてもよい事だし


大切なことだとわかっていても


友人としては


管理する立場なので


これからの雇用を考えてしまうと悩んでいたの


そのお話しを聞きながら


日本の社会が


今どのような流れの中にいるのかを感じていたの


会社を経営する立場の方や


管理する立場の方たちにとっては


もちろん数字と時間が


すべてなのは


私にも理解できるのだけれど


なんとなく


悲しい気持ちになってしまったの


お金って確かに


地球上に暮らす間は


命を輝かせたり


継続してゆくためには


大切なアイテムだけれど


人間として大切な資質を


秘めていても


認めてもらえない現実が


スペースによっては


ある事を知り


今世界のなぞとなっている


日本を感じていたの


世界では


日本という豊かな国の国民が


年間何万人も


自ら人生をリタイアしてゆくことに


世界はとても不思議で


あらゆる調査をしている


お話しを聞き


調査されている方たちは


空気や作物様々な


原因を探しているけれど


見つからず


一層不思議が


広がっているようなのだけれど


私が感じていたのは


長い歴史の中で


信じられてきた価値観や


DNAに刻まれてきている


最も輝いている時に


自ら終わりを告げることを


美学と思う


思い込みがあるんじゃないかなって感じていたの


長い間

日本では信じられてきた受け継がれる


価値観があって


その価値観が今


とても揺らいでいる時代だと思うの


でもこの感覚は今だけのものではなく


普遍的に時代が移り変わる時


数年の間


起こることなんじゃないかなって感じているの


今多くの方が


迷いの時を経験しながら


外から与えられる価値観を卒業し


自分の中から湧き上る


新たな価値観に


気づくために与えられている


動きなんじゃないかなって感じているの


友人の職場に働く


親切な彼女も場所が変われば


その親切が最も


輝く場所もあるだろうし


人間としても


尊敬・愛に包まれると思うの


人生って職場で過ごす時間が


大人になると多く


その職場での心地よさによって


人生の光が


強かったり・弱かったりを


感じやすい事もあって


職場での評価によって


人間として自信を持てたりその逆もあると思うの


でも本当は


その小さなスペースだけが


自分を試す場所ではないんじゃ


ないかなって感じているの


ある職場では


評価されなくっても


ある場所では


あなたが来てくれてよかったって


迎え入れてくれるほど


歓迎される場所もあると思うの


今世界中で問題になっている


中国製品も多くの国が


利益だけを追求した結果


生まれてきた問題で


今急に起こった問題ではないと思うの


今だから問題が急に


生まれてきたように映るけれど


本当は


もっとも前から


生まれていた事だけれど


やっと


多くの方が


自分に対して思いやり


優しさを目覚めさせ


真剣に見つめるようになったから


発見できた出来事だと思うの


今の時代は


中国問題以外にも


多くの問題が


表に溢れてきたように映っているだけ


なんじゃないかなって感じているの


一見問題が見つかると


とてもよくない流れだと


思ってしまうけれど膿を出し切って


初めてすべてが浄化され


新たなスタートが


整うものなんじゃないかなって感じているの


今の時代だからこそ


見えている問題だと思うの


それだけ


今の時代を生きる方たちは


本物を見る目が


養われているということなんじゃ


ないかなって感じているの


すべての問題は


経済に繋がってゆく事が


多いのだけれど


経済はもっとも


わかりやすい評価で


そして


最も早い形で望みを叶えてくれる


フリーチケットとして


この世に存在しているけれど


そのチケットを得る事だけが


無意識に目的とし


一生懸命になっても


自分が幸せになることを


置き忘れてしまっては


意味がないんじゃないかなって思うの


受け取り・得たもので


どのように自分を幸せにして


あげられるのかを


忘れてしまわぬよう


歩むことが


大切なんじゃないかなって感じているの



















人との関わりという体験って


たくさんのことを教えてくれたり


気づかせてくれる1つの機会だと思うの


どんなに心広く


あたたかな人であっても


万人に愛され


万人を愛せるとは限らないものだと思うの


人間はとてもデリケートで


繊細な感性を持って


存在しているから


瞬間的な感覚や


抱えている問題


歩んできた環境etc


あらゆるものがブレンドされて


その瞬間会った方に


接しているから


その瞬間のフィーリングで


好感を持ったり


そうではなかったりするんじゃ


ないかなって感じているの


人によっては


優しい思いやりから


合わないと直感的に感じていても


よいところを探そうと努力し


どんなに傷つけられるような


出来事があっても


すべては自分が悪いのだと


思い込んで


努力を重ねられる方がいるけれど


以前にも


書かせていただいたように


イルカが陸にいる動物に合わせて


陸に上がることは


とても苦しく


その逆もつらく


せつないものだと思うの


もちろん一番よい形は


水辺で


お互い無理のない距離に


歩み寄ることができたならば


よいけれど


どんなに話し合っても


理由を説明伝え合っても


わかりあえない関係というものはあると思うの


それがその方たちの


すべての価値観や考え方ではなく


その瞬間


合わないだけなのだと思うの


数年後に


互いに違う体験を経て


出会うことがあったならば


もしかしたら


一番の親友になる事もあると思うの


だから


もし今自分らしく


つきあえないと思っている人たちと


繋がり努力を重ねて


せつない思いで


過ごされている方がいたならば


あなたが悪いわけでも


相手が悪いわけでもなく


出会うタイミングが


違っていただけなので


お互いを責めずに


程よい距離を見つけたり


お互いに


新たな体験を重ねるために


繋がりを一時的に


終えてみることも


いいんじゃないかなって感じているの


人は自然に


惹かれあうもので


努力を重ねなければ


よりそえないのは


逆に不自然なんじゃないかなって感じているの


時々


私たちは優しさというものを


誤解していることって


あるんじゃないかなって感じているの


優しさって


相手の望むものをすべて


手渡すことだけでもなく


自分が泣き顔になっても


相手を笑顔にするものでもないと思うの


優しさって受け取った側が


優しさを収めるスペースを


持っていなければ感じられずその優しさのスペースの


大きさによっても


感じる優しさも違うと思うの違うと思うの


小さな優しさのスペースならば


限定された大きさの優しさしか


受け取る事ができず


それ以外の形や大きさは優しさと


認識できないこともあると思うの


私自身


10年以上前に


とても信頼していた友人との


お別れのときに


私は自分の思いやりのない


至らない事ばかりを反省し


何もして上げられなかった事を


伝えたのだけれど


その友人は

すべての思い出の中にある


よくないはずの出来事までも


「あの事があったから


覚えることができたんだよ」とか


私が思いやりから


自分に手を


差し伸べなかったのだと解釈されていたの


上手に言葉で


表現できないのだけれど


そんな思いにふれた時


優しさって


自分が「これは優しさです」って


手渡すものではなく


受け取った相手が


心に納めるものだと感じたの


だから


その手渡し


収められる大きさが


フィットしている相手ならば


スムーズに


愛の循環が行えるんじゃないかなって感じたの















私たちが見つめる聖人と表現される方たちの


素晴らしいと感じる部分って


自分の幸せや喜びを後回しにして


周りの方へ愛を尽くしていると思い


そのような方たちに少しでも


近づこうと自分の喜び・幸せを


少し後にして


周りの方たちのことを優先的に考え


行動することになれてきていて


逆に


自分の喜び・幸せを


先に受け取ることに


罪悪感を感じたりする事があると思うの


でも本当は


聖人と表現される方たちの


素晴らしさって


瞳に映る親切だけではなく


言葉では上手に表現


できないのだけれど自分の喜びも


後回しにする事なく


人の幸せと重なっていて


自分が幸せを感じるために


人を笑顔に導いていること


なんじゃないかなって感じているの


私の尊敬するマザーテレサは


自分が秘めている自己実現が


多くの方に支持してもらえる


形のものだったけれど


どんな時も


人のためにしていると思ってはいなかったと思うの


それは


自分が幸せを感じるものを


大切に


そして瞳には映らない存在を


信頼し歩んできたからだと思うの


私たちの瞳からは


そんなマザーテレサは


自分の人生をすべて手放し


自己犠牲の上で


多くの愛を実現してきたように映るけれど


本当は自分を信頼し


大切にされてきたからこそ


無償の愛が


スムーズに形となっていったと思うの


日本のことわざの中に


「情けは人のためならず」という


言葉があるけれど私は数年前まで


その意味を誤解していて


人に施しをしたり


手を差し伸べてしまう事は


相手のためにならないという意味だと思い込んでいたの


でも本当の意味は


人のために情けをかけたり


助けているのではなく


巡り巡って


自分によい報いが来るのだから


すべては自分のために


人を助けているんだよっていう意味だと知ったの


この言葉は


とても深い意味があるんじゃないかなって


感じているの


私たち人間は


生まれた環境から


損得がなんとなく


当たり前に備わっていて


小さな出来事でも


損得を強く意識して


計算しながら見返りが


手渡したものよりも大きいと


感じる方だけに


施しをされたりする方もいると思うの


でも本当は


損得計算をしなくっても


神々の計算式という


私たちの理解を超えた形で


平等を司っているんじゃないかなって感じているの


何か施しをしたから


すぐに「これはあの時のよい報いだわ」って


思う形で帰ってくるわけではなく


過去のあらゆる自分の行ないの


清算のために


プラスされ


返ってきていないと映ることもあると思うの


時には


まだ起こらぬ災いを形となる前に


消化してくれていたり・・・


見落とす事なく


神々はどこにいても


どんな悲しみ・笑顔のときも見つめていると思うの


そして自分が望むことの


実現に必要な恵みを


貯蓄しているんじゃないかなって感じているの


その恵みの貯蓄を


自分が必要なときに


引き出す方法が


自分を愛し喜ばせ


幸福にして上げることだと思うの


たとえば


誰かに愛を手渡した時


相手が思ったような形で


感謝が返って来なかった時


つい「あんなにしてあげたのに・・・」という


言葉が生まれてきてしまう事もあるけれど


そんな時には


「これだけの事ができるだけ


私には余力があるのね」と


自分を称えてあげたり


「ずっと幸せだったからバランスを取るために


時には自分から


厄落としをするのも大切」って


思ってみたりするのも


いいんじゃないかなって感じているの


もちろん人への施しは


直感的に自分がしてあげたいと


思うとき行うことが大切で


不安や怖れから


形にこだわって行う必要はないと思うの