2007年3月



人間関係の中では


多くの気づきと


知恵が織り込まれて


いるんじゃないかなって感じているの


時々勘違いしてしまうのは


「謙虚」と「弱気」は


似たように映ることがあるけれど

根本的には


まったく別のものなんじゃないかなって


感じているの


自分の意見を伝えながらも


時には謙虚に


相手の言葉を受け入れる形が


本来の謙虚なスタイルだと思うのだけれど


まったく自分の意見を内に抑えて


相手の意見だけを受け入れることは


弱気なだけなのではないかなって感じているの


でも自分の意見を表現する分量と


相手の意見を受け入れる分量が


フィフィーフィフティーのバランスを


保つことって


とても難しいことなんじゃないかなって感じているの


誰でもどんな場面でも


主人公として過ごしたい


無意識な思いから


意見を


たくさん語る方よりも


自分の意見をうん・うんって


聞いてくれる方を好む人も多く


その思いを感じ取ると


その場・その場に合わせて


自分の意見を


しまってしまうこともあると思うの


でもそっと見つめてみると


わがままに映る方の方が


楽しんで人生を歩んでいたり


知り合い・友人に囲まれ


華やかな時を


過ごされている方が多いと思うの


それはきっと


人が成熟してくると


自分の意見を持たない方よりも


ほんの少しわがままに映る方でも


会うたびに


新しい風を届けてくれる方に


魅力を感じるからなんじゃないかなって感じているの


私の知り合いにも


華やかなライフスタイルを


送っている方がいるのだけれど


え?って何度も思うような


自己流を通して


周りが大変だろうなって


思う方がいるのだけれど


時間と共に


彼女の魅力が


人々に多くのインスピレーションや


ひらめきなど


与えているのを感じたの


そして彼女と過ごしながら


ふっと


「この人はわがまま」って


思っている自分が


一番わがままなんじゃないかなって感じたの


自分の意見を持つ方とペアになると


自分の意見が通らなかったり


彼女のパワーに押されて


自分が予測しているストーリーが順調に


展開しないことで相手への批判的な


感情が生まれてしまうんじゃないかなって感じていたの


もし私が本当に謙虚ならば


そのようには感じることは


なかったんじゃないかなって思うの


私は弱気なわがままを


秘めていたんじゃないかなって感じていたの


でもそんな自分を愛せているのならば


問題はないと思うのだけれど


私の場合は


そんな弱気なわがままな


自分があまり好きでは


なかったので心に思うことと


行動を一致させてあげられるのは


自分だけなのだから


もっと素直に


時が与えてくれる豊かさを


自分のために体験してゆこうと決めたの


それから思っていた通り


私にネガティブな言霊を


手渡してくる方が表面化してきたけれど


その逆に


こんなに面白い人だったんだねって


面白がってくれる人もいる事を


知る事ができたの


人間関係が思うような形にならず


思い煩う


ひとつの原因になっているものには


演じている自分と本当の自分が


一致せず


演じている自分に好意を持って


付き合ってくれている方が多い事も


あるんじゃないかなって感じていたの


周りの方も自分自身も


相手の言葉や雰囲気などから


イメージを持って


付き合い方を形としてゆくから・・・


よく心から信頼できる


親友が欲しいと願われる方も


いると思うのだけれど


もし本当の親友と巡り会いたかったならば


ありのままの


自分でいる事に努力してみるといいと思うの


相手にあわすことに


努力を重ねるのではなく


自分がどのような人なのかを


どこから見つめても


わかるように過ごしていると


あとは相手の方が


判断して縁が強く結ばれてゆくんじゃ


ないかなって感じているの


誰と過ごしていても


心が寂しいのは


その場所に本当の自分が


いつもいない寂しさだと思うの


この広い世界には


たくさんの真実とルール・常識などが


あるように


愛を触発してくれる人も


様々で


人生に最も大切だと思うものも


違っているのだから


すべての人に愛されようとすると


自分が最も愛を交換したい相手から


愛されない場合もあると思うの


そして世界中に暮らす


すべての方が


一人一人違っているのにも


きっと神様が


深い意味があって


この世に誕生させてくれていると思うの


私たちにとっては


不完全な人間たちだけれど


神様から見つめたならば


私たち一人一人は


完璧なプログラムを歩んでいる


尊い存在なんじゃないかなって感じているの

この世に誕生して


年数を重ねてゆく中で


必ず後悔・反省をしてしまうような


過ちや失敗などを


誰もが経験しているとは思うのだけれど


それさえも


神様が


私たちの心・魂の成長として


最も私たちが理解できる形で


体験させていた出来事だったり・・・


私たちはいつも


二つのことに揺れながら


選択することから


自分らしさに気づいたり


自分らしく生きることの難しさと


喜びを感じていると思うの


年を重ねてくると


人に合わせることは簡単に


できるようになるけれど


自分の心に合わせて


過ごすことの方が


困難に感じることがあると思うの


人の意見のままに


行動していたならば


良い結果とならなければ


その意見を言った方のせいにできるけれど


自分が思い行動した事は


すべて自分の責任となってしまうので


無意識のうちに


人に多くを委ねる生き方が


らくに感じる事もあると思うの


でも本当は誰の意見にのって


行動をしたとしても


その意見を選択したときから


もうそれぞれが


自分の人生の責任で


判断し


受け入れたのだと思うの


そして日常の中に溢れている


その瞬間・瞬間の判断の中で


生み出した責任は


大きく見つめたならば


生命に関わることでなければ


ほんの小さな事だと思うの


早いか遅いかの違いであって


それぞれがたどり着く場所は


一緒なんじゃないかなって感じているの


だから


自分で判断することを


怖れることは


ないんじゃないかなって感じているの












数日前神社で祝詞をあげていただき


その数日後


教会で祈りの時間を過ごし


時間がいっぱいある時には


写経を書いていたの


様々な宗教がミックスされていて


違和感を感じられる方も


いるかもしれないけれど


私のとってはこだわりを持たず


宗教がもっとも伝えたいと願っている


愛にふれるバランスを


保つひとつとして


あえてこのみっつの宗教の空気にふれているの


学問としての宗教は


あまり知らない事もあるのだけれど


人間が生きる妨げになる教えは


私の中では


必要を感じないので


それぞれの宗教の中にある


最も愛が感じられる


知恵を


ありがたく頂く機会として


神聖な空気の中に


時々身を置くようにしているの


どの宗教も


深く知り見つめたならば


特色となっている違いはあるけれど


私が感じているのは


古くから人々の心に伝わってきた


教えは時々

伝言ゲームのように初め伝えたことが


人から人へ伝わるうちに


それぞれの主観や時代の常識などが重なって


今の時代にまで


語られている事も


あるんじゃないかなって感じているの


なので現代に生きる


自分たちに不必要なもの


そしてもっとも必要な教えが


一緒になっていると感じているの


少し不謹慎かも知れないけれど


幼い頃から


それぞれの宗教の中にある


美しい演出がもっとも心惹かれて


まるで舞台を見るような喜びがあったの


私の両親は無宗教なのだけれど


母方の祖父が神社を守っていた事もあって


お葬式などは神道が多く


初めて見た時には


なんて美しいのだろうって悲しみよりも


天に昇ってゆく方たちが


巫女さんの舞や神主さんの笛の


音色で


祝ってもらっているような


不思議な感覚を感じたの


そして教会などの場合は


建造物が芸術的で


十字架やマリア様の姿が


やはり芸術的な美しさで


神聖な空間がどの街にもあって


すべての悲しみを共に


喜びに変えてくれるようなパワーを感じたの


そして仏教も


観音様やお坊さんの美しい衣装


そしてお香の香りなど心惹かれていたの


話は少し違うけれど


私の暮らす街では2月になると


毎年雪まつりが開かれ


何日もかけて精密に作られた


大きないくつ物の雪像を


見る機会があるのだけれど


何日も何百人の手で作られた


雪像も3日~4日人を楽しませた後


機械で一瞬にして壊してしまうの


今では美しく整った雪像を見るツアーと


同じくらいに雪像を壊すのを


見るツアーにも人気があるようなの


その光景を見つめながら


その時期になるといつも


仏教の教えを思い出すの


チベット仏教の中に


砂の曼荼羅というものがあって


何人かの僧侶がお経を唱えながら


数日間かけて


緻密に色の付いた砂で


曼荼羅を描き


せっかく時間をかけて


完成させた曼荼羅をまた元の砂に戻すため


一気にこわしはじめるの


そしてそのこわして


元の砂になったものを


祈りと共に


川に流したりするのだけれど


その光景だけを見つめたならば


せっかく何時間も費やし


完成させたものなに・・・と思うけれど


「すべては無常であり空である」という


仏教の教えがあるようなの


私は個人的に感じたのは


「築いてきたものに


執着してはならない」という事を


説いているんじゃないかなって感じていたの


その教えを瞳に映る形で


表現しているのが


砂の曼荼羅なんじゃないかなって感じているの


誰でも


今まで築き上げてきたものを


手放すのは人によっては


今までの自分の人生の証を


失うような感覚に包まれる方もいると思うの


たとえば


学校を卒業してからずっと順調に仕事をし


未来の設計図を手にしたような思いで


未来に向けて


家族計画やおうちの購入など


大きくパーツわけした


スペースを満たしながら


仕事さえしていたならば


何でも思い通りになると


仕事崇拝してきた方も


時代の変化と共に


個人の幸せに意識を向ける方も


多くなってきていると思うの


スペースは満たしてきたけれど


ふっと気が付くと家族の心は


スペースにはなかったり


個人として仕事の肩書きがなくなったならば


自分はいったい・・・と


早い段階で気づかれた方は


ひとりの人間としてという


単位で人生を満たしだしていると思うの


たしかに


社会は肩書きや持っているもので


人を量り


時には説得力が加わり


判断基準のひとつとされる


人たちも多いと思うの


たとえば同じように


仕事ができても資格がある方が


上手にやってもらえるような気がしたり・・・


でも実際は


その方それぞれのセンスもあって


資格がその人を


保障してくれるものではないとは

思うの


今の時代は


人と人との縁が


強く結ばれていないと


表現される方も多いけれど


私は逆で


今までは自分に必要ではなくっても


付き合わなければならない


社会の常識があったけれど


今は無理を重ねてつきあう事を


少しずつ手放して


ある意味で


今まで以上に強い縁を


結んでいる方たちが


多くなってきているだけなんじゃないかなって感じているの


縁が多いから人間関係が


順調なのではないと思うの


その方の心の中にその答えはあると思うの














人間の心は


肉体のコンディションにも


大きく影響を受けるものだと思うの


以前にも書かせていただいたように


思い煩う事がある時や


考え事がある場合は


おうちの中で静かに考える事も


大切だけれど


速いスピードで


前向きな答えを自分の内から


生み出したいときには


歩きながら考えたりお風呂に入りながら


考えたりするといいと思うの


なぜかというと休息する事なく


体の中をめぐる血液が


スムーズに流れているときには


思考もよい方向へと


物事を考えられるけれど


滞っていると思いも滞り


後で考えてみたら何でもないことまで


複雑に考えを巡らせてしまうものだと思うの


それはきっと


足は第二の心臓といわれているように


エネルギーを生み出し


血液の循環と共に


心にもエネルギーが


伝わってくるからなんじゃ


ないかなって感じているの


年齢を重ねると


老いは足からくるとよく語られているように


心のかぜもおへそから下で


生み出されることもあるんじゃないかなって感じているの


日々足を運んでいる


フィットネスクラブへ行くと本当に元気で


前向きな目標を持って


過ごされている方が


多く集まっている事もあって


同じ問題を見つめても


受け答えが


いつも違うことを感じているの


たとえば


どこかのコーヒーショップで


同じ年代の方が数名集まっていて


話し声が聞こえてきて耳を傾けていると


誰かの噂話を


楽しげにみんなで語られていたの


そのような光景は


よくある場面で女性の場合は


特に意味を持たないことでも


コミ二ケーションの方法のひとつとして


共感を得られる話題を探しながら


仲良くなるという


手法を秘めているので


楽しいと思う話題はそれぞれ違うけれど


このような噂話は自分の事を


見つめたり・表現せずに済むので


好んでされる方も多いと思うの


そのような声を聞きながら


その後フィットネスクラブへ足を運んだら


同じ話題をテーマに話を始められた方がいたのだけれど


答えている方たちの言葉が


先ほどコーヒーショップで


聞いていた答えとは違っていたの


たとえば誰かのだんなさんが


リストラにあって奥さんが大変というような


表現をしながら


どうするんだろうねって


周りに語りかけている方に


「そうなのでもかっこよくって


素敵なだんなさんだからうらやましいわ」とか


本題に乗って話し込む事がないの


それはきっとそれぞれが


自分が目的を持って


心身を高めるために


トレーニングをしている場所なので


そのような話が楽しい話題とは


ならないんじゃないかなって感じているの


その時


ふっと単純ではあるけれど


その方の性格に問題があるとかではなく


体が冷えているんじゃ


ないかなって感じたの


私自身も何となく心弾まず


理由はないのにしずんでしまう時には


足・腰が冷たくなっている事が多いの


その事を


意識するようになってから


ネガティブなイメージが浮かんだり


誰かに対して


批判的な思いが生まれてきた時には


太ももなどにそっとふれてみるの


そうすると冷たくなっていて


逆にネガティブな思いを


心が生み出していたのではなく


肉体が生み出していることに気が付いたの


以前何かの本で読んだのだけれど


太ももには


体の熱を生み出す筋肉が


集中している事もあって


その部分を暖めることで


免疫力が高まり


逆に冷やすと


すぐに病気となっている


細胞が活発に働くことが


結果としてあらわれたようなの


あまり運動をされない方でも


ひざに湯たんぽを乗せて


過ごすだけでも


免疫力がすぐに高められると


書かれていたので


意識して


あたためる時間を長く保つように過ごしているの


体があたたかいと


心もあたたかく保てるような気がするの


そんな風にして


自分の心の動きが


体の冷たさに影響を受けて


心の迷路に迷いこまないようにすることも


大切なんじゃないかなって感じているの













この間友人が通っている


カイロプラクティックへ


足を運んだの


その方は


ヒーリングなどもされているようで


心身のコンディションなどについて


とても詳しくって


お話に夢中になっていたの


以前友人が


左側に黄色をつけると


筋肉がほぐれ


体調が良くなると伝えられた事を


聞いていたので


私もあれこれと尋ねたのだけれど


もっと体が整ってからじゃないければ


調べる事ができないようで


色はわからなかったのだけれど


色々と調べていただくと


私は左利きだと教えられ


驚いていたのだけれどそういわれると確かに


何か作業をするとき


左側を使うことが多いなって思ったり


昔から左利きの方は


右脳をいつも刺激しているので


感覚的な能力に優れた方が多いと


言われていたのでなんだかちょっぴり


嬉しかったの


そしてアクセサリーについて


話が広がったとき銀・銅・めっきなどを


使ったアクセサリーは左につけたほうが良いとか


宝石やパワーストーン・純金・プラチナなどは


右につけたほうがいいよって伝えられたの


でも本来は何も身につけない方が


身体にはいいそうで


なぜですか?と尋ねると


宝石やパワーストーンには


強すぎるパワーがあるから


人を惑わしてしまうからだそうです


それは身につけているかたがというのではなく


世界的に宝石にまつわる


不思議なお話があるように


宝石の魔力に惹かれてその宝石を


盗んでしまいたくなるよう


まどわされるとか


様々な事をお話されていたの


確かにパワーストーンは


その方に見合ったサイズがあると


私も感じているの


何となく大きなパワーを頂くために


とても大きな石を購入されたり


身につけたりされる事が


あると思うのだけれど


大きなパワーの石を身につけると


喜びごとが早い段階で


実現される方と持ってから


様々な出来事が訪れて


忙しくなる方がいると思うの


喜びごとが早い段階で形となった方は


きっと自分でも


気づいていないかもしれないけれど


石と同じくらいにパワーが溢れていて


石を持つことで相乗効果によって


すぐに結果となったのだと思うの


そして持ってから


あれこれと忙しくなるくらい


問題が運ばれてきたり


様々な出来事を処理するように要求されたりと


どうしちゃったんだろうって


思われる方もいると思うの


それは


その石が持っている


大きなパワーが働いて


本来ならばゆっくりとクリアにしながら


精神の経験値を高めてゆくものを


早いスピードで高めようと


働いてしまうから


展開される形なんじゃないかなって感じているの


その間は一見


トラブルが多くなったような


感覚になる事もあるけれど


1ヶ月~2ヶ月でその状態は収まり


ふっと気が付くと


数ヶ月前には


困難だと思っていたことを


簡単にクリアしてゆける


自分に気づかせてくれたり・・・


一番良いのは


このような荒行的な形で


高めてゆくのではなく


その時・その時


自分にふさわしいサイズのものを


インスピレーションで手にされながら


ゆっくりと進んでゆかれる方が


幸せを感じながら


高めてゆけるんじゃないかなって感じているの


カイロプラクティックの方が


水晶のブレスレットを右に


身につける事を進めてくださったので


違和感があったのだけれど


心身のスペシャリストの方が


言ってくださるので


スピリチュアルな知識とは別に


右につけておうちに帰ったの


それから


数時間後


久しぶりに体験する


子宮の痛みが


ゆっくりと大きな痛みになってきて


え!?なぜ?って思いながら

きっとこの痛みは良くなるために


神経まで流れをよくするために


私の中で


働きかけてくれているのかなって


思い込んで


ずっと我慢をしていたのだけれど


その時突然


友人から電話を頂き


相談したい事があるので


会いたいとの話だったので


右につけていたブレスレットを左に戻したの


私はいつも誰かにメッセージを


手渡す時には


相手の意識や心と繋がりやすい


左に水晶のブレスレットを


身につけているので左につけたの


そうしたら


うそのようにぴたっと


痛みが何もなかったように消えたの


それで私の感覚を信頼しても良いのか


やはりスペシャリストの先生の判断を


信頼して言われたとおりに


した方が良いのか


少し迷いがあったので


友人数名に相談してみたの


そして結果的に半分・半分を


取り入れてゆくことにしたの


その時先生とお話した会話を


思い起こしながら


「先生は個人差や微妙な違いがあるから


すべて同じではない」といっていたので


やはり自分の感覚を信頼して行こうと決めたの


ただ迷いとなる原因に


なっていた言葉があって


「共鳴作用によって


病の人は悪もの・悪い方向を


選択してしまう」といっていたので


この言葉がずっと残っていたの


精神世界を学んでゆくと


言葉の意味・知識の豊かさが備わって


精神世界を学んでいなかった時よりも


自己判断をする事が


難しくなったりする事ってあると思うの


精神世界って許しや愛について


深く理解する知恵と


自由になるための


翼を与えてくれるものだと


私は感じているのだけれど


周りに対しても


自分に対しても戒律のように


苦しめてしまう知恵になっている事も


あるんじゃないかなって感じてたの


精神世界は


答えがひとつではないので


どの答えを選んでも


相手も自分も自由で


突き詰めていったら


完全に説明できない不思議な世界だと思うの


時には矛盾に溢れて映る世界だけれど


私はそれで良いのだと思うの


たとえば世の中には


数え切れないほどのダイエット方法があるけれど


本来ならば


ひとつでよいはずなのに


こんなに用意されているのは


同じものを食しても


結果に結びつかない方もいたり


性格的に続けられない事から


自分に合ったものをみつけようと


探される方が多いからこんなにあると思うの


そのダイエットで何百人もの成功者を


生み出していたとしても・・・


ダイエット以外にもたくさんの良い方法が


この世には溢れているけれど


自分にフィットするかどうかは


また別なのだと思うの


自分の周りに届けられるすべてのものは


自分が気づかなかった


自分と出会うために体験として


与えられているだけなんじゃ


ないかなって感じているの


一人では体験できない


心の動きによって


自分にとって大切なものに気づいたり


逆に自分が見たくない


自分を相手の中に見て


抵抗という形で相手に対して


攻撃的に接してしまったり・・・


何かの出来事が訪れなければ


知る事のない


ことっていっぱいあるんじゃないかなって感じているの


この世に存在するすべての人が


違っているように


たとえスペシャリストでも教科書どおりには


運ばない事も多いので


すべての人が


自分という存在にいつも愛を送り


信頼しあえる関係を


育むことが


大切なんじゃないかなって感じていたの












最近またまた


お引越ししたい気持ちが


ふつふつと湧き上ってきているの


それで友人に


「なぜ私は


引越しをすぐにしたくなっちゃうのかな~」と言うと


「空間も運も人間の代謝と同じように


早いサイクルの人がいるのかもよ」と言われ


なんだかその言葉が


とても深い意味のあるように感じていたの


辞書で代謝と調べてみると


「古いものと新しいものとが


次々と入れ替わること」と載っていてその言葉に納得していたの


体の新陳代謝も良い人とそうではない人がいるように


ライフスタイルや心・物質etc


すべてに代謝が


それぞれのベースで


備わっていてるんじゃないかなって感じていたの


たとえばスペースの代謝のあまり良くない方は


何十年の前に購入し


忘れたままのものが


押入れにいくつもあったり


逆に代謝の良い方は


お部屋に入っただけで


何を趣味として楽しまれているのか


どのようなテイストのものが


大好きなのかがわかりやすいほど


今必要なもので


囲まれていて過去にとらわれず


気持ちやライフスタイルの


変化と共に手放してきていると思うの


心も同じように


終わったことだから


どうする事もできないことを


わかっていても


どうしても過去の出来事に


こだわってしまう方逆に過去は過去


今の自分がいるのは


その出来事があったからって


新たな思いを自ら生み出し歩まれていたり・・・


私たちはどちらの状態も


体験してきているけれど


意外と代謝が自分が求める


求めないに関わらず


その時々


与えられているんじゃないかなって感じているの


よく人生のサクセスストーリーには


初めは信じられないほど


あれこれと手放さなければならない


選択に迫られて


何もなくなった体験が語られるように


溜め込んだ思い・心・スペースを


幸せになるために


大きな幸せであればあるほど


手放すものも


多くある事もあるんじゃないかなって感じていたの


それは怖れや恐怖を


あおる意味ではなく


人にはそれぞれ


瞳には映らないスペースを持って


この世に誕生していると思うの


そしてその与えられたスペースを


それそれの精神や魂の成長によって


広がり受け取れるものも


大きく・多くしてゆけるんじゃないかなって思っているの


最近知り合った


私の大好きな方がいるのだけれど


その方は


数年前ガンという病になり


今まで勤めていた


一流企業を退社しなければならなくなり


そんな時に


今度はパートナーが天国へと


旅立ってしまい


様々な選択に迫られ


あれこれと手放さざるおえず


手放しながらも


優先しなければならない


経済的な事と自分の健康を


保ちながら暮らすために


自分でお仕事を始められたようなの


初めてすぐは


ただただ誠意を尽くし


利益があまりなかったようなのだけれど


人の支えによって口コミで


気がつくとお勤めされていた時の


3倍まで得られるようになったの


そして自分はいつこの世を去る日が


くるのかわからないという思いがあったようで


逆に今までならば


恥ずかしいなって思うことや


気持ちを抑えた事が


病になってしまったという思いから


人から嫌われても


自分の心の声を優先して過ごしてきたようなの


そうしたら定期健診でガンが消えていたことを


お医者さんに伝えられて


今幸せに過ごされている方なの


彼女のおうちに


遊びに行ったとき驚いてしまうほど


何でもとっておかれる方のようで


おうちを見つめたら過去に


どのようなものに心惹かれ


どのようなものが大好きなのかが


すべてわかるようなスペースだったの


それで私は心の中で


「彼女が今大切なものだけに


意識を向けて健康に


そして未来のために


スペースクリアリングしてください」と


祈ったの


そうしたら


本当に不思議なほど早いスペースで


それは叶えられていたの


数週間後また遊びに行くと


今までドライフラワーなのかなって思うほど


枯れて水がなくなったままのものには


美しい生花が一輪飾られていて


他のスペースも


本当に今の彼女に必要なものだけが


美しく飾られていたの


彼女に


「きれいになったねどうしたの?」って尋ねてみると


「あなたが帰った後


コンポと電話が壊れてしまったので


新しいのに買い換えたの


本当は仕事で必要だったから欲しかったの


あ!あなたのせいのように言ったけど


誤解しないでね」って伝えてくれたの


多くのものは手放したようで


本人もいざ行ってみると


次々と


スペースを美しくするアイデアが


泉のごとく沸いてきて


気がつくと

今の彼女にぴったりフィットした


空間が出来上がっていたようなの


私は彼女の生き方を


聞きながら


ありがたい知恵をいつも頂いているの


彼女の人生も代謝が


その時々


望む・望まないに限らず与えられ


手放さざるおえないものに


いつまでもためらったり


抵抗する事なく


代謝を良くしてきたから


今の幸せがあるんじゃないかなって感じていたの


この地球にあるすべてのものは


代謝し循環する事が逆に自然で


誰もが求める安定期という


とどまっている時期の方が


すくないんじゃないかなって感じているの


誰もが人生を代謝しながら


無意識に


自分を高めていると思うの


人は一時的な


アップ・ダウンで一喜一憂するけれど


ほんの少し先に歩んでみたならば


自分の人生は


幸せなのかもって


思えるものなんじゃないかなって感じているの

















家電がいっぱい並んだ

ショップで

ひとつずつ


説明書を読みながらふっと感じたことがあったの


たくさんの機能が搭載されたものは


高価な価格になるのだけれど

私自身


せっかく便利な機能が


いっぱいあっても


使いこなせない事もあって


最小限の機能で


十分便利さを感じ使うことができるので


家電メイカーがモデルチェンジして


今までなかった機能が搭載されたとしてもあまり意味を持っていないの


人の人生も


同じような部分が


あるんじゃないかなって感じていたの


本当はすべての機能が


備わっているのだけれど


使いこなせなかったり


そんな機能があることに


気づけず


「あれがあれば」「こうだったら」と


使っていない機能にあこがれ


自分自身が


欠陥商品のように思っている方もいると思うの


でも本当はすべて


備わっていてただ人によっては


その機能が必要になる場面がなかったり


使う必要がないのに


なんとなくその使わない機能が


とても優れていて


自分の人生を一瞬にして


変えてくれると思うことによって


幸せのある場所へ


一歩前にふみださない


理由にされている事もあると思うの


新たなことを願いながらも


その事が現実になろうとすると


つい受け取ることができず


心の瞳をふせてしまったり・・・


毎日単調な流れを


手放したいと思いながらも


その場所にいたならば


想像できる範囲での


トラブルで済むという事もあって


とても心地よく


安全地帯ではないにせよ


まったく想像ができない


新しい扉を開くことはわくわくよりも


不安や怖れの方が


強くなってしまうために


自ら作った囲いの中から


出られない事もあると思うの


ただこの感覚に気づかれている方は


たとえその囲いの中にいても


幸せを自分の心の中に


築いてゆけるけれど


気づいていない方は


すべてが揃わない事が


自分の人生の不幸の始まりだと思い込み


なぜかその不幸を


手放そうとはされない事もあるの


周りが


少しでも力になりたいと


望む形のものを手渡しても


不幸を手放したいと


心から本人が思わない限り


どんなに優れた素晴らしいものを手渡しても


使いこなせるかどうかよりも


触れる事もしないままに


なってしまうと思うの


地球上には


優しく思いやり溢れた方が多く


自分にたとえ関係がなくっても


悲しみを抱えている方を


見つめたならば何とか


その悲しみを笑顔に変えようと


手を差し伸べてくれる方も多いと思うの


その思いやりが


どんなに大きくあたたかなものであっても


本人が


自分の幸せを願わなければ


その場所から飛び立つことが難しいと思うの


だから優しさを手渡した方が


責任を感じたり必要もないのだと思うの


そして物事には


タイミングというものもあるので


無理に整えようと


お互いが無理を重ねる事も


ないんじゃないかなって思うの


無意識にエネルギーの不足を


誰かから満たしてもらうために


いつも悲しみ・不安を表現し


過ごされている方もいるので


知らぬ間に


共依存になってしまわないことも


大切なんじゃないかなって感じているの


それぞれに自分の人生を生き


体験することを忘れずに


関わりあう人々との中で


自分へのメッセージを感じ取ったり


何かに気づかされたりしながら


それぞれが


魂の原石を研磨しあいながら


輝く宝石のような


未来を作り上げてゆく事を


神様は願っているんじゃないかなって感じているの












いつも私のHpを


見つめてくださってくれている方から


メッセージを頂き


急に昔の体験がよみがえって来て


とても神秘的な時間に包まれていたの


その方は手術を受けるときの


全身麻酔のとき腕から


キラキラと守護霊というか


守護天使が入ってくるのを


感じられたという


お話しを伝えてくださっていたのだけれど


私も20年位前に


全身麻酔を受けて


手術を体験したときに


とても不思議な体験をした事があったの


手術を受けるときとても不安に


包まれながらも麻酔が始まって


カウントをしていたのだけれど


なぜか私は


麻酔があまり効かなかったようでお医者様も


不思議がっていて


また改めて麻酔を増してカウントを始めて


やっと意識がなくなったの


その意識がない間


私だけの意識の世界では


二人の白衣を着た


存在が前と後ろにいて


私を間に挟んだまま先の見えない


まるで滑り台のようなものに乗り


滑りながらずっと過ごしていたの


背景は真っ白くってたどり着いた場所には


真っ白な光がまぶしくって


少ししか瞳を開けることができない場所で


私を囲み数名の光輝く存在たちが話をしていたの


内容は具体的には


わからなかったのだけれど


その空気が


とても心地よくフアフアとした


私の心身が光に包まれ


私自身が光となったの


そして気が付くと私はベットの上にいて


手術をした証としての痛みが走ったの


その時


言葉では上手に説明できないのだけれど


天界の存在って


私たちが暮らす場所の次元と


違うこともあって姿や存在を


瞳に映す事が難しいんじゃないかなって感じていたの


そして天界の存在は


私たちが意識がはっきりしない


夢うつつの時や


自我を離れた瞬間にしか


感じられないんじゃないかなって感じていたの


もしかすると


守護霊や守護天使なども


錯覚かなって


自分が思うような形でしか


登場を許されていないのかなって感じたり・・・


誰にでも必ず


守護してくれているナイトのような


存在がいつも寄り添ってくれていると思うの


よく自分が願うことは


そのようになるといわれているのも


もしかしたら


寄り添ってくれている


守護霊や守護天使たちが


思いを受け取り


これから通る道を先回りして


整えてくださっていたり


するんじゃないかなって感じていたの













毎日パートナーとの電話の中で


いつも電話を終えるときに


言われる言葉の中に


「脳を退屈させちゃだめだよ」って伝えられるの


パートナーは四国の土地で


毎週末お寺や神社などを巡り


新たなものを見つめる喜びと


様々な小さな悟りの中でそのように感じたようなの


特にパートナーは毎日同じリズムで


仕事と小さな趣味・そして


自宅での休息を


何年も繰り返し過ごしていたこともあって


決してそれが人間として正しく


当たり前の生き方ではないことを感じたのだと思うの


つい最近


私は数年前には


大好きで得意なのかなって思うほど


上手に行えるダンスのプログラムに


1年ぶりに参加してみたの


そうしたら


自分でも驚くほどついてゆけず


恥ずかしいほど踊れなかったの


その事をパートナーに話すと


パートナーは


「よかったねできない事に


参加した方が脳は喜んで活性化してるよ」って


言ってくれたの


確かに


何でもスムーズにできる事は


脳への刺激や


心身の緊張感も少ないから


そう思えば恥ずかしいよりも


意味のある事だったのかなって感じていたの


最近はパートナーも私も


スムーズに行えることや


行う前から


予想できるものではない事に


スムーズに参加できるようになったの


少しお話がそれてしまうかもしれないけれど


脳を退屈させてしまう事は


なんとなく


脳を退化させてしまうんじゃないかなって感じているの


世界中で問題になっているいじめも


脳が退化することによって


動物と同じような思考が


働くことによって起こっていることも


あるんじゃないかなって感じているの


動物の世界では


怪我をしたり


体力的に弱さを見せると


仲間として見つめる事がなくなり


食物として


見つめるようになるので


弱さを見せないように


動物たちは


限界まで我慢をしながら


過ごしているのだけれど


人間も喜びやときめき


感動という刺激を


自分の中に吸収してゆかなくなると


まるで動物のように


ターゲットを見つけ


自分の体力的強さ・自分の恐さなどを


アピールするために


数名で一人の人をいじめるような事を


無意識にしてしまうんじゃないかなって感じているの


人間の場合は


動物と最も違う能力のひとつとなっているのが


自分で幸せを選べるという事なのだと思うの


でも正しく映る人でいなければとか


将来のために


周りがいうすべての事を


備えるためにがんばらなければと


大人も子供も


みんな背負っている荷物がいっぱいで


もうこれ以上


ひとつも持てないような


ぎりぎりの方も


多いんじゃないかなって感じているの


その荷物の重さを


一瞬でも忘れるためのひとつがいじめとなっていると思うの


でもどんなに


ターゲットに荷物をぶつけても


軽くなるどころか


もっと年数を重ねてくるとその行為が


自分の荷物を重たくしてゆくんじゃないかなって感じているの


私たち人間は


喜びも悲しみも・辛さも幸せも


すべてが


魂・心・脳への栄養とする


能力を持っていて


悲しみだけでも生きては行けず


喜びだけでも


深い愛が理解できなかったり


すべては必要なバランスで訪れる事なのだと思うの


世界中には


まだまだ自分の知らない


心躍るような


出来事がいっぱいあるのだから


すべてを悟ったように


何もせず評論して過ごすのは


とてももったいない事


なんじゃないかなって感じているの


年齢を重ねた方の病についても


体質的なものもあるかもしれないけれど


大きな違いは


明日の希望・明日したいことを


持っているかどうかなんじゃないかなって思うの


私たち大人は子供の頃と違って


経験値が高い事もあって


ストーリーがすべて読めてしまうから


おうちから一歩出ると


あれこれと経済的な事まで計算し


たとえば


おうちから一歩出たならば


のどが渇いたら


飲み物が必要乗り物に乗る運賃


そして経済的なこと以外にも


お出かけする前に


おしゃれを整える時間・手間など


あれこれと考えているうちに


もうおうちへ帰ってきたような気分になって疲れてしまい


結局


どこにも足を運ぶ事なく


過ごされている方もいると思うの


でも出かける疲労感よりも


出かけなかった疲労感は


長い間続くと静かにゆっくりと


心身にダメージとなってあらわれてくると思うの


そして小さく積み重ねてきた


節約も一瞬にしてストレスの代償として


なくしてしまうんじゃないかなって感じているの


都会ならばほんの少し歩いたならば


様々なものが用意されているのだから


その空間を


ただ歩いて楽しまれるのもいいと思うの


今までならば気づかなかった


初めてに出会えるかもしれないし


図書館など静かな空間で


あらゆる分野の本を手にするのも


本当に優雅なせいたくな時間にも変えて行けると思うの


大人になると


幸せホルモンが低下することもあって


小さな事に感動しなくなると


言われているけれど


それならば


初めてのことをいっぱい探して


感動を招きよせたらいいと思うの


子供の頃


毎日がわくわくしていたのは


きっと毎日が初めてのことで溢れていて


そして必要以上に経済的なことを


考えない暮らしをしてきたからだと思うの


私たち大人は


良い意味でコントロールが得意なので


このような事を


意識的にコントロールしながらわくわくを


自分の生活に導いたらいいんじゃないかなって思うの


あと何年


この世での体験が続けられるかは


わからないけれどできるだけたくさんの


幸せを見つけられたならば


素晴らしい人生だと


自分が自分をほめられる歩み方が


できるんじゃないかなって感じているの














最近フィギアスケートを


テレビでいつも見ているの


美しい音楽が流れる中で


全身を使って


その美しさを表現される


フィギアスケートは


瞳からも耳からも夢のような


美しいエネルギーを吸収できる


すてきな時間になっているの


数年前までは


友人がフィギアスケートや


アイスショーの仕事に関わっていた事もあって


年に数回


毎年ご好意で見る機会を


与えていただいていたのだけれど


ここ1~2年はフィギアスケートへの


人気が高まってきた事で


シートを用意していただくことも


難しくなって


最近では


映像を通して見るだけになっているの


昔はフィギアスケートや


シンクロナイズドスイミングなどでは意識として


演じられる方たちも


そして見つめる私たちも


ロシアがトップという意識が強く


2位をいつも目指し


祈りと共に


その時間を過ごしてきたけれど


ここ数年は


日本がトップにたどり着くこともあったり


他のアジアの国が上位に並んだりと


この世界でも思い込みを飛び越えて


奇跡を届けてくれているんじゃないかなって感じているの


今まで欧米の方たちがとても優れていて


アジアは少し後ろを歩いているような意識が


どの分野にも広がっていたけれど


欧米とアジアの差は


本当はほんの少しの


事だったんじゃないかなって感じているの


その差は単純に


「知っている」「知らなかった」の


違いなんじゃないかなって感じているの


狭いスペースの中で


絆が強すぎて他のものを見る機会


他のものを受け入れることが許されない


アジアの体質が瞳には映らない


天井を作っていた事もあったんじゃないかなって感じているの


様々な分野でその絆が邪魔をしていて


羽ばたける能力がある方の


足を引っ張っている事も


あるんじゃないかなって感じているの


たとえば自分に光を与えてくれる機会を


与えてくれた方への恩返しのために


次への階段が用意されていても


その場所から飛び立つ事を躊躇されたり・・・


たとえ飛び立ったとしても


お世話になった方から


あまり好意的な思いを持っていただけなかったり・・・


でもいつも感じるのは


恩返しってどこまで続け


どこまで相手の希望にそえば


感謝が伝わるのかなって考える事があるの


光を与えてもらった方は


心の中でどんなに感謝していても


一生を相手にささげるのは


本当の恩返しにはならないんじゃないかなって感じているの


本当の恩返しは与えてもらった光を


自ら大きく育み幸せな笑顔を


いつも溢れる存在に


なることなんじゃないかなって感じているの


そして光を与えてくれた人の


光が本当に愛から


与えてくださっていたのならば


その輝く笑顔を


作る事に関われたこと


お手伝いさせてもらったことを


喜びに感じ


その方自身の人生の誇りになると思うの


アジアの絆の強さが


呼吸を重くしてしまう事から


心の支えとしての


絆の進化が広がってきたならば


きっとアジアから


たくさんの奇跡が多くの方の瞳に移り


奇跡が奇跡ではなく


当たり前の幸福を手にできる


インスピレーションとして


多くの方が笑顔になる


時代がやってくるんじゃないかなって感じているの