2007年11月



毎年・毎年


時間の流れが速く


今の私にとってはきっと


誰もが平等に与えられている


現実には24時間の時間が


半分くらいの


感覚で流れているんじゃないかなって感じているの


時間って時計を見つめながら


時の流れを知るけれど


人それぞれに


時の流れの速度は違っていて


24時間が長く長く


感じられる方もいると思うの


幼い頃は


毎日が新しい体験で


その時の中で


あらゆる感情の


体験もしているので


振り返ると早いけれど


その時には


たくさんの事がいっぱい


重ねている事もあって


凝縮されているのに


時間はゆっくりと流れていた


不思議な時期だったと思うの


個人個人の時間の


流れだけではなく


地球全体の時間の流れも


早くなっているんじゃないかなって感じているの


日付で見つめたならば


つい最近の事がまるで


数ヶ月・数年前のことのように


流れてゆき


次々と新たなものがあらわれて


現代人は


その地球時間の早さに


無意識にプレッシャーと


疲労を感じ


日々過ごしているんじゃ


ないかなって感じているの


今までならば


すべての流れが今よりも


ゆっくり流れていたので


人の心にもゆとりが保たれ


周りのこと・自分の事


過去のこと・未来のことなど


様々なことを


考えたり・イメージしたりする


時間が持てたと思うの


でも今は地球の進化への


シフトチェンジの時期の


真ん中の時代という事もあって


ひとつのことしか


考えられない時を


過ごされている方も多いと思うの


気持ちの中では


あれがしたい・これがしたいと


思いながらも


あるひとつの事から


頭が離れず


結果ひとつのことを


クリアにするまで


動くことができなかったり・・・


私たちはすべてのものと


繋がって生きているから


地球の鼓動や周りの方の


心の状況によって


自分が描くような


速度で進めないこともあると思うの


だから


前に進めないときには


周りの方のせいでも


自分のせいでもなく


そのような時の流れの中に


いるだけなのだと感じ取り


時がすべてを


持っていってくれるまで


自分は自分を高めてくれる


幸せな時間を


探してゆけば


いいんじゃないかなって思うの














繋がっているって


時々


窮屈に感じたり


悲しみに包まれたり


嬉しかったり


心強く感じたり


様々な感覚で


感じることがあると思うの


新たに個人として


出会い繋がった人たちは


自分から溢れるカラーを

「私」という存在として


受け止めてくれているけれど


この世に誕生するために


整えられた家族や親戚などは


また違った願いと希望を


重ねながら


見つめていることがあると思うの


私が病になってから


最終的にどのような形に


歩んでゆくかを伝え


頭ではわかっていても


やはり


未来に繋がる証を


望んでいるようで


ふっと言葉が溢れる事があるの


そんな時


いつも持つ必要のない


罪悪感に包まれてしまい


病の痛みと同じ痛みが


心の中に広がってしまうの


自分で表現するのも


少し変かもしれないけれど


そんな時


人って本当に優しく愛


そのものなんじゃないかなって感じるの


自分が辛いのに


人の夢や希望を


叶えてあげられない事に


心がいたくなったり・・・


私とパートナーは


この問題は数年前に


答えを出しているので


その事で悲しむような事は


ないのだけれど


今は新たに繋がりあう


家族の希望を断ちきらずに済むように


優しいうそを考え中なの


女性って大なり小なり


未来に繋がる存在を


この世に誕生させ


多くの方が納得するように


育ててゆくという事に


プレッシャーを重ね


過ごされている方も多いと思うの


何となく結婚して一人前


子供を立派に育てて一人前という


言葉が当たり前に


日本語の中にはあって


どんなに仕事ができたり


社会的に


ボランティアなどで


貢献されている方でも


人として認められても


女性としては・・・という


表現があったり・・・


実際にスタンダードに


歩んでいる方でも


悩みは外から繋がる


存在から与えられていたり・・・


私の知り合いには


とてもおだやかに


幸せを育み


過ごされている方が


いるのだけれど


ふたりのお子さんが


女の子という事で


お姑さんから


男の子を望んでいるような


言葉を会うたびに伝えられて


無意識のうちに彼女は


今ある幸せに満足していた


自分が消えてゆき


まるで自分がだめな人間だと


思うほどまで


悩むようになっていったの


その姿を見つめながら


人は時々エゴだとは思わず


自分の力では叶えられない夢や


希望を子供に


叶えてもらおうと


無理をさせてしまうことが


あるんじゃないかなって感じていたの


彼女のお姑さんは


お舅さんが男の子を


望んでいる事を知って


お舅さんを


喜ばせたい気持ちが


そのような強いストレートな


表現になっているようだったの


形は違っていても


誰でも愛する人や


大切な人を


喜ばせたいと思う気持ちは


誰の中にも


秘められているものだから


とてもわかるのだけれど


私が感じているのは


自分が喜ばせられないから


誰かに


その事をお願いするのは・・・と思うの


家族間の中では


このような事に


近い体験をされた方も多いと思うの


母親が愛する父親と


若い頃結婚し


ゆっくりと恋人から


家族へと流れてゆく時に


母親は父親の関心が


自分の方に感じなくなると


二人にとって


最も大切で共通の関心となっている


子供を間にし


母親は一生懸命に


繋がりを深めたいと願い


努力し


時には母親がお願いしても


聞き入れてもらえそうにない事は


子供に言ってもらったり・・・


やがてその子供を


新たな家族を作り


巣立ってゆくと


また父親が望んでいることを


母親が望んでいるかのように伝えてきたり・・・


そのような事は


家族という繋がりの中では


よくあることなんじゃ


ないかなって感じているの


でもこの世に誕生するために


整えられた縁も


大切だけれど


自分の意思で選択し


結ばれた縁も


同じように大切だと思うの


恩を感じ


窮屈に感じたり


何でも望みを聞き入れることが


本当に相手への恩返しではなく


本当の恩返しは


個々に幸せを見つけ


笑顔で


いることなんじゃないかなって感じているの


上手に言葉で


表現できないのだけれど


もしも子供に


「生まれてこなければ・・・」と


表現されたり


両親に


「この子さえ産まなければ・・・」って


思って過ごされていたら


どんなにライフスタイルが満たされ


整ったものであったとしても


互いに感謝を感じることがない


さびしい人生だと思うの


個々に幸せを感じられていたら


両親には


「こんなに楽しい時間を


過ごせるのは


両親がこの世に誕生させてくれて


育んでくれたから・・・」という


気持ちに包まれ


両親も子供が


いつも笑顔でこの世に


生まれてきた喜びに


満たされている姿を見たならば


自分たちの歩みをすべて


肯定して


受け止められるようになると思うの


家族ってよい時も


そうではない時も


共に歩む時期が長いので


逆に誰もが秘めている


素直な気持ちを


知る大切な機会でも


あるんじゃないかなって感じているの


世代が違うと


すべての対処法も違っていたり


感覚なども違うし


まだ言葉の表現が


少なかった時代の


両親を持つ方たちの場合は


ストレートに表現した言葉を


そのまま受けとってしまわずに


ほんの少し間を持って


自分の中で何を伝えたいのか


訳しながら


受けとると言いと思うの


時には昔からあった言葉で


あまり好ましくない


表現だと知らずに


なれた言葉として


使われている方もいると思うの


ほんの少し訳すことになれてくると


本来言葉の表現とは違った


ぬくもりや優しさも


発見できるようになると思うの









この間


お葬式の足を運ぶ機会があって


その時の


お坊さんがお話しをされ


そのお話の中で


「今ここにおられる方は


100年以内には


100%天国に召されます


なので悲しむ事はないのです」と


表現された言葉が


とても印象に残っていたの


当たり前の事なのだけれど


日々そのような事は


忘れて過ごしている事もあって


改めて時間の大切さを感じていたの


よく耳にする言葉で


この世でどれだけの事をしたのかが


大切という表現があるけれど


私はこの言葉は


人によっては


大きなプレッシャーとなる


言葉なんじゃないかなって


感じているの


本当は生きているだけでも


この世に誕生した意味を


果たしているのに


それ以上に形として


自分という存在の証を


残さなければって


無意識に心に刻んでしまう言葉だと思うの


最近伝えられるニュースを


見つめるたびに


いつもこの言葉が浮かんでくるの


ただ存在しているだけでは


この世に誕生した意味がないと


無意識に自分らしくない行動をし


疲れ果てて


自らこの世を去る方や


逆に外の世界に


好ましくない形ではあるけれど


自分の存在をアピールするように


事件となるケースなど・・・


人は無意識に


自分の存在価値を


外からも・そして自分自身でも


査定し


決め付けてしまうことがあると思うの


何となく表立って


誰かを救ったり


ありがとうと表現されなければ


自分はよい事が


できたかどうかが


はっきりと知る事が


できないけれど


間接的であったり


気にも留めないくらい


当たり前に人の手助けを


していることってあると思うの


親切をしたと思うときって


意識して行った時で


無意識に当たり前のように


小さな親切を重ねている方も多いと思うの


たとえば


コンビニなどで


自分の後ろに人がいることを


感じたならば


ほんの少しドアから手を離すのを


スローにしたり・・・


それだけで


後ろの方も


スムーズに進むことができたり・・・


でもこのような小さな親切は


された方は


まるでくせのように


当たり前の動作だから


よい事をしたという思いはなく


流れの1つだと思うの


このように小さな親切が


一日の人の気持ちさえ


変えることもあると思うの


私事だけれど


フィットネスクラブに


通っているのだけれど


通われている方も


それぞれの個性と


ライフスタイルでの


様々なものを重ねて


こられている方も多く


その時集まられた方の


心のコンディションで


やはり私も影響を受けてしまい


初めは楽しもうという


気持ちいっぱいで


タイムスケジュールをこなして


いたのだけれど


その時の心のコンディションが


優れない方が多いと


小さな事でも


譲り合いもなく


ぶつかりあいながら


時間が流れる事があるの


そのような時間を過ごしていると


私のほうも


心が影響を受けて


「もう少しずれてくれたらいいのに」など


不満が生まれてきて


ここに何をしにきたのだろうと


思うほど


気持ちが沈んできてしまい


最後にストレッチがあるのだけれど


その時必要なマットを


取りに向かうと


人数分以上にマットはあるのに


みんなが譲り合わないので


スムーズに受け取る事ができず


私はあきらめの中


マットなしで


ストレッチをする準備をしていた時


年齢を重ねてた美しい女性が


私が使う分まで


マットを持ってきてくださったの


その時感謝と喜びで


一瞬にして


私の心は


晴れやかになり


最終的には


よい一日として


眠りにつく事ができたの


きっとマットを


持ってきてくださった方は


まさか


こんな小さな出来事で


私の一日が


喜び溢れたものに


できたなんて


思ってもいないと思うの


でも人の心は毎分・毎秒


クルクルと変化するものだから


このような事は


大げさなことではないと思うの


この場合は


直接的に


親切を与えてもらったけれど


今の時代ならば


ブログやホームページなど


直接対面が無い相手でも


その方が存在し


何かを表現することで


知識をいただけたり


心癒されたりして


本人が気づかないところで


存在価値を


大きく感じてくれている人は


必ずいると思うの


もっというと


何も発信していなくっても


何かを購入したりする事は


その会社に携わる人の


助けとなっているし


今テレビや映画を見ているとしたら


その作品に携わる


すべての人に表現の場を


与えている一人に


カウントされていると思うの


すべては繋がっていて


気づかない範囲まで


大きな存在価値を感じていると思うの


特に大きな事をしなくっても


それぞれが


この時代を創造している


大切なメンバーの一人


なんじゃないかなって思うの









いつの時代も


少数意見と多数意見が


存在していると思うの


そしてその割合も


時代と共に変化したり・・・


たとえば


数年前までは


いじめ問題に対する


イメージや思いも


今とは違っていたと思うの


冷静に見つめたならば


加害者と被害者として


はっきりと答えが出ているのに


その頃は


いじめられる方にも


問題があるとか


いじめられる人よりも


なんとなくいじめている方が


かっこよいとさえ勘違いしている思いの方も多く


まるで自慢できることのように


自分がどれだけ


人をいじめてきたのかを


語られていたけれど


今の時代は時代も変化し


冷静に答えを出せる時代になり


今度はまた少し少数意見と


多数意見の割合が変わり


加害者だったと表現することよりも


被害者の方だったと


表現する方が


時代の流れだと感じ


事実と過去を


変えられている方も


多くなってきていると思うの


なぜかその流れに


最近とても違和感を感じる事があるの


でもきっと


本当の現実とは別に


多数意見の方に流れてゆくのは


生きるための能力が


人には備わっているから


無意識に


変化してゆくのかなって感じているの


多数意見が自分の中に


受け入れられなかったとしても


その場所・その空間では


多数意見に寄り添っていたならば


責任もその人数分で割られ


強く責任を


感じる必要もなく


過ごすことができるけれど


少数意見を表現することは


ピンポイントであらゆるものを


すべて自分に向けられる


恐れがあると思うので


それはとてもまっすぐに


表現できない事もあると思うの


私が感じているのは


本当は心の中で個人個人


誰もが少数意見を持っていて


だから時々


大勢の方と仲良く過ごしていても


寂しさを感じたり


孤独感を感じる事があると思うの


そして時には


誰も私をわかってくれないって感じたり・・・


でもこのような思いは


誰もが体験した事のある思いだと思うの


ただみんなその場所の


空気を読み取り


あえてこの場所で


自分を表現する必要はないと判断し


言葉として表現していることも


あるんじゃないかなって感じているの


だから大人になると


言葉で表現することだけが


すべてではないと思うの


もしまた違う


メンバーや場所ならば


言葉に表現する事も違っていたり・・・


ただ一番気をつけなければ


ならないと思う事は


臨機応変に上手に過ごしていると


思っていたはずなのに


いつもその場の空気を優先する


過ごし方が多くなってしまうと


ふっと気がついたときには


自分は何を考え


何を大切にしているのかっていう


自分の事が


わからなくなってしまう事もあると思うの


そして自分自身が


信頼できなくなったり


周りからも


信頼という強い結びつきが


消えてゆくこともあるんじゃないかなって感じているの


流れに乗るというよりも


流されていた事にはっと気がついたり・・・


空気を読み


時代の流れに調和することは


人と人との縁を繋ぐ


大切な流れではあるけれど


この世に同じ人間がいないという


大きな意味と原点を


思い出しながら


自分という存在に自信を持って


歩んでゆくことが


どんな時も


大切なんじゃないかなって


感じているの











私には


大切なにゃーと鳴く


みゅうという猫の姿をした


娘がいるのだけれど


いつも教えられることが多いの


みゅうはいつも


片時も私とはなれる事がなく


今まで何十匹と


猫との出会いの中


過ごしてきた私でも


感動してしまうほど


私を愛してくれている事を伝えてくれているの


そして当たり前だけれど


言葉を話すわけではないけれど


すべての必要が満たされ


幸せそうに過ごしている


みゅうを見つめながら


尊敬してしまう事があるの


何か必要なものや場面があった時


自分ではできないので


必ず


共に過ごしている人間の家族に


悟ってもらわなければならず


悟ってもらうために


無言で必要を表現し


自分ではできない


すべての事を整え


受け取り


幸せに過ごしている姿から


色々と学ぶことが多いなって感じているの


人間は自分にたくさんの力が


備わっている事もあって


必要以上に


すべてをコントロールしてしまう事が多いけれど


その事で多くの労力を注いだのに


自分が思い描く


結果に整わない事もあると思うの


時々ふっと


本当は私たち個人個人


もっとも望まれる場所


もっとも幸せを感じる


場所があって


自分を幸せにしてあげる


方法や知恵・歩む道を


潜在的に


それぞれが秘めているのに


コントロールという形で


逆に遠ざけているんじゃないかなって感じることがあるの


コントロールすることは


もっとも頭の中で考えた結果


自分の望む世界が


もっとも近いと思う


近道を探し出し選択して


行うことなのだけれど


人間が生きている


この世の不思議なのだけれど


あらゆる生まれてきた意味と


学びと使命などが


複雑に交差していて


その交差したものまでは


想定はできないと思うの


コントロールは


あくまですべての


交差するものがなく


まっすぐに見つめたものから


選択したものだと思うの


確かに人間は


この世があらゆる普遍的に


変化してゆくことは


頭で理解していても


いつも確かな保険となるようなものを望み


安心と思っていたものを


積み重ねてゆくことに


一生懸命になり


それと共に抱えきれないほどの


不安も生まれたり・・・


そのような思いに包まれていると


今ある宝石のような時間に


気づかずに


年だけを重ねてゆく事も


あるんじゃないかなって感じているの


もちろん人それぞれに


何が幸せかは違うけれど


私たちに年齢が存在し


寿命が用意されているのは


その年代・年齢じゃないければ


知る事のできない幸福が


用意されているからなんじゃないかなって感じているの


私の友人で対照的な二人がいて


一人は堅実に


今手にした経済を残すために


あらゆる楽しみを我慢して


着実に手にした経済を


ゆっくりと重ねている方と

もう一人は


今手にした経済で


自分への投資をされていて


いつも手元には


何も残っていない友人がいるの


経済を残している友人は


いつも会うたびに


友人を心配して


「お金がなければ


年を取ったときにみじめだよ」と


現実を伝えていたの


でももう一人の友人は


「だからこそ今が大切でしょ


今できる事をしておけば


それが未来の財産になるでしょ」と表現し


その時々


心惹かれるあらゆる習い事やスクールに


通ったりしていたの


そして元々恵まれた感性とと


容姿もあって


あらゆる事が


小さくではあるけれど動き始めていたの


どちらも歩み方は違うけれど


自分を幸せにしたい気持ちから


今ある時間を過ごしていたと思うの


数年後


経済を残し育んでいた友人は


小さな出費にも


ストレスを感じるようになって


友人たちと会う事も


少なくなっていたけれど


彼女は彼女なりに


自分の人生を


コントロールしながら


思い描くスタイルに近づいていたの


そしてもう一人の友人は


今は講師と教えられるまでになり


全国から依頼を受けて


毎日忙しく過ごしながらも


それでも学ぶことを続け


自分に投資しているの


私は対照的なふたりを見つめながら


どちらが正しいかではなく


後者の友人は


幸せになる法則に無意識にそって


過ごしていたんじゃないかなって感じていたの


経済や思いだけではなく


この世にあるすべてのものは


循環して初めて


意味のある形になっていて


生まれてきた意味を


満たすために注ぐ


必要な経済は


瞳には映らない存在を


信頼し歩んでいたならば


必ず用意してくださるんじゃないかなって感じていたの


前者の友人は堅実的に


今目の前にあるものを


減らさないようにという


意識の中で過ごしていて


後者の友人は


今目の前にあるものを


意味のある方向へと注いだだけの違いだと思うの


でも結果はどちらも


望む結果には整っているけれど


心のコンデイションは真逆になっていると思うの


誰でも人間は


危機回避能力が備わっているから


時には必要以上に


まだ起こらない未来のために


あれこれと


心揺れてしまう事があるけれど


明日よりも今日が


一番自分に若さという


プラスがあるのだから


遠い未来の備えだけで


今を楽しむ事を忘れてしまわぬよう


過ごす事も大切なんじゃないかなって


感じていたの








すべての出来事をよいことか


そうでないことかは


その瞬間

判断することが多いけれど


本当によいことか


そうでないかは


時がもう少し流れなければ


わからないこともあると思うの


過去を振り返ってみると


誰でも経験はあると思うのだけれど


今ある幸せに


たどり着くまで


重なる選択の中で


「何でこうしてしまったのだろう」って


悔やんだり


「どうして私だけが・・・」など


様々に心揺れていたと思うの


でも時の流れが進んだ今


もし笑顔で過ごしていたならば


すべての過去は


癒され正しい選択を


重ねていたことに気づくと思うの


だから逆に


今心揺れて


自分という存在を肯定できず


自分の人生が


とても小さく価値を


感じられなかったとしても


その事がよいことなのか


そうでないのかは


今すぐに判断できるものでは


ないんじゃないかなって感じているの


あらゆる分野で成功された方や


何となく魅力的な方たちは


成功した時


語れるエピソードと


人生をドラマティックに語れる


ストーリーを持っていることが多いと思うの


そのほとんどが


とても辛く苦しかった時を重ね


人生にも人間性的にも


深い色合いを


作り出している時期を


通ってこられていると思うの


上手に言葉では


表現できないのだけれど


その時期ってきっと


自分という花を咲かせられる


整った場所を


探している時期でもあると思うの


よく何をしても


喜びを感じられなかったり


何をしても上手に行えないと


感じられている方は頭の中でだけで


考えて行動し


本当は人生の中に


用意されている


もっとも自分が輝ける


場所を遠ざけている事もあると思うの


自分がパワー不足に


なっている時には


自分以外の


瞳に映る人すべてが


輝いていて


自分以外の人々が


まるで恵まれた人


才能を与えられた人として


特別な存在として


自分とは別なものとして


見つめてしまう事があるけれど


本当はそうではなく


自分の持つ個性と


もっともフィットした場所を見つけ


その場所に感謝と


満足を感じられているだけだと思うの


今成功され輝いている方でも


今とは違った仕事や


国・性別・友人・家族etc


あらゆるものが違っていたならば


今ほど輝いていられたかはとても難しいと思うの


私の友人のひとりで


独身の頃


安定を求めながらも


その思いとは程遠い

日々を過ごしていた友人がいたの


彼女はとても責任感が強く


自分の与えられた場所で


一生懸命に


仕事をしていたのだけれど


なぜだか


その一生懸命さが


トラブルになってしまい


仕事をいつもチェンジしながら


満たされない日々を送っていたの


そして周りも


彼女の姿を見つめ


仕事をいつも変える


無責任な人だと


勝手に思い込んでいたの


でも本当は


誰よりもまじめで


一生懸命なあまり


人よりもエネルギーが


消耗されていて


辛い日々を過ごしていたと思うの


でもある方とご縁があり結婚されたの


それからまるで


今までの人生を取り戻すように


速いスピードで


たくさんの幸せを受け取っていたの


すぐにお子さんが授かり


その子供を通して


繋がれた縁で


出会ったママ友達と


共同経営でビジネスを初め


事業家となって過ごされているの


過去を知る人たちは


彼女がとても変わったと


感じているようだけれど


本当は


何も変わってはいなく


ただ自分という花が


咲かせられる場所を


やっと


見つけられただけだと思うの


彼女は今まで


人と同じ場所では咲かない


自分という花を


無理に咲かせようと


たくさんの水を与えたりして


根腐れしてしまい


栄養を吸収できない状態になっていたと思うの


私たちって時々


誰かのように・・・とか


あの人にもできるのだからと


無理を重ねることがあって


それでも思った結果に


結びつかないと自分を責めたり


周りを責めたりしてしまう事があるけれど


それぞれ違う花を咲かせる


種を持っているだけだと思うの


人によっては


とても厳しい砂漠のような


環境でしか


咲かない花もあるし


逆に光が降り注ぎ


栄養など


すべてが与えられても


根腐れする事なく


綺麗な花を咲かせられる方もいると思うの


そして花にもそれぞれ


種類があるように


一輪で大きく美しく


人の心を一瞬にして


集めるような華やかな


花もあれば


単体で見つめると


それほど印象に


残る事はないのに


小さな可憐な花がたくさん集まり


遠くから見つめたならば


とても美しく迫力がありずっと心に残る


思い出と重なるお花もあると思うの


自分がどんな花を咲かせる


種を持っているのか?


そして自分が自分らしく


輝ける場所を見つける事が


誰かの望む世界を


生きることよりも


もっとも大切な事なんじゃ


ないかなって感じているの


以前に偶然見つけた


相田みつをさんの言葉に中で


とても好きな言葉があるので


ご紹介させていただきますね



「みんなほんもの」



トマトがねぇ


トマトのままでいれば


ほんものなんだよ


トマトをメロンに


みせようとするから


にせものになるんだよ


みんなそれぞれに


ほんものなのに


骨をおって


にせものになりたがる












私は病になってから


あらゆる事に気づかされ


瞳に映るすべてのもを


今まで以上に


深く愛せるようになれたと感じる事があるの


人の人生には


自分が選択しないかもしれないけれど


何となく残しておきたい人生もあったり・・・


それと共に


強く望んでいる他の人生もあったり・・・


人間の秘めている本能って


すごいなって


時々感じることがあるの


頭の中では理解し


次の扉を開いているのに


まるでその事に抵抗するように


肉体に宿っている本能が


何度も何度も私に問いかけてくるの


病になってすぐの数年前は


検査などで


病院に足を運びと


新生児を抱く喜びに溢れた


母親たちを見つめる機会が多く


今ほど心の整理が


できていなかった事もあって


同じお部屋で


私は採血をし


隣では新生児の体重を


測っている時


言葉では上手に


表現できないのだけれど


胸がいっぱいになって


その場から帰ってしまった事があったの


その時の行動が


自分でも


とても不思議だったの


なぜならば


私はきっと今まで


多くの女性が持つ

夢のひとつの


母親になりたいという


思いも特になく


考えた事がなかったからなの


でも時間と共に


本能の方が


強くささやきかけてくるようになり


なぜ私だけが・・・という思いと


待合室で待つ


パートナーの顔が重なり


涙が溢れて


私は自分という存在が


この世にいる意味が


ないのではって


自分を追い詰めてしまった事もあるの


そんな時には


同じ波動のものが


すべて集まり


益々自分を追い詰めてゆくような


言葉と出会ったり


時の流れと共に


大きくなる痛みによって


生きてゆく希望の灯火が


ささやかな小さなものとなっていたの


そんな時友人に


「よく霊能力や他の能力が


授かった人たちは


その能力と肉体のバランスが


取れなくなって


病気になるっていうから


これは仕方のない事なんだよ


あなたのせいでもないし


自分を責めるんじゃなくって


もっとその能力を


育てていったらいいんじゃない?


そして自分を必要としている人の


助けにならなきゃいけない


宿命というか


使命があるんだよ」って伝えてもらったり


HPで繋がる方から


「自分の子供が授からない方は


世界中の子供の母親となる人」という


お言葉を頂いたり


他にもたくさんの光となる


言葉を多くの方から頂き


そのどの言葉も


私の何か深い部分に


光となってストレートに届き


別の人生の扉を開く


勇気を与えてくれたの


本能は人間以外の


すべてのものにも


内蔵された


生存するための知恵だったり


未来の人類に手渡す


種となっていたり


あらゆる役割があるけれど


本能を納得させて


別の人生を


選択してゆくことが


こんなにもエネルギーが


必要な事だとは知らなかったの


もし私がパートナーと


巡り会う事なく


ひとりで過ごしていたならば


見えなかった


人生の選択だったんじゃないかなって感じているの


遅くてもパートナーの予定が


整う春頃には手術をし


もう戻ることのできない


1つの人生が終わり


新たに


未来の扉が開かれて行く予定なので


後悔のないよう


心から溢れるものを


押さえ込まず


対話してゆきながら


心身を整えてゆこうと思っているの


私にあたたかい言葉の


贈り物をくださった方たちの


おかげで今こうして


笑顔で過ごせていることに


言葉では言い尽くせないくらい


感謝でいっぱいなの


互いにインターネットという


時空間で繋がり


瞳には映らない存在だけれど


あなたという存在が


いてくれたおかげで


私は生きてゆくエネルギーを


日々頂いています


本当にありがとう














数年前から


あらゆるものを見つめ


整理整頓するようになって


その流れから


次のステップとして心の中を見つめ


心の旅を続ける中で


本当の自分と出会い


誰かの価値やルール


理想を自分の理想として


安定を保とうとし


逆にその事が


心揺れ動き


不安定を生んでいたことも


見つける事ができたり・・・

そして

自分にとって価値ある

大切なものにも

気づかされたり・・・


誰でも幼い頃には


経験があるとは思うのだけれど


どこかで拾った石を


素直に見つめて


綺麗だからという素直な価値基準で


とても大切にしていたり


どんなに新しいものを


用意されても


愛着のある毛玉だらけの


タオルケットを大切にしていたり・・・


周りの方が


そのものたちには


価値がないと伝えても


自分の価値観を


大切にしていた頃があったと思うの


そして


自分の大切なものに囲まれ


本当に


幸せな安らぎを感じ過ごしていたと思うの


でも大人になると


「この年齢ではこうあるべき」というような


周りからの多くの価値観も与えられ


日々心の酸素が


不足してしまう事って


あるんじゃないかなって感じているの


心の酸素が不足してしまうと


すべての循環が


滞ってしまうこともあって


ある誰かの一言が


いつまでも心に残り


忘れられず


その言葉にこだわる自分が


嫌で何度も


忘れようとしても


消すことができず


まるでその言葉を手渡した方と


本当に過ごした時間以上に


悲しみが広がってしまったり・・・


過去のある出来事や


フレーズが


何度もよみがえり


戻らない過去への執着から


前に歩むことが難しくなったり・・・


心の酸素不足は


心身にゆっくりと影響を伝え


その事を私たちは


自分の性格やくせとして


思い込んでいるけれど


本当は慢性的な


心の酸素不足から


執着やこだわり・依存を


生み出していることもあるんじゃないかなって感じているの


あまりにも忙しすぎて


人から与えられた目標・希望を


果たすためだけに


長い時間過ごしていると


知らず知らずに


周りの方に


自分の心の中で広がっている


言葉を手渡してしまうこともあると思うの


でもその事には気づけずに


「なぜ私はこんなにもがんばっているのに


なぜ誰も私を


認めてくれないの」など


被害者意識が広がって


悲しくなることもあると思うの


周りから与えられた


期待と目標を


自分のものとして吸収するときに


スムーズに吸収できず


受け取ったものを


無意識に周りに


手渡し


軽くなりたい思いから


周りまで呼吸が


スムーズに整わなくなるという


世界が広がってしまうこともあると思うの


今この国の中では


全体的に心の酸素が


不足している中で


過ごされている方も多いと思うの


少し話は違うのだけれど


この間


両親と話していたとき


父親が


「今は大変な時代なんだから


将来のために


備えなければだめだ」と


最近


自由に行動する母に伝えていたの


そうしたら母は


「将来っていつ?


あんたも私ももう十分老後に


入っているんじゃないの(笑)」と


答えていて


私は二人の会話を聞きながら


色々なことを感じていたの


心の酸素が不足してくると


あまりにもまだ起きない


未来への不安で


心がいっぱいになって


今を楽しむ事が難しくなって


いつまでも将来・未来は


遠くになって


その事に意識を向けていたならば


逆に今を


楽しめない理由として


自分を納得させているように


父からは感じていたの


そして父のような世代は


ある部分でとても純粋な部分を


秘めているので


あらゆるメディアから


伝えられる情報を見ては


不安が広がっているんじゃないかなって感じていたの


そして母が表現したように


将来・未来は


遠いところにあるわけではなく


自分の重ねている年齢や


人からの評価ではなく


母親はあらゆる事を


自分で振り返ったとき


やり遂げた


自分に納得の思いから


自分がずっと感じていた


将来・未来は


今という意識があるんじゃないかなって感じていたの


私にとっては


父親は社会的な常識や


ルール・思い込みを


いつもふっと気づかせてくれる存在で


母親は


人間の本来は秘めている


素直な思い・願い・


優しさ・弱さを


教えてくれる存在なの


父親とは


意見がフィットせず


感情的な会話になることが


多いのだけれど


そのたびに父は


「そんな考えでは


社会では通用しない」と


必ず表現し


そのたび私は


「私が幸せなのだからそれでいいでしょ」と


着地点のないまま


過ごす時間が多くあったのだけれど


最近では


「お前が幸せなら


それでいい」というように


優しい父親としての


顔を見ることも


できるようになってきたの


そして両親と会話をしていると


だめな自分が


とても愛すべき存在として


感じられるに


包んでくれていることに


最近とても気づいたの


親もそして私も


時代のシフトと共に


無意識に


よい意味で思考を変えながら


歩んでいるのを感じているの


将来・未来って


遠い場所にあって


突然結果となって


訪れるような感覚だけれど


本当は誰もが


今・将来・未来を


創造しているのだと思うの


そして人生って


数学のように


1+1=2にはならない部分がほとんどだと思うの


だからこそ


人生はドラマチックで


あきることがないように


神様がシナリオを


それぞれに手渡し


この世に誕生してきたんじゃないかなって感じているの


ほんの少し


方向性が変わっただけで


まったく違ったドラマが生まれ


人生を色鮮やかにしてくれる


人々が登場してきたり・・・


よくあらゆる分野で


今輝いている方たちは


今という時の流れを


どんな形のものであっても


受け入れる


前向きな言葉を持っているみたいなの


たとえば


今笑顔になれない体験の中で


過ごされている場合には


もう少し先に待っている


光溢れる場所に


たどり着いた時


あらゆる人と心結べる


共感のために


経験しているんだと思ったり


もっと目標が明確に秘めている方は

成功したときに語れる物語を


今作っているんだって

思ったり・・・

あらゆる形で


笑顔になれないときが


過ぎ去るまでの間


心がダウンしないように


保たれているようなの


誰にでも


人生のバイオリズムがあって


アップ・ダウンは長さは違っても


訪れるものだから


できるだけ


長い間好調期が


留まってほしいことから


波動を大切にされているようなの


最近だと


よく友人たちとの会話で


あらゆるエネルギー源が


値上がりしていて


不安と不満のささやきを


耳にする事が多いのだけれど


よーく見つめてみると


そのような現実の中でも


感謝できる事はあると思うの


たとえばガソリンの値上がりに


不安や不満が生まれたとしても


この不安や不満は


車を維持できる恵まれた


ライフスタイルを過ごしているからこそ


持てる不安や不満だと思うの


そんな風にほんの少し


角度を変えたならば


自分はとても恵まれた中で


過ごしていることを感じ


ゆっくりと


感謝が生まれてくると思うの


その他にも


すべての不安や不満の多くは


ほんの少し


角度を変えて見つめてみると


恵まれているからこそ感じられる


感情だったりするんじゃ


ないかなって感じているの


私も時々


不満を表現しても


何も変わらないのに


不満や不安を


表現してゆくうちに


益々どんどん瞳に映るものすべてが


不安と不満という


フィルターで見つめてしまう事があるの


どこかで読んだ言葉なのだけれど


人間は悲しいから泣くのではなく


泣くから悲しくなるという


言葉があるのだけれど


そのような事って


色々な場面で


あるんじゃないかなって感じていたの


人間の脳は


心身とコンタクトをいつもしているから


脳で楽しいとか幸せって


思い込むように


言葉で伝えていると


脳からの指令で


幸せな時の状態に


心身のコンディションも整ってきたり・・・


だからその逆もあると思うの


不安や不満・悲しみを表現していると


脳がその事をキャッチして


心身も同じコンディションになって


血の巡り・気のめぐりが滞って


心身が冷たくなって


益々自分を


辛くしてしまう事も


あるんじゃないかなって感じているの


女性の場合は共感能力が


優れている事もあって


ふれあう人たちから


よい事もそうではないことも


大きく影響を受けてしまうので


浄化する時間というのが


とても大切なんじゃないかなって感じているの


女性の場合は


多くの場合


審美眼を秘めているので


美しいものを見つめたり


自分自身を美しく


整えてあげたり


好きな音楽を聴いたり


ライフスタイルの中に


たくさんの浄化方法があると思うの


女性は毎日の


何気ない空間の中にあるものを


特別なものにする


才能がとってもあると思うの


ほんの少しヘアースタイルや


お化粧が


美しく整っただけでも


自然に笑顔が溢れて


急に元気が溢れてきたり・・・


女性は母性が


溢れている事もあって


自分の事を後回ししても


誰かの笑顔のためにって


無意識に行動してしまう


大きな愛を持っているけれど


本当は自分の事を


後回しではなく


自分の事を大切に


愛してあげて


そこから生まれてくる


満たされた愛で


誰かの力になってあげる事が


大切なんじゃ


ないかなって感じているの


そうすることで


「私はあの人のことを思って


こんなにもしてあげたのに・・・」という


感情を生み出す事はなくなると思うの


自分を後回しにしてまで


色々なことをしてあげる事は


相手にもプレッシャーを


与えてしまったり


無意識に生まれる


自分の不満を


リプレーしなくてすむと思うの




あなたは


他人の責任をとる


必要はありません


あなたが


他人に対して


負っていることといえば


それは


愛と善意です





この言葉は


ジョセフ・マーフィーの言葉で


無意識に


人の期待や希望に添えない


自分に持つ必要のない


罪悪感が生まれた時や


自分を後回しに


してしまいそうになった時


心に栄養を


与えてくれる言葉なの