2006年11月



ずっと長い間


私は沖縄という土地に惹かれて


何度も旅行という形で


足を運んだりしながら


移住することも


未来の計画にしていたくらいなの


でも2年くらい前に


足を運んで運んで以来


強く思いがあった沖縄への思いがとかされたようなの


その思いが


自分でも不思議に感じて


ある方に


その事をお話していたら


「あなたはその土地・土地で


手を合わせるために


その土地に呼ばれていただけなんじゃないかな


そしてあなたを導いた霊が


納得したら


どんなに強く惹かれていた土地でも


うそのようになんだったんだろうと


思うくらいになるんじゃない?」と伝えてくれたの


その言葉を聴いて


とても深い部分にまで


心の琴線の音色が響いたの


そして


その言葉を親しい友人にも


話したくなって話してみたの


彼女とはいつも共に


旅にゆき


その土地土地で


お互いがそれぞれに


使命をを果たしてきたような気がしていたの


旅行もお互いが


同じタイミングで


その土地に心惹かれて


二人の思いが重なって


速いスピードで


旅へと向かうタイミングがいつも整っていたの


今なぜか


強く四国という土地に心惹かれていて


今友人はどの土地に心惹かれているのか


知りたくて尋ねたら


友人も四国という土地に


心惹かれているようで


その言葉を聴いて


きっとまた早いスピードで


四国という土地へも


足を運ばせていただけるのかなって感じているの


友人との旅行はいつも


レジャーという目的で


予定を立てて


その土地へ向かうのだけれど


なぜかその土地での出会いによって


その土地の歴史の中の悲しみや


霊場に


ふれる機会を与えられる事が多く


今回もそのようなスタイルに


なるのかなって感じているの


お寺が多くあったイメージがあるので


きっとお寺をまわる


旅になるのかなって感じているの


ここで心繋がりあってくださっている方の中にも


同じように


無意識にその周期・周期で


心惹かれる土地からお誘いを受け


そして導かれて


その土地に足を運び


特に変化を感じられなくても


誰かの心を鎮める事の力となっている方も


いるんじゃないかなって


感じていたの


自分の意識って


自分が考える以外にも


繋がりあう地球・宇宙に漂う


エネルギーとも繋がりあっているから


自分の意識だと思っていることも


自分の意識を超えた


働きをしていることも


あるんじゃないかなって感じているの


今までは気づけなかった感覚を


今ならば受け取れることもあるので


過去を振り返って


とても大好きだった事


心惹かれていた土地のことを


思い起こしてみたならば


その導かれて


意味を感じられる方もいると思うの


そのような過去からのひらめきが


未来の光となって


誰もが特別な存在として


今こうして過ごしている事を


受け取れるんじゃないかなって


感じているの















人は何度も輪廻を繰り返し


そのたびに


自分自身が果たせなかった事を


実現しようと課題を秘めて


誕生していると思うの


ミクロの部分では


それぞれが違った使命や目的を持ってはいるけれど


大きな心の瞳で


見つめたらば


共通のノルマがあるんじゃないかなって


感じているの


それは


「自分を幸せにしてあげること」だと思うの


多くの方は


思いやりや優しさに溢れていて


ふれあう方たちには


愛のぬくもりを


届けられているけれど


自分自身には


同じような愛のぬくもりを


与えれいない方も


多いと思うの


それは宗教的な思想などによって


自分を後回しにしても


人へ愛を届けることの方が


最も重要で大切だと


誰もが深い部分に刻まれているからだと思うの


たとえば私の尊敬するマザーテレサは


一見自分のことを後回しにしてまでも


誰かのために生き


その姿が美しく


多くの方に愛の感動を


伝えてくださっているように


映るけれど


マザーテレサは


神様という


存在との繋がりによって


ご自分自身を満たし・幸せになれたからこそ


神様の意思を


お手伝いすることを


心から自分の幸せとしていたので


あれほどに


人生をすべてかけて


愛を表現できたように


やはりまずは


自分の心を満たす事から


すべては始まってゆくんじゃないかなって


感じているの


その時に誰もが与えられている


可能性をどこまで


高められるかということが


この人生で与えられているんじゃないかなって


感じているの


それぞれの個性・能力などは


違うけれど


それそれが自分に与えられている


個性や能力に光を注ぎ


どこまで高められるか


魂の力を試すために


今の環境などが与えられている場合も多いと思うの


失敗によって恥ずかしい思いをしたとしても


それはチャレンジしたからこその


心の体験で


世の中にいるすべての人が


完璧に物事をできたならば


先生という職業がなくなってしまい


困ってしまう方もいるのだから・・・(笑)と


ちょっぴり開き直りにも似た


緩和の智恵を持って


人生を楽しみ

自分という存在を高めるために


心惹かれる事にトライする事も大切だと思うの

私が毎日足を運ぶ


フィットネスクラブには


様々な年齢・職業の方がいるのだけれど


入会してまもない方が


時間の経過と共に


小さな達成感の中で


自信が生まれ


どんどん表情が変わり気がつくと


次々と世界を広げ


それぞれがちょっぴりでもしてみたいと思った事を


躊躇することなく


習い始めていたりする話を


よく耳にするの


そのたびに


スピリチュアルな智恵や知識が


たとえなくっても


実践として高めながら


智恵を自分の中から生み出されている方も


多い事を教えられているの


習い事にも様々なものがあって


玉すだれというものであったり


手品など・・・


今までならば多くの方は


習い事というと仕事や実用的に


生かせる習い事でなければ


あまり意味を感じられなかったり


された方もいたと思うけれど


今は意味や理由は必要ではなく


自分が心惹かれることをする時間が


より自分を高めて


自分の人生を豊かなものとしてくれることを


無意識に感じ


習い事をするされているように


感じていたの


私たちはみんな


最も美しい自分に出会うために


日々様々な努力を重ね


そしてその未来を今築いているんじゃないかなって


感じているの















最近いじめ問題が


多く報道されていて


様々な思いで見つめられているとは思いますが


私が感じたのは


今は何て素晴らしい時代なのかと


とても感じていたの


それはいじめというものは


いつの時代にもあって


特に子供たちの場合は


両親に伝えたとしても


その深刻さを感じてもらえなかったり


逆に学校へ行かなくなったり


転校をお願いしても


「何も悪いことをしていないなら


逃げずに学校へ行きなさい」と言われたり


「学校へ行かなければ


将来どうするの?」などの


言葉を伝えられ


時が過ぎてゆくのを


待つほかなかったりした方も


今までは多いかったと思うの


先生に伝えたとしても問題が表面的に


多くの方に伝わり


益々大きな事となって


先生に相談したことが


次に問題となったり・・・


でも今はそのようなせつない思いで


過ごされている方へ


大人たちが智恵を向けてくれていて


逆にやっとその問題に


スポットがあたる流れが


訪れたのかなって感じているの


どの年代にもどのスペースにも


いじめと感じられる出来事があって


最も人の心を曇らせ


多くのエネルギーが消えてゆく


体験なんじゃないかなって


感じているの


私自身も長い年月


いじめという体験をしたことがあって


出口を見つけられず


日曜日の夕方くらいになると


明日を迎える自分を


整えることでいっぱいになっていて


日曜日には


月曜の朝まで


できるかぎり


長い時間日曜日でいてほしい願いから


眠らずに過ごしていた事があったの


そしてもうこの時間を止めるのは


この世界から


自分が消えてしまうことだとさえ思うようになっていったの


でもなかなか


行動にはできなかったの


それは自分以上に


残された方たちの悲しむ姿が


先に浮かんできたからなの


だから


行動を起こされた方たちは


私が体験した以上に


言葉にできない辛い時間を過ごし


もうひとつの答えしか


出せないところまでたどりつかれた方たちなのだと思うの


でもほんの少し立ち止まって


自分の人生を大きなパーツにして


見つめてほしいの


そうしたら何十年も与えられた人生の


一こまでしかないことに気づかされると思うの


たった数年間の苦しみのために


自らこの世の学びをリタイヤする事はないと思うの


もっとも未来に繋がる


パスポートを取得する時期ではあるから


学校へ行かないということは


職業の選択肢も少なくなって・・・と


思われる方もいるかもしれないけれど


自らこの世の学びを


リタイヤするよりも最良の選択だと思うの


そして逃げるのは・・・と思って


無理を重ねられている方も


与えられた環境が自分に適していないと


感じたならば


違う道を選択するのは


ごく自然なことで


決して逃げているということではないんじゃないかなって


私は感じているの


たとえば


風邪を引いて熱があるのに


どうしても練習しなければと


プールに入って練習したならば


早ければ数時間・もしくは数日の間に


気力だけでは


プールに入れないほど悪化してしまうと思うの


そんな時には


プールとは関係ないけれど


筋トレやストレッチを選択して


過ごし


体調が万全になってから


またプールへ入った方が


スムーズな流れが整うと思うの


たとえ話で上手に表現できていないかもしれないけれど


逃げるのではなく


たくさんある選択肢の中で


進む方向を変える事も大切だと思うの


そして


また自分が必要ならば


向き合える時に


向き合ってもいいんじゃないかなって感じているの


人生は自分が感じているよりも短く


でも現実には何十年もの時を


与えられているのだから


焦ることはないんじゃないかなって感じているの


私の知り合いの方にも


仕事によっては学歴という壁にぶつかって


そのようなことを


何度か体験してゆくうちに


30代になってから


高校資格を取得されたり


大学に進学された方もいるし


学ぶ気持ちがあったならば


それはいくつになっても


可能だと思うの


そして私のように


学歴というものを克服するという


スタイルではなく


別な世界へ


多くの時間を注ぎ


違った学び方をする人もいると思うの


人生って必ずしも


ひとつの道しかないわけではないし


逆に自分の意識だけで


選択し歩むよりも


様々な導きの中で


歩んだほうが


自分らしい人生となる場合もあるから


今を大切に


過ごすことが重要なんじゃないかなって


感じているの











「自分に帰ってきてほしいものを


人に与えなさい


いつも自然に


愛を与えることができれば


帰ってくるのは


愛ばかりになるのです」という


智恵の言葉を


魂に刻みながら


過ごしているの


何かトラブルやアンラッキーな


出来事が訪れたときなど


つい相手のせいにしてしまいそうな時や


自分自身を


過小評価してしまいそうになった時などに


この言葉を大切に実行しているの


小さな事で忘れているようなレベルで


たくさん人に対して


優しくない言葉や思いを


表現したり


心に思ってみたりした事が


その時・その時


時間がたってから


与えられているのかなって思えるようになったの


それからゆっくりと


受け取る喜びはもちろん


与える喜びも感じられるようになったの


そしてアンラッキーな出来事が


他者からもたらされたように


映っているけれど


自分が招き寄せていたことにも気づかされるの


何かスムーズに運ばず


心煩うような


時間の中で過ごされている方は


ほんの少し


今の自分がほしいものを


誰かにそっと手渡してみると


いいんじゃないかなって感じているの


そうすると本当に不思議なほど


手渡したもの以上のものとなって


自分に戻ってくるのを感じられると思うの


この行為は


手渡した相手に


見返りを期待するものではなく


自分の豊かさを


自分の元から分け与えて


初めに手渡した方から


また誰かの元に手渡されて


旅を続け


そして忘れた頃に


戻ってくるのもなんじゃないかなって感じているの


仏教の世界でも


功徳を積むという教えがあるけれど


その教えに


とても似ていると思うの


人を助けたり


人に愛を手渡したりするのは


相手のためにもなるし


そして何より


自分のためになる行いなんじゃないかなって


感じているの












もしも自分が


聖なる存在と強く繋がりたいと


願われる方は


「陰徳」を意識して積んでみるといいと思うの


陰徳というのは


無意識に重ねている徳や


自分が善を行ったり


良いことをした時


誰かにアピールしたりせず重ねる徳の形なの


私が考えるのは


たとえば自分が良き行いをした時


つい人に公言してしまう事があるけれど


そうすると


多くの人たちから


お褒めの言葉や尊敬というエネルギーを


プレゼントとして


受け取ってしまうので


徳を積んでもすぐに払い戻されて


神様からのプレゼントを受け取るまで


届かないんじゃないかなって感じているの


陰徳は本当に


自分の魂の美徳から


できる行為だから


初めは難しく感じる方もいるかもしれないけれど


何度もそのような行為を重ねてゆくと


自然な流れの中で


今の自分がさせてもらえる善行に


気づかされると思うの


善行というと


とても大きな事のように


感じられるかもしれないけれど


毎日徳を積むという機会は


用意されていて


たとえば


自分が歩いていた道にごみが落ちていたのを


拾うとか


これから寒くなる季節になってくると


家族が寒くないように


少し早く起きてストーブのスイッチを


入れてあげたり


家族が眠っている時に


ふとんをかけなおしてあげたり・・・


形はたくさんあると思うの


今までならば


家族がその行為に気づかなければ


「私はこんなにしているのに・・・」という


思いが生まれ


犠牲になっているという意識を


持たれていた方は


本当は犠牲ではなく


陰徳を積む機会を多く与えられていて


聖なる力と


繋がる能力を


強く秘められた方なのだと思うの


「私はこんなにしたのに・・・」という言葉は


言霊の力の中で


すべての行いを


なかった事としてしまう


破壊の力を持っていると思うの


まわりをそっと見回すと


人に対して思いやり溢れ


人のために色々と手助けをし


一生懸命に生きている方なのに


人に愛されず


過ごされている方の多くは


会話のところどころに


「私はこんなにしたのに・・・」という


破壊の言霊を


表現されていることに気づかされると思うの


あるテレビで女性の僧侶の方が


表現していた言葉で


「かんしゃくをやめて苦(く)を


取ったらすべて感謝(かんしゃ)になる」と


伝えられていて


本当にこの短い言葉の中に


たくさんの大切な教えが


込められているのを感じていたの


きっとこの言葉のように


意識を変えられたならば


苦は苦ではなくなり


自分を自分で苦しめていることから


開放し


すぐにでも心地の良い世界を


創造してゆけることを


教えてくれているんじゃないかなって


感じていたの














風水などではよく


女性は4で割れる数字の年齢を


節目に


人生に大きな選択や


出来事と出会うと


伝えられているけれど


そのような流れに思い当たる方もいると思うの


日本では今初婚年齢が


28歳というのも


とてもわかる気がするの


女性にとって20代というのと


30代というのは


とても大きな違いがあるように感じ


今まで真剣に結婚を


考えたことのなかった方たちが


始めて結婚を意識される年齢でもあると思うの


ただ実際は過ぎてしまうと


そんなに違いはないのだけれど・・・(笑)


人生というものを


大きく強く見つめるのも


28歳くらいなんじゃないかなって感じているの


次は36歳かな


36歳くらいになると


結婚という選択をされた方も


そうではない方にも


同じ問題がクロスしてくる時期だと思うの


それは出産という


人生で唯一


タイムリミットのある問題について思いが向かうと思うの


結婚を選択された方も


そうではない方も


「このままでいいのかな?」って


何度となく


浮かんでは消える問いかけが訪れると思うの


そして40代には


自分の問題を乗り越えられ迎えた


年代というのもあって


40代から60代くらいまでは


周りのふれあう人たちとの間で


生まれる問題に


答えを求めてゆく流れなんじゃないかなって感じているの


この世に誕生してから


20代の前半までは


自分という樹木に


水・光・肥料を与えてくれる


存在がいつも


人生に登場してくれて


すくすくと幹を育み


20代からは愛や智恵の実を


自らたくさん実らせられるように


なってゆくと思うの


そして自分という樹木を


強く揺さぶる冷たい風によって


人によっては枝までもが折れてしまったり


たわわに実った愛と智恵の実も


土に落としてしまったり・・・


でもその時


自分が落とした実が肥料となって


更なる強い根を育み


今度は簡単には枝が折れることもなく


時を過ごせるようになると思うの


そして節目節目に


たわわに実った愛と智恵の実を


自ら分け与えられるように


成長してゆくんじゃないかなって感じているの


樹木に実がなり


そのままにしていたならば


今度は風が吹かなくても


自らその重みに耐えられず


折れてしまうから・・・


分け与えられる時期を迎えたときには


大地に自ら落としてあげたり


もしくは誰かが


食べたそうにしていたならば


どうぞって


愛と智恵を分けてあげたり


それが自然な形の


自然界に生命を持つものたちの


生き方なんじゃないかなってふっと感じていたの


だから年齢を重ねれば


重ねるほど


体力と引き換えに


様々な力が備わっているからこそ


今度は


自分の問題ではなく


周りの問題に取り組む機会が与えられるんじゃ


ないかなって思うの


樹木の実も実りすぎて


そのままにしているよりも


分け与えることによって


周りの笑顔を作る


お手伝いができたり


そして何より自分のためになってゆく事って


後になると多いと思うの


もちろん自分の心が


答を導き出せないときには


まだその時を迎えていないので


無理をせずに


次にお手伝いさせていただける機会を


待たれてもいいと思うの


一番最初に自分の心がどのように


ささやき・望んでいるのかを


必ず聞いてあげて


その事を自分の幸せとできるかという


問いかけが大切だと思うの


世間体や誰かへの


アピールのために


たくさんの抱えきれない


偽善を重ねるくらいならば


何もされない方がよいと思うの


時には偽善から始めたことでも


何もしないよりは


形となる事もあるけれど


偽善の対象とされた方が


その事を知ったならば


やはり悲しいと思うの


多くの場合


自分でも気づいていないけれど


人は愛に溢れていて


愛を注ぐ対象が


快く受け取ってくれるのならば


信じられないほど


見返りを期待せずに


愛情を惜しみなく与えられる方が


多いと思うの


ただまだ手渡すだけの


愛情を自分の心の中で


育まれていない方は


与えたい気持ちが先行してしまい


自分の中の愛の泉が枯れてしまい


そこに水を注いでくれるように


要求してしまうことはあるかもしれないけれど


人間とは人と神との間と


言葉で表現されているように


どちらのエネルギーにも


寄り添える存在だから


ある時には


聖母のように愛に溢れていたりかと思うと


誰かの噂話や


ゴシップなどを話しながら


笑顔になっていたり・・・


でもそれも人間だから


体験する心の動きなんじゃないかなって感じているの


ただすべて


自分が今どのような樹木へと


成長していて


どこをケアする必要があるのか?


自分は何を必要とし


何を分け与えることができるのか?


自分では気づいていないけれど


幹が倒れぬよう


支えてくれている多くの支え柱となっている


存在があることに


意識を向ける事ができていたならば


十分人生を高め


歩まれているんじゃないかなって


感じているの













最近友人との会話の中で


「楽しむ」ということをキーワードに


来年は過ごす決意を聞いて


私も本当にこの当たり前のような


楽しむという思いの


心の置き場所を


育んでゆくことの大切さを感じているの


日本人だからなのかもしれないけれど


どこか楽しむ時間ばかりを


選択し生きてゆく事に


持つ必要のない罪悪感や


周りの方への印象として


映る自分を思い


軽やかに生きられない方もいると思うの


でも誰もが


自分として生まれた意味を持っていて


楽しいと思うことも


それぞれの形があったり・・・


その時・その時代・その国の


最低限のルールを守っている中でならば


自分が心惹かれ


笑顔になれることを


選択するのは


逆に自然な流れなんじゃないかなって


感じているの


その自然な流れに


周りが抵抗しているのではなく


自分自身が抵抗し


許していない事も多いと思うの


日本ではよく年齢相応という


年代・年代によって


線が引かれている事もあるけれど


今の時代はその意識もひとつの思い込みとして


いらなくなった思いを流せる


心の川ができているんじゃないかなって


感じているの


昔私が幼い頃は


40代にはもう


新たな未来を築いてゆこうというような


生き方を選択される方は


少なかったけれど


今ではこの世を去るまで


現役で過ごされ


この世を去ったことを聞いたとき


「あんなに若かったのに・・・」と思っていると


実際の年齢を聞くと


違う意味で驚かされることもあるくらい


年齢というイメージを与えない方も多いと思うの


年齢って自分が肉体的に


労わる基準のために


刻印されたものであって


その年齢にふさわしいものを


選択する基準ではないと思うの


年齢を重ね


笑顔で人生を過ごされている方が


多くなればなるほど


これからその方たちが過ごしている


未来へ向かう年代の私たちには


大きな希望となると思うの


私たちは今このときを


選択して生まれてきたのにも


きっと意味があるんじゃないかなって


感じているの


誰かが作り上げた


既製の幸せプログラムに


無理に自分をはめて


生きる時代から


すべて自分で作り上げてゆく


オーダーメイドの人生を


それぞれが許され


与えられている時代なのだと感じているの













私の母は


神秘的な世界を


強く感じ信頼していることもあって


この間弟の幼い子供が


生まれてくるまでのプロセスを語ってから


母はあれこれと


子供に尋ねているようなの


この間は絵を描きながら


母の名前を呼び捨てにし


「だからお前はだめなんだ!」と


突然言葉にしたようなの


まだその子は両親の名前も


答えられないほど幼いのに


母の名前だけは


絶対に忘れず


呼び捨てにして


少し命令系の話し方をするみたいなの


何度も何度も


母が色々質問すると


急に幼子に戻って


もう答えないようなの


その不思議な出来事は


今の母には


とても心惹かれる時間のようで


私に楽しげに伝えてくれているの


私はその話を聞きながら


ふっとその子供は


母に会いたくって


初めに私という母親を


選択したのだけれど


私自身が心身が整わず


私の弟の元へ


誕生してきたのかなって


感じていたの


以前はずっと子供は母親を選んで


生まれてくるという


ひとつの答えだけしか


考えた事がなかったのだけれど


もしかすると


母親になってくれる人を選ぶ


意味が本当は


たくさんあって


ある特定の人との縁を持つために


直接という形が難しい場合


特定の人の深い繋がりのある


子供の元へ孫という形で


誕生してきたり


他にも


この世に誕生するという事だけのために


母親を選び


瞬間家族となるのだけれど


その後施設で育てられたり


養子という形で


本当に会いたい人に


会うプロセスをたどる事も


あるんじゃないかなって感じていたの


人の誕生・魂の旅は


人間が頭で考えられる以上の


自由な大きな心と瞳で


流れているから


そのような形もあるんじゃないかなって


感じていたの


たとえばどんなにお世話になって


どんなに時間を共に


過ごしてきた家族でも


なぜだか心がふれあう感覚を


体験できず


逆に両親よりも


そのそばにいてくれていた人との


心のふれあいを感じられたり


夫婦として心通わず


逆に憎しみを感じながらも


縁を切れず過ごされている中


ご懐妊され


子育てという大変な時間の中の方が


逆に


あんなに切れなかった縁が


自然になくなって


新たなライフスタイルを


歩まれる方もいたり・・・


そのような感覚を体験されている方の中には


もしかしたら


会いたい特定の方と会うために


あれこれと選択して


今の家族・パートナーを選んで


誕生し・誕生をサポートされた方もいると思うの


縁って本当に神秘的で


ドラマチックな人生の物語を


作ってくれていると思うの















最近様々な分野で


活躍される方たちが


口々に


「楽しみたいと思います」など以前とは違う言霊の力を



表現されている事が多く


その言葉を聴くたびに


以前よく読んでいた


聖なる予言の実践ガイドを



思い出していたの


その本の中に


ある男性が自分の夢をかなえるために


いくつものオーディションを


受けていたのだけれど



そのたびに


思ったような結果と結びつかず



んな時に


聖なる予言と出会い
意識が変わってゆくの


今まではオーディションという


少ない与えられた時間の中で



どれだけ自分のよさを



伝えられるかという事を
いつも考え


緊張とプレッシャーで
思うように


自分を表現できなかった自分に気がつき


今回はこの与えられた


オーディションという時間の中で


自分がどんな風に


感じ・行動しようとしているのかを


観察したりしながら



楽しんでこの場を


過ごそうと決意して臨むの



そうしたら



今までならば考えられないほど


自分でコントロールして



どうにか結果を出そうという


思いが消え


自分が自分でいる体験を



楽しんで過ごせるの



そうしたら


スムーズに合格したの


その物語から


いつも感じていたのは


言霊というエネルギーの
強さなの


よくスポーツ選手の方などは



多くの方の期待もあって



周りの方が望むエネルギーを受け取り



自然に


「がんばります」とよく


表現されていたけれどその言葉は


とても大きなプレッシャーを自分へ向けて


発信している言葉だと思うの


その言葉の力を


何となく感じるようになった方たとは



意識して
「楽しむ」という


表現をされているんじゃないかなって
感じていたの


今でも


年齢を重ねた方たちには


「がんばる」と表現せず


「楽しむ」と表現する言葉に


慣れ親しんでない事もあって


とても軽い言葉のように


受け取られてしまう事もあるかもしれないけれど


それぞれが


自分の可能性を高めた結果



選ばれて


その場所へ招かれてゆくのだから


自分のために



選択する事に


罪悪感を持つ必要はないんじゃないかなって


感じているの


私の友人の中には


そのスペースを管理してゆく


ポジションに抜擢され


戸惑いながらも
お受けして


それからすぐに


そのスペースで共に働く方の中から


心無い言葉が聞こえてきたの


その言葉を耳にした友人は


心身にダメージを感じ


そのポジションを


心無い言葉を表現していた方たちに・・・との



思いを
会議の時に


伝えたとたん



とてもできない・無理というような



ニュアンスの言葉が返ってきて


結果的には


友人がそのまま引き受けてゆく事に


なった事があったの


その時友人は


「できない人ほど


あれこれと言ってくるもんなんだね



でもきっと私も責任の重さに


嫌々やっていたから


そういうエネルギーを



周りにも撒き散らしていたのかもしれないな~


自分がこんな立場でいいのかなって


いつも思っていたけど


できると思って


私を選んでくれた人がいたんだから


もっと自信持って


この仕事がいつまで続くかはわからないけど


その中で楽しんでやってゆくよ」と



表現していたの


人は無意識に大きな悟りを


何気ない日常から
受け取り


歩んでいることを


教えてもらった気がしたの


誰でも大なり小なり


今の自分よりも


好印象に演出する場面があるけれど


その思いがあまり強く働いてしまうと


自分や周りを



コントロールすることばかりに


エネルギーが向かってしまい


多くの経験や体験をしていても



心の経験値を高めることまで


届かないんじゃないかなって



感じているの


最近は様々な分野で


新たに伝えられる報告があるけれど



その中で


今までは「悲しいから泣く」


「楽しいから笑う」という



定説があったけれど


今は顔の筋肉の動きが


脳へ信号を送り



感情までもコントロールできるような事が



伝えられていて



「悲しいから泣く」のではなく


「泣くから悲しくなる」


「楽しいから笑う」のではなく


「笑うから楽しくなる」という


逆の発想もあるから


「よい結果だから楽しい」のではなく


「楽しんでいたから


良い結果になった」という事も


あるんじゃないかなって


感じているの