2005年2月







人との係わり合いの中で



相手の方がわがままだと感じ



フラストレーションが生まれる時って



本当は同じくらい



自分自身も自我を



持っていると思うの



何かを計画した時に



プランをスムーズに運ぼうとした時



互いに譲れない部分が表面化し



前に進めなくなると



つい相手の考えがおかしい・頑固・



どうでも良い事に拘り過ぎ・・・など



相手に意識をむけてしまう時があるけれど



きっと相手も同じような思いが



生まれていると思うの



譲れないもの・こだわりは



人それぞれに違うことも多く



歩調を合わせられない部分は



何か新たな答えが



隠れている場合も多いと思うの



人によっては



人とあわすことを学ぶための出来事であったり



もしくは



妥協せずに断る勇気を



実行するためであったり



新たに自分が大切に思う価値観に自分が



気づくための出来事であったり・・・



人との関わりで生まれる思いって



本当は相手が原因ではなく



様々な事に



気づくひとつの出来事なのだと思うの



そう思えるようになると



スムーズに答えを導き出す事が



できるようになって



その問題だけに光を当てる事が



できると思うの



つい初めは



小さな問題だったのに



気がついてしまうと



相手の人格や生まれ育ちにまで



否定的な思いが生まれてしまったり



本当の問題から



遠ざかってしまう事もあると思うの



そのような解決方法を選択し



何度も何度も切ない思いに



出会わないために



ちょっぴり自分の心を



のぞいてみるといいと思うの



そんな何気ない事が



大きな光を与え



問題が問題ではなくなってゆくように


思うの











最近自らこの世を去ってゆく方たちの



データーが発表され



男女共に月曜日が多く



男性は明け方の5時くらいが最も多く



女性は正午が多いみたいなの



そのデーターを見つめながら



感じた事が多くあったの



男性も女性も月曜日から



何気ない日常のスタートとなるために



その前の週末に



その週のストレスを開放できていたら



そのスタートは



重いものとはならないとは思うけれど



週末も自分に帰る時間を作れずに



なんとなく月曜日が訪れたならば



何度も・何度も



スタートラインに立たされて



その日常を何とかしたいと思い



考えても・考えても



この日常から



開放されたいイコール



自らこの世を去るという選択に



辿り着いてしまうほど



光を保てない方も



多いんじゃないかなって



感じていたの



あまりにも自分に厳しく



自分自身を評価し



自分のような人間の未来は・・・など



過小評価から



光が見つけられなくなってしまうと思うの



その過小評価をいつ頃から



秘めるようになってしまったのか?



少し考えてみるといいと思うの



幼い頃両親に



伝えられた言葉から?



それとも恋人から伝えられた言葉から?



上司や仕事仲間・友人から




伝えられた言葉から?



様々な方から伝えられた言葉によって



心にフィルターが



かかってしまったかもしれないけれど



それはあくまで



その方たちの価値観から



見つめた見解であって



すべての方が



思っているわけではないのだから・・・



多くの方の意見と



例え合わなかったとしても



その事が間違っている



わけではないと思うの



人の数ほど幸せの数もあって



ただまだ多くの方は



その事を言葉として



表現する事をしていないだけで



みんなが素直に心を開放したら



思っている以上に



楽しい夢や奇想天外な希望を



持っていたりもするんじゃ



ないかなって思うの



自分だけはどんな時にも



自分を愛してあげてほしい












「癒し」のひとつとして



私たちの細胞の記憶の中に



「水」というものがあるんじゃないかなって



感じているの



生まれてくる前から



母親のお腹の中で



ぷかぷかと浮かんでいたことから始まり



海・滝・湖・温泉etc



そのような場所でも



やすらぎを感じたり・・・



日常なかなか



そのような場所へ足を運ぶ



時間が作れないときでも



お風呂へ入る事で



その瞬間だけでも



モヤモヤした気持ちが和らいだり・・



音として水の音を耳から吸収すると



言葉では表現できない



心地よさを感じたりするのも



きっと意識とが別に



人間の中にプログラムされた



癒しの記憶なんじゃないかなって



感じるの



炎も同じように見つめていると



電気の明かりとは違う



揺らぎに



ほっとしたぬくもりを感じたり・・・



本来時代がどんなに



流れていたとしても



このような何気ない事に



ほっとしたやすらぎを感じたり



できる心を持っているのを感じるの



どんどん時代が進化をしてゆくと



頭で考える事を



現実化してゆける環境が整ってきて



望んだ通りのライフスタイルを



作り上げて行けるようになると思うの



そのような時代の中でも



人が人を愛し愛されるぬくもりを



心の深い部分では求めていて



その部分も



私たちの中の深い部分に



プログラムされた事なんじゃないかなって



感じるの



数年前に



何かの実験で



電話や人間関係が



あまり好きではなくって



人とずっと会わなくても



寂しいと思わない方が



お部屋でひとりで



コミニュケーションが



誰ともとる事のできない環境で



外へも出ずに過ごし



どのような変化が



あわられるかというのを



放送していた事があったけれど



そのように日々思っている方でも



誰かと話したい衝動が生まれ



自分から友人に電話をしていたの



その姿を見つめながら



もし今人間関係が煩わしい



ひとりで過ごす事が好きだと



感じられている方は



きっと自分の意識とは別に誰かが



自分を見つめてくれているからこそ



感じられる



幸せな感情から



生まれる思いなんじゃないかなって



感じていたの



どんなに人間が進化しても



愛する対象とする存在・愛される喜びを



求めているんじゃないかなって思うの



パートナーや恋人



家族だけではなく



ペットであったり・友人であったり・・・



普遍的に変わってゆく



生き方のスタイルの中でも



人間が最も



心から幸せや喜びを感じる事は



そんなに変わっていないんじゃないかなって



とても感じるの











数年前にこの世から旅立った



大好きな叔父の事を



ふっと思い出していたの



叔父は十代で様々な病を持ち



いつこの世方旅立つか



判らないといわれていたけれど



あたたかい家族に恵まれ



50代まで寿命を全うする事ができたの



叔父は亡くなる前の日



家族に



「お父さんのろうそくが



もう短くなっているから



みんな自分事は自分でしなきゃだめだぞ」と



伝えたみたいなの



その時



子供たちは



「じゃー私のろうそく分けてあげる」と



言ったら



笑顔で



「ありがとう。



でも無理なんだ



生まれた時から



長さは決まっているから・・・」といい



子供たちが泣き出したみたいなの



その話を



この世から旅立ってから聞いて



母方の祖父はとても



不思議な力を持った人だったようなので



叔父は自分の死期を感じ取り



家族に様々な言葉を



残していったのかなって



感じながら聞いていたの



その言葉を聞いて



きっと私たちのの中にも



命の灯火が



絶える事なく灯されているのかなって



意識するようになったの



それから



私は祈りや願い事などをする時には



キャンドルを使うようになったの



恋愛などにはピンク系のキャンドルに



相手の名前と思いなどを書いて灯したり



健康や豊かさが必要なときは



グリーン系のキャンドルを灯したり・・・



そのキャンドルが溶けて



自然に炎が消えるまで祈り続けるの



今ではキャンドルの祈りが



私のライフワークとなっているくらい



心が揺れるたびに灯し癒される



大切な時間となっているの












この間


北海道の知床岬に近い羅臼町で



流氷に閉じ込められ



流されてきた多くのシャチたちが



泣き声をあげながら



命を消してゆく姿が



ニュースとして流れていたの



私は幼い頃



母と「オルカ」という



シャチの映画を見に行った事を



思い起こしていたの



シャチってとても頭が良く



感情も豊かな印象があったので



どうにかならなかったのかなって



不思議な思いに包まれていたの



ここ数年の間に



一番地球と繋がりあっている



動物たちは



人間には感じられない



地球の変化をそのまま受け止め



行動するために



様々な形で



メッセージを



伝えてくれているんじゃないかなって



感じていたの



以前渡り鳥が方向を



間違えて飛び立ってしまったりかと思うと



渡り鳥がいつまで立っても



旅立つ事がなくなってしまったり・・・



動物たちはシックスセンスだけで



行動し生きている存在だから



言葉を超えた



目に映らない周波数を感じたり



温度を感じたり・香りを感じたり



とても優れた能力が



最大限に生かした生き物だから



今はその事を生かし



地震予知をペットの動きなどから



研究されている方もいるみたいなの



私の実家に住んでいる猫も



何もいない壁に向かって怒ってみたり



すごいスピードで逃げてみたりして



私たちの目には映らない



存在を感じているのかなって



思うことがあるの



よく人間の中の勘の表現に



動物的勘という言葉があるように



私たちの中にも地球の仲間の証として



同じような勘という



宝石を秘めているんじゃないかなって



感じていたの












以前Hpを



いつも見つめてくださっている方から



日本列島は



龍にたとえられているのを



教えていただいた事を



ふっと思い出していたの



最近多くのニュースの中で



輝きましている年齢の子供たちが



加害者や被害者になる出来事が



日々伝えられていて



その場所などを日本地図で見つめながら



人間で言うと胃や



お腹の辺りなのかなって



思いながら



無意識にシンクロしているのを



感じているの



人間は心煩う時間が



長くなってくると



胃がサインを送ってきたり



生きてゆくうえで



生命の輝きを失いかけた時



お腹の辺りからサインが



伝えられたりするから



このようなニュースは



何か大きな意味が



あるんじゃないかなって



感じているの



最近私の頭の中に



急に「静岡」という言葉が



何度も何度も



浮かんでは消える事があって



「静岡」で何かあるのかなって思いながら



また以前のように



具体的なことまでは



わからず



自分自身に少しはがゆさを感じているの










今日は久しぶりに



春めいた光に誘われて



本屋さんへ足を運んだの



たくさんの本が並ぶ中



アダルトチルドレンについて書かれたものに



以前からとても興味を持っていたので



その本を購入して



お気に入りの喫茶店で



読んでいたの



その中に書かれている事の多くは



日本で暮らす



私たちが大なり小なり



秘めたものが多いように感じていたの



相手の気持ちがわかるからこそ



自分を時には偽っても



その場所の空気を



大切にしてしまったり



お世話になった方だからこそ



自分の意見が



伝えられなかったり・・・



私がとても心にとまった部分は



「責任を取りすぎる」「責任を放棄する」という



部分だったの



誰かの悩みや出来事を



伝えられた瞬間から



まるで自分の問題のように吸収し



解決の責任があるかのような思いに包まれ



相手の方と同じような気持ちが続き



会っていない時間でも



その問題が気になっていたり・・・



それとはまったく逆に



人からの評価を



あまりにも気にしてしまうために



初めから何もせず



狭い自分のエリアから出る事を恐れ



自分から何も発言・行動・



発信しないという



特徴を持つ部分だったの



何を持ってアダルトチルドレンと



表現されるのかは



とても難しいけれど



生きずらさを感じ



心の大きな障害と



なっているか?いないかが



大きなポイントなのかなって



感じていたの



「・・・ができるからすごい」



「・・・だから好き」と



何気なく表現するほめ言葉も



お互い伝えられると嬉しく



大きな力になるけれど



そのような言葉が時には



自然の自分を表現できない



ひとつとなる場合も



あるんじゃないかなって思ったの



周りから条件付で



受け入れられていると



思い込んでしまい



自分が自分を見つめる時にも



ありのままの自分を愛する事が



なかなかできなくって



自分が自分を愛するための



条件のリストのようなものが溢れ出し



出来ない自分を



許せなくなってしまったり



追い込んでしまうことにも



なってしまうと思うの



私自身の事をふっと振り返ってみたの



親子関係の中で様々な事を



学ぶ機会があって



今思うと



両親を悲しませたくないという



意識的なもので



見えなかったけれど



本当は現実を直視しする事を



ずっと避けていたように思うの



普通ならば



自分が望む事を伝えられた時



次の扉が開かれ



達成感にも似た思いに



包まれるはずなのに



私の場合は



両親に伝えた事で



なぜか罪悪感のようなものが



強く大きく生まれてしまい



伝えられた両親よりも



伝えた自分が



辛くなってしまうような



複雑な感情がずっと



私の中にあって



その現状を我慢する事の方が



まだ楽なようにさえ



感じていた事があったの



その思いは



誰にでもあるものだと



思っていたけれど



パートナーと話したり



知り合いのカウンセラーの



お仕事をされている方と話すたびに



その思いは優しさから



生まれるものではなく



自分の人生を生きようとしていない事だと



初めて教えていただいたの



それ以来



少しずつではあるけれど



自己表現をできるようになれたの



パートナーと出会ってから



一度も言動・行動について



否定された事がなく



いつも「そのままでいんじゃない」って



言ってくれて



その年月が



私の大きな自信の種となって



いるように思うの











今日真っ白な小道を散歩しながら



木々たちが喜び・まるで



私に話しかけてくるような



ささやきを感じたの



しばらくその木々を見つめながら



感じた事があったの



私たちは何一つとして



本当は自分が所有しているものは



無いんじゃないかなって・・・



例えば土地や車・お家・etcも・・・



一時的に人間が作った



権利のようなもので



地球から借りているだけのように



感じていたの



もしかすると



自分自身の肉体も



魂が宿れる肉体を借りていて



時としてまるで権利費用のように



メンテナンスが必要になったり・・・



すべての中で



唯一自分のものと言えるのは



心と魂だけなのかなって感じていたの



そして魂や心の表現が肉体へと伝わり



表情・ファッションなどの



個性が表現として



人の目に映る自分になっているように思うの



魂や心のエネルギーが



小さく元気がないときなどは



自然に声も小さくなってしまうのは



背中の羽根が閉じたままに



なっているからだと思うの



人間の身体は



心や魂と繋がりあっていて



心のエネルギーレベルが



背中に伝わりやすくなっていると思うの



背中が痛くなっている時には



東洋医学でも伝えられているように



反射する内臓からもエネルギーを



必要としていると思うの



自分の深い部分から伝えられる



小さなサインに



見えてくるものも多いと思うの



答えを見つめられるエネルギーが


湧きあがらない時には



頭で考える事から



まず一時的にでも



自分を解放してあげて



そっと胃の辺りに手を添えて



「いつもありがとう大丈夫よ」って



言葉をかけてあげるだけで



肉体のメンテナンスはできると思うの



必ずその言葉を身体は聞いていて



吸収しエネルギーを



もらえているはずだから・・・