2005年11月










私は以前



よく予定を変更し



自分が立てたプランを



実行しない事があったの



特別重要な



プランではないものばかりなので



周りの方に



影響があるものではなのだけれど



何度も・何度も



自分がプランを立てるたびに



まるでそのタイミングに



スポットをあてたように



その日のその時間に



友人からのお誘いがあったり・・・



そんな出来事が度重なるうちに



やはり



この出来事には



もっと自分が気づかなければいけない



答えがあるんじゃないかなって思って



考えてみたの



初めは誰かに影響を



もたらすものではないのだから・・・と



思ってみたり・・・



でも長い間



この問題に光を当てるうちに



この問題だけではなく



自分の人生を通して



共通する答えを



見つけられたの



それは



自分の自信のなさや



必要以上に相手の気持ちを



感じ取ってしまい



相手の気持ちを優先し



自分の気持ちは伝えられないまま



自分のプランは



まるでなかったかのように



過ごしてしまっていたんじゃないかなって



感じていたの



もちろん



新たに組み込んだ



プランはプランで



楽しいひとときを与えてくれて



とても輝く時間ではあるのだけれど



いつも自分の立てたプランを



変更してしまうという



プロセスを辿ってしまうと



心の健康が



保たれなくなってしまった時



被害者意識のようなものを



作り出してしまう



種にもなってしまうのではないかなって



ふっと感じていたの



周りの方に



自分のプランを伝えないまま



相手の方の思いを優先する



選択をしたにもかかわらず



自分が周りの方を必要とした時



相手の方が



自分の思いを優先して



受け止めてくださらなければ



きっと



「私はいつも相手の事を思い



こんなにしているのに・・・」などの



勝手な思いが



生まれてしまうかもしれないなって



思うの



人間はいつでも



心が健康を保てるわけではないのだから・・・



このような答えを素直に感じながら



自分の目の前に訪れた出来事から反省と



本当に気づく必要のある答えと出会えると



すぐに



その答えが正解なのか?



メッセージが届けられるから



不思議なの



このような答えと巡りあって



数時間後に



友人から電話を頂き



約束していた時間に会えない事を



伝えられたの



その事によって



もう一度自分で消し去ってしまった



プランがよみがえり



友人ともスムーズに



お互いにとって



ベストタイミングな時間に



会えることになったの



このように



何度も人生に登場する問題って



きっと誰の人生にも



組み込まれていると思うの



何気ない出来事だからこそ



度重なっていても



あまり気づかないまま



自分の人生にゆっくりと



影響を与えてゆくんじゃないかなって



感じているの



何度も訪れる出来事の多くは



深い気づきが必要とされ



勇気を持って



自分の心を見つめられるようになると



反省が生まれ



自分の中で自分を信頼するという



とても大切な軸のようなものが



生まれてくると思うの



そのような心の瞳で



すべてを見つめられるようになると



いつも目には映らない



大きな存在に日々守護されている



喜びと安心感に



包まれてゆくと思うの








「場の記憶」が秘めている



エネルギーに



最近心惹かれているの



引っ越して間もない事もあって



お部屋のチューニングに



お香を探していたのだけれど



甘いフレグランス系のものが多くって



どうしようかなって思いながら



ベストタイミングを



待つ事にしたの



そう思っていたら



すぐに遠くの町に暮らす



ソウルメイトから



私が待っていたお香が



届いたの



それは京都のお寺を参拝しなければ



いただけない



場の記憶を吸収した



お香だったの



早速玄関から



すべてのお部屋へお香が



行き届くように



扉をすべて開いて



流れる煙と安堵の香りに包まれながら



いつの間にか眠ってしまったの



夢では



その香りがまるで導いてくれたように



京都の地に招かれていたの



京都はとてもパワーが集中した場所で



災いなどが少なく



守護されている事もあって



貴重な骨董なども



様々な時代の中



形を失う事なく保たれていたり・・・



そして場の記憶やエネルギーが



溢れているのか



時代が流れても



日本という国の伝統が



多く残された場所だと思うの



ここ数日京都に思いを馳せていたら



また京都と縁のある方から



メールを頂いたり・・・



無意識とはいえ



互いに魂や心の思いを送受信しあい



繋がりあっている事の神秘性に



改めて



感動と感謝が溢れていたの








何か



いつも出来事と出会うたびに



不満が生まれ



満たされない思いに



包まれる時って



自分の心が



健康を保てないときだけではなくって



別の方向から



光を当ててみると



自分で見つめないまま



しまっている部分に



すべてを満たしてくれるものが



ある場合があるんじゃないかなって



感じているの



何を見つめても



何を手にしても



何を聞いても



心振るわせる感動や楽しさなどが



心に生まれてこない時



他に1番心を満たしてくれるものが



必ずあると思うの



たとえ自分が気づいていたとしても



その心を満たしてくれる事に



まっすぐに



瞳を向ける事によって



必要となる時間や経済・パワー



そして愛する人の理解など



様々なゲートを越えなければならないと



思っていて



考えただけで



エネルギーの消耗を感じて



いつも目の前を



流れてくるものだけで



自分を楽しませてあげよう



自分を満たしてあげようと



しているだけなんじゃないかなって



思うの



身の丈にあった歩みは



とても大切だけれど



浮かんでは消している



笑顔を作り出す



楽しい時間も



何よりも大切だと思うの



人生は頭で考えて形となるような



ロボットのようには



進んでは行かないと思うの



人は心を授かり



その心により動かされ導かれ



自分が考えていた以上の



人生の芸術となってゆくんじゃないかなって



思うの



自分の頭で考えたプランは



ひとりっきりだけではなかなか辿りつけず



誰かとふれあいの中で



心が広がり



違うステージに導かれてゆく事も



多いと思うの



人間は自分で意識している以上に



大きなエネルギーを秘めていて



そのエネルギーを全部出し切って



新たなエネルギーと交換できない機会の一つに



ストレスというものを



感じてくるんじゃないかなって



感じているの



そのエネルギーの循環は



自分が心動かされない時間の中では



出し切る事も出来ず



エネルギーを受け取る事も



難しいと思うの



頭を使うのではなく



心や魂のストレッチとして



楽しい時間を過ごしたり



ずっと欲しかったものを手にしてみたり



ダイレクトに人とのおしゃべりなどで



人は未来をあきらめない大きな力を



育んでゆけるものなんじゃないかなって



思うの



その大きな力は小さな一歩で



簡単に手にする事が



出来るんじゃないかなって思うの



よく人間の肉体は



魂の乗り物と表現されるように



一番大切な魂を収めている



自分自身を喜ばせてあげる事は



神様が一番望んでいる事だと思うの



きっと



この世界に生まれてきた



使命のひとつなんじゃないかなって感じるの



心通わせる友人が欲しいと



願っているのならば



自分自身が人から好かれようと



頑張ってしまうのではなく



自分が自分に正直に



そして自分が望む人に自分がなれば



きっと嘘のない心通わせてくれる



友人を導いてくれると思うの



何かいいことがないかなって



願っているのならば



まず誰かの評価ではなく



自分が自分を



すぐに笑顔に導いてくれるものを



自分自身に



プレゼントしてあげたらいいと思うの



そうする事で類友の法則で



喜びにはまた喜びを



運んできてくれると思うの



魂を収めている宝石箱となっている



自分自身の姿を



時々鏡で見つめて



笑顔になれるのならば



魂はいつでも



あなたの願いを聞いてくれる



準備は整っているという



サインだと思うの











今中国のある村では



大きな問題が



生まれているみたいなの



人間の歩みの歴史の中で



いつから生まれたのかはわからないけれど



女性よりも男性の方が



優れた位置に置かれていて



世界的に歴史を見つめても



男子を授からなければ



母親の地位のようなものまで



左右されてきた時代があって



その思いは何百年立った今でも



思い込みとして守られている方や



地域があるみたいなの



今中国では



先進国とは逆の政策が



ここ何十年進められていて



一世帯に子供を



一人だけにするように



伝えられているほど



人口が膨れ上がっていて



たった一人となるのならば



多くの方が



絶対に男子以外は望まず



その事が時間を重ねて



多くの問題を生み



今問題となっているの



男子はその家系の名前を残し



受け継いでくれるものと考えているのに



今度は多くの方がそのように



男子を望み



行動された事によって



ある小さな村や町などでは



女子がほとんど誕生していない事もあって



結婚できない男子が



多く溢れているの



このような問題って



事柄は違っていても



世界中に溢れている思い込みを



伝えてくれているのではないかなって



感じていたの



これだけ進化した日本の中でも



結婚をし子供を授かった時



年を重ねられてきた方たちは



口々に



男子を望まれているような発言を



耳にする事があるの



私のおうちはきっと



一般的な方たちよりも



守らなければならないものもなく



オープンで開かれた自由な



おうちなのに



それでもお嫁さんが子供を授かるたびに



お嫁さんはプレッシャーがあるからなのか



「お父さんもお母さんも



次は男の子が欲しいでしょ?」と訪ねてくるの



もちろんそんな時には



私の両親は



「私たちのための子供ではないんだから



何も気にせずにいたらいいんだよ



私たちは孫が生まれてくるだけで



ありがたいんだから」と



よく言葉にしていたの








あまり人から評価をしてもらえないような



お仕事であっても



世の中には



長い間存在している仕事は



表で表現される言葉とは逆に



求められているニーズがあるからこそ



存在しているように思うの



どんな出来事や物事にも



様々な角度があって



まっすぐに見つめたら



美しく感じられないものであっても



角度を変えて見つめると



とても光り輝いていたり・・・



目の前に伝えられる言葉に



違和感を感じてしまう時って



人間を包んで飛びたてなくしている



錘のような思い込みを



無意識に感じているからなんじゃないかなって



思うの



そんな時



自分の中の一番重い扉が開かれて



すべてが可能に感じられ



優しい方は



同じ喜びを感じたいと思い



触れ合う方たちにも



伝えようとお話をされると思うけれど



その行動は



もっと自分の中に時間をかけて



強く刻み込んでから



伝えられたほうがいいと思うの



そうでなければ



やっと光が差し込まれた扉を



閉めてしまう事になってしまうと思うの



一瞬のインスピレーションから



受け取った喜びよりも



長い時間かけて



時代を動かすまでに



刻まれた思考は



何度も「やっぱり」という言葉と共に



打ち消してしまうと思うの



ほとんどの場合



私たちが正しいと思っている



人生の歩み方は



ゆっくり見つめると



どこにもその根拠がないものが



多いと思うの



例えば誰かが決めた



適齢期という物差しで



人と会うたびに



あいさつ代わりに「結婚は?」など



尋ねられている方がよくいるけれど



訊ねてくる方自身は



まったく悪気はない様に思うの



ただその方が秘めている



コミニュケーションツールが



そこから作動してしまうために



親しくしたい思いが



その言葉から始まっていて



結婚していると伝えたならば



次はお子さんは?



ご主人は何をされているの?など



言葉を繋ぐために



誰でも共通の人生にある事柄を



話題としてしまうのだと思うの



私たち友人はそのような事に



傷ついてしまう時間を



通り過ぎてしまったせいか




スタンダードなあいさつ代わりの質問が続くと



「始まった!国税調査(笑)」などと



その問題を終わらせてしまっているの



私たちの友人は



本当に驚いてしまうくらいに



人生に共通を持っていないの



結婚している人



戸籍にこだわらずパートナーと



共に暮らしている人



ルームシェアで



友人と暮らしている人



恋人は何十年もいない人



離婚して子供と共に



暮らしている人etc



様々な友人が多い事もあって



幸せを図る事も



比べる事もできないの



でもそれぞれ与えられた



人生の中にある小さな幸せを



それぞれの歩みで



大切に過ごしているの



昔中島みゆきさんのうたで


「闘う君の唄を 闘わない奴等が 笑うだろう



ファイト! 



冷たい水の中をふるえながら のぼってゆけ 」という



歌詞があったけれど



傍観者として



何も行動しない方は



心からの幸せもない代わりに



失敗もないから



多くの言葉を表現すると思うの



人生の歩む道で哀しみに出会った時



それは無意識に



自分という存在を大切に



止まる事無く



歩んでいるよっていう



証として



時々心に届くメッセージだと思うの













人が秘めている



心の傷のパーツの中には



「差別」や「比較」というものから



今現在にまで続く痛みを



感じられている方もいると思うの



学校・社会・家庭etc



すべての中で・・・



でも無意識に



私たちも「差別」はしていなくっても



「区別」をしてきたんじゃないかなって



感じているの



例えば仲の良い友人ならば話していても



自然に話に花が咲いて



損得などの意識も持つ事なく



友人に喜んでもらいたくって



何かをプレゼントしたけれど



親しくしている



友人だからといっても



すべての人に同じ形で



付き合いを育んではいないと思うの



人によっては



何かをもらうと心の負担になる



真っ直ぐな方もいたり



与える事に喜びを感じられる



心の豊かな方もいたり・・・



でもその方の望む形を



理解し会える関係ならば



お互いが付き合い方の違いから



心に傷を持ってしまう事はないけれど



わからない事も



多いと思うの



家庭の中でも



兄弟・姉妹との比較に



幼い頃



心に傷を秘めるようになられた方も



両親にとっては



「差別」をしようと思って



したわけではないんじゃないかなって



感じるの



私たちの人生で出会った方の中にも



様々な方がいて



出会って間もないのに



何でも心から話したくなる相手もいれば



時間を重ねた相手であっても



ちょっぴり緊張感が漂う



関係もあると思うの



そのような相性もあれば



両親から見つめて両親が思う



その子供にフィットした



接し方だと感じ



「区別」をしているだけ



なんじゃないかなって



思うの



上手に言葉では伝えられないけれど・・・



私自身も姉弟として



同じ環境を過ごしてきたけれど



両親の接し方は



ほとんど逆の接し方だったの



きっとそれは



弟と私は性格的にも違っている事もあって



両親なりに



自然にそのようになっていったと思うの



幼い頃からその事を



大きくなってからも



ずっと心の中で影となって



秘めていた事があったの



なぜ?私だけが怒られるの?



なぜ?私だけが・・・みたいな



思いが膨らんで



何より自分自身が自分自身を



辛くさせてしまっていたの



でもある時



私の少なかった友人関係が



ちょっぴり広がり



今までスポットのようにしか



見つめられなかった人間関係から



自分の意思とは別に



出会う方たちとのふれあいの中で



自分自身も無意識に



「区別」をしていた事に



気づかされたの



今でも理由などはないのだけれど



同じように親しくしていた友人から



「○○ちゃんがさーちゃんに



もらった物喜んでいたよ」と言葉とは違った



寂しげな顔で



伝えてくれていたの



その友人の顔を見つめた時



私の中では


彼女のイメージには・・・と



勝手に思い



手渡さなかっただけなのだけれど



きっと彼女の中では



言葉には表現しなかったけれど



その友人と自分との触れ合い方を


私に「差別」されていると



感じたのではないかなって



思ったの



その時



色々な私の中の心の影が



光に溶かされていったの



その事で無意識とはいえ



私も同じ事をしてきた事



そして相手を許す方法



自分をこれ以上傷つけないための



とらえ方に気づかされたの



その頃



同じような表現の



「平等ではあるけれど対等ではない」という言葉も



教えられたの



日本語はひとつの事柄を



必ず二通りに



表現できるように



用意されていると思うの



どちらを受け取るかで



心のダメージも違ってくるんじゃないかなって



思うの



例えば



事故に出会ってしまった時


「軽く済んで不幸中の幸いだったね」と



表現する方もいれば



「そのような場面に出会うなんて



運がないんじゃないか」と



表現する方もいると思うの



それと同じように



変えられない出来事の中で



その事から少しでも



自分自身が心から



楽になれる言葉を



選択して行けたら



いいんじゃないかなって



感じているの










この間



主治医になっていただいた先生と長い時間



お話しをさせていただいていたの



診察の時間帯では



ゆっくりとお話が出来ないからと



私とパートナーのために



よく時間を作ってくださるの



未来に親にはなれない大きな決断をしてからも



私たち二人にとって



この決断が本当にベストなのか?を



まるで確認してくださっているかのように



何度も何度も



立ち止まる時間を



与えてくださって



とてもありがたく感じていたの



その中で



インターネットのお話になって



私が病について



多くの情報を集めて



不安になっていると



「今は情報が溢れすぎていて逆に混乱してしまうよね



そして人それぞれに



痛みの感じ方も癒し方も違うから



自分が一番いいと思うものを選択していく事が



いいと思うよ」と伝えられたの



この言葉は様々な事を



教えてくれているんじゃないかなって



感じていたの



一言に



「自分を信じる」という



最も大切な事を



よく表現されるけれど



「自分を信じる」って



どんな場面でも



向き合う機会を与えられる



大切な事だと思うの



でも言葉では理解できるけれど



「自分を信じる」って



本当はとてもすごい事なのではないかなって



感じていたの



そんな時偶然



真夜中にサイパンで戦争体験された方の



番組が流れていて



胸いっぱいになって見つめながら



その中で



とても印象的なことを



語られていた方がいたの



その方は幼い頃から



米兵に対してのとても怖い



イメージを日本兵に



学校の教育のひとつとして



伝えられていて



その思いと共に



日本独特の美学だと思うのだけれど



恥ずかしい思いをしてまで



生き延びるよりも



美しく散ってゆく事を



洗脳されていた事もあって



その頃多くの日本人は



戦争での勝利がない事を知り



夢と希望を失い



「天皇陛下万歳」と叫びながら



崖から



多くの方が身を投げていたのを見つめ



自分も身を投げようとした時



母親が



「私は死にたくない



こんなばかばかしい戦争で死んでたまるか」と



言ったの



その言葉を聴いて



その方はその時代に



そのような事を



表現する方はいなかったけれど



今になってみたら



母の言う事はとても正しかったと



表現されていたの



いつの時代であっても



多くの方が支持する事が



常識とされるけれど



たとえ少数意見であっても



「自分を信じる」力が



未来の常識と繋がったのかなって



そのお話を聞きながら



感じていたの



その時代・その時代



普遍的に常識も変わり



過去の常識は



未来の非常識になっていたり・・・



その逆に過去の非常識が



今の常識となっていたり・・・



いつも時代を追いかけ



あわせてゆく事も



大切かもしれないけれど



何より大切なのは



自分から生まれてくる思いを信頼できる



自分自身の歩みなのではないかなって



感じたの



今の時代は多くの情報が



必要に応じて



手に取る事ができるけれど



感じて・体験するのは



自分自身なのだから



情報の海におぼれてしまう事なく



自分が強く大きな守護から



支えられている事を信頼してゆく事が



大切なんじゃないかなって



感じていたの











ここ数十年



年末から新年にかけて



世界中で大きな地震が訪れ



多くの方々が



突然人生の幕を閉じる



運命と遭遇しているのを



見つめながら



人間が図る事の出来ない



地球と神様との間で



何かのバランスを



整えようとしているのを



感じているの



その国の中で



大きく発展の遂げている場所に



地震が集中しているのも



きっと



その部分に大きな意味が



秘められているんじゃないかなって



感じているの



最近は東京へ向けられている



大きなエネルギーが地震という形で



いつ表現されるのかという事に



多くの方の関心が集まっているけれど



たしかにその時は



とても近いように感じているの



以前にも書かせていただいたように



日本を龍に例えて



見つめたならば



心臓に近い部分なので



日本に行き渡っている



血液となっている


経済・流通などに



大きな滞りがあらわれて



すべての地域でも



小さな病となる



問題が生まれてゆくんじゃないかなって



感じているの



心臓ともなっている



東京に訪れる地震は日本に暮らす



すべての方に



何かしらの影響が



もたらされると思うの



私の知り合いの方は



今年東京から



別の地域への転勤願いを出して



暮らしているの



上司は一線での活躍を



望まない彼女を



不思議に思って訊ねたの



その時彼女は



「自身が怖いから・・・」と話したら



部署の方たちに



笑われてしまったみたいなの



でも彼女は大真面目に



悩んだ末に



選択した形だったの



彼女の話を聞きながら



確かに



私を含めて



日本で生を受けた方たちは



DNAのどこかに



何度も体験してきた



地球の大きなエネルギーの表現や



人間たちの間で



作られた争いによって



もたらされた傷を癒すために



一番最良な姿勢として



その日が訪れるまで



どんな情報が伝えられても



ライフスタイルの変化を



自ら形作る事は



しなくなってきたように思うの



よく日本の方たちは



危機意識が少ないように表現されるけれど



私が思うには



DNAに秘められた意識は逆で



長い年月の中で



多くの痛みを体験してきた国の人だからこそ



その部分にスポットを当ててしまうと



客観的に考えられないほど



リアルにイメージが出来てしまうからこそ



見つめられないように



ストッパーがかけられたんじゃないかなって



感じているの



私の周りでは様々な形で



地球のエネルギーを意識とは別に吸収し



今までとは逆の体験が



訪れている方も



多いの



例えば今まで好きだったものに



あまり心惹かれなくなってしまったり



逆にあまり関心がなかった事に



とても心惹かれていたり・・・



とても心身が健康だった方が



理由もなく気分の揺れ動きに



戸惑われていたり・・・



そしてライフスタイルも



とても早い形で変化しているの



人間は時に



意識とは違ったものに導かれ



「なぜ?こんな事をしているのだろう?」と



思ってしまうような



行動をしてしまう事があると思うの



でもその行動が後になって意味を



伝えてくれる事って



人生には多く



生まれてきたんじゃないかなって



感じているの



そして何より



地球の大きなエネルギーが



伝えてくれている事は



「命の大切さ」「時の大切さ」



「愛の選択」なんじゃないかなって



感じているの



ニューヨークのテロがあった年から



次の年まで



結婚ラッシュが続いたみたいなの



それはきっと



一番近い場所で



この三つを頭ではなく



全身全霊で感じ



魂が揺り動かされたからなんじゃないかなって



思うの



大好きな恋人と過ごす時間と



充実した仕事に満たされて



幸せなのだから



このままこの時間を



過ごしていたらいいと思い



過ごされていた方たちが



今が永遠に



続かないかもしれないという



不安の中で



今まで一番大切だと思っていたものが



何かという事を



選択するような集合意識が



形となのかなって



思うの



私自身も1999年頃



ノストラダムスの預言やそれに伴って



映画などでも



地球が終わりを告げる表現のものが



多く上映されていて



今まで考えもしなかった事を



映像として見つめながら



自分の心に問いかける時間が



与えられていたの



もしこの映画のように地球が



終わりを告げるとしたら



私は何をしていたいかな?など・・・



それまでは永遠に時間が



存在しているかのように



過ごしていた私は



大切なものがいっぱいありすぎて



一番大切なものを



感じられなかったの



そして何より恋愛に臆病だった私は



誰かに望まれる恋ばかりで



自分から望む愛の形を見つめないまま



歩んでいたの



そんな時



私にとってはリアルな現実のような



余韻が残っていて



そのような映画を



その当時恋人だった



今のパートナーと見た後という事もあって



勇気を持って



パートナーに



「地球最後の日にどう過ごしていたい?」と



訊ねてみたの



その時


「わからない」と



愛の感じられない返事が返ってきたの



でも私にとっては



リアルな現実として



映画を見つめた空気に包まれていたので



無意識に



「私はあなたと手を繋いでいたい」と



伝えたの



その思いは今も変わらず



どんな不安や悲しみが訪れても



けんかをしても



1番大切な人だと感じているの



人は究極的な場面を迎えたり



リアルにイメージできたならば



今まで身に着けてきたもの



一枚一枚手放してゆくけるんじゃないかなって



感じているの



そして最後に残る



手放したくないものは



やっぱり



愛を生み出す繋がりの存在



だけなんじゃないかなって



感じているの



この世に生を受けた方すべてが



永遠の時間はなく



その方それぞれに



限られた時間の中で



人生の学校を卒業する日まで



この世界をいっぱい満喫して



そして長い時間



自分を見つめて寄り添う



自分自身を信頼しながら



選択を重ねて行けたら



いいんじゃないかなって感じているの










最近住宅についての



安全性が見直されていて



ニュースなどでは



ターゲットとなった数社だけが



大きく伝えられているけれど



このような事は数十年も前から



行われてきた事



なんじゃないかなって



感じているの



住宅についての不透明感は



建てられた大工さんや住宅メイカー・以外には



知らない場合も多いと思うの



住宅の分野以外にも



今までならば大きな力によって



見えなかった部分も



正当な意見を受け入れてくれる



心の耳を



多くの方が開かれている



とてもよい時代が



訪れているんじゃないかなって



感じているの



このような問題は



トップの方だけから



生まれるものばかりではなくって



建てられる大工さんたちにも



変化が生まれているから



なんじゃないかなって



感じているの



私が幼い頃は



大工さんが近所に



多く暮らされていて



近くのお家は



近くの大工さんが



建てられる事が多かったの



家とのお付き合いも一生だけれど



大工さんとのお付き合いも



一生という考えを



持たれている方も多かったの



そのような事もあって



大工さん自身も



自分が建てた家に



誇りを持っていて



口コミなどで



仕事が入ってくるような方が多かったの



でもだんだんと



価格とスピードなどを



全面的にアピールされる



大きな会社が多くの方の



ニーズを満たしてくれる事もあって



多くの職人さんは



辞められていったの



専門家ではない多くの方は



外観でしか



判断が出来ない事もあって



最も大切な質などは



サンプルなどや設計図の



説明を信頼するほかないまま



歩んできたんじゃないかなって



感じているの



よく海外の住宅などでは



築100年近くの建物でも



今も町並みを飾り



暮らされている方の姿を



伝えられるたび



なぜ?日本のような



技術・品質面で



世界的に認められている国なのに



そのような建物が少ないのかなって



とても不思議に感じていたことがあったの



それは



すべての分野で同じような事が



生まれていると思うの



建築に携わるある会社は



本格的に



おうちを建てる技術を



会社でも求めてはいなく



伝えられた通りのパーツを



まるでブロックを組み立てるように



組み立ててゆけば



作れる事もあって



とても簡単に



リーズナブルな価格で



マイホームという空間を



提供してくれていたり・・・



そして何より



ブルーカラーと表現される



労働をしてくれる方が



今の時代は



少なくなっていて



サラリーマンとして入社した後



労働の部署での配属となる所も



多いみたいなの



社会で働かれている方の多くは



一般的に・みんなと同じようにという



列を乱さないために歩む事を



望まれている事も多く



正しい愛の選択が



許されない事もあるんじゃないかなって



感じているの



外国の方と話す機会があって



「日本人は



命の使い方が間違っている



どうして会社のためなら



人生や命をかけられるのに



家族や大切な人のためには



時間さえも使えないのかとても不思議」と



伝えてくれたの



その言葉を受け止めながら



その愛の言葉を感じながら



日本人の私は



その通りだなって感じると共に



きっと日本人は



無意識にDNAレベルで



貧困の悲しさ・辛さ・残酷さを知っていて



その事よりは・・・というような思いから



人生の多くの時間を



費やしてきたんじゃないかなって



感じているの



でも今の時代は



今まで日本が体験してきた貧困は



訪れないと感じられている方たちは



心を見つめられるようになってきていて



日本も昔のイメージから



愛の時代へと



シフトしていると思うの



日本という国は



世界地図で見たならば



わからないほど



小さな国なのに



様々な困難を克服し



そして経済大国として



表現されている



とてもエネルギーのある国だとは



思うのだけれど



本当は一人一人が



キラキラ国を輝かすために



小さな努力と無理を



当たり前のように抱えながら



この小さな国は



輝いているんじゃないかなって



感じているの



まるで白鳥のように



優雅に水の上をすべりながら



水の下では足を一生懸命に



止める事なく



過ごしているような・・・



私たちのDNAには



意識とは別に



時代を超えて



このような思いが



刻まれていると思うの



だから



時々



頑張れない自分を



愛せなくなったり



がまんできない自分を



わがままだと思い込み



自由でいる事に



感じる必要のない罪悪感を



感じられたり・・・



今の時代を見つめ



様々な問題が



多く生まれているように



感じられるかもしれないけれど



逆に



今まで大きな力によって許されてきた



腑に落ちない部分が



腑に落ちるように



神様の計らいで



ゆがみのバランスが



整えられているだけなんじゃないかなって



感じているの












私たちの中には



男性的なエネルギーと



女性的なエネルギーを



秘めていると思うの



それは



性別とは別に備わっていて



その二つが



調和している時



すべても



調和してゆくのだと思うの



ほとんどの方が



どちらを日々



多く表現されていて



なかなか



バランスを図るのは



難しいと思うの



まずは



自分がどちらのエネルギーが



多く溢れているのか?を



知る事が大切だと思うの



ほんの小さな目安ではあるけれど



たとえば



行動的で



与える事(仕事・経済・意見・物質・etc)に



喜びを感じるられる方は



男性的なエネルギーが



溢れている方だと思うの



その逆に



静かにおうちで過ごしたい



受け取る事



(仕事・経済・意見・物質・etc)に



喜びを感じる方は



女性的なエネルギーに



溢れている方だと思うの



どちらのエッセンスも



時と場合によって



表現される事はあるけれど



どちらの



エネルギーが多いかを知る事で



少し必要なエッセンスを



意識してみるだけでも



自分の中のバランスが整って



時間と共に



自分を包むライフスタイルにも



素敵な出来事が



増えてくると思うの



受け取る事が少し苦手で



与える事が多く



楽に行える方の中には



無意識に



誰かにお世話になる事で



自分の人生の主導権を



主張できなくなってしまうのではないか・・・



お返しを要求されているような



プレッシャーを感じてしまう・・・などの



恐れを秘められていて



与えていただく喜びよりも



与える方が良いと



感じられている方もいると思うの



私自身の事を



見つめた時



このようなエネルギーについての記憶を


思い出していたの



幼い頃



多くの方から



愛の言葉やお菓子・おもちゃetc



様々な物を頂き



喜んでおうちに帰って



その喜びを



父親に伝えた事があったの



その時



父親は



「人から物をもらうな



物乞いじゃないんだから」と



伝えられた事があったの



今の時代では



そのような事を表現したり



思われる方はいないと思うけれど



きっと父は幼い頃


貧しさの中で



分け与えてもらう事から



相手の方に



必要以上に恩を感じ



過ごさなければならないという記憶や



自分自身の力がないと



周りに思われてしまうのではないかなどの



恐れと不安から



そのように強く



心に刻まれていたと思うの



きっとその事から



人へ与える事の方は上手に行えても



受け取るという事が



ずっと難しかったみたいなの



でも時間と共に



その部分が癒されて



受け取る幸せに



素直に感謝し



喜び笑顔を咲かせているの



人生の流れの中で



与えるという行いは



多くの愛を生み



大切なプロセスのひとつではあるけれど



無条件に



喜びを感じていないのならば



その部分には



恐れや不安が



秘められているために



受け取るという



女性的なエネルギーとのバランスが



保てない事も



あるんじゃないかなって



感じているの



その逆に



与えるという事が



上手に行えない場合は



与える事によって過剰に



頼られてしまうのではないか?



持続的に



期待を持たれてしまうのではないか?など



その事によって



何もできない事を



演出していた方が



よいのではないかと



無意識に反応し



形は違うけれど



そのような恐れや不安から



人へ何かを手渡す事に



躊躇される方もいると思うの



この女性的エネルギーは



出来る事まで



できなくしてしまう事も



あるんじゃないかなって



感じているの



昔から



よく耳にする事なのだけれど



女性はできないふりをしていた方が



男性に頼りに



されないから良いなどの



表現があるけれど



きっとそのような意識が



エネルギーとなった部分なのだと思うの



男性も女性も



どちらのエネルギーも



秘められているのだから



本当は



何も恐れる事なく



出来る時・したい時には



触れ合う方たちに



愛をプラスして与え



助けが必要な時や



相手の方が愛を与えたいと



望まれているのであれば



ありがたく・喜んで



受け取ってゆけばいいのだと思うの



人や状況によって



恐れていた形や



不安が的中してしまう事は



あるかもしれないけれど



決して



それは



自分が責任を負うことではないし



罪悪感に包まれたりする



必要はないと思うの



出会う方それぞれに



その問題から学ぶために



両方のエネルギーを



体験しているだけなのだから・・・











すべての行動を生み出す時に



いつも勘を



大切にする事が



私のライフワークになっているの



でも時々



強制的にしなければならない事が



与えられ



目覚めてから



気が進まなくっても



とりあえず



足を運ぶのだけれど



そのような時には



「やっぱり・・・」という



結果が多くなってきているの



特に



理由を語れないけれど



好きになれないなどの出来事は



多くの場合



魂から伝えられている



自分とは別の勘が



働いているみたいなの



その逆に



理由が語れるけれど



好きになれないことの場合は



多くの場合



克服できるけれど



トラウマや意味を感じられない事から



気が進まない出来事の事が



多いの



最近理由を語れないけれど・・・という



出来事が多くって



時間差で



その答えとなるものが



届けられるの



そのたびに



自分を信じてよかったって



思わせてくれる時間を



与えていただいているの



誰でも



日常の中に



小さな自分の感覚を



問われていると思うの



でも急がしく時間を



過ごされている方は



自分の魂のささやきを聞く



時間を作る事がなかなか出来ず



何となく流されて



自分の感覚を



大切に出来なくなってしまう事が



あると思うの



そのような時間を重ねてゆくと



時間と共に



何を信頼したらよいのか?



自分を信じるって



何を信じたらいいの?などの



小さなパニックが



生まれてしまうと思うの



そんな時には



ほんの少しの時間でも



自分を感じる



自分の好きな事をする



時間をもたれるといいと思うの



本を読んで見たり



美しいものを見つめるために



外へ出てみたり



おいしいコーヒーや紅茶などを



ゆっくりと飲んで過ごしたり・・・etc



毎日続けられる



小さな時間を持つ事で



無意識に毎日



降り積もろうとしている



ストレスを溶かし



いつも愛溢れた自分を



信頼できる自分が



育まれて



ゆくんじゃないかなって



思うの