2004・11月








いつもは月を森林の香りに包まれながら



見つめる事が多かったので



今回は潮風に包まれて



見つめたいなって思い立って



小樽へと足を運んだの



森は多くのエネルギーを



充電してくれるけれど



海は蓄積してしまった



心のちりを浄化し



お掃除してくれるの



月が美しいベストポジションを夕方から見つけて



ワクワクしながら



スタンバイしていたの



夜がゆっくりと遠くから広がり



星空と共に



月を連れてきてくれたの



今まで見つめた事のない大きな月が



海に浮かび



ふたつの月がとても幻想的で



言葉を失うほど感動していたの



その場所には



パートナーと私しかいないはずなのに



たくさんの瞳が同じ月を見つめ



同じように喜んでいるのを感じ



写真を写してみたら



3色くらいの球体が



飛び交っているのが映し出されたの



きっとここには



目に見えない世界が



私たちの生活と同じように



営まれているのかなって



ふっと感じたの



いつもの小樽とは違った



空気に包まれながら



急に車で回るのではなく



歩いて心が導いてくれるまま



歩いてみたくなって



観光の場所から少し入った



小道の中を歩いたり・・・



歩いていると



鬼子母神が祭られた小さな神社や



狐が迎えてくれている神社



狛犬が迎えてくれている神社など



様々な神様と出会えたの



日頃は歩く事が少なくなっていた私が



気がつけば2時間もの時間



何の目的もなく



歩いていられた事に



自分で驚いてしまったの



きっと今日は



様々な神様に導かれて



ご挨拶させていただける



日だったのかなって



感じていたの



その日の夜眠る私の夢に



とても怖い表情をした女性のような姿の方が現われ



時間がたつにつれて



涙を流しながら



涙と共に



表情が優しい笑顔に



変わっていったの



その優しい微笑みを見つめながら



私は夢から目が覚めたの



その方が誰なのか



判らなかったけれど



鬼子母神という言葉が



ふっと浮かび



インターネットなどで調べてゆくうちに



その神様の個性を知る事ができたの



今まで知る事のなかった神様が



私に何かを伝えてくださるなんて



とても幸せを感じていたの












新潟に大きな地震が訪れる



2日前から体調が優れず



戻してしまう事が何度もあり



お買い物へ行っても



友人と会っている時にも



体調が自分ではコントロールできずに



周りの方に心配をかけていたの



私の中では数年前に



大好きな叔父が



この世を去る前の日に



同じような事が起こっていたので



身近な方に何かあったら



どうしようって思っていたの



でもこのような結果が訪れ



地球からのメッセージだった事に



気づかされたの



地球の大きなエネルギーが大地から足を伝って



何かを感じていたのかなって思うの



今は左耳が表現できないような



ざわざわとした感覚が続いているの



きっとこの感覚は



何かを伝えられているのだと思うけれど



私は目の前に与えられたものを



識別できる能力が不足しているために



いつも感覚的な表現でしか



様々なメッセージを受け取れないの



最近多くのニュースを見つめながら



夢で見ていたり



後になって理解できる事が多く



訪れるようになっているの



今は私の元へ伝えられる事には



知らない方が多く登場する事もあって



それが何を意味しているのか



わからずただ過ごす事に



自分に対して



少し怒りを感じてしまう事もあるの



でもすべては



ベストタイミングが訪れ



高められる時が整うと



信じて焦らずに過ごそうと



思っているの












北海道は銀杏やもみじが色づき



美しい山々が



遠くに見られる季節を迎えているの



今の季節は



セルフヒーリングとして心や魂が



本当は今何を望んでいるのか?を知るために



手紙のような形で思っていることを



便箋2枚くらいに書くの



そうする事で



いつも一体になっている思考と心を



一度切り離す事で客観的に



自分の心が見えてくることが多いの



頭で考える事は



データーや予想が含まれていたり



多くの方が理解してくれる形に



はめ込もうとしている自分がいたりして



本当に心や魂が



求める事をゆがめてしまっている事も



多くあると思うの



その部分に



優しく気づきを与えてくれる



手紙は秋の夜長に



ぴったりなヒーリングだと思うの



例えばその日の辛い出来事でも



悲しい出来事でも



愚痴やちょっぴり



認めたくないひがみだったとしても



素直に書いてみる事がいいと思うの



その事で



見えてくる本当の光があると思うの











人間は本来心の感動や喜びを



栄養としてゆかなければ



生きてゆけないように感じたの



最近の医学では



心の力が見直されていて



美しい景色を



日々見つめている方の免疫力が高い事が



認められていたり



良く笑う方は



様々な病原菌を消し去る事が



伝えられていたり・・・



女性は特に



日々の時間の重ね方で



容姿・思考・心の色etc



すべてが満たされてゆく



存在のように思うの



女性は本来



感性豊かで



様々なものの中にある



深い何かを感じ取れる



能力があるからこそ



自分の大切にする



ライフスタイルという



小さな世界が満たされないと



とても不安を感じたり



これから歩む未来をも



暗闇のように感じてしまわれる方もいると思うの



女性の魂は



その感性を満たす事が



すべてを幸せの色に染める



パワーとなってゆくと思うの



例えば美しく飾られたお花を



自分のためだけに目の前に飾ったり・・・



子供の澄んだ瞳に



見つめられるときだったり・・・


時間をかけて作られた食事を



美しいレストランで食したり・・・



パートナーの何気ない



優しい言葉だったり・・・



たとえ手にする事がないような



高価なインテリアを見つめたりetc



女性の感性を満たすキーポイントは



日常に溢れたささやかな事の中に



多いように感じたの



その時間を重ね方で



自分の人生が今満たされていると



感じられたりすると



不安を包み込むほどの



希望や夢が



自然に生まれてくると思うの













福井県の山本雅俊副知事が



「不登校児は不良品だ」と発言した事が



問題となっている言葉を



ニュースで見つめながら



今の時代の優しさを感じていたの



私が学校へ通っている頃



私を含め



少し大人との歩む道が違うタイプの子供たちを



「不良」と表現されていて



その様な言葉を表現したからと言って



当たり前すぎて問題になる事もなく



完璧な神様が創造した人間なのに不良品のはんこを



押されたような



言葉では上手に表現できないけれど



寂しくせつない思いに包まれていたの



最近日本語が良くも悪くも



形を変えてきていて



過去には何の違和感もなく



表現されていた言葉も



この時代は



心地のよさを感じられず



それぞれに表現する形になってきていて



それでも伝えたい心が



その言葉の上に



一緒に載っていたらいいと思うの



私たちの両親の時代は



ストレートに表現された言葉が多く



今聞くと心のつき刺さるような



痛みさえ感じる事が多いの



友人が長い間共にしていた



犬を亡くし



悲しみを乗り越えるために



新たなパートナーとなってくれる犬を



迎え入れた時



その子犬は目が不自由で



あちらこちらにぶつかりながら歩いていて



それでも友人にとっては



大切なパートナーとなりつつある時



友人の父は



「そんな目暗は・・・」という表現をされ



優しい友人は涙しながら



その事を私に伝えてくれたの



友人と話しながら



私の父との表現に共通なものが



多くあるのを感じ



私たちが受け止めるような深い意味を持ち



表現しているのではなく



当時は言葉の表現がストレートで



今のような優しい空気を



持っていないだけだと思うの



友人の父も私の父も



頭の中にある言葉の辞書には



そのような言葉しかなかっただけで



本当は悪気は無いのだと感じているの



でも友人の父も私の父も



言葉のバリエーションを持たないために



逆に多くの誤解と



障害を作り出してしまっていたんじゃないかなって



とても感じていたの



私自身も自分の中では



表現によく使う言葉が



何の違和感もなく伝えた時



本当に伝えたい



ニュアンスと違っている時もあるの



色々な意味で今



思いにフィットする言葉を学び受け取っている途中なので



まだまだ上手に思いを



表現できていないとは思うのだけれど



そんな時には



どこかに「ありがたい」「感謝」などを入れて話す事で



相手の方にもニュアンスを



受け取ってもらいやすくなるように感じるの



私の父は私と同じように



日々幼子のように表現する言葉を



テレビや雑誌etcなどから



ゆっくりと学びながら



過去に覚えた心地よくない表現を



少しずつチェンジしているの



その事で言葉尻を取って



心痛む事が



少しずつ開放されているように




感じているの











ここ数年



「癒し」というキーワードが



誰の心の中にも流れていて



何が自分にフィットする



癒しかという形で多くの方が探しているけれど



最近癒しは特別な事の中にあるのではなく



日常の中にあるんじゃないかなって



とても感じているの



心の喜びが大きな癒しやエネルギーとなる事を



誰もが知っていて



その事を見つけようと



様々な事にチャレンジするけれど



心満たされるものを感じられず



過ごされている方もいると思うの



そのような時って



内なるぬくもりに満たされたいと



魂が感じているときが多いように思うの



そういう深い部分の栄養が



不足してしまっている時の一番の癒しは



疑似体験でも良いから



涙が溢れるようなお話を聞いたり



映画を見たりしながら



言葉を失うほど



魂を満たしてあげる時間を



過ごされるといいと思うの



年を重ねる事で心の受け皿が



広がってくれたせいか



小さな感動も



大きな心の栄養にする事が



少しずつできるようになれたの



人のぬくもり溢れる笑顔や愛に溢れた行動など



心の琴線に触れると



意識とは別に



抑えきれない気持ちが溢れて



涙となるの



その後まるで出会った方ではなくても



同じ気持ちを共有できたような



安心感と感動が



しっかりと心の中に残るの



とても深い部分に癒しが必要な時には



その心の栄養が届いたサインとして



涙が溢れ



意識では届けられない部分にまで



癒しが行われてゆくように思うの













久しぶりに



本屋さんへと足を運んだの



心惹かれるタイトルが目に映る中



一冊だけ目を瞑り



私の中から溢れる



直感を信じてセレクトしたの



お家に帰って早速読んでみると



今まで慣れ親しんだ



スピリチュアルな言葉だけではなく



表現がとても新鮮で



心にゆっくりとコンタクトを始めているのを



感じていたの



その本の中の表現で



とても印象に残った場所があったの



彼の母親が



彼の身体を気遣い



お家で料理を作りに来てくれたの



その時サラダに入れるトマトを手に持ちながら


「これでいいという時言ってね」といいながら



サラダの上でスライスを始めたの



彼は自分にちょうどいい分量かなって



思ったところで



「もういいよ」と伝えたの



でも母親は無言で手を休める事無く



まだトマトをスライスしていたの



彼は何度も「もういいよ」と伝え



それでも止まらないので



そのサラダを自分の方へと引き寄せたの



それでもまだサラダの上で



スライスをやめる事がなかったの]



彼はこの何気ない行動から



様々な事を感じていたの



母親は彼の身体を気遣い



来てくれたはずだったのに



サラダを無理して



すべてを食してしまったら



お腹のコンディションも保てなくなってしまう・・・



だからといって残してしまったら



トマトも母親の気持ちも



無駄にしてしまうと・・・



そう思うだけで



心のコンディションも



保てなくなってしまっていたみたいの



このお話を読みながら



小さななにげない出来事の中に



たくさんの学びを感じていたの



誰もが誰かの役に立ちたいという



優しさに包まれた思いは



とても美しく



素晴らしい波動を放つけれど



役に立ちたいという名のもとに



本当は役に立っていない事も



多いんじゃないかなって



感じていたの



受け取る側というよりも



与える側の気持ちを



満たす場になってしまっていたり・・・



結果的には



何も与える事も受け取る事もできず



お互いが気持ちを満たす事無く



受け取る側と与える側の



癒されるはずだった関係も



消え去ってしまう事ってあるんじゃないかなって



感じたの



このような場面って



振り返ると



自分の過去にも現在にも



多く存在しているように感じていたの



受け取る側は



「もういいよ」と伝えていても



与える側の方は



親切という表現の中で



無意識に



自分の気持ちを満たすために



相手に押し付けてしまっていたり・・・



自分の必要性を



自分が自分で感じていたいために



本当はさせていただいていることもあったり・・・



人との関係だけではなく



植物を見つめながらも



そのような気づきを



与えてもらう事があるの



その植物を愛して見つめて



あげられるようになると



それぞれの個性があって



少し少ないかなっていうくらいにしか



コミニュケーションもお水も



必要としない植物もあったり



その逆にもっともっとコミニュケーションも



お水も必要とする植物もあったり・・・



すべて同じではなく



ほんの少しのサポートで



自分の力を満たし



ぐんぐん葉を伸ばしながら



育ってゆく個性のものに



必要以上にお水を与えてしまう事で



自らの力を失い根腐れという形で



だめにしてしまう事もあると思うの



そんな時



つい無意識に



「こんなに愛情を注いだのに・・・」っていう



思いに包まれてしまうことがあるの



でも本当に



その植物を愛していたならば



日々見つめて変化に気づいて



ベストな分量を



わかってあげられたはずだったと思うの



きっと私は



そのトマトのお話のように



本当は



自分自身が愛情を注ぐという



存在を必要としていて



「もういいよ」のサインを



見つめようとはせずにいたのだと



とても感じ本当の意味での



「与える」形をこれから



ゆっくりと実践して行けたらいいなって



感じていたの