三井美唄小学校 


炭鉱が生んだ
マンモス校


児童数3300名 三井美唄小学校

巨大炭鉱住宅の中に生まれた史上まれに見る超マンモス小学校。当時北海道一。
もしかすると日本一だったのかもしれない。
現在はこんな巨大な小学校は日本全国どこにもない。
木造2階建ての校舎が3棟に体育館が2つ。先生の数は70名。筆者は昭和32年
の入学であるが、その時の学年は、1クラス55人でそれが何と12クラス。
運動会や学芸会など、何をやるにも大人数。よくぞこの大人数をまとめていたものである。
 しかし、ごく一部を除いて親の勤務先は全部三井鉱山。
だから人数が多い割には何となくまとまりがあって、あまり大した事件もなく平和な校風であった。
 校舎の建設も設備もほとんど三井鉱山の寄付。だから学校は一応美唄市立であったが、
実態は三井鉱山が経営しているようなものであった。PTAも学校のことについての問題は
美唄市ではなく、ほとんど三井鉱山と労組に直談判。
北海道内でも有数の給食早期実施校になったのも三井鉱山の力によるものだ。
 ところで給食であるが、現在と違って全部校舎の中央に設置された、巨大調理室でつくっていた。
製パン工場まであった。パンを学校の中で作っていたのだ。給食のおばさんは毎日10人以上フル稼働。
ろくに国の援助のなかった時代にこれだけのことが出来たのも炭鉱地ならではのことであった。

昭和35年頃の三井美唄小学校正面
(卒業アルバムから)
校歌が表示されています。
これは閉山する直前昭和37年頃です。ピークは過ぎていますがそれでも約2500人です。朝礼の様子です。
(拡大してご覧下さい。)

昭和16年

これは昭和16年の三井美唄小学校です。
この校舎は体育館を残して昭和20年に全焼してしまいます。

昭和35年頃

   希望が丘グランドで運動会の様子
   朝の週番の打ち合わせ。何しろ児童数が3000名。
気をゆるめるとたちまち大混乱。規律はしっかりしていました。
みな緊張して先生の指示を聴いています。
  三井美唄互楽館で行われた学芸会。昭和36年か。
開校30周年記念と表示されています。
この頃は児童3000人以上。全員出演することはもちろん不可能。客席は入れ替えでした。 
  第一体育館で行われた卒業式の様子。昭和37年か。
右半分が卒業生、左半分が5年生。2つの学年で体育館は満杯。
17年後、この体育館で閉校式が行われることになる
。 

   
 給食の風景です。可愛いですね。コッペパンに汁物の二品です。  当時の給食のスタッフ。毎日3000人分調理していました。

 昭和37年頃の先生方です
何故か校長先生がいませんね。
ご存知の先生いらっしゃいますか?
 


閉山後の三井美唄小学校


   これは昭和39年東京オリンピックを記念して撮影した珍しい航空写真
閉山から1年過ぎて生徒が激減している最中である。
第2体育館はすでに解体され、右側の東校舎は、誘致企業である泉製作所の工場に改装されている。

 昭和54年、閉校式そして校舎は解体されました。閉校式の模様です。
              §三井美唄小学校閉校式§
              (市政施行30年の歩みより)

 過日(昭和54年3月20日)三井美唄小学校の閉校式に参列しました。
 春とは名のみ、横なぐりの雪の中を生徒と父兄、そして学校ゆかりの人々が集まり、風の吹き込む広い屋内運動場で寒さをこらえながら、それぞれの想いをかみしめ、閉校式を行ったのであります。
 この老朽化した校舎に、かつては全道一のマンモス校として3千数百人にのぼる生徒がひしめくように学び、ついには三井南小学校を分離せざるをえないほど生徒が溢れた炭鉱全盛時代があったのかと、感無量の思いがしました。
 この校舎も取り壊され、一部が給食センターとなり、三井南小学校と再び合併、新しい近代的な鉄筋校舎南美唄小学校として出発することになるわけで、子供たちは一抹の寂しさと、反面新しい校舎に移る喜びに胸をふくらませているようでありました。

  

  これは平成2年に撮影したかつてのマンモス校三井美唄小。
学校の校舎正門跡。閉校式からすでに10年を経ている。
校舎はすでに解体され、校庭はそのまま残っているが校門は半分崩れていて見る影もない。

 現在はきれいに整備され、公園として利用されているそうです。