石炭産業が斜陽化をはじめ、三井美唄も石炭生産量はピークを過ぎていましたが、
昭和30年頃は炭住街が最も広がり、新しい映画館も竣工する等、炭鉱の町として
の風景は最も大規模に展開していた年です。
この時代の三井美唄の風景を次の文章で回想したいと思います。
これは、三井美唄鉱業所臨時事務所が昭和39年に出版した、三井美唄35年史「足跡」からの引用です。
ふるさと三井美唄より
袂を別って以来、年賀状の交換しかない俺たちであるのに何となく便りをしてみたくなった。 というのは、最近俺たちのふるさとである三井美唄鉱業所は、10数年後には“閉山”という話が、噂がぼつぼつ出始めて、ついに会社と組合が、このことで話し合いをして、この俺たちのふるさとのこのヤマに、将来炭鉱がなくなるということに決定したらしい。こんなことを考えている中に、小学校へ入学する前から一緒だった君と手紙ででもこのふるさとについて話したくなり、ペンを執ったわけだ。 |
そうだ、君が住んでいた家(君は一度転居したが、遊園地跡に建った社宅の方さ)の前の俺たちが泥鰌すくいに夢中になった一の沢川は、時折選炭水が流されるせいか、事務所、病院付近をすっかり護岸してしまった。そのためか、俺たちの、その昔と同じことをしている子供たちを見ない。 その向かいは、あの頃は病院の下にバレーコート、その下は土建業者の住宅跡を社宅に仕切って使い、そのあとは、それもとっぱらって,テニスコートになっていたな。 俺達はテニスコートで野球や,小運動会,又或時は〃けりうま〃等をやって会社の人に叱られたもんだが,今の子供は大したもんだ。小学生でも立派にテニスをやっている。 |
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炭鉱病院-昭和30年頃 |
その下,道路をはさんで案内所の後が草原だった。そこは戦後,バレーコートからテニスコートに変っている。テニスコートは3面だ。このコートで一昨年は,〃全道都市対抗硬式庭球〃をやった。昔はあまりやる人もいなくて,むしろ俺等の遊び場だったテニスコートも,今は我々のリクリエーションの場所として非常に有効だ。俺の記」億では,昔は何年かに一度4社対抗(今は三井事業所対抗となっている)というのがあったきりだ。 ここから一寸坂を上ってガード。俺達は何という事なしに,汽車が通るのを見つけると、此のガードまで走って来たもんだったが,今の俺は,生後やっと1年の息子を抱いて汽車をみせに、この辺までやってくる。 |
青年学校 | ||
ガードをくぐって右が青年学校,左が厚生館だったな。 今は青年学校が、会社の鉱業学校及び家政女学校となり,ヤマの職・鉱員の子弟が勉学にいそしんでいる そしてここからは幾多の優秀な産業人が当所の各職場へ送り出されている。 学校の隣りが図書館になっている。蔵書は約6000冊,昔は図書館はなかったな。 厚生館は昔のそれより倍以上に大きく又立派になり その名も労働会館として凡ゆる集会に利用されている。 |
厚生館 |
さて労働会舘の隣,互楽館ではないんだ。 旧互楽館の内部を改装して体育館として使用しているんだ。 主として剣道部卓球部が練習しているが,時々社交ダンスの会又は、可愛いい幼児も交えてバレー等もやっている。 君が居た頃は畳敷だったし,学芸会で浦島太郎や,牛若丸をやったのも此処たった。 次が昨年1月1日`に開館した新互楽館だ。これが素晴らしいんだ。昔の互楽館と比較すると,とに角素晴らしい。札幌の真中に置いても何等遜色のないもんだ。 唯,心ない人により備品等が折々被損される等という事を聞くのは慨嘆に耐えない。 |
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体育館(旧互楽館) | 互楽館(昭和30年竣工) |
一寸大通りを行つてみよう。 君が知っているのは恐らく5丁目迄だろう。今は7丁目迄ある。道路の両側のローンとアカシヤが,美しい緑をなしているのは,昔と変らない。 配給所の位置も昔のままだか’矢張り大きく,又外観内容共立派になり,ヤマのデパートとして多くの人に利用されている。その向い側が美唄市々役所三井支所だ。そうそう君からの年賀状も昭和25年までは,北海道空知郡美唄町三井美唄鉱業所たったが,翌年からは美唄市三井美唄鉱業所だからね。即ち,昭和25年4月1日,俺達のふるさとも市制施行と相成ったわけだ。 それで市役所が登場し、なにかにつけて随分便利になった。 |
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大通り(3丁目付近) | |||
支所の隣が理髪店,社宅内に5ケ所も理髪店がある。 そして市街に2ケ所だ。昔は市街に2ケ所,後で3ケ所になったけれどな。 これに隣接して,君も憶えている、昔からの俗場,君がいた頃は5丁目と2つだったね。今はそれが6つになっている。それにだ,今度は180坪だかの坑口浴場か出来るとか聞いている。 |
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2丁目の小公園。昭和11年頃。プールが出来る前 | |||
俗場の向い側,縦の通りを越して,俺達も始終遊びに行った小公園,此処にはもとの池の跡にプールか出来ている。もっとも最初は目的として防火溜池とも聞いていたが,夏になると小河童連中で相当にぎわっている。隣りは小さい消防番屋たったが,今はスマートな2階建て,消防車が〃いざ"とかまえている。 その隣,駐在所に労務課外勤係。その向側社宅たった所に,労働組合,生活協同組合が並んでいる。俺達がずうっと幼い頃は社宅もこの辺までだったが,今はこれから先が7丁目まてあり,その向うに散在している光珠内の農家と殆んと隣接している状態だった。 大通りより上の方は俺達が中学時代すでに山神社は3丁目から5丁目に移っていたし,変ったのは事業用建物が多くなったこと位た。 それと互楽館の裏にあった弓道場が山神社の横に移っている。 下の方は,君が知っているのはおそらく5条通りか6条通り位だと,思うが,それが今は16条まであり,2,3丁目のずっと下,鉄道の沿線に,中学校と硬式野球場がある。 鉄道沿線を上って南美唄駅。ここは俺達が中学4年の時,即ち昭和18年1月5日客車が走る様になった頃と大した変っていない。 |
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3丁目の消防署 |
あの頃は小学校の校門からバスの発着点までは殆と家屋がなかったが,今は駅の附近からずうっと軒並だ。これほど市街も大きくなっている。古い人に聞いてみたら,俺達の子供の頃〃のみや″は3つしかなかったそうだ。 それが今は〃そばや"や〃すしや"も加えて,とに角それ的な所が14,5はある。一寸ことわっておくが〃のみや"等を例に出したのは,別に俺が呑ん兵衛というわけてはないつもりだ。唯,俺達の年頃ては世帯染みる頃でもないので,魚屋,セト物屋なんてより,君にもピンとくるたろうと思って引合に出したわけだ。) 中学時代,市街を通って美唄駅迄歩いた頃は,三井劇場附近から崖下まての間は寺がポツンとありその向いには殆と家屋がなかったが,三井劇場は2,3年前大分模様替の上,ダイヤ劇場として発足,そしてこの附近から崖下とよばれていた下栄町迄,道路の両側共ぎっしり店や住宅が並んでいる。 |
南美唄商店街 左下が栄町、中央通りを上がった右端にダイヤ劇場が見える。 左上の住宅街が旭町。その右が東町。 |
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職員社宅は,小学校へ入る頃,末だ病院の下から所長宅迄位だったな。それが段々多くなって,中学の頃は下は寒さが殊に激しいのて"樺太社宅〃とよんでいた沈澱池より美唄川の方の社宅。 上はスキーで一本松へ登る途中通った、山の上にも大分並んていたな。 君が住んでいたクラブのローンの下,沢の側の家。 水田だった沢は埋め立てられて,君か住んでいた家の隣に駐在所がある。沢の向うに農家と広い畑があり,もう一つ沢の向うは俺達も終始遊んだ射撃場だった。ここまで社宅が並んだ。農家と畑だった所は東町,射撃場は旭町と称している。 俺等が子供の頃の遊ひ場はことごとくなくなってしまった。俺達か子供の頃の様に広い山野をかけ廻って遊べない今の子供達は可哀想た。でも,俺達のふるさとがそれたけ発展したと喜ぶべき事であるかも知れない。が、しかし又,人口増に四苦八苦する日本の縮図てあるかも知れない。 |
三井美唄鉱員社宅。 5丁目から7丁目にかけて写したものと思われます。 |
何はともあれ,俺達のふるさとは大きくなった。函館本線下りの夜汽車て美唄駅で下車するには,
三井美唄社宅の灯りが見えてから,やおら用意を始めて丁度よかったのは昔のこと。今ては光珠
内駅を発った'ら間もなくこの明りで夜景をより美しくしている。又,一本松から眺めた昔の三井美唄
と,今のそれとでは雲泥の差だ。それほど大きくなったのた゜。
(一部割愛しています。)