炭鉱が生んだ大都会                                         TOPへ戻る

我路の
風景
 

大正初期、奥地の炭鉱開発とともに形成された我路(がろ)市街は、炭鉱の好況を反映し、
美唄市街を上回る程の繁盛ぶりでした。
最初バラックに近かった商店や旅館も、次々と本格建築に変わっていきました。
炭鉱全盛期の我路は一条から、四条通り、さらに高台、寺下通りにかけて、600戸の商店
、民家が軒を連ね、東美唄地区3万人の人口を擁する大商店街でした。
昭和60年の美唄市全体の人口が約3万7千人であることと比較すると、その盛況ぶりがしの
ばれます。 



    この写真は我路高台からのもので昭和の初期。
美唄鉄道を挟み、一条から四条まであらゆる種類
の商店や民家がぎっしり軒を連ねている。右手遠
方は現在の国設スキー場のあたり。

  昭和15年頃の我路

これは上の写真とほぼ同じ位置
から撮った昭和15年頃の我路。
大分町並みが変化し、発展して
いるのがよくわかる。 

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  これぞ知る人ぞ知る駅前木造3階建てです。
 昭和15年、我路駅前にあった、松葉旅館の写真。
 本当にこんな旅館が‥。泊まる人いたんでしょうか。
 この写真は、昭和30年代ということですが、かなり
 前半ですね。まだ道路も舗装されていなく女性の
 服装もかなり古めかしい。
 町並みはにぎやかです。 
 
 我路郵便局です。
 建物は最近まで残っていたようです。 
 

  大正13年目の我路市外図です。 美唄市街から美唄炭山にぬける二条通りと駅に面した三条通りを中心に大きな商店が占めていました。
標高500メートルの山並みに囲まれた市街地には建物がぎっしりと軒を連ねていましたが、昭和4年に炭鉱の経営が三菱にうつると、宅地区域はさらに広がり、2つの劇場が四条通りに開業したのです。
→拡大(別ウィンドウ210KB) 
     我路の夜景です。
全盛期と思われますが詳細は不明です。


     
 我路駅です これは我路市街にあった互楽座の
昭和15年の写真です。
我路には最盛期、劇場が3つあったのです
 
 我路保育園です。
資料がないので詳細不明ですが覚えている方いますか。


  昭和45年頃の
我路です。

拡大(別ウィンドウ) 212KB

  これは多分昭和30年代後半の我路商店街です。二条通りですね。
左側の一番手前が万福食堂?、その先に柿本薬局があります。
右側の一番手前が野呂ふとん店だと思います。
美鉄バスが10分おきに走っていましたね。
筆者は我路に住んだことはないので詳しいことはわかりませんが、この風景
覚えている方いますか?
 




我路商店街(昭和45年現在の一部です)

 カナリヤ洋装店  末平呉服店 島貫洋服店   藤本洋服店  野呂布団店  吉川布団店 大坂屋商店 
 糸田屋  昭和堂  林商店  山本商店  伊藤茶店  高木商店  津山商店
 山岸商店  和田菓子舗  三和家具  宝屋商事  柿本薬局  北風時計電気  佐藤電機商会

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