無題(最終回脳内補填)
四肢を引き裂かれるような激痛は長く続かなかった。
おれは遠くに弟の声を聞き、自分の喉からあふれ出たものが床を打つ音を聞き、すべ てが静寂に包まれた。
そしておれは真っ白な空間に立っていた。
ここは知っている。あの門につながる道だ。
足を動かしていないのに、身体は勝手に門のほうへと運ばれていく。

いつだって、死はいつもおれのうしろにぴったりとついていた。おれはそいつから逃 げて逃げて、同時におれの眼前で背中を向ける生に追いすがろうとしていたのだっ た。おれの生とはそういうものだった。
しかしもうそいつはおれの後ろにはいなかった。背中が軽い。おれがここにいるので 満足したのだろうと、おれは思った。そしておれの前にも生はなかった。
おれの死がこんなに安らかだなんて、割にあわないだろうに。とおれは自嘲した。犯 した罪の重さに比べたら。奪ったものの大きさに比べたら。
それとも死とは誰の上にもこのように訪れるものなのか。



人の気配がした。振り返って心臓が止まるかと思った(心臓なんかもうとっくに止 まっているのかもしれないが)。焔の錬金術師がそこに立っていた。血の匂いが鼻を ついた。シャツはいたるところで引き裂かれ、顔の左半分は真っ赤に染まっていた。

やぁ、きみか、はがねの。
相手もちょっと目を見張りながら、そう言った。いや、そういう形に唇が動いただけ で、声はまったく聞こえなかった。
「え?! 大佐! あんた、なんでここにいるんだよっ」
大声で叫び、つかみかかっていったが、触れることはできなかった。おれは彼の身体 をするりと通り抜けた。彼はまたなにか言ったが、唇の動きだけでは、何を言ってい るのか分からない。
「聞こえない! なんて言ったんだ、大佐。なんでここにいるんだ、あんた!」
向こうにはこちらの声が聞こえているのか、いないのか。
ちょっと困ったような顔をして、彼は血まみれの顔で微笑んだ。
あえてよかった。唇がそんなふうに言っているように、おれには見えた。

待て。ちょっと待て。あんたはここでそんな顔して笑っちゃいけない。
あんたはまだなにもつぐなっちゃいない。ましてやなにも叶えちゃいない。
おれだって何も成し遂げてはいないが、あんたはだめだ。あんただけは。
だってあんたの背中にはまだあいつが、死の黒い影がべったりと張り付いているじゃ ないか。
あんたはこちらに来ちゃいけない。まだそんなじゃない。
なのにあんたはそれを知っているのに、そんなふうに笑っちゃいけない。

エ、ド、ワー、

彼の唇が自分の名を呼んでいると知って、腹が煮えくり返るような気がした。おれは 必死でさえぎって叫んだ。

「だめだ! ここにいちゃだめだ、あんたは。
そんな甘えは許されない。おれが許さない。
あんたがおれを許さなかったように、おれもあんただけは許さない。
帰れ、さっさと帰れ。
帰っておれのことを、いつまでも探し続けろ!」

瞬間彼の身体はかき消えた。

しんとした白い世界に、自分だけが息を荒げていた。いつの間にか門がおれの前に あった。

これでいい。これでいいと思うのに、なぜか胸が痛かった。
彼の背中から死を引き剥がして、腕をつかんで引き倒して頬の一つも張ってやりた かった。だがそれはおれのしていいことじゃない。もうおれの役目じゃない。

おれはもう死んだのだから。

急に苦しくなって、おれは座りこんだ。膝を抱えて、額をぎゅうっと腿に押し付け た。
苦しいんじゃない、泣きたいんだ。目は熱くなるが、死者の目に涙は出なかった。

おれは死んだのだ。それがいまさらながら悲しかった。

できるなら生きていたかった。

自分がそう望むことの罪深さに押しつぶされてもいい、あの人に罪の名を呼ばれなが ら、生きていたいと思った。


もしもう一度生を与えられたら、きっとおれも再びあんたを探しにいくだろうに。

(2004.10.06)


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