#49「扉の向こうへ」



いよいよ大詰めも大詰め。前回で進むべき道のヒントを得たエドはとうとう謎の真髄に触 れ、そして「扉の向こう」を見ます。ダンテと対峙しまったく引けを取らないエドは物語中盤 からここまで彼がどれだけ成長したかをはっきりと示しています。
同時に、物語の初めから提示され続けてきた「等価交換」という原則、それに対して 時折発せられていた疑義、そのテーゼとアンチテーゼの関係がここで一気に逆転します。 エドは最後にもう一度「等価交換」を考えなければなりません。
正念場です。



(1)アル

まずアバンタイトルでは大総統宅の(いつわりの)平和とアルのおちいった状況が鋭く対比さ れています。アルはあらためて「自分が賢者の石であること」とはどういうことか、その残酷さを 言い聞かせられます(聡い彼なら当然ひとりで思い至っていいことでしたが、だってあれ以来怒涛の 展開だったからわが身を省みる余裕なんてなかったでしょう)。
何千何万と言う人々の命をその身に背負う自分。けれどもいつ死んでもおかしくなかったちっぽけな自分。

「それでも、なんで生きてる?」

22話で彼は「人間を犠牲にしてまで、元の体になんか戻りたくない!」と 叫びました。しかし彼は皮肉にも犠牲になった命を山ほど抱え込み、しかも元の身体に戻れてもいません。
彼が背負った「何千何万という命」を昇華するなんて並大抵の方法ではないと思うのです。
それも、自分を犠牲にしてではない方法を探さなければならない。一番先に思いつく一番 楽な方法は、自滅…というか自死して、賢者の石とともに自分を消滅させることかもしれま せん。でもここまでやってきた彼に、「ぼくはからっぽだけどそれでも人間だ (41話:すごい台詞だと思った)」と言い切った彼に、何がしかの奇跡が起こせたら、と願ってやみません。

言わずもがなですが、空っぽの自分だからこそ人間であると、やっとそう言えたアルが、またその空っ ぽの身体に、「人の身には」重すぎるものを抱えて悩んでいます。
「(完全な)人間になりたい」と悩んできた彼の今までに対して、これは人間の悩みです。

「兄さん…、父さん」

すがる人はもういません。兄さんは彼を助けようとはしていますが、今までのように何もかも放り投げて弟に依 存してはくれません(後述)。彼は自分の力で自分に背 負わされたものを片付けなければならないでしょう。今まで兄が、父がくれたものを切り札 にして。



(2)

トリンガム兄弟から400年前の街のことが導かれるのはやや唐突だけれどもまあいいや。

ラッセルと話すエドも格段と大人っぽくなっていて、12話からこっち、これだけ成長したんだ 、と言う感じがします。いや、彼の成長についてはあとでダンテのところで語りますが、とり あえずここではナッシュ・トリンガムの日記をラッセルに返すときに左手で折りたたんで左 手で返すしぐさに萌え。いや、この子右手今不自由なのです。演出細かいなあ。

「でもアルくんが危ないんでしょう…」弟どうし心配するフレッチャーに

「大丈夫、あいつはちょっと迷子になっているだけだ」

…強くなったね兄さん。
やっと「アルのことは(ある程度)アルに任せておこう」と考えることができたんだ。
賢者の石になってしまったアルはなにがどう作用してどうなってしまうか分からない危うい身体です。
まあ確かに、だからこそホムンクルスは彼をぞんざいには扱わないでしょうが、 賢者の石を使われる前にアルを保護しなければならない、間に合わなければというきわどい状況 であることは確かです。けれども兄さんパニクっていない。すごいことです。
兄さんより視聴者のほうがアルを心配してしまうみたいな状況はここへ来てはじめてだと思います(笑)。 ここにいたるエドの心理についてはもう少し詰めて考える必要があると思います。

そして「400年前の街」を目にするエド。ナッシュの日記にホーエンハイムのことがどこまで 書いてあったか知りませんが、エドはこれで大体のことを察したようです。ライラ=ダンテと 遭遇したことで彼はほとんどすべての真相に触れたことになりますが、これ父親の愛人に 究明を迫るみたいな図ですよね。実際エドはダンテとホーエンハイムの仲を知っている。 この物語の発端を作ったのはこの二人なので、やはりこの物語を終わらせることができるのも、 エルリック兄弟だけなのだろうなという確信を得ます。



(3)ロゼ

話は前後しますがロゼ。もう目に光がありません。リオールで勝気な娘として登場し、他者 を盲信するのではなく自分の足で歩くことをエドに教えられた彼女。
彼女のやってきたことがすべて善だという訳ではありませんが、強い意思の力でこれまで を乗り切ってきた彼女です。ダンテに何をされたか知りませんが、前半あれだけ強気なところを 見せた彼女がどんどん正気でなくなっていくさまはなかなか痛いものがあります。 白いドレスは彼女にひじょうによく似合ってるはずなのですが、「エド」と「赤ちゃん」のことをおぼ ろに考える力しかない彼女はまったく美しいと思えません。リオールで軍人に向かって啖呵を切って見せた彼女が、一番美しかった。 わざわざドレスを着せているのはその対比だとしか思えません。 (それにしても赤ん坊に名前ないのかい)

ロゼと出会いダンスをするエド。こんなシーンが描かれるとはつゆほども思わなかったのでびっくり。 かわいそうにロゼとの身長差が(笑)。
まあそれはいいのですが、エドがロゼに惹かれてるという設定がいつのまにか 普遍的になっててあれ?って感じです。
正直あまりピンときません。ロゼがエドを想うのは分かりますが、エドは女の子に恋心を抱 く暇なんかなかったと思う。ロゼのどこをそんなに気に入ったのか分からない。 ただまあそういう憎からず想っている異性がこんなことになっているということが、構図として残酷なのでしょう。

ダンテがロゼの若い肉体を食い物にしようとするそぶりはひじょうにエロティックです。そし て彼女はロゼの肉体をもう自分のものだと思っているのですからこれはナルシシズムだと 言うことができます。ヘンタイだと思いますが、でもそれくらい自己愛が強くなければ、多く の人命を犠牲にしつつ400年も生きようという気にならないでしょう。

この無体を可能にする回路、それがこの物語最後の命題だということになります。

と言うわけで本題。元締めダンテとの対決です。



(4)ダンテ

街の一角から流れる音楽を目指して、エドはダンテのもとに赴きます。重い扉を押し開けると そこはきらびやかなダンスホール(でいいんでしょうね?)。サブタイトル「扉の向こうへ」は ラストシーンに至る「門」をくぐったシーンのことを指しているのだと思っていましたが、 この扉のことだと思ってもいいような気がします。彼は自分からこの事態の張本人の根城へ赴き、 自分からその扉を開けるのです。

ライラがダンテであると暴かれるあたりの台詞回しも描き方もちょっとおもしろい。この作品の 女性(敵)キャラは窮地に陥ると「エド(アル)、私は…」とかなんとかいって私的情動に訴えて 相手の隙を作ろうとする傾向があり、そのへんはちょっとステロタイプに過ぎます。
しかし今回ダンテが「エド、私は…」と言う前後の表情は、エドが自分の正体に気付こうとしているのを 忌々しく思い、それでもエドが確信を得て言っているのかどうか確かめるためにあえてステロタイプな 芝居を打ち、しかしやはり見破られていた(攻撃された)のでもう遠慮なく冷酷に接しようとする、 という一連の流れがひじょうに上手く表情に出ていて、うまいなあと思いました。


さて、ダンテとの論戦の主題は、いうまでもなく「等価交換」をどうとらえるかです。
エドは「等価交換」を真っ向議論しなければならなくなりました。

等価交換は物語の当初から世界のテーゼとして提示されており、物語が進むにつれて、いろいろな角度で 論じられてきました。
32話でははじめてエドたちと対峙したダンテ本人が、世界の理としての等価交換を支持していました (今回でもエドが「あんたも以前言っていただろう」と思い出させています)。 おそらくそれがダンテの「対ふつーの人用」のもののいい方だったんでしょう。
重要なのは22話で等価交換が「おとなはみんな知っている常識」として提示されていたことです。 今までは「等価交換=おとなの常識」だった図式がひっくり返って、今回「等価交換=子どものいいわけ」 であると描かれています。

ダンテが言いたいことはこうです。この不平等で残酷な世で、「どうしようもなく愚かで弱い」人間が 賢者の石で自らを滅ぼしてしまわないために、自分(たち)は賢者の石をコントロールしているのだと。
そしてその弱い人間たちが不平等な世を生きるためのいいわけとして、「等価交換」というお題目があるのだと。
また、彼女は自分を「もう人間ではない」と言ってもいます。愚かな人間たちを裏から守っている超越者… 本人はほのめかしているだけですが、シェスカが言っています「痛みを伴う教訓…そんなものを与えることができるのは、 神様だけよ」ダンテはほとんど自分は神であると言っているのと等しいです。

人の世は平等でなく、価値のある人間とそうでない人間がいる。自分はその頂点に立つ超越者であり、 だから他の人間の多大な犠牲のうえに生きながらえる価値があるのだと。
こういう思考回路にたって、ダンテはこんなことをしでかしてしまったのでした。

「詭弁はやめろ!」

この論理に対してエドは、苦しいながら反射的にそう叫んでいます。うんそのとおり、詭弁です。
それをその場でともかくもはっきり叫ぶことができたエドは成長したなあと思うのです。
22話では、等価交換を受け入れないとおとなになれないとか、生きることそのものが誰かの犠牲と 等価交換されているのだから犠牲を払って賢者の石を作れとか、そういう詭弁にエドは まんまと丸め込まれていました。
錬金術師の性として等価交換が刷り込まれているからこちらの理屈には比較的抵抗を感じにくかった ということもあるかもしれませんが、 とにかく49話でダンテが言うことも、22話でホムンクルスが言うことも、どちらも強者の屁理屈です。

「この子は言い訳する必要なんてない!」

弱者でも生きる権利と義務がある。それはだれに言い訳することでも、誰に許可を得ることでもない。
エドはダンテの詭弁にちゃんとまっすぐ応えていますが、ダンテはホーエンハイムを思わせる(らしい) その答えに不快を覚え、ホーエンハイムに続いてエドも門の向こうに送りやってしまいます。
ホーエンハイムは「魂と精神を分離した」からもう死んだも同然ということですがエドはどうなるのか。
門の向こうから、そして「扉」の向こうからどうやって帰ってくるか。というクライマックスです。

ところでダンテはもちろん絶対の強者ではなく、(取替えがきくらしいとはいえ)腐りはじめた肉体と 劣化しはじめた魂を持つ、やはりただの逸脱した「人間」なのだと思います。
今回の中盤でスロウスをよみがえらせてくれと哀願するラースに、ダンテは心底嫌そうな顔して 「人間みたいなこと言わないで」といってました。あるいはラストを求めるグラトニーへの冷たさとか。
ダンテにとって不老不死のホムンクルスは使いやすいコマであると同時に、ある意味理想だったんじゃないでしょうか。
だから、ホムンクルスが人間だったころの記憶に引きずられたり、自己をかえりみず他者を愛したり、 そういう「人間みたいな」ことをダンテは嫌悪するのです。
私は人間らしさを嫌うそういう志向が人間の「心を劣化させる」ものだと思うのだけどどうか。


(5)そのほか

さっきホムンクルスの話が出ましたが、ラストは死んだと告げられた直後のグラトニーはかわいくてかわいそうだった。
それからエドが「ラストは死んだ、おれのせいだ」と言ったのが わたしとしてはひじょうにぐっときました。
あんたそんなことまで抱え込むんかよ!; 自分の限界を超えて背負い込むこの子があわれでなりません。

順不同で申し訳ないけどアーチャーは小気味いいほど憎らしいキャラになっていていいですな。
半身を兵器にし、口は喋るためでも(たぶん)食べるためでもなくマシンガンを打つために付いている、 こんなやつが「エドワード・エルリックが機械鎧にしているのも分かる。これは楽しい」 などと言ってるのみるとこいつの脳みそ八丁味噌に錬成してやりたくなります。
エドが悩んで悩んで結局捨て切れないものをあんたは初めから持ち合わせていない。本作品の意味において、今回出てきたキャラの中で 間違いなくコイツは人間じゃないと言いきれる数少ないやつのひとりがアーチャーです。

そしてそのアーチャーに苦戦するイズミに手を貸すロス少尉。
トリンガム兄弟を逃がした後ちゃんと援軍をつれてきてます。上官に弓引く兵隊を よくもまあこれだけ集めたなあ。ともかく

「子どもを信じて守ってやる、それが大人の仕事だ。…あの人にそう言われました」

…!… 18話のヒューズですね!
ヒューズとイズミはたしか面識がなかったはずですから「あの人」といってもイズミには通じません。
それでもそうつぶやきながら自分の正しいと思うことをするロスはいい表情してます。
そしてその後押しをしているのがヒューズの遺言であるというのが泣かせます。
いろいろ終わったあとたぶんロスやブロッシュは軍にとどまることできないだろうなあ…。


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しゃべりがひじょうに多く、いくら絵がきれいでもそれだけではぜったいに尺が持たなかった エピソードだと思います。しかし空間をゆがめるような独特の演出によってちっともだれない 長台詞シーンが生まれています。ビバ演出。

さて今後、エドがどう「扉の向こう」から帰ってくるか、1916年の世界は この世界に(意味的に)どうリンクするのか。そして今回なかったのでロイが何をしてるのか について語られると思います。はーあーあと2話!

(2004.09.26記)



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素材提供:BEKAR