〜遠坂リンの憂鬱〜 

〜遠坂リンの憂鬱〜



子供の頃は、一度は誰でも正義の味方とかに、憧れた事もあると思う。
きっかけは、人それぞれで、特撮者のヒーローや、アニメのヒロイン、時代劇の人物など様々にあるだろう。
かくいう俺、衛宮士郎も昔は正義の味方に憧れていた………いや、今でも何となくそう思うときもある。

とはいえ、そんな事を考えていても、日々の生活になんら変わりはない。
親代わりの藤ねえの言うとおり、進学のために勉強は欠かせないし、俺自身も勉強は嫌いではない。
日々学校に通い、将来のためといって様々な授業を受ける日常――――そこには何の変化もない、穏やかな繰り返しだった。
高校二年の春――――クラス替えで俺が彼女と出会うまでは、そんな日常に変化がおきるとは、これっぽっちも思わなかった。



遠坂リンと出会うまでは。



2年に進級し、見知った相手や見知らぬ相手と混ぜこぜになったクラス替え――――始業式の後、2年A組の教室に俺は足を運んだ。
腐れ縁で同じクラスとなった一成と話をしていると、仏頂面の先生が教室に入ってきて、俺達はそれを合図にめいめいに席に座る。
担任の葛木先生は、簡単な自己紹介の後、今度は俺達に順に自己紹介をするように、と言って来た。

正直、自己紹介というのはあまり得意じゃなかった。特に何かに秀でたわけでもない俺は、何を言っていいのか思いつかなかったのだ。
ただ、出席番号順――――あかさたな順――――でもあるため、あまり考える時間もなかったのは幸いだったか。
頭の中に真っ先に浮かんだ…氏名と出身中学、あとはガラクタやら何やらを直す特技があることを挙げ、よろしくと締めくくった。

「ふぅ」

一つため息をつき、俺は気を抜いた。緊張の瞬間も終わり、あとはこれから付き合うクラスメートの顔でも覚えておくかと、のんびりと他人の自己紹介に耳を傾ける。
そうして、後藤君はじめ、何名かの生徒の独創的な自己紹介を経過して………一人の女子が立ち上がったとき、俺は目を見張った。

「遠坂リンです」

俺以外にも、生徒の大半が、とりつかれたかのように自己紹介をする彼女を見つめている。
艶やかな黒のストレートヘアー。整った顔立ち、鈴のように響く声で、彼女は出身校などの経歴を語った後、

「学校生活を盛り上げれるような、そんな活動をしていきたいと思います。皆で一緒に頑張りましょう」

などと、優等生らしい発言をした。ただ――――、

「…あと、魔法とか魔術師とか、そういった面白いものがあったら、ぜひ知らせてください。もっとも、簡単に見つかるものじゃないと思いますけど」

あとに続いた言葉は、とても穏当なものとは思えない代物であった。
当然、クラスの大半がギョッとした表情を見せたのだが――――ほぼ全員が、遠坂の表情を見て、それが彼女なりのジョークだと判断したらしい。
周囲にさざめいた、軽めの笑い声に会釈をして、彼女は席に着いた。そうして、自己紹介が再開される。
ただ、俺はクラスメートの声など耳に入ることもなく、先ほどの発言をした、遠坂を見つめていた。

(魔法、魔術師――――)



始業式ということもあり、そのまま授業に入ることなどなく、今日はこのまま解散という運びになった。
俺は、帰り支度を始める周囲とは対極的に、すばやく立ち上がり、教室の一角に向かった。
そこには、帰り支度を始めていた少女――――遠坂リンの姿があった。彼女は、歩み寄ってくる俺を見て、人当たりのよさそうな笑顔を見せる。

「あら、ええと…衛宮君、だったかしら? 私に、何か用?」

席に座ったまま、俺に向かって微笑んでくる遠坂。普段なら見とれてしまうであろう、魅力的な笑みだったが…その時の俺は、そんな笑顔を気に留める余裕もなかった。
俺は、彼女を見下ろしながら、喉の奥が乾くのを感じながらも、何とか裏返ることもなく、彼女に質問をしたのだった。

「あのさ…さっきの自己紹介なんだけど、どこまで本気だったんだ?」
「自己紹介………? 何のこと?」
「ああ、いや、魔法とか魔術師とか――――その件の事なんだけど」

本当に、返す返すもそんな質問を…初対面に近しい相手によくできたなぁと、あとになっても思う。
彼女の――――遠坂リンの、その言葉が印象深いせいもあったと思うが………ただ、その発言が意味するところを、俺はその時、これっぽっちも理解していなかったのである。
俺の質問に、遠坂は二度、表情を変えずに瞬きをしたかと思うと――――ふと、口の部分だけを動かして、俺にだけ聞こえるような小さい声で、呟いたのだった。

「――――本気だったとしたら?」
「…ぇ?」

不意に、どこかぞくりとした感触が、背筋に走った。恐怖心とか、そういった類ではない。言うなれば、道を歩いていたら、ばったりと黒猫と遭遇したような、そんな感じである。
目の前の少女は誰なんだ? これが本当に遠坂リンか、遠坂凛なのか………? そんな得体の知れない疑問が、脳の中をぐるぐると渦巻いた。
言葉を失った俺を、遠坂はじっと見上げていると、ふっ、と相好をほころばせた。そのとたん、奇妙な緊張感は綺麗さっぱり消え去ったのである。

「冗談よ、もちろん。ひょっとして、衛宮君って…そういうオカルトに興味があるの? とても、そんな風には見えないけど」
「あ、いや、別にそういうわけじゃないんだ。ただ、何となく気になったから――――」
「そうなの。でも、それなら意気込んで、詰め寄ってこられても困るんだけどなぁ…クラスの皆も、何ごとかと注目してるみたいだし」

そう言われ、俺ははっとして周囲を見渡した。帰り支度を始めた教室内――――といっても、誰も帰ってはおらず、好奇の視線がそこらじゅうから注がれていた。
ただ、好奇といっても、なにやら男子の中には、敵意のような視線を向けてきている者もいたが。

「あ――――その、すまない。迷惑を掛けちまったな、遠坂」
「いいわよ、別に。注目されるのは慣れてるし、別に困るようなことは何もないから」

気まずくて、頬をかきながら俺が言うと、遠坂は平然とした口調で言いながら、席を立った。そうして、俺に微笑みを掛けながら、目の前を通り過ぎる。
ふわりと、遠坂のつけている香水の薫りなのか、心地よい匂いが俺の鼻腔を刺激した。言葉もなく、立ち尽くす俺に、遠坂は不意に振り返ると………、

「それじゃあ、これから一年間よろしくね、衛宮君」

と、誰もが惹きつけられるような微笑みを浮かべた――――これが俺、衛宮士郎と、遠坂リンとの出会いだったのである。



「は、遠坂ぁ? 止めとけ止めとけ、あんな女、衛宮とは釣り合わないって、マジで」

それからしばらくは、俺と遠坂との関係には何ら進展はなかった。代わりに、妙な悪友が出来たのは、この頃である。
間桐慎二――――この学年になって、初めて顔をあわせた男子だが、事あるごとに俺に突っかかってきたかと思うと、いつの間にか悪友扱いにされていたのであった。
今日の雑用――――今時、まだ使ってるのかと思えるくらい古いテープレコーダーを、教室で直している俺の隣に陣取り、慎二は今日も他愛もない話をしてくる。

そういえば、慎二のやつは弓道部に所属しているらしいが…部活の方は大丈夫なんだろうか? まぁ、本人が行く気がないなら、わざわざ聞くのも意味はないだろうが。
何とはなしに、慎二の言葉に合いの手をうっている間に、話は遠坂の事について移っていたようだった。
さっきまでの話はなんだったか――――たしか、この学校で彼女にするなら誰がいいかとか言う話だったっけ? 俺にはあまり、縁のある話じゃないだろうけど。

「確かに遠坂は品行方正、成績優秀、学園のアイドルって言うのも分かるさ。けどな、あいつほど攻略しようのない相手もいないと思うぞ」
「攻略って………ゲームじゃあるまいし」
「何言ってんだよ、恋愛はゲームだろ? 楽しまないで恋愛なんてやってられるかよ」

は、と笑いながら、慎二はそんな事をのたまう。こんなヤツだが、校内に慎二のシンパ――――彼女のようなものが複数人いる辺り、その主張もあながち間違いじゃないかもしれない。
しかし、だからといって…俺が真似できるとは到底思えないんだが………そんな俺の内心などつゆ知らず、慎二は言葉を続ける。

「話を戻すけど…隙がないんだよ、遠坂には。どれだけ上手に言い寄っても、上手く避けられちまう――――厄介な相手だよ、本当に」
「ってことは――――慎二も遠坂に、言い寄ったことがあるのか?」

慎二のことだし、遠坂ほどの美人となれば、声をかけるのは間違いないだろう。そう思い、確認のつもりで俺は質問したのだが――――、
俺の質問に、慎二は無言。他が、嫌なことでも思い出したのか、その表情はあからさまに曇ったのである。

「――――慎二?」
「うるさいな…ああ、確かに言い寄ったよ、それも両手両足の指で数えられないくらいさ――――でも、全滅だぜ、全滅!」

よほど悔しかったのか、半ギレしつつ涙目になる慎二。よっぽど、遠坂のことがトラウマだったらしい。
何でもいいが、少し静かにして欲しいんだが。一応、細かい部品をハンダ付けしている最中だし、手元が狂ったら、大変なのである。

「挙句の果てには、実力行使に出ようとしたら、ボコボコにされたんだぞ! いったい僕が何したっていうのさ!」
「はぁ…それは大変だな――――って、ボコボコにされた!?」

慎二が、遠坂にボコボコ――――あの、おしとやかな遠坂が、そんな事をするとは思えないんだが。
思わず作業の手を止めて、慎二を見ると、慎二は思い出すかのように顔をしかめて俺から視線を逸らした。

「まぁ、ボコボコにされたってのは、遠坂にじゃないけどさ。なんだか知らないけど、遠坂に詰め寄ったら、急に現れたんだよ、妙なのが」
「――――妙なの?」
「ああ、どう見ても僕達より年上の社会人で、カタギじゃないね、あれは。遠坂のボディガードなのかもしれない」

その青年は、遠坂に迫る慎二を引き剥がすと、それはもう手加減なしに、慎二をボコボコにしたらしい。
黒服に身を包んだ、浅黒い肌の、白いツンツン頭だったな――――などと、慎二は忌々しそうに回想する。

「だから、遠坂はやばいんだよ。きっと、僕達が知らない裏の顔が――――って、聞けよ、衛宮!」
「ああ、分かった分かった………言われなくても聞いてるよ。けど、俺には関係ないだろ。別に、遠坂が何者であれ、ただのクラスメートなんだし」

のんびりとハンダ付けを続ける俺だが、慎二は俺の態度がお気に召さなかったようだ。わかめ頭をプルプル震わせたかと思うと――――怒髪天を突くかのように叫んだのである。

「何だYO! その態度はさ! どうせそんな関係ありませんって顔をして、美味しいとこだけゲットするんだろー!」
「落ち着け、あと、口調が変になってるぞ、慎二」
「うるさい、うるさい! 人がせっかく忠告してやってるのに………衛宮なんか、もう構ってやらないからなー!」

わーん! と泣きながら、教室を飛び出していく慎二。俺は――――、

「………さて、あと少しだな」

そんな慎二を気にすることなく、壊れた備品の修理に取り掛かる事にしたのであった。慎二のことだから、どうせ明日にはケロリとした顔で声をかけてくるだろう。
逐一、あいつの言うことを気にしていたら身がもたないし、さっきの話も、信憑性は半々だろう。後半の、ボディガードの辺りから、慎二の話が作り話っぽくなっていたしな。
そんな事を考えつつも、作業を再開した俺は、無事、下校時刻までにテープレコーダーの修理を終えることが出来たのだった。



そうして…日々は、ほんの少し先へと進む。



ある日の夕刻………俺は家庭科室に向かっていた。生徒会長である一成の要請で、家庭科室のコンロの点検をする事になっていたのだった。
ついでに、料理器具も見てもらえると助かる――――といわれていたので、それも点検するつもりではいた。

授業の一環と言うこともあり、そこまで本格的な料理をする場所でもないのだが、刃物を使うし、場合によっては火も扱う事になるので、チェックをするに越したことはない。
専門的な点検は出来ないにしろ、調理器具の整備など、することはたくさんあるだろう。やりがいがありそうだなと、俺は家庭科室の扉を開け――――、



そこに、夕暮れの日差しを浴びて、彼女は存在していた。



「リン………? いえ、違いますね。何者ですか?」

家庭科室の窓際の席――――手に持った本から目線をあげ、俺の方に顔を向けながら、金髪の少女は怪訝そうに俺に向かって聞いてきた。
どこか、凛々しいと評することの出来る、金髪の少女…学校だと言うのに、白と青を基調とした私服を身にまとい、手には…料理の本を開いて席に座っていた。
思わず見とれてしまうほどの綺麗な少女だったが、それ以上に惹かれたのはその真摯なまなざし…まるで、神話に出てくる一角獣のような澄み切った瞳が俺を見ていた。

「あ、いや――――ちょっと、ガスコンロを直しに来たんだけど…聞いていないかな?」

料理クラブか、何かの女子だろうか? 料理をするには形から入る人もいるし、あの私服も料理用の服なんだろう――――多分。
何故か緊張してしまった俺の言葉に、金髪の少女は考え込むように小首をかしげ――――しばらくして、造作の整った唇を動かして返答をしてきた。

「そのような話を聞いてはいませんが――――確か…そちらのガスコンロの火の勢いが弱いと、リンが嘆いていたのを覚えています」
「そうなのか………少し調べても――――構わないんだよな?」
「はい。私は読書を続けますので、ご自由にどうぞ」

そういうと、手に持った料理の本に視線を落とす女の子。勉強熱心なのか、食い入るように料理の本を読みふけっている。………さて、それじゃあコンロを調べるとするか。
…うーん、別に、ガスの元栓がおかしくなっているとか、そういうことじゃないみたいだな。随分使い古されているし、中の部品交換が必要なんだろう。

「これは、すぐに直せるわけじゃなさそうだな…型番を調べて、備品注文を出しておかないと。あの、悪いけどさ、料理をするときは別のコンロを使ってほしいんだけど」
「………そうですか。分かりました、リンにはそう伝えておきます」

料理の本から顔を上げて、女の子はそう返事をしてきた。と………ぐ〜………と変に間の抜けた音が家庭科室に響き渡る――――…ひょっとして、今のって腹の虫?

「………お腹がすきましたね、リンはまだ来ないのでしょうか?」
「………」

どうやら、今のは目の前の女の子の腹の虫だったらしい。物憂げな表情で、出入り口のドアを見つめるその横顔に、ドキッとしたけど…そんなにお腹が空いているのか。
そういえば、家庭科室の隅に大きな冷蔵庫があったけど、あの中に食材が入っていないんだろうか? 勝手に見ちゃまずいだろうし、一応、ことわりを入れておくとしよう。

「あのさ、ちょっとそこの冷蔵庫を開けてみても良いかな?」
「冷蔵庫を、ですか? それは、別に構いませんが」
「そっか、それじゃあ失礼して――――お、卵がある、それに、肉に魚に野菜………材料はいっぱいあるみたいだけど…料理はしないの?」

冷蔵庫の中を物色しながら、俺は女の子に聞いてみたが………俺の問いに、何故か女の子は自信満々に胸を張ると、厳かに言い切った。

「料理はリンが得意としています。私の得意分野は、料理の品評を下すことですから」
「――――そう、なのか…」

それは、いわゆる食べるほう専門というやつなんだろうか? まぁ、得意は人それぞれだろうけど…何かが間違っているような気がしないでもない。
ともかく、材料はあるし、調理用具も一通り揃っているようだ。勝手に使うのは問題があるかもしれないけど、部員の女の子もいるし、大丈夫だろう。

「少しばかり、食材を使わせてもらうけど、いいかな?」
「………私には、その判断は付きかねます。貯蔵庫の管理は桜に一任していますし………ですが、つい先日、物資を補填したばかりですから、ある程度なら大丈夫かと」
「なるほど、それじゃあ………これとこれを使わせてもらうよ」

女の子の言葉を聴き、俺は冷蔵庫の中から卵をいくつかと、バターの塊を取り出した。俺が出した材料を見て、女の子の顔が怪訝そうな表情になる。

「…それだけの材料で、料理ができるのですか?」
「まぁ、凝ったものじゃないけど、それなりにはね」

フライパンを熱し、卵を泡だて器でかき混ぜる。卵を焼く場合、素材を傷つけないようにゆっくりとかき混ぜる方法と、泡立てるように手早くかき混ぜる方法がある。
卵焼きを焼く時は前者のほうがいいけど、今回の場合はあえて後者にした。舌触りが滑らかになる――――と聞いたことはあるけど、実際はどうなんだろう?
まぁ、いつもこの方法で作っているから、わざわざ気にすることも無いんだろうけど………そんなことを考えながら、溶き卵に塩やコショウを加える。。

「…っと、そろそろいいかな?」

フライパンが熱したところにバターを乗せ、全体に満遍なく広げる。そうしておいてから、溶いた卵をゆっくりと流し込んだ。
卵を焦がさないように、手早くフライパンと菜箸を動かしていると、不意に横合いから視線を感じた。

「………」

卵を焼く匂いに釣られたのか、手に持った料理の本から顔を上げ、女の子がこちらの方を見ていた。白馬のような純粋な瞳がこっちを見ている。
気になる視線ではあったけど、それで卵を焦がしてしまっては大変なので、俺は手元のフライパンに集中することにした。
しばらくして、焼きあがった卵を丸めて皿に移すと、俺は席に座った女の子のもとに運んでいく。ナイフとフォークをそえて差し出すと、女の子は俺を見上げてきた。

「はい、どうぞ。冷める前にめしあがれ」
「………いただきましょう」

女の子は、少しの間オムレツを凝視してから、真剣な表情でナイフとフォークを手に取った。まるで、戦にいどむかのような真剣な面持ちだった。
切り分けた卵を一切れフォークで差し、口もとに運ぶ女の子。静かに咀嚼して飲み込むと――――…ほんのわずかだけ、目を見張るように瞳を大きくした。

「これは………美味しい」
「そうか、気に入ってもらえてよかったよ」

満足そうに焼き卵を口に運ぶ女の子。微笑ましい光景に、俺は笑みを浮かべると調理した用具を片付けることにした。
ひとまず、コンロの件は一成に報告するとして、使ったものは、きちんと片付けるとしよう。俺は、女の子に背を向け、片づけを始めようとし――――腕をつかまれた。

「――――え?」
「次の料理は何でしょうか?」

振り返ると、空になった皿を片手に持った女の子が、生真面目な表情でそんな事をいってきた。もう片方の腕は、俺の二の腕を握っている。
どうやら、俺が目を話した隙に、食べ終わってしまったようだ。しかし、次の料理って言ってもな………

「今のだけじゃ、満腹にはならなかったのか?」
「………」

俺の質問に、女の子は無言。ただ、その両の目が非難するように俺を見つめている。「何を馬鹿なことを言ってるのですか」と言いたいようだ。
まぁ、ほとんど初対面の相手にそんなことがいえるはずも無いだろうし、俺の勝手な予想なんだが、おおむね間違ってはいないだろう。
何しろ、女の子の身に纏う気迫は、飢えた獣のようであったし、俺の腕をつかむ手に力が込められ、俺を逃がすまいとしているのが分かったからである。

「………ま、別に急な用事もないし、それも良いか。また、冷蔵庫の中身を使わせてもらうけど、いいかな?」
「ええ、お願いします」

俺の言葉に、女の子は俺の腕をつかんでいた手を離すと、先程の席に戻り、再び料理の本に没頭し始めた。どうやら、料理ができるまで料理の本で暇を潰すつもりらしい。
本当に、食べるのが好きみたいだな。どことなく微笑ましい光景を一瞥したあと、俺は冷蔵庫に視線を転じた。さて、次は何を作るとしようか?

野菜炒めにコロッケ、味噌汁に山盛りのご飯――――出来上がったばかりの食事を、女の子は淡々を箸を使って平らげていく。
その姿は見苦しさとは無縁であり、なんというか、見ていて微笑ましくすらあった。食事を続ける彼女を見続けていると、にゅっと、茶碗を持った腕が突き出されてきた。

「おかわりを」
「ああ、ちょっと待っててくれ………はい、どうぞ」

茶碗に山盛りによそって、御飯を手渡すと、女の子は淡々とした様子で食事を再開した。それなりに多めに作ったはずの、野菜炒めは早々に姿を消し、コロッケも消え…、

「………ごちそうさまでした」

ようやく一息ついたのか、女の子がそう言って箸をおいたのは、並んだ食事が全てなくなって、数秒の間をおいてのことであった。

「はい、おそまつさま。食後には、お茶のお代わりをどうぞ」
「いただきます。ふぅ………」

満足そうに、お茶をすする女の子。どうやら満足してくれたようだ。幸せそうな表情の女の子の様子に、俺は知らず知らず笑みが浮かんでいたらしい。

「………嬉しそうですね」
「ん、ああ。随分と美味しそうに食べていてくれたからな。作ったかいがあったなと思って」

俺がそう答えると、女の子はじっと俺の顔を見てきた。曇りない眼が、射抜くように俺を見つめてくる。どことなく照れくさくなり、どうしようかと俺が考えていると…、

「………名を」
「ん?」
「貴方の名を聞いていませんでした。差し障りなければ、教えてほしいのですが」

女の子がそんな事を聞いてきた。そういえば、お互い自己紹介もしていなかったな。慎二じゃあるまいし、初対面の娘に、いきなり名前を聞こうとは思ってなかったけど。

「俺の名前は、衛宮士郎。君は?」
「私は――――セイバーという名で通っています」

通っている、ということは本名ではないんだろう。まぁ、呼び方は人それぞれなんだろうし、別段、彼女はセイバーと呼ばれるのを嫌がってはいないようだった。

「そうか、それじゃあ、俺もセイバーって読んべばいいのか?」
「ええ。私も貴方のことは――――シロウと呼ぶ事にします」

透き通るような、清純な微笑みを浮かべられて、俺はどうにも、くすぐったいような居心地を感じ、照れ隠しに頬をかく。
ご飯を無心に食べる時の、子供のような様子も可愛らしいと思ったけど、この笑顔は販促だった、まるで、御伽噺のお姫様のような純粋な微笑み。
セイバーと名乗る彼女の笑顔に、そんな感想を抱いていると、家庭科室のドアが、からからと音を立てて開いたのが聞こえた。

「遅くなってごめんなさい、セイバー。ちょっと黒い豹みたいなのに捕まっちゃって――――あら?」
「とお、さか?」

家庭科室に入ってきたのは、俺と同じクラスの女子である、遠坂だった。ツインテールの彼女は、室内にいる俺に、一瞬、怪訝そうな顔を向ける。

「……衛宮君? どうしてこんな所に居るのかしら? それに、なんだかセイバーと親しげに話していたみたいだけど」
「あ――――いや、別にやましい事をしていたわけじゃないぞ。ガスコンロの調子が悪いから、調子を見てくれって頼まれてたんだ」
「ふぅん、そうなの。まぁ、やましい事をしていたら、セイバーに三枚に下ろされているでしょうし、それは無いか」

考え込むような仕草をしながら、遠坂はポツリとそんなことをいう。あれ、でもセイバーって料理ができないって言っていたよな。
三枚におろすってのは、魚のことをいうんだけど……つまり俺は、魚扱いをされているのか。それも、女の子に手を出す不埒な魚という扱いらしい。
しかし、そんな比喩を遠坂が用いるという事は、セイバーは実はああ見えて、刃物の扱いには長けているのだろうか?
そんな事を考えている俺に、遠坂は優等生然とした態度で、事の次第を質問してきた。

「それで、コンロの調子はどうなのかしら? 設備的に古いものだし、だいぶ老朽化していると思うのだけど」
「ああ。その件については、業者に部品注文して、新しい部品と付け替える事になると思う。しばらくは、別のコンロを使ってもらうことになるんだけど――――」
「そうなの………まぁ、仕方がないわよね。しばらくは、別のコンロで代替するとしますか」

そう言うと、笑顔を浮かべる遠坂。気のせいか、教室に居る時よりも、どことなく気さくな感じがする。
何だかんだで、教室にいるときの遠坂は、注目の的だからな。ずっと注目されていては、さすがに気が抜けないのだろう。
遠坂は、持っていた鞄を机の上に置くと、お茶をすすっていたセイバーに微笑みを向ける。セイバーはというと、お茶をすすりながら、彼女を見つめ返した。

「随分と遅れちゃったけど、お腹が空いてるでしょ? すぐに何か作るけど、セイバーは何か食べたいものがある?」
「そうですね、では、中華料理を」
「って、いまさっき食べたばかりだろ!?」

しれっと言うセイバーの言葉に、俺は思わず呆れたようにそう言っていた。かなりの量を食べたと思ったんだけど、もう消化を終えたんだろうか?

「何を言われますか。食事を取る機会があるのならば、出来る限り空腹感は満たしておくべきでしょう。いつ何時、戦端が開かれるとも限らないのですから」
「………つまり、要約すると、まだ腹が減っているって事か」
「あ――――まぁ、セイバーは、かなり特殊な燃費をしているからね。他の所は、文句の付けようも無いんだけど」

食費がかさむのが問題なのよねー………などと、ぶつぶつ呟きながら、冷蔵庫に歩み寄る遠坂。って、よくよく考えると――――

「さて、それじゃあ何を作ろうかしら――――あれ? おかしいわね……まだ、たくさん材料があったと思ったんだけど」

ほとんど空になっている冷蔵庫に首をかしげた遠坂は、こちらに顔を向けて思案顔。後片付けのために、スポンジで食器を洗っている俺を見て、ビッ、と指を差してきた。

「なるほど………犯人は貴方ね、衛宮君!」
「え、犯人って………何の?」
「簡単な推理よ。セイバーは料理なんてしないし、桜が来た形跡も無い。だとすれば、冷蔵庫の中身を消費したのが誰なのか、簡単に説明が予想が付くわ」
「――――ひょっとして、勝手に冷蔵庫の食べ物を使ったのが悪かったのか? セイバーに、許可は取ったんだけど」
「あー……いや、悪いってわけじゃないのよ。ただ、何となくノリで言ってみたかっただけだから」

俺の質問に、遠坂はそんなことを言って肩をすくめた。なんというか……いつもクラスで見ているときより、何となく、くだけた雰囲気を遠坂から感じる。
いつもは、完璧な優等生ぶりで、某名探偵のような真似なんて、することもなかったし。と、そんな事を考えていると………。

「リン………中華料理はまだでしょうか」

ご飯を待っている大型犬のような表情で、セイバーが切なそうに、そんな事を聞いてきたのであった。

「あー………ごめん、セイバー、ちょっとだけ待っててね。衛宮君、仕方がないから、今からひとっ走り、商店街まで行って、食料品を買ってきてちょうだい」
「げ、商店街まで今から行くのか?」
「しょうがないじゃない。冷蔵庫の中身の大半を使っちゃってるんだし……そもそも、衛宮君がたくさん作りすぎるからこうなったのよ」

遠坂にジト目で睨まれ、その剣呑な雰囲気に、俺は思わず後ずさってしまう。なんというか、花も殺さぬ優等生の、その内面を垣間見たような気がした。
まあ、冷蔵庫の中身を使いすぎたのも確かだし、ここは一つ、要望にこたえて商店街に買い物に行くとしようか。

「わかった。出来るだけ急ぐけど、それでも少しは掛かると思うんだけど、良いか?」
「ええ、お願いね。あ、レシートを貰う時は、領収書を忘れずに貰ってきてちょうだい」

真面目な表情で、そんな事をいう遠坂。どうやら、セイバーの食費は、部費で落としているらしい。しっかりしているよな。
そんなことを考えながら、俺は足早に家庭科室を走り出た。まずは駐輪場に行って、自転車を手に入れるとしよう。

駐輪場には、いつから置いてあるのか……かなり古い型の自転車が、たくさんの自転車に混じり、昨年の初めから、一台ポツンと放置されている。
撤去するのも経費が掛かるので、そのままにしてあった自転車を、俺は一成の許可をもらって、一通り乗れるようにチューンナップしておいたのだった。
いつか、持ち主が現われたら持って行ってもらおうと考えていたのだが……非常時だし、一時的に使わせてもらうことにしよう。

「さて、いそがなきゃな」

俺は夕暮れの中、自転車を漕ぎ出して、一路、商店街に向かう。タイムリミットは決められてなかったが、出来るだけ急いだ方がいいだろう。



「買って来たぞー」
「あら、早かったわね」

それから二十分後………大急ぎで買い物を終え、戻ってきた俺を見て、遠坂はいささか驚いたような表情をした。
家庭科室には、香ばしくもいい匂いがしており、セイバーは行儀良く席に座って食事をしているようだ。どうやら、冷蔵庫の余り物を使っての炒飯のようである。
両手一杯に買い物袋を提げた俺を、ちらりと一瞥した後で、セイバーはレンゲを動かしての炒飯の捕食を再開した。
何となく、餌に食いついているライオンをイメージさせるその光景を見ながら、俺は買い込んで来た食糧を冷蔵庫にしまいこむ。
少々、買い込みすぎたかとも思ったが、遠坂がセイバーの為に炒飯を作ったおかげで、何とか全ての食材をしまうことが出来たのだった。

「冷蔵庫の補充は終わったぞ。とりあえず、汎用性のある食べ物を買い込んできたから、必要な物は後で買い足ししておいてくれ」
「そう、ありがとう。掛かったお金は、どのくらいになるのかしら?」
「ああ。レシートはこれだけだな。いくつかの店で買い分けた分、多少は安上がりになったと思う」
「ふむ…………ほんとだ、思ったより安く済んだのね」

俺の手渡した、複数のレシートにざっと目を通し、遠坂は感心したように声をあげる。
商店街の時間セールや、行きつけの肉屋での店頭交渉などの努力により、買い付けに掛かった費用は、かなり抑え目な金額になった。
遠坂は、満足げな表情になると、スカートのポケットから財布を取り出し、買い付けに掛かった金額を手に乗せて俺に差し出してきた。

「ご苦労様。買い物に掛かった、必要経費は返しておくわね」

ピッタリ1円単位まで合わせて返してくるのが、遠坂の几帳面さを表しているようで、俺は思わず笑みを浮かべながら手を伸ばし……途中で、手を引くことにした。

「? どうしたの? 金額は、間違ってないと思うけど」
「いや、いいよ。彼女――――セイバーに料理を振舞ったのは、俺の意思だし、買いこんだ食材も彼女に食べてもらえるなら、金を返してもらわなくても構わないさ」
「………私は、借りは作らない主義なんだけど」

俺の言葉に、何故か遠坂は渋面になる。別段、こっちは借りを作ったつもりはないけど、何か気を使わせてしまったんだろうか?
どことなく、気まずくなった俺は、頬をかきながら、視線を逸らして思ったことを口にする事にした。

「別に、借りとかを作ったつもりはないよ。まぁ、どうしてもその金を受け取らなきゃいけないって言うなら、その金で、またセイバーに料理を振舞うことにするけどな」
「……つまり、受け取る、受け取らないのどっちにせよ、このお金はセイバーの為に使いたいってことね。何と言うか、お人よしね、衛宮君って。それとも……惚れた?」
「ばっ、なに言ってんだよ!」

唐突に、とんでもない事を遠坂に言われ、俺は慌てて大声を上げた。もっとも、話に上っているセイバーはと言うと……無心で炒飯をかっ込んでいたのだったが。
遠坂は、慌てる俺が面白いのか、ニマニマとした笑みを浮かべながら。口元に手をあてている。笑みを隠そうとしているようだが、丸見えであった。

「えー、だって、セイバーとは、さっき出会ったばかりでしょ? そんな相手の為に、無償でお金を出すなんて、よっぽどのことじゃないかしら?」
「そ、そうかもしれないけど………それには、訳があって」
「ふーん、どんな訳かしら?」

遠坂の質問に、俺は頭をひねる。殆ど初対面のセイバーのために、どうしてそこまでしたくなったのか、その理由は――――案外すんなり出た。

「なんて言うかな、俺の出した料理を、こんな風に一生懸命食べてくれたのは、藤ねえ以来だったし、料理人冥利に尽きると言うか、そんな感じかな」
「――――」

俺の返答に、遠坂はキョトンとした表情。意表を突かれたのか、顔に浮かんでいた笑みも消えていた。しばらくして、遠坂は溜め息をしながら肩をすくめた。

「………なんだ、つまらない。結局のところ、衛宮君もご同類ってわけね」
「え、それってどういうことだよ?」

遠坂の言葉に、俺が眉をひそめた時である。家庭科室の二つあるドアのうち、一つがノックされ、すぐに誰かが部屋の中に入ってきた。

「ごめんなさい、遠坂先輩。部活が長引いて、遅くなっちゃいました――――え?」
「あれ? 桜――――? なんで、ここに?」

家庭科室に入ってきたのは、クラスメートの慎二の妹である、間桐桜であった。桜とは、実は慎二よりも付き合いが長い。
小さい頃、切嗣が亡くなってから、親代わりになった藤ねえが、時々自宅につれてきては、俺と引き合わせていた女の子……それが、桜であった。
当時、家庭内で問題があったらしい桜は、同時期、親を亡くして打ちひしがれている俺と、不思議と波長が合ったのかもしれない。
気がつけば、一緒にいる時間が増え、お互いに欠けた所を補うかのように、俺と桜は互いを支えつつ、成長していった。

最近では、俺の朝食を作るために、何日かに一度の割合で、自宅を訪れることが度々あり、藤ねえに通い妻だとからかわれることもある位であった。
そんな桜が、何故この家庭科室に入ってきたんだろう? 怪訝に思った俺だが、それは桜も同じだったらしい。遠坂と俺とを交互に見て、桜は戸惑ったような表情を見せる。

「え、え――――…先輩が、どうしてここに? もしかして、遠坂先輩、先輩と……」
「いや、別にそういう事じゃないのよ、桜。勘違いしないで」

なにやら落ち込む桜に、遠坂は憮然とした表情でそんな事を言う。しかし、そういう事って、どういうことだろうか?

「なあ、そう言うことって、どういうことなんだ?」
「……ほらね、これですもの。桜の心配しているような事は、何もなかったわよ。セイバーも一緒だったし」
「そ、そうですか」

遠坂の言葉に、桜がほっとしたような表情を見せた。俺はというと、やりとりの意味が分からず、頭にいくつも???を浮かべていた。

「衛宮君は、生徒会からの依頼で、ガスコンロを直しに来てくれたそうよ。点検は終わったけど、やっぱり古いものだから、直すのに手間が掛かるんですって」
「まぁ、手間自体はそんなに掛からないんだけどな。問題は、部品を発注して、業者がいつ届けてくれるかなんだけど」
「なるべく、早く出来ないかしら? なんとなく、このコンロじゃないと調子が出ないのよね」
「その点は一成に相談してみるしかないなぁ。出来るだけ、早くしてくれるように頼むつもりだけど」

部品の発注も受け取りも、生徒会が担当教員に依頼する形で行われるため、どうしてもタイムラグが出る。
酷い時には、何ヶ月も前に頼んだ物が、未だに送られてこない事もあるそうだ。部品自体の生産が終了していたり、発注する物が多くて、後回しになることも多いらしい。
一応、そういった事態を減らすために、生徒会としてもリストを作ったりしているが……いかんせん、発注する量が膨大なため、後回しになるものも出てしまうのである。

「そう。ま、期待しないで待ってることにしましょうかね。変に弄って、火事になったりしたら困るしね」
「そうしてもらえると助かるよ。それはそうと、桜が何でここに居るんだ? 桜は弓道部だったはずだけど……掛け持ちで参加でもしているのか?」
「ええと、それは」

俺の言葉に、桜は遠坂を見る。どう説明していいのか、迷っているようにも見えた。そんな桜を一瞥すると、遠坂は俺を見て、笑みを浮かべた。
何と言うか……その笑みは、優等生の遠坂には、似つかわしくない程に豪胆で――――だけど、遠坂に相応しい微笑みだったのである。

「それはね、桜は我が団の団員だからよ」
「我が、団?」
「ええ、そうよ。その名も――――SOS団のね」

そう言うと、ニッコリと笑みを深める遠坂。その笑みに見とれながら、聞きなれない単語に、戸惑いを見せる俺であった。

ちなみに、SOS団のSOSとは――――

S:セイバーを
O:おなか一杯にさせるために
S:食事を作る

という意味合いがあるらしい。大真面目にそんな事を言う、遠坂の話から察するに……要は料理クラブの類であるようだ。
ただ、団体の名前に表される通り、作った料理を食べるのは、セイバーの役割らしい。まぁ、あれだけ気持ちのいい食べっぷりをするのだし、食べる役割と言うのも頷けた。


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