〜闘神都市V〜 

〜闘神都市V〜
〜そして、それから〜



<コロシアム・受付>

「おつかれさまでした。ナクト様! これから自由時間ですか?」

自分の役目である挨拶を終えた後、開会式の途中で抜け出して受付に戻ると、カウンターに座ったシュリさんが声を掛けてきた。
アナウンスの役割は途中から代わったのか、歓声とともに聞こえるマイクの声は、いつのまにかパニィさんの声に変わっている。
開会式の進行役だけでなく、受付の仕事も平行してやっているんだから、シュリさんも多忙だよな。

「シュリさんも解説役、お疲れ様。これからの時間は受付に居るの?」
「ええ、そうですよ。この時期は利用者の方も多いですし、グッズの販売も書き入れ時ですから」

シュリさんの言葉に周囲を見渡すと、何名かの男女が遠巻きにこっちをうかがっているのが見える。
どうやら、受付に用事があるみたいだし、あまり長居をして、シュリさんの邪魔をしちゃ悪いだろうな。

「それじゃあ、俺は退散するとするよ。グッズの販売、頑張ってね………気が向いたら、後で差し入れでも持ってくるから」
「本当ですか? それじゃあ、楽しみに待っていますね!」

俺の言葉に、シュリさんは嬉しそうな笑顔を見せる。社交辞令のつもりで言ったけど、これは本当に、後で差し入れでも持って行った方が良いだろう。
手を振るシュリさんに、同じように手を振り替えして、俺はコロシアムを出た。夕方には家に帰るとして、それまでは街の様子を見て回るとしよう。



<広場>

「お、露店が並んでる。さすがに賑わってるな」

広場に出ると、ずらりと並んだ露店と、多くの観光客が目に入ってきた。闘神大会の始まるこの時期は、賑わいが一段と高まっている。
様々な露店が立ち並ぶ、その多くは食べやすい菓子の露店であり、あちこちから甘い香りが漂ってきている。
そういった露店の前には、男女のカップルや若い女の子達が並び、楽しそうな様子を見せている。

「おじさーん、ここに並んでいるの、一種類ずつお願い!」
「ん、あれは……?」

元気の良い声にそちらに顔を向けると、小柄な後姿が目に入った。何となく気になって、そちらに足を向けると、両手に焼き菓子を持った少女がこちらに顔を向けた。
一瞬、呆けたような顔をした彼女だったが、すぐにその顔に笑顔が浮かぶと、俺に向かって飛び掛るように抱きついてきた。

「うわー! ナクトだっ! 久しぶりだね、元気してた?」
「ああ。ルミーナも元気そ……うわっ!?」

元気そうだと言おうとした矢先、いきなり伸び上がるようにルミーナの顔がアップで迫ってきて、俺は思わず背中をそらして仰け反っていた。

「もう、駄目だよ、ナクト。ここでは、ボクはナミールなの。そう呼んでくれなきゃ、色々と困る事になるんだから」
「あ、ああ。悪かったよ。それはそうと、ええと、ナミール? 注目されているみたいだし、離れてくれると嬉しいんだけど」
「あ……ゴ、ゴメンね」

広場には、観光客や参加者がたくさんいる。そんな中には、抱き合うカップルやいちゃつく伴侶がいないわけでもないが、今の俺は都市長である。
以前よりも、顔の知られた俺としては、こんなことでニュースになりたくは無かった。羽純に知れたら、特大の雷を落とされる事が違いないからである。
ルミーナは、慌てた様子で身を離して、照れたような微笑みを浮かべる。天真爛漫な彼女でも、注目されるのは恥ずかしかったようだ。

「それにしても、久しぶりだな。トーナメントの参加者にナミールの名前を見たから、いずれ会えるだろうと思っていたけど……お姉さんは?」
「お姉ちゃんは、来てないんだ。今回の参加は、ボク一人の我侭だから……お姉ちゃんは協力するって言っていたけど、父様達に反対されちゃって」
「ふぅん。って事は、今回もまた、政略結婚の件での揉め事なんだな。カツサンド伯爵もトーナメントに出場していたし」
「……うん。そうなんだ。だから今回は、どうしても優勝しなくちゃいけないんだ」

俺の質問に、苦い表情のルミーナは肩をすくめる。おそらく、結婚を反故にする条件として、闘神大会で優勝することを条件に出されたんだろう。
しかし、ルミーナも大変だな。俺に協力できる事があればいいんだけど。俺はしょんぼりとしたルミーナの肩を叩きながら、周りに聞こえないように、小声で応援する。

「そうか、俺は表立って応援できる立場じゃないけど、頑張れ。ルミーナが闘神になってくれるなら、俺も嬉しいからな」
「え、ほんと……?」
「嘘を言ってどうするんだよ。まぁ、こればっかりは願ってどうにかなるわけじゃないけど……ルミーナが勝ちのこる事を期待しているよ」
「――――うん! ボク、頑張るね! よーし、それじゃあ景気づけに、もう一巡りしてこよっと! またね、ナクト!」

嬉しそうに笑顔を見せると、ルミーナは走り去っていってしまった。どうやら、出店めぐりの趣味は直っていないらしい。
それにしても、あの身体のどこに入るんだろうな? そんなことを考えながら、俺は広場から離れる事にした。
さっきの騒ぎで注目されているし、ほとぼりが冷めるまで、ここには寄らない方が賢明だろう。



<マビル迷宮・出入り口>

「……そういえば、アザミはどうしてるかな?」

ぶらぶらと歩いて、マビル迷宮前に来たところで、何となくアザミの事が気に掛かった。ここ最近は、街中でアザミの姿を見かけていなかった。
あの事件以後………アザミはマビル迷宮での生活を再開していた。本人曰く、「おちつくから」とのことである。
何度か、闘神区画で一緒に生活しないかと誘った事もあったが、毎回、十数秒考えるそぶりを見せた後で、断られるのが常だった。静謐な空気が肌に合わないらしい。

それはともかく、せっかくこの場所に足を向けたんだし、様子を見に行くのも良いだろう。俺は認証カードを手に持って、転移魔法陣に足を向けた。



<マビル迷宮・ナマニク>

ナマニクの奥に設置されている、テントの前に来た。相変わらず、テントの上には洗濯物が干されていて、アザミがここで元気に生活している事を物語っている。

「アザミ、いるかー?」

テントの中に向かって声を掛けてみるが、返事は無い。テントの中に人の気配がしないので、留守なんだろう。
しかし、ちょうど訪ねてきた時にいないなんて、間が悪いな…………と、そんな事を考えていると、不意に視界が真っ暗になった。

「……だーれだ」

抑揚の無い声が、背後から聞こえてくる。らしからぬ、お茶目な行動がおかしくて、俺は笑いながら、彼女に声を掛けた。

「アザミだろ?」
「………はずれ。正解はベーコン」
「って、何となく生臭かったのはそのせいか!」

慌てて頭に齧り付いているベーコンのあごを外す。頭の上部にぱっくりと喰らいつかれていたようで、視界がさえぎられていたのも、そのせいだったらしい。

「やれやれ、いささか弛んでいるのではないか? こうもあっさり食いつかれるのでは、命がいくつあっても足りないと思うがな」
「殺気が無かったから、油断したんだよ…って、言い訳にもならないな。確かに、ここしばらくは大きな事件も無かったからな」

ベーコンの言葉に、苦笑を浮かべる。あまりに腑抜けすぎて、闘神クランクみたいなエロオヤジになるのは嫌だし、少しは身体を鍛えなおした方がいいかもしれないな。
と、そんなことを考えていると、ベーコンを身体の中に引っ込めたアザミが、静かな瞳で俺を見つめてきた。

「………何か、あった?」
「ん、あ、いや………闘神大会が始まってさ、それで、何となくアザミがどうしているのか気になってな」
「………」

俺の言葉に、アザミは何か考えるように、じっと沈黙、それからしばらくして。

「パートナー」
「ん?」
「………いるの?」
「いや、俺は大会に出場しているわけじゃないから。パートナーが必要なわけじゃないんだ」

俺の言葉に、アザミは不思議そうな表情をする。俺が来た理由が、よく分かっていないらしい。まぁ、俺自身、アザミに会うための明確な理由なんて無かったけど。

「そうだな、ここに来たのは…大会が始まって、街も賑わっているから、アザミと一緒に、あちこちを見て回ってみたいと思ったからかもしれないな」
「………?」
「ほら、パートナーとして、あちこち行った事はあっても、何のしがらみも無く、のんびりと回った事は無かったわけだし、たまにはそういうのも良いんじゃないかと」

自分でも、思いつきで口に出した考えは、想像するとわりと楽しそうであった。俺の言葉に、アザミは無言で考えるそぶりを見せた後………ポツリと言葉を口にした。

「…デート」
「え?」
「………する?」
「いや、確かにデートと言えるかもしれないけど………アザミ、どこでそんな言葉を覚えたんだ?」

何となく、娘がいつの間にか成長していた事を知った父親のように、ショックを受けた俺に、アザミは淡々と、情報源の名前を口にする。

「シュリ。さっきの驚かし方も、シュリに教わった」
「シュリさん………何を教えてるんだよ」

どうやら、俺の知らない所で色々と教わっているのか、あんなに純真無垢だったアザミは、いつの間にか変な知識も身に付けてしまっていたらしい。
アザミの人間性を考えるのなら、喜ばしい事だけど――――なんとなく、悲しいような気がしないでもない。

「………するの?」
「あ、ああ。デートの話か。アザミがいいなら、俺も問題ないけど」
「………」

俺の返答に、アザミは無表情。でも、なんとなく喜んでいるのは分かるから、肯定と受け取っていいんだろう。

「よし、それじゃあさっそく、街に行くとしよう。お帰り盆栽するから、つかまってな」
「ん」

アザミが腕につかまるのを確認し、俺はお帰り盆栽を使うことにした。

「…ぱっきり、にょきにょき」

どことなく、浮かれているようなアザミの声を聞きながら、俺とアザミは、マビル迷宮の出入り口に戻る事になったのだった。



<酒場・ハニワ浪漫>

「はにゃりーん! ナクト様、いらっしゃいませ! アザミちゃんも一緒にどぞどぞっ!」

酒場に足を踏み入れると、アリサさんの大きな声が店内に響き渡って、一瞬、店内の喧騒が止んだ。しかし、俺とアザミが席に付くころには、元通りになっていたけど。
闘神はこの都市内では治外法権を持つといっても、俺も幻一郎さんも無法を働く気は毛頭無かったため、一時期のような闘神が恐れられているという状況は無くなった。
まぁ、逆に言えば、そこまで敬意をもたれることも無くなったわけだけど――――そのあたりは喜んでいいのか微妙な所だった。

「あの人が、闘神ナクト様なんだって」(ひそひそ)
「ふぅん、何だか普通ね。どちらかって言うと、幻一郎様の方が闘神っぽいよね〜」(ひそひそ)

ひそひそ話で、そんなことを囁かれているのが耳に入る。まぁ、確かにガラじゃないのは分かってたけど、耳にするとちょっとヘコむなぁ。
やっぱり、凄みを見せるために髭でも生やすべきなんだろうか? 羽純にその話をしたら、微妙な顔をされたけど――――と、そんな事を考えていると、肩をたたかれた。

「おう、なにを辛気臭い面してんだよ、ナクト!」
「っと、あ、ボーダーさん! それにレイチェルさんも…お久しぶりです!」
「お久しぶり、ナクト君。それに、アザミちゃんも………元気にしてたかしら?」

肩をたたかれて振り向くと、そこには懐かしい顔があった。ボーダーさんとレイチェルさんは、昨年会ったときと変わらず、俺に笑顔を見せてくれている。
と、じっとボーダーさんの顔をアザミが見つめていた。しばらくして、アザミがポツリと口を開く。

「…いい人」
「おう、何だ、嬢ちゃんも元気そうだな。腹は減ってないか? おい、店主! メニューの端から端まで、ありったけもってこい!」
「ちょ、ちょっとボーダーさん! いくらなんでも頼みすぎだって!」
「なに言ってやがる、ひょっとして、払いの心配をしてるのか? 安心しろよ、再会を祝しての、俺のおごりだからよ」

そう言って、豪快な笑顔を見せるボーダーさん。ありがたいといえばありがたいけど………いちおう俺は闘神だし、都市長なんだけど、奢ってもらって良いんだろうか?

「どうせ家じゃ、尻にしかれて財布の紐も握られているんだろ? 遠慮せずに奢られておけよ」
「ちょ………何で知ってるんだよ!?」
「いや、なんだ………単なる冗談のつもりだったんだが――――ナクト、愛妻家もいいが、たまには羽目を外した方がいいと思うぞ、漢としては」

図星を言い当てられて、慌てる俺に、ボーダーさんは呆れたような顔をする。そういうボーダーさんもレイチェルさんの尻に敷かれていると思うんだけど。
レイチェルさんはというと、アザミの隣に座って、楽しそうに談笑していた。談笑というか、レイチェルさんが一方的に喋ってるんだけど、アザミも楽しそうにしている。

「それにしても、アザミちゃんも髪が伸びたわよね………髪型を変えたりはしないの?」
「…めんどいから、いい」

この3年間、身体的にはそれほど成長していないアザミだったけど、髪だけは年月の経過を物語るように延び続けていた。
出会った頃は、肩にも届かなかったアザミの髪は、今は腰に届くくらいに伸びている。アザミの返答に、彼女の髪を触りながら、レイチェルさんは呆れたような顔を見せた。

「そんな無関心だと、もったいないわよ。せっかく綺麗な髪をしているんだもの。三つ編みにしたり、束ねたりしたら似合うと思うけどな」
「………あむあむ」

興味が無い事には無関心なのか、アザミは、レイチェルさんの言葉を右から左に聞き流しながら、出されてきた料理を黙々と食べ続けている。
と、レイチェルさんが、楽しそうな表情でアザミの耳元に口を寄せると、何かを囁いたようだ。

「ナクト君も、きっと可愛いって言ってくれると思うんだけど」
「………」

ん? 何故か、アザミが俺の方を見つめてきた。なにか気になった事があるんだろうか? 俺が内心で小首をかしげていると、アザミはレイチェルさんの方に向き直った。

「………やる」
「そう? それじゃあ色々と変えてみましょうか? ナクト君、ちょっとアザミちゃんを借りていくわね」
「あ、はい、どうぞ」

俺が頷くと、レイチェルさんはアザミを連れて、酒場から出て行ってしまった。何となく気になったが、席を立つ前に、ボーダーさんが俺に話しかけてきた。

「それで、どうなんだ? ここ最近は、以前よりは、風当たりも弱くなってきたらしいが」
「…うん。幻一郎さんが闘神になってからは、色々と協力してくれるから、前みたいに苦労する事は少なくなったかな?」

昨年までは、色々な責任を、俺一人が背負い込む羽目になり……目まぐるしい忙しさで休む暇も無いくらいだった。
今は、仕事の一部を幻一郎さんが肩代わりしてくれるから、多少の余裕が出来ているけど、あのままだったら、過労で倒れていたかもしれない。
また、滞りなく仕事をこなす事で、住民の俺に対する風評も、ここ最近では良好になってきたように思える。
何しろ、3年前には『都市長と他の闘神を惨殺し、闘神都市を乗っ取った』って噂が流れた事もあったからな………それに比べれば、今の状況は天国だろう。

「…そうか。俺も何か手伝えればいいんだがなぁ。こういう状況だと、ただの冒険者ってのは、無力なもんだって、つくづく感じさせられるぜ」
「そんな事は無いって! ボーダーさんはもちろん、皆が応援してくれたから、俺も、ここまで頑張れたんだから」

あの戦いの後、俺は闘神の立場も地位も全部捨てて、羽純と親父を連れて故郷に帰ろうと思っていた。
それを引き止めたのは、闘神区画に住む人達や、シュリさん達、闘神大会の関係者、それに、ボーダーさん達、旧知の冒険者だった。
この街は、闘神を必要としている。故郷に帰るのを思いとどまったのは、俺を必要とする多くの人達の熱意に負けてのことだった。
もちろん、それぞれに打算や思惑もあっただろう。だけど、辛い時や苦しい時、彼らが応援してくれてると思えるからこそ、過酷な状況に耐えられたのも事実だった。

「そうか……しばらく見ないうちに、成長したみたいだな。自分の子供が、いつの間にか一人前になったみたいで、不思議な気分だぜ」
「何を言ってるんだよ。俺なんかまだまだ、ひよっ子だって。ボーダーさんには、これからも迷惑を掛けると思うんだから、元気でいてもらわないと………いてっ!」
「人を、ボケ始めの老人みたいに言うんじゃねぇよ。俺はまだまだ、現役だぜ」

俺の頭を小突くと、ボーダーさんは酒の入ったジョッキをぐいっと一気飲みする。なんと言うか、こういうワイルドなところは真似できそうにないよなぁ。
そんなことを考えていると、空になったジョッキをテーブルの上において、ボーダーさんは席を立った。

「さて、休憩はこれくらいにして、またEXPを稼ぎにでも行ってくるか。それじゃあな、ナクト」
「あ、うん。気をつけてなんていう必要は無いだろうけど、頑張ってね」
「おうよ。お前も色々あるだろうが、めげるんじゃねえぞ」

そう言うと、ボーダーさんは酒場から出て行ってしまった。テーブル席に独りになった俺は、間を持たすために酒のつまみをポリポリとかじる。
しばらく時間を潰していたが、レイチェルさんとアザミは、なかなか戻ってこなかった。借りていくといっていたけど、いったい何をしているんだろうか?

「気になる………けど、どこに行ったか分からないからな」
「ナクト」

と、手持ち無沙汰に時間を潰してしばらく経ったころ、特徴的な静かな声が、背後から聞こえてきた。

「ああ、アザミか。いったい、何をして――――…」

いたんだ、と聞こうとしていた言葉が止まる。振り返った先にたっていたのは、俺の見たことの無い格好のアサギだった。
長い髪を束ねてポニーテールにして、若草色の長袖シャツと、純白のロングスカートに身を包んだ姿は、可愛らしい女の子そのものだった。

「ほら、ナクト君。ぼうっとしていないで。感想を言ってあげないと。アザミちゃんも似合っているかどうか不安なんだから」

アザミに付き添って酒場に戻ってきたレイチェルさんが、笑いながら俺にそう聞いてくる。俺は何だか落ち着かない気持ちのまま、思ったとおりのことを口にした。

「あー、うん。何だ、似合ってると思うよ」
「………可愛い?」
「そうだな。凄い可愛いと思う」
「………」

あ、照れた。

「さて、ナクト君もお気に召した事だし、せっかくだから、そのままデートに行ってきたら良いわ。あ、そうだ、ナクト君、ちょっと」
「………? はい、なんですか?」

レイチェルさんに手招きされて傍によると、俺の耳元に口を寄せて、レイチェルさんは笑いをこらえるかのように呟いてきた。

「いくらアザミちゃんが可愛いって言っても、羽純ちゃんを泣かすような真似をしちゃ駄目よ」
「う………わ、分かってますよ。それにしても、レイチェルさんはアザミと羽純、どっちの味方なんですか?」

照れ隠しに聞いた俺の質問だったが、レイチェルさんは、毛ほども動じた様子は無かった。彼女は笑顔であっさりと、

「そうね………強いて言えば、恋する乙女の味方って所かしら?」

などと言ったのであった。正直、ボーダーさんもそうだけど、レイチェルさんにも人間的に勝てそうにはないと思ってしまった俺であった。

「はぁ、そうですか。まぁ、いいや。アザミ、そろそろ別の場所を回ってみるか」
「ん」

俺の言葉に、アザミがトテトテと傍によってきて、手を握ってきた。何となく、俺も手を握り返すと、レイチェルさんは微笑ましいような生暖かい視線を送ってくる。
正直な話、恥ずかしい事この上ないが、アザミが喜んでいるみたいだし、今さら手を離すのも何となく躊躇われた。

「それじゃあ、俺たちは行きますけど………レイチェルさんは、まだここにいるんですか?」
「ええ、あの人は夜まで戻ってこないでしょうし、しばらくは、ここで時間を潰しているわ」

そう言うと、席に座ってお酒のジョッキに手を伸ばすレイチェルさん。酔客が多いけど、大丈夫かと聞こうとしたが、止めておいた。
レイチェルさんのことだし、その手の相手のあしらい方も心得ているだろう。俺はレイチェルさんに頭を下げてから、アザミをつれて酒場から出ることにした。



<トトカルチョ会場>

アザミをつれてトトカルチョ会場に来た。開会式も終わったようで、気の早い観客の中には、明日の試合を待ちきれず、トトカルチョ会場に足を向ける者も多数いた。
実際に賭けが行われるのは当日なのだが、トトカルチョ専門の雑誌を買ったり、アカメフルトなどの食べ物を購入したりしているようだった。

「人が、いっぱい」
「ああ、そうだな。パニィさんも忙しそうだし、他の場所に行ってみるか……そういえば、アザミはトトカルチョを買う気はないのか?」
「………?」
「いや、俺は関係者だから買うことは出来ないけど、アザミは今回は参加者でもパートナーでもないんだし、興味があるなら買ってもいいかと思うんだけど」

俺の質問に、アザミは少し考える様子だったが、ややあって淡々とした様子で返答をした。

「いらない」
「………そ、そうか。まぁ、買う気が無いのなら、それでも良いんだけど」
「ナクト、出ないし」
「――――そうか。もし出たら、俺に賭けてくれてたってことだな。ありがとな、アザミ」

頭を撫でると、アザミは嬉しそうに頬を染める。
俺はアザミを連れて、その場から離れる事にした。会場から離れる時、パニィさんと目が合ったので、手を振ると、パニィさんも笑顔で、手を振り替えしてくれたのだった。



<宿屋・アルカトラズ>

アルカトラズの近くに立ち寄ってみた。巨大な壁に囲まれた、巨大な宿屋は俺もアザミも思い入れの深い場所だった。

「懐かしいな………俺とアザミも、何度もお世話になった場所だからな」
「………ん」

短かったけど、決して不快ではなかった一緒の生活を思い出したのか、アザミが繋いだ手を、きゅ…と握ってきた。

「できれば、部屋の中を見てみたいんだけど――――この期間は、もう他の人が使っているんだし、何より…」
「………」

ディーナさんが鋭い目で、こっちを睨んでいるからな。あまり長居をするのも駄目だろう。

「?」

よく分かっていないアザミを連れて、俺はその場を離れる事にした。
去り際に、ディーナさんに手を振ってみたけど、お城勤めの兵士みたいに、身じろぎ一つしない姿が印象的だった。



<宿屋・カテナイ亭>

アルカトラズとは別に、長くお世話になった事のある宿屋、カテナイ亭の前に来た。相変わらずの佇まいのカテナイ亭は、繁盛しているようには見えない。
まぁ、何となくその雰囲気が安心するといえるんだけど………どうにも、ひっそりとしているような気もするな。

「はーい、いらっしゃい………お二人様、お泊りですか、ご休憩ですか?」
「いきなり出てきて、何を言ってるんですか、マルデさん」
「ん? あー…ナクト君か。ふぅ」

店の奥から姿を現したのは、店主であるマルデ・カテナイ(未亡人)である。なんだか、ひどく気落ちしているようだけど、どうしたんだろうか?

「どうしたんですか? 何だか、元気が無いみたいですけど」
「うん、それがねぇ………この時期なのに、宿泊客が一人もいないのよ」
「はい?」

なんと言うか、宿屋にあるまじき実情を聞いたような気がするが、気のせいなんだろうか?

「だから、お客さんが誰もいないのよ! 本当に、どうしたのかしらねぇ、せっかく、カテナイ亭に泊まった参加者の戦績を張り出したり、記念品を飾ったりしたのに」

憮然とした表情で、盛大に溜め息をつく、マルデさん。それにしてもお客がゼロなんて、いったい何を展示したんだろう?

「で、いったい何を展示したんです?」
「うーんと、闘神ナクト様の準優勝記念饅頭。それなりに好評で、毎日けっこう売れているんだけど、宿泊しようとする人に勧めると、宿泊をキャンセルされるのよね」
「………」
「あ、あと、鉄騎臣さんのつかっていた変わった武器一式とか。最後の試合の壮絶な戦いっぷりを書いた紙もつけたんだけど、不思議とウケが悪くてね」

マルデさんの説明に、俺は頭を抱える。準優勝だったり、試合で死んだ人の遺品を飾ったら、客寄せには逆効果なんじゃないだろうか?
といっても、人の説明なんて聞きそうに無いからな。どうしたものかと考えていると、マルデさんが俺たちの様子を見て、羨ましそうに話を振ってきた。

「それにしても、こっちが閑古鳥で泣いているのにデートとは、羨ましいわね。ねぇ、どうせなら、休憩していかない? シーツを汚しても、大目に見てあげるから」
「……休憩?」
「しませんって! まったく、なりふり構わなくなってますね」

慌ててアザミをマルデさんから引き離し、俺は呆れたように溜め息をつく。マルデさんが強引なのはいつも通りだけど、今回は輪をかけて押しが強いようだった。

「そりゃそうよ。お客がいないんじゃ、商売にならないもの。廃業になるのは嫌だし、なりふり構わなくなるわよ。だから、助けると思って休憩してってよ」
「………」

参ったな。このままじゃ、開放させてくれそうに無いぞ。しかし、どうしたものかな………と、そんな事を考えていると、助けは意外な所からやってきた。

「あのー、すみません。宿を探している者ですけど、空いてはいないでしょうか?」

一人のメイドを従えた少年が、のんびりとした口調で、談笑している俺たちに声を掛けてきたのだった。

「………え、あ、はいっ! 空いています、空いていますよ一階でも二階でも、うし小屋でも、どこも空き部屋ですっ!」

一瞬、固まっていたマルデさんだったが、どうやらターゲットを少年の方に変更したらしい。ものすごい勢いて、にじり寄っていく。
なんというか、必死だけど、あれじゃあ宿泊する気があっても逃げられてしまうんじゃないだろうか。そんなことを考えていると、少年の後ろのメイドさんが口を開いた。

「フライド様、やはりこのような下賎な宿に泊まるのは、問題かと。他にいくらでも、良い宿があると思いますが」
「そうは言ってもね、この時期じゃ、どこも空いていないと思うけど。そもそも、アルカトラズを追い出されたのは、ドナが原因じゃないか」
「そ、それは……」
「ああ、確かに、うちみたいに空いている宿屋は、そうそう無いと思いますよ。下賎でも何でもいいですから、泊まっていってくれるとありがたいんですけど」

フライドという名の少年に、マルデさんは一生懸命営業をかけている。何だか割り込める雰囲気じゃないし、別の場所に行くとしようか。

「………さて、それじゃあ行くとしようか、アザミ」
「お泊りは?」
「しないって。ほら、行くぞ」

そうして、カテナイ亭から離れてしばらく歩いた時――――…

「全部屋の賃貸、本当に、ありがとうごさいますっ!」

という、マルデさんの大声が通りの向こうから響いてきた。どうやら、短くも凄絶な戦いに、見事勝利したらしい。おめでとう、マルデさんと言っておこう。
唐突に響いた大声に、不思議そうに辺りを見回すアザミを引っ張って、別の場所に移ることにした。なるたけ、今の大声には無関係だと、他人のふりで。



<広場>

アザミを連れて、広場に足を向けた。たくさんの出店と、多くの人で広場は賑わっている。甘く香るお菓子の匂いに、アザミの目も出店に釘付けだった。

「少し、何か摘んでいこうか?」
「ん、あまあま」

どうやら、甘いものが欲しいらしい。俺はアザミを連れて、出店を一通り回る事にした。相変わらず、人数倍よく食べるアザミに感心しながら出店を回る。
そうして、十数件の出店を回った後で、俺はあることを思い出した。

「あ、そういえば、シュリさんに差し入れを持っていくって約束していたんだっけ。どうするかな…」
「…さしいれ?」
「ああ。コロシアムから出れないから、食べ物でも持っていってあげようと思うんだけど………どうするかな?」

色々買い食いしたから、いいかげんに財布の中も、少しばかり寂しいものになっているけど………何を買っていったら、シュリさんは喜ぶんだろう。
シュリさんって基本的に、贈り物は笑顔で受け取りそうだから、何が喜ばれているのか、判断に迷う所ではあるんだよな。
まぁ、悩んでいてもしょうがないし、適当に見繕って持っていくしかないんだが………そんな事を考えていると、アザミがくいくいと俺の袖を引っ張った。

「ん? どうしたんだ?」
「シュリにあげる、食べ物」
「ああ、適当に選んでいこうと思うんだけど――――ひょっとして、アザミには良いアイディアがあるのか?」
「ん………こっち」

アザミに手を引かれ、俺は広場に背を向けた。どうやら、別の場所に連れて行こうとしているみたいだけど、どこに連れて行かれるんだろうか?



<酒場・ハニワ浪漫>

「はにゃりーん♪ いらっしゃいませ。おんや、ナクト様にアザミちゃん? どしたの、何か忘れ物?」

アザミが俺を引っ張ってきたのは、酒場だった。既にレイチェルさんは帰ったのか、店内にその姿はなく、テーブル席は別の人達が利用している。
顔を出した俺とアザミに、怪訝そうな様子をするアリサさん。そんなアリサさんにアザミが歩み寄った。

「ん、どしたの、アザミちゃん」
「…………で……………ほしい」(ひそひそ)
「あー、なるほど。ほいほーい。ちょっくら待っててね!」

アザミに何かを頼まれたのか、アリサさんは笑顔で奥に引っ込んでいく。シュリさんの好物でも、この店にあるんだろうか?

「なあ、アザミ。いったい何を注文したんだ? 何だか内緒みたいだったけど」
「……すぐに、わかる」

アザミの言葉通り、それから直ぐに、アリサさんが何かを包んだ甘い香りの袋を手に持ってきた。

「はい、お待たせー! 焼きたてのアツアツだから、なるべく急いで持ってった方が良いと思うよ」

【ローヤル・ホットケーキQを手に入れた!】

「おー、これって………わわっ!」
「急ぐ」

袋を片手に持った直後、もう片方の手をアザミに引かれ、俺は酒場から引っ張り出された。
どうやら、さめないうちに、シュリさんに持っていきたいらしい。そんなアザミの気づかいが、何となく微笑ましくて、俺はアザミの手を優しく握った。

「それじゃあ、いくか」
「ん」

アザミの手をとって、コロシアムへの道を走る。楽しい時間はあっという間に過ぎるのか、あたりは夕焼けに覆われ始めていた。



<コロシアム・受付>

「シュリさん、差し入れ持って来たよ」
「わあ、ありがとうございます、ナクト様………って、なかなかに楽しそうですけど、何かの遊びですか?」

受付に駆け込んできた俺を見て、シュリさんはコメントに困ったような、戸惑った表情を見せた。
ちなみに、俺の背中には、べったりとアザミがおぶさっている。コロシアムに走って向かうことにした俺達だったが、いかんせん、体力差がありすぎた。

アザミはムシの使い手といっても、体力的には小さな女の子と大してかわらなかったため、すぐにへばって足が動かなくなってしまったのである。
それでも、一生懸命にコロシアムへの道を走っていたのだが、さすがに無茶をさせるのは気が引けた。そんなわけで途中から、俺がアザミを背負う事にしたのだった。
アザミは俺の背中が気に入ったのか、コロシアムの前に到着しても、降りようとはしなかった。しかたないので、そのまま受付に来たんだけど、やっぱりまずかったかな?

「いや、まぁ、いろいろあって……あ、これ、差し入れ。アザミが選んでくれたんだけど――――」
「アザミちゃんがですか? わぁ、これってローヤルゼリー入りのお菓子じゃないですか! ちょうど食べたいと思っていたんですよ」

包みの中を見て、シュリさんは嬉しそうな顔をする。そういえば、シュリさんってローヤルゼリー入りのお菓子を好んで食べていたんだっけ。
美貌のためにヨガをする前に食べる事があるって言ってたけど、やっぱりあれって、ダイエットか何かの効果があるんだろうか?

「お話の最中ですけど、冷める前にいただいちゃいますね………うん、ふんわり甘くて美味しいです!」
「喜んでもらってよかったよ。それにしてもアザミ、よくシュリさんの好物を覚えていたな」
「…よく、食べてたから」

アザミはそういうと、俺の背中に頬をぺたりと貼り付けた。慣れない全力疾走で、体力を使い果たしてしまったらしい。
これは、しばらくの間は背負っていなきゃいけないかな。この様子だと、歩くのも大変そうだし。そんなことを考えながら、俺は受付を見渡す。
シュリさんが待機している受付には、各種書類他、闘神大会の様々なグッズも陳列されている。テナントや菓子、トレーディングカードの類まであるようだ。

「そういえば、グッズとかの売れ行きはどう?」
「あ、はい、いたって順調、といった所ですね。以前よりもリーズナブルな値段なこともあって、けっこう買ってくれる人も多いみたいです」

既に、ホットケーキを半分は平らげているシュリさんが、フォークを持つ手を止めて、そんなことを言う。
一年間の休止期間の間に、闘神大会で販売するグッズも、大幅に見直されることになった。安く、良質で、観光客に喜ばれるようにと工夫を重ねられたのである。
そうした努力の結果、グッズの売り上げ利益は倍増したらしい。と、以前に桃花から聞かされた事があったのを思い出した。

「前みたいなノルマもないし、本当に助かってますよ。もともと、グッズの販売利益って、闘神様達の遊興費にあてられるものですけど、今は、大した額ではないですから」
「………」
「あ、す、すみません。失言でしたか?」
「いや………親父やクランクみたいな、やりたいほうだいすることの方が間違っているからな。俺も羽目を外し過ぎないように気をつけるよ」

かつての苦い過去。それは忘れるべきものではないし、無かったことにも出来ないだろう。俺が出来るのは、以前のような悪行を繰り返さない事くらいだった。
そんなことを考えていると、差し入れのホットケーキを食べ終えたようで、シュリさんがフォークを置いた。お皿の上の菓子は、綺麗になくなっている。

「ふぅ、ごちそうさまでした。美味しかったですよ」
「おそまつさま。シュリさんは、これからどうするの?」
「そうですね……あと少しで終業時間ですし、家に帰ってヨガでもしようと思います。食べた分は、動かないといけませんしね」
「そ、そうなんだ。いろいろと、大変そうだね」

羽純とかアザミとか、ダイエットとかに無関心そうな女の子ばかりが身近にいるせいか、俺は、そういう話題には疎いので、適当に言葉を濁すことしかできなかった。

「ええ、大変なんですよ。放っておくと、二の腕とかに、お肉が付いちゃうし……胸が大きくなる分には、大歓迎なんですけどね」
「胸って、シュリさんは充分にスタイルは良いと思うんだけど………まぁ、頑張ってね」
「はい、頑張っちゃいます。ナクト様のほうこそ、これからどうするんです? 宵の口ですし、どこかに飲みに行ったりするんですか?」
「いや、そろそろ家に戻らないと……羽純とレメディアも待ってることだし」

遅くはならないって言って出かけてきたことだし、夕食の時間には帰ることにしよう。
あまり遅くまで遊んでいると、羽純もレメディアも拗ねるからな。そんなことを考えながら、俺はその場から退散する事にした。

「それじゃあ、シュリさん。また明日ね」
「はい、また明日、お会いしましょうね、ナクト様!」

笑顔のシュリさんに見送られて、俺はコロシアムを出る。時間も時間だし、そろそろ家に帰ることにしよう。



<闘神区画前>

アザミを背負って、闘神区画前にやってきた。目の前の壁を越えれば、向こう側は闘神区画である。
帰るためには、門をくぐらなければならないけど、その前に、背中に背負ったままのアザミをどうするか決めなければならなかった。

「………すー、すー」

俺の背中がよっぽど心地よかったのか、俺の体にもたれるように、アザミは寝入ってしまっていたのだった。
アザミを帰すなら、この場で起こして迷宮の入り口まで連れて行くのが妥当なんだけど、気持ち良さそうな寝顔を見ると、起こすのも悪いような気がする。

「………まぁ、いいや。このまま連れて行くことにするか」

羽純もレメディアも、アザミには好意を持っていることだし、連れて行っても問題はないだろう。もっとも、アザミの方は苦手としているみたいだったけど。
そんなことを考えながら、俺は大きな門の前に立ち、呼び鈴をならす。しばらくして、聞きなれた声が聞こえてきた。

「はい、もしもし、どちらさまですか?」
「ああ、桃花か。俺だよ、いま帰ってきたから、門を開けてほしいんだけど」
「……おかえりさない、ナクト。いま門を開けるから、ちょっと待ってて」

桃花の言葉からしばらくして、門が大きな音を立てて開いていく。そうして、見慣れたメイド姿の少女が、門の内側からひょっこりと顔を覗かせた。

「遅かったじゃないの。羽純もレメディアも、首を長くして待って――――何?」
「しー、アザミが起きちゃうかもしれないから、静かにしてくれよ」

人差し指を立てて言う俺に、桃花は俺の背中にアザミが乗っているのに気が付いたようだ。微妙に、桃花の顔が不機嫌そうな雰囲気をみせる。

「何だ、どこをほっつき歩いているのかと思ったら、そのコと一緒だったんだ、ふーん」
「いや、まぁ、そうだけどさ………別にやましい事は何もしていないぞ」
「どうだかねー、まぁ、いいわ。そろそろ夕食だし、屋敷に戻りなさいよね」
「あ、おい――――」

ぷいっ、と顔を背けると、桃花は仏頂面でスタスタと歩いていってしまった。やれやれ、何だか完全に誤解されたみたいだな。
変な噂が立つ前に、後でフォローしておかないといけないか………そんな事を考えながら溜め息をつくと、背後で動く気配。どうやら、アザミが目を覚ましたようだった。

「ん………」
「おはよう、アザミ。いや、こんばんわかな」
「ナクト…――――ここは?」

寝ぼけた目で、周りを見渡すアザミ。目をしばしばさせる彼女に、俺は説明するために口を開いた。

「ここは闘神区画内だよ。アザミが、俺の背中で寝ちゃったからさ………そのまま帰らせるのも何だか不安だったから、うちに泊めようと思ったんだけど、迷惑だったか?」
「ううん……でも、おりる」
「ん、ああ。分かったよ」

アザミに促され、彼女を地面におろす。まだ眠そうな彼女だったが、それでも二本の足でしっかりと地面に立っていた。

「別に、負ぶさったままでも良かったのに。俺は気にしてなかったんだけど」
「ナクトにつかまっていたら、逃げ切れないから」
「………ああ、なるほど。それにしても、本当に苦手なんだな」

俺の言葉に、アザミは無言。ただ、これから起こる戦いに備えてか、その表情は真剣そのものであった。



<都市長邸>

「ただいまー、いま帰ったよ!」
「お帰りなさい、ナクト。もう少ししたら、夕ご飯にするね」

都市長邸の玄関をくぐり、邸宅の奥に声をかけると、ちょうど近くにいたのか、羽純が俺を出迎えに来る。俺の隣に立つアザミを見て、羽純はちょっと驚いた顔をした。

「羽純、今日はアザミをつれてきたけど……夕飯が一人分増えても問題ないよな?」
「うん、大丈夫だよ。お久しぶり、アザミちゃん。元気だった?」
「……ん」

羽純の言葉に、アザミはコクリと頷く。かつて俺のパートナーであった羽純とアザミの仲は、それなりに良好らしい。
羽純は、ムシ使いだからって物怖じするようなヤツではないし、羽純の温厚な様子に、アザミの方も、警戒をするようなことは無いようであった。
二人の仲は良好であり、アザミもくつろいでいる様に見える。もっとも、良好なのは羽純とアザミの間であり、それ以外の関係に問題があったのだが。

「それじゃあ、ご飯が出来るまで、しばらく待っていてね。あ、そうだ。レメディアー! お父さんが、帰ってきたわよ!」
「とーちゃ、帰ってきたの? あー! むしむしの、ねーねーもいる!」
「………!」(ビクッ!)

大きな声がして、エントランスにレメディアの姿が見えると、俺の隣にいたアザミの身体が、はっきりと分かるくらいに強張ったのが分かった。
そんなアザミの様子などつゆ知らず、レメディアは笑顔でこっちに向かって走ってくる。と、アザミが逃げるように反対方向に走り出したのだった。

「あー、待ってー! ねーねー、ムカデさん出してー!」(タタタタタタタッ)
「………」(タタタタタタタッ)
「待ってー、待ってってばー!」(タタタタタタタッ)

屋敷の奥に向かって逃げていくアザミを、楽しそうに追いかけるレメディア。あっという間に、二人の姿は見えなくなってしまった。

「………えーと、やっぱりアザミちゃんって、レメディアのことが苦手なのかな?」
「そうだな。苦手なのは確かだと思うぞ。嫌いってわけじゃないだろうけど、会うたびにムシをおもちゃにされていたからな」

珍しいものが大好きな子供にとって、アザミのムシは格好の遊び相手だったらしい。年頃の女の子だったら、物怖じしそうな昆虫にも、平気で触るのが子供である。
そんなわけで、アザミにとってレメディアは、苦手な相手として認識されてしまっているようである。嫌いというより、どう扱ってよいのか分からないようであった。

「まぁ、命をとられたりするわけでも無いし、いずれアザミも慣れると思うぞ」
「そうかなぁ………それなら良いんだけど」

俺の言葉に、羽純はいま一つ楽観できないとでも言う風に、小首をかしげたのだった。



賑やかな夕食が終わった後、魔法ビジョンのある応接間に移った俺の目の前で、アザミはぐったりとした様子で床に突っ伏した。腕からは、ベーコンが出っ放しである。

「う……つかれた」
「まったく、人間の子供というのは奇妙な個体だな。ここまで振り回されるとは、思っていなかったぞ」

結局、底なしの体力の子供から逃げ切ることも出来ず、アザミはレメディアに捕まると、それからずっと遊び相手として、付きまとわれる羽目になったのである。
夕食を終え、レメディアが早めの就寝を迎えた事で、ようやく開放された時には、アザミもベーコンも、心身ともにクタクタになってしまっていたのだった。

「アザミもベーコンもお疲れ。レメディアの遊び相手になってくれて、助かったよ」
「………」

アザミの頭を撫でると、ベーコンを腕の中に引っ込めて、俺の肩にもたれかかってきた。ここ最近、アザミは俺に懐くようなそぶりを見せる事があった。
それが良い事なのか悪い事なのかわからないが、情緒が芽生えるのは、悪い事では無いと思いたい。そんな事を考えていると、羽純が応接間に顔を見せた。

「ナクト、お風呂が沸いたけど、どうしようか?」
「ああ、俺は闘神ダイジェストを見てからにするから、羽純が先に入ればいいよ」
「うん、分かった………アザミちゃんは、あとで良かったよね。熱いお湯が苦手って言ってたし」

俺の言葉に、羽純は頷くと………俺の傍でのんびりとしているアザミを見て、微笑みを浮かべると部屋を出て行った。
パートナーとして参加していた時は、羽純も熱心にダイジェストを見ていたが、昨年も今年も、あまり闘神大会には興味を向けていないようだった。
レメディアの世話が忙しいのもあるし、闘神大会を単なるイベントの一つとしてしか考えていないようである。

羽純が一緒に、闘神大会に熱中してくれないのは、何となく寂しいけど………それでいいような気もした。羽純には、穏やかな日々が似合っている。
日々を不安と緊張で過ごす、参加者のパートナーとしての日々のような――――そんな緊張感は、もう持つべきではないのだろうから。

「さて、そろそろ始まるな………」

時間を確認してから、魔法ビジョンのスイッチを入れる。俺とアザミが見つめる前で、一年ぶりの闘神ダイジェストが、始まろうとしていた。



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