〜史実無根の物語〜 

〜其の一〜



五胡の大攻勢を退けて、三国間に平穏がもたらされる事になった後………俺達は皆で力を合わせ、蜀の国内をいっそうに盛り立てていった。
先だっての戦で荒廃した街道の整備や、国内の治安の回復に、灌漑事業の着手………他にもする事は山ほどあったのである。

「と、そんな事があるといっても、やっぱり気が抜けるよな………ふぁ」
「ふふ………ご主人様ったら、おっきなあくびしてる」
「まったく、そのようなだらしの無い事で、どうするのですか。確かに、昨今は大きな戦もありませんし、気を抜くのも悪くは無いのでしょうが…」

ある日の昼下がり、廊下を歩きながら大きなあくびをすると、一緒に歩いていた桃香と愛紗に呆れた顔をされた。
まぁ、愛紗の小言も最近は、棘の部分が少なくなってきたように感じる。きっと愛紗も、平和な世の空気を肌で感じているんだろう。

「ああ、勝って兜の緒を絞めろとも言うし、するべき事はしっかりやろうとは思っているよ」
「それならば良いのですが………いえ、別に、ご主人様の事を信頼していないわけではないのですよ」
「愛紗ちゃんってば、ご主人様に嫌われないかって、不安なんだ? 可愛いなぁ」
「と、桃香様!? 何を仰られますか! 私は別に、そのような事は………ご主人様も、笑わないでください!」

ゴニョゴニョと語尾を濁す愛紗が可愛くて、思わず笑みを浮かべると、愛紗は照れたように俺に向かって怒ってきた。
俺も桃香も、そんな愛紗を見て、ついつい微笑みを浮かべていた。穏やかな空気――――平和っていいなぁと、心から思う。と、

「あれ、あそこにいるのは………おーい、星、桔梗!」

廊下から見える中庭に敷布を敷いて、酒と料理を肴に宴に興じている二人の姿を見つけた。俺が声をかけると、星は直ぐに俺に気づき、手に持った主人を掲げた。

「おお、主ではないですか。これは良いところに、一杯いかがです?」
「いや、申し出はありがたいけど、遠慮しておくよ。まだ仕事があるし、愛紗が怒りそうだからな」
「当然です! 星も桔梗も、確か今日は非番だったな。別に酒に興じるのは構わんが、羽目を外し過ぎないようにな」
「やれやれ、堅苦しい事だな。そんなに重いものをぶら下げているというのに、それでは余計に肩がこるぞ? のう、お館様もそう思うだろう?」

二人に釘を刺すように注意をした愛紗だったが、桔梗にからかうように交ぜっ返されて、頬を赤くした。重いものっていうと………やっぱりアレだろうなぁ。

「き、桔梗っ! ご主人様の前で、品性の無い事をいうなっ! そもそも、大きさで言えば、お前の方がはるかに大きいだろう!」
「ほう、という事は、わしが何を言ったかくらいは分かったようだな。しかし、品性の無いとは可笑しな話だな? 古来より、胸の大きさは女性の価値の一つであろうに」
「ふむ、まぁ確かに真理ではある。だが、我々の場合は主の趣向が重要であるからな。主はいったい、誰の胸が好きなのか、興味が尽きない所ではあるが」

「「「…………」」」

星の言葉に、桃香も愛紗も桔梗も、物言いたそうな目で俺を見つめてくる。正直、勘弁してくれ。

「ほら、そんな事よりも、これから仕事だろう? 早く行かないとまずいんじゃないか?」
「そんな事なんかじゃないよ。私達にとっては大事な事なんだから」
「お館様、もし決められないのであるなら、一度は試してみるのも一興かもしれませぬぞ。わしは何時でも構いませぬが」
「あー、桔梗さんばかり、ずるい! ご主人様、私も試してみて!」
「いや、ちょっと、二人とも――――!?」

桃香と桔梗に迫られて、その胸の圧力に思わず後ずさる俺。星はニヤニヤと笑っているだけだし、愛紗も心配そうにしてはいるものの、二人を止める気はないようだった。
孤立無援のこの状態………俺はどうやって事態を収拾させようかと、頭を悩ませる事になったのだった。



「あぅ………」

その日のお昼、ご主人様の姿を探して歩いていると、中庭の方から大きな騒ぎ声が聞こえてきました。
声のした方に行ってみると、そこには桃香様達に囲まれた、ご主人様の姿が見えました。聞こえてくる会話に耳を傾けていると、どうやら、胸の大きさの話のようです。

「ほれ、黙していないで白状したらどうなのですか、主。別に、誰の胸がお気に入りと申されても、私はいっこうに気にしませんが」
「いや、そんなこと言われてもなぁ………」

星さんの言葉に、ご主人様は困ったように俯きます。でも、よくよく見ると、その目線が星さんの胸元に行っているのが分かりました。
やっぱり、ご主人様は、胸の大きい女の人の方が良いんでしょうか? 何となく哀しくなりながら、私は背を向けてその場を後にしました。
とぼとぼと、廊下を歩きながら、私は肩を落として、思ったことを口にしていました。

「はぁ………やっぱり、ご主人様は、お胸の大きい人が好きなのかな?」

ご主人様は、私や朱里ちゃんも可愛がってくれているし、誰かが特別というわけではなさそうです。でも、やっぱり、胸に見とれている時も多々あると思います。
胸って、そんなに重要なのかな………私は頭を悩ませて、同じ悩みを抱えていそうな友達と、話し合うことにしたのでした。



幸いというか、なんというか………私と同じ悩みを抱えている人は、けっこう多くいたようです。
内緒話のため、人通りの少ない場所を選んで、私達は話し合いを始める事にしたのでした。自薦で議長となった詠さんが、張り切った顔で声をあげます。

「そんなわけで、第一回、『胸好きなバカにどうやって、天誅を与えるかを決める会議』を始めようと思います」
「詠ちゃん………議題が変な風になっちゃってるよ。それに、バカって………ご主人様に対して、失礼だ思うけど」
「甘いわよ、月。あのバカが愛紗とかの胸を見てデレデレしてるのを見て、悔しいと思ったことだってあるでしょ? だから、これは正当な裁きなのよ!」
「――――詠ちゃん、そんな事を考えてたんだ」

月ちゃんの言葉に、詠さんの顔が真っ赤になりました。どうやら詠さんも、私と同じように悔しい思いをしたことがあるみたいです。

「ボ、ボクは一般論を言っただけよ! ともかく、ほら、状況の確認をするわよ! 雛里、何があったのか、みんなに話して聞かせてちょうだい」
「あぅ………はい。ええと――――」

詠さんに言われて、私はしどろもどろになりながらも、さっき見たことを話すことにしました。
ご主人様が、桃香様や愛紗さんに囲まれて、誰の胸が好きかと聞かれていた事と、困りながらも嬉しそうな顔をしていた事を話し終えると…周囲から溜め息が漏れました。

「うぅ………ご主人様が、そんな事をしてたなんて、見損ないました」
「まったく、とんでもない男なのです!」

朱里ちゃんとねねちゃんは、不満そうに頬を膨らましています。でも、それとは対照的に、寛容そうに肩をすくめる人も何名かいたのでした。

「ん〜……でも、アニキのスケベは今に始まった事じゃないんだし、そんなに目くじらを立てる必要も無いと思うんだけどなぁ」
「そ、そうですよ………ご主人様は優しいですし、胸の大きさなんて、気にしなくてもいいと思いますけど」
「ああ、もう………猪々子も月も、どうしてアイツに甘いのよっ! って、こらそこ、寝るな――――!」

怒り心頭といった様子で、詠さんが指を突きつけたのは、美以ちゃんを初めとした南蛮兵のみなさん………話し合いが退屈なのか、お昼寝を始めちゃってます。

「ふみゃあ……うるさいにゃあ。美以は飽きたから、お昼寝をする事にしたにゃ」
「ふみぃ……すぴょ〜…」
「うにゃぁ……すうすう」
「す〜……くぅくぅ…」

一塊になっての、寝息の大合唱――――その光景に、怒る気も失せたのか、詠さんは疲れたように肩を落としました。

「はぁ………まぁ、最初から頼りになるとは思っていなかったけどね………とりあえず、話し合いを――――って、あれ? ねねと猪々子は?」

幸せそうに寝こける美以ちゃん達から視線を戻してみると、いつの間にか、そこに居たはずの猪々子さんと、ねねちゃんの姿がありませんでした。
怪訝そうな顔をする詠さんに月ちゃんが困ったような顔をしながら、頬に手を当てて苦笑をします。

「その、ねねちゃんは……ご主人様をとっちめに行くって言って、走って行っちゃったの。猪々子さんが後を追っていったけど」
「………多分、あれは面白がって見物に行ったと思います」

月ちゃんの言葉を繋げるように朱里ちゃんが言うと、詠さんは我慢の限界に来ていたのか、怒髪天を突くといった様子で、怒りの声をあげました。

「だー! もう、どいつもこいつもっ……少しは真面目に、会議に参加しなさいよね!」
「でも、詠ちゃん――――話し合うって言っても、具体的にどうにかできる問題じゃないと思うけど」
「ぅぐ」

月ちゃんの言葉に、詠さんは口ごもります。確かに、事は、ご主人様の嗜好の問題だし、こうして話し合うことには意味が無いような気がします。

「ご主人様は、私達を可愛がってくれているんだし、それで充分だよ。詠ちゃんは、そうは思わないの?」
「それは、そうなんだけど……でも、たまにはアイツを骨抜きにしたり、ドキドキさせたりしたいとは思わないの?」
「へぅ……そ、それは」
「……ごめん、聞くだけ野暮だったわね。でも、やっぱりボク達には向いていないかなぁ……色仕掛けなんて、愛紗達の領分だものね」

さらりと、愛紗さんが聞いたら怒り出しそうなことを言う詠さん。何となく、諦めに似た雰囲気がその場に漂います。と、その時でした。

「――――いえ、策はあると思います」

黙って、考え事をしていた朱里ちゃんが、ポツリとそんな事を口にします。いつの間にかその顔が、剽悍な軍師の顔になっていました。

「朱里ちゃん……何か、良い考えが浮かんだの?」
「うん。これは戦みたいなものだし……そう考えれば、策はいくつか用意できると思うの」
「ふぅん、良い事いうじゃない。確かにこれは、戦よね。どんな手を使おうとも、アイツを誘惑できれば勝ちってことか」

朱里ちゃんの言葉に、詠さんが乗り気な表情で頷きます。隣にいる月ちゃんは困ったような顔をしていましたが…そんな月ちゃんに気づかず、二人は話を続けていました。

「ええ。残念な事に、こちらの戦力は過小といって良いでしょう。ですが、使う場所を見誤らなければ、充分に効果を発揮できると思います」
「………なるほど。となると、勝つためには、まずは場を整える事が先決ね。どういった状況なら、過大な効果が上がると思う?」
「そうですね……別段、敵勢力と正面きって戦う必要は無いと思います。ご主人様に良い所を見せるという目的ですし、戦いやすい相手になら心当たりが………」

朱里ちゃんと詠さんは、とても楽しそうに、まるで軍議を開いているかのように話を続けています。そんな二人を見て、月ちゃんが不安そうな呟きを漏らしました。

「なんだか、大事になってるみたいだけど………大丈夫かな?」
「きっと………大丈夫ですよ。朱里ちゃんも、詠さんも、真面目に話し合っているだけですから」

月ちゃんを安心させるように微笑んだ後で、私も話し合いに参加することにしました。もともとの発端は私なんだし、やるからには成功させたいと思ったからです。

「朱里ちゃん、それだったら、ご主人様を誘おうって思っていた、あれなんかどうかな? 状況的にも、私たちに不利になる要素は少ないと思うの」
「あ……! そっか、さすが雛里ちゃん! 良い考えだと思うよ」
「え? 何、何の話なの?」
「あの……それは、ですね」

怪訝そうな表情をする詠さんに、私は何度かつっかえながらも、事の仔細を説明する事にしたのでした。



「ふぅ、今日は酷い目にあったな……」

昼間に桃香達に迫られた一幕――――…どこからか飛んできた、ねねのキックに後頭部を蹴たぐり倒された挙句、迫ってきた桔梗の胸に顔面から突っ込んでしまった。
そのおかげで、愛紗から説教は受けるし、桃香には拗ねられるし、星にはからかわれるしと散々だったのである。
皆を何とかして宥めてから仕事に取り掛かり、ようやくこの時間になって仕事を終えることが出来たのである。窓を見ると、外は既に暗がりに覆われているようだった。

「ご主人様、少しよろしいですか?」
「し、失礼します……」

仕事を終えて、ホッと一息ついていると、用事があるのか、執務室に朱里と雛里が入ってきた。二人揃ってくるなんて、何かあったんだろうか?

「ああ、別に大丈夫だけど………どうかしたのか? 急に大きな問題でも起こったとか」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……明日の、ご主人様のお仕事の予定を変更させて貰おうと思って……こうして、うかがったんです」
「……予定の変更? じゃあ、明日の俺の仕事は誰がやるんだ?」

確か明日は、治水工事の視察と、その場での指揮を任されていた……地味に過酷な仕事のため、変更になるというのなら、ありがたかったけど。

「その件でしたら、白蓮さんにお任せしてありますから、大丈夫だと思います」
「――――そうだな、白蓮なら俺より手際よく指揮を取ってくれるだろうし、安心して任せられるだろうな。で、俺は明日は何をやる事になるんだ?」
「あぅ………そ、その」

朱里の報告を聞いて、うんうんと頷きながら俺が訊くと、雛里が真っ赤になりながら、もじもじと身じろぎをした。相変わらず、可愛いなぁ。

「ご、ご主人様には、私達と一緒に視察に行って欲しいんです……その場所は、街中に建立されている私塾の一つになります」
「私塾か……けど、そんな所に俺を連れて行ってどうするんだ? 教師として期待されているなら、自慢じゃないけど、学力には自信は無いぞ、俺は」

雛里の言葉に、首を傾げる俺。漢字の読み書きには慣れてきたものの、それで頭が良くなったというわけではなかった。
俺の知識の大半は、学園での勉強が主体となっている。こんなことなら、もう少し真面目に勉強しておくべきだったけど、後の祭りでもあった。
そんな風に、自分の学力不足を悔いている俺であったが、そんな俺の言葉に、朱里は苦笑を浮かべながら、首を振ったのであった。

「いえ、ご主人様に同行なさってもらうのは、教師としてではありません。ただ……私塾というものが、学園と、どう違うのか教えて欲しかったものですから」
「……ああ、なるほど、そういうわけか」

朱里たちには時折、元の世界の設備や施設、生活習慣などのことを話して聞かせていた。その話の端に、学園のことも上ったことがある。
同い年の子供達が、勉強する為に通う場所――――口でいうのは簡単ではあるが、いまひとつ言葉では朱里たちも理解しきれていないようであった。
まぁ、その原因の一端には、俺の説明不足のところもあったのだろうけど。私塾というのもを見てみれば、学園の説明もしやすくなるのかもしれない。
何はともあれ、見聞を広める機会を、朱里と雛里がこうして作ってくれたのだ。ありがたく付き合わなければ、失礼というものだろう。

「分かったよ。そういうことなら、明日は朱里と雛里に同行させて貰う事にするよ。よろしくな」
「はいっ、こちらこそ、お願いしますね! よかったね、雛里ちゃん」
「…うんっ」

俺の言葉に、無邪気に喜びの表情を見せる二人。ワクワクとした表情で、まるでピクニックにでも行くかのような様子が微笑ましくて、俺もつい、笑みを浮かべていた。

「ええと、それで、その私塾に行くのは俺と朱里と雛里でいいんだよな。それとも、他にも連れて行くのか?」
「あ、はい。他にの参加者は、月ちゃんと詠さん……それに、ねねちゃんが私達に同行して――――護衛役は何名かの女兵士の人と、鈴々ちゃんに頼んであります」

なるほど、同行する面子は文官のスキルを持った女の子達と、私塾の生徒たちを怖がらせないようにと、鈴々をはじめ、女性の面々で護衛を固めるというわけか。
なんにせよ、この世界の私塾というものがどういうものなのか、興味は尽きない所だし、楽しみに明日を待つことにしよう。



明けて翌日――――…朱里と雛里に先導されて、街の中に建てられている私塾に足を運ぶ。この私塾では、十歳以下の子供たちに勉学を教えているらしい。
こぢんまりとした建物の部屋を教室代わりに、十数名の子供達が、勉強に励んでいる。邪魔をしないようにと、部屋の様子を外から見ながら、俺は一人ごちる。

「う〜ん、てっきり塾っていうからには、予備校みたいなのを予想していたんだけど……予想とは違うものだったな」
「…予備校って、何ですか?」

俺の呟きを聞きとがめて、朱里が興味深そうな表情で訊いてきた。あまり大きな声を出さないようにと、俺は朱里の耳元に口を寄せて、囁くように答える。

「予備校っていうのは、試験の為に勉強をする所だよ。俺の居た世界だと、学園も沢山あって、その学園に入るためにも試験に通らなくちゃならなくてさ」
「はぇ〜……なんだか大変そうなんですね」
「まぁね。勉強に行く所に入るために勉強するなんて、本末転倒な話だけど……」

そんな事を朱里と話していると、休憩の時間になったのか、部屋の中が急に騒がしくなった。塾の講師である年配の女性が部屋から出てきて俺に向かって頭を下げてくる。

「これは御遣い様、それに軍師様たちも……本日は、お越しになっていただきまして、ありがとうございます」
「ああ、これはどうも、ご丁寧に」

ペコペコと頭を下げる女の人に、思わず頭を下げ返してしまう俺。なんというか、学園にもいそうな年輩の先生に頭を下げられると、逆に恐縮してしまう。
しかし、そんな風に考えているのは俺だけだったらしい。頭を米搗きバッタのように下げる俺を見て、呆れたように皆が苦笑していた。

「まったく、何をそんなに卑屈になっているのよ。威厳ってものが欠けているのよね、徹底的に」
「いや、そうはいってもなぁ………」

詠の言葉に、俺は頭を掻く。元・学生なうえに、小市民な俺としては、自分の母親くらいの年齢の女性相手に、ふんぞり返れるほどには自信が持てていなかったりする。
まぁ、謙虚なのは悪くはなかったようで……俺の態度に感心したように女の先生は頷くと、穏やかな微笑みを浮かべたのであった。

「見ての通り、たいしたものはありませんが、どうぞ心ゆくまで見学をしていってください」
「はい、お邪魔にならないように、見学させていただきますね」

先生の言葉に、朱里が微笑みながら答える。そんな朱里を眩しいものでも見るかのように見つめながら、年輩の先生は優しげな口調で話を続けたのだった。

「ええ……それで、もしよろしければ勉強が終わりましたら、子供達に少しでも良いですから、言葉を掛けて頂けませんでしょうか?」
「子供達に……ですか?」

先生の言葉を、雛里が鸚鵡返しに言いながら小首をかしげる。戸惑い気味の雛里の言葉に、先生は大きく頷くように首を縦に振ったのであった。

「軍師様達や御遣い様はもとより――――皆さまは私達、民の憧れですから……子供達も声を掛けていただければ、色々と励みになると思います」
「そ、そんな……憧れなんて」
「あぅ……」

持ち上げられて、恥ずかしそうな表情をする朱里と、顔を真っ赤にする雛里。褒められて悪い気はしなかったので、俺は二つ返事で申し出を受けることにしたのだった。

「ええ、そういうことなら、別に構いませんよ。皆も、かまわないよな?」

俺の問いかけに、皆は笑顔で応じてくれる。そんなわけで、勉強が一通り終わった後で、俺達は子供達との交流を深めることになったのであった。



――――さて、声を掛けるといっても、相手はまだまだ年端も行かない子供達である。
一列に並んで、頑張ってねと声を掛けられるのを待っているような、お行儀の良い年頃ではなかった。
そんなわけで、きゃっきゃっと騒いでいる子供達相手に交流を深めるなら、一緒に遊ぶのが一番だったのである。

「わー、でっけぇ犬だな! よっ、はいよー!」
「こらー! 張々は、ねねの犬なのですぞー! 乗ったり叩いたりしたら駄目なのですー!」

私塾の前の通りでは、子供達が、ねねの連れてきた張々に群がって、面白そうにじゃれ付いている。

「にゃはは、張々は、やっぱり大きくて乗り心地がいいのだ!」
「って、率先して、何をやっているのでありますかー!」

子供達に混じって、鈴々が張々の背によじ登ると、満足そうに笑っている。ねねの怒りの声に、他の護衛の人は困惑顔だった。
天下に名高い張将軍が、子供のように遊んでいるのだから、困惑したくなる気持ちも分からないでもなかった。親しい俺達にとっては、いつもの光景だったのだけど。
そうやって外で遊んでいるのは、男の子が多く、元気いっぱいという感じで鈴々やねねと戯れていた。

また、私塾の中では……比較的、大人しい子供達が朱里や雛里、それに詠を囲んでわいわいと話に花を咲かせている。

「ねえ、ぐんしさまー、ごほん読んでー!」
「ええ、良いですよ。それじゃあ読みますね……昔々、あるところに、たいそう花の好きな男の子がいました」

女の子から本を手渡され、朱里は集まった子供達に、本の物語を読み聞かせている。


むかしむかしのこと、花の大好きな男の子がいました。彼は、心に思う女の子が居ますが、なかなか思いを打ち明けられません。
どうしようかと悩んでいると、大切に育てていた花が一輪、彼に声を掛けてきました。私を摘んで持って行けば、きっと思いはかなうでしょう。
その言葉に悩む男の子でしたが、結局、花を摘む事は出来ませんでした。女の子を大切に思うのと同じくらい、彼は花を大切に思っていたのです。

そうして、男の子は思いを打ち明ける事も無く、日々を過ごしていきました。
ですが、そんな彼の思いは、意外にあっけなく適うのでした。大切に大切に育てていた花の香りに誘われて、女の子が声を掛けてきてくれたのです。
あの時、摘まなかった花は、何百輪もの花々となって、二人を祝福するかのように咲き誇っていたのでした――――。

「そんなわけで、優しい気持ちを持って行いをすれば、きっとそれは、大きな結果となって返ってくるという話なんですね」
「ふーん……じゃあ、あたしは母様の手伝いするー!」
「わたしは、ととさまの言うことを良く聞こうと思う」
「…ええ、そうやって良い事をすれば、きっと良い事が起こるようになりますよ」

子供達の言葉に、優しく笑顔を浮かべながら、朱里はそんな事をいう。もちろん、世の中というのは、それほど甘いものではないと分かっている。
だけど、目の前の子供達は、とても真っ直ぐで――――その瞳を曇らせたくないという朱里の気持ちは、痛いほど分かった。
改めて、こうやって子供達に囲まれている朱里を見ると………いつもは、どこか子供っぽいと感じていた彼女も、充分に大人なんだと、理解できた。
そんなことを考えながら、朱里たちの様子を見ていると、俺と同じように、離れて様子を見守っていた月が、声を掛けてきた。

「ご主人様……なんだか、優しそうな目をしてますね」
「ああ、月か……いや、ちょっと考え事をしててね。朱里たちは俺が思っていたより、大人なんだなぁって思ってさ」
「ふふ……ご主人様が、そう言っていたって知ったら――――朱里ちゃん達は、きっと喜ぶと思いますよ」

俺の言葉に、何か含むところがあるのか、微笑みを見せながら月はそんな事をいう。でも、さすがに面と向かっていうのは恥ずかしいんだよなぁ。

「今のは、秘密にしておいて欲しいんだけどな。俺がそんな事を考えていたなんて知られたら、朱里や雛里はともかく、詠は怒り出しそうだし」
「そんな事は無いと思いますけど……」

俺の言葉に、小首をかしげる月。詠はそんなに怒りっぽくないって言いたそうだけど、それは、月限定じゃないのかなぁとも思う。
ほら、そうしている間にも、詠の怒鳴り声と、子供の泣き声が――――って!?

「うわ”ぁぁぁぁぁ〜! おねえち”ゃんが、怒ったぁ〜」
「ちょ、何をしてるんだよ、詠!?」
「うぇ、ボ、ボクは何もしていないわよ! ただ、ふざけて胸を触ろうとしたから、思いっきり引っぱたいただけで」
「………はぁ、そういうことか」

相手は小さな男の子だし、きっと、悪気があってやったのではないんだろう。しかし、相手が悪かったな。詠の事だから、本気で頭を引っぱたいたんだろう。
と、そんな風に状況を分析していた俺だったが……泣き出した男の子の鳴き声に影響されたのか、次々と子供達が泣き出したのである。

「うわ”ぁぁぁぁぁ〜!」
「うえええ〜ん!」
「ぐすっ、ご主人様ぁ……どうしましょぉ……」
「って、何で雛里まで泣いているんだよ!? ああ、もう、しょうがないなぁ」

さっきまでは、大人だと思っていたけど、前言撤回。朱里も雛里も、泣き出す子供達を前に、オロオロとしていた。
ともかく、早急に場を収めるようにしよう。視察に行った先で子供達を泣かせたと知られては、権威の失墜の原因になりかねなかったからである。

「はぁ……仕方ないな。月、悪いけど…外に居る兵隊さんを、こっそり呼んできてくれるかな? 子供達を宥めるのに、力を貸してほしいからね」
「は、はい……! すぐに呼んできます」

俺の言葉に、月は緊張した面持ちで頷くと、外で待機している兵士達を呼ぶために、小走りに外に出て行ったのであった。
さて、月が兵隊さん達を連れてくるまでに、一人でも多く、子供を泣き止ませておかないとな……わんわんと泣いている子供達を安心させるように、俺は笑みを浮かべた。
泣き出した子供は、なかなか強敵だけど――――…朱里たちが狼狽している以上、頼れるのは、この身一つだけだったのである。



「はぁ………失敗しちゃったね」
「……うん」

大変だった視察から帰った後――――私と朱里ちゃんは、部屋に戻った後で、向き合いながら反省会を始めました。
ご主人様に、大人っぽい所を見せようと考えていたのに、子供達が急に泣き出してしまって、私達もどうしていいのか分からず、戸惑うばかりでした。
そんな状況を解決してくれたのは、他ならぬ、ご主人様でした。子供達を泣き止ませるために、抱っこをしたり、頭を撫でたりと獅子奮迅の活躍をしていました。

「失敗したけど………格好よかったね、ごしゅじんさま」
「……うん。私、泣き止んで偉いって、頭を撫でてもらっちゃった」

朱里ちゃんの言葉に賛同しながら、私は、ほぅ……と溜め息をつきます。大人として見られなかったのは残念だったけど、私にとっては、充分に収穫のある結果でした。
そんな私の言葉に、朱里ちゃんは不満顔……確か、朱里ちゃんは、ご主人様が子供達の相手をしている時に、事後処理の為に講師の先生に頭を下げていたんだっけ。

「うぅ、いいなぁ、雛里ちゃん……ご主人様に頭を撫でてもらって」
「ご、ごめんね……」
「ううん、別にいいよ。頭を撫でられる代わりに、格好良いご主人様を間近で見る事ができたから」

私が謝ると、気を取り直したのか……朱里ちゃんは、笑顔でそんなことを言いました。頭を撫でられたけど、泣いていたから、ご主人様の姿はよく見えませんでした。
かっこいいご主人様を、ずっと見ていられたなんて――――羨ましいかも。

「それにしても、どうするの……? 大人の女性として見てもらおうって考えた策は、失敗に終わっちゃったけど……また、違う策を考えようか?」
「…………」

朱里ちゃんの言葉に、私はしばらくの間、考えにふけります。ご主人様から大人として見られて、ドキドキしてもらうという事……それが私達の目的でした。
でも、今日の一件で思った事は…私達には、まだ早いのでは、ということでした。桃香様や愛紗さんみたいに魅力的な大人になるには、年月と努力が必要なのでしょう。
策を練ったり、小細工を弄しても、それは決して結果には繋がらないのではと、私は思うのでした。

「やっぱり、いいよ。私はご主人様に可愛いって言われるだけで充分だし……頭を使うなら、もっと別の問題に使うべきだと思うから」
「………そうだね。雛里ちゃんの言う通りかも……私達は軍師なんだし、いたずらに策を使うべきじゃないだろうし」
「それじゃあ、この話は、これでおしまいにしようね」

わたしがそう言うと、朱里ちゃんも笑顔で頷きます。ほんの少しの背伸びを目指して、私達の講じた策は、失敗に終わりました。
だけど、それはそれで良かったのかもしれません。私達の大好きなご主人様は、ありのままの私達を好いていてくれるのですから。
以前よりも、ほんの少しだけ大人になったような気分を感じながら、私は朱里ちゃんと微笑みを交わしたのでした――――。


――――終


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